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2006年2月

読書メモ(ミニ):「あたりまえ」を疑う社会学

▼最近、ちゃんとした読書メモを書いていない。が、何冊か手に取る。クセはあるが、新書でいわゆる「質的調査」の本が出るとは思わなかった。
 「質的調査」の対義語は「量的調査」。いわゆるアンケート調査ではなく、現場での観察や何らかの参加を前提としたが調査法のことを指す。

 「今朝、みのもんたが民主党に対するアンケートについて、協力者が少ない(回収率が低い)と文句を言っていたが、アンケートをばらまくだけばらまいたって、そんなの調査になるわけないじゃない」的な批判が言えるようになったら、大学で社会調査法を学んだ価値があると言うものだ。たぶん。

 しかも、あの回収率にも関わらず、結果を報道してるのもおかしな話だが…。
 某議員にせよ、報道番組にしても、足を使わない、というのはこわいものだ。

 なーんて、本の話からずれてしまった。

▼まったく方向性は違うが、いわゆる量的調査(の批判的な見方の習得)の入門書として優れているのは、やはり↓になるのかな…。これもクセのある本ですが。
 考えてみれば、新書で読める調査本って、「これ」っていう一冊がない(?)かも。

読書メモ(断片):感情と社会変動

▼自分の感情(情動と言うべきか)に、自分自身が弄ばれている(「もてあそぶ」とは便利な漢字である)気がしてきたので、感情社会学その他諸々の文献をいくつか読み直す。しかし、二重に分からなくなってきたので、最近読んだ『自己と他者の社会学』の解説を改めて読んでみた。うーむ。分かるようで分からぬなぁ。

 でも、ウェーバーとフロムの「つながり」が見えたのが収穫だった(って、ずっと前にも似たような「発見」をしている気もするが、既に忘却の彼方だ)。
 ウェーバーはまた、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、神の絶対性と人間の無力性を強調するプロテスタンティズムの教え(特にカルヴァンの予定説)が、信者たちに「かつてない内面的孤独感の感情」と救済への不安をもたらし、それが彼らを「世俗内的禁欲」へと動機づけ、結果として資本主義の発展に結びついたという議論を展開したが(ウェーバー 1904-05=1989)、ここでも彼は社会変動を導く感情の働きに注目しているといえる。

 このウェーバーの観点を受け継ぎ、ナチズムの分析に活用したのがE.フロムの『自由からの逃走』である(フロム 1941=1951)。フロムによれば、第一次世界大戦後のワイマール共和制によって与えられた自由が、当時のドイツの民衆、特に「小さな商店主、職人、ホワイトカラーなどから成る下層中産階級」の人々に、解放感よりむしろ「無力、懐疑、孤独、不安の感情」を生み出し、それがナチズム支持の基盤となった。それはむろんナチズムの「原因」ではなかったが、「それなしにはナチズムは発展することができなかった」であろう。ここでも、ナチズムの台頭という大きな社会変動に結びつく感情的要因の重要性が指摘されている。(p..74-75)
 言われてみると、確かにそう思わないでもないのだが、同じ枠組みで、現代の社会のあり用を「切る」ことができるかと言うと、必ずしもそうとは言えない気がする。

 もっとも、私なんかは、感情を「原因」あるいは、何かの「要因」として捉えたくなってしまうから、そう思うのかもしれないのであって、感情を、何かが動き出す「基盤」として捉えれば、また違った見方ができるのかもしれない。

 それにしても、社会一般に共有する「感情」ほど捉えにくいものはないわな。
 (そもそも自分の感情~情動と言うべきか~だってわかんないんだもん)

▼資本主義とはなんぞや?と考え始めることほど厄介なことはないのかも。

島巡り

▼空き時間に3月の予定をまとめる。昨年に引き続き、3月は何かと慌ただしそうな月になりそうな予感。一つひとつ予定をこなしていくしかあるまい。

 本日は広島市外に、プチ出張。広島に住んでいると、船に乗って移動する、と言うのが、さして珍しくなくなるらしい。宮島(厳島神社)を含めれば、これで5つの島を制覇(?)したことになるのだろうか。宮城県は松島だって、こんなに島はないよな…。

 さすが地名に「島」が付いているだけある、なんて思ってみたり。

▼夜は広島市街で飲み会。前日食べ過ぎたので、今日は控えめ。でも、飲み過ぎ。

宮城県出身

▼荒川静香は宮城県出身だと、妻に教えてもらう。

 宮城県民栄誉賞を受賞とのこと。おめでたい(その前の話題は言うまでもなく)

