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2005年6月

オレンジページ

▼顧客に「好きなアーティストは、オレンジレンジ 」と言われて、何それ?と言ってしまった私だが、オレンジページのことならば多少は分かる。さすがに定期的に購入はしていないが、私が気まぐれで購入することのある雑誌の一つである。

 購入を失念してしまっていた20周年記念号(7月2日号)を探し求めていたのだが、ようやく某コンビニエンスストアで発見。何とかゲットできた。

 確かに、300円とは思えないような内容の充実ぶりである。

 20周年特別企画の「もう一度食べたい!作りたい!」の記事で初めて知ったのだが、創刊号(1985年7月)の最初のメニューはなんと「安くっておいしいステーキ。」だったらしい。和風ステーキは今でこそ何ら珍しいものではないが、当時としては、斬新だった模様。「安くっておいしいステーキ」のサブタイトルは「1人前680円で考えました。」なのだが、当時の680円は、今の通貨価値では、いくら位なんだろう?

▼実のところ、欲しかったのは本体ではなく、付録の「レシピのことば」だったのだが、噂通り充実した内容だった。「ひたひた」とか「しんなり」とか「香りが立ったら」など、料理用語をそれこそ基礎の基礎から説明してくれている。

 まだコンビニ等では入手できそうなので、興味がある方は是非。

▼料理におけるインストラクショナルデザイン のあり方について考えてみたり。

市内出張その2

▼午前中、健康診断を受けに職場へ。終わり次第、取り急ぎ、市内出張。同一の用件の出張はこれで3度目。今回は電車等での移動ではなく、市街からバスを使う。広島のバスには初めて乗るのだが、こんなに不便だとは思わなかった。

 正確には不便というよりは、「時間がかかる」の方が適切だろう。たまたま今回は方向が悪かったのかもしれないが(こう書くと、そこに住んでおられる方に失礼かもしれないが)、市街から一端、広島駅へ出て、さらに広島駅の新幹線口へ回るだけで、25~30分以上取られてしまうのである。平日のお昼にあれだけ渋滞しているということは、夕方などはもっと時間がかかるんだろうなぁ。

 名古屋も、車の場合、新幹線口から街側へ出るのに時間がかかった気もするが(新大阪もそうだったか?)、街のデザインとしてはあまり芳しくない気がする。街の中心と新幹線の駅が微妙に離れているのは、伝統の街ならではだろうが…。

▼バスの中で本を読んでいたら、車酔いしそうになってしまった。確かに、今回はバスに乗っていた時間が往復×2で、正味、3時間近く。酔ってもおかしくないか。
 3冊持って行ったが、この2冊はなかなか面白かった。
 関氏の本を読むのはこれで3冊目になるのかしら。

ドラッグストア

▼広島ネタが続くが、せっかくコメントをいただいたので(&気になっていたので)、人口あたりのドラッグストア数について、さくっと調べてみた。インターネット経由で、この手のマクロデータが格段に手に入れやすくなったのは大変ありがたいことである。

▼ドラッグストア数については、軽く調べた所では、「商業統計」で都道府県別の事業者数が示されていた。また、都道府県別の人口については統計局が例年、10月に出している推計があるので、これを参考にしてみた。
  • 平成14年 商業統計速報
    http://www.meti.go.jp/statistics/syougyou/2002sok/
  • 平成14年10月1日現在推計人口
    http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2002np/
 単純に、都道府県別の人口とドラッグストア数を割り算してみると…、平成14年のデータに限って言えば、確かに広島県は、かなり「激戦区」である(人口に対してドラッグストアが多い)。市町村別のデータは分からないのだが、広島市に限って言えば、もしかしたらさらに激戦区になるのかもしれない。

 ちなみに都道府県別での一番の激戦区は、事業者数でいえば、佐賀県になるようだ。ちなみに、私が以前住んでいた石川県も激戦区だったらしい。

▼この手の情報を検索させて、調べさせるっていう授業も面白いかも。

熱中症

▼熱中症と聞くと、私は、ふと「息もできないくらい ねぇ 君に夢中だよ♪」というZARDの曲を思い出してしまう(不謹慎かもしれないが、どうかお許し願いたい)。

 私の日記で何度か話題にしたことがある記憶もあるが、「息もできない」という感覚は、人生、それなりに生きていないと経験できない「感じ」の一つである。一睡もできないとか、まったく食欲がないとか、何もやる気が起きないとか、あるいは、欠如が欠如した感じ(「空虚さ」とも呼べる)などとは、また違った感覚の一つだ。

 ある事柄に夢中になっている時は、確かに「息もできない」くらいドキドキものだ。このくらい夢中になる(熱中する)経験は、人生においてとても重要であろう。「熱中症」も、聞くところによれば息ができないらしいが、まったく別の意味である。

▼最近、痴呆症が認知症という言葉に置き換わったり、分裂病が統合失調症に置き換わったついでに、「熱中症」も別名に変えた方が良いのではないか。「熱中」は「夢中」と同じく悪い意味はないと思うが、誤解を招きかねない気がする(オレだけ?)。

 あるいは「夢中症」という病名を新設すれば良いのか、なんてことを考えてみたり。「僕は今、君に、夢中症なんだ」というセリフは、うまくいけば高評価を得られるかもしれないが、間違えば認知的には失調状態に限りなく近い気もする。

▼「夢中症」を声に出すと、「ムチウチ」に聞こえる気がしないでもない

カレーとうどん

▼最近、私は、朝7時には起床するようにプログラムされているのだが、今日は珍しく9時近くまで寝ていた(注:正確には目覚ましがそのようにプログラムされている、か。設定を変更するのが面倒なので、よほどのことがない限り7時に目覚ましが鳴る)。

▼起きたのはいいが、やる気レスな一日だった。メールを読む気もしないし(注:以前はメールを頻繁にチェックしないと気が済まなかったが、最近は、全く読まない日もある)、本を読む気もしないので、とりあえず掃除や、お部屋の整理をする。

