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2005年5月

すべての定義は否定である

▼私にとっての究極的な「問い」の一つとして「現実とは何か」があげられるが、もう一つ、頭から離れない問いに「人間とは何か」がある。

 なにやら難しそうなことを考えているように見えるが(見せているが)、サルと人間は果たして何が同じで、何が異なるのか。「人間」を「人間」たらしめているものは一体何なのか?は、誰しも一度や二度は考えたことがある問いではないかと思う。

 そのように決めつけている時点で、お前は「人間」がなんたるものか分かっていない、というツッコミをいただきそうだが、そのツッコミも含めて謎が多い領域である。

▼「人間とは何か」を追求していく上で有効なのは、「人間とは何か」を直接問うのではなく、「人間とは何でないのか」を考えるという手法である。否定形から考えることで、「人間とは何か」を、逆に明らかにできるからである(「逆照射」とも言われる)。

 否定というのはネガティブな意味ではなく、「人間とは何でないのか」という問いのように、一端、否定形で考えることで、物事を追求していくという姿勢のことを指す。

▼黒崎政男氏は、『となりのアンドロイド』の中で次のように述べている。
(アンドロイドというのは、SFに出てくる人間型ロボットのことである)
 (略)人間がアンドロイドを想定することは、すなわち、<人間とは何か>という哲学的な問いの、一つの正当な視点なのです。

 というのも、私たちが<人間とは何か>という問いを発するとき、すぐには<~である>というふうに答えられないからです。では、どうしているかと言うと、同質でありながら差異を生じさせるものを想定しながら、たとえば、AはBではないというふうに、AとBの間に境界線を引くことでAを確定しています。スピノザが「すべての定義は否定である」と語ったように、<人間とは何か>という問いに答えるためには、人間とは何でないかという視点からその問いを追求していくほかにはありません
(略)
 ほぼ一世紀前、ダーウィンの登場で、それまで「人間は動物ではない」と規定してきた人間観が崩れたことがありました。もしかしたら、人間もまた動物の一種であるかもしれないというカルチャーショック、思考の組み替えが行われたことがあります。「人間は犬や猫じゃないんだから」という考え方と、「いや、人間だって動物だ」という考え方、つまり動物との連続と不連続において<人間とは何か>を学ぶ機会がありました

(引用者改行)
さらに以前、中世では、人間は自らを神との同一性と差異性において捉えようとしてきました。無限の神の前では有限な存在である人間。一方、動物との差異を見て、人間は理性を持つ存在であるとわかっても、神を想定しなければ、人間が有限であるという視点は持ち得ません。動物との対比がなければ、人間は理性的であるという特質は浮かんでこないのです。
(下線は引用者による)(pp.55-56)
▼よく言われることではあるが、光が強ければ強いほど、それだけ闇も深いものになる、という当たり前のことを、どう理解するか(伝えるか)。相変わらず難問である。

 なーんてことを考えながら、今日も一日が過ぎてゆく。

リラックマ

▼つい先日知ったのだが、最近、「リラックマ」というキャラが流行っているらしい。見たことがない人は、googleのイメージ検索が参考になるかもしれない。

 どうやら本も出ているらしい。
▼以前も本サイトで紹介したことがあるが、  何故に、日本では(アジア的、とも言えるのかもしれないが)キャラクターが流行るのかは、結構、謎である。ウィニコットの「移行対象」ではないが、気になる所である。

万博の帰り道

▼疲れがたまっていたせいか、朝起きられず。名古屋出張の帰り道、久々に駅弁を買って食す。ビールなんかも飲むと、駅弁は半分くらいがちょうど良い量である。

 万博を楽しんだ後、帰ったら読み直そうと思う本リスト  吉見俊哉氏の本は、他にも読み直す価値があるかもしれない。

愛・地球博

▼名古屋近辺に出張。ついでに、「愛・地球博」の見学へ行く。朝早く出かけたはずなのだが、何をやってもどこへ行っても人・ひと・ヒトの山。おはようからおやすみまで入場から出場まで、何をするにも列に並ぶハメになってしまったらしい。

 後で知ったことだが幸か不幸か、どうやら今日は過去最高の人手とのこと。15万人以上っていうのは、予想的にも最大水準な模様である。しかし、何故この時期に!?

▼今回、見学することになったパビリオン(素通りを除く)
  • 三菱未来館「もしも月がなかったら」(実質60分待ち)
  • 長久手日本館(実質90分待ち)
  • 国際赤十字・赤新月館(実質50分待ち)
  • 三井・東芝館(朝一に当日予約確保で実質90分待ち)
 日立館やトヨタ館は第一候補にあがっていたのだが、私(たち)が入場した時点で、当日予約分は既に一杯。5時間待ちとか、4時間半待ちだったので即座に却下した。

 以下、簡単にメモをしておこう。

三菱未来館では、「もしも」をテーマにディスカッション。「もしも月がなかったら、月見そばが食べられなくなる」「月見バーガーも食べれない!」など余談で盛り上がる。

 ついでに「もしも」関連の歌を熱唱。
  • (1)アルプスの少女ハイジ
    ♪もしも小さな小屋の戸が開いたら まっててごらん ほらあの子がかけてくる。
  • (2)もしもピアノが弾けたなら
    ♪もしもピアノが 弾けたなら 思いのすべてを 歌にして 君に伝える。
  • (3)もしも明日が晴れならば
    ♪もしも明日が 晴れならば 愛する人よ あの場所で
  • (4)あなた(by小林明子)
    もしも私が 家を建てたなら 小さな家を 建てたでしょう
 微妙に歌詞が思い出せなかったのが大半。忘却力が付いたらしい。

 「恋愛歌における疑問文」は私の持ちネタだが、「恋愛歌における仮定文」も今後はネタにしていきたいところである。しばし採集に励みたい。

 パビリオン自体は凡庸というか、テーマは良かったが、演出に限界があったかも。私的には、もしも月がなかったら「月見バーガーが食べられなくなる」というローカルな議論の方が面白かった。リサーチクエッション自体は良かったのになぁ。

長久手日本館では、建築的特徴について討論会。謎の光源(日を改めて書くことにしよう)についてスタッフのお兄さんに質問をしたら、親切に答えてくれた。発光ダイオード(たぶん)に、あんな使い方があるとは意外である。

