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2006年9月

読書メモ(断片):経営戦略を問い直す

▼私もこの年になってしまったせいか、○×には「戦略がない」と言うセリフを、口にするようになってしまった。それで、改めて戦略論などを読み直していたりするのだが、三品先生に言わせれば、どうやらこれは「サラリーマンの反抗期」に位置づけられるらしい。ははーん。なるほどね。これはうまい表現だ。

 しかも、私の言い回しは、戦略不在と戦略不全を混合している面もあるようだ。確かに、戦略がないわけではなく、何ら機能していないことが問題だったりする訳だし。では、いかに戦略を機能させたら良いのか、と問いたくなってしまうが、以下を読む限りでは、従来の「戦略」というものの考え方にとらわれない方が良いらしい。
戦略は人に宿る
 さらに言えば、「戦略をつくる」という発想自体が、そもそも間違っています。戦略をつくろうと思えば、経済の状況や自社の状況、あるいは競合の状況や技術の状況について、様々な「想定」を置くことになります。向こう数年の経済成長率はこうで、そこに開発中のあれが来るはず、競合は気がついていないし、我が社の秘密兵器に対抗する技術は…といった具合です。その手の「想定」が外れた瞬間に無効となるのでは、何の訳にも立たないでしょう。
 経営者の近くに身を置くと痛いほどわかりますが、戦略とは「本質的に不確定」な未来に立ち向かうための方策です。戦略には「能動的に」というイメージが付きまといますが、実際には、次々と想定が崩れていき、思わぬ方向から、そしてありとあらゆる方向からタマが飛んできます。飛んできたら、受けないわけにはいきません。それが、現実です。
 (略)
 予想外の新しい展開にリアルタイムでどう対処するのか、それが結果として戦略になる。これが私の暫定的な結論です。従来の能動的戦略観と呼ぶのが妥当かもしれません。ここで言いたいことは、一つの案件にどう対処するのかという次元を超えています。経営者は、一見したところ何のつながりもない幾多の案件に判断を下していきますが、判断自体には何らかの傾向、またはバイアスがついて回ります。その傾向が、事後的に一つのパターンとして浮かび上がり、立地、構え、均衡、すなわち戦略を形作るのです。事前に漠とした方向感を持つことの重要性を否定するわけではありませんが、それだけで立地、構え、均衡が定まると考えるのは早計でしょう。
 飛んでくるタマを受けとめて、判断を下すのは、あくまでも経営者です。タマの受けとめ方、判断の下し方、これは人次第で大きく変わります。タマがどこから飛んでくるのか事前にはわからないのだから、マニュアルを用意するわけにもいきません。立派なビジョンも役に立ちません。だから、戦略は人に宿るのです。(太線は引用者による)(pp.133-134)
 すべては状況と人に依存する。常識的と言えば常識的ではあるが、これを突き詰めていけば、結局のところ、状況をいかに捉え、判断し、行動に変えていくかという意思決定の積み重ねを大切にしていくしかないのだろうな。

 というわけで、↓の読み残しを読み進める。
 「収益」の概念を見直すには良い機会になりそうだ。

過労とブログ

▼訳あって「過労死」について調査。過労死の定義など、適当にまとめる。

 とある資料によれば、過労死として認定されるためには、「証拠」が不可欠らしい。ブログに「仕事がいそがしー」と書いておくと、後々の証拠になるのかもしれない。しかし、どう考えても暇人が書いているようにしか思えない私のようなブログの場合(注:C氏の発言による)、かえって逆効果なのかもしれない。

読書メモ(断片):インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?