▼何か美味しいものでも作ろうかと思ったが、夏野菜カレーを作って終了。関係ないが、カレーうどんは地域によってその定義が異なるらしい。

 多くの人は、かけうどんにカレーをかけたものを「カレーうどん」と見なしていると思われるが、地域によっては、うどんの中にカレーが入っているカレーにうどんが入っている場合がある(要するに、この場合、うどんはご飯の代わりである)。また、だし汁にとカレーが絶妙のバランスでミックスされているケースもある。

 まとめよう。
  • (1) かけうどんの「具」がカレーになっている場合
  • (2) うどんに直接カレーが、かかっている場合(うどんはご飯の代わり?)
  • (3) 特製のカレーミックスだし汁に、うどんが入っている場合
 の3ケースが代表的である。

 うどんにカレーを直接かけたものは関西地方に多いと思われるが、もしかしたら関西風のダシにカレーはあわないからか?などということを、ふと思った今日この頃。本件は、既に多くの方が論じていると思われるが、結構、奥深い世界である。

▼要するに、今日はカレーを作っただけ、という一日だったらしい。明日は、カレーうどんにするつもりなのだが、どのタイプにしようか今から迷っている。

県内出張

▼県内に出張。この数日、あちこち動き回っているせいか、足はツルし(半分、肉離れ状態である。結構、しんどい)、腕は筋肉痛になるし、年齢を感じる今日この頃。

 毎日が新鮮なのは良いが(「現場」を見て回るというのは、常に新鮮なものである)、前後の移動が、ひたすら暑いのが難点だ。日焼け止めを十分したつもりだったが、途中で汗をハンケチでぬぐってしまったので、かなり顔がほてっているかも…。

▼ふと、某社の人事部長に「君は、営業に向いてないとは思うけど、現場を離れちゃいけないよ。若いうちは現場から学ばなくちゃ」とご指摘をいただいたことがあったことを思い出す。確かに、「営業」には向いていないとは思うのだが(基本的に口べただし、話を聞く方が得意だからな)、確かに、「現場」から得るものは多い気がする。

▼移動中の読書。
 など数冊目を通す。ウェッジ選書は、どれも読みやすいのが良い。

ケータイ進化論

▼移動中、小檜山先生の新刊『ケータイ進化論』を読む。読み物として純粋に面白い。携帯関連の類書は少なくないが、どれも特色があって、「定番の一冊」を決められないのが職業的にはつらいところである(もっとも、これは良いことだと思うが)。
 私自身が、最初にメディア&コミュニーケーションに興味を持つきっかけとなったのは、学部の授業で紹介されていた(参考文献に挙げられていた)、『メディアとしての電話』だった。世の中的には、ちょうどPHSがスタートし始めた頃で、携帯電話よりもポケベルやPHSの方が、若者的にはメジャーだった頃の話である。
 ちょうど固定電話から携帯電話への移行期だったからこそ目が向いたのだとは思うが、身近な存在である「電話」というものを、こうやって考察(対象化)することができるのねぇ、と当時、かなりココロを動かされた記憶がある。

 それから、あれよあれよと世の中は変わっていって、携帯電話が普及し、携帯電話上の各種サービスが浸透し、ケータイが当たり前のようになってしまった。な~んて、古臭いことを言いたくなるくらい、この手のテクノロジーの動きは著しい。

 あまりに日常化しつつあるからこそ、また流れが速いからこそ、「流されず」に、きちんと現象を捉えていきたいところである。というわけで、久々に文献を整理してみた。先も書いたように類書は多いが、私的に印象に残っているのは以下かなぁ。
 今度のネタで、今はなきアステルのPHSとか、NTT Personal のPHSだとか、ポケットベルの残骸などを披露してみようかな、と思ってみたり。

市内出張

▼市内出張。慣れない出張ではあったが、発見の多い一日だった。 
  • (1) 赤ん坊は重い
    とある縁で、生後数ヶ月(首はすわっている)の乳児をダッコする機会をいただいた。生まれたての赤ちゃんですら3キロ近くあって、予想以上に「重い」ということは頭では理解していたつもりであった。しかし、数分ならともかく、しばらくダッコしているとかなり重く感じる。なにゆえに世の中のお母様方は、あの重さに耐えられるのか?と、ふと疑問に思ってしまった。全くもって頭が下がる重い思い。
  • (2)広島は意外と(失礼)奥が深い
     転居後初めて、私の住まいの近所と、職場近辺&市街地「以外」のところを散策した。実は家から歩いて数分のところに、いろいろなお店が、結構、あることが判明。我が家近辺は、「薬局がないのが難点」とずっと思いこんでいたが、実は5分圏内に1件、10分圏内ならば数件ある模様。そりゃそうだよなぁ…と思いつつ、いかに今まで駅と自宅しか往復していなかったか思い知った。
  • (3)タコ三昧
    夕食は、なぜかタコが安かったのでタコ三昧。昨年は、お刺身を食べる金銭的余裕もあまりなかったし、そもそも鮮度的に難ありだったので食す機会がなかったが、この近所の刺身はなかなかである。
     先日、某所で食べたイカもうまかったが、スーパーで売ってるようなタコも味わい深かった。刺身の残りの半分は酢に漬けて、残りは焼いてみた(注:一度、金沢や仙台でお刺身を食べ慣れてしまうと、埼玉のちょっとしたスーパーの刺身は正直、しんどい。かといって高級店に走る余裕もなかったしな)。
 発見というよりは、単なる行動記録に過ぎないがとりあえず本日のメモ。

▼移動中、1冊本を読み切ったのだが、最近、あまり良い本との出会いがない(日頃の行いが悪いせいかもしれない))。と言うわけで紹介するまでもないので略。

読書メモ(断片):機長の危機管理

▼今日、ふとした瞬間に「透明な危機」という言葉を思い返す。私の記憶が確かならば、私が予備校に通っていた時にお世話になった代々木ゼミナールの西谷昇二氏(師というよりは先生だわな)が、パンフレットか何かで使っていた言葉である。

 軽く検索をしてみたら出てきた。「透明な危機の頂に 僕らかわりばんこに石を積もう かなり高く積めるはずだ.」。正確な引用かどうか分からぬが(自宅に帰ればテキストが保管してあるはずなので確認できそうだが)、確かこんな感じだった。