 目玉の全天周映像はすばらしかったが、いかんせん時間が…短い。

国際赤十字・赤新月館では、赤十字の歴史について議論。その場、核心的なことが結局、分からなかったので、ググってみた。

 ○創始者はアンリー・デュナン(これはパビリオンでも分かった情報)
 ○きっかけとなった戦争→イタリア統一戦争
 ○ジュネーブ条約は、スイスなど16か国の参加の下に行われた。

 などなど。このパビリオンはメディアリテラシー的にも大変に勉強になった。内容が内容だったためか、ディスカッションもかなりまじめな内容。

 マイナーなパビリオンかもしれないが、ゆったり出来るしオススメである。

三井・東芝館では、顔認知についてディスカッションする予定だったが、開始前後は既に疲労していたため、パビリオン見物に集中していた気がする。

 今回見た中では(って、二度行く気はあまりしないが)、三井・東芝館がもっとも「万博」らしい接客と内容だったような気がする。ストーリーが複雑だったが、仕組み的には最も面白かった。個人的にはコンピュータの並列処理方法について知りたい。

 以上である。他にも書くべきこと、記すべきことはあるが、取り急ぎはこの辺で

▼おみやげを買うにも15~20分待たされた(私は買ってないけど)のには閉口。いろいろ課題もあるが、全体としてはなかなか楽しい催しだった。

 お世話になった各位にはお礼を申し上げたい(今ページを見てないと思うけど)。

 万博はどうせ行くなら、平日に。できればインターネット予約をしておきたい。

評価のおばけ

 私のココロには「もったいないおばけ」が宿っているのだが(注:「捨てられない症候群」とは異なる。最近、結構な勢いでモノを捨てている)、最近、「評価のおばけ」が登場しつつあるらしい。ついに今日は、夢にまで見てしまった。

 人から評価されるのは慣れているつもりだが、どうも人を評価するのには慣れていないらしい。私の大学時代の伝説のO教員のように、プレゼンテーション開始11秒ぐらいで「面白くないから、次」とか、高校時代のH教員のように、問題を解けないでいる生徒を前に「わかれ」と罵倒できるようになれば「おとな」の仲間入りが出来るのになぁ。

▼私はその手の声を発するのは好きではないが、こういう「指導」も世の中にはあって、崖から突き落とされることで鍛えられるタイプの人もいる、という事実を知っておくことは重要かもしれない。「落として褒める」の変形とも言えなくもないし。

 もちろんインストラクションする側としては、一端「落とす」ことで「鍛えられそう」な状況か、それを引き受けられる人か否かを判断する力が求められるのだろうが…。

▼今日の夢で、「崖」が出てきたのは実に意味深である。

 受容というのは、現実を肯定的に解釈する(ねじ曲げる)ことではなく、否定性も含まれる現実を「ありのまま」に受け止めることなのかも。と思ってみたり。

最近の1日の過ごし方

▼最近、24時~25時には睡眠モードに入り、朝6~7時には起床するというワンパターン定期的な生活を送っている。体調は、おおよそ良好である。

 朝食は何かしら必ず作って食べてから(一週間に一度くらいは、面倒くさくなって、近くのコンビニでおにぎりを買っている気もするが)、出かけるようにしている。

▼昼食は、ほぼ95%は職場内の食堂である。昨年度の職場では、昼食時の食堂利用回数が2回(ラーメンとビッフェ各1回)だったことを考えると、驚異的な利用率だ。

 理由はいくつか挙げられるが、
  • (1)食堂やフードコートに漂うことが多い、妙なにおいを感じないこと
    →私は、あの何とも言えないにおいが苦手なのである。友人に言わせると、「ツワリじゃない?」という説もある。でも時々、ホントに気持ち悪くなるかも。
  • (2)油で揚げた料理が少ないこと
    →揚げ物は、本当に調子が良い時でないと、やはり食後に気持ち悪くなる可能性がある。意外と、おざわさんはデリケートにできているらしい。
  • (3)リーズナブルで、そこそこにおいしいこと
    →以前の職場も安かった気もするが、今の職場はそこそこ「おいしい」気がする。手作りっぽい感じだし、量も適度である(一般的には少ないかもしれない)。
 他にもありそうな気がするが、3つでまとまりが良いので、この辺にしよう。私はとても単純な人間なので、うまいもんが食べられれば、それだけで大満足である。

 あ、理由をもう一つ思い出した。うどん・そばのつゆが関西風なのも大きい。

▼夕食は、最近は4割は、近所のスーパーのお弁当に頼るようになってしまった。これも理由は簡単で、安くて(夕方以降は3割引だしな)、そこそこうまいからである。

 6割(週に3~4回)は、何かしら作って食べている。以前は、それ自体が日記のネタになっていたが、あまりに日常と化しているため、ネタにもなっていないらしい。

読書メモ(断片):考えることで楽になろう

▼人から「評価」されるというのは、なかなかしんどいことである。

 おおよそ、多くの人は、中学校や高校、あるいは大学で教師から「評価」されてきているはずで、良くも悪くも評価慣れしているはずなのだが(「うんざりしてる」かもしれない)、それと、社会において「評価」されることは、やはり意味合いが違うらしい。

 さらに言えば、この違いを社会に一歩出る手前の学生に伝えるのはもっと難しい。

▼たまたま手に入れた藤野美奈子・西研氏らの『考えることで楽になろう』にこんな一文があったのでメモしておく。
 職場は、”きちんとした仕事をしたかどうか”で勝負する空間。上司に言い分があれば言えばいいのだし、くやしいけど上司のいうことが正しいと思えば、こんどはいい仕事をして見返してやるぞ、というのが筋。(略)

 私たちの生きている世界では、就職するまで、みんなが互いを傷つけないようにとても気を遣っています。「自分が傷つきたくないから、他人を傷つけないようにする。自分が嫌われたくないから、他人に冷たくしたりしないようにする」、そういう感覚で生きてきた人が多い。でも、仕事の場は、友だちどうしの関係とはちがって、”よい仕事をすれば評価され、ダメだとケナされるゲーム”です。そうした仕事の場と、それまでの生活の落差が大きすぎるから、「号泣」する子たちが出てくるのでしょう。(pp.122-123)
 引用部は、西研氏の発言部分。実に、丁寧な説明である。

