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2007年1月

読書メモ(断片):『情報学的転回』(西垣通)

▼インドについて調べようと、中沢新一氏の本を一通り書棚から取り終わった後、適当にブラウズしている時に『情報学的転回』が目に入る。そうそう西垣通氏も、インド的なものを好んで紹介しようとする論者なのであった(氏は、情報学分野の研究者ではあるが、宗教や文化的な事柄にも造詣が深いようで、私も以前から影響を受けてきた)。
 「現代日本人はどうしたら、IT文明特有の過当競争と拝金主義のくびきから逃れられるのか」(p.34)を発した後に氏が紹介しているのが、インドの4つのヨーガ(修行)である。なんでまた情報化社会に対して、インドのヨーガなの?という気もするが、ヨーガの原義は「心と対象の統合」という意味である、と言う点がポイントである。
  • ラージャ・ヨーガ
    (精神統一。「肉体的な修練によって心を安定した状態に置く(p.35)」こと)。
  • バクティ・ヨーガ
    (信愛。人格神を愛する)
  • カルマ・ヨーガ
    (献身。「活動的に仕事をすることですが、本質は献身、つまり報いをもとめず自分の身を捧げる(p.37)」。ちなみにカルマ=行為、業。
  • ギャーナ・ヨーガ
    (知識。「世界を正しく知ることによって救済、福音」を求める(pp.40-41)。
 ヨーガと言うと、日本では過去にオウム真理教が、これらの教義を「悪用」した影響を簡単に拭いきることはできないし、慎重に読み取る必要があるのは確かである。また、思想的・哲学的背景から、演繹的に人間理解しようとするのは危険でもある。

 しかし、近年のインドの発展と、ヨーガをはじめとするインド思想との関わりについて検討することは、中国の発展と中国の思想や、日本の経済成長と日本的思想(あるいは日本的経営)との関係について検討するのと同じくらい重要なことかもしれない。

▼ギャーナ・ヨーガの紹介の後に続く一文が、印象に残ったので引用しておく。
人間がロボットになる」より
 近ごろ、学問というと実利ばかりが求められる風潮があります。つまり、自分のエゴを伸張していくための手段としての知識ばかりが、スポットライトを浴びているのです。しかし、それは果たして本当の知識、学問なのか。例えば、司法試験を受ける。何度受けても落っこちる。そういう挫折というのは人生の中でいくらでもあるわけです。受験のための法律知識自体は無駄になってしまうでしょう。
 しかし、そうではなく、挫折しても自分を生かしてくれる知、自分が失敗したときに支えてくれるような知というものもあるだろうと思います。私が言いたいのはそれなのです。本当の学問というのはそういうものではないのか。精密な体系などよりも、人間を救う学問です。そういう学問を追究していきたい。それが私の理想です。p.41
 そういえばユングも、マンダラに影響を受けたんだよなぁ、などと思い返してみたり。

 久々にオートポイエーシス系の本でも読み直してみよう。

▼本書は、語りおろし本。2005年の出版ではあるが、内容は先見的。やや内容が薄い気もするが、文系的な「情報学」の捉え方として参考になる。

追伸
 インドには学生時代から行きたいと熱望しつつ、一度も、たどり着けていない。妻は何度も行っているらしいので、新婚旅行をインドにすることもできないし…(注:よく聞かれるのですが、新婚旅行としてはまだ一度も旅行へ行ったことはありません)。来年度あたりは、インドに行く機会を作りたいなぁ。

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シュレッダーとオフィスと私

▼私は、シュレッダーが大好き人間である。

 なぜか。一言で言えば、他人に見られたくない情報(※)が、シュレッダーに粉砕される瞬間に、ある種のエクスタシーを感じてしまうからである。日頃蓄積されたルサンチマンの解消に通じるとも言えるし、人生のはかなさを感じてしまう瞬間とも癒えよう。
(※)他人に見られたくない=宛名住所など。アヤシゲなことを想像しないように。


▼言うまでもないが、プライベート用シュレッダーは既に(2年前)導入済み。最近では、2日に1回くらい、シュレッダーを通す瞬間が、私の数少ない楽しみになっている。

▼知る人ぞ知る世界だが、シュレッダーの最大手は、明光商会という会社の製品。明光商会の名前を取って、「MSシュレッダー」と呼ばれている。ちなみにMSタックスと言えば、某超大手ソフトウェア会社の不定期的税金バージョンアップを指す(某K氏から聞いた造語)。

