のび太の結婚前夜
▼昨年の今日、横浜は関内にて結婚式を挙げた。今日は結婚1年目の記念日である。昨年の3月は結婚と転職が重なったこともあって、ブログ(Web日記)の更新がまったくできず、今年も理由あって更新ができていないのだが(どうもこの時期は多忙なのである)、この1年は「はやかったなぁ」というのが正直な感想だ。
▼結婚式では、たくさんの皆さんに祝福をいただいた。今もって感謝するばかりである。私は、いわゆる「人前式」の形式を取らせていただいたのだが、あの時の「宣誓」は一章忘れることはないだろう(もっとも、あの時は緊張していたこともあって、セリフを読むのに精一杯だったのだが)。
今だから言えること、というわけではないが、披露宴の最後の挨拶で、あと一言は付け加えるべきだったかな、と思う(職業柄か、私はイベント時の時間管理にはうるさいので、自分の結婚式も時間が気になって仕方がなかったのである←言い訳)。もっとも、一言加えると言っても引用で、しかも引用予定元は『ドラえもん』なのだけれど。
▼知る人ぞ知るネタかもしれないが、『ドラえもん』の作品の一つに「のび太の結婚前夜」がある(映画化もされているし、テレビでご覧になった方も少なくないかもしれない)。結婚を迎える乙女心はもちろんのこと、娘を持つ親心をも(注:って、私には分からないけれど)、鋭くも、かつ、あたたかく描いた名作中の名作だ。
私が触れようと思ったのは以下の一節である。
つまらん要約をするよりも、該当シーンを引用した方が適切だろう。
▼「しあわせ」とは何か。どうすれば、人は「しあわせ」になれるのか。今後も私にとって、この問いが頭のどこかから離れることはないだろう。おそらく、原理的には不幸を避けることは、幸せを願う以上不可能なのだと思う(不幸なくしてしあわせという概念は成立し得ないからである)。しかし、だからこそ、人のしあわせや不幸のどちらに対しても目をそらさない人間でいたい、と節に願う。
盲目であることを忘却さえしなければ、恋は決して盲目ではない、はずである。「なんにもしてあげられなかった」という無力感も抱えながら、今を生きていきたい。
▼結婚式では、たくさんの皆さんに祝福をいただいた。今もって感謝するばかりである。私は、いわゆる「人前式」の形式を取らせていただいたのだが、あの時の「宣誓」は一章忘れることはないだろう(もっとも、あの時は緊張していたこともあって、セリフを読むのに精一杯だったのだが)。
今だから言えること、というわけではないが、披露宴の最後の挨拶で、あと一言は付け加えるべきだったかな、と思う(職業柄か、私はイベント時の時間管理にはうるさいので、自分の結婚式も時間が気になって仕方がなかったのである←言い訳)。もっとも、一言加えると言っても引用で、しかも引用予定元は『ドラえもん』なのだけれど。
▼知る人ぞ知るネタかもしれないが、『ドラえもん』の作品の一つに「のび太の結婚前夜」がある(映画化もされているし、テレビでご覧になった方も少なくないかもしれない)。結婚を迎える乙女心はもちろんのこと、娘を持つ親心をも(注:って、私には分からないけれど)、鋭くも、かつ、あたたかく描いた名作中の名作だ。
私が触れようと思ったのは以下の一節である。
つまらん要約をするよりも、該当シーンを引用した方が適切だろう。
私は、良くも悪くも『ドラえもん』を見て育って世代の一人であり、『ドラえもん』からは、少なからず影響を受けたが、中でもとくに印象に残っているのが、しず(か)パパの「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる」という一節である。なにせ「それが一番、人間にとってだいじなこと」なのだから。しずちゃん:パパ!あたし、およめにいくのやめる!!(略)
あたしがいっちゃたらパパさびしくなるでしょ。
パパ:そりゃもちろんだ。
しずちゃん:これまでずうっと甘えたり、わがままいったり…。
それなのに あたしのほうは、パパやママに なんにもしてあげられなかったわ。
パパ:とんでもない。きみはぼくらに すばらしい おくり物を 残していって くれるんだよ。
しずちゃん:おくり物?あたしが?
パパ:そう。
かぞえきれないほどのね。
(略)
午前三時ごろだったよ。
きみの産声が天使のラッパみたいにきこえた。
あんなに楽しい音楽はきいたことがない。
病院をでたとき かすかに東の空が白んではいたが、頭の上はまだ一面の星空だった。この広い宇宙の片すみに ぼくの血をうけついだ生命が 今 生まれたんだ。
そう思うと、むやみに感動しちゃって。涙がとまらなかったよ。
のび太君を選んだキミの判断は、正しかったと思うよ。
あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。
それが一番、人間にとってだいじなことだからね。
▼「しあわせ」とは何か。どうすれば、人は「しあわせ」になれるのか。今後も私にとって、この問いが頭のどこかから離れることはないだろう。おそらく、原理的には不幸を避けることは、幸せを願う以上不可能なのだと思う(不幸なくしてしあわせという概念は成立し得ないからである)。しかし、だからこそ、人のしあわせや不幸のどちらに対しても目をそらさない人間でいたい、と節に願う。
盲目であることを忘却さえしなければ、恋は決して盲目ではない、はずである。「なんにもしてあげられなかった」という無力感も抱えながら、今を生きていきたい。


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