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2005年4月

4月雑感

▼長かった部分もあるが、全体としてとても短い一ヶ月間だった。先月末までは愛読書は?と聞かれれば、間違いなく『ゼクシィ』と答えたと思うが(注:実際、そう答えたことはないが)、今月に入ってからは、また「いつも通り」に戻った気がする。

 しかし、実感としては「元に戻った」ような感じはしない。誤解を恐れずにたとえれば、これまでは「読書」と「仕事」にかなり隔たりがあったような感じがしていたが、最近は、これら両者が密接に関わっている気がするのである。

▼一般的には、後者の方が、「まとも」な感覚なのかもしれない(注:これまで仕事をまじめにやっていなかった、という訳ではない。たぶん)。だが、なんと言うのだろう。意識しているかしていないかは別として、私の中に何らかの「目的意識」があって、その目的意識に読書が引きずられている感じが強くなった。

 もちろん、そんなのは言うまでもないことで、何らかの目的意識(あるいはレディネスでも、構えでも、先行知識と呼んでも良いが)を持たずに、純粋に物事を経験することは原理的に不可能ではあるが、今までとはちょっと違った感じがするわけだ。

 もちろん、それはそれで大変に楽しい経験で、新鮮だったりするのだが。

▼ものすごく単純な言い方かもしれないが、どちらかというと、これまでは外から内側に向かっていたものが、内側から外側へ向かうようになってきたのかもしれない。感覚的には、昨年度にもあったのだろうけど、実感を忘れないようにメモしておく。

追伸
 
今日はちょっとした記念日。未来から「今」を振り返る日、といったところか。
 改めて、これまで多くの人に支えられてきた、というのを実感し直してみたり。
 ちょっとしたワインを買う。どうやら、チーズも届くらしい。

献血

あまりに暇だったので仕事の合間に、久々に街へ出る。世の中は「連休」らしいので、私も、その「連休」とやらを享受しようと思ったわけである。

 しかし、中心部は人、ひと、ヒト…で、いかんせん密度が高い。
 みんな、暇なんだな気分転換しに来ているんだな。

▼とりあえず、Franc francやら無印良品やら、afternoon tea など、適当な雑貨をちらっと見て回って、紀伊国屋へ行ってみたが、人混み故に落ち着かないのが難点。
(注:どこに行っても、私の行動パターンは本質的に変わらないらしい。もちろん、地元にしかなさそうな店にも足を運んでいるが、名前が分からないので省略)

▼とりあえずどこかでお茶でも飲もうかと思ったが、どこも行列。リーガロイヤルまで足を運んでみたが、あらまー、ほぼ満席。まあな、中心部だしな。

 帰るのももったないので(注:関係ないが、最近、『もったいないばあさん』という絵本が話題らしい。もったいないって、元祖は「もったいないおばけ」じゃなかったっけ?年のせいか、○△ばあさんといえば、「いぢわるばあさん」を思い出してしまう。)、休憩場所を探してふらふらしていたら、ふと、献血ルームがふと目に入る。

 その手があったか。

▼最近、献血していないし、帰っても何もすることないしたまには社会に貢献したいし、1時間はご休憩もできるだろうということで、何年ぶりかに愛の献血へ。

 階段を上がるとそこは…、という訳で後半に続く。

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ようこそ松井先輩

▼朝。たまたまテレビを見ていたら、「ようこそ先輩」の再放送で松井秀喜が登場していた。「先生」としての松井秀喜を見るのは初めてだが、彼は実は「ほめ上手」だったらしい。何かと参考になる所が多かった(ビデオに撮っておけば良かったな…)。

 どこまで彼の意図なのかは分からないが、野球のバットを握ったこともない生徒(小学生)に、何の指導もなしにバットを持たせ、素振りをさせたのは正直、びっくりだった。そんでもって、素振りさせている間は「いいねぇ」と褒めるだけ。

 「褒める」が日常語過ぎるなら、「ポジティブフィードバック」でも良いが、彼の意図としては、それで自信を持たせるのが趣旨だったらしい(このあたりの文脈はよく分からないが、番組の趣旨というよりは、彼の直感のように私には映った)。

▼番組全体としては、硬球を用いたバッティングで「ホームラン打つ」ことと、自分自身夢を実現させることが重ねられていたのだが、最終的には、皆、硬球をそれなりに「打てる」ようになっていたのもまた驚きだった。

 確かに、野球はそれほど難しい球技ではないとは思うが、最初のやり方がどれだけ後半まで影響していたのか、少し気になるところである。M氏も書いてくださっていたが、褒めることで何らかの「方向付け」がなされる部分は確かにありそうだ。

