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2006年4月

読書メモ(断片):希望学

▼玄田有史氏の『希望学』を読む。二字の熟語+学関連の本としては、「安全学 」や「失敗学」というキーワードと同じくらい私にとっては興味深い領域である。
  • 玄田有史(2006). 希望学. 中央公論新社(中公新書ラクレ)
 本書が根拠とする(本書の中心的内容である)Yahoo!モニターを利用した調査については、インターネットリサーチという側面を差し引いて考えなければならないと思うのだが(新製品開発や関連するマーケティングリサーチならともかく、学歴や収入などを扱うとなると、インターネット利用者=モニター登録者という時点でバイアスがかかるような気がする)、全体としては興味深い調査項目&結果だった。

▼本調査の主たる知見は、キャリア・職業選択において、必ずしも人は(小学生や中学生の時に抱いていた)希望をかなえられないこともあるが、しかし、希望をかなえることができなかったとしても、その希望に修正を加えていくことができれば「やりがいのある仕事」に出会うことができるかもしれないし、「幸福感」につながる可能性があるという指摘にある。玄田氏は「おわりに」で次のような要約をしている。
 同じ希望を持ち続け、さらにはその希望を実現できる人は、才能や運に恵まれたごく一握りにすぎない。その意味で、多くの人にとって、真に効果的な希望についてのメッセージを送るとすれば、「希望は状況に合わせて修正していっていいんだよ、それが結果的にやりがいに出会う確率を高めるのだから」ということだ。
 ただし、かつての希望が新しい希望に修正されるとき、そこには多かれ少なかれ、挫折を伴うことになる。挫折には何がしかの苦痛を伴う。しかし、そんな苦痛を乗り越えながら、自分が本当にやれること、そしてやるべきことを見つめなおし、軌道修正の行動をすることで、初めてやりがいに出会えるのだ。
 希望とは、人生の修正プロセスを生み出すシーズ(根源)なのである。
 (下線は引用者による)(pp.204-205)
 なるほど。確かに、それを「希望」と呼ぶか呼ばないかは別として、何事も漸次的に「修正」を加えていく姿勢は重要だと思う。

 私自身、自分自身の「夢」や「希望」をリニアに(直線的に)実現させてきたわけではない。幼稚園の時は「大工」になりたかったらしいし、小学生の時は「宇宙飛行士」yや「天文学(者)」になりたいと本気で思っていた。そうでなくても宇宙関連の職業に就きたかった。これらが回り回って、今は教育関連で未来につなごうとしているらしい。

 確かに、いくつかの逆境はあったし、現在のキャリアに関しても「一貫性がない」という指摘を受けることもある(私的には一貫しているつもりなのだが)。しかし、結果的は、「人生の修正プロセスを生み出すシーズ(根源)」としての希望を持ち続けることができたという意味では、運や偶然性も含めて私はとても恵まれていたのかもしれない。私としても、このような意味での「希望」の重要性は他者に伝えていきたいものだ。

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飛躍人生 非凡感受

▼私のことではないのだが、人生のある意味での「転機」というか、「区切り」の場面に立ち会う機会を得た。新しい「扉」や「窓」に喩えるべきなのか、あるいは箱の中の箱に喩えるべきなのかは分からないが(注:箱を開けると、新たな箱が入っていて、それをさらに開けると、また箱が入っているという代物である。開けてみないと分からないが、中には「何か」が入っている)、新たな「いいこと」に巡り会うための契機にしたい。

 飛躍人生 非凡感受 Now We're really flying.

▼夕食は、いつもお世話になっているMMさんとご一緒させてもらう。
 ワインがおいしかった。余韻を残しながら、一日を終える。

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クレーの絵本

▼掃除をしていたら、『クレーの絵本』を発掘する。第一次お部屋の装飾計画(仮)では意識していなかったが、クレーの絵もいいかな。
 言葉でなぞることは出来ないのに、クレーの絵は私たちから具体的な言葉を引き出す力をもっている。若いころから私は彼の絵にうながされて詩を書いてきた。ちょうどモーツァルトの音楽にうながされてそうしてきたように。「詩」は言葉のうちにあるよりもっと明瞭に、ある種の音楽、ある種の絵のうちにひそんでいる。そう私たちに感じさせるものはいったい何か、それは解くことの出来ない謎だ。
 ある種の「絵」の中に、何かがひそんでいるのは確かにそうだと思うのだが、それが「何」なのかを言い表すことができないのが悔しいところだ。

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過去に書いた文字が遠い日の花火と化す日

▼おざわさんの達筆さは有名である。顧客(お客さま)からは、私が一生懸命に書いて、メッセージを伝えようとしても、「何と書いてあるか分からない」「読む気がしない」」というお褒めの言葉をいただくこともしばしばである。丁寧に書けばなんとかなるのかなぁという気もするのだが、急いで書くと判読が不能になるらしい。

