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2005年11月

読書メモ(ミニ):学力低下

▼学力低下の問題についてネタにする(仕込みを入れる?)ために、いくつかの本を買い足したり、読み直したりする。岩波系の本は、内容に重複が多いような気もしないでもないが、学力低下を論じる際の「資料」としては信頼に足るのかもしれない。学力低下の問題を、まさに学力が低下しつつある(?)学生に、いかに「論じる」かが当面の課題だわな。そういう私も、年配の方にとっては「学力低下」組なのだろうけれど。
 この中では、やはり苅谷(2001)の『階層化日本と教育危機』が内容としても、論じる際の語り口としても、参考になるかも。「勝ち組」とか「負け組」とか言うお下品な言葉を用いずに、かつ「社会階層」について論じるのは至難の業だ。

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アクターズ・スタジオ・インタビュー

▼川崎和男氏(説明するまでもないとは思うが、グッドデザイン賞の審査に長年関わっている人である)の『プレゼンテーションの極意』(あ、この本は読書メモで紹介していないかもしれない)に、「アクターズ・スタジオ・インタビュー」というテレビ番組についての紹介があって気になっていたので、先日、録画をした。
 今日、ようやくそれを見る時間があったのだが、実に素晴らしい番組である。私は、インタビューの教材として「徹子の部屋」か、「はなまるマーケット」のインタビューを取り上げることが多かったのだが、本番組は、これらとは「格が違う」かもしれない。「インタビュー」というものを考えるにあたって、非常に良いテキストになりそうだ。

 というわけで、今後、すべて録画することにしようっと。

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読書メモ(断片):知に働ければ蔵が建つ

▼再び、内田樹氏『知に働けば蔵が建つ』で印象に残った箇所を読み直す。今回、最も印象に残ったのは、氏のオルテガ論だった(ブログでも読んでいた気もするが)。オルテガ・イ・ガセーといえば『大学の使命』と『大衆の反逆』を読んだことはあったのだが、内田氏が示すような「深い」読み方はなかなかできないなぁ。

 まずは、内田氏による解説を引用してみよう。
 オルデガがもたらしたのは、「努力」とは自分の中にある複数のファクターの間の確執として、あるいは自分自身との不一致感によって担保されるという知見であったと私は思う。
 繰り返し指摘してきたように、大衆の本質は「自己満足・自己肯定」のうちにある。ということは、「本物の貴族」の特質とは、つねにおのれのうちに「埋めがたい欠落感」を抱いているということになる。
 「埋めがたい欠落感」を抱いている人間だけがそれを埋めようとする。「ことばにならない思い」を抱いている人間だけがそれを「ことばにしよう」とする。
 つまり、オルテガ的「貴族」とは(ニーチェの「貴族」定義とここで完全に逆になるのだが)、自己に満足できず、どうあっても自己を肯定しきれない人間のことなのである。
 自分のことがよくわからず、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのか確言できず、それゆえそれを知ろうと望むこと、それが「努力する」ということである。
 一方、自分のことを自分はよくわかっており、自分が何を考えているのか、何を欲望しているのかを熟知していると思っている人間たちには永遠に「努力する」ことへの動機づけは訪れない。
 言い換えれば、「貴族」とは自分のうちに<他者>を抱え込んでいる人間であり、大衆とは自分のうちには<自分>しかいないと思い込んでいる人間である。(pp.098-099)(太字は引用者)
 ふむふむ、と。例によってガッテンしながら、読んでしまった。

▼私は、「自分の夢をかなえようとすること」や「自分の夢がかなう」状態に至るまでの過程のことを、「努力」と呼びたくないタイプの人間である。「努力は必ず報われる」と言う人も少なくないが、そんなことはあり得ないからである(たぶん)。こう書くと、非常にネガティブな人間のように思われてしまうが、そうではない。

 私とて、「努力」の価値を認めないわけではない。たぶん、私が言いたい「努力」のあり方とは、「未知」や「分からなさ」に対峙する力のことなのだと思う(これも内田氏の言う既視感か?)。努力した結果、もしかしたら良いことがあるかもしれないが、「分からなさ」が減るわけではないし、「欠落感」はどこかに残るからである。

 例えば、高い競争率を勝ち抜いて何かに通った(合格した)とする。少なくても私の場合、私のせいで「通らなかった人」に対して、何と表現すれば良いのか分からないし、そんなことを考えてしまう自分自身のことが分からない。

▼しかし、である。これがなかなかうまく人に説明できないのである。

 おそらく今の私が闘っているのは、「分からなさ」から目を背けている状態なのだろう。あるいは、「自分のことを分かるということは、実は非常に難しい」ということが「わからない」状態についてである(後者の「分からなさ」に目を背けている場合はなおさら)。これは非常に苛立しい。自分の「大衆性」に気づかされると益々腹立たしい。

 しかし、何故に腹立たしいのかも実のところはよく分かっていない。
 内田氏が引用しているオルテガの言葉に救われつつ「今日もさまよう」今日この頃。
 じっさいの生は、一瞬ごとにためらい、同じ場所で足踏みし、いくつもの可能性のなかのどれに決定すべきか迷っている。この形而上学的ためらいが、生と関係のあるすべてのものに、不安と戦慄という、まぎれもない特徴を与えるのである。(pp.101-102)(内田氏の本から孫引き)
  • オルテガ・寺田 和夫 (翻訳). 大衆の反逆. 中央公論新社
 「形而上学的ためらい」とは、これまた絶妙な表現である。

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パスポート

▼そろそろパスポートの更新の季節である。大学生だった頃に更新した10年パスポートだから、私の過去10年分の記録がそこには記されている。改めて見ると、いろいろあったなぁと感じずにはいられない。それが近々「白紙」に戻ると思うと、それはそれで感慨深い気もする。そう、そんな時期なのである。
(それにしても、「いろいろ」という言葉は非常に便利な曖昧語だわな)。