 調べてみたら、生まれは神奈川だが、育ちは仙台だったらしい。私も、出身は宮城県と答えることにしているのだが、育てばやっぱり出身なのね。

 スポーツの名門の一つ、東北高校(宮里藍も、元プロ野球選手の佐々木も東北高校である)経由で、しかも、早稲田(でも、教育学部)。

 ふむふむ。一度は、街かどこかで違っているかもしれない(わけない)。

▼騒ぎすぎではないか、と言うことを、わざわざ日記に書くのはむなしいような気がするので、私も便乗してみる。

 社会心理学で言うところの、「栄光浴」(basking in reflected glory)かな。
 ものすごーく、間接的な話題であるが。

追伸
 どうでもいいが、教育学部を中退した広末涼子は1980年生まれ。
 荒川静香は81年生まれみたい。本当に、どうでもいい話である。

読書メモ(断片):電子メディアを飼いならす

▼空き時間に、『電子メディアを飼いならす』を読む。

 タイトル買いした本で、実は予想とは違う内容で、一瞬、「失敗したかな」と思ったのだが、読んでみたら意外と(失礼)面白く、学ぶことが多かった。「電子メディア」と言っても、インターネット的な電子メディアではなく、ほとんどがテレビのマスメディアの話。インターネット的もなくはないが、極めて限られている。

 しかし、人類学的研究として、「ウルルン」(世界ウルルン滞在記)や「あいのり」などのテレビ番組の考察は大変興味深かった。テレビ番組の分析と言えば、この1年内に読んだ本の中では、『メディアリテラシーの道具箱』『自己認識としてのメディア・リテラシー』が印象に残っているが、これらで取り上げられている以上に身近な番組だし。 ▼孫引き的引用で恐縮だが、「時間の無さ」の問題について考えさせられてみたり。
 かつてパウダーメイカーはハリウッド社会の政治性を批判的に論じる一方で、他方ではハリウッド社会では誰もが極度の不安-仕事や利益、あるいは名声を失う不安-にとりつかれていると論じ(Powdermaker 1950)。現代のテレビ界は、これらの不安に加えて、「時間の無さ」に由来する不安に覆われているのではないか(ブルデュー 2000:45-49)。ブルデューが論じるように、このような「時間の無さ」のなかでは人は真の意味で「考える」という営みができなくなり、紋切り型の思考へと陥っていくだろう。テレビ界へと足を踏み入れた当初、疑問や違和感を抱くことがあったとしても、多くの場合、その疑問や違和感は、時間に追われるなかでしだいに麻痺していき、紋切り型の思考へと取って代わられてしまうのではないか。「家族愛」や「受け継がれる伝統」をモチーフとする紋切り型のわかりやすい異文化表象が繰り返し生み出される主要な背景の一つとして、こうした「時間の無さ」を挙げることができると考える。(p.270)
 テクノロジーと時間(あるいは速度)については、ヴィリリオ『速度と政治』から得るものが多かったのだが、今後もさらなる課題としたい所だ。
 このあたり、この10年以内で私なりに整理したい問題の一つである。

ドラえもんとミッキーマウス

▼後輩の結婚式の日取りが近づいている。たいへんおめでたい話である。が、仕事が重なっていて、今回は伺えない。極めて遺憾である。

 仕方がないので、祝電を打とうと文面を考えていた最中の出来事である。「ミッキーマウス電報」と「ドラえもん電報」が並んでいる姿が思い浮かんだ瞬間、悪寒が走った。

 (ミッキー)マウスは、ドラえもんの宿敵ではないか。

▼ドラえもんは、ネズミの前では理性を失うことは広く知られている。

 理性を失ったドラえもんを前にしては、式のつつがない進行、また二人の幸せを願うどころか、地球存続の危機に陥りかねない(彼は、「地球破壊爆弾」を宿敵に対して使おうとしたことがあるのは有名な話。ブッシュえもんも真っ青である)。電報仲間で言えば、おそらくアンパンマンもドラえもんには抵抗不能であろう。

 というわけで、おとなしく普通の押し花か、刺繍の電報にしようかと画策中。

For we shall not repeat the evil.

