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2006年11月

11月もおしまい

11月の雑感
 今月もあっと言う間だったなぁ…。今月も先月に引き続きずいぶん仕事をした気もするが、進んだ実感はほぼ限りなくゼロに近いブルー。

 もっとも、先月は本を読む時間もほとんどなかったが今月はある程度余裕があったのが良かった(逆に言うと、本を読むことで自分を保っていたのかも)。

11月の反省点
 今月は出張が多い月だった。月初めには研究発表的お仕事で大阪(高槻等)に2泊3日。その次は、視察的お仕事で佐賀経由・横浜に2泊3日。研修的お仕事の都合で京都で2泊3日。さらに、東京に1泊2日×2。来月初めには、熊本出張の予定。冷静に振り返って、仕事をこなしても一向に進んだ感じがしないのは、単純に出張で時間を取られているからかもしれない。

▼今月の本などのまとめは改めて。

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読書メモ(断片):ユビキタスでつくる情報社会基盤(坂村健)の続き

▼『ユビキタスでつくる情報社会基盤』の中に収録されていた、門脇俊介氏の「見えないことの存在論とテクノロジー」(pp.213-224)に、気になる一文があったので、メモしておく。
 テクノロジーによって、何か大事なものが消滅してしまうということが問題なのではなく、現代のテクノロジーもまた、テクノロジーの内部に取り込んで制御することが不可能な、背景としての世界を必要としているということこそ、ハイデガーの主張したかったことなのではないだろうか。現代社会を脅かしている最大の危機は、私たちの科学や政治の思想が、この必要性を忘却させるように強いていることではないか。
 (略)
 ワイザーや坂村という人たちは、これまでは十分に意識されていなかった、周縁をデザインしようと試みることで、社会的要素を明示化して取り出したうえで操作しようとする人々とは、まったく異なった道を歩み始めているからである。それは結局、電子情報のやりとりだけに限られる意味ではあれ、背景としての世界をデザインしようとする野心であり、人間自らが、その本来的な背景(社会、文化、歴史)を作りだそうとする、テクノロジーの新段階を歩み進めつつあるということである。
(p.222)(太字は引用者による)
  ユビキタスコンピューティングの概念は、かつての「ニューメディア」や「情報社会」論とは違うということを思想的なレベルで指摘したいのだと思うが、正直言ってよく分からない(そもそも、分からないという意味も含む)。ハイデガー的な「背景としての世界」という言葉のうち、「世界」は具体的には何を指そうとしているのだろうか。ラカン「対象A」のようなイメージで捉えるべきか、あるいは、多層的な世界観なのか。うーむ。

 今一度、『ノイマンの夢・近代の欲望』を読み直すべきなのかな。  積ん読になってしまっている↓も読み直す(今一度、読み始める)べきかしら。

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読書メモ(断片):QWERTYのナゾ(進化するネットワーキング)

▼所用で、QWERTYキーボード(パソコンや電子辞書等の標準的キーボードの名称)について下調べ。何故に、キーボードは今のような配列になったのか?知る人ぞ知るネタで、私も、よく小ネタ的な話題で使っていたのだが、今回久々に知識をリフレッシュした。例によって備忘録的で恐縮だが、メモをしておこう。

▼以下、本書の「QWERTYのナゾ」からの抜粋。本書によれば、QWERTYキーボードの歴史は以下の通りである。以下、一部を抜粋・編集を加え、箇条書きとした(pp.43-45の抜粋)。なお、参照元になっているのはDavid,       P. (1985). "CLIO and the Ecinomics of QWERTY," American Economic       Review: Papers and Proceeding, Vol.75, No.2.

●1873年にショールズ(Christopher Latham Sholes)が開発。

●当時のタイプライターは早打ちをすると隣り合わせの棒がこんがらがって、ジャム(注:タイプライターの実物を見たことがない人はイメージしにくいと思うが、二つのキーが重なってしまうこと)を起こすという欠陥があった。

●その後、ショールズは6年間を費やしてジャムを起こさないキーボードの並び替えを行った→その成果がQWERTYキーボード

 ここで重要なのは、QWERTYキーボードは、「ジャムを起こさない」という目的を達成するためにデザインされたもので(打鍵スピードを落とすことを目的としている)、効果的に入力するという点には主眼が置かれていない点にある。