▼「偶然」というのはよくあることだが、同じような時期に同じような空間にいた、という「偶然」も、後になって「偶然」として意味を持つものらしい。
 私はこの人にすでに遠い昔に会ったことがあり、そのときたしかに私はすでにこの人をわがものとしていた…という「記憶のない過去」についての「既視感」、あるいはすでに見たもののように思えるにもかかわらず、それが何であるかを言うことができない苛立ちこそが愛の本質的形態なのである。そして、電撃的に到達したこの既視感が「何」であるかを確かめるためには(楽聖が霊感を記譜したときのように)、それから後にそれなりの時間がかかるのである。

 そのような意味で愛は(知覚とは違う意味で)一種の「フライング」だと言える。知覚が「その気になれば知覚できるはずの、いまだ知覚せざるもの」を先取りしてはじめて成立しているように、宿命的な愛は「たしかに出会ったはずなのにそれを思い出すことができない」他者の不意の現前によって始まる(pp.023-924)。
 いきなり引用をしてしまったが、内田氏流の「恋愛論」が、ふと身にしみてしまった(これまた絶妙なタイミングで出会ったものだ)。「既視感」とはこれまたうまい表現である。「記憶のない過去」について、既視感を覚えられるという事実。それ自体が、過去の意味が変容したということの証でもあるのだろう。

▼既視感と未知感の微妙なバランスにこそ、未来が宿るのかもしれない。

 何度となく引用しているが、俵万智の短歌(『サラダ記念日』)
 手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛
 を思い返しながら一日を終える。現在を未来につなげたいものだ。

追伸:恋愛のことを書いているようで、実はまったく別なことを言いたいらしい。

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名古屋出張

名古屋出張。行き帰りの移動時間(今回は結構、長かった)で、以下を読む。

内田氏の『知に働けば蔵が建つ』のほとんどは、Webで読んでいた気もするが相変わらずの内田節で大変に心地よい。
ついでに、帰り道に↓を買う。

なんだか、数年前から根本的に買う本のセレクションが変わっていないかも。

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読書メモ(断片):社会関係資本

▼「社会関係資本」(ソーシャルキャピタル)について調べようと思って、金子郁容氏の本やら、宮田加久子氏の本などを読み返してみる。  社会関係資本は、分かるようで、捉えにくい概念である。宮田氏によれば、社会関係資本とは「信頼や互酬性の規範が成り立っている網の目状の社会ネットワークとそこに埋め込まれた社会的資源」(p.22)と定義される。

 また、宮田氏が先行研究のレビューとして触れているブルデューの定義では(以下、ほとんど孫引きとなっているのでお許しあれ)、「相互に面識があり認知しあう制度化された関係からなる持続的なネットワークを保有することと結びついた現実的もしくは潜在的な資源の総体」(Bourdieu 1986)(p.11)を意味するらしい。

 うーん、わからん。
 たとえば、以下の説明の方が理解しやすいかもしれない。
 社会関係資本を維持もしくは増大させるためには、物質的交換と象徴的交換の双方を通じた相互作用過程を繰り返して社会ネットワークを維持したり拡大したりする必要がある。それには、特定のコミュニケーション能力や教養などの相応の文化資本や、相互作用をするための経費や会費などの形で徴収される相応の経済資本が求められる。一方、個人が持っている社会関係資本によって教育機会や雇用機会が規定されるので、社会関係資本が豊かであれば文化資本や経済資本も高まる。したがって、経済資本の高い社会階層ではますます社会関係資本が増大し、社会関係資本が高ければ経済資本も高まるという循環が観られ、結局、社会階層は分化され固定化されると主張している。(pp.11-12.)
 ブルデューのいわんとしていることは分かるのだが、一言で説明しにくいのが難点。

▼あるいは、コールマンによれば、「個人の協調行動を起こさせる社会構造や制度」(Coleman 1988)(p.1)ということになる。コールマンによれば、社会関係資本には三つの形態があるという。これまた宮田氏の本からの孫引きだが、第一は社会構造の信頼性と期待と義務。第二は、情報ポテンシャル(情報が手に入れやすくなる)。第三は、規範とそれを逸脱したときの効果的な罰(pp.12-13)ということになるらしい。

 うーむ。分かるようで分かりにくい。

さらに、宮田氏が紹介しているパットナムの定義(パットナムについては金子郁容氏の本でも取り上げられていた)によれば「信頼感や規範意識、ネットワークなど社会組織のうち集団行為を可能にし、社会全体の効率を高めるもの」であり、「信頼(trust)」「互酬性の規範(norms of reciprocity)」「市民的な参加のネットワーク(network of civic engagement)」という形態から構成されるとのことだ(p.14)。
 これも以下の宮田氏の解説の方が分かりやすいかもしれない。
 社会の成員間に信頼が醸成されていれば、「他者の利益のために何らかの行動をすると自分に返ってくる」と期待することが可能であるために、他者のために行動ができる。成員間でこうした互酬性が一種の社会的規範にまでに高められると、その規範に基づく社会ネットワークが形成される。このネットワークが社会に埋め込まれることによって、今度はネットワークが社会の成員を常に相互に協力するように差し向けるというプロセスが想定される。つまり、社会関係資本を活用することで社会関係のなかで人々の相互的な利益を獲得させるための協調と調整が促進される。(pp.14-15)
 ブルデューの論とは異なるが、循環的作用が働くという点は共通している。