▼所用で、広島平和記念資料館ならびに広島平和記念公園に出かける(今、気づいたのだが沖縄の資料館は「平和祈念」なのに対して、広島は「平和記念」である)。広島市街の散策のついでだったのだが、結局、昼食後、閉館間際まで見学していたような気がしないでもない(もっとも、昼食も遅かったのだが)。
  • http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
    広島平和記念資料館
  • http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/
    沖縄県平和祈念資料館
 原爆慰霊碑に記されている「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を繰り返し唱えながら一日を終える(ちなみに英語では、"Let all the soul here rest in peace. For we shall not repeat the evil."になるらしい)。ブッシュには理解できない英文だろうな、と思いつつマッカーサーの"I shall return"を思い返す。

 ちゃんと平和公園に行ったのは、昨年の8月6日ぶりかも。

▼前々から気になっていた↓をゲット。  今月は、面白い本と出会う率が高いかも。

平凡な(しかし希有な)一日

▼最近、株価が急激に下がっているので、日本版ブラックマンデーになったら嫌だなぁと思いつつ、自らも株を一部売却。株安に荷担してしまった。

 私はITバブル時の、第一次資産倍増計画が実際的には資産半減になった経験があって、株には懲りているのだが(注:その後、2年かかって持ち直したが、ようやく当時の水準に戻っただけ)、まあ、戻っただけいいか。

 つくづ株というか、くお金には円がないらしい。あ、縁か。

▼その後、バタバタしつつも、やるべきことをやって一日を終える。
 昨年も今年も、この時期は平凡でありながら、希有な一日を過ごしているらしい。

沈まぬ太陽

▼部屋を掃除していたら、『沈まぬ太陽』が発掘されて、思わず読んでしまう(引っ越し後、一度も開封していなかったらしい)。某航空会社の内紛のニュースを見聞きしたり、どこかに開港した新空港のニュースを耳にしたせいもあるが、まあ、さすがは山崎豊子といった所か。

▼関係ないが、昨日、定期預金(注:2万円しか預けていない)の満期が迎えるというお便りがハガキで届く。ネットで確認してるんだから、ハガキ分の利子を付けて欲しい、と思ってみたり。ハガキ代÷利子なんぞ計算するまでもないが、何というか、良くも悪くも「守られた」業界というのは、外から見ると、不思議なものである。

もっとも、私の仕事も外から見ると、不思議なんだろうけども。

▼関係ないが矢田亜希子は3月で某社のCM終了とのこと(こういうのってIR情報には載らないのね)。個人的には藤原紀香時代のCMの一番よかったなぁ。

最近の本

▼仕事はさっぱり落ち着かないのだが、何冊か本を読み進める。  『変化する社会の不平等』は、これは傾聴の価値あり。詳しくはまた改めて。

祝!みなとみらい21空港

▼表題のようなネタを書き始めたのだが、実は、これはあまり「ネタ」になっていないことが発覚。何故に、「走り出したら止まらない」プロジェクトになってしまったのだろうなぁ…と思ってみたり。東京人の感覚からすると、今回の神戸空港は、ちょうど横浜の山下公園のちょっと先。正確に言うと、南本牧の先に空港を作ったような感じである。

 Google Map等で検討したら、伊丹空港=神戸空港と、羽田空港=山下公園ちょっとの先は距離的には実によく似た感じになるらしい(Photoshopで思わず地図を作りそうになってしまったのだが、あまりにシニカルなので途中で止めてしまった)。Google Mapの偉大さに感服しつつ、神戸空港のその後が気になる今日この頃。

 横浜市だったら、「元町・中華街の活性化」を名目にするのだろうが、さすがに空港は作らないだろう…(実際、作れるか否かは別の話)。

▼確かに、日本の「失われた10年」において、確かに神戸の大震災が及ぼした影響は計り知れない(「大震災がなかったら」は無意味な仮定である。なぜ自分は大震災に遭わなかったのか(遭っていないのか)を考える方が建設的だ)。私も復興を願ってやまないが、発想の貧困さは、新たな喪失を生むような気がしないでもない。

 まそう言いつつ、私がもし横浜市長(もしくは神奈川県知事)になったら、みなとみらいに「これがホントの最後!」のみなとみらい21空港を誘致しそうだが。その前に、シムシティで街作りの勉強をせねば。

追伸
久々に調べてみたら、シムシティは4まで発売されているのね。
言うまでもなく、「街作り」のシミュレーションゲームである。
私は、高校時代だったか「地球作り」のシムアースにはまった記憶が…。

円熟

▼昨日、お酒屋さんでキリンの発泡酒の新製品「円熟」を目撃。新製品好きの私はとりあえず購入→早速、試飲してみたら、これがまたうまい!私は、「深い」味わいのビールをあまり好まない傾向があったのだが、これは実にいけている。キリンは、第三のビールと言い、発泡酒と言い、この手の分野の技術は長けているのかも。