 最近では、某銀行において自分が過去に書いたサインが、現在のサインと一致しないという問題が勃発した。コールセンター相手に思わず、「何が違うんですか!」と問いつめたくなってしまった程である。過去のくせ字が経年変化により、スーパーくせ字にパワーアップしたのが原因らしい(本人の自己分析結果)。かなり遺憾だ。

▼私は印鑑が嫌いなのだが(捺印が並んでいる書類を見ると、夏休みのラジオ体操の時の「一夏の思い出」帳(記録帳?)を思い出してしまうのである)、サインにおいて不都合が生じるとなると、もはや代替案はない。やはり、最後の頼みの綱は、日ペンの美子ちゃん(日本ペン習字研究会というのが正式名称らしい)なのかな…。
 ウィキペディアを見ていたら、上記のような本が出ていることが発覚。字はうまくならないかもしれないが、ネタとしてあっても良さそうな本である。早速、浪費購入。

 字がうまくなったらうまくなったで、サインが一致しないと言われるんだろうけど。

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第二外国語(第二言語)習得

▼特定領域(教育とか、教育とか)の話題が続いて恐縮だが、第二外国語(第二言語)習得関連の文献を探っている間に、小学校での英語教育についての本が目に入る。この話題って、そういえばほとんど意識していなかったな…。「ゆとり教育」「学力」云々よりは、大学生にとっても「議論」(ディベート?)のネタになるかも。
 個人的には、私は小学校においては作文教育の方が重要かと思ってみたり。  だってさー、中国語の方が将来的には重要かもしれないじゃない。

 という理由ではなく、自分の意見を適切に主張できるようになった方が、結果として「得」ではないかと思うのだ。それがたとえ、政府にとって不都合であっても。

 韓流ブームを見よ。必要ならば、人はどんな外国語でも「学びたい」と思うものだ。

追伸
 インドにおける英語教育について調べること。

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読書メモ(断片):楽観的な危機感

▼引き続き『日本を滅ぼす教育論議』の読書メモ。
 本書で言われている「日本(人)」や「外国人」などという単純な括りには、簡単に同意しかねる部分もあるのだが、「日本は資源もない小国」→「だから、一人ひとりが創意工夫をしていていかなければならない」というロジックは、私も頻繁に使っているので、自戒の意味も含めて引用してみる。
(略)日本については、興味深いポイントがいくつかある。例えば、日本では学習指導要領に何の記述もないのに、教師が子どもたちに「日本は資源の少ない脆弱な小国だ」という意識を植え付けている-ということだ。

 少なくとも「先進国」と呼ばれるような国では、子どもたちに対して「自国に対する自信と誇り」を持たせる教育が意図的に行われており、国土面積、人口、経済力、軍事力、天然資源、文化・伝統、あるいは過去の歴史における栄光など、あらゆる側面を動因して「キミたちの国はスゴイのだ」という意識を持たせようとしている。ところが日本の子どもたちは、大人たちから「日本は小さくて、吹けば飛ぶよな国なのだ」と言われ続けているのだ。このことは、外国人に言ってもなかなか信じてもらえない。

(略)「日本は脆弱な小国」という「自虐的な動機付け」は、エンタープライズィング・スピリットの育成に大きな役割を果たしてきた。このような意識を多くの国民が共有しているために、日本人の多くは、国の将来について常に漠然とした不安と危機感を感じ続け、天然資源のない国が将来も生き残り発展を続けていくためには、人々が協力し合い、勤勉に働き、新しいテクノロジーを一層発展させ、それらを積極的に応用・活用していかなければならないと自然に感じてきたのである。(pp.75-77より抜粋)(下線は引用者による)
 私自身は、「自虐的」と言われようとも、健全な「ハングリー精神」を持っていたいと思うし、それが結果的には、革新を進めるエネルギー源になると思っている。私が、未来に対して極めて楽観的な姿勢を示しつつも、私が時に悲観的な見解を示すのは、おそらくネガティブさを、ポジティブさに変換したいと願っているからなのかもしれない。

 ポジティブな危機感。この形容矛盾こそ、私が欲し続けているものなのかな。

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原油高

▼国内におけるガソリンの末端価格は、今や一リットル130円を越えている。5月から、さらに4~5円値上げするらしい。困ったものだ(もっとも、私は車を持っていない=持てるほど裕福ではない、のであまり関係ないのだが)。これを機に、原油の先物取引でもしかけて、得た利益で車を買おうかと思うほどだ(ウソ)。