▼フランシス・フクヤマの定義によれば、社会関係資本は「ある集団の中で共有され、人びとの協力の基盤となる一連のインフォーマルな価値観や規範」(p.18)であり、「すべての社会には、必ずなにがしかの社会関係資本がある」と言う。しかし、社会によって「信頼の規範」は異なり、「信頼の範囲が社会の構成メンバーの範囲より小さいとき、社会関係資本が『負の外部性』を生み出す」と主張しているとのことだ。

 さらに、ナン・リンの定義によれば(ナン・リンの名前は初めて聞いた)、「目的を持った行動のなかでアクセスされる、そして/あるいは活用される社会構造のなかに埋め込まれた資源(embedded resource)」とのことだ。

 さらに社会関係資本には、(1)社会構造に埋め込まれた資源(構造的側面)、(2)個人による資源へのアクセス可能な社会ネットワークを持つこと(機会的側面)、(3)目的を持った行動における個人による資源の利用・活用(行動指向的側面)の三つの要素が含まれ、「個人は効果を期待して、交流を深めネットワークをつくるという社会関係への投資を行う(p.19)とのこと。

▼うーん。ここまで読んで、厳密に考えれば考えるほど、捉えにくくなって来てしまうのはなぜだろう。要するに、人と人とのつながりを保っていくのに必要な信頼性や互酬性などの資源を意味していると同時に、人と人とのつながりによって生まれる資源のことを同時に(循環的)意味しているから分かりにくいのかな、と思ってみたりする。

 一対一の関係(コミュニケーション)ではなく、何らかの社会やコミュニティを想定していたり、それによって生じる利益のようなものを想定しているということが、私の理解を分かりにくくしているのかもしれない。「なんとなく」は分かるのだが…。

 以下も読み直しつつ、今しばらくきちんと押さえていく必要があるわな。

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ポルシェ対スカイライン

▼帰りが21時近くなって、東の空にはオリオン座やスバルが輝いているのが見えた。もう、そんな季節なのね、なーんて当たり前のことを確認。

 たまたまテレビを付けたら、プロジェクトXの再放送(特選?)をやっていた。しかも、前から観たかった「ラストファイト 名車よ 永遠なれ」。旧スカイライン(日産とプリンスが合併する以前のスカイライン)を特集したものだったが、噂通り面白かった。ポルシェ対スカイライン(R380)という対決も、心くすぐるしね。

 広島に住んでいてもいなくても「星はスバル」だが、車はマツダである。人生、一度はスカイラインクラスの車に乗ってみたいものだなぁと思うものだが、広島ならやっぱりRX-8なのかな、などと思ってみたりもする。プロジェクトX的明言「クオンタムジャンプ」(発想の飛躍)という言葉をかみしめながら一日を終了。

▼広島で物騒な事件が起きたらしい。ふー、深いため息をつく。

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読書メモ(ミニ):モバイルリサーチ

▼お仕事的関係で、いわゆるモバイルリサーチ(携帯電話を用いたマーケティングリサーチもしくは社会調査と呼ぶのか)について調べてみる。類書は少なくないようなのだが、結局、内容がそれなりにあったのは宣伝会議編の以下の2冊だった。
 私は、携帯ユーザではなく、ずーっとPHSだし(当然、カメラ付きではない。最近やっと新機種が出て4年ぶりに買い換えようかな、と思ってみたりもする今日この頃)、携帯とパソコンの使い分け(あるいはデジタルディバイド)が気になっているので、携帯電話にはあまり触手がのびないのだが、リサーチ利用は意外と面白いかもしれない。

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読書メモ(断片):『銀河鉄道の夜』しあわせさがし

▼久々に『銀河鉄道の夜』という言葉を耳にしたので、宮沢賢治を読み直す。さらについでに、宮沢賢治「論」も。「贈与」や「交換」の問題はかねてから考えあぐねている課題の一つなのだが、宮沢賢治のテクストは「贈与」の問題を考えるのに格好のテキストのように思われる。以下を読み直しつつ、再確認してみたり。
贈与と遺贈
(略)生き残ったザネリは、生きることの価値を示すような行動をとることが求められるときがくるでしょう。そのとき、彼は、迷わず行為を選択しなければならない。それは、返礼ではなく、受け継がれていくものです。親の愛を受けた子のするべきことは、自分もまた、親になったときそのように振る舞うことです。贈与は、返済されるのではなく、さらに次の世代へと遺贈されるものなのです
 結局、自己犠牲が大事なのではありません。人は自己犠牲的行為によって恩恵を受けた場合、それに心理的負担を感じるでしょう。だが、同時にそれほど自身の生は価値があるのだと知るはずです。それが肝心な点です。そして、それは、相手に返済されるものではなく、次の誰かへと受け継がれていくべきものです
 生を肯定すること。それこそが、ジョバンニがもっとも遠くまで行くことのできた根拠でした。『銀河鉄道の夜』が示していたことは、そのようなことだと考えています。(pp.135-136)(下線は引用者)
 贈与というのは究極的には「誰か」へと受け継がれるものだとしたら、負の資産が「次の世代へと遺贈され」ているような現状は、負の贈与と言うべきなのかな。

▼もう一冊、読み直そうと思ったがさすがにそこまで時間はなかったかも。  時々、中原中也とか宮沢賢治を無性に読み直したくなる時があるらしい。

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美辞麗句

▼「同じ失敗を繰り返さない」ということは、人間が生きていく上での最も基本的な姿勢であると同時に、最も困難な心構えの一つでもある。そもそも何が「失敗」だったのかが捉えにくい時もあるし、自分の失敗なのか、自分以外の力学が働いていたのか、あるいは単なる「不条理」なのかの区別が付きにくいのが難点である。

▼私について言えば、「自分」というものの輪郭を時に失いがちなのが、「失敗」の一つなのかな、という気がする。あるいはまだきちんと過去と向き合い切れていないのかな、という気がしないでもない。忘却というのは、忘却しようと思ってできることではなく、「幸せ」の積み重ねでしかないのかもしれない、なーんて思ってみたり。
「美辞麗句」 岡村孝子 作詞作曲
幸せについて コメントすれば
あたりさわりのない美辞麗句
何かがこわい 誰かがこわい
自分を責めるすべてのもの

こんなに私は弱虫だっけ 思わず苦笑い
退屈なだけの夜を飛び越えここを見つけたのに

本当の自分をどこかに忘れ今日もさまよう
(歌詞カードを見ていないので、漢字変換等間違っているかも)
 岡村孝子といえば、11月23日にDVDが出るらしい。買わなくちゃ。

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テクスト分析?

