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2005年8月

読書メモ(断片):ひらがなと漢字の比率

▼私は元来、漢字が苦手なので(何せ小学校5年生の時に「漢字練習」の不毛さにキレて(注:まだ当時はキレるという概念はない)、練習を放棄してるからな。自慢するようだが「放棄」の「棄」なんぞ書けないぞ)、自分が書く文章もできる限り、不用意に漢字を使わないようにしている。妙なカタカナ語もしかり。

 漢字を使わないと文章が稚拙になるじゃない?と思われた方も少なくないかもしれないが、実は、そんなことはないはずなのである。妙な漢字表現を「避ける」ことは、逆に思考のトレーニングになるからだ。

 以下の説は、私が大学受験生だった頃、本人から直接、講義で聞いたことがあったのだが(著者は元代ゼミ講師)、小論文で「漢字が書きたいのに書けない」ことで悩んでいた当時の私にとっては、大変、説得力があった。
(略)キーワードの漢字語を目立たせるためには、逆にその周りの言葉はひらがなのほうがいいのです。

 A 「私は漢字多用の伝達力の低劣さを指摘したい」
 B 「わたしは漢字を用いすぎることがかえって伝達力を低めている点を取り上げたい」

 という二つの文は同じことを言っていますが、どちらのほうがスムーズに頭に入りますか。慣れている人はAと言うかもしれませんが、実感が伝わるのはどちらでしょう。私からすると、Aは誰でも言えるマニュアル的論述であって、とてもその人が真剣に思考した結果だとは思えないのですが。ここで、もしあなたが私の言うことに共感を覚えた場合には、以下のアドバイスに耳を傾けてください。

 今のB文は、漢字の比率を少なくすることで、《漢字・伝達力・低》という三つのキーワードを目立たせようとしたものです。そして、このようにするために、「多用」を「用いすぎる」、「低劣さ」を「低めている」、「指摘」を「取り上げ」と置き換えています。これを語法面で言うと、

 漢字熟語をなるべく使わないで、《和語》で説明するようにすると実感が出る

 ということになります。キーワードが漢字熟語であるならば、なおのことその前後は重い漢字を使わないようにしたほうが、その言葉が印象的に伝わるのです。(pp.174-175)

田村秀行(2005). だから、その日本語では通じない. 青春出版社
 「実感」などというものは、人によって違うのかもしれないが、私にも、漢字の羅列で宙に浮いたような抽象的表現よりも、後者のひらがな混じりの表現の方が、説得力が出るように映る。もちろん、抽象度を上げることで、読者に「考えさせる」ことも戦略的には可能だが、そうするにしても一部にとどめておいた方が良いと思われる。

 もっとも、漢語的表現を「自分のもの」にする過程では、Aのような文章を書く時期があっても良いとは思う(私自身、学部時代の文章はその傾向がある)。しかし、漢字を使うことで「説明の努力」(p.172)をしなくなるリスクも気にかけておきたい。
 「綺麗な花」と書くと、その字だけ置けばすんだ気になってそれ以上の努力をしなくなりますが、「きれいな花」ならばそれがどのように「きれい」なのかを他の要素で補って示さないと実感が伝わらないので、その努力をするようになります。たとえば、
 「見たら目のはなせなくなるようなきれいな花」
 「こんな色が世の中にあったのか思うほどきれいな花」
 などとした場合、もう「きれい」という語を取ってしまってもよいほどになっているでしょう。他の言葉の組み立てで「きれい」であることの内実を説明したわけで、これがひらがなで伝えようとしたときの利点なのです。これを漢字で「綺麗」とやってしまうと、その字に頼ってしまって《説明の努力》をしなくなってしまうわけです。(p.172)
 これは漢字に限らず「マジックワード」と呼ばれる言葉全般に言えることでもある。

果物三昧

▼私は果物好きである。独り暮らしモードの時には、「もったいないおばけ効果」が働いてしまうため、グレープフルーツやオレンジなど、柑橘類を食す傾向が高かったりする(比較をしたことはないが、食べ応えはありそうだ)。

 しかし、そうでない時は、季節のフレッシュな果物を出来る限り購入している気がする。この数ヶ月は、さくらんぼうとか桃とか、桃とか、桃とか。最近では、ブドウとかソルダムとか、梨とか、プルーンとか。いずれも買った店が良かったのか、運がよかったのか美味であった。東北出身者仙台近辺出身者としては、果物=山形&福島のイメージが強いのだが、広島に住まう人間にとっては、岡山とか地物が結構、いい感じ。

 実は、先日ミキサーを購入してしまった…という話は、また今度のネタにしよう。
 果物のお取り寄せをするよりは、マシかしら?(弊社比)。

おーは地球を救う

▼以前もネタにしたことがあるが、世界のおざわグループ(小澤征爾筆頭)をネタにする際、ついでに「おー」グループ全般について触れるのが私の典型的小ネタである。

 実際、後者はそれなりに使われている名称らしい。部下もしくは上司に困ったら「おーじんじ」が広告量から言っても良く知られていると思われるが、その他、結婚仲介の「おーねっと」。ハウスのポテトチップス「おーざっく」。JR東日本系の低価格弁当(おーべんとう)などは有名であろう。ちなみに、某べんとうはNWの機内食より…以下略(弊社比)という噂を立てたくなる程、アレである。