▼森健(2006)の『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?』を読む。最近、どちらかというとバラ色のインターネット(Web 2.0)論に触れることが多かったので、相対化する意味も含めての物色。近年の動きを網羅しているし、ネガティブ一色ではないし、相対化効果はありそうだ。ただ、NHKスペシャルで映像化できるくらいの内容かな。
 ICタグやICカードの「監視」について、SPをメタファーとして使うのは効果的かも。
 以下、非常に印象的だった部分をメモ。
 ICタグやICカードの取材をする中で、私はひとつのイメージをたびたび描くことになった。それは要人に張り付く寡黙なSP(Security Police)のイメージだ。

 その寡黙はSPは必要とあれば、日常生活でさまざまな手伝いをしてくれる。ゲートを認証し、店内では何がどこにあるかといった位置情報を教えてくれるうえ、レジで決済の手間を省いてくれることもあれば、購入物の産地情報を教えてもくれる。だが、その反面、彼は何かの情報を誰かに随時伝えている。表面的に彼が何をやっているかはおよそ把握できるが、どんな情報をどれだけ送っているかはこちらは知りえない。彼自身が表立ってこちらを襲う可能性は低いが、どこかに送り続ける機関から、何かを侵害される可能性は否定できない。

 プライバシーをめぐるICタグの存在は、そんなSPの仕事に似ている。いつでもどこでも隣に立ち続け、こちらをサポートしてくれる。だが、常にどこかに情報を送っており、何を考えているかはわからない。(pp.219-220)
 「とりあえず情報を集めておけば、後々使えるかもしれない」という安直な発想と、「何を考えているかわからない」という不透明さが、気がかりなのかもしれない。

またしても中耳炎か…

▼先日の徹夜がたたったか、またしても中耳炎の気配…。もし世の中に病気の要因の「質」なる概念があるとしたら、かなり低級の理由なような気がしないでもない(夜な夜なコイバナをしていたなんて公言できるわけがない)。
 
 耳のことは油断していると、ロクなことがないので(全ての病気に言えることかもしれないが)、とりあえず病院へ。どうやら、中耳炎の初期症状ということらしい。詳しい話を聞く元気もなく、とりあえず抗生物質を処方されて終了。

 今後、1週間は治療モードになるのかしらん。

読書メモ(ミニ):戦略不全

▼プライベート出張の前後、三品先生の『経営戦略を問いなおす』を読む。

 新書としてターゲットをどこに置いているか分かりにくい面はあるが(戦略論の基礎を理解していないと、本書のユニークさは理解しにくい)、戦略論の新しい捉え方として、大変に面白い。

 新書で参照されていたデータをもっと詳しく知りたくなったので、新書より前に出版されていた『戦略不全の論理―慢性的な低収益の病からどう抜け出すか』も入手。戦略論の「教科書」的概説書と併せて読むと、示唆を得るところは多いかもしれない。
▼私は、「恋愛にも経営にも、戦略は必要だけど、戦略を自然な形で意識できる人って、ほとんどいないよね」的な一言でまとめてしまうことが多い(何をまとめているかは定かではないし、私も例外ではない)。

 「戦略」と「計画」の区別くらいはできるようになりたいものだ。

スペシャルなメロン

▼披露宴にてゲットしそこねた千疋屋のメロン。金に換算して、4グラム未満の市場価値があるらしい(2006年9月25日現在)。さぞかしデリシャスなのだろう。そのせいか、ダイヤモンドリングが生じている模様。

 IBM的に言うならば、「スペシャルなメロン」としても位置づけられるかもしれない。もっとも、スペシャルなメロンと、ふつうのメロンの違いは…、千疋屋ブランドの有無くらいかしら。

 なお、写真はイメージ加工済です。

4年8ヶ月ぶりに携帯電話を買い換え

▼後輩の披露宴にお招きいただき、プレイベートで都内出張。久々のプレイベート出張なので、買い物等のプランを練って早めにお出かけをした。

 しかし、である。買い物を楽しもうと思っていた矢先、いきなりトラブル発生。2002年1月から愛用してきた私のPHSがついに、寿命を迎えてしまったのである。本体の故障と言うよりは、バッテリーの限界が原因(充電ができなくなってしまった)。そろそろ限界だとは思っていたが、まさか外出先でお釈迦になるとは…。

