▼だいぶ前の読書メモでさらっとふれた記憶があるが『
国語教科書の思想』を読み直す。本書は、国際的な学力調査(学力到達度調査)であるPISAについて「国語」という観点から詳しく触れていたり、著者がかねてから主張している国語=道徳教育説について国語教科書を例に論じている点で、新書として価値は高い。
(もっとも新書としては、「癖」のある本かもしれない。好き嫌いは分かれる?)
▼著者の「国語」に対する主張は以下で繰り返されているように、国語=道徳教育である。ややシニカルではあるが、引用しておこう。「読解力が身に付いたということは道徳的な枠組から読む技術が身に付いた…」云々の一節は、私は、予備校時代にそれとなく学んだことだが、確かに「国語」に対する一つの見方だろう。
国語はすべての教科の基礎となるような読解力を身に付ける教科だとか、豊かな感性を育む教科だとか、そんな風に考えている人がいるとしたら、それは「誤解」である。現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである。したがって、国語ができるということは道徳が身に付いているということを意味し、読解力が身に付いたということは道徳的な枠組から読む技術が身に付いたということを意味するのだ。(pp.26-27)
人によっては「ひねった」物の見方だと思われるかもしれないが、受験においては(言い換えれば、他者が出題した何らかの問題を「解答」するということは)「出題者」の意図を捉えることが第一である。問題には何らかの「意図」(目的)があり、「採点基準」がある。しかし、この当たり前のような事実は意外と「隠されている」らしい。
▼著者は、おそらくこのような「当たり前」のような事実に自ら気づくことができるような、あるいは、批評的な(批判的)な見方ができるような人間を育成したいようだ。例えば、次のような文章が典型だろう。
こうして見ると「賢いのは動物の方で、人間に許されているのはせいぜいのところ頓知ぐらいでしかない」かのように思えてくる-そんな仕掛けが隠されているのが国語教科書なのだということがわかってくるのである。また、これらの国語教科書からは「昔はよかった」というメッセージも聞こえてきそうだ。や
や極端に言えば、「昔へ帰ろう」とか「田舎に帰ろう」というのが国語教科書に埋め込まれた思想なのである。これらのメッセージは「自然に帰ろう」という、より大きなメッセージに集約することが出来る。
いや、ほんとうは「動物に戻ろう」と言いたいのかもしれない。「動物に戻ろう」は「自然に帰ろう」というメッセージの小学生バージョンなのだろうか。いや、そこにはより大きな問題が隠されているように思われるのだ。
東浩紀は、ヘーゲルを読解したコジェーヴを援用しながら、「人間が人間的であるためには、与えられた環境を否定する行動がなければならない」(傍線原文)が、そういう「自然との闘争」を持たない、ポストモダンの「オタク化」した現代人の大衆消費社会を「動物的」と評した(『動物化するポストモダン』講談社現代新書、二〇〇一・一一)。「動物」は「与えられた環境」をそのまま受け入れ、「批評」しないということだ。
文字通り「動物化」することを求める小学校国語教科書のメッセージは、受動的で与えられた環境に対して従順な「人格」を作り上げることに一役買っている可能性が高いのだ。そういう操作されやすい「人格」が誰にとって便利なのかは、改めて言う必要もないだろう。権力者にとってである。教育は、まさしくソフトなイデオロギー装置として機能している(pp.083-084)。
これまた何とひねった考え方…と思われる人もいるかもしれないが、確かに私にとっての「現実」と、著者が私的する「現実」は近い状況にあるかもしれない。人と言うのはわがままな生き物で、自分の思うようにいかない(意図を読み取ってもらえない)時には、私もたいそう不機嫌になるのだが、逆に自分が思うようにいきすぎる(あまりに従順過ぎる)場合は、逆に心配になってくるものだ。
人によっては、後者に「快感」を覚えるのだろうが、私は正直、不安に思う。本当にこれで大丈夫なのか、と。
▼著者のいわんとしていることが妥当かどうかは私には何とも言い難いが、「批判的思考」(あるいは批評)を育てていくことの重要性を身にしみて感じた今日この頃。
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