▼先日の、『国語教科書の思想』に引き続き(この本、「読解力」なるものに興味を持っている人にとっては何かと参考になる本だろう)、同著者の『評論入門のための高校入試国語』と『Jポップの作詞術』を続けて読む。『Jポップの作詞術』は(も?)荒削りだし、多少、ツッコミを入れたくなってしまうのだが、私的には、なかなか面白かった。  私は、どうもこの手というか、石原千秋氏が得意とするような「テクスト分析」的な手法に惹かれる部分がある模様である。確かに、主観的というか飛躍している「読み」方だなぁとと思うことは少なくないのだが、ロラン=バルトの『恋愛のディスクール』は愛読書の一つだし(半分はネタではあるが)、刺激を受けることも多いのかもしれない。ただし、「波長」が合わないと、飛躍ばかりが目立つのだろうな。

▼関係ないが『恋愛のディスクール』を久々に検索したら、
 なる本も発見。『Jポップの作詞術』と併せてネタにしようかな。

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寝汗

▼なんだか毎日、寝汗ばかりかいているらしい。風邪に似た症状といい、結構、長いこと続いていることや、体力的にもアレなことからすると、もしや白血病では…、なーんて、どうでもいいことを想像してみたり。まずはガン保険に入らねば。そういいつつ、毎日、よく食べるし、飲むし、体も動かしているのだけれども。

▼広島が誇る(?)バッケンモーツァルトでチーズケーキをおみやげに買ってもらう。
  • http://www.b-mozart.co.jp/
 「広島世良のラ・フランス」とページに記してあるのだが、ラ・フランスは、広島でも栽培されているのだろうか!?ラ・フランスは、モノによってお味がかなり異なるフルーツの一つなので(フルーツというのは、皆そういうものなのかもしれないが)、お取り寄せをしてみようかな、と思ってみたりもする今日この頃。

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千客万来 その5

▼恒例の「千客万来」シリーズ(お客さまが広島に来訪された時の題名)も、ついに5番目である。約半年で5回…あんまり多くないなぁ(昨年、埼玉県所沢市近辺に住んでいた時よりも多いけどね)。と言っても、今回は私のお客さまではないのだが、広島の市街某所で、二次会的時間帯に合流する。

 お腹が減っていたので頼んだピザが思ったよりもボリュームがあって、しかもたこ飯なるものを食べてしまったので、かなり満腹になってしまった。平日なのにあれだけ混み合っているとは…、さすが評判の店だけある。

▼最近、焼酎のお湯割りがお気に入りらしい。最近、ビールを飲むと体が冷えて仕方がなかったのだが(だったら飲むなよ)、これはなかなかイケるかも。

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裁判員制度

▼先週発売された『日経WOMAN』に「裁判員制度」の広告が掲載されていて、一瞬、驚いたのだが、今日発売のAERAにも掲載されていた。日経WOMANは言うまでもなく女性誌の一つだが、AERAの広告掲載でもなぜか「ピンクリボン特集」や「乳がん特集」などのAERA in AERA(別冊付録)の中だった。まずは女性ターゲットか?

▼広告によれば、裁判員制度とは「国民のみなさんの中から選ばれた6人が裁判員として、3人の裁判官と一緒に、刑事裁判に参加し、被告人が有罪か無罪か、どのような刑にするかを決める制度です。」という紹介がある。米国の陪審員のように12人ではなく、日本独自の制度になるという話は聞いていたが、実際が気になるところである。

▼どうでもいいが、雑誌広告は洗練されているのに最高裁判所のWebページがイケてないのは、気のせいか。
  • http://courtdomino2.courts.go.jp/saibanin.nsf
▼裁判員制度を契機として、日本的なディスカッション教育だとか、ディベート教育のあり方について、見直される契機になると良いかな、と思ってみたりもする。日本に陪審員制度があったら…を劇化した三谷幸喜脚本の名作である『12人の優しい日本人』のような優れた「教材」も、今後、もっと生まれてくるかな。

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いよいよ寒くなってきた

▼いよいよ寒くなってきた。私は、なぜか近年、大変に寒がりになってしまい、しかも、転居に伴い部屋が広くなったため、これまでのハロゲンヒータでは力不足が予測される。で、何を買おうか物色中なのだが…。

 どうも私はわがままらしく、この夏は、エアコンなしで乗り切ったのでエアコンは却下(値段も高いしな)。かと言って、ファンヒータ系のモータ音がうるさいのは却下だし、できれば部屋は乾燥して欲しくないし、電気代も節約したい…等、条件を考えていくと、ほとんど選択肢が残らないのが難点である。パネルヒータと、今持っているハロゲンヒータでの部分暖房の組み合わせがベストかなとは思うのだが、どうだろう。

▼広島ってどのくらい寒くなるのかな…と思い、検索してみる(こういう時は、以前だったら『理科年表』を使っていたような気がする)。調べてみると最も寒い1月下旬から2月上旬にかけては、最低気温が1度前後。最高気温は10度弱らしい。