▼危機感というのは持ちすぎても、持たなすぎても良いものとは言えない。危機感が見えすぎるのも良くないが、まったく見えないのも逆にこわいものである(例えば、一時、問題になった回転ドアが典型である。明らかに危なっかしい回転ドアは使う気にはならないが、その危険性がまったく見えなくなると事故に結びつく)。

 10年近く前に私が、「透明な危機」という言葉に対して、どんな解釈をしていたかはもはや忘却の彼方ではあるが、「危機」という言葉を強く意識せざるを得ない頃だったのだろう。阪神・淡路大震災も地下鉄サリン事件も、ちょうどその頃だったし。

 そもそも予備校生っていうのは、「危機的な状況」に陥っている存在だしな。

▼そういえば関係ないが、最近読んだ、『機長の危機管理―何が生死を分けるか』では「危機感(を身につけること)に関して以下のような指摘があった。
 技術者の教育や訓練において最も大切なことの一つは危機感を身につけることですが、それはパイロットにとっても大きな課題です。
(略)
 「無知や未熟さ」は、危機感を増幅させたり減衰させたりします。聞き慣れない伝染病が伝えられたりすると俄に恐怖を募らせたり(略)、動物園の猛獣を撫でようとしたりするのもこのたぐいです。

 「便利さ」も危機感を喪失させます。航空機もすっかり自動化されて便利になりました。ところが自動化されると「いつも」それが正常に作動するものと思ってしまうものです。

 「観念的なもの」もまた危機感を麻痺させます。何百万、何千万、果ては何千億という借金や損失を出して身を滅ぼす例はその典型です。それは書類やカードなどによる取引がお金を観念的なものに変質させるからではないでしょうか。

 「安全」も、とかく観念的な扱いを受けやすく、しばらく事故がないと「安全である」と錯覚して徐々に危機感は薄らぐようです。
(略)
 「システムが巨大化する」ことも危機感を薄くさせます。これはシステムが巨大になると、おのれの存在や役割が相対的に小さく感じられ、その流れに身を任せておいてもさしたる不都合は起こらないと、ついつい思ってしまうためです。(略)pp.164-166.
▼便利さや観念、あるいは安全(神話)などにとらわれることなく、また、無知さや未熟さから「危機感」を見失わないように、せにゃあならんな、と改めて確認。「透明な危機」の上に、自分たちの世界が成立している、と言うことを忘れないようにしたいところである。「不透明」な未来だからこそ、「透明な危機」(感)が重要なんだろうな。

 なんとなく、クリスタルというよりは、不透明な未来に、透明な危機感か。

ツバメの巣の続き

▼ツバメの巣の続き。マサ様、コメントありがとうございます。ツバメの巣について、いろいろ検索してみたら情報が見つかりました。おかげで教養が深まりました(たぶん)。実際、どんなものなんだろうと思ってgoogleのイメージ検索をしてみたら
 のような結果になるらしい。

 少なくても日本においては「ツバメの巣」(「燕の巣」だと検索の結果が微妙に違う)と言えば、私の昨日の日記のような巣の写真が登場する率が高いようです。「燕窩」で、食す前のツバメの巣を見た限り、確かに、なぜそもそもこれを人が食そうとしたのか、なかなか謎である。コワイモノ知らずか、食べるものがなかったのか…。

ネットで百科で調べてみると(平凡社百科事典)、
 食物成分としては,水分 13.4 %,タンパク質 49.9 %,脂肪 0,糖質 30.6 %,灰分 6.2 %という変わった組成で,動物性食品とも植物性食品ともいい難い。
 ということのようです。商業的にはコラーゲンたっぷり、というのが売りらしい。

▼ちなみにいろいろ調べてみたら、「ツバメ観察ネットワーク」という組織があるらしく(注:食べ物ではなく、あくまで本物です)、
  • http://www.tsubame-map.jp/index.php
 このサイトを経由して、全国のツバメの状況について共有できるらしい。

▼渡り鳥の生態について、少し本格的に調べてみようかな。なぜ同じ場所に戻ってこれるのか、方向オンチの私としては学びたいことが多々ある気がする。

ツバメの巣

▼某所に出張。S先生にご挨拶させていただいたり、MさんとTさんにお目にかかっていろいろお話する機会をいただいたり、なかなか有意義な出張だった。

▼私の日記的に有意義だったのは駅のホーム(正確にはホームは地下にある。コンコースと呼ぶべきか)で出会ったツバメの巣&ひな鳥である。お手洗いの近辺でちょっと奥まった所だが、よくも、あんな所に!としか思えない場所で子作り巣作りをしたようだ。

 それなりに人は通るし、室内と言えば室内のような場所なのになぁ…。ただただ感嘆するばかりである。Suviveすると言うのは、まさに、こういうことを指すのかもしれない。

 いったい巣作りの材料やひな鳥のえさをどうやって集めてきたのか(注:もっとも周辺は都心といえども自然がそれなりに豊かだ)。また、駅の利用者が鳥たちとどうやって接していたのかも、気になるところだ。

▼ちょうど出張中の読書用にと、中沢新一氏の新刊『アースダイバー』を手にとっていたからではないが、「東京」の奥深さを実感した一日だった(ちなみに、私が今、住んでいるマンションの近くには2つほど、ツバメの巣があった。既に過去形)。

▼感嘆しておきながら、話題は俗になるが、香港で食したツバメの巣はなかなか不思議なお味だった。まだ一度しかトライしたことがないのだが(アワビに匹敵するくらい意外と高価らしい)、考えてみるとツバメに酷なことしてるのかも。

 巣を食す、と言うのはいったいいかなる意味があるのか(もっとも、何らかの効果も期待できるのであるが)、人類学的に考えてみたくなった今日この頃である。

▼生命科学から宇宙論まで。ハナミズキからプラタナスまで。すべてがN (Neta)になる。私にとっての仕事はそういうウィットが効いたものでありたい。

So what? it's my life.