▼これら以外にも結構ある。英語を母国語にしている人は「おーまいがっと(ねす)」を口癖のように使っているだろう(「おーべんとう」にぴったりの形容かもしれない)。愉快な日本人の中には突如として「おー、まきばーはー、みーどーりー♪」と歌い出す人もあるかもしれない(ちなみに私的には、「おーきな くりの きのしたで♪」だ)。
シルヴァスタイン
 シルヴァスタインの有名な絵本は、「びっく・おーの ぼうけん」である。さらに言えば、伊藤園のシェアナンバーワンのお茶は「おーいお茶」だったりもする。日本が誇るホームランバッターは「おーさだはる」だし、挙げればキリがなさそうだ(って、そろそろネタ切れなんだけども)。何にせよ、世界の「おー」仲間とは今後も仲良く過ごさせていただきたい所だ。

 蛇足だが、私の公式サイトは「おーらぼ」だったりして。
 なんてオチも、以前のネタと代わり映えがしないかも。

8月の休日出勤その2

▼休日出勤2日目。考えてみれば、そもそも「休日」とは何を意味するのだろう?などということを疑問に思う暇もなく、朝からバタバタしていた記憶がある。こういう時に限って、やるべき仕事の負荷も多いのが、世の常だ。

▼結局、気がつくと朝から晩まで、仕事をしていたような気がしないでもない。そもそも「仕事」とは何を意味するのだろう?などと考えることも、私的には「仕事」なのかもしれないが…などと抽象的なことを考えつつ一日を終える。

8月の休日出勤その1

▼7月末日に引き続き休日出勤。本当は出たかった講演会があったのだが、泣く泣く我慢した。もっとも、我慢せざるを得ない状況になったから、足を運びたくなった、という噂もある。ジャイアンに言わせれば(最近、新ドラえもんになってから、ジャイアンは相当丸くなったという噂もあるが)、「のび太のモノはオレのモノ」的発想であろう。

 要するに、自分のものではないからこそ、人はそれを欲するのである。思想的な言い回しを借りれば、ジラールの欲望のトライアングルしかり、ラカンしかり。皆、同じことを言ってるわけだ(違うか)。でも、欲望っていうのは所詮、そんなもんよね。人が欲していて、かつ、得難いものほど、「欲しい」ものはないわけで。

▼有名な回文(上から読んでも下から読んでも<やまもとやま>の類)の一つに、「ノモのモノはノモのモノ」が挙げられる。これって、もしかしてラジアメネタ…か。かつて一生懸命、替え歌やら回文を考えていた日々が懐かしい。

人身事故

▼人身事故を間近で目撃してしまう(人に言わせると、私はかなりの確率で、人身事故を目撃しているらしい)。今回は、幸い電車に「はねられる」タイプの事故だったのが幸いだった(分類が可能な時点でアレなんだが、そうでないタイプは…以下略)。生きていればいいことがある、などと安易に言うことはできないし、生きていても良いことはないかもしれないが、「生きていても良いことはない」と断定することは決してできない。なーんて断定してみたり。

▼喜びは人と共有することで倍増すると言われるが、こういう出来事は、人に伝えようとするという試み自体が「アース」(×殺虫剤)として機能するらしい。もっとも、こんな話を自ら読みたいと思う人は、あまり多くはいないと思うが…。アースになってくれた読者の皆さま(誰?)に感謝したいところである。おそらく、自信をもって「私はカメモアース」と言える人が、カウンセラー向きなのかもしれない。彼=彼女もまたアースを持っているのだろうが。私には出来ぬ職業だ、と改めて思ふ。

8月の都内出張

▼諸事情で都内へ。久々に都内へ出ると、正直、疲れる。わたしゃ、東京「近辺」に住んだことがあっても(藤沢=神奈川県とか、所沢&入間市=埼玉県とか)、東京23区内には住んだことがない。そもそも、あまり住みたいと通いたいとも思わない。以前は、たまに遊びに行くのが楽しみだったが、最近は正直、楽しみがなくなった気もする。

 秋葉原のイメージも15年前と今ではがらりと変わったし(注:私は、自慢ではないが旧世代である。私にとっては、秋葉原とはパーツとジャンク品。あるいはMac関連)、新宿東口や東京駅八重洲口(注:紀伊国屋と八重洲ブックセンター、)に行かなくても、オンラインで必要なものは買えるし、必要な時はジュンク堂で十分だ。

 というわけで、出張でも宿泊先は、微妙に、街を避けてみたり。言うまでもないが、地下鉄には乗らないし地下街は(必要最低限しか)歩かない。実は、おざわさん。けっこーこわがりなのである(台風が近づいているせいもあるが、意識しすぎだな)。

▼昨日に引き続き、『悩む力』を読みながら、悩んでみたり。

出張準備中

▼出張準備。明日から出張&慌ただしい日々が続く予定なので、準備で何かとバタバタしてしまう。洗濯したり、料理をしたり(冷蔵庫のあまりものを処理するのも重要な儀式である)、原稿書いたり、パソコンのバックアップを取ったり、その他。

▼仕事ついでに、『悩む力』や、『べてるの家の「非」援助論』を読み直す。
  • 斉藤 道雄 (2002). 悩む力. みすず書房
 どちらも大変に面白い本なのだが、これをどう私なりに「編集」するかは悩み所。