▼何らかの仕事をして、アウトプットを出して、それが人から認められる(評価される)。それは、しんどいことでもあるが、私的にはそれこそ「生きている」という感覚の泉源ではないかと思ったりもする。
 逆に言えば、そう思わないと、やっていけないのかも。

千客万来 その3

▼昨晩、北陸は某所より、Y氏が来訪。普通に飲みに&お食事に出かける。同性と二人っきりサシで、話し込むのは久々である(あやしい意味ではない。念のため)。

 世の中を巡る動きだとか、研究話だとか、その他諸々。一つの物事を、様々な方向から議論する、というのは実に愉快なことである。

▼しかし、どうも私は部分的に記憶が欠如しているらしく、しかも、欠如しているということに気付いていない(欠如している)ということが、我ながら驚きである。

 昨年度は、誰一人として友人は、所沢近辺を訪れてくれることがなかった。やはり、「適度に遠い」というのは、来客数が増える要因らしい。

▼実は楽天VS広島戦が、広島市民球場で行われていた…という事実に昨晩気付く。いかに私がテレビを見ていないか、という事実を改めて確認すると同時に、一週間単位で予定を間違える癖も直っていない、ということも発覚。気をつけねば。

追伸 もちづきさま(5月24日追記)
 所沢焼き肉会は、「研究打ち合わせ」だったような記憶が…。しかも、友人じゃなくて、愛人。なお、氏は私の以前のアパートに来訪してくださった唯一の友人である。

Washable USB memory

▼私は洗濯好きである。

 しかも、たたんだり、干したりする行為が好きではないので、少量でも、すぐ洗濯する派だ。そうすれば、たたんだり干す量は少しで済むしな。

 少量の洗濯で有利な点として、異物が混入していないかのチェックが入念にできる点も挙げられよう。私の洗濯機は何故か異物が混入しやすいは、異物を入れたまま洗濯してしまうことが多いらしく、これまでもティッシュペーパー模様のシャツやズボンを量産してきた。ダルメシアンを反転させたような模様は一見、芸術的だがゴミである。

 何度か、この日記でも取り上げたことがあるが、おざわ史に残る最悪ケースは「乾燥ワカメ」である。何故、乾燥ワカメが洗濯機に混入してしまったかは依然、謎だが、いい具合に増殖したワカメ混じりの衣類の姿は、今も記憶に鮮明に残っている。
(乾燥ワカメ恐怖症により、私は未だに生ワカメしか食べないという説もある)。

▼洗濯の際、被害に遭う電子機器も少なくない。

 これまで時計を1台、電卓を1台ダメにしている。小型化が進めば進むほど、ポケットに混入する率が高くなるのであろう。先日、F氏に見せていただいた超小型の携帯電話(premini)などは、被洗濯比率が他と比べて高いと思われる。

 少なくても私は持ってはいけない類の機器と言える。

▼と長い前置き。昨年、乾燥洗濯機一体型を購入してからは、警戒態勢を強化していたが、ついにその日がやってきてしまった。

 USBメモリーを洗濯してしまったのである。あちゃー。

 柔軟剤のかおりもほのかに残る中、動作を確認したが、洗濯乾燥一体型の強みなのか、半乾燥されて出てきたピカピカのUSBメモリはちゃんと使えた。

 微妙に塗装が禿げているあたりUSBメモリ君の苦労が偲ばれるが、意外と、メモリは洗濯に強いらしい。同じような機構で動いていることを考えれば、iPod shuffle も洗濯可能ではないか…と思われるが、当然、私は実験する気にはならぬ。Appleが、iPod washable を出すまでは、くれぐれも洗濯には気をつけよう。

読書メモ(断片):チェーホフの問い

▼とあるご縁で保坂氏の『アウトブリード』拝読させていただく。保坂和志氏のエッセイ集である。小説そのものではなく、小説家が書いた評論やエッセイを好んで(しかも「先に)」読んでしまうのは、私の悪い癖なのだが、本書を通して保坂氏が思い描いていることの大きさを、改めて知った。
 と大きな感想を書いてはみたが、核心に触れるのは時期尚早なので(注:まだよく分かっていない、というのが本音ではあるが)、彼がチェーホフについて書いていたことをメモっておきたい。って、チェーホフって誰?って言われると困るのだが。

 チェーホフの「問い」の深淵さに恐れ入るばかりである。
 最近チェーホフのことをよく考える。チェーホフはこの世界と人間についての深淵な問い(=想像力)を書き残した。(略)

 時間や空間が遠く隔たった者同士の気持ちや思考が、伝わったり響き合ったりすることがありうるだろうか? というのが、チェーホフの残した問いであり同時に想像力で、晩年のチェーホフはこのことを作品の中で繰り返し書いている。

 チェーホフ自身、それに対して明確な答えを与えているわけではない。文学的に安易な解答を与えるのは簡単だし、「そんなこと、ありえるわけがないじゃないか」と、科学的に一蹴するのも簡単だ。
 
 しかし、チェーホフの立場はそのどちらでもない第三の立場で、<科学と文学>ないし<物質と精神>、という一般に別物だと考えられがちな二つのものに、あらためて関係を見つけ出そうというものだ。この問いをチェーホフは叙情性に包んで書いたが、読み直すほどにチェーホフの叙情の芯には硬い石のようなものが感じられる。

 ちょうど百年前にチェーホフはこういう問いを提示した。しかし、その後百年間、小説はこの問いを受け継ごうとしなかった、と僕は思う。
(pp.249-250)(下線部は、著者の強調箇所を下線化したもの)
 受け継ごうとしなかった、という指摘の後に、自身の作品の話題が続く。「自画自賛」のような気もするが、そう思わせないのが保坂氏の偉大さである(彼にとっては「『小説について考える』ことと『小説を書く』ことはほぼ完全に同等のこと」(p.238)らしい)