▼映画『コンタクト』の主人公のセリフに、こんなのがある。
So what? it's my life.
 名言である。私は、「開き直る」という行為は好きではない。しかし、So what?としか言いようがない場面があるのも事実である。誰がなんと言おうと、それは「間違っていない」と言い切れるだけの力を持ちたいし、持たせたいと思う。

 もちろん、So what?と言い切るには前提がある。頑固や意固地になるのは避けたいし、私がそんな人を目にしたら、Why so?と問いたくなる。Why so?なくしてのSo what?はあり得ない、ということも肝に銘じておきたい。
 なんてことを考えながら、クリシン本を読み直しみたり。

読書メモ(断片):「学び」の構造

▼6月10日に引き続き、名著再読。佐伯胖先生の『「学び」の構造』を読み直す。今回は、「学びのひろがりと高まりの初段階」という節について。物事を段階で示すというのは、マズローの欲求階層(段階)をはじめとして、物事を分かりやすく示す方法の一つだが、本書では「学び」が6段階で描かれているのが印象に残った。

 以下、それぞれ抜粋してみよう。
  • 佐伯胖(1975). 「学び」の構造. 東洋館出版社(pp.175-180)
    より一部抜粋。引用はあくまで全体の一部である。
第一段階
 最もひくいレベルの「学び」というのは、言われた通りのことを全くの受動的に「丸暗記」するレベルである。

第二段階
 次の段階では、「学び」は若干的に選択的に行われる。つまり、「学ぶ側」に一種の「目標」があり、その目標に直接関係のあるものだけが選択されて、そのために「学ぶ」。この場合、その目標から外れているもの、その目標との関係が不明瞭だったり、間接的だったりすることは一切受け付けない。(略)俗にいう、「試験のためだけの勉強」、「ほめてもらうだけの勉強」というのがこのレベルであろう。

第三段階
 この段階での特徴は、まず目標が必ずしも固定していないことである。むしろ、「目標自体をさがす」はたらき=「知的好奇心」の眼が生まれてくる。しかし、この場合でも、自分で新らしい(注:原文ママ)目標を次々とつくり出すはたらきはなく、その目標は外から採り入れられる形で入ってくる。

第四段階
 この段階に至ると、今度は「新らしい知識」(注:原文ママ)の確かめ方が、新しい側面をもってくる。つまり、その「確かめ」のプロセスが、単に、「自分なりに納得がいく」だけでなく、他人の目(別の視点)からみても当然だと思えることだけを選択的に吸収していく。

第五段階
 前の段階(第四段階)では、自分の心の中の他人の目(別の視点)でながめたとき矛盾があったとしても、それは単に「疑問」として外へなげ出されるか、あるいは「疑問」としてのこるだけであった。
(引用者改行)
ところが今度は、その疑問を自分で何か「新しい一貫性」を生み出すことによって、何らかの形で「解消」しようと努める。もちろん、この「新らしい」一貫性」(注:原文ママ)を生み出すプロセス自体は、やはり他人の目からの監視をうけ、他人にも納得してもらえる(と思われる)プロセスで、その矛盾の解消が試みられる。

第六段階
 この段階では、さきの他人の目が、今まで出会った人や自分と接する人々を超えて、あらゆる可能な他人の目を次々と自分で「想定」できるようになる。世の中の種々な現象や問題の中から、新らしい(注:原文ママ)視点を発見したり、また自分自身の内からも、新らしい(注:原文ママ)視点を生み出し、それらと現存する視点との矛盾をこえうる「新らしい一貫性」(注:原文ママ)をつくり出してくる。
 例えば経営学においては「顧客の立場(視点、見方)に立つ」ことの重要性は常々指摘されているし。認知科学や学習科学、あるいは教育学と呼ばれる分野では「学習者中心」」(一般的には、学び手の立場、視点、見方に立つというニュアンスが強い)など指摘されて久しい。しかし、著者の指摘に従うならば、そもそも他者の視点に立てるようになる、ということが最も「広がり」があり「高まり」のある「学び」なのである。

▼顧客の立場に立つ、ユーザ中心、学習者中心など、その重要性を指摘するのはたやすい。しかし、それを実際、形にしていくことほど困難なことはない。

 ということを改めて感じながら、今週も終えるのであった。
 (同じような生活を、延々と繰り返しているような気がしないでもない)

女房酔わせてどうするつもり?

▼石田ゆり子にこうささやかれて、思わずうなってしまった。うーむ。おそらく私は疑問形の広告に弱いのである。以前、常盤貴子が、宝くじのコマーシャルで「今日いくつ嘘ついた?」という言葉を発していた時にも、同じ感覚になった記憶がよみがえる。

 というわけで、おざわさんとしたことが珍しく、ウイスキーを購入。一人でウイスキーを飲んでどうするんだろう?と自問しつつ、深い眠りにつくのである。たぶん。

▼これまた珍しく、製品のホームページを見てみた。CMも見れる。
 石田ゆり子の演技を堪能して欲しい(違うか)。
  • http://www.nikka.com/product/recommend/newmalt/top.html
 関係ないが、ニッカウヰスキー、宮城県民(の一部)にとってはなじみのある会社である。何せ、蒸溜所があるからな(ちなみに北海道余市が発祥。現在は、経営不振もあってアサヒビール配下になってしまった)。

▼Webページを見たら、宮城にある蒸留所の住所は「宮城県仙台市青葉区ニッカ1番地」だそうだ。仙台市っていうのも、実は意外とおちゃめ(?)なのね。もし宮城県にトヨタがあったら、仙台市は豊田市になっていたかも…(なんてことはないか)。

他人事

▼JR西日本の事故も、最近、何かと見かける航空会社の事故・ミスも決して肯定する気はないが(肯定とか否定とか、そういう次元以前の問題である)、マスコミの報道を見ている限り、所詮は「他人事」でしかないんだろうな、と思う。

 JR事故に対して、全路線で速度制限を実施すべきという主張は分かる。しかし、それならついでに、電車なんぞより遙かに高い事故比率を誇る自動車について機械的な「速度制限を実施すべき」と言う声も(便乗して)あげても良いのではないか。

