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2008年6月

ウィーン出張初日(ホワイトアスパラガス)

▼所用でオーストリア(オーストラリアではないよ)はウィーンへ出張。言わずとしれたモーツァルト(×バッケン・モーツァルト@広島)の故郷であり、音楽の都である。ヨーロッパ方面の出張は、昨年のフィンランドに続き1年以内に2度目ということになってしまったらしい(私としたことが珍しい)。
ホワイトアスパラガス@ウィーン
ホワイトアスパラガス@ウィーン

▼ウィーン近辺には、世界遺産やら、観光地は多々あるようだが、今回はあくまで仕事なので、ぐっと我慢。観光に時間はなくても、食事は楽しもうと、初日は妻の薦めもあって、ホワイトアスパラガスをターゲットとしてみた。

 何故にホワイトアスパラガスか?理由は単純。美味しいからである。

 妻に教えてもらうまでは、ホワイトアスパラガスというのは、缶詰に入って脱色してしまったアスパラガスのことだと思っていたが、これぞ「無知の力」。実際は、人為的に育てた(日光に当てない?らしい)アスパラガスで、非常に甘く、味わい深い。

 実を言うと、ホワイトアスパラガスの季節は既に終わっているらしいのだが、事前調査の上、市庁舎近辺のCafe KONDITOREI SLUKA (カフェ・スルカ)にて、食すことに成功する。通常、ホワイトアスパラガスは、前菜として出されるらしいが、ここでは主菜扱い。ビーフもしくはシーフード(サーモン)巻きで、コンビネーションも絶妙だった。

▼Cafe KONDITOREI SLUKA(カフェ・スルカ)は、観光ガイドにも掲載されているようなので、詳しく書く必要はないと思われるが、市庁舎の近くの公園沿い。見つけるのはさほど難しくないはず。

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所沢出張(今季初)

▼所用で、久々に埼玉県所沢市に出張。

 航空機の予約が直前になってしまったのと、帰りも北九州経由になってしまったため(後述)、今回は初めての博多空港発の羽田行きを利用することになった。でもって、初の朝一のJR九州ソニックを利用してみたり。

 所沢到着後、若干、時間があったので航空公園(正式名称は「所沢航空記念公園」)に立ち寄ることに。理由は簡単。昼食を、所沢航空発祥記念館の食堂にて安く済ませようと思っていたからである。しかし、これまでのショボイ(失礼)食堂が、ビッフェ(バイキング)形式に変更されていた。

 他に選択肢もないので、30分程度の限られた時間ではあったが、800円(ビッフェ+ドリンク)での食べ放題を楽しんでしまった。前は閑古鳥が鳴いていた記憶もあるが、ビッフェ故か、はたまた天気が良かったからか食堂は大変混み合っており、老若男女、集っていたことにもびっくり。

 味はさほど期待はしていなかったが、洋食、和食(そうめんも!)など、一通りそろっていて、なかなかだった(想定予算はオーバーだったけれども)。

▼所用は、とくに大きな問題もなく終了。終了後、高田馬場にて時間をつぶし、目黒にて打ち合わせ兼飲み会。お世話になりました。

▼翌日の朝一に仕事を控えていたため、都内泊をせずに、スターフライヤー(全日空系なのに、なぜか第1ターミナル)の23時15分発の深夜便にて、北九州空港へ向かう。スターフライヤーはこれが2度目の利用だが、深夜便にもかかわらず観光客らしき人たちが混ざっていたのは驚き。安いからかな。

 爆睡後、北九州空港隣接(と言っても、徒歩では若干、距離があるが)の東横インにて仮眠。これまた朝一の移動手段にて、大分へ向かう。
※徒歩6分となっているが、25時に一人で歩く道のりは想像以上に長い。

▼大分県民としては、できる限り大分空港を利用して、地元に貢献したいところではあるが、北九州空港の早朝便(要前泊)や、深夜便(要北九州空港泊)は、結構、使い勝手が良いのも事実。

 と言っても体力的には、かなり消耗の度合いも高いので、できれば余裕のある出張をしたいのだが…。以下、適当なスナップショット。
航空公園写真
↑所沢航空記念公園にて。航空公園前には全日空のYS11機が置いてあり、公園内には、上記機体が展示してある。

