▼養老先生の新刊を読む。うーん。何と表現して良いか悩ましい。一言で言えば、これって「ハダカの王様」的な本なのかな、と思ってみたりする。つまり、この本を、「分かる」とか「読める」(ハダカの王様で言えば「見える」)と言う人は、実際の所、本質が「分かっていない」「読めていない」のではないか。
まあ、言わんとしていることは一貫していると思うのだが…。
おそらく、本書の分かりにくさは、<人というのは実は、一貫していない存在である>(同じではない)という主張を、首尾一貫して(同じように)主張してみせているところであろう。もちろん、この矛盾を越えた所が、著者の「狙い」なんだろうけれど…。無思想とか思想の話もしかり。相反する事柄を、その間の空間で調理してみせてる感じ。
▼バカの壁にも同じようなことが書いてあったかもしれないが、著者の「同じ」という概念についての考察を引用してみよう。
「同じ」というはたらきしか持たない意識の世界に、それぞれ違う「個性」を持ち込もうというのは、根本的に無理である。世間ではノーベル賞級の学者を、「特別なことを考えた人」と思っているらしい。それを個性とか、独創性とか言う。でも…(略)(引用者注、「違う」という主張が続く)

(略)本当に個性的かつ独創的であるなら、だれにも理解できないはずだからである。それなら、独創的とか個性的ではなくて、
「だれにでもわかること」
を述べただけではないか。つまり「あたりまえ」ということであろう。「とうていあたりまえとは思えない」ことを、じつは「あたりまえなんだよ」と説くことができると、ノーベル賞なのである。それがそう思えないのは、ふつうの世間の人たちこそ、まさに「個性的で独創的」だからであろう。世間の人は「あまりにも個性的、独創的」であるために、ノーベル賞級の「あたりまえ」を自分で思いつくことができないのである。さもなければ、そもそも「まったくなにも考えたことがない」ということにならざるを得ない。
よく言われる日本語で表現するなら、ほとんどの人は「我がまま」つまり「個性的である自分のまま」だから、普遍的な思考に到達しない。その個性とは、偶然である外的条件、家族、地域、友人、周囲の自然環境などに左右されて生じたものである。そうした条件は人によって当然異なる。そこで通用する自分を自分だと信じているから、個性的で独創的になってしまう。世界中どこに行っても通用し、百年経っても通用する、そんなことを、考えることができないのである。(pp.58-59)
ノーベル賞を例に用いることは適切だとは思わないが、「大衆」の批判というか、「世間」に対する批判としては、著者ならではの毒舌ぶりである。最近、この手の「大衆」批判というか、「世間」の批判をよく目にするが、この書き方は巧妙だな。
何故に、これが「無思想の発見」という話につながるのか、上記引用だけでは見えにくいと思うが、「個性的である自分のまま」であることが、自分自身の「無思想」さの「発見」を遅らせている、と書けば少しは解説になるかもしれない。「世界中どこに行っても通用」しないことに中々気づけないのが、日本の「無思想」だしな(たぶん)。
▼著者の主張は、英語に変換できるのだろうか。と、ふと疑問に思ってみたり。翻訳ができれば、優れた「日本人論」になっていると思うのだが…無謀な試みか?
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