 私は、結構スピードを出す方だったりするのだが、規制するなら今がチャンスだ。

▼航空会社の事故・ミスを問題視し、大きく取り上げるのもニュースとして価値があるのは分かる。ちょっとしたミスが大惨事につながる、という指摘も正しい。しかし、希少性があるからニュースになっている、という点は差し引いて見る必要があるだろう。

 自動車事故は、もはやニュースにならない頻度で起きている故に、たとえば運転手が前後に、無理な仕事をさせられていなかったかとか、ペーパードライバーだったとか、あるいは運転手が「甘い」教習所の出身だったなんてことは取り上げられない。

▼JRの事故も、航空会社の事故やミスも他人事ではない。他人事のように捉え、「○×すべき」と主張だけしても、「全体」は決して良くはならないと思う今日この頃。

コンビニ

▼近くのローソンが遠くなってしまったので(注:近所のローソンが移転してしまった)、最近、コンビニを利用する際には、セブンイレブンを使うようになった。

 広島だからか、あるいは広島の中でもさらに街中から離れているせいか知らぬが、『AERA』が発売日に買えないのが難点ではあるが、毎週、火曜日か水曜日には『AERA』が購入できることが判明したので、ほぼ毎週一度は通っている。

▼一応、断っておくが最近、私は、あまり一人ではコンビニは使わない。コンビニっていうのはある種、「人をダメにする」部分があると思うからだ(昨年度は、利用頻度も高かったから結構、ダメ人間だったかもしれない)。

 例えば、計画通りに買い物をする(必要以上のものを買わない)、「あり合わせ」のもので済ませる、環境負荷がかからないものを購入する…など、コンビニへ行くとどうしても、生きていく上で必要な「臨機応変さ」や、「配慮」が失われる気がする。

▼ただし、コンビニは行く度に何かしら発見があるのは事実である。新商品を見るのも愉しいが、最近は「ここでは、○×が売っていないんだ」という「ないもの探し」も悪くない。例えば、ある商品が「ない」ということは、その地域で、それが需要がない可能性が高いのかもしれない。あるいは、もしかしたら私のように「ない」ことに気付く潜在的な購買者を逃しているのかも…とか、想像するだけも愉快である。

 「需要がない」ということが何を意味するか、あるいは、もしその商品が置いてあったらどういう陳列になるか…など考えると、それなりの思考の練習になる(はず)。

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読書メモ(断片):対称性人類学

▼今日、ちょっとした小話(×小咄)をしようとした瞬間、「非対称」という言葉が頭にぱっと浮かんだ。教員という職業は、学生と「非対称的な関係」にならざるを得ない部分があるが(内田樹氏風に言えば、「先生」とは、そういう存在であるとも言える)、そうであっても、可能性としては「対称的」な関係でありたいと願う部分もある。

 なんことを思いながら、「学ぶ」「教える」という行為と、「贈与」「交換」の関係について、考えてみたり、みなかったり。理想的には「贈与」でありたいが、「交換」でとどめておかなければならないのかな、という気もする。しかし正直、このあたり自分でもよく分かっていない「難題」である(この手の人類学的な学習論って意外と少ない?)。
 歴史的には交換よりずっと早く出現した贈与は、本質的な点で対称性の原理と深く結びついています。贈与は等価交換ではありませんし、贈与される物の「価値」はたんなる貨幣価値に換算できるようなものではない、と考えられています。それは贈与で発生する「価値」が、商品としての使用価値ばかりではなく、それを贈ることで得られる社会的信用とか、獲得される名誉とか、贈り物にこめられる愛情などのようなたくさんの「価値」を「圧縮」して、ひとつの贈り物につめこもうとしているからです。
(略)
 贈与はまた、贈る人と贈られる人とも、贈与物を媒介にして人格的に結びつける働きをします。よい贈り物ならば、それを受け取った私たちは、贈り主の愛情や思いやりなどその人の人格の一部が贈り物に不着して、私たちのもとに届けられるような気がします。(太字は引用者)
▼とりあえずは、重要そうな「問い」にアンダーラインだけ引いておきたい。要するに、教育において何が「交換」され、何が「贈与されているのか」という問題である。

広島生活・通販生活

▼出張から帰還。帰ってきたのはいいが、いかんせん暑い。
 これが中国南部中国地方かと実感中。

 広島に住み始めて約2ヶ月強。これと言って出歩いていないので(職場と自宅の往復))、あまり広島に住んでいる実感がないのだが、難点を挙げるとすれば…
  • 予想以上に暑い
     元宮城県民にとっては明らかに暑い。もっとも、私は暑いのには最近、結構、耐えられるようになってきたのだが…。私が借りているマンションにはエアコンが標準装備されているのだが、一台で全部屋を対応するのは無理そうだ。
  • 新幹線のぞみで「岡山終点」が意外と多くてめげる
     大阪方面に出張へ出て広島に戻る時には新幹線を使うのだが、なぜか「岡山終点」と出会う率が高いような気がする。偶然だとは思うが。元宮城県民にとっては(大阪から見て)、岡山の先に広島がある、と言うこと自体、いまいち実感がなかった…という話は口が裂けても言えない。
  • Webページの住所を入力する際、「広島」を入力しようとすると、選択肢の下の方までスクロールさせる必要があって、結構面倒。
     マニアックな話かもしれないが、Webページ上のアンケート等で都道府県を入力しようとすると圧倒的に「北海道」住民が有利である。東京くらいまでならまだ耐えられるが、広島くらいの南(西)になると正直、選ぶのが面倒くさい。
 その他、広島空港が意外と街中から遠いとか(注:それを知っていたので、私はどちらかというと空港にアクセスしやすい所に住んでいる。トレードオフでJR広島駅に出にくい気がしないでもない)、「じゃけん」(広島弁)に対抗して「じゃん」(横浜弁)を口にすると職場で笑われるなど、なくもないがいずれにせよ細かい問題だろう。