 昨年住んでいた埼玉県は、同時期に最低気温が-1.5度まで行くし(埼玉と言っても場所によってだいぶ違う気がするが)、その前に住んでいた石川県も最低気温0度前後、最高気温が5~6度にとどまるようなので、広島はそれに比べれば、過ごしやすそうな気がしないでもない。パネルヒータでなんとかなるレベルだといいなぁ…。

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読書メモ(断片):原っぱと遊園地

▼デザインについて考え直したくて、『原っぱと遊園地』を読み直す。私はかねてから建築家の本に惹かれる傾向があったが何度読み直しても、<心地よい>本だ。青木氏は、「ルイ・ヴィトン表参道」の建築家でもある。

▼本書では、「原っぱ」という空間の意義を示している点が参考になる。いきなり引用するのは気が引けるが、主たるメッセージとなる一文を引いてみよう。
 ちょっと雑な気がするけれど、建築は、遊園地と原っぱの二種類のジャンルに分類できるのではないか、と思う。あらかじめそこで行われることがわかっている建築(「遊園地」)とそこで行われることでその中身がつくられていく建築(「原っぱ」)の二種類である。(p.14)
 「遊園地」の典型は言うまでもなく、ディズニーランドである。作られた空間に対して「原っぱ」では、「そこで行われることでその中身がつくられていく」点に力点がある。言い換えれば、目的や意図を持たない空間のことを意味するらしい。

▼本文を理解するためには、先立って示された以下が参考になるかもしれない。
 「おそ松くん」でも「ドラえもん」でもいいけれど、漫画を見れば、原っぱにはいつも土管が転がっている。実際に、原っぱには土管があった。あと砂利とか。原っぱとは、宅地として完成する一歩手前で、その意図が見えなくなってしまった空間である。土管は必要があって運び込まれたはずだけれど、子供の誰もがなぜ土管がそこにあるのか知らなかったし、不思議にも思わなかった。土管は、子供たちにとって、ただそこにある、というあり方をした物だったのである。土管ひとつ描けば、それが原っぱを意味するという漫画の発見は、すごいな、と思う。土管ほど、原っぱという、確かにつくられた空間がそのつくられた意図を失っている環境を体現している物はなかったからである。(pp.11-12)(下線は引用者)
 昨日、久々に『ドラえもん』を見て思ったのだが(この読書メモを書こうと思った最大の要因の一つである)、声優が代わり、新たな作風に変わった『ドラえもん』においても、いまだに「原っぱ」といえば、「土管」である。公園ではなく、あくまで土管のある「原っぱ」が舞台と言う点に、ドラえもんに秘められたメッセージがあるのだろう。土管は、言われて見れば確かにそうだが、言われなければ「気づかない」要素でもある。

▼本書で示されたメッセージは多々あるが、最大のものは。やはり「原っぱ」をモチーフとした、意図や目的を持たない空間についてであろう。言い換えれば、「つなげられる」対象としての建築ではなく、「つないでいるもの」としての建築である。原っぱというのは、目的が先立って存在するのではなく、媒介として働くことになるらしい。
 目的なり目的地が先に決まっていてそこを目指して歩いて行くのではなく、まず歩き回っているうちに気に入った場所が見つかり、それが後で振り返ってみれば、目的地だったのかなと思う。比喩的な意味でも具体的な意味でも、実のところ、普段の生活とはそういうものではないだろうか。目的を目指すよりもまず動き回ること。「つなげられるもの」よりも「つないでいるもの」。そうして、いったんは建築を「つないでいるもの」そのものに還元すること。(p.59)(下線は引用者)
 私は常々「目的」という言葉に、違和感を感じてならないのだが、「目的を目指すよりもまず動き回ること」、また「つなげられるもの」よりも「つないでいるもの」の重要性を指摘されると、少し安心する。あるいは、次のような一文も身にしみる。
 街路や住宅が目的をもった行為に切り分けられ、さまざまなビルディング・タイプとして目的地に移し変えられていくのを前にして、ぼくがやってみたいと思ったのは、そうして一旦はでき上がってしまっている目的地をもう一度「未目的」の状態に差し返すことであった。(略)

 そのためぼくがまずは必要だと考えたのは、空間から目的を剥ぎ取ることであった。つまり、ぼくたちの行為に先取りして存在している空間を引きずり戻して、行為が起きることではじめて出現する「場」につくり変えたいと思ったのである。

 狭義の「建築計画学」はこれとちょうど反対のことをする。小学校ではかくかくの行為が行われるので、しかじかの空間を必要とする、というような順番で考える。その空間で行われることはあらかじめ決まっている。小学校ができ上がると、意図どおり教師や児童生徒が動いてくれたかどうかが検証される。いかにうまく人間を空間というシナリオどおりに行動させられるかどうかが問われている。

 こういう「建築計画学」の精度が上がり、それが細かく適用されればされるほど、ぼくには小学校が「見えない牢獄」に近づくように見える。自分では自由に飛び回っているつもりの孫悟空が実は釈迦の手の平に幽閉されていたように、児童生徒は意識はしていないが徹底したシナリオの外に一歩も出られなくなっているように思われるのである。友達としゃべることまで想定された「しゃべろうか」という、何とも悪い冗談のような廊下の話を聞いたことがある。

 もちろん、こういうはなはだ反教育的な空間を避けるために、なんでもできる「ための」空間も用意される。しかし、どのように扱うにしても、出発点に「小学校であること」を置くということは、ぼくには空間が行為に先行するという倒錯にしか思えないのである。(pp.93-94)。
 目的なり意図を持たない空間というのを、いかに「デザイン」しうるのかは極めて難しい問題ではあるが(そのような空間をいかに「評価」するかと言う問題もある)、偶有性が持つ力というのを忘れたくはないものである。