▼一リットル130円って高いなぁと思うのだが、コンビニで買う水と比べるとまだまだ安いらしい。この手の比較は、「有名」な話なのかもしれないが、例えば、クリスタルガイザー(米国産)は、500ミリリットルで110円。ガソリン換算で一リットル220円。コントレックス(フランス産)は、確かコンビニならば200円近いお値段だった記憶がある。安く見積もってもガソリンの3倍。缶コーヒーは190ミリリットルで120円。ガソリンに換算すると、一リットルあたり631円になる。ガソリンがこの値段だったら、生活は破綻だわ。

▼もし私がアラブの王子様だったら(×カレーの王子様)、この比較を根拠にコーヒー並みに原油価格をつり上げるんだろうな。得た利益で原油の先物をさらに購入すれば、ますますウハウハである。「やがて心うきうき とても不思議このムード」(略)「みんな陽気に飲んで踊ろう 愛のコーヒー・ルンバ♪」。って、違うか。

追伸
 コーヒー・ルンバに出てくる人は、「王子様」ではなく「お坊さん」だったらしい。

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有田陶器市

▼妻と、有田焼について語る。

 しかし、そもそも「有田焼」がどこのモノなのか知らないことが発覚(無知)。
 調べてみたら、実は佐賀県に「有田町」があるらしい。

 九谷焼(石川県)については、私が石川県民だった時に詳細を学んだのだが(実は、結婚式の引き出物で使おうと思っていたが、数の確保が難しそうだったので、断念してしまった)、有田焼については…無知も甚だしかったらしい。

 うーん。知らないことって多いなぁ(教養が足りないだけかもしれないが)。

 連休中に、有田陶器市へ行ってみたい…と思いつつ、大分=佐賀って意外と遠いなぁと思わされる今日この頃。
  • http://www.arita-toukiichi.or.jp/
 佐賀に行ったら、ついでに、長崎へ行って佐世保バーガーを食べたい。

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読書メモ(断片):日本を滅ぼす教育論議

▼『日本を滅ぼす教育論議』を読む。各論(詳細)について言えば、同意しかねる部分も少なくないが、全体としては、大変にすぐれた議論である。苅谷氏の『なぜ教育論争は不毛なのか』や『教育改革の幻想』とはまた違った意味で、「教育」についての議論を進める上で、叩き台になりそうな本でもある。
 と、全体について言及した後に、「断片」的に触れるのも難だが、とくに私が印象のは以下の一節。自分自身への警鐘としても意義ある内容である。
「サプライヤー・オリエンテッド」な発想
 こうした傾向のためか日本では、イデオロギーの左右を問わず、また、学力重視派か心重視派かといったことを問わず、教育に関する論議の多くがが、「学習者・保護者・雇用者」などの「教育サービスの消費者」側における需要から出発したものではなく、「教える側」(供給者=サプライヤー)の発想に立った、「サプライヤー・オリエンテッド」(供給者中心)のものになっている。
 つまり、「子どもたち、親たち、雇用者は、何を欲しているのか?」ということではなく、「もっと○○を学ばせるべきだ」という議論がほとんどなのだ。要するに、「消費者のニーズ」が軽視され、それぞれバラバラの価値観を「正しいもの」として振りかざす人々によって、「べき」という議論が横行しているわけである。「世の中の人々のニーズに対応したら、教育は堕落する」といった非民主的で独善的なことを公言する学習・専門家も、いまだに少なくない。(pp.47-48)
(略)
 マーケット内のニーズを直視しないという傾向は、しばしば「官僚の特性」として語られるが、教育の世界では民間企業も、皮肉なことに「教育の理想」なるものを真面目に(実は独善的に)追い求める企業ほど、「マーケットを見ない」という「サプライヤー・オリエンテッド」な発想に陥っている。例えば、学校教育の情報化が進み始めた時期には、教育用ソフトを開発していた企業の多くが、現場の教員や子どもたちのニーズを見ず、独善的な「使われるべきソフト」を作り続けていた。(略)
 その結果、日本には「調べ学習用ソフト」は世界で最もたくさんあるが、教師や生徒の切実なニーズに対応した、各教科の日々の授業で使えるソフトは、皆無に近いという状況になっていたのだ。(pp.48-49)
▼全く、その通りである。上部と下部の引用では「サプライヤー」の定義が異なるが(前者では教員がサプライヤーに含まれているが、後者では、教員は消費者として見なされている)、言わんとしていることは同じである。両者とも、「顧客」を無視している。また、私が知る限りにおいても「ニーズ」を踏まえない議論が多いのが実情である。
注:著者は「詰め込み学習」に対する学習法としての「チャイルド・センタード・アプローチ」(いわゆる子ども中心)には批判的というか、「個々の子どもたち自身にとって必要な能力」(子どものニーズ)と、「国家にとって必要な能力」(国家のニーズ)を明確に区別するべきだと論じている(p.110)。これらは一見、上記引用と矛盾しているように思えるのだが、そもそもニーズが意識されていないのが日本の現状なのかもしれない。
 確かに、すべてのニーズを満たすのは容易ではない。万人にとって理想のスケジューラが存在しないように(例えば、月曜日始まりのカレンダーと、日曜日始まりのカレンダーは統一不可能だし、仕事重視の人と、アフター5重視の人ではかみ合わない)、教育の世界でも、多様なニーズを満たすのは困難である。しかし、もう少しユーザとサプライヤーの調整を図った方が良いはずだ。