▼以前、読んだ時には思いもしなかったのだが、保坂氏の『残響』では(私が読んだことのある数少ない保坂作品の一つ)、チェーホフの問いが「変形」されて扱われているとのことだ。具体的には、以下のような問いである。
私が遠く離れた誰かのことを考えているとき、相手のその人は『私がいま考えている』ということを、まったくわからないのだろうか、それともわかる可能性があるのだろうか」(p.250)
 科学的に考えれば、確かに「ありえるわけがない」。しかし、私自身、このような「問い」に重要性を感じる、ということは(保坂氏の『残響』に何かしら動かされる部分があるということは)、この「問い」には何か本質が含まれているはずである。

▼それが何なのか、よく分からないが、自分自身もよく分かっていない「問い」について、自分以上に考えている人がいるからこそ、安心して悩めるというものである。ココロが動かされる瞬間は、「問い」にあふれているのだろう、と思う今日この頃。

読書メモ(ミニ):教養のためのブックガイド

▼東大教養部ネタが続いているが、締めは『教養のためのブックガイド』。この手のブックガイドは、これまでも多くの出版社から様々な形で出されてきたが、この本は、いかにも「東大」の「教養学部」といった感じで、なかなかいい感じである。

 いかにも東大ってどういう意味だよ?とツッコミをいただきそうだが、書き始めると長くなるので止めておく。ま、良くも悪くも東大は東大だからな(説明になってない)。

▼昨年出た『東大教師が新入生にすすめる本』とは形式的には似ているように見えるが、実際はかなり違う。『東大教師が新入生にすすめる本』は単なるカタログだが、『教養のためのブックガイドは、その名の通り「ガイド」になっている。

 カタログとガイドの違いって何だよ?とツッコミをいただきそうだが、前者は明確な目的がある人にとって意味があることが多いのに対して、後者は右も左も分からない(が、ある程度の好奇心はある)という人に向いている、といった説明が妥当か。

 本当はもっといろいろメモを書いていたのだが、そんなこんなしているうちに「おざわブックガイド」でも作ろうか、などと不毛なことを考え始めたので、今日はこのあたりで終わらせることにする。

現実とは何か(再び)

▼組織論の世界にはRJP(Realistic Job Preview)や、ROP(Realistic Organization Preview)と呼ばれている考え方がある。

 守島先生によれば、以下のような特徴が挙げられるらしい。
RJPやROPの基本的な考えは、仕事(Job)や組織(Organization)について、「いいことも、悪いことも、丸ごと伝える」ということにということになります。言い換えれば、情報を白黒あわせてすべて伝える、ということです。(p. 47)(太字は引用者による)
 私流に言い換えれば会社(学校)に入ってから、社員(学生)が「こんなはずじゃなかった!」と思わないようにするための情報提供のやり方のことである。

 RJPやROPには、次のような効果が期待されるらしい。
  • (1) 入社後の役割や仕事内容が、明確化され、過剰期待を軽減し、入社後の幻滅を取り除く(ワクチン効果)
  • (2) より主体的な意思決定を促し、入った組織へのコミットメントを高める(コミットメント効果)
  • (3) 応募にあたって自己選択を行い、自分にフィットした仕事だけに応募する(スクリーニング効果)(p.47)
▼私は、高校へ入学した際に、「こんなはずじゃなかった!」感におそわれたため(と言っても、他に選択肢はこれといったなかったのだが)、大学に入学する際は、慎重に進路を「選んだ」タイプの人間である(たまたま合格したから入学できたのだが)。それ以降も、下見というか偵察と呼ぶのか、「足を使って」下見をしてきた方だ。

 私自身、そういうキャリアを歩んできたから、人の進路の相談に乗るときも、「実際に足を運んで、納得がいくまで観察すべし」といったようなことを言ってしまうのだが、現実的には、そうもいかない部分もあるのは事実である。複数の選択肢がある場合は、一つに時間をかけられないし、一つを見る前に視野を広げておく必要もあるだろう。

 せめてパンフレット(情報源)がRJPを意識した作りになっていれば…と、これまでは他人事のように思っていたのだが、いざ自分がそれを作る立場になると、Realistic な情報を伝えることの困難さに直面するらしい。結局、何をやっても「現実とは何か」という問いに突き当たってしまう気がする今日この頃。

読書メモ(断片):大学のエスノグラフィティ

▼最近、読書メモのネタに偏りがあるが、『東大教授の通信簿』とは全く違った意味での東大ネタ。一世を風靡した『知の技法』でも知られる船曳先生の本を読む。
 はっきり言って面白い。「エスノグラフィティ」って何よ?と、ふと疑問が浮かぶが、いわゆる「エスノグラフィー」ではなく、「エスノグラフィティ」となっている点には留意が必要であろう。つまり、エスノグラフィーのように「全体」を描くことが目指されているのではなく、著者の視点から「『走り描き』を重ねたものになっているもの」を指すらしい(元ネタは『ラテンアメリカン・エスノグラフィティ』という書籍によるとのこと)。

 船曳ゼミは東京大学でもかなり人気らしいが、船曳先生が書いた文章は「読ませる」ものが多く、本書もその例外ではない。

▼いろいろメモっておきたいことはあるのだが、冒頭で紹介されていた「先生という方法」という節が興味深かった。こういう考え方もあるのね、的な。
 「先生」に方法はあるか、と自分で問いを立てて、自分で困っています。よき先生として学生に相対する方法というのが分かればよいのですが、経験的には、学生は先生が考えたように先生を受け取ってくれない。むしろ先生と学生の関係はかなりの点で学生の側からの誤解から成り立っている、と考えられます。では、誤解を前提とする方法というのがあるのでしょうか。
(略)
 どうも学生は教師を勝手に「使っている」らしい、と思うのです。学生としては、制度の中でいささかは抑圧されているわけですから悪口を言い、大学を出てしまうと、少なくとも、いくつかのよい思い出を持っていたい、と勝手な都合でほめ出す。
(略)
 学生は、勝手に教師をけなしたり、ほめたり、大いに誤解をしながら、教師をモデルに使い捨てて通り過ぎていくのです。しかし、それは誤解による偶然の結果と言うよりも、あらかじめ誤解を含んだ方法と言うべきでしょう。先生であることを方法的に意識化するのは難しいけれども、勝手に学生に使わせるように自分をさらしておくこと、それは方法としてあり得るからです。先生にとっては、先生であることに方法はないのですが、先生であることは学生にとっては学ぶ方法となり得る、ということです。誤解か正解か分からないその関係、おそらく沢山の誤解が含まれているであろう、そうした師弟関係からも、人は大いに学ぶのです。(pp.9-10)
(太字は引用者による)
 「偶然をデザインする」(あるいは誘発された偶発)というような言い回しもあるが、誤解も含めて、「勝手に学生に使わせるように自分をさらしておくこと」という「方法」も確かにあるような気もする。「反面教師」と言うと(あるいは「理想の教師」も)言葉が強すぎると思われるが、自分自身を「さらす」という考え方は意外と使えそうだ。

