カテゴリー「読書メモ」の170件の投稿

読書メモ(断片):『メディア・リテラシー教育 学びと現代文化』

▼D. バッキンガムの『メディア・リテラシー教育 学びと現代文化』(Literacy, Learning and Contemporary Cultureの翻訳)を読む。メディア・リテラシー教育というのは、一般的には(私的には)、メディアを批判的に読み解く力や、メディアの機器の操作スキルの習得、また、作品の制作等を通しての情報発信を目指す包括的な概念のことを指す。本書は、メディア・リテラシー教育(イギリス系)に関する包括的な解説本のようだ。

 昨年末に出版されていたのは知っていたが、ようやく目を通すことができた。
 「なぜ、メディアについて教えるのか」という問題設定から始まり、メディア・リテラシーの定義や、授業での展開や研究方法、教育学的な位置づけや、らデジタル・リテラシーへの展開など、メディア・リテラシーの最近の動向を概観するには大変役に立った(もっとも原著は2003年に発行されているようなので、若干、時間差はある)。

▼とくにメディア・リテラシーを「批判的リテラシー」の一形態として位置づける以下の一文や、メディア・リテラシー教育の構成要素についての言及は参考になった。
 (略)他に適切な用語がないが、メディア・リテラシーは批判的リテラシーの一形態である。それは分析、評価、批判的な<振り返り>reflectionを要件とする。メディア・リテラシーは、「メタ言語」の獲得、つまり、さまざまなコミュニケーション形態や構造を説明する手段の獲得を必要とする。さらにメディア・リテラシーはコミュニケーションの社会的、経済的、制度的文脈や、それらが人びとの経験や実践にどう影響を及ぼしているかについてのより広範な理解を要件とする(Luke, 2000)。メディア・リテラシーは確かに、メディアを使用し解釈する能力を含んでいる。しかしまた、ずっと広範な分析的理解をも伴っている。(pp.51-52)(下線はオリジナルでは強調)
 振り返り(reflection)や、「メタ言語」は、ここでもキーワードになっている。

▼個人的になるほど、と思わされたのは以下の指摘。そうそう、私も以前から思っていた(←偉そう)んだよねー。
 この点で、デジタル制作における協働の必要性を主張することが特に重要に思われる。既に述べたように(第8章)、グループ活動は、実用的で職業的な理由だけでなく、教育的な理由からも、メディア・リテラシー教育の実践の既に確立されている一部分である。しかし、こういった議論は簡単にはデジタル・メディアの制作現場に応用されない。実際、デジタル・テクノロジーの利用はしばしば制作過程を個人化する傾向がある。(略)子どもは、時には、自分たちの仕事を特別な機能ごとに分担して個々に担えるようにして、対話や議論を避けようとすることもある。
(略)
 特にテクノロジーへの高レベルのアクセスがあるところでは、一緒に作業することの利点を明示し、それを積極的に推進する必要がある。個人化の傾向に反対し、グループ活動が相互の自己利益の問題と見られるようにしなければならない。子どもが資料や専門知識、アイデアを共有することのみで仕事を完成させることができるのだと認識する必要がある。
(pp.231-232)(下線はオリジナルでは強調)
 上記引用のなぞりで恐縮だが、コンピュータ(ソフトウェア)が、コラボレーションを促進する可能性は否定できないが、作業を「個人化」させたり、統合なき「分割」を促す可能性も考慮しないと、深刻な落とし穴にはまってしまう気がしないでもない。

追伸
翻訳の仕事がいかに大変なものか、私も、若干は分かっているつもりだし(たぶん)、日本語で読めるのは大変ありがたいが、やや日本語訳が「かたい」のが残念。Situated Practiceを「位置づけられた実践」と訳していたのは、意図的だとは思うが、注釈があった方が、誤解を招かなかったかもしれない。

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読書メモ(断片):『情報学的転回』(西垣通)