 この問題に対処すべく、次のような動きがあったそうだ。

●この問題を解決すべく、ワシントン大学のドボラク(August Dvorak)は、DSK(Dvorak Simplified Keyboard)を開発。使用頻度の高い(全体の70%)AOEUIDHTNSを集中させ、残りの22%を上部の列、8%を下部の列に配列。打鍵速度が高まることを実験で検証。(pp.44-45.から抜粋)

 しかし、である。QWERTYキーボードは生き残り、ドボラクのDSKは淘汰された。便利で、効率的だからと言って、必ずしもそれが生き残る訳ではないらしい。
      
▼著者が準拠している、David(1985)の研究によれば、3点の教訓が挙げられるらしい。第一は、「偶然」の影響。第二は、「固定化」と呼ばれる現象。第三は、「経路依存性」である。著者の引用をそのまま引いておこう。

 Daivid(1985)は、このケーススタディの教訓として3点を挙げる。第1は「歴史的な小さな事件あるいは偶然(historical small event or accident)」が決定的ともいえる影響を与えることがあること。これは裏から見れば、市場の選択が常に合理的とはいえず偶然の要素が残ることを意味するので、市場原理を第一義とする経済学にとって、基本的な問いを投げかけられたことになる。第2は「固定化(lock-in)」、すなわち偶然にすぎないものが不動のものになること。第3は「経路依存性(path-dependence)」によって、それ以後は道が決まってしまい別の方法は選べないことである。ちなみに、この論文の表題の現代のClioとは、ギリシャ神話の「歴史の女神」である。(太字は引用者による)(p.46)

 この手の話題でよく使われるのは、かつてのベータ式のビデオと、VHS式の競争において、VHSが生き残ったという事実である(性能としてはベータ式の方が優れていたというのが一般的な見解である)。あるいは、マイクロソフトとアップルの競争なども、同じような文脈で語られることも少なくない。要するに、良いものだからと言って必ずしも「生き残る」とは言えないのである。

▼個人的な話で恐縮だが、ある程度、長いことパソコンに接している人間にとっては、キーボード一つとっても、今の規格は自明ではない。私は、高校時代にFM-TOWNSという富士通の独自規格のパソコンを使っていたこともあって、「親指シフト」と呼ばれる独自の日本語入力システムも使えたりする(おそらく指が覚えているはず)。

 今となっては、「キーボードはキーボードじゃない」と言われてしまえば、それで終わりで、それ以前を知ってもらうためには、歴史を振り返る必要がある。世の中の多様性を理解するためにも、歴史を学ぶ必要もあるのかもしれない。

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任天堂の株VS任天堂DS

▼私は、小学校6年生の時だか、詳細は知らぬが、祖父(その後、まもなく他界)に「任天堂の株」を買うことを勧めるような発言をして、こっぴどく怒られたという「伝説」がある。今からさかのぼること数十年前。日本がバブル経済で浮かれる前の話である(ちなみに、私にとってのバブル時代は、東京ラブストーリーと、ジュリアナ東京と、1000円のカップラーメンと、その後読んだ岡崎京子の漫画で構成されている)。

 何故そのようなことを言ったのか、正直、自分でも分からない。おそらくは、祖父が短波ラジオで株式のニュースをよく聞いていたことの影響だと思うが(読売ジャイアンツの中継もよく聞いていたが)、ファミコンを親に買ってもらえなかったことに対する腹いせ的な発言だったのかもしれない(でも、ドンキーコングは買ってもらえた)。

 いずれにせよあの時、怒られていなければ、私は道を誤っていたかもしれない(例:愛読書=『会社四季報』)と思うと、祖父には感謝するばかりだ。

▼その後の私は、さらに不可解なことに、ファミコン等で「遊ぶ」よりは、自分で何かを「作る」方に興味を持つタイプに育ってしまったらしい。当時主流だったファミコンではなく、MSX(注:アスキーの西氏と、まだ若かりし頃のマイクロソフトのビル・ゲイツによる家庭用コンピュータ規格)を親に買ってもらい、ベーシックとかいう言語で遊んでいた記憶がある。

