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読書メモ(断片):チェーホフの問い

▼とあるご縁で保坂氏の『アウトブリード』拝読させていただく。保坂和志氏のエッセイ集である。小説そのものではなく、小説家が書いた評論やエッセイを好んで(しかも「先に)」読んでしまうのは、私の悪い癖なのだが、本書を通して保坂氏が思い描いていることの大きさを、改めて知った。
 と大きな感想を書いてはみたが、核心に触れるのは時期尚早なので(注:まだよく分かっていない、というのが本音ではあるが)、彼がチェーホフについて書いていたことをメモっておきたい。って、チェーホフって誰?って言われると困るのだが。

 チェーホフの「問い」の深淵さに恐れ入るばかりである。
 最近チェーホフのことをよく考える。チェーホフはこの世界と人間についての深淵な問い(=想像力)を書き残した。(略)

 時間や空間が遠く隔たった者同士の気持ちや思考が、伝わったり響き合ったりすることがありうるだろうか? というのが、チェーホフの残した問いであり同時に想像力で、晩年のチェーホフはこのことを作品の中で繰り返し書いている。

 チェーホフ自身、それに対して明確な答えを与えているわけではない。文学的に安易な解答を与えるのは簡単だし、「そんなこと、ありえるわけがないじゃないか」と、科学的に一蹴するのも簡単だ。
 
 しかし、チェーホフの立場はそのどちらでもない第三の立場で、<科学と文学>ないし<物質と精神>、という一般に別物だと考えられがちな二つのものに、あらためて関係を見つけ出そうというものだ。この問いをチェーホフは叙情性に包んで書いたが、読み直すほどにチェーホフの叙情の芯には硬い石のようなものが感じられる。

 ちょうど百年前にチェーホフはこういう問いを提示した。しかし、その後百年間、小説はこの問いを受け継ごうとしなかった、と僕は思う。
(pp.249-250)(下線部は、著者の強調箇所を下線化したもの)
 受け継ごうとしなかった、という指摘の後に、自身の作品の話題が続く。「自画自賛」のような気もするが、そう思わせないのが保坂氏の偉大さである(彼にとっては「『小説について考える』ことと『小説を書く』ことはほぼ完全に同等のこと」(p.238)らしい)

▼以前、読んだ時には思いもしなかったのだが、保坂氏の『残響』では(私が読んだことのある数少ない保坂作品の一つ)、チェーホフの問いが「変形」されて扱われているとのことだ。具体的には、以下のような問いである。
私が遠く離れた誰かのことを考えているとき、相手のその人は『私がいま考えている』ということを、まったくわからないのだろうか、それともわかる可能性があるのだろうか」(p.250)
 科学的に考えれば、確かに「ありえるわけがない」。しかし、私自身、このような「問い」に重要性を感じる、ということは(保坂氏の『残響』に何かしら動かされる部分があるということは)、この「問い」には何か本質が含まれているはずである。

▼それが何なのか、よく分からないが、自分自身もよく分かっていない「問い」について、自分以上に考えている人がいるからこそ、安心して悩めるというものである。ココロが動かされる瞬間は、「問い」にあふれているのだろう、と思う今日この頃。

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