チップス・ドリトル・ティップス

▼わたしゃ、一人でいる時には決して、ポテトチップスの類は口にしないのだが、キッチンのお掃除中に、何かの景品でもらったポテチを発見。思わず食べてしまった。同時に、『チップス先生 さようなら』のことを思い返して(何の脈略もないが)、掃除ついてに書棚を発掘。「こんな本を読んでいた時期もあったなぁ」と昔を懐かしんでしまった。
 ○×先生と言えば、ドリトル先生物語も懐かしい。
 業界的には、『成長するティップス先生』も関連するのかも(しないか)。  こじつけかもしれないが、いずれも偉大なるビルディングストーリーである、という点は共通しそうだ(ドリトル先生は、ちょっと違うような気もするが)。

 ポテトチップスの話題から、なんだか脈略がない話に広がってしまった

読書メモ(断片):考える道具

▼以前から繰り返し話題にしているが、「自分に自信がない」という言説について。最近、この手の話題から遠ざかっていたのだが、久々に、その言葉を耳にした。

 私は、「自分に自信がない」という言葉を聞く度に、「『自分に自信がない』と言い切ってしまう『自信』は一体どこからやってくるのか?」を問うようにしているのだが、最近は「自分」について過剰言及する「自分」について考えさせられることも少なくない(私自身、意識的か無意識的か知らぬが自己言及が過剰過ぎるという噂もあるが)。

 個人的には、自分自身にとらわれる「自分」から脱しようとすること、あるいは、「自分」というものを「自分」だけで捉えようとすることの限界について気づくことが決定的に重要だと思っている。が、この説明はなかなか難しい(試みることに意味があるのだから、「自分」から脱した後に、その「自分」はどうなるのか?と問うのはナンセンスだ)。

▼なんてことを考えている最中、「脱構築」について思い返したので、調べてみた。
 ぼくたちが概念を説明する方法は、無限にありうるだろう。しかしどう説明しても、いつもある部分を省略するか、除外してしまうことになる。脱構築は、こうしたギャップを取り除いて、ぼくたちの説明をさらに完璧で正確なものにすることを、目指すものではない。こうしたギャップはどうしても避けられないことを示そうとするのだ。そのために、ぼくたちのテクストや語りの外部にある完璧さの基準に訴えるのではなく、その基準の意味を、詳細に検討するのだ。

 たとえぼくのフィアンセは「完璧な女性だ」と、ぼくが確信しているとしよう。ぼくが惚れ込んでいたら、フィアンセを完璧と思わざるをえないだろうが、ぼくの完璧という概念は、完璧なものではありえない。でもぼくには不完全な概念しかもてないのだが、ぼくのフィアンセは「完璧な女性」ではないという感覚がつきまとうだろう。
(略)
ほとんどなじみに思われる言葉は、意味を孕んでいるようにみえるが、辞書で調べてみると、抜け殻になってしまって、その同義語の意味のうちに、本来の言葉の意味が「絞り出される」のである。 (pp.277-278)
 人は決して見えない「何か」の存在を仮定できてはじめて、はじめて「見る」ことができるはずである。逆に、何かについて意味を付与しようとすれば、その意味からこぼれ落ちてゆくものは、少なからず生じる。上記引用の著者の言葉を借りれば、「同胞という概念は、兄弟ではなく、親しい仲間としてつきあえない人々がいることを想定している(すべての人が加盟しているクラブは、そもそもクラブではない)」(p.279)わけだ。

 要するに、自分からこぼれ落ちていくものを見る余裕がないからこそ、「自分に自信がない」と、矮小化して捉えようとするのかもしれないな。なんてことを思ってみたり。

読書メモ(ミニ):『銀河鉄道の夜』しあわせさがし

▼街へお買い物へ出かける。目指すは無印良品の10パーセントオフ。最近、無印良品は妙に儲かっているようなので(株も一時より20パーセント近く上昇している)、10パーセントオフの時にできるだけまとめ買いをしておこう、という戦略である。合計で2万円近くの出費。これでようやく新居の家具も揃った感じ。

▼とある原稿を書き進めつつ、『「銀河鉄道の夜」しあわせさがし』を読む。宮沢賢治論は、『童貞としての宮沢賢治』(本書のタイトルはキャッチーだが、内容はかなり真っ当である)と、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』以来である。個人的には、『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』の解説が最もしっくりくるかな。  例年、クリスマスの時期には『夜と霧』を取り上げることにしているが、夏は宮沢賢治の作品の何かを取り上げることにしようかな。夏休み中くらい「しあわせ」(さいわい)が何たるか、本気で考えてみても悪くない。

読書メモ(断片):生き物をめぐる4つの「なぜ」

▼「心の理論」について、分かりやすい入門書はないかと探していたら、ちょうど良い説明を見つけた。生物学系の本。私は常々、心理学を学ぶ前提として(あるいは平行して)生物学を学んでおくべきだと思っていたのだが、意外と言えば意外な所で見つけてしまった感じである(比較認知科学のことを考えれば意外ではないのだが)。
7章 「人間の独特性」より「心の理論」
 道徳は、他者の利益と自分の利益の葛藤から起こることなので、道徳的に行動することができるには、一つには、他者というものがいて、その人も自分と同じように考えたり感じたりする存在であるということを理解できることが必要でしょう。(略)なぜなら、他者の心の理解ということは、人間以外の動物には、あまりその証拠がないからです。それには「心の理論」という脳の働きがかかわっています。

