読書メモ(断片):子どもが忌避される時代
▼「子ども」概念に再考を促す一冊
日本社会において、「なぜ子どもは生まれにくくなったのか」という極めて重要な問いに、答えようとする意欲的論考。
私的には、多角的に述べられているものの、経済的要因や、生命論的要因以外の、環境要因に着目しすぎている嫌いがあるような印象を受けた。とは言え、この手のテーマとしては、バランス良く、重層的に論じられており私的にも得る所は大きかった。
止めどなく多様化し続ける情報テクノロジーは、子どものコミュニケーション状況と。、子ども-大人関係を否応なしに変更させる。変更に次ぐ変更で息つくひまもない大人たちは、新しい情報ツールが開発される度ごと、「子どもが分からない」という嘆きを繰り返さざるを得ない。そして、近未来すら見通せないこんな状況下で、「産み育てる」ことは「リスクに他ならない」と判断し、自らの生涯から「子ども」を追放して「産み育てる」営みから身を遠ざけ、わが子ならぬ「子どもそのもの」に対しても、いわれのない「忌避感情」を増幅させていく。
近代化に伴い、私たちは、日々、「子ども」の住みにくい社会を作り続けてきた。その果てに、一世紀を超える時代の「つけ」が、いま、「子ども」の「減少」、あるいは、彼らの「異変」という形でその姿を現し始めている。そして、私ども自身の心の中にも、「子ども不要感」あるいは「忌避感」を育ててしまった。(p.292)
メディアが作り出している「現実」が、必ずしも「現実」を反映しているとは言えないにも関わらず、「現実」を作り出してしまうという点には、傾聴に値する指摘だと思う。
▼著者は、政治経済的な「対策」ではなく、社会文化的、あるいは「子ども観」の転換とも言える提唱をしている点も、管見、これまで接した論考には欠いていた点で、得るものが多かった。
さて、こうして、この地球に産まれてくるすべての「子ども」を視野に入れたとき、私たちは、次のような問いに捉えられる。すなわち、私たちは、なぜ、彼ら(※引用者注:途上国。とくに南半球)德い満ち満ちた「子ども」を度外視して、身近な「少子化」のみを問題にするのだろうか、と…。次代を託すべき「子ども」は、なぜ、「自分の国の子ども」でなければならないのだろうか。もし、それが、生体に保有される遺伝子の「自己保存能力」に起因するとすれば、ならばなぜ、いまそれが、私たちの周辺の若い男女では起動し得ないのだろうか。仮に、種々の要因、たとえば、大気中の含有物質その他の環境要因によって遺伝子の自己保存能力が衰えたとすれば、あるいは、これまで述べてきたように複数の時代的・環境的要因によって「産み育てる」欲求が失われたとするなら、もはや先進諸国の若い世代に多くを期待することは不可能ではないか。とすれば、「種の保存」を担うべき次世代者を、「自分の国の子ども」に限定することは不可能に近い。私たちは、気づかねばならないのではない、「種の継承」に当たる者は、私たちの国に生を受けた「その国の子ども」でなければならない理由はない、と…。(pp.298-299)
「子ども」とは何なのか、改めて考えさせられたというのが正直な感想である。何なんでしょうね、子どもって。
日本社会において、「なぜ子どもは生まれにくくなったのか」という極めて重要な問いに、答えようとする意欲的論考。
私的には、多角的に述べられているものの、経済的要因や、生命論的要因以外の、環境要因に着目しすぎている嫌いがあるような印象を受けた。とは言え、この手のテーマとしては、バランス良く、重層的に論じられており私的にも得る所は大きかった。
- 本田 和子 (2007). 子どもが忌避される時代?なぜ子どもは生まれにくくなったのか.新曜社
止めどなく多様化し続ける情報テクノロジーは、子どものコミュニケーション状況と。、子ども-大人関係を否応なしに変更させる。変更に次ぐ変更で息つくひまもない大人たちは、新しい情報ツールが開発される度ごと、「子どもが分からない」という嘆きを繰り返さざるを得ない。そして、近未来すら見通せないこんな状況下で、「産み育てる」ことは「リスクに他ならない」と判断し、自らの生涯から「子ども」を追放して「産み育てる」営みから身を遠ざけ、わが子ならぬ「子どもそのもの」に対しても、いわれのない「忌避感情」を増幅させていく。
近代化に伴い、私たちは、日々、「子ども」の住みにくい社会を作り続けてきた。その果てに、一世紀を超える時代の「つけ」が、いま、「子ども」の「減少」、あるいは、彼らの「異変」という形でその姿を現し始めている。そして、私ども自身の心の中にも、「子ども不要感」あるいは「忌避感」を育ててしまった。(p.292)
メディアが作り出している「現実」が、必ずしも「現実」を反映しているとは言えないにも関わらず、「現実」を作り出してしまうという点には、傾聴に値する指摘だと思う。
▼著者は、政治経済的な「対策」ではなく、社会文化的、あるいは「子ども観」の転換とも言える提唱をしている点も、管見、これまで接した論考には欠いていた点で、得るものが多かった。
さて、こうして、この地球に産まれてくるすべての「子ども」を視野に入れたとき、私たちは、次のような問いに捉えられる。すなわち、私たちは、なぜ、彼ら(※引用者注:途上国。とくに南半球)德い満ち満ちた「子ども」を度外視して、身近な「少子化」のみを問題にするのだろうか、と…。次代を託すべき「子ども」は、なぜ、「自分の国の子ども」でなければならないのだろうか。もし、それが、生体に保有される遺伝子の「自己保存能力」に起因するとすれば、ならばなぜ、いまそれが、私たちの周辺の若い男女では起動し得ないのだろうか。仮に、種々の要因、たとえば、大気中の含有物質その他の環境要因によって遺伝子の自己保存能力が衰えたとすれば、あるいは、これまで述べてきたように複数の時代的・環境的要因によって「産み育てる」欲求が失われたとするなら、もはや先進諸国の若い世代に多くを期待することは不可能ではないか。とすれば、「種の保存」を担うべき次世代者を、「自分の国の子ども」に限定することは不可能に近い。私たちは、気づかねばならないのではない、「種の継承」に当たる者は、私たちの国に生を受けた「その国の子ども」でなければならない理由はない、と…。(pp.298-299)
「子ども」とは何なのか、改めて考えさせられたというのが正直な感想である。何なんでしょうね、子どもって。
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