 こういう「当たり前」のことを考える上でも、本書は有意義かもしれない。

 教育業界では「マーケット」というものの存在それ自体が、よく理解されていない(らしい)ということが分かっただけでも、私的には価値があった本である。

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ハノイの塔

▼職場の飾り物で何か「おもしろいもの」が欲しいなぁ…と、物欲で頭をグルグルさせる。レゴの「マインドストーム」はちょっと値が張るし、ポスターよりはホンモノの絵が欲しいし(これもまた値が張るのが難点)、インテリア時計(鳩ぽっぽ時計とか)というのも、いまいち面白くないし…などと考えている時に思いついたのが、「ハノイの塔」。

 「認知科学」(あるいは学習心理学)周辺についてご存じの方なら、必ずや一度は聞いたことがあるゲームだと思われる。詳しくは、ウィキペディアを参照。ちなみに、ベトナムの首都にある塔でも、あるいはバベルの塔に匹敵するような概念ではない。数学に詳しい方ならば、数列の概念の導入教材として知られているかもしれない。

 私自身は、LISP(注:プログラミング言語の一つ)を学習した際に「ハノイの塔」の存在を知ったような気がする。また、ノーマンの『人を賢くする道具 』で、ハノイの塔の新たな解法というか、外的制約の重要性を知って感激した記憶もある。何にせよ、私にとってはシンボリックな意味を持つ、「道具」であることには違いない。

 こんなの売っているのかなぁ…と思って調べてみたら、amazonで扱っているじゃないですか。というわけで早速、購入してみた。木製の積木と一緒に置いておこう。

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歴史をたどる

▼物事の歴史をたどる、というのは時に愉しい作業である。会話のネタにもなるし。

 昨年は広島発祥関係について、いくつか調べたことがあった。この手の話題は、『東洋経済』や『ダイヤモンド』などの経済系週刊誌による地域特集が圧倒的に詳しいが、たとえば広島の場合は、マツダを筆頭として(以下、企業規模は無視)、100円ショップダイソーや、ジャムのアヲハタなどが、知名度的にも代表格か。

 あるいは、東京人には意外かもしれないがアンデルセン(ベーカリー)も本社は広島だし、カルビー(えびせん)も元々は広島が本社である。オタフクソースは言うまでもなく。「ゆかり」で知られる三島食品もしかり。一号店という話でいけば、ユニクロ(岡山県)の第一号店は広島だったりするらしい(ユニクロについてはこちらに詳しい)

▼しかし、だ。大分の発祥の企業というのは、調べてみても、実は数は多くない。三和酒類のiichiko(焼酎)、フンドーキン(醤油)は全国区だとは思うが、後は、「関あじ・関さば」にしても、「ゆずこしょう」「かぼす」にしても、特定企業のブランドではない。キヤノンのデジタルカメラの大半はMade in OITAと言っても、ちと違うし。

 うーむ。考えてみれば宮城県(私の出身地)も、さほどあるわけではないし、広島が多すぎるのかもしれない。何せ、歴史的にも工業地帯だしな。

▼ちなみに、最近、耐震偽装疑惑で何かと名前を聞く神奈川県藤沢市(私が学部時代住んでいた所)の東急ハンズは、記念すべき東急ハンズ第一号店。

 ちなみに、東急ハンズが生まれたのは1975年のことである。
 さらに関係ないが、マイクロソフトも1975年生まれらしい。

 Appleも1975年だったら良かったのに、などとどうでもいいことを思ってみたり。

▼以上、小中学生の「調べ学習」的な話題でした。もう少し深く調べないと、ただ調べただけに終わってしまいます。がんばりましょう。

追伸
 「企業研究」法につながる内容かもしれない。会社四季報就職四季報とか。

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書店物色

▼大分には(にも)ジュンク堂があって、大変便利に利用させてもらっている。広島にも広島駅前にジュンク堂があったのだが、広島駅と街の繁華街が微妙に離れているので、正直、あまり使い勝手がよくなかった。その点、大分は街の中心=大分駅近辺なので、何かと便利である(もっとも、それだけ街の規模が小さいのだが)。