 「心の理論」とは、心についての科学的な理論のことではありません。そうではなくて、人間が誰でも持っている、他人の心の状態を無意識のうちに類推する機能を「心の理論」と言うのです。(略)

 なぜ「理論」なのかと言うと、他人の心というものは手にとって見ることはできないので、他人が何を考えているのか、何を感じているのかは、しょせんは推測にすぎないからです。しかし、私たちは、他者の心の状態について、ただやみくもにあてずっぽうの推測をしているのではなく、表情や言葉などが何を意味しているのかを理解し、ある「理論」をもって、他者の欲求や目的や心の状態を推測しているでしょう。その全体の働きが、「心の理論」なのです。他者理解のために「心の理論」がたいへん重要であることは、よくおわかりのことと思います。これがうまく働いているからこそ、人は、自分とは異なる他人の状態を推測し、その人が何を欲しているのかを理解することができるのです。(pp.200-201より一部抜粋)

長谷川 眞理子(2002). 生き物をめぐる4つの「なぜ」. 集英社
 世の中には、「自分のこと」を「自分」以上に分かってくれる他者が確かにいる。私は常々、なぜ他者が「自分のこと」を分かるのか不思議でならなかったが(逆に、私も同じようなことを言われることがあるが、それもまた不思議である)、そういう人の「心の理論」をぜひ知りたいものである。逆に、なぜ自分のことですら(自分のことだからこそ?)、よく分からないのかということも「理論化」してみたいものだ。

読書メモ(ミニ):高校生のための評論文キーワード100

▼お盆休み中、事務仕事が回っていなかったので、集中的に事務仕事をする。モバイルで使っているパソコンの調子が芳しくなく、そのメンテナンスにも追われる。朝から深夜まで働きづめだった。移動中、『高校生のための評論文キーワード100』を読む。さすが、中山元氏。すばらしい入門書である。高校生でも確かに読める内容だろう。『思考の用語辞典』と併せて、常に手持ちにおいておきたい本の一つである。
 この手の辞書・辞典の類のほとんどは、複数の著者が記しているため、整合性が失われがちである。一方、一人の著者がすべて記す場合、どうしても内容に偏りが出てしまいがちなのだが、本書は、大変にバランスの良い入門書である(こう書くと、私が「バランスが良いか否かを判断できるだけの知識を持っている」と暗に主張してしまうことにつながる。しかし、そう表現したくなるほど私的にはお勧めなのである)。

8月10日~18日までの行動記録

衆議院への出馬を試みていた関係で、すっかり日記の更新が遅れてしまった。実は、話題の広島6区を狙って広島に越してきたのに、ホリえもんに先を越されてしまったのである。まったくもって馬から落馬、頭痛が痛い気分である。

 ちなみに私の選挙区は…、何区なんだろう(無知)。なお、私は尾道には行ったことがない。新大阪駅駅構内(新幹線)で「尾道ラーメン」を食べたことがある程度である。何せ、宮島(日本三景)にも、まだ足を運んでいないのだからな。

▼というわけで、この数日間、何をやってきたのか備忘録的に記録しておく。

8月11日 移動日。まったりと一日を過ごす。これといってとくに予定があるわけではなかったので、テレビドラマ(『ガラスの仮面』)を観たり、将来設計で悩んだりしながら一日を終える。それにしても『ガラスの仮面』の、あの白々しくも黒々しいリアリティはどこからやってくるのだろう。単行本はまだ続いているらしい。

8月12日 香港住民になる。永住権は早くても3年後らしい。本件については、妻に多大なる尽力を得た。香港の永住権を取ったらどうするかって?そりゃもちろん、ムービースターよ。香港映画に出演して、アジアの星になるのだ(ウソ)。香港の大学は世界的に見ても研究水準が高い(らしい)が、実際はどうなんだろう。

8月13日 お買い物へ出かける。フードフェスティバルなるイベントがやっていたので興味本位でとりあえず入場。トンネルを抜けるとそこは…、すさまじい熱気だった。現金をもっと持っていけば良かったと悔やまれる。おみやげを若干、購入する。広東語を勉強しておけば、もっと楽しかったような気がしないでもない。

8月14日 原稿書き。黙々と一日中、パソコンの前に向かう。昨年度は、「受けた仕事は断らない」というモットーの下、意味もなく忙しい日々を過ごしてしまった反省もあり、今年は仕事を厳選している…はずであった。
 しかしながら、お盆といえども3日休みを取るのがやっとらしい。いったいどこからどこまでが仕事で、趣味なのか分からなくなってきている気もしないでもない。

8月15日 移動日。実は、未だに「新婚旅行」というものに出かけていないという現状に気づかされる。うーむ。やっぱりHoney Moonは「月旅行」だろ、と思っていたのだが、残念ながら21世紀前半にはその夢は叶わなかった。フルムーンには月旅行に出かけたいところだが、うーん。今から数十年後を想像するのは、なかなか難解だ。