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本年度初のハーゲンダッツの日

▼ちょっとだけうれしいことがあって、今日は「ハーゲンダッツの日」を挙行した。ハーゲンダッツの日とは、ちょっとしたうれしさを感じ(しかし、それは第三者に説明しても、So what?という反応が来るくらいのささやかさである)、自己満足に浸りたい時に、気分をウキウキ(×Wiki)させるためににハーゲンダッツを食べる、という儀式のことである。

 売店にハーゲンダッツが売ってて良かった。考えてみれば、新年度初、の儀式であった。その他類似品に「ポッキーの日」「オレオの日」などがある。たまたまその日に私の前にいると、ポッキーやオレオ、ハーゲンダッツの恩恵に与れるらしい。

広東語ブーム

▼先日、某所で買い物をしていた時のことである。店員の日本語が微妙だったので留学生かな?と思い、ネームプレートを見たら(注:たまたま目に入った、という方が正確だが)、「香港○×」と書かれていた。しかも、明らかに名前は中国風。

 私には何年かに一回くらい、「語学ブーム」が訪れることがあり、瞬間的に夢中になるがすぐ挫折する、という周期がある(これまでスペイン語、フランス語がその犠牲になってきたが、未だに挨拶くらいしか出来ないままである)。

 最近は何故か、広東語(一般的な中国語ではないので念のため)である。しかも最近、新しいフレーズを覚えたばかりだったので、これは格好のチャンス!と思い、「ありがとう」と「さようなら」その他を試みに発してみたら…すばらしい。通じました。

▼So what? と言われてしまいそうだが、言葉が通じる、というのは実に愉快なので記録しておく。他にも話かけてくれたのだが、さっぱり分からず。日本語を勉強して数ヶ月ということは分かったのだが(注:日本語で話しかけてくれました)、うーむ。

 逆に考えると、数ヶ月で広東語があれだけ話せるようになるのだろうか、と自問自答する次第である。たぶん、私は挨拶と社交的会話でいっぱいなんだろうな。

▼ちなみに私が買ったのは、この参考書。中国語はやっぱり発音が難しいよなぁ。

読書メモ(断片):東大教授の通信簿

▼移動中、東大教授の通信簿 を読む。
 本書は、いわゆる授業評価をネタにしたもの(注:授業評価というのは、学生が個々の授業を「評価」できるようにした制度のことである。多くは学期末に行われ、教員の声の聞き取りやすさ、板書や、難易度、内容面など項目は多岐にわたることが多い)。

 著者の文体については、いくつか思うところはあるのだが、編集者に由来する部分も多そうなので、「敢えて述べない」とだけ書いておく。それを差し引いても、全体としては、なかなか有意味なネタが多かった。
 ただし、最初にお断り。本書には、興味深いデータが多く紹介されているが、微妙に著者にとって都合の良いデータである可能性は注意しておいた方が良さそう。

「研究業績」と「教育の上手下手」の関係

 最も興味を引かれたのは、「研究業績」と「教育の上手下手」の関係である。

 紹介されている結果は、東京大学全体を代表するものではなく、「広域科学専攻教員」の3年間の英文原著論文と、「学生による授業評価」」の総合評価平均得点との関係に限られているのだが、以下のような「予想に反する」結果になったらしい。
 この結果は予想に反するもので、研究業績と教育の上手下手には相関がないか、あったとしても逆相関ではなく、正の相関らしい、というのです。つまり、研究を一生懸命やっている教員は、教育にも熱心だ、ということになります。この逆を考えると、恐ろしいことになります。(p.146)
 著者は、この結果を意外に思っているようだが、私の経験としては、すぐれた研究者の多くは、すぐれた教育者である可能性が高いような気がしている(違う?)。

 でも、こういうデータってあまりお目にかかることが少なかったのは事実。確かに、明確な相関は出にくいだろうし(研究業績というものをどう評価するかによっても異なる)、因果関係を探るのはもっと難しいが、こういう視点の研究は興味深そうだ。

年齢と授業評価の関係

 もう一つは、以前もネタにしたことがあるが、年齢授業評価の結果の関係。
 「理系」と「文系」で違いがあるらしい。

 理系教員に限って言えば、
教員の年齢が上がっていくにしたがって、同じ内容を教えていても学生から見ると授業が難しくなっているらしいことがわかってきました。(p.107)
 著者の考察によれば、「難しい言葉を使う」「ことさら難しい例を教える」「講義中、気を休める時間がない」「字体が旧字」「顔が難しい」などの理由がありそうだ。しかし、実際の所はよく分からない模様である(そこまでデータ取れないしな)。

 熱意や、総合評価についても同様に年齢とともに評価が下がるらしい。

 高度な内容を、レベルを落とさずに、分かりやすくする技術というのも重要だと思うがう(注:取っつきやすい具体例→抽象度を上げていくなど方法はありそうだ)とは思うが、これって、小中高校の先生方にとっては、古くからある問題のような…。

 なお、文系の語学教員に限って言えば、「年とともに授業がやさしくなる」(p.109)という傾向があるらしい(注:文系の語学領域のデータしか出ていない)。

 その他、年齢と授業の難易度については著者の考察はなかなか面白く、
 若い教員の授業が難しすぎるのは、余裕を持って教えていないことに起因していると思いますが、一方、年寄りの教員の授業が難しすぎるのは、毎年内容をあまり変更しないで講義をしているために、特に社会科学では時代に合わなくなっていたり、使う言葉も古臭くなっていたりすることも一言付け加えておきましょう。(p.87)
 これには、なるほど、と思わされたりした。もっとも「年寄りの教員」という表現はいかがなものかとも思うし、他にも要因は多々ありそうな気もするが。