 あまりに美味しかったので、「円熟」をを2本飲んでしまった。実に珍しい。
  • http://www.kirin.co.jp/brands/enjuku/index.html
▼円熟とか、円環、円滑とか、「円」と「縁」深い言葉って、意外と味わい深いのかも。

 もっとも円安とか円高とか(とくに円高)私的にはあまり聞きたくない言葉ではある。

愛を守りきれなくて

▼私が岡村孝子さんの曲を本格的に聴き始めたのは中学3年生の時だった(正確には彼女の存在を意識し始めたのは中学2年時だったのだが、ラジオかテレビで耳にしたは良いが、アーティスト名が分からずエアチェックができなかったのだ)。最初に繰り返し耳にしたのは1989年のアルバム『Eau Du Ciel』を特集したFM放送だったと思う。

 数曲取り上げられた曲の中で、当時の私が、繰り返し聴いていたのは「愛を守りきれなくて」である(彼女の名曲「夢をあきらめないで」は、私は節目の時にのみ聴く曲だ)。そもそも、中学時代の私には「愛を守りきれなく」なったことなどあるわけもないのだが、何か心の琴線にふれるところがあったのだろう。
「愛を守りきれなくて」 岡村孝子 作詞・作曲

見上げている 夜明けの空に 細い月が浮かんでる
はしゃぎすぎた 昨日の夜を 癒すように静かに

知らない街で 背伸びすることを 覚えていく私は
こうしていくつの 眠れない夜を 越えていけばいいのだろう

平凡すぎる 幸せよりも 何かを求めていたかった
皮肉なものね 失くしたものが いちばん今 欲しいのに

ごめんね 愛を守りきれなくて あの日の想い色あせる
遠くでいつも 見守っていると 笑った瞳が揺れていた

ごめんね 愛を守りきれなくて 私はもう戻れない
はじまる今日を 迎えることが 今 いちばんの勇気

見上げている 夜明けの空に 細い月が消えてゆく
(歌詞カードを見ていないので、微妙に漢字変換等に誤りがあるかも)
 考えてみれば、本曲は、岡村孝子さんの作詞の中では、数少ない失恋(させる)ソングである。彼女の曲は、基本的には、どんな時にも極めてクールなのが特徴なのだが、この歌詞においても「遠くでいつも 見守っていると 笑った瞳が揺れていた」や、月についての描写に代表されるように、クールな「観察力」が目立つ。

 彼女の、失恋(する)ソングでも、この傾向はあって、例えば「秋の日の夕暮れ」では、「見つめあってる 瞳の奥に 知らない誰かが映った 私はずっと気づかないから 心配せずに云ってね」のように、気づいていながらも<気づいていないふり>をするという極めてアクロバティックな力量を発揮している。これもクールさがなせる技であろう。

▼今日は、ふと「愛を守りきれなくて」を聴きたくなって、朝方、繰り返し聴いてしまった。そもそも「愛」が何たるか私には分からないのだが、「失恋」(させる)という立場について、ふと考えこんでしまったりして。

 どんな時にでも、パッションに裏づけられた、しかしクールな観察力を失わないでいたいものだ(言うまでもないが、広義の「失恋」について書いている。誤解なきよう)。

チョコレート

▼何人かの友人が、「おざわさん、ウハウハでしょー」というメッセージをくださった(注:私はメッセンジャーはログインしていたとしても、あまり実用的には利用していない。返事がなかったからと言って気にしないでいただきたい)。何がウハウハなのか、私にはさっぱり分からないのが実情である。

 とは言え、ちょっぴり期待して職場に行ったら…。そこにあったのは、ただ単に雑然とした空間であった。掃除してるつもりなんだけどね。最近は、なおざりらしい。

▼クロネコの夜便で、妻からチョコレートが届く。ありがたいことである。久々に牛乳を買って(注:私はヨーグルトはよく食べるが、牛乳はあまり飲まないらしい)、カフェラテと一緒にチョコを食すことにする。カフェラテとチョコを味わって、アルコールを少々飲む。考えてみれば、結局、夕食を取らずに寝てしまったらしい。いかんわ。