 統計的話題の下調べのため、いくつか物色。  数字を使わない統計入門という意味で、この本は何かと使えるかも。以前、読書メモにも書いた以下の本も、類書という訳ではないが、仕事的には同様に使えそう。
▼ついでに以前から話題になっていた、↓も購入。一気に読み進める。
 いずれ読書メモを書くつもり。以上、昨日の行動記録なり。

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ハードディスク50周年

▼ヨドバシからメルマガで、今年はハードディスク誕生50周年ということが発覚。
アメリカで初めてのハードディスクが誕生したのは、
1956年9月13日。今や、パソコンはもちろんDVDレコーダー、
はたまたテレビにまで入るHDDは、今年9月で誕生から50年
を迎えるそうです。5Mバイトから始まったHDDは、今や最大
10万倍の500Gバイト。いつのまにか、こんなに大容量~っ!
http://www.yodobashi.com/enjoy/more/sale/53150931.html
 その他関連ニュース
  • http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0604/12/news088.html
▼記憶が確かならば、私がハードディスクを初めて購入したのは…、1991年のことだった。40M(念のため強調しておくが、ギガではない。メガバイトである)で当時としては破格の4万円台だったような記憶がある。ハードディスク+後に1Mのメモリ(言うまでもないがギガではない)を増設して、すげー「超」高速!と喜んでいたはずだ。

 考えてみれば、高校時代、バイトでお金を貯めて初めて購入したものがハードディスクだったのかもしれない。ちなみに、現在の我が家のバックアップ用ハードディスクは200G。1G=1000Mとして、表記を改めれば、200,000Mである。

 でも値段は当時の半額以下だもんなぁ。

 恐るべしムーアの法則(ムーアはトランジスタの話だけども)。

▼ちなみに、大分を代表するトキハデパートは今年で70周年。
 日本最初の電子計算機が誕生してから50年。
 スターバックスが日本に上陸してから、10年。

 こうやって歴史を振り返ることの意味を考える今日この頃。

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読書メモ(断片):変化する社会の不平等

▼食堂で、「おまえ負け組みたいなもん食っているな」という声を聞く。なんじゃそりゃ?と思わず、私も視線をそちらに向けてしまったのだが、確かに「負け組」発言をしている男性と比較すると、おかずは比較的シンプルである。しかし、私にとっての驚きは、「負け組」がこんな用法にまで広がっていることについてである。本人が、どういう意図で言ったのか分からないが、ふと考えこんでしまった。

 私は、食堂では油っこいものを食べないし、菜食中心なので、金額的には比較的安価で済んでいる。総菜の単価が30~100円くらいなこともあって(改めて考えてみても安いな)、品目を少し多くしていること以外、傍目からみれば、私も「負け組」みたいなもんを食べているのかな、と思う。合計金額も、その「負け組」と言われた彼と変わらないし。しかし、私にとっては、これは健康のためでしかないのである。
(注)これは昨日、書いた「エコ」の話と通じている。節約を心がけること=けちくさいと、エコ重視は同じことの裏返しで、解釈次第だ。
▼もしかしたら「勝ち組」「負け組」あるいは「上流」「下流」という言葉ほど、概念が一人歩きしている言葉はないのかもしれない、と思う。概念が一人歩きすることの危険性の一つは、「現実」の見るべき姿が、隠されてしまうことだ。社会的格差の広がりをどう捉えるかは、今後の日本の未来を占う(あるいは世界の未来を占う)重要な論点だが、現状は単なる「ネタ」化してしまっている。他人事なのである。

 そういえば、以前読んだ『変化する社会の不平等』にこんな一節があった。
 黒か白かを強引に結論づけて、短絡的に二極化させる思考体系は、事実を不透明にしてあえて現実から逃避することに通じる。歌劇な言葉に人々は妙に納得させられて、現実を受け入れる。ここでの二分化論の背景にあるのは、結果はそれも他人事といえる逃げの論理である。極端な負け組みと極端な勝ち組みを想定した二極分化論の中に、人々の多くは該当しない。二極分化論で該当するものが結局のところ少数派であるというのが、この議論の鍵である。世の中はもう少し複雑で、負け組みでも勝ち組みとも言い切れないものが多数いる。その多数派はこの二極分化論には登場しない。二極分化論に自分はいないので、二極分化論で展開される不平等論は、結局他人ごとの面白いお話にすぎない。だから、他人事の過激なストーリーを受け入れ、世の中がわかった気になって安心する。「そういうことって、わかるような気がする」「でも、自分のことじゃないから、本当のところわからないのよね」と読者は半ば安心して感想を述べる。
 「他人事の面白いお話にすぎない」という指摘は、傾聴に値するだろう。マスメディアの影響だけではないとは思うが、「自分の問題」として捉えにく問題なのであろう。