▼おそら上記のようなことを書きたくなったのも、私の職場で、私が全く「意図していない」行為が行われたことが契機になっていると思われる。ホワイトボードの新たな使い方だとか、私が研究室に無造作に置いている『AERA』や『日経WOMAN』の新たな使い方を教えてもらった。「土管」に類するものをいかにデザインするか。難しいが、これからしばらくの間、課題としたいところである。

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自己言及

▼私は、常日頃から自己言及的発言と呼ぶのか、一人ツッコミを多用する傾向がある。例えば、「私は<既存の考え方にとらわれないようにする>という考え方にとらわれているので、既存の考え方にとらわれないように心がけています。とは言っても、既存の考え方も重視しなければならない時があるとは思います」などの発言である。

▼人によっては、「どっちなんじゃい」と逆ツッコミを入れてくる場合もあるが、「表象は感染する」せいなのか、自己言及的な発言が周りでじょじょに増えてきているような気もする。つい先日も、「他者の立場に立って考えるべきだ、と言う結論は、他者の立場に立って聞いてみると、ありふれた結論のように思える」のような発言を耳にして、我ながら驚いてしまった。確かに、その通り。これをいかに越えるかが問題なんだろう。

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三大疾病

▼ここ最近、かなり忙しくなってしまったせいもあり、肌は荒れるわ、口内炎はできるわ、抜け毛はひどくなるわ(?)で、あまり良いことがない。お酒を飲んで気分転換しようかなぁと思っても、私、本質的にアルコールに弱いようで、2本目を越えるとすぐに頭が痛くなってくる。何にせよ、うまくいかない時はうまくいかないらしい。

▼口内炎対策はチョコラBBと私は決めているのだが、肌の調子については無印良品で購入したクリームを試用してみることにした。少しは改善するかな?

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カレンダー購入

▼職場にカレンダーがなくて結構、困っているので、2006年は心機一転!カレンダーを購入してみた。とりあえずの対応策として、最近は、モスバーガーが毎月提供してくれている壁紙を印刷して利用しているのだけど、やっぱりカレンダーがあった方が便利である。

 特段、深い意図があるわけではないが、私は例年、JALのカレンダーを使っているので(一つは必ずもらえるのである)、同じ、A WORLD OF BEAUTY のカレンダーを購入してみた。ついでに卓上版も。まあ、この程度だったら職場でも許されるかな、と。

 ついでに月齢カレンダーも購入。こちらは自宅用に使おうっと。amazonで発注したのが丸まって配送されるものだと思いこんでいたら、大型の段ボールに入れてくれていた。これで採算合うのか!?と人ごとながら心配してしまう。配送効率が同じなら、別に丸めてくれてもいいのにね。

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お祭りとゴミ

▼昨日と一昨日の話。ちょっとしたイベント(お祭)があって、週末だったが二日連続でお出かけした。「お祭り」だから、細かいことを気にするべきではないのかもしれないが、出店に伴って発生する<膨大なゴミ>は何とかならないものか。プラスチックにせよ、紙コップにせよ、<壮大なる資源の無駄遣い>なような気がしてならない。

 一方でゴミを大量発生させつつ、他方では(お祭りの中で行われていた展示では)「資源の再利用」の重要性を訴えるようなパネルがあったりして、矛盾を感じてしまった次第である。「お祭り」とはいえども、今後、30年の持続的成長を考えるならば、デポジット制の導入など改革が必要だろう。利益を出すことも重要かもしれないが、短期的な利益の追求は中長期的には<必ず>災いすると思うのだが…。

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読書メモ(断片):ケースメソッド

▼高校時代からの友人からトラックバックをいただいた。ありがたいことである(ちなみに現在の私の職業は、おそらくは教育職だろう)。

▼私にとって経営学は「やや興味がある」程度に過ぎないが、MBAから学ぶべきことは多いな、と思う。一応は、私も、Dr. Nonaka が研究科長だった大学院に進んだくらいだから(The Knowledge-Creating Company が最近のビジネススクールでどう扱われているか気になるところだ)、ケースなどを通して「ウロウロする」ことの意義は分かってきたつもりである(なんちゃって的理解に過ぎないとは思うが)。

 しかし、だ。偶然にも立場が変わって、サービスの受け手ではなく、送り手(本来、こうやって単純化できるものではないとは思うが)の立場になってみると、自分が多くを「学んだ」はずの手法は、簡単には「模倣」できないらしいことに気づかされる。ケースメソッドにしてもクラス内の討論にしても、相当に高度な授業スタイルだ。いったい、どうやってHBSはスタッフを育てているのだろうか、と思う。

▼今年度くらいから私も(ようやく)本格的に仕事をするようになって、どんな科目であれ、また、内容は初歩的であれ、ケース的なことを取り入れるし、そうでなくてもちょっとしたロールプレイやプロジェクト、クラス討論もやりたいと思っている。少なくても、一方的な講義は極力避けているつもりだ(話し下手だしな)。

 だが、授業の表向きの目的がプレゼンテーション(ソフト?)の習得だったり、情報系の科目だからかもしれないが、内部からも外部からも「さまざまな意見」がやってくる。「例ではなく、正解を教えてくれ」はもちろんのこと、表層的なものになると「こんなこと」(グループ活動等)をせずに資格対策をして欲しいとか、プレゼンテーションソフトのアニメーション機能を教えて欲しいとか、まあ、そういう話である。

 単に私の教え方の問題だとは思うのだが(評価が高い場合もある)、この手のメッセージに対峙するのは、意外としんどい。「対称性」を考えれば、授業のやり方を変えることは、学生にとっても教員にとっても「タフネス」が必要ってことかもしれないが(もっとも大学院レベルと学部を一緒にするのは失礼な話だけど)。