▼後2年くらい住むと、もうちょっとイロハが分かってくるのかな、という気もする。

 埼玉県(西武線沿線)の殺伐とした雰囲気よりは、性に合っているかな…。もっともそれも好き嫌いの話で、私は単に「都心に通う」という行為が好きじゃないのかも。街中に住むのは、それはそれでメリットもあるとは思うんだけどね。

▼通販生活。出張から帰ってきて、いくつか衝動買いをしてしまつた。

食べ過ぎ

▼食べ過ぎ。珍しく「食べ過ぎ」で胃腸の調子を崩す。調子に乗って食べ過ぎてしまったのが良くなかったかもしれない。それ以外は久々の休養でまったりする。

読書メモ(断片):「学び」の構造

▼名著再読。佐伯胖先生の『「学び」の構造』を読み直す。初版は昭和50年。1975年である。私が生まれる「前」の著作ではあるが、未だに「新しい」得る所が多い本だ。

 私が本書と出会ったのは、私が学部時代に受講していた某授業で引用されていたことがきっかけである。授業で取り上げられたのは「学べない人間」の3類型だった。10年近く前のノートにも記していたことだがが、改めてここで記しておく。
学べない人間 A. 無気力型
B. ガリ勉型
C. ハウ・ツウ型
 著者によれば、学べない人間は上記の3つに分類できると言う。
 それぞれさらに簡単に引用してみよう。
無気力型人間
(略)俗に言う「やる気のない」人間、「根性のない」人間で、勉強しろといわれれば、単に「やった」というしるしだけを、最低の要求水準スレスレで満足させるだけで、他に何事にも興味をもたず、熱中することもなく、毎日毎日をただ何となく生きている人間のことである。(p.20)

ガリ勉型人間
 ガリ勉型人間というのは、実をいうと、さきの無気力型と本質的には(その人の知識というものに対するイメージに関しては)全く同じなのである。唯一のちがいは、勉強という「無意味作業」に課す要求水準の高さにあるのみで、勉強があくまで「やる」べき作業であり、やっているという動作が勉強のすべてであると考えている点で何のちがいもない。(p.20)

ハウ・ツウ型人間
(略)前の二者と似たところがあるが、若干異なるのは彼の知識像である。彼は知識が「役に立つもの」ということ、少なくとも自分にとって大いに利用価値の高いモノ、という考えはもっている。ただ、あらゆる知識の問題を、彼はすべて「やり方」の問題、うまくやる方法や手段の問題として考えるのである(略)。
彼に根本的に欠けているのは、「何故?」とか「何?」という真理への問いかけである。世の中のできごとが「何故」おこり、一体世界はであるかなど全く関心がなく、要はうまくやること、とりわけ自分だけがうまくいき、「成功」することが大切だとする。(pp.22-23)
 これ以外にも、「学べない人間」はいくつもパターンがありそうだが、上記の「無気力」「ガリ勉」「ハウ・ツウ型」は、最も基本的な類型と言えるかもしれない。

 最近は、「ガリ勉」という言葉自体「死語」になりつつあるが、「ガリ勉型人間」は私流に言い換えれば「お勉強」型と呼ぶことができるかもしれない。「お受験」が典型であるように(注:もちろん例外はあるだろうが)、学び手である当事者そのものよりも、第三者である親の意向が強く働いている場合、それは「受験」ではなく「お受験」である。

 高校受験であれ、大学受験であれ、資格認定試験であれ、本来的には「受験」は、社会的な評価を意識しつつ(注:出来るだけ社会的に評価されるように人は行動することが多い)、自分自身が自発的に「受験」することで成立する。「勉強」も本来的には、そのような意味を持っているはずであり、「お勉強」とは異なるはずだ。

▼「学べない人間」の中でも、「無気力」は最も対峙が困難な部類である。しかし、「ガリ勉型人間」=「お勉強型人間」や、「ハウ・ツウ型人間」が、真に「学べる」人間へと転換するのも、容易なことではない。

 まずは自分自身の「勉強」のスタイルを見直すこと。つまり、「お勉強」になっていないか、「ハウ・ツウ型」に陥って「何故?」「何?」を問うのを忘れていないか。これらを一つひとつ自分自身で見直し、「学ぶとはいかなることなか」を問い続けるようにしたいものである。「学ぶ」とはいかなることが分からないからこそ、人は「学ぼう」とするものだと私は素朴に信じている(もちろん、人によって抽象度に違いはあるとは思うが)。

名古屋出張

▼仕事を早めに切り上げて名古屋方面へ出張。

 ついでに、中部国際空港の初デビューとなった。と言っても有名レストランへ行く訳でも、温泉に入る訳でもなく、ただ通りすぎだだけだが…。夜遅かったので全体はつかめていないが意外と「使える」空港かもしれない。

 唯一の難点は空港へ向かう名鉄で、ホームが一つしかないことか。その他、通勤列車と同じ乗り場で、しかも多くの人が行き来するので油断したら乗り遅れそうだ。

▼移動中、KBS(慶應義塾大学ビジネススクール)のテキスト『ビジネススクール・テキスト組織マネジメント戦略』を読む。「ケースメソッド」については、いろいろ本を読んできたつもりだが、自分で「活用」出来るようになりたいものである。

 ケースメソッドを自分のものにするためには、まずは「ケースを書け」と言うご指摘を受けそうだが(大学院の授業等で2度ほど書いたことはあるが)、確かに自分で書いてみると大変である。「読ませる」事例を書くのは意外と難しいらしい。

▼ちなみに目次は以下の通り。偶然に過ぎないが「JR西日本」のケースが取り上げられているのに、つい目が向いてしまった。
http://www.yuhikaku.co.jp/bookhtml/012/012501.html より抜粋
第1部 組織の基本的考え方とその今日的条件
 1 組織の考え方
 2 組織の置かれている今日的条件
第2部 組織の形成と働き
 3 経営環境のなかでの組織,その作られ方
 4 働く場としての組織
 5 組織の実践形
第3部 組織で働く個人
 6 組織における個人
 7 働くことへの動機づけ
 8 人と人をつなぐコミュニケーション
第4部 組織を動かす
 9 リーダーシップの発揮
 10 組織文化
 11 組織を変革する
第5部 ケーススタディ
 12 組織マネジメント戦略の実践
    「ケースメソッド授業について」
    「再建プロデューサー村井勉:東洋工業,アサヒビール,JR西日本」
    「住友電気工業株式会社」
 事例から学びつつ、優れた事例を自ら「作りだす」。そういう好循環を目指したい。