 ちなみに予備校での調査結果は、次の書籍に紹介されている。
 改めて読み直してみると本書とのテイストの違いに驚かされるかも。

良い授業を行うためのヒント

 本書の読みどころは、まだまだある。
 「良い授業を行うためのヒント」という節では
 以下に書くことは(略)、どれくらい一般性があるのかわかりませんが、授業が上手な教員は、学生の顔を見て授業しており、間のとり方がうまい!のです。学生の意識を授業に集中させるために授業内容とは別の話題から入っていって、ハハハと笑っている間に本題に入る絶妙の間は、やはり授業回数(年季)に比例するようです。
 というようなことも書かれている。上記は、授業評価から得られた知見ではなくて、著者の「授業観察」(注:大学によっては教員相互が授業を公開し、参観しあう制度があるらしい。東大でも一部でしか行われていない)を通して感じたことらしい。

 上記も小中高校の先生から言わせれば、割と常識的(だが、実際にそれを体得するのは難しい)話題のような気がしないでもないが、業界的には新しいのかな。

開講日や時間割と授業評価

 これも以前から個人的に謎に思っていたのだが、開講日や時間によって、学生からの授業評価には偏りがあるのではないか?という点。著者によれば、
月曜一限の授業は他の授業より低く評価される、ということはありませんでした。(p.105)
 ということである。確かにマクロデータで見れば、そういう事になるのかもしれないが、私について言えば、一限目の授業は、なかなかテンションが上がらず、トークが滑っていることが多々あるような気がする(気のせいだといいな)。

男性教員と女性教員

 最後に、男性教員と女性教員の授業評価の結果の差異について、触れられていたのも、興味深かった(個人的には、学生の性差もクロスして欲しかった!)。
 総合評価(1~5で評価)の平均は、女性教員3.51、男性教員3.50とまったく互角でした。難易度(1~5点で評価)は、女性3.41で男性3.51、熱意(1~3点で評価)は女性2.40で男性2.29、授業への興味(1~3点で評価)は女性2.00で男性2.02でした。少なくとも、授業に対する学生からの評価には男女差がなかったのです。(p.178)
 ということである。著者のジェンダー観について、ここで触れる余裕はないが(と、敢えて触れないことに触れているが)、ふーんという感じである。

まとめ

 授業評価の結果は、実際に、授業の改善に役立てられなければ何の意味もないし、データ単独では、So what?になりかねない。
 学生としても、単に一方的に評価したり、評価結果を閲覧するだけではなく、授業をより良く受講するための(時には、教員と共に改善に取り組む)リソースとして活用した方が良さそうである。そのためにもまずは定点観測、という段階なのかな。

 最後に本書の雑感。編集者の力量の問題だと思うが、表やグラフを利用した方が読者にとっては分かりやすいし、著者の主張も通りやすいのではないかと思われる。

 久々に長い読書メモになってしまったかも。

冥利

▼「○×冥利に尽きる」という言い回しが世の中にはあるが、最近、その「冥利」を身をもって感じることが少なくない。私は、あまり社交的ではないし(もちろんシャチョーさん的でもない。あ、つまらない?)、良くも悪くも人付き合いをあまり得意としていないのだが、ひととの出会いには確かに恵まれているような気がする。今日の飲み会でも、いろいろな人とお話することができて、何よりだった。改めて感謝。

 「冥利」という言葉は、調べてみたところ、どうやら仏教に由来する言葉らしい。「冥」という漢字を見ると、私なんかは「冥王星」を思い出してしまうのだが、「冥界」や「冥途(めいど)」という言葉に代表されるように、仏教においては「死後」の世界とのことだ。限りある中で感じるからこそ、「冥利」なのかもしれない。などと思ってみたりして。

公共性

▼出張。移動中、先日、書店で購入した『きずなをつなぐメディア』を熟読。  本書で触れられている「社会関係資本」(いわゆる「ソーシャルキャピタル」)は、以前から私も注目していた概念だが、本書を通して、改めて「公共性とは何ぞや」と考えさせられることが大だった。

 私が「公共性」という概念を日記で取り上げるのは珍しいような気もするが、ココロ構えとしては、Share, Fair, Care =SFC 的な発想を重視したいと常々思っていたのは事実である。

▼直接は関係はないが、「公共性」に関連して、平田オリザ氏が次のようなことを書いていたのが、とても印象に残っているのでメモしておきたい。
演劇の「公共性」を訴える
(略)初期の段階の、なぜ演劇に対して助成金が出るかということがまだはっきりしていない時期に、僕たちは非常に意識的に「演劇の公共性」ということを言ってきたんです。

 助成金が入ったときに、それをただ単に劇団の中だけで配分するのではなくて、三分の一ぐらいは公的な部分に使う。たとえば演劇教育や資料の作成に使う。残りの三分の一ぐらいは観客に直接還元する。要するにチケットの値段を下がる。最後の三分の一ぐらいは内部で使う。つまり、劇団員のギャラを上げたり、舞台装置をよくする。

 そういうふうに意図的に分けて使って、しかもそれをアカウンタビリティによって、外部に対してきちんと説明してきたことはたしかです。pp.75-76.
 私は、これを勝手に「3分の1ルール」と呼ばせてもらっているが、「公的」な部分と、目の前にいるお客さんに還元すべき部分と、内部向けの部分という区分は、確かに、非常に合理的だし、理にかなった考え方だと思う。

 自分自身にとっての「公共性(あるいは公共的なもののあり方)」をどのように位置づけ、実際、それを具体的な形にしていくかは、これから重要な課題だわな。

▼それにしても(いつも思うことだが)、Share, Fair, Care のゴロはうまい。

本日雑感

▼昨晩、ちょっと部屋の掃除をしていたらエクニさんの『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』を発見したので(注:未だに本は整理しきれちえない)、思わず読み直す。単行本は場所を食うので、文庫本を買い直そうかな…と、また無駄な出費か。

▼今日は、歓迎会をしていただく。いやー、いいところに来たなぁと、しみじみ。これから忙しくなるようだが「人を裁けるのは人」「人を育てられるのも人」という当たり前のことを感じてみたりもする。前者は、直近で『12人の優しい日本人』を見た影響か。
(注:「人」か「ひと」か「ヒト」なのかは微妙なところではあるが、今日は「人」気分)