 移動中、原稿の手直しを行う。終わりそうで終わらない。この感覚が絶妙。

8月16日 某所でバーベキュー大会。バーベキューにおける人間行動の観察をする会を挙行。今回は、ほとんど任せっきりになってしまったような気がしないでもない。これが「バーベキュー入試」だったら間違いなく落選であろう。しかしながら、大変、おいしゅういただくことができた。感謝。深夜にもなぜか、ミニ焼き肉会が挙行される。

8月17日 出張訪問。私の業界的には、守秘義務が生じそうな話題が多々あった。その後、通常業務。夜は、再び原稿の修正。でもって資料の作成。今月末までに書かなければいけない原稿・資料類がn個。修正しなければいけない原稿がn個。以降、どうみても休みがないような気がする。

 とりあえずはアウトプットに徹する夏ということにしたい。

 以上である。18日からは完全に通常業務に戻ったので、通常編を記したい。

失恋とは恋を失うことではない

▼我が家は、とある川の近辺にある。その川は小さいので、カップルが等間隔で席を陣取りつつ、恋を語り合うような土手もない(例:鴨川)。微妙に雑草が生い茂り、ちょっとした遊び場がある程度である。しかし季節柄か、川辺では花火が盛んだ。

 花火の音を耳にしつつ、ひとり、ウイスキー(注:試供品)を飲んでみる。「恋は遠い日の花火ではない」などと感傷にでも浸ろうかと思ったが、その瞬間、「失恋とは恋を失うことでない」という谷川俊太郎の一節が、脳裏に浮かんでしまった。私には後者の方が似合っているらしい(前者が似合うと自称するのも、また微妙だが)。
 失恋とは恋を失うことではないと僕はいいました。失恋しても僕らは恋することは出来る。そしてそれはすばらしいことです。僕は決して自慰的な感傷主義や、妙に悲壮がる自己陶酔についてしゃべっているのではありません。僕はむしろ失恋してもなお恋することの出来る愛についていいたいのです。その愛は決してただ男と女との間の愛のみを意味しません。それは僕らが生まれながらにもっている生きることへの愛、世界への愛なのです。そして恋する者は、恋することによってまたそのような愛をより深く知るのではないでしょうか。恋人を失うことは苦しいことだけれども僕らはそれですべてを失うのではない。僕らは生き、世界は僕らに残されている。そして苦しむほど僕らは生きることを愛するようになる、相手のない恋に堪えている間に、僕らはきっとそれさえも生きているものの特権だと思うようになります。晴れた空や、若い樹や、いきいきとした街をやはり愛しているのだということに気づくのです。

谷川俊太郎「失恋とは恋を失うことではない」(p.95)
中村真一郎 編(1989).ポケットアンソロジー 恋愛について. 岩波書店
 スピノザ流に言えば、すべての定義は否定である。恋は遠い日の花火ではなく、失恋とは恋を失うことではない。恋は失うことはできないのである。そういえば、以前、「恋は盲目」という格言と、「失恋とは恋を失うことでない」を掛けて、人は自身の盲目さを失うことができない、といった趣旨のことを日記に書いたことがある。

 確かに、何かに支えられているのは事実かもしれない。しかし、喪失感を失うと同時に(注:喪失感ですら、人は、失うことができるのである)、自分自身の盲目さ(無知)についての「自覚」までも失っているような気がしてならない。

 失うとか、喪失とか、忘れるとか、忘却とか、そんなことを考えて一日が終わる。

 追伸
 K君(神奈川県)、そういうことです。はい。

マクドナルド中間決算、大幅減益 100円メニュー裏目

▼わたくし、昨年までは、マクドナルドで時間をつぶすことは滅多になかったが、原田しゃちょー(注:マクドナルドの現しゃちょーさんは、以前、アップルコンピュータの日本法人の代表だった。マックつながり)の100円メニューが登場してから、マクドナルドを再び利用するようになった。言うまでもないがブレンドコーヒーとマックチキン以外食べたことがない。合計200円。ちょっとしたランチに私的には大変便利なセットである。

 それにしても、一体、どういう想像力を働かせたら、100円メニューと500円以上のセットが共存できると想定できるのだろう。うーむ。悩ましい。そういえば、以前、アップルがこけそうになった ピピン@アットマーク(簡易Mac。Mac mini とはコンセプトは全く違う)は5万円。当時のMacの最低価格は25万円くらいだったような気がしないでもない。比率は一緒?もっとも、当時としては前者の方が、ハズレだった訳だが…。

▼参考:日本マクドナルドホームページ(8月9日のニュースリリースを参照)。ちなみに株価は順調に下がり続けている。もしかしたら今が買い時?