 なお上記写真のシュレッダーは、明光商会ではなくコクヨ製品である。

▼PowerPointだけはお仕事的都合でバージョンアップするかしら…、と思いつつ、仕様変更で、仕事が増えることになったら嫌だなぁと、警戒する。

 できれば会社ごと、シュレッダーに通してみたいものだ(意味不明)。

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読書メモ(ミニ):『打ちのめされるようなすごい本』(米原万里)

▼実家でゆっくりしたい気持ちに一瞬駆られるが、お仕事的都合もあるので、仙台→福岡経由→大分へ。大分は…、意外と寒いような気がしないでもない。

 仙台→福岡間は、向かい風だった模様で到着が10分遅れで到着。

 ほぼ定時離陸、気象条件の問題に関わらず、わずかな遅れに過剰なクレームをつける客に、クレームを付けたくなってしまった。上空で、そんなことを言われたってねぇー。まあ、私は私で、寛容性がないということなんだけども。

▼移動中、故・米原万里氏の『打ちのめされるようなすごい本』を読む。素晴らしい書評集である。米原万里の批評は、斉藤美奈子氏とかぶる所があると兼ねてから思っていたが、氏もまた斉藤美奈子氏を評価していた点は発見だった。
 月並みな(借用的な)言い方で恐縮だが、「打ちのめされる」書評集である。

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一瞬も一生も

▼友人の結婚式のため大分→福岡経由→仙台へ。

 仙台は、「例年に比べて暖冬」とは聞いていたが、はやり寒い。我が実家ながら、最近の九州(大分)生活で、すっかり耐寒性を失ってしまったようだ。

▼式は午後から。式では、過分にも大役を仰せつかってしまった。自分が同様の立場をお願いした報復互恵によるものだとは思うが、自分がやるとなると、意味もなく緊張しちゃったりして(本人はリラックスしてた?)。

 そう滅多にない機会だし、祝福をもっと形に(声に)できた方が良かったかなぁ…と、いつもながらに「後悔役に立たず」モードであった。

▼振り返れば、氏とは人生の半分以上の付き合いである(と言っても、最近は年に2回会えれば良い方だったが)。自分がどん底の時も、浮かれている時にも、何事もない時も、妙なツッコミを入れられる訳でもなく、かと言って、話を聞き流される訳でもなく、何もなかったように話が出来た希有な関係であった(たぶん)。

 もっとも、これは私の思いこみに過ぎない訳ではあるが、思いこみの強さも共通しているような気がする。あるいは、お互いに「忘却力」が強かっただけかも。

 私は、何かとひねくれた高校生活を送っていたが、部活にしても、クラスにしても、人間関係には恵まれていたなぁ…などと、としみじみ思ってみたりする今日この頃。

▼式のクライマックスは、打ち上げ花火だった。
 花火は、一瞬と無限を同時に感じさせるところが美しい、と思う。

 「一瞬も 一生も 美しく」(by 資生堂)。
 
 「幸せ」とは何かを問い、人にその問いの重要性を伝えられる「幸せ」を享受したい。

 人の、幸せそうな(デレデレした)姿をかいま見れるのも幸せである。
 何はともあれ、おめでとうございます>関係各位

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情報収集衛星(の破壊技術)

▼朝日新聞「時々刻々」の話題。中国が弾道ミサイルを用いて、自国の衛星を破壊するという実験に成功したニュースを読む。

 「宇宙を通しての平和」(by 日本宇宙少年団)を信条とする私としては(※初めて書いたネタだな)、警戒すべき出来事と言えよう。何せ、この技術をもってすれば、敵国(アメリカとかアメリカ)の偵察衛星を、「破壊」することが可能になるからである。

 もちろん、私も米国の偵察情報収集衛星を全面的に肯定する訳ではない(※意外と知られていないが、日本も偵察情報収集衛星を保有している)。また、中国のスポークスパーソンが主張するように、「中国は宇宙の平和利用を主張し、宇宙の軍拡競争に加わることはない」のかもしれない(朝日新聞2007年1月26日記事)。

 しかし、問題は破壊の実施日とされるのが1月12日なのに対して、公表は23日であるという点。また、実験後も、中国の主要メディアでは報道されていなかったとのこと。あまりに「不透明」である。しかも、衛星のゴミを巻き散らかしている訳だし(※これも意外と知られていないらしいが、宇宙におけるゴミ問題は結構、切実である)。