▼途中、心理学話をいろいろと伺う。「心理学ブーム」っていうのは、いったい誰がそれに当てはまるのか、結構謎である。血液型について伺い忘れてしまって失敗。

♪はじまるよ

▼8~10日は、お仕事で2泊3日の合宿。知る人ぞ知る企画なのだが、我ながら感激してしまったかも。ああいうエネルギーっていうのは、どこからやってくるのか謎だ。

▼人というのは(私だけかもしれないが)良くも悪くも、飽きっぽい部分と、そうではない部分があるらしい。私の場合、フランス語とか、フランス語とか、フランス語のように語学学習は飽きる傾向が強い。ピアノの練習も最近さぼりがちかな。

 かと言って、まったく変わらない部分も多いようで、音楽鑑賞や読書など、ココロに響いてくるものはほぼ不変である(相変わらず岡村孝子ファンだしな)

▼もう一つ変わらないといえば、「異文化指向」とでも呼ぶのか、「未知」傾向が強い点である。引っ越しは好きではないが、実際、いろんな所に住んでいるしな。人とのゆるやかなつながりを保ちながらも(ここは苦手な部分でもあるのだが)、広義の「異文化」に触れることができれば、これほど幸せなことは私にはない。

 というわけで、ある種の業界の人には当たり前らしいのだが(「知らないの?」と、相方にも指摘されてしまったのだが)、「へー」と思った手遊びの歌。

 ぐぐってみたら、やっぱりメジャーだったらしい。
♪はじまるよったら はじまるよ はじまるよったら はじまるよ♪
         「いち」と「いち」 で にんじゃさん どろん
♪くりかえし 「に」と「に」で カニさん ちょきさん
♪くりかえし 「さん」と「さん」で ねこのひげ にゃおん
♪くりかえし 「よん」と「よん」で たこのあし つるん
♪くりかえし 「ご」と「ご」で 手はおひざ!
 「手遊び」「はじまるよ」で検索した限り、微妙に歌詞が違うのだが「作詞」「作曲」ともに不詳らしい。正確な所は、ちゃんと調べてみないと分からないが。

▼生意気なことを言うようだが、さまざまな領域で自分の力を試したい所である。ゆりかごから墓場まで、おはようからおやすみまで(あるいはお休み後の「夢」の世界でも)、未知の世界にアンテナをのばしていたいと思う今日この頃。

千客万来 その2

▼お見送り後、ソウル経由でY氏が来客。2日連続で、セパ交流戦の広島対西武戦を観に行く。昨日は広島側だったが、本日は西武側。二人ともライオンズのファンというわけではないのだが、私もどちらかというとパリーグよりらしい(彼は完全にパ派)。

 といいっても私自身は、野球オンチでセパ交流戦の存在自体いまいち分かっていなかったのだが、2日連続で観に行ったおかげで、多少の知識は付いたかも。

▼夜は、定番のお好み焼き屋さんへ。昨日飲み過ぎたので、今日はかなりセーブしたらしい。もうちょっと飲み屋さん事情に詳しくなっておかなくっちゃね。

千客万来 その1

都内よりT氏カップルが来客。セパ交流戦で、広島対西武を観戦しに行く。小雨の中、本当に試合を実施するのか直前まで読めなかったが、無事、開催。

 私的には、広島市民球場のデビュー戦ともなった。試合中も小雨かつ、ちょぴり寒かったし、お客さんの入りも良くなかったようだが、楽しかったかも。広島側で観たのだが、残念ながら、西武が快勝。まあ、応援の雰囲気が分かっただけでも良しかな。

▼時間の都合で、途中で切り上げて、飲みに行くって、お勧めのイカその他を食す。踊るイカを見る度に、故 松本元先生のことをふと偲んでしまうのだが(やはり私にとっては相当インパクトのある先生だった)、なかなかの味だった。また行こうっと。

 遠方はるばる、いろいろとお世話になりました>関係各位

フラワーフェスティバルリベンジ

▼やっと「連休」に入ったような感じの一日であった。ちょっと遅くまで寝て、部屋のお片付け。昼過ぎに街に出かけて、フラワーフェスティバルのリベンジ。

 相変わらず「フラワー」っぽさはなかったが、よくよく見物すると実は巨大な「お祭り」であることが発覚。屋台でフレッシュジュースを飲んで勢いづいてしまい、その後、鮎の塩焼き、豚肉の串焼きとビールを購入。

 さらに勢いづいてラーメンに加えて、イカのゲソを食す。真っ昼間からアルコール!?って感じだが、天気も良かったので、アルコールの昇華も早かったらしい。

▼その後、買い物巡り。夕方に、某所の北海道物産展で夕食を購入。今回も買い物の時間が押してしまい、ちょこっとした料理しかできなかったのが残念。

 某所でお勧めされたケーキは、確かにおいしかった。

PHSが不調

▼前々からアナウンスしようと思っていたのだが、現在、私のPHSは不調です。いよいよついに、おざわさんも携帯デビューか!?ドキドキ。

▼何度か書いたことがあるような気がするが、私が初めて携帯PHSを買ったのは、もうかれこれ8年近く前。最初は、今はなきASTEL(アステル)に加入。肝心なときに電波届かない~状態だったため、NTT Pesonal(現:NTT Docomo)へ移行。

 しかし、大学院ではNTTのアンテナがいまいちだったため、さらにDDI Pocketに乗り換え、今に至るわけである。あくまでPHSにこだわっているのには、理由がある。
  • (1)安い
 と、それ以上思い浮かばないのが難点である(←理由ないんじゃん)。

