カテゴリー「読書メモ(断片)」の199件の投稿

アイデアノート(実験)

なんとなく考えたこと2件

今後やったら面白そうな話

○サルでも分かる Twitter の活用法、応用事例
○サルでも分かる SNSの活用法、応用事例
○mixiとアメブロの収益モデルの比較
○mixi アプリ(ソーシャルアプリ)の成功、失敗事例
○海外事例:Facebook VS Myspace
○ソフトバンク(孫さん)の医療クラウド構想
 http://twitter.com/masason/statuses/15106835864
 http://www.ustream.tv/recorded/7348439/highlight/78257
○各種共有サービスの基盤(例えば、SlideShare、Evernote)
 http://www.evernote.com/about/intl/jp/
 http://www.slideshare.net/
○相互性のさらなる発展
 http://lang-8.com/
○拡張現実(AR)の活用事例
 http://gihyo.jp/design/feature/01/flartoolkit
 http://saqoosha.net/2009/05/25/1753/

根本から考えなければならない話

 巨人の肩に乗れ
 風の歌を聴け 
 書を捨てよ、町へ出よう
 ※新しい順に並べてみよう。

隗より始めよ(言い出しっぺ)法則

(1) 面白そうなことは、とりあえず自分でやってみる。
(2) 本当に面白かったら、その理由を第三者に説明してみる。
 →説明して理解してもらえないものは、何かが足りない。練り直す。
(3) ダメだったら撤退

(4) やるんだったら中長期継続する。

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読書メモ(断片):石井淳蔵『ビジネス・インサイト』

▼『マーケティングの神話』で知られる石井淳蔵先生の新刊を久々に読む。「あとがき」に寄れば、マーケティングの神話以来、15年ぶりらしい。15年も経ったのか!と驚くことはあっても、今もなお『マーケティングの神話』の記憶の新鮮に蘇るということは、それだけ私的には影響力のあった本だったのだろう。今回も、期待を全く裏切らない内容であった。

 本書における ビジネスインサイトとは、経営において「跳ぶ力」、あるいは「将来を見通していく力」(p.50)、あるいは、「創造の知」を意味する。先日、私の最も身近な顧客に対してホンダの「インサイト」(ハイブリッドカー)の「インサイト」ってどういう意味?と聞いてみたところ、ほぼ壊滅状態だったことは、これまた記憶に新しい。日本の現在、あるいは将来にわたる「インサイト」(×商品名)不足は危惧するばかりだが、残る可能性にかけてみたいところだ。

▼印象に残ったところは多いが、冒頭のエピソードから「読ませる」内容。
 経営者は跳ぶのが仕事。そこは経営者独自の感覚がものを言う。そのため、学問とは無縁の仕事のようにも思える。だが、そうとも言えない。経営者の仕事と学問の関わりを見る上で面白いエピソードを紹介しよう。
 神戸大学の同僚であった加護野忠男から、「松下幸之助と本田宗一郎と中内功の共通点は何か」と、問われたことがある。言うまでもなく、松下幸之助はパナソニック(旧・松下電器)を、本田宗一郎はホンダを、そして中内功はダイエーを、それぞれ創業して大企業に育てた人たちであり、わが国では歴史に残る起業家である。彼らの共通点は、加護野に言わせると、「実務に就いてから、学校に通った」という点だと言うのだ。
 そう言われてから調べてみると、松下幸之助は、十九歳のときに自分で店を経営しながら、関西商工学校夜間部予科に通う。本田宗一郎は、ホンダの前身となる会社を設立し社長となった後、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、三年間金属学の研究に費やす。中内功は、戦後復員してから、仕事の合間を縫って旧制神戸経済大学(現・神戸大学)に戦後設立された第二学部(夜間部)に進学する。
 確かに三人とも、社会に出て自分の仕事に一生懸命励んでいる時期に、学校に通っている。たぶん無理をして時間を割いたことだろう。(略)本書を書く中でいろいろの経営者のお話を文献やインタビューで調べていると、しかし、社長業の合間を縫って、学校やセミナーに通った話がけっこうよく出てくる。そして、「経営学や経営学者の話が、事業を進めていく上で役に立った、決め手になった」という話も出ている。pp.4-5.
 大学関係者にとって都合の良い話かと思うが、目的意識を持って学ばない限り「インサイト」は誰にも訪れないものと思ってみたりもする。実務に就いてなおもまた「学び」「振り返る」余裕をもっていきたものである。