 というわけで、上野で人と会う約束を終え、ミニマムな買い物を急いでから、新宿西口のヨドバシカメラにお出かけ。前々から狙っていたW-ZERO3 [es] の在庫があったので、4年8ヶ月ぶりに機種交換をする。平均的な携帯買い換えサイクルと比較すると、何倍もっていたか知らぬが、久々に日本経済に貢献した感じである。

 私がこれまで持っていたKX-HV200(Panasonic)は、65536色のカラー液晶が実装されていることが誇りだった(同時期に白黒液晶版も売っていた。画面の横には、65000 COLORS TFT LCDとわざわざ書いてある)。

 今度の新機種(SHARP)は…、なんだかいろいろなことができるらしい。
 しかも、念願のカメラ付き!でも、どうやって使うのか。

 気分は松下由樹ではあるが、ぼちぼち使いこなしていくとしよう。

▼披露宴は、白金台にあるのイタリアンレストラン。おめでたいことである。

カフカと過負荷

▼おざわさんの就職以来のモットーは、「(依頼を)受けた仕事は断らない」である。

 かれこれ数年間、このモットーを第一に、仕事を遂行してきた。具体的には、夜のお仕事深夜のシステム開発から、各種教材開発、代筆稼業、あるいは自宅における皿洗いや床掃除など、引き受けた仕事を挙げれば枚挙にいとまがない。

 このモットーの遂行が可能だったのは、そもそも私には仕事のオッファーが相対的に少なかったからである。もう一つは、私の場合、オッファーを受けても、無視&忘却するという能力(同義語に政治家における「記憶にございません」がある)を、鋭意、磨き続けてきたことも要因である。

 しかし、だ。ついに、私も過負荷に耐えられなくなってきてしまった(もしかしたら、任天堂DSの「脳を鍛えるDSトレーニング」のおかげか、記憶力が向上してきたのかもしれない)。そもそも、「過負荷」とは何なのか。考えれば考えるほど不条理なのだが、記念すべき2006年9月23日(秋分の日)を区切りとしてモットーを変更したい。

 新たなモットーは、「(依頼を)受けた仕事は断らない。受けた仕事は、いずれやる」である。類義語は「今日やることは明日やる。明日やることは明後日やる」である。さらに言い換えれば、ハエはハエ。カエルはカエル。カモメはカモメといったところか。

 というわけで、今後、仕事を依頼される際は注意されたい。

 以上、仕事の納期が遅れていることの言い訳でした。

読書メモ(断片):ヒルティ『幸福論』

▼仕事に疲れたので、ヒルティの『幸福論』を読む。

 本書に手を伸ばす瞬間、「幸福論」を読もうとする行為それ自体の不幸せさを感じずにはいられない。しかし、こんな時は、次のように考えよう。

 「もしかして不幸…?」などと自問できること。それ自体が幸福の証であると。

 こういう発想をすること自体が不幸じゃない!というツッコミは禁止である。

▼ヒルティの『幸福論』の一番最初の項は、「仕事の上手の仕方」で始まっている。あまり知られていないようなので、引用しておく(以下すべて岩波文庫版)。

 日○ビジ○ス アソ○エの類とは、格が違うのは言うまでもない。
 仕事の上手な仕方は、あらゆる技術のなかでももっとも大切な技術である。というのは、この技術を一度正しく会得すれば、その他の一切の智的活動がきわめて容易になるからである。それなのに、正しい仕事の仕方を心得た人は、比較的に少ないものだ。(p.13)
 本文にも現れているように、ヒルティの文章の特徴は、「仕方」や「技術」、あるいは「こつ」に力点を置いている点にある。続く文章の中で、ヒルティは仕事には「こつ」があると述べ、仕事の「こつ」を6つの要点にまとめている。

