暗黙知と無知

▼私が理解する限り、マイケル・ポランニーによる「暗黙知」は、言語化ができない知識のことを指す。身体的な知識であり、直観や勘のようなものも含まれる。
- マイケル ポランニー, 高橋 勇夫(2003). 暗黙知の次元 (文庫). 筑摩書房
- 野中 郁次郎・竹内 弘高 著
梅本 勝博 訳 (1996). 知識創造企業.東洋経済新報社
しかし、すべての暗黙知を、形式知に変えられるとは言っていない。もし暗黙知がすべて言語化できるのならば、
- 暗黙知→暗黙知(共同化)(Socialization)
- 暗黙知→形式知(表出化)(Externalization)
- 形式知→形式知(連結化)(Combination)
- 形式知→暗黙知(内面化)(Internalization)
(注:SECIを、SETIと表記している例を見る。SETIは、SETI@homeで知られるように、地球外知的生命体の探査プロジェクトを意味する。ちょっと(かなり)違う)。
▼最近よく見かけるのは、暗黙知を「自分が知らない知識」と解釈する例である。 このような定義は、メノンのパラドックスとも関わってくるし、認識論的にも興味深い議論だとは思う。しかし、「自分が知らない知識」を知ろうとすることの重要性を指摘したいならば、まず知るべきなのは、自分の「無知」ではないかと思ってみたりする。
お金をかけて、人を使って調査をした結果、得られた知識(暗黙知?)が、自分たちの「無知」だったら悲しいような気がしないでもない。
▼追伸
ポランニーにおける「暗黙知」と、ユングにおける「無意識」と、ソクラテス的な「無知」の関係について、あなたの見解を1600字以内で述べよ。
私が哲学を教えることになったら(無意味な仮定)、課題はこれかなぁ。
▼関連リンク
過去に紹介した読書メモ。





、ゴージャスなモデルを取り揃えて一大キャンペーンを展開しているが、私的にはTSUBAKIよりも、TSUBAMEである。



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