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チームワークをいかに築くか?(『チームマネジメント』『チームワークの心理学』)

▼仕事が完全に行き詰まってしまっている。「一人で解決できないことは、グループ(チーム、集団)で解決すべし」というのは私の信念の一つではあるが、「言うは易く行うは難し」の典型である。なかなか出来ないからこそ、探求の対象になるのだろうが、現実的には大変悩ましい。

 グループあるいは、チームにおけるリーダシップもまた難題である。故・河合隼雄が「中空構造」とは良く言ったもので、「誰も責任を取らない」(外見はあるが、中身は空っぽ)に近い構造がいたるところに散在しているらしい。

▼悩める時は、先達に頼る訳だが、これまた難しい。
▼『チームワークの心理学』から、久々に、「コーチングのエッセンス」(p.162)をおさらいしてみる(本内容は『チームマネジメント』が大元)
コーチングのエッセンス
 コーチングは、メンバーの内発的で自律的なモチベーションと行動を引き出して、成長を支援する働きかけです。その基本姿勢は次の三点です。
(a) メンバーの成長への強い関心…メンバーの成長を期待し、育ててあげたいと願う気持ちを持つことが基盤になります。
(b) メンバーの可能性、能力、意欲への信頼…メンバーには様々な将来の可能性が備わっており、何かしら優れた能力を秘めているし、意欲も旺盛であることを信じる気持ちを持つことが基盤になります。
(c) リーダ自身の自己管理…誠実に、倫理をわきまえて振る舞い、前向きな姿勢をいつも忘れない態度です。
 エッセンスは分かっていても、現実には難しい…とループする今日この頃。

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読書メモ(ミニ):『Head First Statistics 頭とからだで覚える統計の基本』

▼オライリーから、『Head First Statistics 頭とからだで覚える統計の基本 』なる統計学のテキストが出ていたので買ってみる。

 一般的に、海外(英語圏)の大学生、社会人向けのテキストは、内容が豊富=分厚く、完成度が高いと言われている。ご多聞に漏れず、本書もしつこいくらいの解説で、500ページを超える分量。エクササイズも充実で、日本のテキストでは見られない構成である。読者を飽きさせないアクセントのための挿絵(?)も違う。日本だったら、アニメ系キャラが登場するような気もしないでもないが、本書は表紙の通り、実写版(3次元)のお姉さんが主である。

 全体は軽いノリで、例えば、正規分布では次のような例題がある。
 ジュリーはハイヒールを履くのが好きで、ヒールが高ければ高いほど嬉しくなります。問題は、一番高いヒールを履いたときでも相手の方が高くなければならず、そのせいで理想の相手を見つけられません。
 残念ながら一番最近のデート相手は彼女の期待に沿えませんでした。彼女より背が高い男性がどれほどいるのか、デート相手がその厳しい基準を満たす確率はどれくらいなのだろう、と彼女は考えています。
 さて、今回はどのようにして確率を求めることができるでしょう?(p.338)
 文脈依存性を脱しない人からは、「若い娘が高いヒールを履くのはけしからん!」とか、「恋愛(好きになるという感情)と身長は無相関である」というクレームが付きそうな気もするが、細かいことを気にしないのが大人と言うものだろう。男に媚びないところが、アメリカのテキストらしいと言えばらしい。

 我が国のテキストの場合、「数式を使わない」ことを売りにする書籍も少なくないが、本書は数式も正面から扱う。しかし、数学っぽさをあまり感じさせないところが構成というか、デザインの巧さと言ったところか。

 内容はあくまで基礎で、最後の章で扱っているのは「母集団の推定」。我が国が誇る「マンガで学べる」シリーズの方が、発展性は高いような気もするが、あっちは複数冊なので比較にならぬが。