 まず「こつ」の重要性について。ヒルティは次のように述べる。
仕事にも、あらゆる技術と同じく、そのこつがあり、それをのみこめば、仕事はずっと楽になる。仕事をする気になることだけでなく、仕事が出来るということも、決して簡単なことではないが、多くの人はそれを知らない。(pp.21-22)(下線部は、オリジナルでは傍点)
 以下、6つの要素について、要点を整理してみよう。
  • (一)障害にうちかつための第一歩は、その障害を知ることである。(p.22)
  • (二)怠惰をおさえて仕事に向かわせるもっとも効果的な手段として役立つのは、習慣の大きな力である。(p.23)
  • (三)精神的な創造的な仕事をするのに、仕事の区分や、あるいはそれ以上に序論のために、時間と仕事の興味とを失っている人がきわめて多い。(略)序論や表題は最後に作れというのが、誰にでもあてはまる適当な忠告である。(略)序論的なものはすべて後廻しにして、自分の実際に最もよく知っている本論から始めれば、ずっと楽に仕事を始めることができる。(p.25)
  • (四)よく働くには、元気と感興とがなくなったら、それ以上しいて働き続けないことが大切である。(p.27)
  • (五)その反対に、多く働くためには、力を節約しなければならない。(略)多く仕事をしようとする人は、精神的雑用を、なお言い添えてよいなら肉体的雑用をも、注意して避けなければならない。そして真にやるべき仕事のために、精力を充分たくわえておくべきである。(p.27-28)
  • (六)最後に、精神的な仕事(われわれは常に第一にこれを念頭においてきた)を容易する最も有効な、とっておきの方法が一つある。それは繰り返すこと、言い換えれば、いくどもやり直すことである。精神的な仕事はほとんどすべてが、最初はただその輪郭がつかめるだけであり、二度目に手がけて初めてその細部が見えてきて、これに対する理解も一層明白になり、精密になるのが常である。(pp.28)
 なるほど。しごく全うなご意見である。

 逆説的に考えれば、(1) 目の前の障害があっても、見て見ぬふりをする。(2)習慣ではなく惰性で動く。(3)仕事の形式や体面を保つことに力を注ぐ。(4)仕事に感興を求めない。(5)雑用第一。(6)左のコップの水を右に注ぐ的な、非生産的な繰り返し。以上の行為を実践すれば、確実に人は不幸になれる、ということである。たぶん。

 こうやってくだらないことを考えている時間が、私にとってのいちばんの幸せ。
 だったら嫌だな。

▼今後の検討課題
 幸福論における「不幸」の扱いと、不幸論の類における「幸福」の扱いについて。

フェアレディーZ

▼先日(と言ってもかなり前)、かのフェアレディZに同乗させていただく機会を得た。フェアレディーZと言えば恐れ多すぎて、私なぞトミカのミニカーですら触ったことがない。

 これで、やっと私も自慢できる!ということで、とりあえず記録(自慢にならないだろう、というツッコミはなし)。

 ちなみに写真はトミカのフェアレディZ。

▼初めての乗り心地は…。

 さすがZ

 といった感じだった。私に、「さすがZ」などとのたまう資格は確かにない。しかし、敢えて喩えるならば、A、B…そしてCと、ドキドキしながら次なるステップを歩もうとしていた乙女が、一気に、AからZへの彼方へ行ってしまった感じに近いと言えよう。DirectXだの、Xboxだの、マークXだのXにこだわる某社との違いは歴然だ。

 Z会と進研ゼミの違いに匹敵すると言っても良い(意味不明)。

 というわけで、またドライブに連れていってください>Fさん

▼なお、プロジェクトXでフェアレディZが取り上げられたことがある。プロジェクトXの中でも、出来が良い作品の一つである。フェアレディZってすげーと、改めて思わされること間違いなし。たぶん。