 たぶん、あのころのプログラミング技術が、私の人生において「最高峰」だったのではないかと思う。マシン語も、ある程度理解できたし(注:マシン語=コンピュータを直接操作する言語。言語というよりは、記号の類かもしれない)、その後は、富士通のFM-TOWNSのプログラムコンテストに応募したりもしている(しかも、微妙に入賞して名前が残ってしまった)。

 そんな経緯もあって高校時代まで、ゲームプログラミング等にはまっていたりしたが、大学入学後は、その世界から「卒業」してしまった。今は、ゲームに関しては、もっぱら任天堂DSで遊ぶばかりである(多少のシステム開発とかはするけどね。でも、オブジェクト指向の言語はもはや能力の限界で、Perlくらいしか使えなくなってしまった)。

 個人的には、任天堂DSを買うよりも、同じ時期に任天堂の株を買っていた方が、別の意味で愉しめたような気がしないでもないが、まあ、それはよしとしよう。

▼何故に私がゲームそのものに興味を持たず、ゲームを「作る」方に興味を持ったのか。これには、さまざまな理由があると思われるのだが、最近、一つ理由が分かった。どうやら、私はゲームが得意ではないらしい。マリオをやっていても、妻の方が常に先に進んでしまうのである。「脳トレ」をやっていても、平均すると、やはり私の成績の方が悪い(私が得意なのは計算だけ)。

 うーむ。

 もしかしたら、マリオをプレイしながらも、一体、どうやってこのスクロールやキャラの動きを実現させているのか?(スプライトとか、知る人ぞ知る概念かもしれませんが、すごいなと思います)とか、どうでもいいことに気を取られるから、ゲームそのものに「没入」できないのかもしれない…などと、言い訳をしてみたりして。

 何にせよ自分の身の程を知ることは重要なのかもしれない。やはり自分はゲームよりは、株の方が向いているのかも…と言っても、もはや任天堂の株や、手に届かない金額だわな。

追伸
 ちなみに私が生涯で最もはまったのは「信長の野望」である。その次は、フライトシミュレータだったりして。要するにアクションは苦手なのかもしれない。

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読書メモ(断片):欲ばり過ぎるニッポンの教育(苅谷剛彦・増田ユリヤ)

▼物事を身近な例で説明する際に、私は「恋愛メタファー」と、「料理メタファー」を使うことが多い。恋愛メタファーは、別名「恋する乙女還元症」とも呼ば、「就職活動は恋愛のようなもの」といった用例が典型的である。料理メタファーは、言うまでもなく森羅万象を料理に喩えることによって成立する(パンチ佐藤によれば「人生はマラソン」だ)。

 恋愛メタファーも、料理メタファーも、スポーツメタファーも、安易な使い方をすると、陳腐な説明になりがちである。しかし、苅谷・増田(2006)らの『欲ばり過ぎるニッポンの教育』における苅谷先生の料理メタファーは、抜群の切れ味である。

 あまりに印象的だったので、メモをしておきたい。
 例えば、総合的な学習の問題点について、苅谷先生は次のように述べている。
 全国津々浦々、小学校だけで二万幾つ、小中学校合わせれば三万校もある学校で、全部で六〇万人いる公立学校の教師に、つまり、今までハンバーガーをつくっていた人に、高級フランス料理店の注文に応じた料理をつくってくれって言ったって、それは制度的にいっても無理ですよ。(pp.64-65)(太字は引用者による)
 言い換える必要はないと思うが、ある種マニュアル化した仕事が期待される小中学校の教員に対して、「総合的な学習の時間」のようなオーダーメイド的対応を期待することの困難性について述べたものと思われる。「ハンバーガー」は、ある種の人にとっては象徴的な意味合いもあり(例:マクドナルド化)、なかなか過激な表現である。

 ちなみに、「マニュアル化されている」と書くと反論される方もおられるかもしれないが、教員一人あたりの人数を考えれば、高級フランス料理店並のサービスを提供するのは非現実的であろう。

 もっとも、小中学校では<食べられるもの>を出しているだけマシとも言える。これが大学教育ともなると消化不良を起こしそうなものや、賞味期限が切れたものを無自覚に出していたりするから困ったものだ(皮肉?)。