▼オライリーの本シリーズは他に『Head First JavaScript』『Head Firstソフトウェア開発』『Head First SQL』などもある。こんな軽いノリで、ソフトウェア開発やJavaやらSQLも学べる?のかしら。

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読書メモ(ミニ):支援とは何か?(『人を助けるとはどういうことか』『プロセス・コンサルテーション』

▼個人的な話かもしれないし、何度も言っていることではあるが、私にとって「支援とは何か」は限りなく永遠に近い問いである。なぜなら、常にジレンマが生じる問いだからである(他者への支援は時に当人にとっての制約であり、他者にとっての制約は時に支援としても働く)。いったい、どんなバランスを取れば良いのか。

 そもそもをたどれば、誰が支援を求めているのかも、問われなければならない。メシア・コンプレックス的に「自分」が支援をしたいだけなのか。それとも真に他者が支援が求めているのか。考えれば考えるほど、難しい問いである。

▼これまた同じことの焼き直しで恐縮だが、かつて私が心理学を集中的に学んだのも、Schein(シャイン, E.H.)の書籍に「救われた」感を持ったのも、おそらくは「支援」ということについて考えたかったからかもしれない。久々にScheinの新刊を読み通して、改めてこの事を思い返す今日この頃。
本当の「協力関係」 プロセス・コンサルテーション

▼金井先生の監訳だけあってか『人を助けるとはどういうことか』は、解説も充実している。これだけでも読み応えがあるが、金井先生曰く、「本書をぜひお読みいただきたい読者層」(pp.254-255.)は以下の通りである。
  • 誰かを支援すること自体が仕事の一部、もしくは仕事のほとんどの部分となっている職種で活躍している方々-コンサルタント、ソーシャル・ワーカー、医者、看護師、介護福祉士。
  • 前述と関連し、部分的にオーバーラップするが、従来の組織開発、ワークショップ、ファシリテーターなど(略)、各界のインターベンショニスト(介入のプロ)。
  • より若い世代、より未経験な人たちを指導、コーチする立場にある方々(略)
  • 子どもや恋人、配偶者ともっと実りある関係を樹立したいと思う方々、より若い世代も含め友人や恋人との関係をよりよくしたいと思う方々(略)
  • 支援を受けるたちばにいることが多いが、そのことで苛立つこと、大切に扱われていないと感じてしまう状況を改善したいと思う方々-医者にとっての患者、介護を受けている人、先生にとっての生徒・学生(略)
▼著者の言わんとすることは、要約ではとても語りきれないが、最終章にある「支援関係における7つの原則とコツ」は、本書と出会う契機となり得そうな気もするので、半分は自分のために、残りの半分は誰かのためにメモ。コツは自分がなるほど!と思った一部のみの引用である(pp.235-249.)。原則だけで何かが得られる訳では決してないので、ぜひ本書を手にとっていただきたい。
  • 原則1 与える側も受け入れる側も用意ができているとき、効果的な支援が生じる。
  • 原則2 支援関係が公平なものだと見なされたとき、効果的な支援が生まれる。
  • 支援3 支援者が適切な支援の役割を果たしているとき、支援は効果的に行われる。
  • 原則4 あなたの言動すべてが、人間関係の将来を決定づける介入である。
    • コツ11 フィードバックを与えるときには、現実の姿の記述にとどめるようにし、判断は最小限に抑えること。
  • 原則5 効果的な支援は純粋な問いかけとともに始まる。
    • コツ15 求められた支援がどれほどお馴染みのものに聞こえても、これまで一度も聞いたことがない、まったく新しい要求だとして考えよう。
  • 原則6 問題を抱えている当事者(オーナー)はクライアントである。
    • コツ17 あなたが知っていると思う問題とどれほど似ているようでも、それは他人の問題であって、あなたのものではないことを絶えず思いだそう。
  • 原則7 すべての答えを得ることはできない。
 なかなかそんな論考は少ないのが実情だが、支援者の立場でも、クライアントとしても、どちらの立場でも有用な一冊だった。これから、ことある度に、何度となく読み返すことになるのだろうな。