読書メモ(ミニ):ビックバン宇宙論

▼昨日の話。連休最後日になって、たまっていた仕事をやっと終える。一息ついたところで、以前から読みたかったサイモン・シン『ビックバン宇宙論』を手に取る。

 前作、『暗号解読』の時は、読み始めたら最後。最終章まで読み続けてしまったため、今回も、嫌な予感はしていた(言うまでもないが、良い意味での「嫌な予感」である)。

 案の定、予感は的中。
 今回も、完全に「はまって」しまった。

 確かに前提知識がないと、読みにくい面はあるかもしれないが、サイモン・シンの語り部としてのセンスのおかげで、読み手を飽きさせない。

 たとえは悪いかもしれないが、ありがちなテーマでありながら、語りのセンスが活かされているという意味では、『ソフィーの世界』の宇宙版といった感じかもしれない(ソフィーは子どもでも読めるが、本書はそうもいかないかな)。
  • サイモン・シン, 青木 薫 訳(2001). 暗号解読. 新潮社
 「読み物」としては、私的には今年一番の著作になりそうだ。
 というわけで、上を読み終え、一気に下に突入。

読書メモ(ミニ):空間管理社会

▼ジュンク堂で目に入ったので、『空間管理社会―監視と自由のパラドックス』を購入。

 911以降の状勢を踏まえたものとしては、本書は、ライアンの『監視社会』や、東・大澤(2003)の『自由を考える』以来の久々のヒットである。

  • デイヴィッド ライアン(2002). 監視社会. 青土社
▼カメラ付き携帯を使って、監視カメラマップを作るという企画も面白そうかも。
 (公安当局に目を付けられるような気もしないでもないが)。
 ジョージ・オーウェルの『1984年』を、また久々に読み直そうかな。
 監視社会の問題については、職業的にも話のネタにしていきたいところである。

冬瓜スープ

▼冬瓜(とうがん)スープを妻が作ってくれた。

 冬瓜とは、その名の通り、瓜の一種。この季節に手に入れられる。大きいものでは、直径30~50センチくらいの大きさになるらしい。煮込むと、味がしみこんで美味しくいただくことができる。私は、香港で初めて冬瓜スープを食す機会があったのだが、今回はその再現を目指して初チャレンジ(もっとも、私はその過程を撮影しただけ)。

 今回のポイントは、(1) 冬瓜を丸ごと使う。(2) 冬瓜の中をくりぬき、中にスープを入れて丸ごと蒸す、である。たまたま小型の冬瓜を手に入れられたので、いざ調理。

(1) 中身をくりぬく。

 ワタの部分は食べられない。

 生の時点でも、それほどかたくなく(大根並?)、くりぬくのは難しくない模様。

 くりぬきすぎないよう気をつける。





(2) 丸ごと煮込む。

 小型の冬瓜と言っても、我が家にある最大の鍋(パスタ鍋)でも、上の部分がはみ出してしまう大きさ。

 布巾をかけ、フタをのせて、2時間くらい蒸す。

 後日談ではあるが、完全密閉にしないと、蒸す効果が薄れる模様である。断腸の思いをしてでも、鍋に入る大きさに切り落とした方が良い。

 ちなみにスープ中身は、地元大分の干ししいたけ、北海道産の乾ホタテである。お出汁は北海道の昆布。

  鶏肉でも良いと思われる。



(3) 美味しくいただく。

 写真は、前日の反省に基づき、鍋に完全に入るサイズに切り落とし、翌朝にさらに蒸したもの。おいしそうでしょ。

 食べる際は、中の身をそぎ落としながら、スープに一緒にいただく。

 外壁に穴があかないよう気をつけよう。
 ちなみに皮は食べられない(と思う)。

 丸ごとの冬瓜を手に入れるのは難しいかもしれない。
 切って売っているものをスープにしてもおいしいので、ぜひお試しアレ。

読書メモ(断片):会社の元気は人事がつくる

▼とある酒の席で、自分の仕事の内容を説明している時の出来事である(注:合コンではない)。酔った勢いかどうか知らぬが、私の仕事は、「個人や組織に何らかの『変化』を促すためにあるんだよねー」的な説明をしてしまった。言った後に「しまった」と思ったが、既に後のフェスティバル状態。何とも大げさな説明である。