▼ハンバーガーとフレンチのメタファーは、何カ所で登場する(説明が遅れたが、本書は苅谷・増田の対談形式で成立している)。関連して曰く、
 (略)依然として今の学校は、実は授業時間の八割方は、ハンバーガーをつくっていて、残りの二割でフレンチをつくろうとしている。それはやっぱり中途半端な状態です。
 だったら最初から、高級料理を求めずに、できるところからやる。そうしたら、失望も大きくなかったし、段階的にいろんなことができたでしょう。なのに、あたかも総合学習を全国一斉にやると、誰も彼も、みんな考える力がつく、と思ったじゃないですか、一瞬。(p.67)(太字は引用者による)
 どうやら、ハンバーガーと高級フレンチの「あいだ」が存在しないらしい。
 なるほどーと思わされる比喩である。

▼料理メタファーは、他にも用いられている。例えば、子育ての問題。とくに、「お受験」的傾向について、苅谷・増田対談では次のように述べられている。
苅谷 (略)今の料理の例で言うと、いくつかの料理をつくると決めて、材料や調味料をそれぞれ決められたとおりに、目分量じゃなくて全部をきっちり計っておく。そして、決められた温度や時間で、フライパンで火を通したり、レンジでチンしたりしたとする。それをテーブルの上に載せたときに、料理の食べ合わせが悪くて、なんだかおいしくない。一皿一皿は、おいしい料理ができたかもしれないけど、これとこれは一緒に食べたくない、みたいな献立になっていたら、食べる側にとっては食欲がわかないでしょう。

増田 その一皿一皿の料理が、親が子どもに与えている教育プログラムのパッケージだということですよね。確かに、おなかはいっぱいになるだろうけれど、その食べ合わせはといったら…。(pp.31-32)
 教育プログラムの「食べ合わせ」に着目するというのは、なかなか面白い。松岡正剛氏がかねてから指摘していた点だと思うが、食べ合わせと同時に、「順序」というのも食事の際には重要である。ハンバーグの後にケーキを食べるか。ケーキの後にハンバーグを食べるか。嗜好的にも、文化的にも本来は「流れ」があるはずである。

 教育の問題に限らず、この手の時系列的な「流れ」や、要素と要素の「組み合わせ」を無視した議論は少なくないのだろう。恋愛メタファーで言えば、この手の要因は恋愛の成就に決定的だと思ったりもするのだが、まあ、それは良しとしよう。

▼ちなみに本書はフィンランドの教育についても多く言及されており、もはやブーム的になってきているフィンランドの教育について知るにも役立つ。

 フィンランドの教育に関しては、さまざまな本が出ているが、最近読んだ中では、『競争やめたら学力世界一』で、バランス良くまとめられている気がする。ただし、「競争をやめたら」と「学力世界一」をタイトル中に入れるのは、ナンセンス。まあ、矛盾した日本の教育のあり方(?)を、適切に示していると言えば、示しておりますが…。
▼さらに興味がある人は、「学力世界一」とか、学力低下の根拠となっているPISA調査の報告書が参考になる。  この手の本のリストもちゃんとまとめていかなくちゃいけないなぁ。

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京都出張

▼京都出張。最近、ほぼ体力の限界まで働きづめだっただったが(注:半分は誇張表現だが、半分は事実かも)、久々に余裕のある出張だったかもしれない。とは言え、少し油断をすると仕事が山積してしまい、後々苦労することになるのだが…。

 夜、知人と合流し、京都らしい食事を堪能する。ご案内をありがとうございます。

▼移動中、例によって『AERA』等をざっと斜め読み。新書2冊に目を通す。
 最近、何冊か新書はハズレと出会ってしまったのだが(注:ハズレの本は私は本サイト上では紹介しないことにしている)、これは久々のオススメできる新書かも。

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読書メモ(断片):ユビキタスでつくる情報社会基盤(坂村健)

▼『ユビキタスでつくる情報社会基盤』を読む。坂村健氏編集だし、正直を言うと、ユビキタス社会万歳というか、カタログ的な本かと斜に構えて手に取った。だが、技術中心的な話でもなく、制度的やセキュリティについての言及があったり、哲学的な考察もあったりして、情報社会論系の新たなテキストとして使えそうな印象である。
 ユビキタスとは捉え所のない概念だが、冒頭の坂村健氏の言葉を借りれば、「環境中に多くのコンピュータを組み込むことで、いつでも、どこでも、だれでもが、意識しないで、状況に応じた最適な情報の利用ができる情報システム」(p..2)が、ユビキタスコンピューティングの定義になる。ただし、本書では論者によって捉え方は若干、異なる。

