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読書メモ(断片の続き):『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(北川達夫、平田オリザ)

▼読書メモ(断片)のさらに断片的内容。読み残しがないかなぁと、さらーと読み直している最中、「義務ではなく、チャンスである」という一文を再確認する。日々、顧客に「これは覚えなくてはいけないのですか?」とか、「いいなりになるのは納得がいかない」などという、不可解なコメントを得ているせいか、「チャンスである」という一文に、少し安堵してみたり。

 覚えるか否かは、本人の判断だし、指摘(アドバイス)に対して従うか否かもまた、当人の判断の問題である。指摘している側としては、それは義務ではなく、「チャンス」(私がよく言う言葉で言い換えれば、きっかけ=契機)であるということをいかに伝えていくか。どうやったら「対話」が成立するか、改めて、とまどいながら、迷いながら、悩んでみたりして。
 ヨーロッパの道徳教育では一般に、「謝ること」と「許すこと」を小学校一年生から習います。(略)ここで重要なのは、謝ることにせよ、許すことにせよ、あくまでチャンスであって、義務ではないということ。つまり、相手に謝るかどうか、相手を許すかどうかは、最終的には本人の選択にまかされているんです。ヨーロッパの道徳教育においては、この「謝ること、許すことは義務ではなく、チャンスである」というのはとくに強調されている点です。
(略)
 この発想を象徴する、おもしろい事例があります。フィンランドの教育では、先生が子どもに質問したからといって、子どもに答える義務はないとしています。先生の質問というのは子どもに与えられたチャンスであって、義務ではないというんですね。だから、そのチャンスを利用するかしないかは子どもの選択の問題であると。つまり、先生に質問されても、子どもは答えるのを断ることができるんです。
 では、子どもが答えるのを断り続けたらどうなるか。理論的には可能なのですが、現実には断り続ける事もはいません。それは同じく道徳教育において「言うかどうかは選択の問題だが、主張しない『個』は社会においては存在しないのと同じことである」と教えられているからです。先生の質問が難しすぎて答えられないのなら、あるいは何か答えたくない事情があるのなら、それをどこかで主張すべきなんですね。そこから先生と子どものあいだに対話が生まれ、教室という社会における「個」として認知されていく。子どもには厳しいようですが、大切なことです。(pp.27-29.)
下線部は引用者による。発言は北川氏による。
▼単なる備忘録的メモにて申し訳ないが、それだけお勧め本ということか。

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