 確かに、何かが「変わらなければ」私の仕事は意味がない(第三者から評価を受けられない)。しかし、そうそう簡単に「変わる」わけがないのが人間であり、組織である。一週間とか、一ヶ月とか、そんな期間で変化するのはウソっぽい。かといって一年以上、目に見えた変化が生じないと、「何も変わっていない」と思われてしまう。

 このあたりの問題点について、金井(2002)は次のように述べている。
 わたしは、仕事の場を離れたOffJTの場で、たとえ相当期間の長い研修でも、その場でリーダシップが身につくという考えは根本的に間違っていると考えている。その理由はまず第一に、成人は、子どものときようには変われないtいうことだ。幹部候補になるのはミドルのころだから、ただ大人であるだけでなく、大人を二十年近くもしている。(略)M・マッコールの『ハイ・フライヤー―次世代リーダーの育成法』には、「人が変わらない理由」が、六十八もあげられている。興味のある人はリストをみてほしい。

 柔軟というか無節操というか、もしも一週間で大きく変わったという大人がいたとしよう。第二の疑問は、そのような人を信じるべきかどうかという点にある。わたしがよく幹部候補のミドルに実際に問い掛けるのは、「研修で簡単に人柄まで変わるような人についていきたいと思いますか」という問いだ。たとえば鬼軍曹でならした名物部長が感受性訓練を受けて、たった一週間で強面がなくなり、すっかりやさしくなってしまったら、わたしだったら、そんな簡単に変わる人についていきたくない。リーダシップの要諦は、絵を描き、その絵に人々がついてくることだ。なぜついていくかというと、リーダたる人物に信頼性があるからだ。簡単に変わる人、一週間で身につくようなリーダシップには、人々はついていかない。(p.42)
 私も、「研修会」等を企画する年になってしまったらしいのだが、一日や二日の研修会は、よほどの工夫をしない限り、ただのイベントで終わってしまうような気もする。こう思ってしまう自分の考え方を「変えれば」いいのかもしれないが、今のままでは無駄が多いような気もしたりして…。何を変えれば、何が変わるのだろうなぁ。

最近の新書

▼またしても更新をさぼってしまった(この間、鹿児島、東京、金沢と出張していた)。
 この間の読書メモ(正確に言えば、買って良かった新書)を簡単にまとめたい。

 実は、私の中では、少し前まで、空前のインドブームが続いていたのだが(そういえば、マイ・インドブームで手に取った本のことを書き忘れていた。何故にインドなのか。理由は聞かないで欲しい)、最近は、内田(2005)の『街場のアメリカ論』の影響もあってか、アメリカ本を何冊か続けて読んでしまった。

 なぜアメリカが気になっているかというと、来月、久々に渡米するというのが大きな理由である(「日本」に旅行へ行くという括りが適切ではないように、「アメリカ」を一括りにするのも妙な話だが)。もう一つは、せめて旅行中だけでも円高になってくれないかという個人的願望に由来する(正しくは、アメリカ経済の動向も)。  『現代アメリカのキーワード』は、中公新書の久々のヒットかもしれない。
 
 日本の現状と、アメリカの未来像とを重ね合わせると…。
 あまり明るくはなれないな。詳しくは改めて。

▼今回、「ネタ」的に(暇つぶし的に)買ってみたのは『女は見た目が10割』。著者の鈴木由加里氏の本は、前もタイトル買いしたことがあった(著者検索をかければ、きっとその理由は分かるはず)。「情報」的な価値からすると、私的にはとくに新情報はなかったかも…。最近、この手の社会学的分析を好まなくなったのも大きな理由だろう。
 以前も日記に書いたことがあるが、化粧の歴史としては、石田(2003)が優れている。また化粧の心理学に関しては、取り扱われているテーマのバランスの良さからしても、『化粧行動の社会心理学』だろうか。 ▼最後にもう一冊。長谷川先生の本はすべて手にとっているような気もするが、集英社新書のカラー版『ダーウィンの足跡を訪ねて』は、ダーウィンの伝記としても、ガラパゴスのプチ案内書としても(長谷川先生の旅行記としても)楽しめる一冊。  新婚旅行はガラパゴスか南極と心に決めていたが、結局、実行に至らず。
 一度覚悟を決めて、「ダーウィンの足跡」をたどりたいところだ。