航空公園写真
↑所沢航空発祥記念館の全景。展示は一度しか見たことはありませんが、なかなか見応えのある博物館です。シミュレータもあり。

深夜の羽田空港
↑深夜の羽田空港第1ターミナル(スターフライヤー)。誰もいないのに、保安上の理由からか、電気は付けっぱなしの模様。

深夜の羽田空港
↑23時09分時点でのファイナルコール寸前の図。私は完全に疲労しきっており、しかも通路側の席を確保していたので、最後に乗り込む。

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読書メモ(ミニ):週刊ダイヤモンド(6月21日号)

▼いわゆる週刊誌的ビジネス誌の私的な定番は『AERA』。アエラは、ほぼ毎週、欠かさず購入している。次いでは『週刊ダイヤモンド』。ほぼ毎週、見出しには目を通しているが、内容が面白そうな時に、目を通すことにしている(ちなみに、隔週では、『東洋経済』『日経ビジネス』が定番)

 6月21日号は、私的には謎が多かったヤマダ電器の特集ということで、購入してみた。山田会長の2時間半にも渡るインタビュー記事を筆頭に、電器小売り業界のいくつかのトピック満載で、得るところが多かった。

 米国におけるウォールマートにせよ、フランスのカルフールにせよ、かつてのダイエー(VS松下電器産業)にせよ、デル型の直販モデル(の可能性と、その限界)にしても、アマゾン型のネット販売にしても、小売り側と、製造・メーカーの関係をいかに捉えていくかは、古くて新しい、永遠の課題である。

 さて、どうなることやら。今後も、注視ネタにしていきたいところだ。

追伸
 ちなみに前も書きましたが大分における雑誌は東京+2日です。
 アエラの発売日は、水曜日。なんで、そんなに遅いかねぇ。

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生涯学習的・ローカル的・グローバル的

▼お仕事で、生涯学習的なお話をさせていただく。平易な言葉で、しかし、一定のレベルを維持しようとすると、なかなか悩ましいところである。冒頭は、劇的ビフォーアフターだとか、松たか子(×松下幸之助の娘)の話題など、受けの良さそうな話題で構成してみたが、後半はおそらく小難しく、しかもインパクトのない話が中心で、中途半端になってしまったかも…と、少し反省。

 活路がほぼ見いだせない18歳人口以外に、いかにマーケットを広げていくかについて考える良い機会をいただきつつ、ローカルなコミュニティの重要性を再認識させられてみたり。ローカルとグローバルを、いかに両立していくか。どこかで聞いたことのあるようなフレーズではあるが、しばし悩みたい。

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読書メモ(断片の続き):『ニッポンには対話がない―学びとコミュニケーションの再生』(北川達夫、平田オリザ)

▼読書メモ(断片)のさらに断片的内容。読み残しがないかなぁと、さらーと読み直している最中、「義務ではなく、チャンスである」という一文を再確認する。日々、顧客に「これは覚えなくてはいけないのですか?」とか、「いいなりになるのは納得がいかない」などという、不可解なコメントを得ているせいか、「チャンスである」という一文に、少し安堵してみたり。

 覚えるか否かは、本人の判断だし、指摘(アドバイス)に対して従うか否かもまた、当人の判断の問題である。指摘している側としては、それは義務ではなく、「チャンス」(私がよく言う言葉で言い換えれば、きっかけ=契機)であるということをいかに伝えていくか。どうやったら「対話」が成立するか、改めて、とまどいながら、迷いながら、悩んでみたりして。
 ヨーロッパの道徳教育では一般に、「謝ること」と「許すこと」を小学校一年生から習います。(略)ここで重要なのは、謝ることにせよ、許すことにせよ、あくまでチャンスであって、義務ではないということ。つまり、相手に謝るかどうか、相手を許すかどうかは、最終的には本人の選択にまかされているんです。ヨーロッパの道徳教育においては、この「謝ること、許すことは義務ではなく、チャンスである」というのはとくに強調されている点です。
(略)
 この発想を象徴する、おもしろい事例があります。フィンランドの教育では、先生が子どもに質問したからといって、子どもに答える義務はないとしています。先生の質問というのは子どもに与えられたチャンスであって、義務ではないというんですね。だから、そのチャンスを利用するかしないかは子どもの選択の問題であると。つまり、先生に質問されても、子どもは答えるのを断ることができるんです。
 では、子どもが答えるのを断り続けたらどうなるか。理論的には可能なのですが、現実には断り続ける事もはいません。それは同じく道徳教育において「言うかどうかは選択の問題だが、主張しない『個』は社会においては存在しないのと同じことである」と教えられているからです。先生の質問が難しすぎて答えられないのなら、あるいは何か答えたくない事情があるのなら、それをどこかで主張すべきなんですね。そこから先生と子どものあいだに対話が生まれ、教室という社会における「個」として認知されていく。子どもには厳しいようですが、大切なことです。(pp.27-29.)
下線部は引用者による。発言は北川氏による。
▼単なる備忘録的メモにて申し訳ないが、それだけお勧め本ということか。