▼夢中になってバットを握っていた子どもたちは、きっと手にマメが出来ていたに違いない。そういえば、去年、ソフトボール大会に出たことを思い出す。

光はいずこからも来る-Light from Anywhere

▼吉見俊哉氏の『万博幻想-戦後政治の呪縛』の一部を読み直す。
 万博というのは「理念」がどんなに崇高であっても、それが「かたち」になる時には、「理念」と実際のかたちが乖離しまいがちになるものらしい。

 吉見氏の著書からの孫引きになってしまうが、大阪万博の時には、以下のような崇高な理念が提出されていたとのことだ。桑原武夫氏による名文を引用したい。
 世界の現状をみるとき、人類はその栄光ある歴史にもかかわらず、多くの不調和になやんでいることを率直にみとめざるをえない。技術文明の高度の発展によって、現代の人類は、その生活全般にわたって根本的な変革を経験しつつあるが、そこに生じる多くの問題は、なお解決されていない。さらに世界の各地域には大きな不均等が存在し、また、地域間の交流は、物質的にも精神的にも、いちじるしく不十分であるばかりか、しばしば理解と寛容を失って、摩擦と緊張が発生している。科学と技術さえも、その適用を誤るならば、たちまちにして人類そのものを破壊にみちびく可能性を持つにいたったのである。

 このような今日の世界の直視しながらも、なお私たちは人類の未来の繁栄をひらきうる知恵の存在を信じる。しかも私たちはその知恵の光が地球上の一地域に局限されて存在するものではなく、人間あるところすべての場所に、あまねく輝いているものであることを信じるものである。この多様な人類の知恵が、もし有効に交流し刺激しあうならば、そこに高次の知恵が生れ、この多様な人類の知恵が、もし有効に交流し刺激しあうならば、そこに高次の知恵が生まれ、異る伝統のあいだの理解と寛容によって、全人類のよりよい生活に向っの調和的発展をもたらすことができるであろう。(『朝日新聞』一九六五年一〇月二一日)(p.052)

(下線は引用者。『万博幻想-戦後政治の呪縛』より)
 吉見氏も指摘しているが、まったくもって「名文」である。

 大阪万博は、私にとっては(注:言うまでもないが、私は大阪万博以降の人間。私にとっての万博は1985年の筑波の科学万博を意味する)、高度成長の象徴であり、真っ先に思い浮かべるのは岡本太郎の「太陽の塔」である。その大阪万博に、上記のような理念があったとは、吉見氏の著作と出会うまで「知りもしなかった」というのが率直な感想である(正確には興味を持っていなかった?)

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プレゼンのコツ

▼金井寿宏(2005). リーダーシップ入門. 日本経済新聞社 に、いわゆるプレゼン(プレゼンテーション)に関する興味深い言及があった。項目的には、決して忘れなさそうな内容ではあるが、自分のためにメモっておく。
(略)プレゼンテーションの達人に、そのコツを聞くと、言語化できる部分はそんなに多くなく、最終的には、そのひとの持ち味があって、簡単にはまねられない。しかし、内省的実践家として少数だが、いくつかの大切と思われるコツを教えてくれた。著者が聞いてきたなかで、いちばん多かったのは、
 (1)動け
 (2)問え
 のふたつだった。そういえば、達人たちは、座って不動で語ることは希だ。(p.120)(太字は引用者による)
 もちろんこれは唯一の原理・原則ではなく、著者が言うように、人によって「持論」は異なるだろう。時には、矛盾したようなコツが提示されることも少なくない。例えば、(3)間を取れ、(4)堂々と語れ(p.124)というコツを、提示する人もいるかもしれない。

 「一見すると矛盾しているが、状況によって使い分ける原則というのもある」(p.125)というのは、確かに著者が指摘する通りであろう。

▼自分についてコメントすると、私は、やたらめったら「動く」点に特徴があるらしい(だからとっても疲れる)。「問え」に関しても、実践しているつもりだが、スベっているのが現状…らしい。時々は「間」を取ったり、「堂々」としていることも重要なのかな。

コラージュ

▼素敵なコラージュの作品をいただいた(5月に使うパンフレットの一部である)。

 B5サイズ(より若干細長い)で、折り紙や毛糸などの組み合わせでできてている。写真ではわかりにくいかもしれないが立体感がある。大変、手がこんでいるし、何よりもメッセージ付きなのがうれしい。

 写真は、地面の方をカットしてしまったが(個人情報をぼかしても良かったが、それはそれで全体のイメージが崩れてしまいそうだったし)、「地に足の着いた前向きさ」とでも言おうか、早速、お気に入りである。