読書メモ(断片):デザインの輪郭

▼別に何の用もないが、無印良品へ出かける。店内で適当にブラウジングをしつつ、先日、少しだけ本日記でも話題にした深澤直人氏の『デザインの輪郭』のことを思い出す。何の用もないのに、無印良品へついつい足を運んでしまうのは、何かの感触なり触角を得たいからなのだろうな、と思ってみたりする。
デザインを教える
(略)すべてのものにはデザインがある。人間の周りにあるすべてのものものはデザインされている。デザインがないのではない。いいデザインが少ないのだ。だから教育が大事だと思っている。何かの方法を教えようとしているのではない。何がいいデザインかを感じ取れる触角をまず鍛えようとしているのだ。だから、いいものに触れたときの感触を、出来るだけたくさん感じさせてあげたいのだ。その感触がわかるようになれば、自分のデザインしたものが、同じくらいの魅力を放っているかどうかを判断できるようになる。その魅力がわかれば、それと同じくらいの魅力がつくれるようになる。単純なことなのだ。いいデザインの感触が掴めれば、それをどのようにつくればいいかの知恵が出る。そのプロセスも理解できるようになる。細部の質が、自分の求めている感触をくまなく現しているかどうかの判断も容易にできるようになる。
 
 大学でも、そして、デザイナーになっても、みんな、いいデザインをするための方法を知りたがる。創造性を得るための方法があるのではないかと思っている。しかし、そんなものはないのだ。方法論もノウハウもないのだ。(pp.156-157)(太線・下線は引用者)
 ちなみに「触角」は、昆虫の頭部にある感触器。転じて「物事を探知する能力」を指すらしい。一方、「触覚」は「物にふれたときにおこる感覚。皮膚の触点および各種の受容器により感受される。触覚を用いて積極的にものを認識しようとする行為を能動的触覚という」らしい(いずれも広辞苑より)。微妙に違う意味を持っていたのね。

 こういうちょっとした日本語表現の違いに秘められた機微を感受できるようになりたいものだ。私は高校時代だったか、「直観」と「直感」の違いを意識できるようになって、痛く感動したものだが(ユングの「直観」「思考」「感覚」「感情」のタイプ論もしかり)、こういう違いを意識できる力もまた「デザイン」の一環なのかな、と思ってみたりする。

追伸
 関係ないが、p.114の「謝金だらけの生活」は、文脈から考えると(夜逃げ)「借金だらけの生活」の誤字・誤変換ではないか。読者カードに書こうと思ったらスペースがないので、取り急ぎメモをしておく。ちなみに第2版の話。

都内出張&機内爆睡

▼昨日から都内出張中。出張に便乗して、ヨドバシカメラに寄り道。ジュンク堂にも行きたかったのだが、時間がなくて断念。分刻みとは言わないが、時間刻みでスケジュールをこなさなくてはならず、かなりの疲労がたまってしまった。移動中、思わず爆睡してしまったことに反省。東京なんだから、少しは身の回りに留意せねば…。

▼ちなみに昨日の広島→羽田の機内では、離陸前に爆睡。気づいたら、機内サービスが目の前を通り過ぎ、さらに気づいたら到着していた。離陸や着陸には気づかないのに、何故に機内サービスだけに反応するんだろうな…。何にせよ、機内で爆睡する癖にも留意しなければ…と思う今日この頃。

空弁ネタふたたび

▼空弁(×から弁)ネタで友人からメールを何通かいただく。

 読売新聞の「大手小町」(ひそかに私が愛読しているコーナーの一つ)に、関連するネタがあった。グランドの人が、機内にコーヒーの持ち込みを咎めた、という話は聞いたことがあったが(本来は問題ないらしい)、うーむ。食事そのものではなく、テーブルを出していたことに問題があったとしか思えないが…。
  • http://www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/200412/2004120100107.htm
 ちなみに出張時に私が時々食すのは、まい泉のカツサンドである。
 「空弁」カテゴリじゃないのかもしれないけれど。

▼なお、今日から月曜日まで出張です。来週は何かとバタバタしそうな予感。

アマデウス

▼モーツァルトは今年で250周年。関係ないが、慶應義塾は2008年で150周年。100年も違うのねぇと意味もなく感慨にふけりながら『アマデウス』を久々に観る(私は同じ作品を何度も観る習性があるらしい。と言っても、これは本当に久しぶり)。

 ディレクターズカット版は初めて観たのだが、それなりに印象が違うかも。もっとも、最初に観たのは中学生の頃だからなぁ(音楽の時間の自習で観せてもらったような気がする)。