SMAP解散

▼衆議院が解散してしまった。もし私がジャニー○の社長だったら、この重大な出来事にに対抗するために、SMAP解散!をぶつけたいところである。

 ワイドショー的には、意外性も含め、おそらく後者の方が上(たぶん)。一国の政治より、ジャニー○の方が話題性が高いと言う事実を確認した上で、9月11日(何故に9.11?)にSMAP ver.2.0としてSMAPを復活させるのである。もし復活が面倒だったら、お別れアルバムを当日、緊急発売しても良い。

 と言うわけで、ジャニー○の社長さん。どうよ、解散視聴率占拠。

教材作成中その2

教材作成中
 どんな方に読まれているか分からないので、うかつなことは書けないが、ただいま、とある教材を作成中(その2)。この仕事を通して得る所は多く、書きたいことも少なくない。しかし、果物の著作権が私に帰属するわけではなく、守秘義務等もあるので略。自分の専門と微妙にずれているが、微妙に重複しているあたりがポイントか。

 多少なりとも読解力(惰性的読解力?)を身につけてしまったがために、「分からない」ということが「分からなく」なってしまった自分を反省しつつも、仕事を介して自分自身の思考力の分からなさが「分かる」、というのは大変、愉快なことである。要するに、自分自身の無知と向き合わずして、人に何かを伝えることはできないということだ。


あ不思議な夢を見た。夢の中で、M氏(男:仙台市)とデート。何故に、男とデートせにゃーならんのだ?ということを議論しながら宿泊場所を探すという夢。周縁から中心に向かおうとしつつも、中心には決してたどり着けない…の類か。

ポケモン関連探索中
 ポストモダン療法を「ポケモン療法」と一瞬読み間違えてしまった自分に-2万点。

8月6日

解散総選挙を目前にした小泉首相でも見物しに行こうかと、原爆死没者慰霊のために広島平和記念公園へ行こうか画策。

 本当は、朝8時からの平和祈念式に行くつもりで、朝6時には起床して気合いを入れて万全の体制を整えていた。

 しかし、不覚にも、二度寝をしてしまい、気づいたら7時半(どこが万全の体制じゃ)。さすがに間に合わなそうだったので、テレビ経由で黙祷することにした。

 起床後、エアコンを付けて、横になってしまったのが災いしたらしい(横になってしまっている時点で、アレなんだが)。

 不謹慎な言い方になってしまうが(お許しいただきたい)、朝早くに何故に、あんなもんを落としたのか、朝が苦手な私としては、大変疑問である。しかも、この暑い夏に、である。私なんぞこの気候だけで、ダレダレなのに。

▼気を取り直してお昼前に出かけることに。直射日光が激しそうだったので、ついに日傘を買ってしまったらしい(日傘については改めて記すことにしよう)。

 既に撤収が開始されていた平和記念公園はやはり暑かった。広島がこんなに暑い所だったとは想像できなかったという事実と、60年前の今日の悲劇が想像を超えているという事柄を並べるのは、どう考えても歴史に対して不敬だとは思うが、私のような凡人には、こういう所を起点にしなければ「戦争」を語れない気もする。

 体験しえない体験をいかに「体験」するか。自分自身の想像力をいかに越えるか。今から40年後(つまり戦後100年)を起点に、今日の日を振り返ってみる、という課題を自分自身に課しながら、『戦下のレシピ』メニューで夕食を作ってみた。
▼写真は、本日、広島平和記念公園で撮影したもの。なんで半旗なんだ?と一瞬、疑問に思ってしまったこと自体に愕然とさせられる。

試験監督

▼お仕事で3~4日にかけて、試験監督を務める。寝坊しそうになったり、○×だったり(以下略)個人的にはハプニングはいくつかあったのだが、無事、つつがなく終了した(「つつがなく」は、「恙なく」と表記するらしい)。

 関係各位はさぞかしお疲れのことであろう。公的な試験監督は、センター試験以来の出来事である。正直、2日間、試験時間中は、ほとんど何もできなかったが、適当に、考え事をしていたので頭のリフレッシュにはなったかも。

読書メモ(断片):外的と内的

▼「内的」と「外的」についてまとめようと資料をあたっていたら、2冊目でビンゴ。河合隼雄(1992)の『心理療法序説』に、「治療の過程」と「患者の現実」をそれぞれ「外的」「内的」に分けて示すモデルが示されていた。
 安易な言い換えは危険だが、「患者の現実」における「外的」「内的」は、それぞれ「他者とのコミュニケーション」、「自己とのコミュニケーション」などのように置き換えられ、治療の過程における「外的」「内的」は、それぞれ一般的な意味での「社会」と「自己」に通じそうだ。以下、ちょっと長くなるが引用。
(略)ユングによる外向-内向の考えによって、まず縦軸として「治療の過程」を外的・内的に分ける。次に横軸としては「患者の現実」を外的・内的に分ける。これによって図に示したような四つの領域ができる。
(引用者改行)
これを説明すると、まず、患者の現実とは、患者の実際の行動や人間関係、症状などを扱うのが「外的」であり、患者の夢や連想などを扱う、あるいは患者が「外的」なことを語っていても、それを内的イメージとして扱うとき、それは「内的」ということになる。
(引用者改行)
次に、治療の過程としては、患者が外的にどれほど順応し成功していったか、症状は消えたのか、などをねらいとするときは「外的」であり、ユングの言うような自己実現や、ロジャーズの言うような十分に機能する人間、などを狙いとするとき、それは「内的」ということになる。(p.173)
外的(治療の過程)
外的(患者の現実) direct
(行動療法)
interpret
(フロイト派)
内的(患者の現実)
reflect
(ロジャーズ派)
constellate
(ユング派)
内的(治療の過程)
 このような四領域に対応するものとして、各学派が考えられる。治療の過程も患者の現実も「外的」なことを扱う治療として行動療法があげられる。(略)ここでは、指示する(direct)ということが技法の中心になる。(p.173)(略)
(引用者改行)