 この手の話題について、私は専門外だし、日記のネタにするべき領域ではないが、多少、危機感を持っておかないと、宇宙戦略的に芳しくない気がする。

▼大学時代「航空宇宙法」(だっけ?)なる講義を受けていたことを、ふと思い出す。

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顧客の視点

▼仕事上、「顧客の視点に立って考えよ(う)」という台詞を、セブンイレブンの鈴木氏ばりに連呼することが多い(弊社比)。しかし、これを実際に行動に移すのは難しい。意識的には行動できても、無意識的に行動できるようになるのは、ますます難しい。
 例えば、「レディーファースト」については、私的にも、その重要性は分かっているつもりである。しかし、ふとした瞬間、自分が先走っている事も少なくなかったりして(要するに、レディファースト=習慣・文化のレベルにまで私は達していないらしい)。

▼今日の失敗は、教室でグループ活動を行おうとして示したグループの配置図。

 以前のフォーマットを忘れ、図1のように「話し手視点」の配置をしてしまった。
 すぐに過ちに気づいたのだが、うーむ。

 言っていることと、やっていることが違う、と我ながら恥ずかしい思いである。
 (ちなみに、以前作成していたフォーマットも図1の視点だった)

図1 話し手の視点 図2 聞き手の視点

 というわけで、自戒を込めて図を示しておく。PowerPointで作成したらしい。

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円安進行

▼円高になるなると言われつつ、円安進行が続く今日この頃。

 90円台だった頃、旅の記念に買ったユーロはもはや157円。
 1万円札のつもりが、1.5倍以上の価値になってしまった。

 昨年のいつだったか投資目的で2000円分買った(※2000円では投資とは言いません)ポンドは、知らぬ間に2400円。2万円分買っていたら2万4千円。20万円分買っていたら、24万円。200万円分買っていたら240万円。2000万円分…以下、略。空しい仮定。

 というわけで、2000円分(当時)のポンドを円に変えようか否かで迷う今日この頃。
 ユーロは今度、旅行へ行く時に使おうと決心中。

▼貨幣価値云々について書こうと思ったが、時間がかかりそうなので明日以降。

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コメント掲載の遅れのお詫び

▼本日記(ブログ)には、「コメント」機能が付いております。しかし、いわゆる「迷惑コメント」があまりに多く(←言い訳)、この1ヶ月間、まともに機能しておりませんでした。せっかくコメントいただいていたのに、申し訳ありません。遅ればせながら、確認できた分について掲載させていただきました(もしかして、掲載は過去にもしてたかも)。

 本日、一定の対策もいたしました。今後は、掲載漏れが生じないよう、十分に留意して参りたいと思います。そろそろデザイン(色)くらい変えた方がいい、というご指摘も多数いただいておりますので、新調も検討中です(検討で終わったら嫌だな)。

 コメントに対するコメントも、今後、できるだけ迅速にお返ししたいと思います。
 どうぞ今後ともよろしくお願いします&皆さま、いつもありがとうございます。

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休日らしい休日

▼久々にパークプレイス大分へお出かけ。市街では手に入らないが、通販で買うとなると送料がアホらしい、物品をいくつか購入。往復の交通費(バス)を考えると、それなりの出費になってしまっているのが難点だが、まあよしとしよう。

 &市街のトキハで開催中の沖縄物産展にて、沖縄そばとタコライスを食す。沖縄野菜を妻が購入し、泡盛を私は購入。泡盛ストレートはさすがに効く。

 アルコール度数と価格を割ったり思わず損得勘定してしまうむなしい消費者>自分

 その他、本を読んだり、ビデオを見たり、珍しく休日らしい休日だった。

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あれあれ詐欺とあるある詐欺

▼この歳になってくると、明らかな記憶力の減退を感じずにはいられない。

 かつて子ども心的には(私も以前は子どもだった)、夫婦の会話(=両親の会話)には、何故に「あれ」という指示語が多く含まれるのか、疑問でならなかった。「最近の事件、あれねー」とか、「○×さんは、選挙であれして」とか、形容詞でも動詞でも、「あれ」で会話が通じるのを聞く度に、「あーはなるまい」と心に誓っていた…はずだった。

 しかし最近、私も、かなりの頻度で「あれ」という言葉を使ってしまっているらしい。もはや「あれだよ、あれ」の連呼で、記憶ねつ造詐欺が成立するのではないかと思う程だ。

 シャクターが「あれ」について書いた本なんだっけ、と思っても出てこなかったしな。
 いずれ、「あるある」とか言う番組(私も、「菌の粒」とかいうネタで、日記に書いてしまった)も、「納豆で詐欺したアレさ~」と代名詞的に呼ばれることになるのだろうか。