▼個人的に興味深かったのは、吉見俊哉氏の「ユビキタスとエンサイクロペディア」の節だった。本書によれば、エンサイクロペディアは明治初年代に、西周によって「百学連環」と訳されていたらしい。また、語源とされるギリシア語の言葉は、「円環の」を意味する「クロノス」と、子どもや学びを意味する「パイドス」が結びついた合成語とのこと。さらに続けて、次のような位置づけを示している。
 つまり、「エンサイクロペディア」という言葉はもともと、「百科」の知識を編集・出版した大事典であるという以上に、まずは「百学」が環をなしながら学びを生んでいくような実践的なプロセスを指していたのである(p.235)
 語源をたどっていくと、発見があるものね。

▼さらに、続く論の中で、さらに次のように述べているのが興味深い。
 エンサイクロペディアというのは、大学のある種のメタファだから、この新しい百学連環の構想は、新しい大学への構想ということになる。ユビキタス技術との関係でいうならば、大学における書庫とか書物、教室はどういう形がありうるのか。すべてを体系的にまず制御して、一つの辞書、一つの百科全書をつくってしまうのではなく、無数の学びの連環が生成されていくような仕組みを大学の中で考えたい。大学そのものがユビキタス化するとして、そうした場の中で方法としての大学を考えていくために、エンサイクロペディアという概念はどんな発見的価値を持っているのか。
 私たちがこのようにエンサイクロペディアに注目しているのは、このメディアが、そもそも通常の書物以上に読者という契機を内蔵したものだからである。エンサイクロペディアの編集では、古典的な書物のように「作者」と「読者」が二項的に分かれてなく、むしろ編集委員、執筆者、コメンテーター、書き手の相互作用や読者からの質問など、何重にも書き手/読み手の応答が重層構造をなすなかで編集がなされていくのである。(pp.237-238)
(下線は引用者による)
 エンサイクロペディアを、双方向的な「学び」という観点から捉えるというのも楽しそうである。ある概念から、他の概念の見直しを図るというのは、まさにこういうことか。

▼追伸
 例によって、単なるメモとなってしまったが補足を一つ。情報社会論そのもののあり方を見直す本としては、↓が名著中の名著。私が、これまで影響を受けた本を10冊挙げよと言われたら、確実にその中に入る。
 『ユビキタスでつくる情報社会基盤』を10年後読み直した時…、古びていると予想される内容は、3分の1くらいかな。

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ビギナーとヒーロー

▼先日、久々に『12人の優しい日本人』を視聴。もう何度目になるのか記憶が定かでない位、繰り返し見ている(『十二人の怒れる男』の視聴回数を超えてしまったかも)。

 本作品の視聴をきっかけに、裁判員制度について少々キャッチアップ的なお勉強。ついでに、妻が教えてくれた『ビギナー』という司法修習生モノのドラマを視聴。私は、あまりというか、ほとんど(最近は皆無)テレビドラマを見ないので、『ビギナー』(月9フジだったらしい)については作品そのものについて知らなかった。

 最初は、フジテレビだし、オダギリジョーだし(どうするオレ?)…と思って、斜に構えていたが、見てみると実に面白い。司法修習生の実態については、まったく無知なので、どこまで真実味のある話なのかは分からない。しかし、小グループでのディスカッションの仕方だとか、一つの事象について多角的に検討する姿勢など、私の仕事的にも、参考になるような場面が多かった(注:なんでも仕事に絡めるのは良くないけど)。久々に良いドラマに出会った。感謝。

▼考えてみると、私は、『HERO』にしても、『白い巨塔』にしても、『12人の優しい日本人』(あるいは『十二人の怒れる男』)にしても、法廷モノを好む傾向があるらしい。

 戦略的お仕事のためにも『ビギナー』を買おうかな…と思案中。うーむ。
 (注:司法試験を目指すとか、そういう意味ではありません)

▼今後の課題:裁判員制度についてキャッチアップ。司法修習生の仕事のリサーチ。

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読書メモ:「待つ」ということ(鷲田清一)