▼HBSについては、『ケースメソッド 実践原理―ディスカッション・リーダーシップの本質』を読む限り、優れた教員育成システムが組まれているような印象を受ける。本書はケースメソッド、ケースメソッドの授業法を学ぶという大変に優れた本である(訳書は676ページもある)。いわゆる教員向けの『教授法ハンドブック』よりも、私は面白いと思ってみたりする。
 久々に改めて目を目を通してみたら、ケースメソッドの授業法に関して、以下のような「教訓」が述べられていたので引用しておきたい(本来は事例を引くべきか)。
  • 教訓その1:表明なければ納得なし(p.60)
  • 教訓その2:混乱なくして「学び」なし(p.62)
  • 教訓その3:励ましなくして発言なし(p.63)
  • 教訓その4:対立なくして討論なし(p.67)
  • 教訓その5:「文章」によって対立と焦点が生じる(p.68)
 例えば、混乱なくして「学び」なしには、以下のようなことが示されていた。
 ケースメソッドでは「混乱」が伴う故に、事前の説明が重要ということらしい。
教訓その2:混乱なくして「学び」なし
 最初は、提出された各人の考えを「全世界的」に眺める必要があるが、まだこの時点では学生の考えは支離滅裂である。学生はこの混沌とした新地層を興奮と期待を持って歩きまわると同時に、混乱が終息するまで耐え抜き、変化への恐れを取り去らなければならない。この間、彼らは「難しすぎます」「こみ入っていて分かりません」「泥沼です」と言うので、討論授業の教師は前もってこの過程を学生に説明しておく。(p.62)
 あるいは、「表明なければ納得なし」には、こんなことも書かれている。
 討議形式の授業に対する徹底した肯定としても読める。
教訓その1:表明なければ納得なし(p.60)
「学び」を得る方法として討論が優れていることについては、研究者のあいだに異論はない。発言によって学生は積極的になる。また、自分が発言して衆目にさらされるか質問されるまで、発言者自身が自分の考えを知らないこともある。だからこそ、発言が次の思考と言葉に力を与える。たとえ質問の形であっても何かを発言すれば、自分の意見を他者と同じように批判できるようになる。ひと言でも発言すれば、話し手自身が考える人、批判する人になる。聴衆が一人でもいれば、発言は、発言者自身と聴衆によって受けとめられ、批判され、深められる。(pp.60-61)
 事前の若干の説明と、たたみかけるような肯定。こういうのも意義あるんだろうな。

▼私は、友人が書いていた「漢方のように効いてくるものだと思う 」という一文が、痛く気に入った。「漢方」とは、これまた腑に落ちるメタファーだ。教員なんて職業も「ほとんど毎日が『わけのわからないこと」だらけ』だったりするが、弱い紐帯というのも「わからなさ」に意味を与えてくれる機会になっているのかもしれない。そういえば、玄田有史氏も、weak ties の重要性について触れていたな。

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読書メモ(断片):働く過剰

▼先日の読書メモ(ミニ)の続き。『働く過剰 大人のための若者読本』を再度読み返す。何度読んでも、大変に説得力のある本である。全体的に実証的データに基づいている点が説得力につながっているのだろう。よく読むと、一部、飛躍した記述も含まれるが、ある程度「飛躍」していた方が、「読本」としては効果的なのかもしれない。

▼マーカーや線を引いた箇所は少なくないが、とくに私が印象に残ったのは「あとがきにかえて」にある以下の記述だった。私もかねてから、新卒に「即戦力」を期待するというのは、過剰な期待に過ぎないのではないか?という懸念を抱いていたが、玄田氏が指摘する限りにおいては、これは「真実」らしい。少なくても本来必要な「即戦力」とは、一般に思われているような意味合いではないようだ。
 はっきりといっておきたい。まともな企業は大学を卒業したばかりの学生に即戦力など、まったく期待していない。不況下でも伸びてきた中小企業では、人材育成を重視するという共通した特徴が観察される。不況で「人を育てる余裕なんてない、これからは即戦力だ」などと口にする企業には、きまってその後に衰退が待っている。「即戦力がいる、けれどもお金は払えない」という企業に良い人材が集まるわけがない。

 中小企業だけではない。不況下でも過去最高の利益を上げ続けている大企業の人事担当者と話をしても、即戦力志向など、まともに取り合わない。変化の激しい時代には、たった四年やそこらで身につけた知識などあっという間に過去のものとなることを、まともな会社や人事はよく知っている。早く取っておけば一生安心なんていう資格など、どこにもない。
(略)
就職し、働き出すと、ほとんど毎日が「わけのわからないこと」だらけである。上司からの指示、顧客からのクレーム、会社の方針、商品やサービスの意味、それから自分が働いている意味…。そんなわけのわからない毎日に対して、「わからないから、やっていけない」と、途中で断念してしまうことが、個人にとっても、会社にとっても、最も避けたい状況なのだ。そんな「わからん」経験のなかで、自分なりに工夫し、パニックにならず、良い意味でウロウロできること。そんな「わからない」ということに対するタフネス(たくましさ)こそ、今も昔も変わらない、働くなかで最も必要とされる能力なのである。(pp.268-270より一部抜粋)
 私がとくに納得したのは、「そんな『わからん』経験のなかで、自分なりに工夫し、パニックにならず、良い意味でウロウロできること。そんな『わからない』ということに対するタフネス(たくましさ)こそ、今も昔も変わらない、働くなかで最も必要とされる能力なのである。」(p.270)という一節である。うーん。ガッテンである。