▼インドについて調べようと、中沢新一氏の本を一通り書棚から取り終わった後、適当にブラウズしている時に『情報学的転回』が目に入る。そうそう西垣通氏も、インド的なものを好んで紹介しようとする論者なのであった(氏は、情報学分野の研究者ではあるが、宗教や文化的な事柄にも造詣が深いようで、私も以前から影響を受けてきた)。
 「現代日本人はどうしたら、IT文明特有の過当競争と拝金主義のくびきから逃れられるのか」(p.34)を発した後に氏が紹介しているのが、インドの4つのヨーガ(修行)である。なんでまた情報化社会に対して、インドのヨーガなの?という気もするが、ヨーガの原義は「心と対象の統合」という意味である、と言う点がポイントである。
  • ラージャ・ヨーガ
    (精神統一。「肉体的な修練によって心を安定した状態に置く(p.35)」こと)。
  • バクティ・ヨーガ
    (信愛。人格神を愛する)
  • カルマ・ヨーガ
    (献身。「活動的に仕事をすることですが、本質は献身、つまり報いをもとめず自分の身を捧げる(p.37)」。ちなみにカルマ=行為、業。
  • ギャーナ・ヨーガ
    (知識。「世界を正しく知ることによって救済、福音」を求める(pp.40-41)。
 ヨーガと言うと、日本では過去にオウム真理教が、これらの教義を「悪用」した影響を簡単に拭いきることはできないし、慎重に読み取る必要があるのは確かである。また、思想的・哲学的背景から、演繹的に人間理解しようとするのは危険でもある。

 しかし、近年のインドの発展と、ヨーガをはじめとするインド思想との関わりについて検討することは、中国の発展と中国の思想や、日本の経済成長と日本的思想(あるいは日本的経営)との関係について検討するのと同じくらい重要なことかもしれない。

▼ギャーナ・ヨーガの紹介の後に続く一文が、印象に残ったので引用しておく。
人間がロボットになる」より
 近ごろ、学問というと実利ばかりが求められる風潮があります。つまり、自分のエゴを伸張していくための手段としての知識ばかりが、スポットライトを浴びているのです。しかし、それは果たして本当の知識、学問なのか。例えば、司法試験を受ける。何度受けても落っこちる。そういう挫折というのは人生の中でいくらでもあるわけです。受験のための法律知識自体は無駄になってしまうでしょう。
 しかし、そうではなく、挫折しても自分を生かしてくれる知、自分が失敗したときに支えてくれるような知というものもあるだろうと思います。私が言いたいのはそれなのです。本当の学問というのはそういうものではないのか。精密な体系などよりも、人間を救う学問です。そういう学問を追究していきたい。それが私の理想です。p.41
 そういえばユングも、マンダラに影響を受けたんだよなぁ、などと思い返してみたり。

 久々にオートポイエーシス系の本でも読み直してみよう。

▼本書は、語りおろし本。2005年の出版ではあるが、内容は先見的。やや内容が薄い気もするが、文系的な「情報学」の捉え方として参考になる。

追伸
 インドには学生時代から行きたいと熱望しつつ、一度も、たどり着けていない。妻は何度も行っているらしいので、新婚旅行をインドにすることもできないし…(注:よく聞かれるのですが、新婚旅行としてはまだ一度も旅行へ行ったことはありません)。来年度あたりは、インドに行く機会を作りたいなぁ。

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読書メモ(断片):『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』

▼ちょっと前の読書メモでも触れた『完璧な赤』に続き、「赤」の話題。
 もっとも、『完璧な赤』は、「赤」色の染料を巡る中世ヨーロッパの歴史的な物語だったのに対して、『赤を見る』は、意識の起源や知覚・感覚心理学的な話題。