▼追伸
 以前もネタにしたことがあるが、指示語というのは謎の多い世界である。
 2002年12月の日記に、似たようなネタを書いていたので引用しておく。
 銀行ATMで忘れ物をした「おばさん」に対して、間違って「おねーさん、忘れ物」と呼びかけてしまった。どう考えても40近い。おばさんである。

 しかしながら、その「おばさん」はにこやかに忘れ物を取りに向かい、私に礼をしてくれたのであった。実に謎である。なぜだろう。何故に「おねーさん」という指示語で、彼女は自己認識をすることができたのであろうか。

 考えてみれば、なぜ言葉が「それ」を示しうるのかは、永遠の謎である。子どもに言葉を教える時を考えてみよう。子どもに「あれはネコちゃんですよ」と話しかけたとする。なぜ子どもは「あれ」=「ネコ」と理解できるのか

 もしかしたら「ネコ」という言葉がネコの部分(しっぽ)を示しているかもしれないし、色を示しているかもしれないし、大きさを示しているかもしれない。しかし、それらの可能性を排して「あれ=ネコちゃん」と伝わるのである。

 これらは認知心理学的には「事物全体制約」、「類似制約」「相互排他性」などという言葉で説明されているらしい(Markmanなど,1988)。
 くだらないことをネタにしているが、この手の事柄は哲学的にはクワイン。
 概説書としては、『人が学ぶということ』が最適か。
 さて、記憶力を良くするために魚でも食べようかしら。

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読書メモ(断片):『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』

▼ちょっと前の読書メモでも触れた『完璧な赤』に続き、「赤」の話題。
 もっとも、『完璧な赤』は、「赤」色の染料を巡る中世ヨーロッパの歴史的な物語だったのに対して、『赤を見る』は、意識の起源や知覚・感覚心理学的な話題。

 何故に、人は「赤」を「赤」として認識することができるのか。

 意識は、何故に、意識として機能しているのか(意識はなぜ重要なのか)。

 古くて新しい問題である。

▼結論から先に述べるのは恐縮だが、結論は「驚くべきというか、進化心理学的な着地で、「分かるようで、分からない」といった読後感が残ってしまった。

 一言でまとめれば次の部分か。
 本書で目指したのは、冒頭でも述べたように、なぜ意識が重要なのかを解き明かすことだった。今や新たな答えが波間にその姿を現し、おずおずと陸に上がってきた。意識が重要なのは、重要であることがその機能だからだ。意識は、追い求めるに値する人生を持った自己を、人間の内に作り出すよう設計されているのだ。(p.145)(下線は引用のまま)
 「訳者あとがき」には、次のように示されている。
 本書の目玉は、著書の提示する、コロンブスの卵のような斬新な意識の仮説、すなわち「意識が重要なのは、重要であることがその機能だからだ」という主張だ。もちろんそれに対する賛否は、ひいき目に見ても分かれるだろう(実際、著者は自分が一種の異端者であることを潔く認めている-ただし、懐疑的な人に筋の通った反論はきっちり述べられると考えているし、日の目は見なかったものの、原書に納得しなかった読者に対するあとがきの原稿さえ用意していた)が、少くなくても、定説や常識、見かけを鵜呑みにせずに疑問を呈し、卓越な発想や手法で緻密に論理的な考察を重ねる著者の能力は、それだけでも十分評価に値する。(p.170)
 「BOOK」データベース(リンク先、amazonのページから読める)では次の通り。
(略)問いを詰めていった先に著者が見出した意識の存在理由をめぐる結論は、「コロンブスの卵」的なものであった。意識は、この人生を生きることが大切で有意義なものであると思わせるべく存在し(だからこそ「他者の自己」を尊重する気持ちも生じ)、そのために不可解な性質を持たねばならなかった、と。)
 多くの本がそうであるが、結論だけ読んでも何にもならない。
 そこに至る、仮説や論証のおもしろさに価値がある、ということか。
 進化心理学系の本のおもしろさっていうのは、やはりこの点につきるのかな。

追伸
 ちなみに同じ著者の『喪失と獲得』も、進化心理学系の本として良い。
 紀伊国屋は、この手のテーマがお好きなのかしら。

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読書メモ(断片):『ニコマコス流恋愛コミュニケーション』(大平健)