 ちなみにここだけの話だが、私には、微弱な電波をキャッチする機能があるらしく、携帯電話を使っていると、不愉快になる(気がする)というのも理由である。

 たぶん勘違いだとは思うが。

 要するに、番号変更には移行コストがかかるし、「PHSを使っている」という話自体、ネタになるので、変えるのが「もったいない」という気がしているのかもしれない

▼実は、昨日、電気屋で大いに迷って、「明日まで物欲が継続したら、携帯に移行しよう」と思っていたのだが、やっぱり私には必要ない、という結論に達した次第。

 来週までには、ちゃんとPHS使えるようにします。すいません。

フラワーフェスティバル

▼フラワーフェスティバルなるものに出かける。いったいどこが「フラワー」なんだよ、とツッコミを入れたくなるような催しだった。要するに連休のお祭り、らしい。

 ぐぐって見たら、同じような感想を抱いている観光者は少なくないらしい。地元的にも、それは意識しているらしく、今年から「花」らしい催しを追加していた模様。

 確かに、この写真だけ見れば、「フラワーフェスティバル」っぽい感じもするが、花らしいのはここだけである。もう一カ所あったらしいが不明)。言うまでもないが写真左の巨大な円錐は、花で出来ている。手前も花。原爆ドームまで歩いて5分くらいの場所かな。

▼帰り道、紀伊国屋で↓を見つけて思わず購入。
▼スーパーでアスパラガスが安かったので、アスパラ丼を作る。
 なんだか不気味な名前だが、アスパラ入り牛丼である。

 ふと、俵万智を思い返したので、今日はカニサラダも。
 「カニサラダのアスパラガスをよけていることも 今夜の発見である」

読書メモ(断片):問題解決の心理学

▼名著再読。安西祐一郎氏(言うまでもなく慶應義塾の塾長である)の、『問題解決の心理学』を読む。何度となく目を通しているが通して読むのは久々かもしれない。

 「人間はいかに問題を解決するか」(p.222)という節で、氏は「問題解決者としての人間の四つの特徴」を挙げている。それぞれ部分的に引用すると
  • 生きて働く記憶(注:目的を果たすのに都合のよいように自律的に働いてくれる記憶やイメージの機能のこと)
  • 原因-結果、および手段-目標の関係によってものごとを理解する能力(注:因果的思考やプランを立てる能力のこと)
  • 問題を適切に表現する能力(あるいは、「問題の表現形式を創造する能力」。問題を理解することができる能力のこと)
  • 知識のダイナミクス(注:自分で問題解決を行うことを通して、その経験の中から、自分の目的を果たすのに都合のよいかたちで新しい知識を身につけ、さらにその知識に基づいて新しい問題に立ち向かうことによって、より広く深い知識の変化させてゆくこと)。
 あくまでも上記は、本書が取り上げた範囲内での特徴ということになるが、改めて読んでみると、確かに腑に落ちることが多い。本書の初版は1985年だが、その時点で指摘されていたことのおおかたが、大変分かりやすくまとめられている。

 さらに、第五の特徴として「自分をどう見るか」、第六の特徴に「感情はどんな働きをするか」が挙げられているが、どちらも、今もなおホットな話題だわな。
 「自分はどんな人間か」ということを、当事者の私たちがどのように感じているかという問題は、心理学では「自己意識」の問題としていろいろな方法で扱われている。それをわざわざここでとりあげたのは、問題を解こうとする中で、自分をその問題の一部として表現できるという能力が、特に自分を含む社会的な問題の解決においては大切になるからである。さらに言えば、それは問題を解いたり吟味したりするプロセスの中に自分を置いてみることができるということにもつながり、それによって自分が問題を通してまわりの世界にかかわっていることを自分で意識しながら、問題解決へと向かうことができるようになるわけだ。(p.225)

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形式と内容

▼「デザイン」が複合的な概念であることを言いたくて、例えばある製品において「内容」と「形式」が不可分であると説明しようと思ったのだが、一瞬、アタマが混乱して、説明を流してしまった(具体的な物事を、抽象的に説明するのは難しい)。

 だって、バレンタインデーのチョコレートは、「チョコレート」と「チョコレートを贈る」という行為は、分けられるものじゃないでしょ、という説明が浮かんだのだが、ちょっと違う気がして(全然違うが)、瞬間的に、この話題を避けてしまった。
 たぶん、私が頭に思い浮かべていたのは山崎正和氏の『社交する人間』だと思うのだが、うーん。この手の逆説的内容を、口頭で説明するのは難しい。

 以下、引用。
 つまり形式とは内容それ自体の現れかたであり、内容とは複数の形式に共通に見られる性質なのであって、両者はただ頭のなかで観念的に分けられるものにすぎない。(p.46)(太字は引用者)
(略)
 わかりやすい芸術についていえば、たとえば絵画の主題や対象が内容であり、その描きかた、色や形や構図や筆触が形式だと見るのは全く誤っている。試みに対象のない抽象画の場合を考えてみても、それは形式が内容なしに純粋に現れた絵画だとはいえない。
(引用者改行)
そこに色があるということ自体、じつは絵の具という内容がある形式をおびて存在していることであり、その物質感、それに伴う独自の気分が絵画の内容だと見ることができる。
(引用者改行)
別のいいかたをすれば、色のない形も形のない色も存在せず、構図なしの筆触も筆触なしの構図もありえないのであるから、ここではそれぞれの要素が相互の内容と形式となって関わりあっている。
(引用者改行)
形式が内容から独立したのではなく、むしろ形式が内容になり内容が形式になって、両者が平等の資格で結びついたときに抽象画は生まれるというべきだろう。(p.46)
 というわけで、分かりやすく言えば、「好き」という気持ちは、「内容」と「形式」に分けることが出来ない、といった所か。うーん。ますます分からない?

▼恋愛メタファーをできるだけ使わない、というのは意外と骨が折れるらしい。

12人

▼久々に、『12人の優しい日本人』を通して観る。

 「ジンジャエール」を目にする度に、「死んじゃえ(ーる)」という言葉を思い返してしまうくらい、私にとっては影響力のあった映画である。

▼でもって、ついでに『12人の優しい日本人』がモチーフにした「元祖」とも言える、『十二人の怒れる男』も通して観る。メモもしまくり。

 やはり、元祖の方がメッセージ性は高いが、意思決定の微妙なさじ加減は『12人の優しい日本人』の方が、伝わってくるものが多いかもしれない。

 ついでに『二十四の瞳』でも観よう(読もう)かと思ったが、映画は持ってないし、文庫もどこかに行方不明中。aozora.gr.jp にもなくて、検索ついでに寺田寅彦「二十四年前」を読んでみたり。初めて読むエッセイだったかも。

▼実に日曜日らしい過ごし方だった。が、おかげで笑点を見逃した。

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