 何故に、人は「赤」を「赤」として認識することができるのか。

 意識は、何故に、意識として機能しているのか(意識はなぜ重要なのか)。

 古くて新しい問題である。

▼結論から先に述べるのは恐縮だが、結論は「驚くべきというか、進化心理学的な着地で、「分かるようで、分からない」といった読後感が残ってしまった。

 一言でまとめれば次の部分か。
 本書で目指したのは、冒頭でも述べたように、なぜ意識が重要なのかを解き明かすことだった。今や新たな答えが波間にその姿を現し、おずおずと陸に上がってきた。意識が重要なのは、重要であることがその機能だからだ。意識は、追い求めるに値する人生を持った自己を、人間の内に作り出すよう設計されているのだ。(p.145)(下線は引用のまま)
 「訳者あとがき」には、次のように示されている。
 本書の目玉は、著書の提示する、コロンブスの卵のような斬新な意識の仮説、すなわち「意識が重要なのは、重要であることがその機能だからだ」という主張だ。もちろんそれに対する賛否は、ひいき目に見ても分かれるだろう(実際、著者は自分が一種の異端者であることを潔く認めている-ただし、懐疑的な人に筋の通った反論はきっちり述べられると考えているし、日の目は見なかったものの、原書に納得しなかった読者に対するあとがきの原稿さえ用意していた)が、少くなくても、定説や常識、見かけを鵜呑みにせずに疑問を呈し、卓越な発想や手法で緻密に論理的な考察を重ねる著者の能力は、それだけでも十分評価に値する。(p.170)
 「BOOK」データベース(リンク先、amazonのページから読める)では次の通り。
(略)問いを詰めていった先に著者が見出した意識の存在理由をめぐる結論は、「コロンブスの卵」的なものであった。意識は、この人生を生きることが大切で有意義なものであると思わせるべく存在し(だからこそ「他者の自己」を尊重する気持ちも生じ)、そのために不可解な性質を持たねばならなかった、と。)
 多くの本がそうであるが、結論だけ読んでも何にもならない。
 そこに至る、仮説や論証のおもしろさに価値がある、ということか。
 進化心理学系の本のおもしろさっていうのは、やはりこの点につきるのかな。

追伸
 ちなみに同じ著者の『喪失と獲得』も、進化心理学系の本として良い。
 紀伊国屋は、この手のテーマがお好きなのかしら。

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読書メモ(断片):『ニコマコス流恋愛コミュニケーション』(大平健)

▼昨日に引き続き、恋愛ネタと日常的な話題を重ねてみよう。私は、お仕事上、自分の顧客(遠回しな言い方ですまぬ)の皆さんが作成した事物に対して何らかの批評を加えたり、批判的に検討を行う場合、次のような前置きを置くことが多い。
取り上げた個人のことを非難しているのではありません。その人が作成したものがより良いものになるように、一般的なコメントをしています。
 おそらく上記が典型であろう。私は気が弱く(たぶん)、遠慮がちなコメントしかできないのだが、それでも、慎重に断っておかないと「個人攻撃」と勝手に勘違いする人も出てきたりするからだ。個人と、それと関係する事象(例えば、作成されたもの)を「分ける」という作業は、物事を円滑に進めていく上ではおそらく重要である。

 しかし、恋愛的コミュニケーションにおいては、この「分ける」という思考は、なかなか難しい。なぜなら、大平先生の言葉を借りれば、恋愛コミュニケーションにおいては「どんな話も二人のこと」、すなわち一体的だからである。

 『ニコマコス流恋愛コミュニケーション』で取り上げられている事例を紹介しよう。
レベル2 どんな話も二人のことと考える(p.118)

 フリーランスの女性広告デザイナー(31歳)は、パーティで知り合って付き合いはじめた彼と、別れようかなと考えています。彼は29歳。とてもやさしい人なのですが、先日、彼女が希望して出かけたイタリアン・レストランで、ひと口食べたとたん、
 「うわぁ、ここまでぱさぱさにしたんじゃ、旬のスズキもなにもあったんもんじゃないねぇ。なにが炭火焼きだよ」
 彼が、そのレストランを選んだ彼女を非難したわけではありません。彼女に推薦した友人を軽蔑したわけでもありません。しかし、彼女は、なんだか、食事がまずかったのは自分のせいだと言われているような気がしてならなかったのでした。

 ダンシたるもの(※原文ママ)、女性の前だと自分のくわしいこと、得意なことをいばってしまうものです。それ自体は、クジャクの雄が美しい羽をひろげるようなもので、けっして悪いことではないのですが、用心して行わないと、この例のように、相手を威嚇することになってしまいます。