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オリジナリティは誰が判断するのか、どう教えるべきか

▼ちょっとした壁に直面した。私は、自分自身に対しても、顧客に対しても「オリジナリティ」のある人間になることを理想としている。だからこそ、井の中の蛙にならないように=自分自身の立ち位置を相対化できるように、できるだけ見識を広く持ち、自分自身のオリジナリティとその欠如を社会なり世間なり、世界の中で位置づけられるように努めている(つもりである)。

 しかし、管見、この「オリジナリティ」という言葉の意味が曲解されつつあるらしい。「自分らしさ」あるいは「自分探し」の結末なのか、SMAPの『世界に一つだけの花』やら、「オンリーワン」が強調されてきか結果なのか知らぬが、自分という存在は、いかなる時も、オンリーワンと勘違いされている模様である。

▼確かに原理的には、自分という存在は「オリジナル」であり、同じ人間は誰一人いない。しかし、残念ながら、自分という存在がオリジナルであっても、その人が考えた結果のほとんどはオリジナルではない。

 凡人が考えられるようなことは、誰か(先人であれ、仲間、同僚であれ)が同じようなことを考えており、独自性などどこにもないことがほとんどである。だからこそ、人間は「巨人の肩」(ニュートン)に乗っていることを謙虚に踏まえ、先行事例を検討しながら、その隙間にある独自性を創造、発見しようと、努力しているのである。

 っていうかさー、みんなそうじゃない。マクロの視点で見れば、ほとんどの組織において、人(働く人)というのは、代替の効く歯車の一つであって、一人いなくなったとしても、また別な人がやってくれば良いだけなのだから…。多くの人は、それを意識的(あるいは無意識的)受け入れつつ、自分自身のオリジナリティを発揮しようと、悪戦苦闘しながら、毎日を受け容れている(はず)。

▼自分がやろうとしていることは、過去に誰ががやっている。誰ががやったこと以上の成果なり独自性を出そうとしなければ、それは評価に値しないという、「当たり前」のことを、どうやって伝えたら良いものか。

 オリジナリティをどう教え、どう判断させるのか。
 トホホな日々が続きそう。

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読書メモ(断片):『ニッポンには対話がない』、『電子マネーがわかる』

▼先日の出張の移動中に平田オリザ氏の新刊『ニッポンには対話がない』と、お仕事的に役立ちそうな本ということで日経文庫(新書)の『電子マネーがわかる』を読む。どちらも偶然、手に取った本だが良書だった。

 『ニッポンには対話がない』は、『図解 フィンランド・メソッド入門』の北川達夫氏(フィンランドの教育に関する本では、比較的良書です)と、劇作家 平田オリザ氏との対談形式。フィンランドの教育や、いわゆる「表現教育」(演劇)等に関心がある人にとっては得るところが大きいはずである。