▼鷲田清一氏の『「待つ」ということ』を読む。「待つ」ということをめぐって記された、いわば哲学エッセイである(もともとは角川の広報誌への連載記事らしい)。

 前々から気になっていて、私も、本書を入手してから、かれこれ3週間以上が経過した。毎朝・毎夕の通勤時間はもちろんのこと、出張の際に読もうとしているのだが、久々に手強い内容である。内容が極端に難しい訳でも、抽象的な訳でもない。鷲田清一氏が、ここまでたどり着いた時間の重みを感じさせるからかもしれない。

▼「待つ」ということで、時々、私が常々思い知らされるのは、「拉致」や「誘拐」事件のことである。この手の話題は、某国などの主犯者のイメージに支配されがちであり、かつ、ふれるのもなかなか難しい話題かもしれない。しかし、である。突然、最愛のものが、目の前から消えるという事態は、私には想像を絶する世界である(消失には、対象を最愛なものとして浮かび上がらせる効果もあるのは否定しないが)。

 鷲田氏の表現を借りるならば、「期待」や「希い」と、「断念」のあいだを揺れること。あるいは、「忘却」と想起のあいだに、「待つ」という営みが成立するらしい。
 (略)待つことの甲斐のなさ、それを忘れたところでひとははじめて待つことができる。<待つ>ことにはだから、「忘却」が内包されていなければならない。<待つ>とは、その意味では、消すことでもあるのだ。

 抱きながら、消す。この振幅が、じれったさということを<待つ>にもたらす。待ち遠しい、待ちこがれる、待ちわびる、待ちかねる、待ちあぐねる、待ちくたびれる、待ち明かす、待ちつくす…と、このじれを表わす言葉はくどくどしいほどある。

 意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんのちからではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはそこに、<待つ>ということがなりたつ。
(pp.16-17. 太字は引用者による。下線は、オリジナルでは傍線)
 こういう宙ぶらりんの感覚の中から、何を生み出せるのか。
 やっぱり、なかなかしんどいなぁ。

 と、相変わらずではあるが、ただのメモになってしまった。

 いずれ本書の内容が分かるようになる日が来ると願いたい。

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初めてのクラスJ。しかし…。

▼横浜みなとみらいでの出張を終え、最終のJAL便にて帰宅。私は基本的に飽きっぽい体質なので、ANAがある程度続くと、JALに乗りたくなる傾向があるらしい(機内誌の読み比べとかもしたくなるしね)。しかし、よりによってクラスJ(当然ですが自腹です)に乗っている時に関係各位に出会ってしまうとは…。もっとも、スーパーシートに乗っている時よりはマシだよな、と自分をごまかしてみたり。

 ちなみにクラスJは初体験(なおさら、「よりによって」…でしょ?)。
 スーパーシートは通り過ぎるばかりで、席に座ったことはございません。

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川崎&みなとみらい出張

▼佐賀経由で、都内出張。昨日は、都内到着が夜遅くなったこともあって川崎泊。

 川崎は治安が悪いというイメージが、私には焼き付いているので(注:いやな経験があるらしい)、ホテルも駅から徒歩1分圏内で予約したのだが…、あちゃー、川崎変わったわ(浦島太郎)。バナリパやJ-CREWなどが入ったショッピングモールも駅の近くにあったりして、街の発展に驚かされる今日この頃である。

▼と驚きを後に、朝に川崎から横浜みなとみらいへ移動。夕刻までお仕事。
 みなとみらいにも、高層マンションが複数建っていて、これまたびっくり。

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SAGA出張

▼所用で、佐賀に出張。九州上陸後、大分を拠点として、熊本、鹿児島にはお出かけさせていただいていたが、佐賀は初めてである。

 はなわの影響で、佐賀ってどんな田舎なんだろう…と、勝手な想像をしていたが、意外と(失礼)街中は、にぎやかな感じだった。もっとも、駅周辺と仕事先周辺しか見ていないので、それ以外は不明(しかも、大分が比較対象だし)。

 その後、福岡空港までバスで移動。考えてみると、福岡は小倉と福岡空港で「乗り換え」しかしたことがなかったりして。九州制覇で残るは、福岡、長崎、宮崎となった。福岡には、今年度中に行ってみたいけど…、予定入るかしら。