 恋愛コミュニケーションでは、どんな話も二人のことになってしまいがちなので、料理をけなせば、そのレストランを選んだ彼女を非難することになるのです。(pp.128-129)
 「分ける」ことは重要だが、その原点は「分けられない」ことにあると考えておく必要はありそうだ。上記の事例の場合、別事象の問題であると「分けて」みても、後味の悪さは残ってしまいそうだし。というわけで、「分ける」ことの難しさを実感してみたり。

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読書メモ(断片):『ロボット絶望工場』(鎌田慧)

▼何かで新世代ロボットの記事を読んで、ふと思い返したように『ロボット絶望工場』を読み直す。「絶望工場」というフレーズでピンと来られる方も多いかと思うが、かの『自動車絶望工場』の鎌田慧氏のルポタージュの一つである。
 今時、ロボットが人間を疎外する(ロボットが導入されることで、人間が不要になる)という考え方は「古くさい」というか、当たり前すぎて、敢えて「見て見ぬふりをせざるを得ない」事柄一つかもしれないが、忘れてはならない問題であろう。

 1983年(文庫は1988年)に鎌田氏は、ロボット時代について次のように記している。
 これらの工場では、ロボットが入る前から、労働者の動きは、すでにロボット的であった。と同時に、下請工場の生産も、親会社のメインコンベアの動きに支配されていた。トヨタでは、それを「同調化」と呼んでいるのだが、工場内の精算は明確なひとつの意志に支配される態勢が完了し、そのあとにロボットがやってきたのである。
 つまり、ロボットに転換可能な単純労働が常態化していたからこそ、ロボットに労働者が駆逐されるようになったのである。(p.100)
 今時の世論の風潮はおそらく、「ロボットに労働者が駆逐される」というよりは、「ロボットが労働者を単純労働から救ってくれる」という方向だろう。確かに、後者の方が、より「前向き」だし、ニュース的な価値も高い。しかし、前者の動きも見逃せない。

 私の仕事は(抽象的な言い回しをすれば)、後者を推進する立場ではある。しかし、表裏一体というか、紙一重で前者にもなってしまう。「代替可能性」(低コスト化、効率化)を追求しつつ、一方で「代替不可能」であるためには、何をすれば良いのか。

 代替不可能にするために、情報を独占したり、敢えて複雑化をさせるという方向はたやすいが(意識的、無意識的に人は、こちらの道を選ぶことが多い)、このようなことを続けると、結果として全体に無駄が生じるはずである。

 はてどうしたら良いものか。なーんて結論の出ないことを考えてみたり。

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研究を行う学生に必要なスキルトレーニング(『大学力』)

▼お仕事的な単純なメモで恐縮だが、『大学力』にあった「研究を行う学生に必要なスキルトレーニング」というのが気になったので書き留めておく。

 イギリスのResearch CouncilとAHRBの基準らしいのだが、日本育英会には、こんな基準のようなものはなかったような気がする(もしかしたらあったのかもしれないが、少なくても私の記憶にはない)。
Research Council と AHRB(the Arts and Humanities Research Board)は、そこから基金を得ている博士課程の学生に対し、どのようなスキルを伸ばすべきかの指針を、声明として公開している。その目的は、博士課程の学生が有するべき研究スキルや研究経験に対し一般的な見解を述べることにあり、さらに、大学に対し、学生が研究に関する最良のスタンダードを確実に達成するためのメッセージを与えることにある。以下、項目名と具体例の一部をまとめておきたい。

1. 研究スキル-課題の内容を認識・確認する能力や仮説を組み立てて実験する能力を有すること
2. 研究環境-当該の研究が国内外でどのレベルで行われているかを理解していること
3. 研究管理-研究の最終目的や中間地点などに関し、適切な研究計画が立てられ、実行できること
4. 個人資質の様態-研究態度が独創的、革新的であること
5. 意思伝達スキル-研究の経過報告書や学位請求文章等に関し、明晰で目的にかなう文書が書けること
6. 人脈ネット・協同作業-当該機関内外の広い範囲で、指導教員、同僚とともに良好な研究関係を維持できること
7. 経歴管理-履歴書、面接等を通して、自分のスキル・経験や貢献できる内容についてアピールできること(p.59)(太字は引用者)
 研究に関する言及のみならず、「人脈ネット・協同作業」(訳が固いが、要するに社会的なつながりと、コラボレーションスキルということか)や、「経歴管理」などもリストの中に含まれているところに、日本との違いを感じてしまった。