▼格差(社会格差でも、意欲格差でも何でもいいのだが)については、以前から気になっているところだが、「もやもや」感は大きくても、それをうまく語る語り口を未だ持ち得ていない。昨年度、仕事で「格差」に触れた時も、受けは良くなかったしなぁ。  今後今しばらくは課題なのかな(いつも同じような結論で恐縮だが)。

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言いたいこと・イイタイコト

▼今時のワカモノ(死語)はそうでもないのかもしれないが、私なんかは「言いたいこと」と言うとカタカナに自動変換されて、「イイタイコト」という「駿台式」の現代文を彷彿してしまう(ATOKも真っ青である)。何故に、イイタイコトがカタカナなのか正直分からなかったのだが(私的には当時代ゼミの田村秀行式現代文読解法の方がしっくりきた)、最近は小学校の作文教育でも「言いたいこと」が重視されているらしい。

 確かに、「言いたいこと」の重要性は分からないでもないだのが、敢えて人に「言いたいこと(主張?)」って、そんなにあるものかなと、思ってみたり。もっとも、こういったボヤキも「言いたいこと」の一種と言えば、そうなのかもしれないが…。

▼最近読んだ『ベネッセ発・小学生からの「考えて書く力」』によれば、「言いたいこと」がある文章が書けることが第一段階。その後、自分なりの「理由・根拠」をつけたり、読み手に「理解・納得」してもらえるように筋道立てて書くことが、小学生においても(「作文・表現力講座」カリキュラムの基本方針」として)、期待されているらしい。

 以下、引用。「作文・表現力講座」カリキュラムの基本方針を順序を逆にした。
第1段階
漠然と思っていることではなく、自分の「言いたいこと」がある文章が書ける。

第2段階
自分の「言いたいこと」を整理して、それを順序を考えて書ける。

第3段階
自分の「言いたいこと」をきちんとまとめて、それを自分の考えとして的を絞った書き方で書ける。

第4段階
自分の「考え」がなぜそれなのか、自分なりの理由・根拠をつけた文章が書ける。

第5段階
自分の「考え」が、なぜそう考えたのか背景や過程も読み手に伝わりやすいように、筋道立てた文章が書ける。

第6段階

自分の「考え」が、意見として読み手に(もっともだと)理解・納得してもらえるように、読み手のもつであろう疑問にも応える形で、筋道立てた文章が書ける。

到達目標
自分の考えや意見を、相手が理解・納得してくれるように、相手のねらいや条件に合わせて、(考えを深めたり整理し、)伝え方・表現の仕方を上手に変えて伝えることができる文章作成力が身についている。
▼そこはかとない「違和感」「は何に起因するのが分からないのだが、私の頭の中には、「言いたいこと」は独創的であるべきだ、と言う思い込みがあるからいけないのかな。確かに、そういう前提に立ってしまうと、何も書けなくなってしまうし、「独創性」を強調してしまいがちな点が、これまでの作文教育の弊害になっているのかもしれない。

 広い意味では、何でも、誰でも「言いたいこと」は少なからずあるだろうし。
 私も、「言いたいこと」が何なのかが分からない、と「言ってる」訳で。

 個人的には、
  • 「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする
 という俵万智の短歌の方がしっくりくるのだが、そんなことはどうでもいい。

▼考えてみれば、ベネッセは駿台系か。逆に言えば、駿台はベネッセ系か。

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エコワット(簡易電力量表示器)導入

▼私は、これでも「エコ」重視の人間なので(注:小学生の時、「石油エネルギーはいずれ枯渇する」という話を聞いたのがきっかけである。今もなお心配ごとだが)、可能な限りの節約に努めている(つもり)である。節約に努めること=自分のため、が結果として、全体の「エコ」につながるという循環が生じるのも良い点である。

▼なーんて、前置きはどうでもいいのだが、節電効果を測定するために前から欲しかったエコワット(簡易電力量表示器)を購入してみる。本当は、もっと高度な測定ができるワットチェッカーが欲しかったのだが、まずは実験である。もっとも、この手のグッツは、ほとんど自己満足のためのもので、短期的な対費用効果を考えると意味がなかったりするのだが…。ま、やっぱり自己満足かな。