▼昨日に引き続き、恋愛ネタと日常的な話題を重ねてみよう。私は、お仕事上、自分の顧客(遠回しな言い方ですまぬ)の皆さんが作成した事物に対して何らかの批評を加えたり、批判的に検討を行う場合、次のような前置きを置くことが多い。
取り上げた個人のことを非難しているのではありません。その人が作成したものがより良いものになるように、一般的なコメントをしています。
 おそらく上記が典型であろう。私は気が弱く(たぶん)、遠慮がちなコメントしかできないのだが、それでも、慎重に断っておかないと「個人攻撃」と勝手に勘違いする人も出てきたりするからだ。個人と、それと関係する事象(例えば、作成されたもの)を「分ける」という作業は、物事を円滑に進めていく上ではおそらく重要である。

 しかし、恋愛的コミュニケーションにおいては、この「分ける」という思考は、なかなか難しい。なぜなら、大平先生の言葉を借りれば、恋愛コミュニケーションにおいては「どんな話も二人のこと」、すなわち一体的だからである。

 『ニコマコス流恋愛コミュニケーション』で取り上げられている事例を紹介しよう。
レベル2 どんな話も二人のことと考える(p.118)

 フリーランスの女性広告デザイナー(31歳)は、パーティで知り合って付き合いはじめた彼と、別れようかなと考えています。彼は29歳。とてもやさしい人なのですが、先日、彼女が希望して出かけたイタリアン・レストランで、ひと口食べたとたん、
 「うわぁ、ここまでぱさぱさにしたんじゃ、旬のスズキもなにもあったんもんじゃないねぇ。なにが炭火焼きだよ」
 彼が、そのレストランを選んだ彼女を非難したわけではありません。彼女に推薦した友人を軽蔑したわけでもありません。しかし、彼女は、なんだか、食事がまずかったのは自分のせいだと言われているような気がしてならなかったのでした。

 ダンシたるもの(※原文ママ)、女性の前だと自分のくわしいこと、得意なことをいばってしまうものです。それ自体は、クジャクの雄が美しい羽をひろげるようなもので、けっして悪いことではないのですが、用心して行わないと、この例のように、相手を威嚇することになってしまいます。

 恋愛コミュニケーションでは、どんな話も二人のことになってしまいがちなので、料理をけなせば、そのレストランを選んだ彼女を非難することになるのです。(pp.128-129)
 「分ける」ことは重要だが、その原点は「分けられない」ことにあると考えておく必要はありそうだ。上記の事例の場合、別事象の問題であると「分けて」みても、後味の悪さは残ってしまいそうだし。というわけで、「分ける」ことの難しさを実感してみたり。

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読書メモ(断片):恋愛における戦略ないしは戦略論の応用(『競争戦略論)』)

▼先日、某コンサルティングの後輩と、「コイバナ(恋愛談義)」で盛り上がっていた時の出来事である(※出張へ行って雑談してくるとは…とお叱りの言葉をいただきそうだが、本質は雑談に宿る=実存は本質に先立つものである)。

 私的には、ハゲタカみたいな会社に勤めていても、悩むことは悩むのねぇ、などと感心してしまった(※親しい後輩なので、この程度の表記は許して欲しい)。しかし、私にとっての最大の謎は、コンサルティング会社に勤めているのにくせに&様々フレームを持っているのに、何故に恋愛を「戦略」で捉えようとしないのか?という点にあった。

 氏に言わせると、そういう発想は、おざわさんの業界特有(?)ではないか、という指摘もあった。確かに私は、特殊な位置にいるのかもしれないが、一般論としても、戦略論を学ぶ時に、企業の話だけを聞いている訳ではないはずだろう。

 たとえば(こういう引用をすると誤解を招くような気もするが)、戦略論のテキストの名著である『競争戦略論』には以下のような非常に優れた説明がある。
  • 青島 矢一, 加藤 俊彦(2003). 競争戦略論. 東洋経済新報社
 彼女や彼氏が欲しいと思えば、女性もしくは男性に知り合いやすい場所に出かけるし(注:ポジショニング・アプローチ)、他人とは異なった自分を磨こうとする(注:資源アプローチ)。ライバルがいれば駆け引きをし、場合によっては協力もする(注:ゲーム・アプローチ)。また、周りの人から情報を得たり学習したりする(注:学習アプローチ)。(略)

 つまり、戦略論を学習することの意味は、私たちがふだん何気なく行っている行動を、より体系的に理解して、よりきちんと行うようになることにある。企業が戦略的に行動するというのは、やるべきことをきちんとやるということである。そのためにはやるべきことの全体像を把握する必要がある。戦略論などというと大仰なように聞こえるかもしれないが、話自体は単純である。