面倒見のいい大学

▼『AERA』で先々週から「面倒見のいい大学」という記事の連載がスタートしている。初回は東大で、二回目は早稲田。三回目に慶應義塾か…と思ったら、なぜか大学全体ではなく「SFC」に限定されていた。うーん。なかなか謎である。

 しかも、写真を見たら「あ、かねたかじゃん」(注:内輪ネタ)と思わず車内で声を挙げてしまった(注:私は移動中、AERAを読んでいます)。私が、この日記上で、本の引用以外で実名を出すのは珍しいが、有名税みたいなもんなので気にしないで欲しい。

 記事の内容は…、かなりステレオタイプ化されている嫌いはあるが、ベンチャーにせよ何にせよ、全体として「自主性」を重んじているという指摘は、以前から変わらないところかもしれない。「自律」「協調」「分散」(+互恵)の考え方は、自分自身、嫌でも体に染みついているからな(最近、このフレーズはあまり流通していないらしいが)。

▼私が、「受け身」の姿勢を嫌うのも、これと関係がなくもないのかもしれない。なーんて、昔と今を、無理矢理、重ねて見たりして。

 その他思うところはあるが、略。興味がある方は是非、書店で買ってください。
 自律性を育てる、という方針も「面倒見」のうちに入るといいな、と思う。

▼関係ないが個人的に最近のAERAでヒットなのは、「マガジン百名山」。以前、斎藤美奈子氏が似た連載をしていたが、巷の雑誌をばっさり斬りつつ紹介するコーナーである(中沢明子氏もなかなか「読ませる」ライターである)

 以下、知らない人は、さっぱり面白くないネタなので要注意。大学の話題から、いきなり話題が変わっているが細かいことに気にしないのが「大人」というものである。

続きを読む "面倒見のいい大学" »

さかなはさかな 寿司屋は寿司屋か

▼オフィスアワーに珍しく学生が来る。「キャリアっていうのは連続的なものではないんだよね」という話でオチが付いたのだが、その際に、私が出した「寿司屋」の元ネタが何だったか思い出せなかった(おおよその私の小話は、人から聞いた話である)。

 あれかな…と思って調べてみたら、ありました。守島先生の話だったらしい。
 金井先生の本からの孫引きではあるが、引用しておきたい。
 このこと(引用者注:後の文章を読めば分かる)をわたしは「非連続」という言葉で表しましたが、人材マネジメント論を専門にする守島基博教授は、「人的資源の転換」と呼んでいます。

 わかりやすいので、守島さんが例に使われる寿司屋の職人を例にあげましょう。寿司をうまく握れるということと、寿司屋の店を仕切れるという間には、そのひとのスキルの基盤に転換が求められます。職人として寿司を日々握りつづけ、いろんなネタいろんな握り方をマスターしていくことは、連続的な成長です。これに対して、寿司屋をまるごと任されるということは、別世界です。(引用者改行)

そこでは、魚の仕入れをどこからどれぐらいするのか、またシーズン、その日の気候によっていったいなにを仕入れるかを決めて、一見のお客さんと常連さんにそれぞれどのように接するか、顧客を増やし、満足してもらいつつ客単価をあげるには、どのようにこちらからネタを推薦すべきかなど、課題がいっきに増えます。ひたすら寿司を職人的に握るだけではそれらについて学べていないものです。(引用者改行)

これらの課題に応じたスキルは、店を任されないと身につきません。その意味で、この例は、前の段階でとてもうまくできることがそのままつぎの段階の準備になっていないというケースです。店をもつというのは、非連続的なサイクルで、本人に転換を要請することになります。(p.85)
▼「広く浅く学ぶことにも意味がある」(時がある)という説明は抽象的だし、自分が中学生や高校生だった時、学びたくもない科目を勉強させられる時の「説法」の一つだから私は、あまりこの説明の仕方は好きではない。

 しかしながら、寿司屋のたとえ話は、多少は説得力を持つかな…と思う。やはりキャリア論から学ぶべきことは多いかも(私自身、「節目」をくぐっているからかもしれないが)。

▼まったくの余談になるが、『さかなはさかな』か、と「寿司屋は寿司屋」か、つなげて考えると面白そうだ。

 「カモメはカモメ」の歌もそうだが、そもそも「イコール」とは何か、を考えてみたり、考えてみなかったり。

読書メモ(断片):鈴木敏文の「本当のようなウソを見抜く」

▼ちょうどお仕事的には、私は中間の折り返し地点にいるらしい。一応、私なりに、これでもサービス業に従事している、という自負だけは持っているつもりなので、とりあえず現時点での「顧客満足度」を測るべく、評価アンケートを実施中である。

 もっとも、半ば義務的に回答してもらっている(回答させている)という点においては、暴力的な部分はあるのだが、率直な意見をいただくと参考になることが多々ある。回答してもらって終わり、というのは避けたいので(注:私が回答者だったら、回答して終わりになるようなアンケートには協力しないからな)、改善すべく思案中である。

▼改善の結果を目に見えて示すのは難しいが(例:私はあまり口上手ではないので、流暢に話せ、と言われても簡単にはできないし)、ちょっとでもベターを目指したいところである。そういえば、最近、目を通した本にセブン-イレブンの「改善」のちょっとした事例が紹介されていたので、自警の意味も含めてメモをしておく。
 セブン-イレブンでは、「品揃え(常に顧客の欲しい商品を揃える)」「鮮度管理(常に新鮮な商品を揃える)」「フレンドリーサービス(感じのよい接客)」「クリンリネス(清潔で気持ちのよい店内)」の四つを店舗の「基本四原則」と定め、徹底した実行を求める。江東海辺店では、特に挨拶を推敲するなどの接客面での「フレンドリーサービス」に力を入れていた。