▼もしかしたら、自分に都合の良い箇所を引用、あるいは援用しているだけに過ぎないかもしれないが、私も、「分からなさ」に対する耐性、あるいは、「分からない」問題を前に、試行錯誤する力を身につけることほど重要なことはないと、最近、改めて実感するようになった(実際、働いてみると「わからん」ことだらけだからな)。最近、この意味をうまく言葉にできない状態が続いていたのだが、本書は非常に参考になった。

▼「即戦力」、あるいは「分からない」ことに対する耐性(試行錯誤の重要性)を身につけていくことの意味合いを、なんとかうまく他者に伝えていきたいところである。

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召還魔法

▼昨日に引き続き、私の日記(ブログ)のアクセス状況を調べてみた。最近、意外と人気があるのが、「ドラえもん」ネタである。とくに2003年の11月に書いた以下のネタは何故か頻繁に参照されている模様。
 私は、どうもピンチに陥ると「ドラえもん」を召還したい気分に駆られる傾向が強いらしい。過去の日記を読み返してみても、「ドラえもん」は困った時に登場している。

 小説やドラマの世界では、男が死に際に、これまで看病を続けた妻の名ではなく、母(もしくは愛人)の名を呼んでこの世を去るというシーンを見かける。妻は「私はいったい何だったの?」と途方に暮れるか、絶望の縁に立たされる。さもなければ保険金を入手して、うはうは状態である。しかし、私はこの調子で行くと、死に際に「ドラえ…」と一言つぶやいて、この世を去っていく可能性が高そうだ。残された妻は、唖然というよりは驚愕だ。

 私が、ドラえもんに負けるなんて!
 (知名度では彼の方が上だと思うんだが、そんなことはどうでもいい)

 唯一の対処法は、「ドラ子」とか「ドレミ」「どきん」のように、「ド」から始まる名の人と結ばれることだろう。最後まで言い切らなければ、「きっと彼は私の名前を呼ぼうとしてくれたんだわ」と思ってくれるに違いない。

 しかし、この手の名前の女性とお目にかかったことがないのが難点。
 もちろん私も、娘の名前にしたいとは思わないが。ああ、もっと光を
 言うまでもないが、この記事は妻と出会う前に書かれたものである。

▼こんなことを書くと「ドラえもん」で検索に引っかかる確率をまた高くしてしまう?

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読書メモ(ミニ):『働く過剰』『国語教科書の思想』

▼体調も良くなり、各種執筆作業も落ち着いてきたので、本を読む(先日、「趣味は何ですか?」と聞かれて、「読書」と即答できなかった程、最近、あまり読めてなかったような気がする)。とりあえず以前から気になっていた石原千秋氏の『国語教科書の思想』と、玄田 有史氏の『働く過剰 大人のための若者読本』あたりから。
 ちらちら読むつもりだったのだが…、『働く過剰 大人のための若者読本』には完全にはまってしまった。久々に睡眠時間よりも、読書の方が優先してしまった(小説やマンガでは時々あるが、論説では滅多にないかも)。最近、世代間格差やインセンティブ・ディバイドに関して二番煎じ本が世に出回っているが、格が違うと言うべきか。

 もう少し深く読んでからメモを書いてみたい。ついでに、以下も読み直しを。
  『成長と人材―伸びる企業の人材戦略』は図書館で目を通しただけだったかも。

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だれもひとりではいきていけない

▼久々にサイトのログをチェックしたら、私のサイトで「自殺」がなぜかキーワードのかなりの上位になっていた。どこかの学校で、「調べ学習」の資料として私のサイトが利用されているのだと思いたいのだが…。

▼「生きていれば良いことがある」などと安直なことを言うつもりはないが、失恋しても、友達関係や家族関係がうまくいかなくても、仕事でうまくいかなくても、「こどもとおとなも てきとみかたも だれもひとりではいきていけない 」(by 谷川俊太郎)ということは間違いのない事実である。そう、ひとりではない。

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冥利と無力感

▼冥利とは、「仏・菩薩が人知れず与える利益」(大辞泉)、「神仏が知らず知らずのうちに与える恩恵。冥加の利益」(広辞苑)を意味する言葉らしい。要するに仏教用語である。今日は、「冥利」を感じると共に、自身の「無力感」を感じる一日でもあった。

▼私は常々「自分の欲を捨てる」という、壮大な「欲」を持っているのだが、そうは言っても(だからこそ?)、一人の人間として、自分に関して以外の事象について「ああすれば、もっと○△」なのに、とか「こうすれば、もっと□×なのに」と思うことは少なくない。それが妥当な考えかどうかは即断できないが、少なくても私以外にも、そう思っている人は確実にいるらしい。しかし、誰もがどうすることもできないのが現状。

▼ずいぶん前に引用したものだが、平田オリザ氏の「3分の1法則」を思い返す。
演劇の「公共性」を訴える
(略)初期の段階の、なぜ演劇に対して助成金が出るかということがまだはっきりしていない時期に、僕たちは非常に意識的に「演劇の公共性」ということを言ってきたんです。

 助成金が入ったときに、それをただ単に劇団の中だけで配分するのではなくて、三分の一ぐらいは公的な部分に使う。たとえば演劇教育や資料の作成に使う。 残りの三分の一ぐらいは観客に直接還元する。要するにチケットの値段を下がる。最後の三分の一ぐらいは内部で使う。つまり、劇団員のギャラを上げたり、舞台装置をよくする。

 そういうふうに意図的に分けて使って、しかもそれをアカウンタビリティによって、外部に対してきちんと説明してきたことはたしかです。pp.75-76.
 未来に対する投資は不可欠だが、それ以上に(少なくてもそれと同等に)、今、目の前にいる顧客の声に耳をすますことも大切だろう。何が公的で、何が私的で、何が内部で、どこまでが外部なのかの判断は難しいが、自分に何ができるか考えてみたいところだ。 「公共性」とは何かを考えさせられた一日でもあった。

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