 ただし、より重要な問題は、この単純なように見える考え方を、実際の局面で全体的な見取り図の下で使いこなせるのかということにある。一見単純そうな複数の枠組みを使って、自分たちが置かれた状況を多面的に読み解く。このことは意外と難しい。
(朱字の注意書き、太字は引用者による)
 このような「喩え」(カタカナがお好きな方はメタファーでも良い)は戦略論における「ポジショニング・アプローチ」や「資源アプローチ」を学ぶのに格好の例である。

 しかも、太字で示した部分は、「戦略論」に限ったことではないはずだ。優れた理論であればあるほど、私たちが「何気なく行っていること」を、より体系的に、またより深く理解させてくれるものだ(※レヴィンの言葉を借りれば「優れた理論ほど実践的なものはない」)。確かに仕事で使っているフレーム(考え方)を、日常にもってくる(転移させる)のは確かに容易ではないが、せっかくのフレームだもの。使いましょう。

 というわけで、氏の幸運を願うばかりである。

追伸
 そういいつつも、代替可能性だの代替不可能性だの抽象的な論を語っていた時に、「ポジショニング」を思い返させてくれたのは、氏のおかげなのだが。やっぱり、自分にとって身近な話というのは、冷静に考えにくいものなのかも。

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読書メモ(ミニ):『醜い日本の私』(中島 義道)

▼やるべきことは多いのだが(仕事がまだ残っている)、久々のOFFデー。
 大分のジュンク堂でいくつか物色。

 昨年は気づかなかったのだが、中島義道氏の『醜い日本の私』は思わず買ってしまった。最近、中島氏の本からはやや遠ざかっていたのだが、久々のヒット。
 考えてみれば、私が大学時代、読書にはまりつつあった当初、出会ったのが中島氏の本である。本書の出発点ともなっている『うるさい日本の私』を読んだ時は、「テツガクシャって、こんなことを考えているんだー」などと、とてもおもしろがっていたような気がする(哲学者像としては、やや偏りはあるが)。 『「対話」のない社会』も、「対話」ということの重要性を考えるとてもよいキッカケになっていたし。

 本書の内容は、一部、新潮社の『考える人』に連載されていたが、私の記憶が確かならば、だいぶ加筆されているような気がする(最近、そういえば見てないなぁ)。

 本書の帯に踊らせる訳ではないが、どこかの総理大臣の「美しい国」という理念と、現実がいかにかけ離れている(一般には理解不能か)を知る意味でも良書。

 関連書を以下に挙げておく。 ▼もう一冊は、『集中講義!日本の現代思想』が面白そうだったので、とりあえず購入。中沢新一氏に関連する前後しか読んでいないが、確かに、日本の現代思想の変遷を整理した本って、ありそうでなかったような気がする。
 最近、哲学・思想関係の本にあまり目を通せていなかったので、今年は課題かな。

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菌の粒

      ▼某番組で取り上げられたおかげで、納豆の売り切れが続出…という話。なんだかよく分からないが、納豆を定期的に食している私としては迷惑な話である(もっとも、大分では売れ切れという事態には至っていないらしいが)。

       ちょうど正月太りが気になる季節だし、納豆はもともと健康食として知られているし(豆腐にせよ、豆乳にせよ)、確かにテレビ番組としてはうまい戦略である。本当に根拠のある話ならば、何故にこれまで「発見」されていなかったのか謎である。

      ▼そもそも、ヨーグルトや納豆などの菌類が多く含まれている食品は、整腸効果が高いわけで、その結果、「痩せる」というのは確かにありそうな話ではある。しかし、うーむ。だったら、カゴメの「ラブレ」等でも同じ効果があるのではないかしら。

      ※食事中の皆さま(いないか)には申し訳ないが、私的にカゴメの「ラブレ」は、効き過ぎて困る飲料である。便秘気味の方には、オススメしたい。

      
           
  • http://www.kagome.co.jp/labre/       

       って、これだって個人差があるよねぇ。

      追伸
       「金の粒」(by mizkan)って、もしかして「菌の粒」という意味も含まれていたりして。

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読書メモ(断片):『ロボット絶望工場』(鎌田慧)

▼何かで新世代ロボットの記事を読んで、ふと思い返したように『ロボット絶望工場』を読み直す。「絶望工場」というフレーズでピンと来られる方も多いかと思うが、かの『自動車絶望工場』の鎌田慧氏のルポタージュの一つである。
 今時、ロボットが人間を疎外する(ロボットが導入されることで、人間が不要になる)という考え方は「古くさい」というか、当たり前すぎて、敢えて「見て見ぬふりをせざるを得ない」事柄一つかもしれないが、忘れてはならない問題であろう。