 より根源から学びたい場合は、こちらも参考になるはず。
 今一度読み直してみたい。

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D.A.ノーマン『未来のモノのデザイン』を読む

▼私にとってD.A.ノーマン(の著書)は、自分の人生における原点の一つと言って良い(いったい原点がいくつあるのかってツッコミはなしね)。
 以前もネタにしたことがあるが、もし某大学の小論文の問題を通してノーマンと出会っていなければ(93年出題)、もしかしたら志望校そのもに興味を持っていなかったかもしれないし、コンピュータから「人」に関心を移すことはなかったかもしれない。歴史において「もし」を考えることに意味はないが、出会うべくして出会ったのだと思いたくなるほどの影響力があった。

 予備校に入ってから最後の(1浪以上はあり得なかったが)受験小論文では、創造性に関して、なぜか私はGUIとCUIの違いについて論じた。ちなみにGUIは、マウスでの操作に代表されるグラフィカルユーザインタフェースの略で、CUIはキーボードでの操作(文字=キャラクタね)を意味する。

 今思えば、何故に、Macに代表されるGUIが人間の創造性を豊かにした!的な、今思えば安直な、当時としてはマニアックな(一度も練習したことがない)事例を用いたのか謎でならないが、結果、私の人生も、ある方向に導かれてしまったのだろう。いわゆる再現論文(自分なりに答案を再現し、予備校に高く売りつける提供する小論文のこと)は、「なんだかよく分からないがすごそう」と評されて、何ら後生に貢献できなかったらしいが、これも仕方があるまい。。

 以上、読書メモを書く前のただの前置き。

▼今回の『未来のモノのデザイン』も示唆的な内容が多く、いくつものインスピレーションを得ることができた。「薫陶」って、こういうことを指すのだろうな、と言葉を感覚にしてみたり。ノーマンは、日常感覚を言葉(喩え)にする名手だからこそ、言葉を感覚に変換する「感覚」がよみがえるのだろうな。

 以下、断片的メモと勝手なコメント。

▼その(1) 予想外
 予想外のことについて、我々は次の二つのことを知っている。第一に、それはいつでも起こる。第二に、それが起こるときはいつでも予想外だ。(p.16)
 某社の「予想外」を彷彿してしまう。某社においては、前者の意味合いが強いからこそ、ネタになるのだろうな、と思ってみたりして。

▼その(2)暗黙のコミュニケーション
 何かしら新しいものに出会ったとき、我々はほとんどの場合、それが今までと違う経験だと気づきもせずに、何の問題もなく使う。どのようにしてこれが可能になるのだろうか?我々は一生を通して、数万もの異なるモノたちに出会う。そのほとんどの場合、我々はそれとどう付き合うかをまさしく知っている。教えてもらうこともなく、ためらうこともない。(引用者改行)
必要に迫られれば、まったく新しい解決法をデザインすることができるのも希ではない。それは「ちょっとした工夫」と言われる。ガタつくテーブルを安定させるために脚の下に紙を折りたたんで挟むとか、日差しをさえぎるために窓に新聞紙を貼るなどである。何年も前、この問題を考えていて、答えは暗黙のコミュニケーション、今日我々が「アフォーダンス」と呼ぶコミュニケーションの一形態と関係があるにちがいないと気がついた。(p.81)
 引用後、さらに引用してしまうが「何かしら新しいものに出会ったとき、我々はほとんどの場合、それが今までと違う経験だと気づきもせずに、何の問題もなく使う。どのようにしてこれが可能になるのだろうか?」という疑問は、私的にも永遠の疑問である。「応用力」とか「転移(移転)」などと呼ばれる領域ではあるが、改めて指摘にマーカーを何度も重ねてみたり。

▼その(3)リスクホメオスタシス
 今日、我々は快適すぎる。世界の持つ固有の危険性、複雑で強力な機械の操作に固有の危険性から隔離されすぎている。オートバイや自転車、機械や薬が実際のとおり危険なように見えたら、たぶん人びとは行動を適切に変えるだろう。すべてのものが防音され、クッションが付けられ、消毒されていたら、我々はもはや本当の危険に気がつかないだろう。だから、危険な描写を呼び戻さなくてはならないのである。(p.102)
 リスクホメオスタシスに関連する指摘の一つ。テクノロジー(ノーマンの定義によれば、「人工物や素材、生活との手続きを生み出すために知識を体系的に応用することすべて」 p.114)が発達は、人をある種の「リスク」から遠ざけ、それが結果として新たな「リスク」へとつながる。この矛盾をどう扱っていくかが、テクノロジーを扱うすべての人間に問われているんだろうなぁ…。