 ちなみに意外や意外、おざわさんはクラシックをよく聴くらしい。

 何度となくネタにしているが、岡村孝子も、私にとってはパッヘルベルのカノンを聴いているみたいなもんだからな

 神経を摩耗している時には、メチコバール(あ、これってエーザイのお薬だったのね)ないしは、モーツァルトということで。

▼ちなみに広島が誇るケーキ屋さんの一つに、バッケンモーツアルトがある。
 バッケンモーツアルトは30周年みたい。

 私は1周年を何でお祝いしようかカクサクチュウ。

槇文彦

▼なぜか分からないが、ふと、槇文彦(建築家)が恋しくなった。正確に言えば、「槇文彦らしい建築の下で空気を吸いたいと思った」か。槇文彦は知る人ぞ知る、ヒルサイドテラス(代官山)や、京都国立近代美術館、幕張メッセ等を手がけた建築家である。私が4年間+数年間を過ごした大学も、槇文彦氏によるデザインだった。

 学部時代の建物は、決して「生活しやすい」空間とは言えなかったが、一度、「らしさ」を覚えてしまうと、活動がしやすい場だった。図書館がキャンパスの中心にあったのも優れている。図書館の蔵書数の少なさには閉口させられたが、今になって思えば、そもそも、そのことを「問題視」するようにし向けたのも、設計者の意図せざるデザインの一つだったのかもしれない(実際、ILLを使えば不自由しなかったし)。

 槇文彦氏のおかげで(正確に言えば、彼が手がけた建築の中で長時間過ごしていたおかげで)、大学時代、意味もなく建築に凝っていた時期があった。ヒルサイドテラスはもちろん、テピア(東京電力)や幕張メッセ、藤沢市秋葉台体育館など、彼が手がけていて、かつ近場にあった建物を、見に行ったものだ。
(どうでもいい話だが、私はテピアのお手洗いで、「槇文彦らしさ」を実感した気がする。ああいうところにも、建築家の色が出るのだなぁと)。

 磯崎新や黒川紀章、安藤忠雄、最近では伊藤豊雄(せんだいメディアテーク他)や、青木淳(ルイ・ヴィトン表参道他)に興味を持つようになったのも、やはり槇効果のたまものかな…。広島では、槇文彦の師である丹下健三による平和記念資料館が知られるところかな。と言うわけで、久々に、平和記念資料館に足を運ぼうと思ってみたり。

▼その前に、自分の部屋の掃除をした方が良いような気もする。

空腹時における空弁

▼先日、羽田空港での出来事である。私は、大変にお腹がすいていた。イタリア人だったら、ハラ・ペコリータ状態と喩えられる状態である。何を隠そう、私はお腹がすくとスイッチが切れたように、無気力状態になるタイプである。口数は減り、人の話を聞くのも上の空。しまいには、ハラ減った音頭を踊り出すらしい。

 そんな時である。思わず目に入った「空弁」の文字列。
 いつもだったら、何も気にせずに通り過ぎたのだろうが、あの時は違った。

  カラの弁当?

 こっちは腹が減っているというのに、カラの弁当とは何事か?と、憤りを隠せなかったのだが、2.4秒後(弊社推定値)に、あ、「空弁(そらべん)」か…と、軌道修正を図ることができた。恐るべしハラ・ペコリータ・シンキング。

 スキマスイッチでも、スキーマでも、メンタルモデルでも、先行オーガナイザーでも何でも来い、と意味不明なことを考えながら、売店を通り過ぎたのであった。

 ちなみに、その後、空港内ではソバを食した。珍しくかき揚げ付きで。

千と千鳥の神隠し

▼「千鳥状」という言葉に出会った。なんじゃ、千鳥って?と思って調べてみたら…、教養の程が知れてしまうが「ちどり」と読むらしい。「千鳥足」の「千鳥」である。

 いきなり脱線するが、千鳥とはどんな鳥なのか調べてみたら、ああ、「コチドリ」って「ちどり」の仲間だったことが発覚。私は、コチ・ドリと区切って理解していたらしい。恐ろしき分節の力(「いや、よして」と「いやよ、して」ほどではないが)。

 さらに調べてみたら、「千鳥がけ」「千鳥格子」という被服用語もあるらしい。前者は糸を斜めに交差させるぬい方で、後者は千鳥が飛ぶ様子を見立てたチェックパターンを指すようだ(英語だと犬の牙?みたい)。