 対比概念である限り、「デジタル」の良さは、「アナログ」に触れていなければ分からないし、その逆もしかり。もちろん、単純な対比概念ではないけどね。

安全学

▼神戸で大きな電車事故があったおかげで(直接的にも間接的にも関係はないが)、昨晩は良く寝付けず。なんだか心理的に疲れてしまった一日だった。

 なぜかよく分からないが、私、この手の事故、事件を見聞きしてしまうと、ココロが揺れてしまうらしい。ヤスパースの「形而上的罪」じゃないが(注:この日記では何度か取り上げているが、簡単に言えば直接つながりがなくても罪の意識を感じてしまうこと)、「なぜ、私が巻き込まれなかったのか」と思い始めると、際限のない問いになる。
▼基本的に、おおよその事故は、人災である。人災は、広義の「教育」や「文化」で何とかできる部分と、何らかの科学技術を応用して技術的な解決を図った方がベターな場合があるが(もちろん後者は逆に災いすることも少なくない)、いずれによせ可能な限り「未知」を少しでも予測しようとする試みであることには違いない。
  • 村上 陽一郎(1998). 安全学. 青土社
 被害に遭われた方には、ただただご冥福をお祈りする次第である。

ことばの変化

▼土日についてはまた改めて。一部の方にご迷惑をおかけしてしまった。反省。

▼広島に越して来てから早1ヶ月。しかし、いまいち広島に住んでいるという実感がないらしい。うーん。理由として考えられるのは、(1)広島市街にあまり出歩いていない。(2)週末は出張で広島県外に出てしまっている、からかな。

 本来ならば、周囲で耳にする「ことば」に違いを感じるはずなのだが、あまり違いを感じないのも謎である。東北弁の「だっちゃ」と、広島の「じゃけん」は、語感的に似ているからかもしれない。あるいは、横浜弁の「じゃん」も近いのかも。

 また、疑問文の末尾に「け」が使われる点は、金沢の言葉にも似ている気がする(用例:そうけ?)。もしかしたら、微妙に違うかもしれないが詳細は不明。

▼私はよくも悪くも言葉が感染しやすいため、おそらく、いろいろな地方の言葉が混ざった奇妙な言葉を発してしまっているのだろう。

 自身が使う言葉の使い方の変化の過程を詳細に追っていくと面白いだろうなぁ。

▼というわけで、久々に『表象は感染する―文化への自然主義的アプローチ』を読み直そうっと。あと、『クレオールとは何か』も。って、あんまり関係ないけどね。

CD取り込み「2度出し法」

▼お仕事的都合で、最近、パソコンのいわゆる「入門書」を良く読むようになった。以前から、日経WOMANのWord & Excel特集くらいには目を通していたが、パソコン入門雑誌を改めて買うなんて、下手すると8年~10年ぶりくらいになりそうだ。

 久々に読んでみると、意外と発見が多いのに驚き。考えてみれば、Windownsは最低限使っているだけで、Macに比べると、そもそも興味がなかったしな。

▼コラム的な記事も、ネット経由だと見逃すことも多いが、雑誌だとじっくり読める分(注:通勤中や移動中など、「それ以外やることがない」状況下で読む必要があるが)、より多様な記事に目を通す可能性が高くなるような気がする。

 で、一つ発見。ASAHIパソコンの2005年に掲載されていた「アサクラ流『iPodで超絶の高音質』の秘密とは」にあった、CDからの取り込み方法はとくに興味深かった。
 ドライブでのCD取り込みも、特別に「2度出し法」で行う。まず1度再生してTOC信号を読んだタイミングで、イジェクト。もう1度入れて再生する。一般に1回目での再生と2回目を比較すると、かなりの違いがある。音がほぐれ、しなやかになり、パーッと視界が開け、見通しが良くなり、音の流れがナチュラルで流麗になる。(略)この効果には、サーボ電流が2回目のほうが安定するという理屈が与えられる。(p.72)
 一読した感じでは原理がよく分からなかったのだが、サーボ電流だの、TOC信号をググって見て…多少、分かったような気がする(ここはネットが圧倒的に便利だ)。

▼理屈はともかく、実際試してみたのだが、確かに、良くなったような気がしないでもない。ただし、音質の良し悪しを把握するためには、ヘッドホン(スピーカー)の性能も大きい気がする。へぼいイヤホンでは、正直分からなかったからな。

 私も、それなりに音質には敏感な方なので、iPod標準のヘッドホンは使っていないのだが、著者が勧めていたオーディオテクニカのATH-EC7は、ちと気になるところである。ヘッドホンに1万円を出すのを高いと見るか、安いと見るかは価値観が分かれる所らしいが、amazonの評判を見る限りは、比較的良い買い物なのかも…。