▼その(4)考える機械

 最後に登場するノーマンのフィクションは…、自戒のためのルールとして刻み込んでいたい。教員向けのルールに置き換えても(機械を教員に置き換え、人間を児童、生徒、学生に置き換える…)意味がありそうだ。
機械によって作られた、人間とのインタラクションを改善するデザインルール
 1 ものごとを簡潔にする。
 2 人間には概念モデルを与える。
 3 理由を示す。
 4 人間が制御していると思わせる。
 5 絶えず安心させる。
 6 人間の振るまいを決して「エラー」とは呼ばない。(人間のインタビュアによって追加されたルール)(p.234)
 相変わらずただの「メモ」だが、ご勘弁をば。

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読書メモ(断片):『身体知-身体が教えてくれること』(内田樹・三砂ちづる)

▼図書館で妻が借りてきた本を、割り込みして読む。内田樹先生の本には、一通り目を通すつもりでいたが、対談本の相手オニババ(注:『オニババ化する女たち』)ということで、先入観からかためらいがあった…のであった。内容的には、これまでの内田節と、オニババ本の焼き直しという側面は否めないし、微妙というか、アヤシゲな内容もないわけではないが、対談ということで許容の範囲といったところか。入門書としては、読みやすい内容だった。
 これまでも何度か類似のジョークを目にしたことがあったが(これも内田効果?)、「評価」についての以下の言及は、何度でも警鐘すべき内容だろう、というわけでメモしておく。意識的にせよ、無意識的な戦略にせよ、「評価されやすい」というそれだけの理由で、意思決定が行われるのは避けたい。

▼以下、ちょっと長いですが引用です。
 業界的なジョークですけど、日本の仏文学者の三分の一がマラルメ研究者で三分の一がプルースト研究者で三分の一がフロベール研究者である、というのがあるんです。何でかというと、日本には、マラルメ、プルースト、フロベールのひじょうに優れた研究者がこれまで出てきたから。この分野での研究についての査定は客観性が高い。だから、自分の研究業績を正確に査定して欲しいという秀才たちはいきおいそういう専門領域に集まってしまう。

(略)若手研究者はとにかく業界内部的に評価されたいから、「評価されやすい領域」に集まってしまう。そうやって専門領域がどんどん狭くなってゆく。結果的に、二千人から仏文学者がいるのに、フランス文化の特定分野以外からはほとんど何の学術情報も入ってこない。そういういびつなかたちがどんどん増幅されてきます。

(略)これ、「評価」というもののネガティブな効果だと思うんです。「評価コスト」って、けっこう深刻なシステムな問題なんですよ。精密な評価をするということが自己目的化すると組織の中の人間は活気を失って、消耗してゆくんです。エビデンスもアセスメントもいいんですけれども、人間は有限なリソースしか持っていないということを忘れちゃいけない。たいせつなのは緻密な査定にどこまでコストを使えば「勘定が合う」のかということなんです。査定のための負荷で本来の仕事に回すべきリソースが食われるというのは本末転倒なんです。それって、「一〇〇万円の使い道」を決めるための会議を重ねて、その弁当代で一〇〇万円使ってしまったというのと似たナンセンスなんです。(pp.211-212.)
▼「100万円の使い道」を決めるために、「100万円を使う」のも、何の見通しもなく、ただ「100万円使う」のもどちらも同じ罪だけど、中道って難しいのかな。

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読書メモ(断片):iPod/iPhone/Apple vs SONY

▼相変わらず私の携帯(PHS)は、WilcomのW-ZERO03[es]のまま。PHS歴も10年を超えてしまった。歴史をたどると年がばれるが、私はアステル→NTTパーソナル(のちにNTT DoCoMoとなり解散)→DDI ポケット(現:Willcom)とPHSの3つのキャリアを渡り歩き、その後、Willcomで安定している。