 1983年(文庫は1988年)に鎌田氏は、ロボット時代について次のように記している。
 これらの工場では、ロボットが入る前から、労働者の動きは、すでにロボット的であった。と同時に、下請工場の生産も、親会社のメインコンベアの動きに支配されていた。トヨタでは、それを「同調化」と呼んでいるのだが、工場内の精算は明確なひとつの意志に支配される態勢が完了し、そのあとにロボットがやってきたのである。
 つまり、ロボットに転換可能な単純労働が常態化していたからこそ、ロボットに労働者が駆逐されるようになったのである。(p.100)
 今時の世論の風潮はおそらく、「ロボットに労働者が駆逐される」というよりは、「ロボットが労働者を単純労働から救ってくれる」という方向だろう。確かに、後者の方が、より「前向き」だし、ニュース的な価値も高い。しかし、前者の動きも見逃せない。

 私の仕事は(抽象的な言い回しをすれば)、後者を推進する立場ではある。しかし、表裏一体というか、紙一重で前者にもなってしまう。「代替可能性」(低コスト化、効率化)を追求しつつ、一方で「代替不可能」であるためには、何をすれば良いのか。

 代替不可能にするために、情報を独占したり、敢えて複雑化をさせるという方向はたやすいが(意識的、無意識的に人は、こちらの道を選ぶことが多い)、このようなことを続けると、結果として全体に無駄が生じるはずである。

 はてどうしたら良いものか。なーんて結論の出ないことを考えてみたり。

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重曹

先月の話。妻が「重曹」を使った掃除が良いと言うので、調べてみる。重曹って、最近よく聞く名前だけどなぁと思ってググってみたら…。

 なーんてことはない「炭酸水素ナトリウム」(NaHCO3)のことを指すらしい(無知)。

 NaHCO3と聞いた方がピント来るあたり、さすが元インチキ理系である>自分。

 重曹の性質については、こちらのページが比較的詳しいかもしれない(他にもあるかも)。

▼重曹を使ったお掃除技本も多数出ているようだが、図書館等で調べた結果(妻が言うには)、↓の本が、内容も充実しコストパフォーマンスも高いようである。
 というわけで、早速入手。ふーん、いろいろできるのねぇ。

 ふくらし粉にもなり、消臭剤(防臭剤)にもなり、研磨剤にもなり…、確かに、魔法の粉(不思議な粉)である。お酢を併用すると、お掃除的にはさらに活用できる模様。

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ベルリン・フィル八重奏団&上原彩子@iichikoグランシアタ

▼「ベルリン・フィル 八重奏団&上原彩子」を聞きに、iichiko グランシアタへ妻とお出かけ。実を言うと、コンサートの類に出かけるのは初めて。

 しかも、大分に移り住んで10ヶ月目となるが、初めてのiichikoグランシアタ経験だったりする(※iichikoは、あの「いいちこ」である。元々は、「大分県立総合文化センター」という名前だったらしいが、ネーミングライツでiichiko の名前が付いた。私はてっきり、iichikoが大分で、サントリーホールに匹敵するものを建てていたのだと思っていたのだが…。恐るべしネーミングライツ。隣が、全日空やNHKだから誤解したか←言い訳)。
  • http://www.emo.or.jp/gran/
 評判は聞いていたが、iichiko グランシアタは、他県の同様の施設と比べてもかなり充実&音響も抜群だった。2階席等含めると、2000席近くあるらしい。

 曲目は、以下の通り。自分の備忘録的に書き残しておく。
モーツァルト:ホルン五重奏曲変ホ長調
シューベルト:ピアノ五重奏曲イ長調「ます」
休憩
ベートーヴェン:七重奏曲変ホ長調
J.シュトラウス:美しく青きドナウ (アンコール)
 会場の雰囲気も良く、クラシック入門者にもやさしい構成で、久々の管弦楽を堪能できた。MP3に聞き慣れると、耳がおバカになってしまいそうな危惧を覚えてみたり。クラシックを聴くとなると、スピーカーもいいものが欲しくなってしまう。

追伸
 行く前の話。
 予習をしておこうと、シューベルト「ます」を自分のiTunesから検索したら…、

 うらみます(中島みゆき)

 がヒット。我が家では、クリスマスソングとして(飽きた頃に)活躍した曲。
 もう少しクラシックも取り込んでおこう。

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読書メモ(ミニ):『完璧な赤―「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語』

▼新年の読書。図書館で偶然、手に取った本だが『完璧な赤』に魅惑される。一瞬、フィクションと思わせる装丁の本だったが、実はノンフィクション。中世以降のヨーロッパで繰り広げられた、欲望の色「赤」を巡る攻防に、久々に刺激を受けた。       