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メール未着事件の対応に追われる

▼メール未着事件の対応に追われる。その数、20を軽く越えてしまいました。

 連絡不通の状態になってしまい、ただただお詫びするばかりです。
 来週中には、すべて対応できると思いますので、どうぞよろしくお願いします。

追伸
原因は、迷惑メール対策ソフトの影響だと言うことが分かりました。自分が送信したメールが迷惑メール扱い&到着しない…という、はなはだ恥ずかしい理由です。現在は対策をしています。ご迷惑をおかけしました。

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読書メモ(断片):心の扉を開く

▼河合隼雄氏が、8月に病に伏されてからそろそろ3ヶ月の月日が流れつつある。その後の経過について、あまり報道されていないようだが、気がかりなところだ(11月1日付けで休職扱いになったという報道はあったが、病状については不明)。

 久々に河合隼雄氏の本を読もうと、『心の扉を開く』を手に取る。本の紹介をテーマとした講演録。彼の書評関連の本は過去にも何冊か読んだことがあったが、本書では最近の本の紹介もあって、自分自身の読みとのズレや、重なりを楽しむことができた。例えば、中沢新一氏の『対称性人類学』は、以下のように紹介されている。
 そう考えているときに、次にあげてあります、中沢新一さんの書いた『対称性人類学』という本があります。この本は実はシリーズの五冊目です。シリーズ全部をぜひ読んでほしいんですが、すごくよく考えて書かれてます。一神教とは違ってわれわれはどういう考え方で自然に向かい、どう生きていくかと書いているんですが、平等とは書いていないんですよ。対称性と書いてある。人間とクマとか、人間と草でも、対称関係にありながら生きている。つまり、平等だといわずに対称性、ということは、調和して生きているんだと。時には殺すより仕方のないときがあるときには食べるかもしれない。しかし、われわれ人間が、他より優位だと思っているわけではない。

 人類の最初からわれわれは神というものをどう考えたのかというようなことをずっと書いてきて、いったい神はどうして人間の心の中に出てきたか、その神と人間と自然と、すべてのものを上下で見ずに対称性で見ていこうと書いています。平等とは言わない、そこがいいところです。そういう点でこの本は素晴らしいなと思いました。(pp.210-211)
(太線は引用者による)
 「平等」と「対称性」という言葉を対比的に捉えて紹介するところが、河合氏らしいかもしれない。確かに、確かに対称性というコンセプトは、下手をすると「平等」と解釈されてしまう可能性があるのだろう(誤解の可能性に目を向けられる所がさすがである)。相互性、対称性、平等、格差…、この手の概念について深く考えてみても面白そうだ。

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一部メール未着のお詫び

      ▼10月19日~25日、11月1日前後に、尾澤宛にメールをくださった皆さまへ

       上記期間に、私宛にメールをくださった皆さまの一部について、当方のメールサーバ o-lab.org からエラーが返っている場合があることが判明しました。

       また、私から皆さまに送信させていただいたメールにつきましても、一部が未着(届いていない)状態となり、連絡不通の状態になってしまっていた場合もあるようです。

       現在、原因を調査中ですが、上記期間にメールを送ってくださった皆さまで、何らかのエラーメールが返っている場合(多くはfclose failed       という内容のメールが自動的に送信されているようです)、お手数ですがメールを再送いただけますでしょうか。

       また、上記期間に私からメールを送付させていただいた皆さまには、これから再度、ご連絡をさせていただく予定です。一部の皆さまには、音信不通のような形になってしまい、ご心配とご迷惑をおかけいたしました。失礼をお許しください。

       今後、このようなことが生じないよう、原因追求と対策を急いで参ります。
       ご迷惑をおかけしたこと、心よりお詫び申し上げます。

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モチベーション論

▼引き続き、最近読んだ本で良かった本(『善と悪』を読んだ後に、「よい」とか「悪い」ということが簡単に言えなくなってしまったはずなのだが)。

 金井先生の『働くみんなのモティベーション論』は、モチベーション(モティべーション)論の教科書ともなりうる内容。金井先生流、「読めばモチベーションが上がる」系か。  これと、ミンツバーグの『MBAが会社を滅ぼす』を併せて読むと奥行きが出るかも。 ▼以下は、どちらかというとお仕事関係の本ではあるが(本日記はプライベート版である)、時代は変わったなぁと、ふと感慨にふけってしまったので、メモ。