 一方、『電子マネーがわかる』は日本の現状や歴史のみならず、世界の電子マネー事情についてもかなり詳しい。これまで私も電子マネーについては、自分なりに調べてきたつもりだが、管見、新書(入門書)としては、現時点では最適と言える入門書ではないかと思われる。
▼断片もまた断片ではあるが、『ニッポンには対話がない』で、平田オリザ氏が「あとがき」にて記していた一文に痛く共感させられた。オリザ氏曰く、
 文人としてのわたしは、日本は滅びると信じていますし、滅びてもかまわないとも思っています。劇作家としてのわたしの仕事は、かつてチェーホフが、百年前に、滅びゆくロシア帝国の人々を愛情を持って描き続けたように、滅びゆく日本人の姿を記録していくことだと思っています。
 しかし一方わたしは国立大学に勤務していますので、国家に対して多少の忠誠心はあります(まあ、ほんとうにそれは、ほんのちょっとですが)。自由主義経済の原則からいって、外資が日本に入ってくることはしかたありません(※注)。日本の企業も、逆に海外に進出していけばいいだけのことです。しかし、少なくとも、わたしの愛する学生たちが、その企業内で、コミュニケーション能力がないという理由で、あるいは「コミュニケーション能力のない日本人」という偏見によって、奴隷的な労働をさせられることだけは、なんとしても食い止めたい
 そのためにわたしの本業である演劇と、そこに蓄積された知恵が役に立つのなら、やはりそれは、うれしいことに違いありません。(※注:「あとがき」全体を読まないと文脈が読みにくいと思いますが、関心のある方はぜひ本書を手にとってください)
pp.206-207.下線は引用者による
 「日本は滅びると信じていますし、滅びてもかまわないとも思っています」というオリザ氏の見解は、私自身、そう共感するところ大である。しかし一方で、私自身、日本という国で育ってきた故、日本という国がこのまま滅びゆく姿を見たくないし、そのためにも若手に期待するところも大きいと思っている。

▼歴史的に見れば、日本は南北問題における「南」の国々や、アジアの発展途上国の労働者を、「奴隷」のように使ってきたという事実にも目を背けてはならないし、現状を変える努力は引き続き必要であろう。

 しかし、かねてから指摘されてきたこの問題を何ら変えられない現時点での「先進国」(の一員)、一転、途上国に転落した瞬間、どんな未来が待っているか想像するのは難しくない(世界の均衡は、不均衡によって成立していると言っても過言ではない。人類史すべてがそれを証明している…はず)。この危機的な状況をどう打破していくか。著者らのいう「発想の転換」をどう図っていくかという意味で、『ニッポンには対話がない』から得るところは大きかった。

▼一方、電子マネーのような次世代の日本発の技術をどう世界に広めていくか、日本の今後を占う意味で、『電子マネーがわかる』からも得るものは大きかった(結局、私も技術決定論者なのかしら)。

 さて、日本の今後はどうなることやら。

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初夏満開(大分)

▼金曜日来、3日ぶり(大げさ)に出勤したら…駅前の花が満開。春は、菜の花で堪能したが、初夏を感じさせる素晴らしい眺めである。鉄ちゃん系だったら、電車と一緒にこの光景をおさめたいところだが、素人なので勘弁あれ。

初夏満開

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東京出張(新宿方面)

▼所用で東京出張。今回は、新宿(西武新宿線路線)方面。

6月6日(金)
 翌日、午前中の用件のため、前泊で池袋近辺に宿泊することに(西武新宿線ならば、高田馬場乗り換えも合理的かなと思った次第)。ギリギリになって、ネットに接続できなくなり、関係各位にご迷惑をおかけしてしまったり、いくつかトラブルに巻き込まれてしまったが、なんとか最終便で東京着。

6月7日(土)
 おかげさまで充実した時間を過ごすことができた。勉強の機会をいただくと同時に、ネットワークを広げることができた何より。感謝です。

6月8日(日)
 午前中に主たる用件を済ませ、午後は別途打ち合わせをすることに。途中、秋葉原での悲しいニュースを耳にして、黙祷を捧げる。今後の事件解明やマスコミ報道次第だが、アキバ系にすべてを帰結するような単純化した報道をしないで欲しいものだ。昨今の日本を覆う単純化(勝ち組だの、負け組だの)の結末が、行動としては単純な(真相は不可解な)事件に反映しているの可能性だって、否定できないのだから(肯定もできないかもしれないが)。

 帰り道、有楽町で途中下車して、所用のついでにペニンシュラの外見だけ見学する。建物自体(外装)はゴージャスではないが、内装は素晴らしい。

▼帰りの飛行機は機材到着遅れのため、実質30分遅れに。いつもお世話になっている関係者と偶然、お会いし、帰り道、ご一緒させていただく。感謝。

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読書メモ(断片):『ラーニング・アロン 通信教育のメディア学』(eラーニング、ベネッセ、Z会…)