       対比的ではあるが(赤VS青、過去VS現代)、『青いバラ』を読み返したくなる内容。       

           
  • 最相 葉月(2004)(文庫). 青いバラ. 新潮社       
      

 今年は(も)、新年から本との出会いに恵まれ、順調な滑り出しである。たぶん。

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2007年を予測する

▼年末年始の移動中の話。年末年始恒例ではあるが、『東洋経済』『ダイヤモンド』『ニューズウィーク 』『エコノミスト』など主要経済誌に目を通す。

       いずれも2007年や近未来のの「予測」関係の記事。本年について言えばエコノミストの見解は、ある程度一致している部分もあるし、シナリオ的には「想定外」の事態はできれば生じて欲しくない。しかし、予測と現実は常に乖離しがちなもの。

       うーむ。今年はどんな1年になるのだろうなぁ。本来的には、20年後、30年後も、視野に入れていきたいところだが、これまた、なかなか難しい。何を考えてみても、アラン・ケイの名言「未来を予想する最善の方法は、未来を自ら創造することである」という結論に達せざるを得ない気もする。さて、どんな未来を創造(想像)できるかな。

      

追伸
      
 私的には、30年後から今日の日を振り返る、という発想も悪くないと思っている。唐突な引用ではあるが、岡村孝子の「愛を急がないで」という歌には、「いつか遠い未来で今日を振り返る時       二人微笑みかわせるといいね」という節がある。微笑みかわしながら、振り返ることができる「現在」、あるいは「瞬間」ほど愛おしいものはない、と思う。

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おせち

▼年末年始、何をやっていたかというと…(1)妻の実家でお手伝い(ただし役立たず)。(2)昼から飲んだくれ。(3)実家に帰省せずに、某所で食おせち写真い道楽、の以上3点だろうか。移動距離は長かったが、久々にまったり、のんびり過ごした正月だったかもしれない。

 もっとも今回は、実家に無線LAN装置を持って行ったり(Air Macは小さくて実に便利である)、ちょこちょこ仕事をしてしまったり、相変わらずだった面もあるが。

▼写真は、Nさん作によるおせちの詰め合わせ。あまりにきれいだったので&今後のために撮影。ちなみに「なます」には私も関わっていたりして(切っただけ)。

▼実際は、これ以外に2段分あり。実質的に一人で作り上げるとは、凄腕だよなぁ。

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DJ OZAWA

▼地と天とか、上流とか下流とか、上げるとか下げるとか、垂直構造的メタファーで物事を喩えることは少なくない。上がれば下がある。下があれば上がある。「上を向いて歩こう」と「川の流れのように」も考えてみれば対の関係である。

 物価も株価も、人の心(気分)も同様。トフラー的な言い回しを借りれば、変わらないのは物事は「変わる」という真実である。だからさー、常に「あげあげ」なんてことは世の中にないわけよ。あ、「常に」あげあげとは言ってなかったか。

というわけで、上げたり、下げたりの1年をどう過ごすか考えてみたり。
      
追伸

 会議は踊る。裸で踊る。されど、進まず。

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新年のごあいさつ

▼無事、2007年を迎えることができました。新年早々、過去を振り返るのも難ですが、昨年のこの時期、異動をするか否か迷っていたことを思い出します(もちろんこれは自分中心的な見方で異動先での決定権は私になかったわけですが)。
昨年夏香港にて


 昨年も、相変わらず、たくさんの皆さまにご心配やご迷惑をおかけしてきましたが、おかげさまで着実な毎日を過ごすことができました。改めて、お礼を申し上げます(このに書くのも妙ですが)。

 成果を目に見える「かたち」にするまでには、まだ今しばらく時間がかかるとは思いますし、今後もたくさんの皆さまにご心配やご迷惑をおかけすることがあるかもしれません。しかし、これまでの恩に報いることができるよう、また、新たな種を育てていけるよう、私なりに精一杯、精進して参りたいと思います。

 私が言うまでもないことですが、ぐっと視点を引けば地球温暖化が気がかりなところですし、世界情勢も厳しい状況が続いています(もっとも、厳しくない情勢というのも想像が難しいような気もしますが)。課題を挙げればキリがありませんし、このような中、何をすべきか、何ができるのかは、とても難しい問題です。。しかし、そうであっても未来の世代に負債を残さないために何ができるのか、考えていきたいところです。

 どうぞ本年もよろしくお願いします。

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