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読書メモ(断片):『夜と霧』

▼クリスマスである。私の日記(ブログ)を長年、ご覧下さっている方にとっては「例年恒例」となるが、私にとってクリスマスには『夜と霧』を読み返しが含まれる。
  • E・フランクル, 池田 香代子 訳(2006). 夜と霧 新版. みすず書房
 『夜と霧』についてはご存じの方も多いかと思うが、心理学者フランクルが、ナチスドイツの強制収容所での実体験を描いた著作である。私には、絶望を感じずにいられない時は欠かせない愛読書であると同時に、ついつい浮かれてしまいそうになった時に、自制(あるいは自省)のために手に取る本の一つである。
 ※本来は何らかの目的を超えて(理由を問わずに)、読まれるべき本だと思うが。

 今回は、フランクルが強制収容所において、ささやかな(しかし深刻な)疑問を連鎖させている場面をご紹介しよう。私は仕事上で、「リフレクションの支援」とか「疑問の誘発」をテーマの一つとしていたりする(内省を促すとか、省察を活性化するとか、他にも言い換えることができると思われる)。しかし、フランクルのこの一文を読むと、一体、「疑問」とは何なのか、それ自体を問わなければならない気にかられる。
 わが身にてらせば、こんなことがあった。ぼろ靴につっこんだ傷だらけの足の痛みに泣かんばりになりながら、わたしは極寒のなか、水のような向かい風をついて、長い行列を作って収容所から作業現場までの数キロの道のりをよろめき歩いていた。わたしの心はこの惨めな収容生活にまつわる些細な懸念を、絶えずくよくよとなぞっていた。今日の夕食はなんだろうか。今日の「おまけ」はたぶんソーセージひと切れだろう。これは、パンと交換したほうがいいだろうか。二週間前に「褒状」とひきかえにもらった煙草は、最後の一本が残っているが、あれはスープ一杯と取り替えた方が得策だろうか。どうやって針金を見つけよう、靴紐の代わりにしていたやつが切れてしまった。今から行く現場では、勝手のわかった作業グループに入れるだろうか、それとも他グループに編入されて、怒りっぽい、人をいたぶることをなんとも思っていない監督のもとで殴られるのだろうか。あるいは、あのカポーに取り入るにはどうしたものか。彼となかよくなれば、まあ、ありそうまない僥倖だが、収容者労働者として収容所内に配属され、もうこんなぞっとする行列を毎日しなくてもすむのだが。 
 明日がどんな未来なのか、考えすぎる(考えざるを得ない状況に置かれる)のも不幸なことだが、考えすぎないのも不幸なことである(※もっとも、後者の場合、第三者による判断であって、本人には「不幸」という価値判断は成立していないが)。