 以上、最近読んだ新書でした。

教えたい人だけに教えたい

▼私の実家が仙台だったり、金沢に住んでいた経験があったりするせいか、その方面に旅行しようとする知人等に、美味しいお寿司屋さんや小料理屋等の情報について聞かれることがある。その手の情報は、私もよく確認しているし、ある程度情報は持っているつもりだ(そうは言っても「井の中の蛙」でしかないけど)。

 しかし、だ。その際、「日記に情報を書いておいてくれればいいのにー」と言われると正直、心外である。本人的には、私の日記(ブログ)に対して検索をかけても必要な情報が出てこなかったということを言っていたのかもしれないが、「君が友だちだからこそ教えているんじゃん」という重要な事実を忘れている。ね、Iくん。

 私が日記で取り上げたからといって、そのお店がいきなり流行出すとか、あるいはその他の影響が及ぼされるとは思わない。私も、ときどき○×は劇ウマ!的なことを書いているのも事実である(本に関してはしょっちゅう話題にしている)。しかし、世の中には教えたい人にだけ教えたい情報というのもがあることは覚えておいた方が良い。

 もっとも、オープンな場で「秘密」を表明する人は、自分が持っている情報の価値を、誇張して見積もらせようとしているだけかもしれませんが(あ、オレのことか)。

ウマ

▼所用で鹿児島に出張。鹿児島大学の略称は、「鹿大」になるらしい。「慶大」と似ていなくもない。ただ、前者についてはどうしても連想記憶として、「馬」という言葉が海馬から呼び戻されるような気がしないでもない。

▼昨晩は、いつもお世話になっている先生とご一緒させていただく。いつもながらありがたいことである。馬刺しの「たてがみ」が、感動的にうまかった。熊本周辺は、馬刺しがおいしいエリアらしい。今度は、熊本でチャレンジしたいところだ。

ホラーみたい

▼私の辞書には、「ホラー」という概念がないようである。「ホラーのようだ」と言われても、瞬時に、それを「恐怖」「戦慄」と結びつけられない。

 ほらー、ほらー、ほらー、と3回唱えると、総理!総理!総理!と3回口にして辞職に追い込まれた辻元君のような恐怖に見舞われるかと思ったが、私が言っても、単なるアホにしか見えないのが難点である。

 私にとっての恐怖は、私の中に「恐怖」という概念が存在しないことである。たぶん。

大分の物価

▼ちょっと前に書いた話題。OBSテレビの「大分経済スケッチ」によれば(日本銀行大分支店の調査によれば)、大分市の物価は比較的安いらしい。確かに、スーパーで売っている食べ物にしても、外食にしても、他都道府県に比べれば安い印象はあった。数値で示してもらえると、さらに納得がいくというものだ。
  • 大分経済スケッチのホームページhttp://www.e-obs.com/radio/oharadi/2006/index.htm
  • 7/20放送分/「大分の物価を探る」http://www.e-obs.com/radio/oharadi/2006/06_0720keizai.htm
▼関係ないが、「大分経済スケッチ」の、きょうだいor姉妹番組か何かは知らぬが、「香港リポート」という番組もやっているらしい。大分と香港は確かに、距離的に近いと言えば近いのだが、大分銀行に香港駐在員がいるとは知らなかった。
  • http://www.e-obs.com/radio/oharadi/2006/index.htm
 永住権を獲得するためにも(あ、日記ではネタにしたことがなかったかな。実は、私、香港の永住権獲得を狙っているのです)、香港との縁を保っておきたいものだ。