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大学ランキング

▼朝日新聞社『大学ランキング』の2007年版が出たので、早速入手。

 何を隠そう(隠すことじゃないけど)、私自身、大学を選ぶ際、最も参考にしたのがこの手の本だったりする。そうじゃなかったら、ICU(注:国際基督教大学のこと)に行きたい!とか、SFC(注:慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスのこと)に行きたい!なんて思わないだろうし。まして地方の人間にとっては、地元国立大志向が圧倒的に強い訳で、それに「対抗」するためには、この手のデータは当時としては非常に貴重だった。

 今読み直してみると、もし私が今、高校生だったら、もしかしたら海外の大学を目指したんじゃないか、思ってみたりもする(昔から生意気なガキだったのである)。

▼大きなことは言えないが、とりあえずは失われた10数年を取り戻すこと。一極集中しがちな現状を是正すること。それでいて、地方であっても海外に対抗しうる組織を目指さなければ、と思ってみたりする。川崎和男氏ではないが、良くも悪くも、「わがまま」さを発揮できるような環境に自らを置いていきたい、と思ってみたりする。

 もっとも、口だけっていう説もあって、地に足を付けなければならない訳だが…。

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MTバージョンアップ&吉田家の牛丼

▼最近、本日記で利用しているMovable Typeのバージョンを、3.2-ja-2にupしました。新バージョンへの移行は面倒かと思っていたら、意外と簡単だった。もっと早くしておけばよかった…と、相変わらず後悔役に立たずモードである。これで、トラックバックやコメントに対するスパムも、幾分軽減するかな…と期待。

 バージョンアップのススメ&サーバの一時停止等について、ホスティング会社からメールをいただいたのが、今回のきっかけ。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

▼帰宅が遅くなって、久々(大分に来てから初めて)コンビニで弁当を買う。というのも、たまたま入った「ポプラ」に「吉田家の牛丼」(はなわプロデュース)が新発売!されていたからである。「佐賀県の唄」は、はなわの出世作だが、佐賀県も大分県も同じ九州なんだよなぁと、しみじみ思ってみたり。

 味はまあまあ以上、かな。久々にコンビニ弁当を食べたが、意外と(失礼)うまかったかも。中四国・九州限定&期間限定なのですが、ぜひお試しあれ。でも、530円はちと高いような…(コンビニ弁当って、そんなもんだっけ?)。

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おざわ代表

▼ダイヒョーに就任しましたおざわです。私、お恥ずかしい話ですが、代ゼミにて一浪の経験があります。生まれは東京ですが、育ちは東北。ジャイアンツ愛はあいにく持てませんが、郷土愛は多少はあります。寿司を食べるならば、そりりゃ松でしょう、と言いたいところですが、竹より下でも可です(でも、できれば梅よりは竹派)。

 まずは、靖国神社が東京の桜の開花の基準になっている点について、見直しが必要ではないか、と考えております。それでこそ日本一新。桜前線も前進。戦場に前線も後方支援も関係ないのであります。

 今後も一進一退の思いで、成犬交代に向けて、精進して参る次第です。
 ご支援、ご声援のほどよろしくお願いいたします。

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昨年度、私の授業を受講していた皆さんへ

▼大分にやってきて一週間以上が経ちました。まだ、ほとんどの皆さんにご挨拶ができていません。相変わらず怠慢な私ですが、予想以上に、気にされている方がおられるようなので、以下、主に昨年度、私が直接的に関わってきた(皆さんに選択権があるわけではないので「関わらざるを得なかった」かな)皆さんにお伝えします。

 なぜ大分へ行くことになったのか。

 この質問は、これから先もしばらく聞かれると思います。私は、過去にも比較的移動が多い人間だったので(東京生まれで、宮城県=仙台育ち、大学は神奈川=藤沢で、大学院は石川=金沢近辺、その後、埼玉=所沢から広島へ…というのは私の自己紹介の十八番でした)、移動する度ごとによく聞かれていました。

 表層的に答えれば、私は、土地に対するこだわりがあまりないとか(一極集中を好まず、地方でマイペースに生活する方が私の性に合っています)、面白そうなこと、自分がワクワクできることがあれば、たぶん、私は住む場所も仕事を選ばないのだと思います。あるいは、自分がこれまで学んできたことを新しい土地で試すことができるのか、確認したい、という気持ちもどこかであるのかもしれません。

 上記の回答で、通常の日常会話は済んでしまうのですが、質問の本意はそれだけではないですよね。何かを選択するということは何かを捨てる、ということも意味します。変化には、必ずと言って良いほど喪失を伴います。恋愛関係に置き換えれば、「なぜ彼(彼女)なの」という問いよりも、「なぜ私じゃないの」という問いの方が場合によっては、悩みとしてはより深いと思います(おっと、話がズレますね)。