 次に、患者の現実としては、対面の話し合いで、外的な行動などが論じられるが、治療の過程は、患者の内的成長に焦点を当てるという点で、ロジャーズ派があげられる。この際、患者の感情や考えなどについても話し合ってゆくので「内的」ではないかという人もあろうが、ここで患者の現実の「内的」という場合は、もっと無意識的な領域を指していると考えていただきたい。ロジャーズ派の場合は、クライエントの感情を反射する(reflect)こと、あるいは内省する(reflect)ことなどが技法の中心となる。(p.173-174)
(引用者改行)

 次に、患者の現実としては、自由連想、夢などの内的なことを取り扱うが、治療の過程としては、外的な行動の変化の方に焦点をおく、という意味で、フロイト派がその代表となる。ここでは、解釈する(interpret)ことが技法の中心となる。(p.174)
(引用者改行)

 最後に、患者の現実、治療の過程、共に内的なものとしてユング派があげられ、ここではconstellateということが技法の中心になる。ここに示したconstellateという語については少し説明する必要があるだろう。この語は、constellation(星座)という語から動詞としてつくられた語である。(p.174)
  • 河合隼雄(1992). 心理療法序説. 岩波書店
    (図は、Webページで表示しやすいように変更してある)
▼フロイト派、行動療法、ロジャーズ派、ユング派について最低限知らないと、意味のない解説かもしれないが、大変に分かりやすいモデルである。

 行動療法がdirect、フロイト派がinterpret、ロジャーズ派がreflect、ユング派がconstellateというのも、単純化し過ぎている嫌いはあるが、分かりやすい。オリジナルは、河合隼雄氏がアメリカ留学中に学んだクロッパーとシュピーゲルマンによって1965年に発表された論文とのことだ。「極端に過ぎる」ことは著者らも認めている。
 (略)以上のような四つの分類は、もちろん極端に過ぎることを、クロッパーもシュピーゲルマンも認めている。そして、彼らは、実際の心理療法家は、この四つの領域をクライエントの状況において適当に動いているのではないか、むしろ、そのようなことが望ましい、と述べている。(p.175)
 心理療法は、フロイト派、行動療法、ロジャーズ派、ユング派に限らないが、このようなモデルを頭に思い描いておくのは悪くなさそうだ。

読書メモ(ミニ):原っぱと遊園地 & ディープスマート

▼先月読んだ本のメモを書こうと思っているのだが、なかなか時間が取れない。以下2冊は、私としてはかなり面白かった。
 前者は建築家のデザイン論。知る人ぞ知る世界かもしれないが、ルイヴィトンの表参道店や名古屋店をデザインした人である。建物もご存じない方は、googleのイメージ検索「青木淳 ルイ ヴィトン」などを試してみると良いかも。私も、デジカメで表参道店だけは撮影したのだが、googleのイメージ検索の方が良さそう。

 後者は、これまた知る人ぞ知る人かもしれないが、ハーバードのビジネススクールの著名な教授である。もちろんビジネスの文脈が主ではあるが、「経験知」(経験的な知識)をいかに、組織内で、あるいは他者と共有するかで極めて示唆的。

 前者は好き嫌いがあるかもしれないが、両者とも、自信を持ってお勧めできる。

▼いったい誰が設計しているのかは知らぬが、香港某所のルイ ヴィトン(建築中)。建築中の建物ですら、それなりの仕掛けがしてあるところがヴィトンらしい。

 完成が楽しみなところである。香港ディズニーの前には出来るのかな!?

国際結婚と国際離婚

▼たまたま見つけてしまったので購入してみた(流し読みしかしてないけど)。
 妻が海外に住んでいると知人に言うと、「え、外国人なんですか?」と聞き返されることが少なくない。世の中において、国際結婚(異文化結婚)が、それほどまでに広がっているのか、はたまた、私が国際派と思われているのか定かではない。しかし、リアクションとしては、なかなか考えさせられるところ大である。

▼私としては、確かに、それが国境を越えているか否か(あるいは国籍、人種でも)も大切だとは思うが、内なる異文化性に着目したいところである。だって、「自分」以外はすべて「異文化」でしかないのだから。
 自分「以外」はと定める自分ですら、私にとっては異文化である。いったい何をもって同質と見なし、何をもって異質を見なすのか。これまた難問である。

ビール

▼ビールを一ケース購入。今回は、初めてドラフトワンを購入。

 ちなみに最近の購入傾向は、
  • 淡麗 生(キリン)=初回だけケース買いではなく6×3本購入
  • 新生(アサヒ)
  • のどごし<生>(キリン)
  • Slims(サッポロ)
  • ドラフトワン(サッポロ)
 である。結局、毎月一ケースのペースで飲んでしまっているらしい。今回は、のどごし<生>に戻ろうかと思ったのだが、販促に負けてしまった。私は、ビールの味としてはキリン派だったりするのだが、雑酒は、どのメーカーも「これ」という実感がないのかもしれない。メーカー的にはサントリーがなぜか入っていない(合わないらしい)。