 平時において、さまざまな選択肢を考えつつも、しかしそれを「考えすぎない」ためにはどうしたら良いののだろうな、などと考えてみたり。

▼もう一つ、対極的な話題を一つ紹介しておこう。疑問の連鎖に対して、疑問の喪失(あるいは防衛的無関心)とも言える状態である。
 新入りは、往々にして便所掃除や糞尿の取り組みを受け持つ作業グループに配属された。糞尿の汲み取りを受け持つ作業グループに配属された。糞尿は、でこぼこの地面を運んでいくとき、しょっちゅう顔にはね返るが、ぎょっとしたり拭こうとしたりすれば、かならずカポーの一撃が飛んできた。労働者が「上品ぶる」のが気にさわったのだ。
 こうして、正常な感情の動きはどんどん息の根を止められていった。被収容者は点呼整列させられ、ほかのグループの懲罰訓練を見させられると、はじめのうちは目を逸らした。サディスティックに痛められつけられる人間が、棍棒で殴られながら決められた歩調を強いられて何時間も糞尿のなか行ったり来たりする仲間が、まだ見るに耐えないのだ。数日あるいは数週間もたつと、被収容者はもう変わっていた。朝、まだ暗いうちに、作業グループとともにゲートの前で行列の出発を待っているとき、彼は叫び声を耳にする。そちらを見ると、仲間が何度も地べたに殴り倒されていた。立ち上がってはまた殴り倒される。(略)ながめる被収容者はすでに心理学で言う、反応の段階にはいっており、目を逸らしたりしない。無関心に、なにも感じずにながめていられる。心に小波ひとつたてずに。
 人間には(※人間に限らないが)、「学習」という能力がある。しかし、一歩間違えば、防衛的に、あるいは無気力から、学習の放棄に至ってしまうこともある。何を、どんな風に「学習」することが、人類にとっての「幸せ」(あるいは「平和」)につながるのか。

▼そんなことを考えられることに感謝しつつ、クリスマスの1日を過ごしてみたり。

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読書メモ(断片):接続表現

▼接続表現の一覧を、受験参考書以外で探していたのだが、偶然、最近手にとった『心理学論文の書き方』で見つける。孫引きではあるが、メモをさせていただく。考えてみれば、論文の書き方の本を見れば載ってるよなぁ…
河野(2004)による接続表現(抜粋)(p.31)
接続関係 表現例
添加・列挙 「この他」「加えて」「さらに」「なお」「かつ」
選択 「…か、あるいは…」「…か、または…」
比較・対照 「と同様に」「と同じように」「逆に」「反対に」「それに対して」
目的 「…のために」
原因・結果 「なぜなら」「…ゆえに」「…によって」「その結果」「…の結果として」
帰結 「よって」「したがって」「それゆえ」「…に応じて」「このように」
例証 「例えば」「その例として」
要約・結果 「つまり」「要するに」「以上のように」「このように」「結果として」「結論すれば」「すなわち」
 ちなみに。心理学系の「論文の書き方」の類書は少なくないが、本書は、全体のバランスも優れており、初学者にとっては重要なテキストになるのではないかと思う。

 抜粋引用なので、『レポート・論文の書き方入門』を確認しようっと。

追伸
 『心理学論文の書き方』には、これ以外にも論文の「決まり文句」(フレーズ)が掲載されていて、参考になった。曰く、目的や結果については「検証する」「実証する」「確証する」「検討する」「分析する」「解析する」「明らかにする」「定義する」「理論化された」などを用いるとのこと。また、考察では「考察される」「推定する」「と考えられる」「と示唆された」「予測される」「予想される」「位置づけられよう」「解釈される」など。「これらの動詞をうまく組み合わせれば、無理のない論文表現になります」(p.30)とのことである。

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読書メモ(断片):働くみんなのモティベーション論(金井壽宏)

▼金井先生の『働くみんなのモティべーション論』を通読後、一部を精読。私的には今年度、5本の指に入る名著である。やや話の内容に重複が見られたり、こなれていない部分があるものの、これは「あら探し」と言うべきだろう。モティべーション論のテキストとしても、数年(十数年かもしれない)は使わせていただけそうだ。
 以下の一文を読みながら、私自身がかつて「心理学」というものを学んでいた理由(おそらく、私にとっては自分自身の問題を解決したり、悩みに言葉を与える手段だったのかもしれない)と、現在の私にとっての心理学の意味合い(他者に対して言葉を提供し、知見を役立ててもらいたい)の違いについて考えさせられてしまった。