▼使えるかな?と思ったW-ZERO03[es]だが、私のようなユーザ的には思ったよりも機能を活用できないままに終わってしまっている。

 と言うのも、通勤時間がさほど長くないためW-ZEROを使うシーンはさほどなく、かといって中距離以上の移動ではノートPCでWillcom回線を利用しているため、これまたW-ZEROを使うチャンスがないからである。もっとも携帯メールが打てない私的には、キーボードはなくてならない存在なのだが。

▼iPhoneも出たことだし、乗り換えようかな…と浮気心を発揮しつつ、久々にiPodまわりについて勉強しようと、何冊かあたる。何冊かあったが、私的に「使えそう」だったのは、以下の3冊である(※単なる機能等を説明しただけの入門書等は、そもそも範疇に入っていない)。  上記の中でも、個人的に今年のベスト作に入りそうなのは(去年、本書の存在に気づけなかったのが残念至極である)、『iPodは何を変えたのか?』である。中途半端にアカデミック(学術さを全面に出した)本は、妙なこじつけや、理論モデルの適用を急ぎすぎて失敗してしまうこと例も少なくないが、本書は、ジャーナリスト的な取材と視点で、優れたiPod/Apple論になっていた。

 iPhone発表以降、アップルVSソニーの考察も複雑さを増して来たが(日本の携帯の閉鎖性や、ノキア、エリクソン等も考慮に入れないといけないわけで)、だからこそ、追いかけていくことに価値があるテーマなのだろうな。

▼端末的には、私はシャープかAppleかという選択肢なのだが、うーむ。結局、キャリアはそのものどうでもいいってことなのよね。

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読書メモ(断片):『格差社会と教育改革』(苅谷剛彦・山口二郎)

▼岩波ブックレット『格差社会と教育改革』を読む。内容の3分の2は、苅谷氏と
山口二郎氏の対談。前半では、苅谷先生がこれまで各種メディアで論じてきた学力低下、格差社会、教育論などが、コンパクト、かつこの分野に詳しくない読者にも理解しやすい平易な言葉で説明されていて勉強になった。若干、焼き直し&対談の安直さもあるが、岩波ブックレットとしての使命は全うしている。

 最近、私自身コストの問題(経済的・政策的問題)に興味を持っているからかもしれないが、これまで以上に経済的側面に言及されているのも特徴的だった。少子化対策同様、短期的な成果が見えにくい領域だからこそ、「社会的コスト」をどう算出していくかは、今後、ますます大きな課題なのだろう。
 私的に印象に残ったのは、対談の以下の箇所。山口氏の教育に原因を求めるロジックには、あまり納得はいかないが、「権利」と「特権性」の違いについては、なるほど!と合点。私などは「勘違い」の一言で済ませてしまいそうな領域ではあるが、「権利」とか「特権性」の概念で腑に落ちた。
山口 ひとつ補足させていただくと、日本人全体がとてもわがままになったおか、とんでもないクレームをつける親が多いという話がありますが、そこのところに私は、日本の公民教育の大きな問題があったと思うのです。何かというと、権利と特権性、英語でいうライトrightとプリビレッジprivilegeのちがいを日本ではちゃんと教えていないということなのです。個人の権利意識と言うけど、実態は特権意識なのです。本来権利というのは普遍的なもので、私が言っていることを個人が言っても受け容れるというものなのです。ところがいまは、自分が言っていることを他人が言うとそれは否定するという、そういう特権意識が部分的に蔓延しているのではないか。またにそれに対して「カスタマー・サティスファクション」とか「お客様第一」と言って甘やかすことをもって「サービスがいい」という錯覚が学校や病院に広がりつつあるという、たいへん困った状況がある。(pp.44-45.)