 最近、安かろう悪かろう精神で、発泡酒か雑酒しか飲んでいない分、飲み屋さん等で、生ビールを飲むと、画期的にうまく感じてしまうらしい。何にせよ、一人でいると(二人でいても?)、アルコール摂取量が増加しているので気をつけなければならぬ。

▼朝から晩まで、良くも悪くも単調な、しかし慎重さが求められるお仕事。一日中、メールばかり書いて終わってしまったような気がする。

 ちなみにビールを飲むときは最初の一口、二口はそのまま。ビールに飽きたら、トマトジュース割り(レッドアイ)にすることが多いような気がする。

読書メモ(断片):「考える」ための小論文

▼先月に引き続き小論文本を読み直す。「小論文(論文)の書き方」のような、ある種、基礎的=一般的=普遍的なスキルを、人に伝えるにあたって気をつけなければならないなと思うのは、「原典」(参照元)を忘れてしまうことである。

 私は、元来、自然科学の領域以外では「オリジナリティ」という言葉をあまり信用しない性格なのだが(オリジナルをたどっていくと、ギリシア時代以前にたどり着いてしまうことが少なくない)、先人に対する畏敬の念は、大切にしたいと思っている。

 しかしである。改めてさかのぼってみると、人の「ことば」をあたかも、自分の言葉のように話していることが少なくないことに驚かされる。論文の書き方について言えば、私がちょくちょく使っている図は、実は、『「考える」ための小論文』で紹介されている図とほとんど同じだった。時期を考えれば、どう考えても本書が先。
▼パクっていたという気もしないでもないが、概念を扱っている以上、同じ結論にたどり着くと考えたい所である。言うまでもないが、「具体」と「抽象」、「私(自己を含む)」と「世界(他者を含む)」という概念は、言葉と切り離せない訳だしな(言い訳か)。

 しかしながら、次回、触れる時には、本書を参照しておきたい(なお、本書のさらなる参照元を辿ろうとすると「哲学」の世界に踏み込むことになる。結局は、たどっていくとギリシア時代、あるいは人類学的な考察にたどり着くのかもしれない)。

 以下、メモ。
言葉はどのように紡がれるのか
(略) こういう図(注:下の2×2のマトリクスのこと)は学者の論文でもテレビのバラエティーでもよく使われるものだから見たことのある人も多いだろう。人間やものごとは基本的にこうした相反する要素を含んでおり、それらの絡み合いとしてものごとをつかまえ人間をつかまえるとき、こういうふうに整理することは、ある程度、有効だ。
具体的・現実的
世界 (2) (1)
(3) (4)
抽象的
 (1)の部分は、私たちが直接経験している、あるいは今まで今まで経験してきた自分の身体のまわりの具体的なできごとの世界。言い換えれば自分だけの現実世界。そして(2)の部分は、私たちからは遠い、世の中や世界の具体的なできごとの世界。私たちは、知識や情報としてそれを経験する。ここは、他者と共有している世界であるとも言える。(略)

 (3)の部分は、人間や世界にまつわる、抽象的な理念や概念の世界。神、真理、正義といった大きな理念だけでなく、精神の豊かさとか、まっとうさというような言い方もこの世界の言葉である。
(略)人は、(3)の世界を、いわば参照することによって(2)の世界を確かめることができる。この(3)の世界の言葉は、本来(2)の世界にもとづいてできているのだが、現に生きられている世界が絶え間なく変化し、人間の生の在り方も変化しているから、現実から浮いてしまい、言葉としての有効性を失う危険をつねに持つ。

 (4)の部分は、「私」なるものをめぐる、抽象的な概念の世界。「自己」とか「自己同一性」とか「身体」というような概念だけでなく、「元気」とか「頑張る」というような表現も、じつはここに属する。また、(1)と(4)との関係は、(2)と(3)との関係と同様なものとしてイメージできる。人はこの(4)の世界で成立した言葉を自己の内面に植えつけて信じたり、その言葉を自分の内面に照らし合わせて疑ったりする。つまり、(4)の世界のさまざまな言葉によって、人は「自分」をつかまえ直す。
(略)
 出発点がどこにあろうと、重要なのはこの四つの部分を動き回るように、ただし、静かに丹念に言葉をつないでいくことだ。論文というのは、(1)や(2)の部分を足場として、(4)や(3)の部分で「自分なりの言葉」を成立させようとする営みだが、(3)や(4)で、きちんと精密な思考をめぐらすことが、まず難しいことであるうえに、抽象的な言葉を使って思考するとき、(1)や(2)の具体性から浮き上がらないようにすることも、また難しい。
(pp.119-121より部分的に抜粋。なお、原著では、引用部(1)~(4)の部分は、Ⅰ~Ⅳの表記になっている。本引用では、機種依存文字のため数字に置き換えている。表の見かけは大幅に異なる)
 私は世界といかに関係づけられているのか、あるいは、世界にとって私はどのように位置づけられるのか。私にとっての・他者にとっての具体的な経験は果たして、何の意味があるのか。あるいは、具体的な経験はいかに他者と共有しうるのか。そもそも現実とは何なのか。抽象的概念に惹かれたり、あきれたりするのは何故か。

 そうやって、ぐるぐるぐるぐる考えているうちに(あるいは考えるのを放棄しているうちに)、眠りにつき、気づいたら明日になっている。

 たぶん、私にとっての人生というのはそんなものなのだろう。

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