 これは「セルフ・セオリー」と「ワールドセオリー」の違いということになるらしい。
 長い引用となるが、味わい深い一文なのでお許しあれ。
 わたしは、大学での経営管理の講義で、学生にモティべーション論を学ぶことの大切さについて話す。若いときに、モティべーション論を学ぶときには、自分に成り立つセルフ・セオリーの話をみつけてきて、その内容を聞いて納得するだけでいい。自分のやる気を説明するのにふさわしい自分向きの理論をみつけ、その狭義のセルフ・セオリーをマスターし、その応用として、自分のやる気が落ち込んでいるときには、なぜそうなっているかを診断し、再びテンションを高めるのに、そのセルフ・セオリーが使えれば十分だ。たとえば、セリグマンの学習性無力感が、最近、恋愛に燃えない自分を説明できるなら、それを活用する。自分がすばらしい女性をみてもドキドキしないのは、ここ二年の間で、十五回も連続でふられたことによると診断するなら、それを(口説く気にもならない「学習性無力感)」と名づければいい。まずはそれが原因であることに気づくことが大切だ。少なくても、誘ったり、デートしたりする気がまったくないのはつないことだが、それでも、それが生まれつきではなく、いつもふられっぱなしだったことから学習した結果だ、だから、回復することが可能だと考えることができる。つまり、自分がわかったというレベルで十分なのである。やる気を自己調整できればいい。たとえば、好きなタイプを絞り込みすぎて、いたずらにふられることを繰り返すより、好きなタイプのストライクゾーンを広げて、まず、誘うこと、デートを楽しむことを優先することも一つだ。
(略)
 これらは、すべて、自分の問題だ。特に、若いときはそれでいい。しかし、三〇代、四〇代になると、自分が元気になるだけでなく、周りのひとを元気にしてあげることのできる元気印にならないといけない。特にリーダシップをとるつもりなら、ウェルチは、エナジー(=自分が元気であること)だけでなく、エナジャイズ(自分の周りのひとたちを元気にできること)も大事だと強調したものだ。(略)けっこうマイペースで「俺が、俺が」で生活していたひとでも、社会に出れば職場などの共同体の一員になる。さらに役職につけば、部下のモティべーションまで考えざるをえない。そのときに、この"ひととともにいる"が楽しめ、"ひととともに成し遂げる"がうまくできないと、困ることになる。ワールド・セオリーも抱くべきだという理由はここにある。
(太字は引用者による)(pp.250-251.)
 恋愛メタファーも用いながら説明し切るところが、さすが金井流である。人生における「節目」と、キャリアにおける「節目」について考えながら一日を終えてみたり。

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読書メモ(断片):オーセンティシティ(『Google 最強のブランド戦略』)

▼オーセンティシティ(authenticity)という言葉がある。日本語にすると、「真正性」とか「真実性」と言った訳語が当てられる。もっと分かりやすく言えば、「本物らしさ」「本当らしさ」といったニュアンスに近いかも知れない。以前は、教育の文脈で使われる例が多かったが(例:社会で学ぶ内容が「本物」だとすると、学校教育は真正性に欠ける…など)、最近はマーケティング系の概念としても用いられているということを初めて知った。

 例えば、『Google 最強のブランド戦略』にはこんな一文があった。
○グーグルには真実性がある。
  グーグルが人間っぽさを打ち出せていることを認めるとすれば、それは、もっと大きな流れの一部だ。この流れは「オーセンティシティ」と呼ばれている。この言葉は、グーグルブランドのどこが違うかを説明するために私もこれまで何回か使ってきた。オーセンティシティとは、従来のスーパーブランドが提供する管理されたわざとらしい経験ではなく、より「本物」の経験のことだ。オーセンティシティの時代に成功するブランドは、グーグルのように、あまり作られた感じのしない、そしてもっと民主的なブランドである。(p.135)(太字は引用者による)
 以上のように述べた後、著者はデビッド・ボイルの『Authenticity: Brands, fakes, spin and the lust for real life』という著書から、オーセンティシティの定義を引いている。
 オーセンティシティとは、自然や美を意味することも、地理的あるいは道徳的に根ざしていることを意味することもあるが、要するに人間味である。人間というものの複雑性や、人間同士のふれ合いに対する欲求が認識され、人間の個性や個別性も認識されていることを意味する。
(p.137)(『Google 最強のブランド戦略』からの孫引き)
 うーん。マーケティングにおける「経験」(エキスペリエンス)の延長にある概念が、「オーセンティシティ」なのか、あるいはサービス業的な原点回帰なのかよく分からないような気がしないでもない。しばし、チェックした方が良い言葉かもしれない。

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