 私も、自分のお仕事の際には、定量データ(数字)であれ、定性データ(文字)であれ、コンピュータなしには分析・検討はあり得ないのだが、後者は、ある種の業界の人に限られてきた嫌いがある。しかし、これもいよいよ一般化する…のだろうな。

 残る最大の壁は、「日本語」ということになるのか。  もう一つは、TA関連。TAと言っても、臨床心理学領域の交流分析(Transactional Analysis)のことではない。もちろんターミナルアダプタのことでもなければ、卓球の愛ちゃんの「たー」(英語表記はTaaか)のことでもない。  苅谷先生の『アメリカの大学・ニッポンの大学』の出版が1992年。私が、TAやら関連する制度の存在を知ってから、12年くらいが経過するらしい。

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最近読んだ新書

▼最近、読書メモを更新していなかったが、最近読んで良かった新書について。

▼橘木氏の本は他にも目を通したことがあったが、『格差社会』は、新書で読める格差社会論系では、出色。理由はいくつかあるが、(1)データに基づいている。(2)過剰に悲観論に過ぎず、かと言って楽観論でもなく。(3)対策について、ある程度具体的、以上3点が挙げられるだろうか。岩波新書の最近のヒットかな。格差社会について触れる際のデータリソース集にもなるのもメリットである(詳細はググればなお良し)。  『格差社会』の中でも、非正規労働者の比率が上がっていることについて触れられていたが、『労働ダンピング』は、この点をさらに掘り下げていて平行して読むと良い。 ▼「勝ち組」とか「負け組」と言った二項対立に疲れた時には、大庭氏の『善と悪―倫理学への招待』を。何をもって「善い」とか「悪い」と言うことができるのか、というソクラテス/プラトン以来の論点について、非常に分かりやすく論じている。大庭氏の本は以前も、何度か目を通したことがあったが、本書も本質的でかつ平易な説明である。
▼久々にブルーバックスを買って読んでみたら、これも大変面白かった。  中沢新一的「対称性」とか「非対称性」とは異なる内容だが、関連させて読んでみても面白いかもしれない。(非)対称性というのは、私的にも今後重要なキーワードかも。

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新大阪へ移動

▼宿泊先を変える都合、大阪駅近辺から、新大阪へ移動。

 新大阪って、一駅しか移動しないだっけ?とまたしても、土地勘のなさを発揮してしまった(昨日書いたことはウソ800だった模様)。横浜と新横浜は8キロで約11分かかるのに対して、大阪と新大阪は4キロで約3分。よく間違えるので、念のためメモ。

▼一駅では移動した意味があまりないなぁと思いつつ、昨日、泊まったホテルは禁煙ルームが取れなかったので、良しとすることにしよう。

 私の場合、一人で泊まる時には、(1)禁煙ルームがあること(ヤニ・ダニ検知器と言われるほど敏感な体質らしい)。(2)治安が良いこと(安全性)。(3)できれば安いこと、がホテル選びの基準だったりする。敢えて書くほどの基準じゃないけど。

 もっとも、最近、特定のグループに囲い込まれているような気がしないでもない。

▼午後、仕事を終えて、飲み会に合流させていただき、お世話になる。
 しかし、私のごく周囲のアホさ加減は変わらず。
 純情・清純かつ、シャイな私のイメージがまたしてもケガされてしまった。
 久々に飲み過ぎて、ふらふらになりながら、ホテルに帰還。

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大阪出張

      ▼昨日、体調が絶不調だったが、とりあえず大阪に出張。

       つい先日まで、「大阪(駅)」と「梅田(駅)」の区別がつかなかった私だが(注:区別する必要はない)、最近は多少は大阪の地理にも慣れてきたらしい。と言っても、普通に方向音痴なのには変わらず、大阪駅徒歩7分のはずのホテルにたどり着くのに、今回は25分近くかかってしまった。地図を持って歩いているはずなのにねー。

       大阪の人とは、どうもウマというかタイミングが合わないらしく、人とぶつかるわ、自転車は突っ込んでくるわで、大阪アレルギーの本領も発揮してしまった(注:原因帰属の誤り。風邪薬の影響で、ぼーっとしていたのと、荷物を持っていたせいだろう)。

       というわけで、チェックイン後はホテルに缶詰で明日の準備。
       大阪の街中に泊まる意味がなかったような気がしないでもない。

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