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読書メモ(断片):『哲学個人授業』(鷲田清一・永江朗)

▼鷲田清一先生&永江朗氏の『哲学個人授業 <殺し文句>から入る哲学入門』を読む。古今東西の哲学者の「殺し文句」を元にした、鷲田&永江氏による哲学対談集である。私は『ミーツ・リージョナル』の読者ではない故(京阪神の雑誌だからな)、これまで知らなかったのだが『ミーツ』の連載記事を元にしたものらしい。私的にミーツと言えば、内田樹氏だが、レヴィナスの回では内田先生も登場し、鼎談形式になっていたりするおまけも。

哲学個人授業
 さすが鷲田清一先生だけあって「殺し文句」の選出も見事。

 ウィトゲンシュタインならば、「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」(p.30)

 これは、まさに「殺し文句」だが、それ以外は、直球もあれば、変化球的なものも少なくない。永江氏のコメント(中級者以上を想定した「聞き手」に徹しているような感じ)と併せると、ますます味が出る漢字。たとえば、サルトル、マルクスからは以下が。

 サルトルならば「《純粋な心情》の率直さが人間存在にとって、理想として妥当しうるためには、同一律が人間存在の構成原理を代表するものであってはならないし、人間存在は必然的に、『それがあるところのものであるのではなく、それがあらぬところのものでありうる』のでなければならない。」(p.20)

 マルクスならば、「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの、『巨大な商品の集まり』として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。」(p.60)

 ロラン・バルトからは、鷲田先生らしくこの一文が。

 ロラン・バルトならば、「精神分析が的確にいっているように、エロティックなものは間歇(引用者注:間欠。一定の時間を置いて、物事が起こったりやんだりすること。)である。二つの衣服(パンタロンとセーター(引用者注:パンタロン=ズボン))、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(p.109)

 プラトンであれば、「言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうと、おかまいないし、転々とめぐり歩く。」(P.178)ということになるらしい。

 全体を通してのメッセージは、読んでからのお楽しみ、か。

▼部分を積み重ねても全体像にたどり着くことはないが、「断片」なき全体像も存在しないわけで、「断片」を味わうのに適切な一冊かもしれない。ブックガイドも充実。哲学の入門書は多いが、入門書から原著に入る一歩手前の本といった位置づけになるのかな…。

 ちなみに日本の哲学者からは、西田幾多郎と九鬼周造が紹介されている。中国、インド関係はなし。

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