 ところが、ある日、”事件”が起きた。一人の顧客から接客についてクレームの投書が届いたのだ。誰もが、「エッ、なんで」と驚いた。
(略)
 自分たちで思い当たる点について改善していく。これだけなら普通の対応だが(引用者注:場合によっては、顧客を単なる「クレーマー」として切り捨てる所であろうが)、注目すべきは、この事件をきっかけにして店のさらなる飛躍を目指したことだった。(略)「お客さんにこの店が変わったことを目に見える形で示すため、試食サービスを始めてはどうでしょうか」

 一つのマイナスを挽回するには、その問題を改善するだけでなく、マイナス分を補ってあまりあるプラスのサービスを打ち出す。失敗を責めるのではなく、次の成功に向けたチャンスとする。この提案に、オーナーも、オーナーの妻の店長も、パートの従業員たちも即座に賛同した。
pp.135-136
 凡庸な人間にとって、「他者が悪い」という外的帰属を、「自分の責任である」と言う内的帰属に切り替えるのは至難の業ではあるが(「自分は悪くない」と思う方が、どうしたって楽だしね。あるいは、落ち込んだりへこむだけで終わるのも簡単)、ここはやはり気持ちの切り替えも必要なところであろう。

 私はミクロで見るとコンビニはあまり好きではないのだが(便利さに溺れたくないのである)、マクロではセブン-イレブンのような企業姿勢に見習うところは大きい。本音を言えば、改善したらそのことを「褒めて」もらいたいものだけど、私の場合は、目に見えて悪く言われないと言うこともまた、改善の成果だと思うべきだろうな。

▼私は、あまりビジネス書は読まないことにしているのだが、トヨタ、ニッサン、ホンダ、セブン-イレブン、松下電器産業、クロネコヤマトは日々のネタとして(良くも悪くも誰もが知っている企業だからな)、出来るだけ目を通したいと思っている。

 コンビニ本は少なくないが、勝見氏の本からは学ぶことも多いかも。
 この人の「本の書き方」も、参考になるところである。

移動中の読書

▼移動中、何冊か新書に目を通す。私は「成功術」の類は、手に取らないことにしているのだが、「時間の戦略」というタイトルに惹かれて、
 を購入。結局、自己啓発じゃん、と思わせる部分もなくはないのだが、専門が「火山地質学、地球変動学」というだけあってか、切り口が面白い。

▼でもってついでに、
  • 岡本 夏木(2005). 幼児期. 岩波新書
 も読む。岡本夏木氏の本は、他にも読んだことがあったが、新書としてはまとまっているし、「持論」に偏っていないので、良い意味で「入門書」になっている気がする(この分野は、なぜか強い持論を持つ人が多いようだが、本書は偏りがないかも)。

▼もう一冊、買った本があるのだが、紹介するまでもなので略。

▼帰り道、江國香織の『すきまのおともだちたち』を買う。

 最近、平日に専門書を読んで、週末は趣味の本を読んでいる気がする。至極まっとうと言えば全うだが、考えさせる本は、時間をかけて読んだ方が良いのかも。

▼夕方には、戻る。充実感が疲れか、だらだらしてしまった。

急遽出張

▼急遽、出張に出る。中途半端な時間の飛行機を予約してしまったため、あぶなく乗り遅れそうになってしまった。朝一とか定番を決めておいた方が良さそうだ。

 移動時間が長くなりそうだったので、適当に週刊誌、月刊誌を何冊か購入。最近、初心者向けのパソコン雑誌に出来る限り目を通すようにしているのだが、ビギナー向きの本でも、意外と新しい発見があったりして役立つことも少なくない。

 これらの本の妙な共通点に、マニュアルが添付されていない製品(CD-ROMやインターネット上で読むことになっている製品)に対しては、必ず言及があり、ネガティブな評価になっている点があるようだ。様々な見方が可能だとは思うが、「雑誌」らしいなと思ってみたりして。確かに、皆がネットで情報入手するようになったら売れないしな。

▼午後は会議。とりあえず新しいプロジェクトが始まることに。その後、お手伝いをしてくださる学生さんと飲み会。大変良いお店をご紹介していただく。

 久々に「骨」のある学生と話をした気がする。大変、すばらしい方をご紹介いただき感謝。参加する全ての人にとって意味ある企画にしたい所だ。

 夜は、某所の飲み会の二次会に参入。合コンの約束新プロジェクト企画に参加してもらう人を集める。夜は、某所のAPAグループ系ホテルに宿泊。一応、これでも石川県に5年間住んでいたせいか、私は、石川県の地元企業びいきだったりする。

 ついでに松井も応援していたりして(イチローも好きだけどね)。

▼某プロジェクトにご参加してくださる皆さま、どうぞよろしくお願いします。

Life is together

▼某所にお住まいのOM氏から、こんな映像をいただいた。

Lifeistogether_2

縮小してしるので分かりにくいかもしれないが、某社の携帯音楽プレイヤーのコマーシャルっぽい作りになっている。
なかなかの出来である。

▼こうやって写真がネタにされているのか…と思うと、その他の流出写真の行く末が気になるところだ。まあ、たいていはデジタルデータのone of them として眠っているだけだろうが。

▼これを動画で動かしたら、それはそれで楽しそうではあるな。一瞬、自分でも作ってみようとしたが(注:暇人ではない)、実はかなり労力がいりそうなので却下。踊る力量もないしな。

▼個人的には、Appleの伝説の「1984」のリメーク版で出てくるiPodも好きだ(googleで検索するとmovファイルを探せるはず。ジョージ・オーウェル『1984年』を参照)。

気がつけば6月

▼気がつけば6月。そろそろ広島生活にも慣れてきた頃ではあるが、5月末になって近くのパン屋さんが閉店。6月1日になって、近くのコンビニが移転になり…と、最近、近隣に変化があった。もっとも、両者ともにあまり利用していなかったのだが…。いざという時に利用できる選択肢が減る、というのは残念なことである。

▼先月はずいぶん本も読んだのだが、読みっぱなしになっている気がする。今、仕上げている大きな仕事(?)が終わったら読書メモをまとめたいところである。

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