▼『ラーニング・アロン 通信教育のメディア学』を読む。専門書(価格は3400円税別)に近い位置づけのせいか、一般受けしなさlそうなタイトルかもしれない。しかし、、eラーニング全般や通信教育(具体的企業名で言えばベネッセやZ会)に関心がある人にとっては、「必読本」と言ってよい本ではないかと思う。個人的には、年間の読書ベスト5に確実に入る良書で、私自身、大変ためになった。
▼『ラーニング・アロン』というタイトルや著者名を見て、ピンとくる本日記の読者の方には解説は不要だと思うが、「アロン」(孤独)はロバート・パットナムの名著『ボーリング・アロン』(邦題『孤独なボウリング』)に由来する用語である。本書の「はじめに」から本書の概説について引用させていただくと、以下の通り。
 各執筆者は歴史学、メディア学、教育学、社会学、社会心理学、広告学、宗教学など専門を異にするが、通信教育というテーマをめぐって二年間の慎重な議論を続けてきた。各章の内容は、講義録の明治からeラーニングの平成まで、宗教教育から技能資格まで、あるいは受験競争からゆとり学習まで広範な領域に及んでいる。共同研究のはじまりについては、「あとがき」でふれるが、各執筆者は次の一点については関心を等しく共有していた。つまり、通信教育という「孤独な学習」(Learning Alone)が社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)(人と人とのつながりが生み出す一般的信頼性・関係積極性)にどのような影響を及ぼすのか、という問いである。それは本署のタイトル『ラーニング・アロン』が示すように、ロバート・パットナム『ボーリング・アロン』(邦題『孤独なボウリング』柴内康文訳、柏書房、二〇〇六年)に由来する問題系である。
 『ボーリング・アロン』では膨大なデータと絶妙な事例から、パーソナル・メディアが普及した一九七〇年代以降アメリカ社会がどれほど「つながりに乏しい社会」となったが見事にに描き出されている。こうした社会的信頼や市民社会の衰退が問題なのは、それが社会全体の経済的停滞…(略)、に深刻な影響を及ぼしているからである。(pp.9-10. 下線部は引用者による)
  現代社会における個人の「孤独」と、ソーシャル・キャピタル(人と人とのつながりによって得られる成果)との関係は、近年、重要な論点の一つである。本書では明確に描かれている訳ではないが、 通信教育(あるいはeラーニング)に付随する「孤独」と、その対概念ともなる「協調学習」(人と人とのコミュニケーションを通した学習)について考えさせられる問題提起と言えよう。

 ちなみにソーシャル・キャピタルについては、以下の2冊をはじめとして
 『新版 コミュニティソリューション』(金子郁容)や、『哲学する民主主義』(パットナムの前書)などが参考になる。

▼本書の全体はもちろんのこと、上記引用で示された「あとがき」においても重要な指摘がなされている。次のような問題提起は、本書全体を通じて通底する問題意識でありと同時に、極めて意義のある問いだと思う。
(引用者注:共同研究を始めた結果)、ところが始めてみると、意外にもかみ合った議論ができるのである。その理由を考えてみると、思い当たる節が二つある。ひとつは、「メディアが教育をよくする」という命題に対しては全員一致で懐疑的だったことだ(「はじめに」参照)。(略)教育現場のニーズとは関係なく、開発途上の技術や設備が次々と大学に売り込まれ、国から補助金が付く。一八歳人口の減少にともない大学は「冬の時代」を迎え、授業料収入が減少する一方で情報機器関連の設備投資額は増加する。いったんシステムを導入すると維持するための保守費用が発生し、さらに数年毎に最新機種に入れ替えねばならない。誰か、教育機関に対する情報通信技術導入の費用対効果(経済効果と教育効果)を検証してくれないだろうか。(略(pp.318)
 私も当該の件に関する関係者の一人で、常に自問自答しながら(費用対効果を考えながら)、事業を進めている。しかし、なかなか思うような成果が出せず、なかなか悩める日々が続いているのが実情である。

 本書を手に取ったからと言って悩みが解決する訳ではないが、私にとっては自分自身の仕事について見直す非常に良い契機となった。

 というわけでお勧めです。
追伸
 読後のファーストインプレッションに過ぎないが、とりあえずの読書メモ。私の専門分野的観点からすると、若干、定義次第で事実誤認があるような気もしないでもないが(例:定義次第だが、実質的に全課程をインターネットで履修可能にした大学は2003年に開設した他大学ではないか?)、資料的価値も高い。

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