苅谷
 当たり前のことなんですが、教育というのは影響が出るのに時間がかかるのだということを本当にまじめに考えるべきですよ。何でもショートターム(短期軸)で考える傾向は怪しい。私は、人間って複雑だから、合理的に何でも計算できると思っていないし、無駄なことも失敗もする、そこで成長するものだと思っています。「理想的な教育」ができてしまったら本当は恐いんですよ。教育というものは本来多様性やコンフリクト(摩擦・衝突)を含みこんだプロセスなんですから。もともと時間がかかるものなんだということを大前提にして、議論をしていかないといけない。「できないことも沢山ある」と主ながらも、あるチェックポイントは定めて政策を勧めていくというようにしないと、この悪いサイクルは止まりません(pp.71)
▼教育に「何ができるか」ではなく、「何ができないか」を検討する。
 この発想が「常識」になる日がいつになったら来るのだろう。
 などと思ってみたりして。

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読書メモ(断片):『ニッポンには対話がない』、『電子マネーがわかる』

▼先日の出張の移動中に平田オリザ氏の新刊『ニッポンには対話がない』と、お仕事的に役立ちそうな本ということで日経文庫(新書)の『電子マネーがわかる』を読む。どちらも偶然、手に取った本だが良書だった。

 『ニッポンには対話がない』は、『図解 フィンランド・メソッド入門』の北川達夫氏(フィンランドの教育に関する本では、比較的良書です)と、劇作家 平田オリザ氏との対談形式。フィンランドの教育や、いわゆる「表現教育」(演劇)等に関心がある人にとっては得るところが大きいはずである。

 一方、『電子マネーがわかる』は日本の現状や歴史のみならず、世界の電子マネー事情についてもかなり詳しい。これまで私も電子マネーについては、自分なりに調べてきたつもりだが、管見、新書(入門書)としては、現時点では最適と言える入門書ではないかと思われる。
▼断片もまた断片ではあるが、『ニッポンには対話がない』で、平田オリザ氏が「あとがき」にて記していた一文に痛く共感させられた。オリザ氏曰く、
 文人としてのわたしは、日本は滅びると信じていますし、滅びてもかまわないとも思っています。劇作家としてのわたしの仕事は、かつてチェーホフが、百年前に、滅びゆくロシア帝国の人々を愛情を持って描き続けたように、滅びゆく日本人の姿を記録していくことだと思っています。
 しかし一方わたしは国立大学に勤務していますので、国家に対して多少の忠誠心はあります(まあ、ほんとうにそれは、ほんのちょっとですが)。自由主義経済の原則からいって、外資が日本に入ってくることはしかたありません(※注)。日本の企業も、逆に海外に進出していけばいいだけのことです。しかし、少なくとも、わたしの愛する学生たちが、その企業内で、コミュニケーション能力がないという理由で、あるいは「コミュニケーション能力のない日本人」という偏見によって、奴隷的な労働をさせられることだけは、なんとしても食い止めたい
 そのためにわたしの本業である演劇と、そこに蓄積された知恵が役に立つのなら、やはりそれは、うれしいことに違いありません。(※注:「あとがき」全体を読まないと文脈が読みにくいと思いますが、関心のある方はぜひ本書を手にとってください)
pp.206-207.下線は引用者による
 「日本は滅びると信じていますし、滅びてもかまわないとも思っています」というオリザ氏の見解は、私自身、そう共感するところ大である。しかし一方で、私自身、日本という国で育ってきた故、日本という国がこのまま滅びゆく姿を見たくないし、そのためにも若手に期待するところも大きいと思っている。

▼歴史的に見れば、日本は南北問題における「南」の国々や、アジアの発展途上国の労働者を、「奴隷」のように使ってきたという事実にも目を背けてはならないし、現状を変える努力は引き続き必要であろう。

 しかし、かねてから指摘されてきたこの問題を何ら変えられない現時点での「先進国」(の一員)、一転、途上国に転落した瞬間、どんな未来が待っているか想像するのは難しくない(世界の均衡は、不均衡によって成立していると言っても過言ではない。人類史すべてがそれを証明している…はず)。この危機的な状況をどう打破していくか。著者らのいう「発想の転換」をどう図っていくかという意味で、『ニッポンには対話がない』から得るところは大きかった。

▼一方、電子マネーのような次世代の日本発の技術をどう世界に広めていくか、日本の今後を占う意味で、『電子マネーがわかる』からも得るものは大きかった(結局、私も技術決定論者なのかしら)。

 さて、日本の今後はどうなることやら。

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