 で、「千鳥状」に戻ると、要するに斜めに交差させることを差すらしい。ふむ。

▼以前、「市松模様」について調べた時にも思ったが、この手の分野に疎いわな。

追伸
 気分が乗っていたので、思わずチドリの歌(注:小鳥の歌。♪コトリはとっても歌が好き)を口ずさんだら、柱の後方に人が隠れていた…。

読書メモ(断片):標準化

▼本日記でも、D.A.ノーマンの『誰のためのデザイン?』は何度となく取り上げたことがあるが、ふと、「標準化」について調べたくなって読み直す。標準化とは、広辞苑の定義を借りれば「標準に合わせること」「工業製品などの品質・形状・寸法を標準に従って統一すること。これによって互換性を高める」とある。

 要するに、何かしらの外的な「基準」(制約)に従わせるといったところか。 ▼ノーマンの、デザインの原則(難しい作業を単純なものにするための七つの原則)では、一番最後に「以上のすべて(注:6つの原則)がうまくいかないときには標準化をする」とある。「標準化」は最後の手段、ということらしい。

 ちなみにノーマンのデザインの原則は以下の通り(訳書 pp.309-310)
  • (1) 外界にある知識と頭の中にある知識の両者を利用する
  • (2) 作業の構造を単純化する。
  • (3) 対象を目に見えるようにして、実行のへだたりと評価のへだたりに橋をかける。
  • (4) 対応づけを正しくする。
  • (5) 自然の制約や人工的な制約などの制約の力を活用する。
  • (6) エラーに備えたデザインをする。
  • (7) 以上のすべてがうまくいかないときには標準化をする。
 標準化をするとどんなメリットがあるかと言うと(これもノーマンの言葉を借りると)「標準化のすばらしいところは、標準となった仕組みがどんなに恣意的なものであったとしても、一度学べばそれですむというところにある。人はそれを学んで、効率的に利用することができる。タイプライターのキーボード、交通標識や信号、測定の単位、カレンダー、これらがすべてそのようにできている。一貫してその決まりが守られている限り、標準化はうまく機能する(p.331)とのことである。

▼「どんなに恣意的なものであったとしても、一度学べばそれですむ」というのは確かに便利な所ではあるが、「標準化」されてしばらく経つと、それが恣意的なものであったということそのものを忘れてしまうのが難点である。

 QWERT(クワーティ)式のキーボードも、私なんかは富士通の「親指シフト」の存在を知っているから(さらに言えば、私は日本語JISのキーボードは知らぬが、親指シフト入力は、指がまだ覚えている気がする)、疑問に思うことができなくもないが、所与のものとして与えられてしまったら、何故にQWERTなのか、それに疑問に思わないばかりか、「疑問に思う」ということ事態に価値を喪失してしまいかねない気がする。

 それを防ぐためにも、「標準化」の歴史について、考えてみても面白いかもしれない。道路標識って、誰が考えたものなんだろう、とか。

追伸
関係ないが、ちょっと前にタモリクラブを見ていた時に、国土地理院か何かが紹介されていて(注:タモリは知る人ぞ知る、地理マニアである)、新しい地図記号を募集しているというネタが紹介されていた。国土地理院のWebページを見たら、1月25日に「風車」と「老人ホーム」の新しい記号が決まったらしい。なるほどねーって感じ。

フライング

▼スワルドコフスキーさんからホットラインが。ゴルバチョフからホットラインが来てもびっくりだし、スワロフスキー(SWAROVSKI:言うまでもないがクリスタルなブランド)から、なんとなく連絡が来ても驚くけれど、何事かと思ってしまった。さて、肝心の用件だが、シドニーシェルダン流の「超訳」をすると…、え、宮内庁発表はまだなの?まあ、それはそうと、今日は久々にワインで乾杯。チーズを買い置いといて良かった。

最近の本

▼最近、読書メモをあまり書いていなかった…反省。が、私にとって本は睡眠導入剤みたいなものなので、相も変わらず適当に目を通しているらしい。最近、私が面白いなと思ったのは以下の4冊だろうか。読書メモも「書こう、書こう、書こう」と思いつつ、時間がないことを言い訳にしてしまっている今日この頃。
 洋書では(あ、これはお仕事的目的で読み始めた本だけど)、
 が、個人的にはかなりヒット。

▼M氏からいただいた、ジョブス本(言うまでもなく、Appleのしゃちょーさんである)は、読み進める前に、翻訳本の誘惑にかられる…。だって、厚いんだもん。
 より正確に言えば、英和なり英英辞典をひくのがかなり億劫になっているのだった。
 さらに正確に言えば、仕事以外で英語はあまり読みたくない…気分。