▼私なんかは、ご存じのように「迷い」のかたまりのような人間ですから、このような時に、迷わない訳がありません。しかも、組織に属している限り(誰でも何かしら、社会集団に属しています)、一人の問題は組織全体にも何らかの影響を及ぼします。実際、関係各位に迷惑をかけているわけですし、申し訳なく思っています。今、この時期に転職をするということが何を意味するのかも極めて難しい問題です。

 例えば、私にとっても予想しえない影響があるかもしれません。自己中心的な話題で恐縮ですが、例えば、私に対する一般的な信頼(性)が低下するかもしれません。人によっては、あそこ(所属大学名、大学院名)の出身の人は「すぐに辞める」などと風評を立てられるかもしれません。他にもいろんな噂話が出るかもしれません。

 しかし同時に、組織にとって個人というのは、「歯車」の一つに過ぎないという見方も可能です。この問題は、一言では語りきれない難しい問題ですが、今の世の中は、良くも悪くも「代替可能」あるいは「交換可能」にできている面があります。大きな目で見れば、誰かは誰かの「代わり」になってしまうのです(例えば、アルバイトの仕事でも、一人一人の人間関係で見れば、AさんはBさんの代わりにはなりませんが、大きな目で見れば、誰もが「同じような」仕事をしなければ全体はうまくまわりません)。

 私も、こんな文章を書いていますが、既に忘却の彼方の存在かもしれません。
 今はそうでなくても、いずれ記憶は薄らいでいくかもしれません。
 
 もしかしたら、人はどこかで、「かけがえのなさ」と「代替(交換)可能性」と、闘わなくてはならないのかもしれませんね。事実、私も、皆さんとの出会いが、心の支えとなっていますが、同時に、代替(交換)可能性におびえざるを得ない面がどこかにありました。皆さんは偶然にも、この対立的関係について考える機会を得た、と考えると少しは今回の件の捉え方も変わってくるかもしれません。

▼過去に、金井壽宏先生のキャリア論を紹介した時に(覚えていないかもしれませんが)、「偶然性(不確実性)」の重要性や、「変化」にまつわる心理的変化について論じたことがありました。偶然性や変化をどう捉え、受容し、対峙するか。これは私にとっても、大きな課題であり、謎であり、「問い」です。皆さんも、この「問い」をどこかに抱きながらキャリアを歩んでもらいたいと思っています。
 「無責任」と言い放つのは易しいかもしれません。しかし、もし、その説明で納得するならば、私が教えられることは(学べることは)始めから何もなかったと思います。

 ぜひ、未来に向けて毎日を着実に歩んでいきましょう。
 私も、そうありたいと願っています。

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読書メモ(ミニ):子どもエスノグラフィー

▼3月中、日記の更新をお休みしてしまったが、読書はマイペースで進めていた。読書メモをまとめて書こうと思っていたのだが、まとめて記録しようとすると、かなりの時間がかかってしまうらしい。やはり、この手の記録は日々の積み重ねだよな…と、当たり前のことを確認。追いつくのはしばらくかかりそうだが、できることから進めたい。

 3月中に手に入れて、今読み直してみても参考になりそうなのが、以下2冊。
 保育園から大学・大学院まで、幅広く(器用貧乏になりそうだが)、射程に入れていきたいところである。

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桜さくら

▼大分は桜がほぼ満開です。さすがに九州だけあって、満開になるのも早い(まだ九州に住んでいるという実感は薄いのだが)。

▼某高校の運動会(ゴールデンウィークの最中に開催?)のキャッチフレーズは「桜吹雪だ春の陣」だったような…なんて、15年以上も前のことを思い返してみたり。

▼仙台から見れば、大分は遙か彼方。
 逆もまたしかり。
 思えば、遠くに来たもんだ。

 と言いたいところだが、「遠い」とか「近い」は極めて主観的概念である。
 距離や時間ほど、移ろいやすい概念もない、かもしれない。

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大分県大分市民になりました

▼先日、転居について本日記上でも簡単にアナウンスさせていただきましたが、4月からは大分県は大分市民になります。今後、やや時間がかかるかと思われますが、関係各位には、電子メールやハガキ等で正式にご連絡をさせていただければと思っています。私自身、3年連続、「新入社員」になるとは思ってもみませんでしたが、今後も過去・現在・未来に対する責任を真っ当していく所存です。

 詳しい経緯等は、今後、本日記等でご報告させていただければと思っています。
 今後とも、変わらぬご指導・ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。

追伸
 本日記(ブログ)も3月中はお休みさせていただいておりましたが、今後、順次復活いたします。「こっそり」あるいは「ひっそり」更新というスタンスは変えないつもりです(性格的に変えられないと思います)が、近々、デザインも少し変えて、少し使いやすくしたいとは思っています。どうぞ今後ともご声援をよろしくお願いします。

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