千客万来(大分)その1

▼東京都から、M夫妻(あ、まだ夫妻じゃないか)が来訪。今年の4月に大分に転居して以来、初めてのお客さまである。別府や湯布院を回る途中らしい。

 思えば、昨年の本拠地・広島では、関係各位に合計6回のご来訪をいただいた(日記では「千客万来」というタイトルでエントリーしている)。広島と大分を比較するつもりはないが、大分の「食」は全国に誇れる、と思う(弊社比)。

 関アジ・関サバ、城下カレイ、りゅうきゅう、鳥天などが大分の代表的料理。
 関ジャニの亮くんも、「好きだっち、大分」と歌っているほどだ。

 是非、出張の折、また九州来訪の折にでも、お近くにお寄りいただきたい。

 ちなみに、我が冷蔵庫には若干の余裕があります。

読書メモ(ミニ):経営学研究法

▼企業研究の方法論的本を読む。自分自身が所属する組織も、「研究」の対象にしようとすると、一定の方法論が求められる。という、当たり前のことに気づいたのだった。有斐閣の本には目を通していたが、『経営学のフィールド・リサーチ』は初めて。  経営学は、いわゆる文系の研究領域で、日本が海外(欧米系)に「輸出」をなしえている数少ない領域である。心理学など、ほとんど輸入過多だしね。「なぜ日本の経営学は強いのか」と問いを立てて読み進めると、得るところも多いかも。

追伸
 もっともそうは言っても、経営学も「輸入過多」の状況に変わらないのかもしれない。藤本氏も、よく問題視していたし、最近の雑誌にも同様のことが書かれていた。

地球がもし100cmの球だったら

▼冥王星が惑星の定義から外れたという話。マスコミがなぜ、そんなに騒ぐのか不思議でならなかったが(所詮は、定義の問題に過ぎない)、冥王星の話を聞きながら、私が思い返したのは『地球がもし100cmの球だったら』という、一冊の本である。
 地球を直径100cmの球と仮定しよう。そうすると、太陽は東京ドームの大きさになるらしい。さらに仮定は続けよう。この換算方法で、太陽をJR東京駅に置いたとすると、地球は東海道線の大森駅に位置づけられるらしい。さらに言うと、火星は川崎駅。木星は平塚駅(p.8)。ふーん。分かるようで、ピントこないような…。

 東京近辺の地理に詳しくないと、なかなか理解できない比喩かもしれない(モノのたとえは、ベースとターゲットの意味を知らないと理解しにくいからな。google mapsを使えば、分かりやすいかもしれぬが)。

▼問題はここからである。

 同じ換算方法で、土星はどこにあるかというと、富士山近辺。
 天王星は浜名湖。海王星は、琵琶湖。
 冥王星は、岡山県の倉敷になる(p.10)。

 ふーん。ここまで来ると、土星以下は、遠いところにあるな…と思う。人によっては、木星まではJR東日本エリア。土星と天王星はJR東海。海王星以下は、JR西日本エリアなのか!とガッテンしてくださっているかもしれない。

 何故に、東北ではなく南西にたとえが向かっているのは謎であるが、、いずれにしてもJR九州範囲内には惑星はない、というのは重要な論点であろう。

▼ちなみに、同じ換算方法だと、飛行機は地表から1mm。スペースシャトルは、2~3cmの位置を飛んでいることになるらしい。ふーん。

 ちなみに、実物の100cmモデルの地球は、日本科学未来館で見学できる。
 さらにちなみに、実物大の地球は、足下にある。

追伸
 今頃、冥王星人(いないけど)は、地球人の判断をどう思っているのか。冥王星で大量の石油が発掘されたら(ないけど)、某国は自国の領土と主張するのだろうか。

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