読書メモ(ミニ):ケータイ研究の最前線

▼久々に携帯関連の書籍を物色していたら、一冊発見。大学出版会系は、必ずチェックしていたつもりだったのだが、見落としていたらしい。最近、あまり他のブログを見る時間もあまり取れない(言い訳)のも、災いしてるかな…。ケータイのように技術進歩が速いものは内容も陳腐化しがちなのだが、これそうでもないかな。
 ケータイとネットの関係、マクルーハン理論を応用したケータイ論、ケータイの起源を19世紀の箱形カメラにみるエルキ・フータモの「モバイル・メディアの考古学」、テレビ電話はなぜ駄目なのかを 説明する認知科学的考察、2006年開始予定の民放キー局のケータイテレビ放送(ワンセグ)についての論考など、社会調査や企業情報からだけでは見えてこない多彩な内容のこれまでにないケータイ文化論。
 ふむふむ。とりあえず発注してみた。

東京探索

▼訳あって、中沢新一(2005)の『アースダイバー』と、吉見俊哉ら(2005)の『東京スタディーズ』を読み比べる。中沢新一のタイトルは「アース」で、吉見らの本は「東京」だが、実は同じ「東京探索」系本。ただし、これまた「ダイバー」と「スタディーズ」という名前に現れているように、テイストはかなり違う。個人的には、中沢新一の方に惹かれるのだけど、これをもって東京を歩いてみるのも面白いかもしれない。
▼都市(街、町)のデザインっていうのも興味深い視点かも。
 
 詳細は、読書メモに書こうかな。

▼どうでもいいが、『東京スタディーズ』というタイトルを見ると、岡崎京子『東京ガールズブラボー』を思い返してしまう私。

「落ちない」

▼受験シーズンである。

 先日、センター試験の時に、とある受験生が「激落ち君」シリーズの消しゴムを利用していたことに、小心者の私は思わず動揺してしまったのだが(本気にするなよ)、一般的には「落ちない」グッツの需要の方が高いはずである。

 個人的には、「落ちない」と言えば、テスティモを指す。言うまでもないが、カネボウの化粧品である。過去に本日記でネタにしたことがあったかもしれないが、私が、過去に神戸のとある私大を受験した時(注:よく誤解されるのだが、私は関西の人間ではない。住む所にこだわりがないのである)、前の席に座っていた受験生が、お友達同士で手首にテスティモをぬりあっていた光景を今でもよく覚えている。

 ちょうど私が受験生だった時は、神戸の大震災があった年だった。前の席の受験生は、神戸から東京に受験をしに来ていたらしい(注:私は仙台から東京へ受験をしに行っていた)ということが会話から垣間見えてしまって、訳もなくいたたまれない気持ちになったことも強く印象に残っている(ヤスパースが言う所の形而上的罪だ)。

 私も仲間に入れてもらいたいと思ったが、受験会場でナンパしたと誤解されるのも難だったので(誰もそう思わないって)、遠慮したのであった。

 ちなみに、テスティモの敵はクレンジングオイル類である。
 テスティモをお守りに使う際は気をつけよう。

▼もう一つ、「落ちない」と言えば、「全温度チアー」である。確か、中学時代の塾の先生がお守りとしてお勧めしていた記憶がある。「落ちる、落ちる」と宣伝している割にちっとも「落ちない」という効用があったらしい。最近、これに類似する商品があるのかどうか知らぬが、「落ちない」グッツとしては微妙なラインか。

 なんてことを考えながら、今日もまた普通にお仕事。
 まったくもってオチのない文章であった。

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シホになったホシ

▼電車内での出来事。小学校上級生らしき女児が3人が乗り込み、何やら話をしている。ふと聞こえてきたセリフが、「シホって、顔と声が合ってないよね」。うーん。近頃の小学生は人物評もキツイなぁとか、おませさんだなぁと思っていたら、SHIHOのことではなく、友人のシホさんを指していたらしい。紛らわしいったら。

▼言うまでもなく、私が思い浮かんだシホは、モデルのSHIHOである。SHIHOのラジオ番組などで声を聞いたことがある方はご存じかと思うが、大変に独自な声の持ち主である。私の波長とは合わないのが難点。
(ちなみに私は、鈴木保奈美や常盤貴子系の声を比較的好んでいる気がする)

 それにしても、顔と声の一致度を話題にする小学生って…と思ってみたり。
 さらに言えば、こんなことを日記に書く私も私である。

▼シホという文字列を見て、ふと
 を思い返してしまった。懐かしいなぁ。小学生の頃、読書感想文に書いたっけ。

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