 ま、いかんせん金欠ぎみなので、来月以降のお買い物になるだろうけれど。

▼ちなみに私は、「音質に敏感」と言いつつも、お金かければいい音が得られると知っていつつも、たいしたヘッドホン&スピーカーを持ってる訳じゃありません。

読書メモ(断片):紅一点論

▼いわゆる広義の「メディアリテラシー」ネタとして、子ども向けのアニメやいわゆる特撮モノを取り上げようと思い、久々に斎藤美奈子の『紅一点論』を読み直す。

  • 斎藤 美奈子 (2001)(文庫).
    紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像 . 筑摩書房
 斎藤美奈子氏の本はどれも愉快、軽快、爽快だが、とりわけ私的には『紅一点論』は学ぶことが多かった気がする。ジェンダー論的視点から見ても、「子ども」(男の子・女の子)に焦点を当てた研究は、管見、『紅一点論』まで見たことがなかったし。

▼氏に言わせると「男の子」向け番組(「男の子の国」)と、女の子向け番組(「女の子の国」)には、次のような特徴=差異があるらしい。
(以下、見出しを抜粋し、本文中を参照しながら簡単な説明を加えてみた)
男の子の国
  • 男の子の国は未来と宇宙の戦争の世界である。(p.18)
    (例:地球防衛軍。国際秘密防衛機構)
  • 男の子の国の戦いは異質なものを排除する戦争である。(p.19)
    (例:怪獣・怪人・怪ロボット…などが敵となる)
  • 男の子の国のチームは親方日の丸の軍隊である。(p.20)
    (例:基本的には「日本人」のみで構成される、ピラミッド型組織)
  • 男の子の国の基盤は科学技術である。(p.22-23)
    (例:鉄腕アトムしかり、ロボットモノはすべてそうである)
  • 男の子の国の変身は武装である。(p.23-24)
    (例:変身後、武装、プロテクターの装着などが行われる)
  • 男の子の国はセクハラ天国である。(p.23)
    (例:ドラえもんにおける、しずか(しずちゃん)の入浴シーン)
女の子の国
  • 女の子の国は夢と星と愛の世界である。(p.26)
    (例:魔法の国、お月様、お星様など。「空間と時間の観念がめちゃくちゃ」)
  • 女の子の国の戦いは世界に一つの宝物を守ることである。(p.27)
    (例:セーラームーン「幻の銀水晶」、ナースエンジェル「命の花」)
  • 女の子の国のチームは子どもの仲良しサークルである。(p.28)
    (例:チームの概念が未発達。作戦本部も命令系統もない)
  • 女の子の国の基盤は非科学的な魔法である(p.29)
    (例:「鏡の精」「月の女神」など「授けられたもの」である)
  • 女の子の国の変身はファッションショーである。(p.30)
    (例:女の子の国でいう変身=シンデレラの変身と同じ着替え)
  • 女の子の国は王子様に依存する恋愛立国である。(p.32)
    (例:女の子の国は私生活だらけ。「恋愛ボケの色ボケ」(p.33)
 とくに興味深いのは、「変身」の違いである。本書を読むまで、まったく盲点だったのだが(ほとんど考えたことのない領域でもあったが、未知なことが実に多かった!)、確かに、男の子向け番組における「変身」と、女の子向け番組における「変身」はまったく意味合いが違うような気がする。いまだにこの構造は変わっていないらしい。

 子ども向け番組に、どれだけの影響力があり、子ども自身がどのように受容しているか分からないし、「科学技術」か「魔法」か、そこに立ち返っていくことに何の意味があるのか分からないが、もしかしたら何らかの意味があるような気がする。

出張中

▼今期初の都内出張。今回の出張は、秘密にしてたわけじゃないですが、日程が限られていたのでごめんなさい>お世話になっている皆さま。

 横浜、高田馬場近辺、所沢、上野…と、一日ですべての予定を終える。おかげで、明日はゆっくりできそうだ。と言っても、仕事に関しては自転車操業状態(よく言えば試行錯誤中)なので、「仕込み」にそれなりに時間はかかりそうであるが。

▼N先生にジュンク堂のカードキャンペーンの話を伺い、ジュンク堂の商品券(図書券)を1000円をゲットする。忙しそうに見えて余裕あり?契約に成功すると、1000円追加でもらえるらしい。それにしてもカード会社って、そんなに儲けるのかねぇ。

本日雑感

▼今日は、お仕事的にプチ痛いミスを犯してしまった…。時間配分は心得ているつもりではあるが、ついついトークに夢中になってしまう傾向があるらしい。要注意。

▼全体的に、新生活も含めて軌道に乗りそうな雰囲気である。

▼夕刻以降は、職場の新人歓迎会にご招待いただく。自己紹介もいい加減慣れてきたような気もするが、なかなか「笑い」を取るところまではいかないなぁ。

 歓迎をいただいて大変ありがたいことである。

▼空き時間、来週分のお仕事を少し先取り。明日は、今期初の都内出張。

 以上、単なる個人的メモでした。

読書メモ(断片):考えあう技術

▼欲しい本リストに入れっぱなしだった、苅谷剛彦・西研氏らの『考えあう技術-教育と社会を哲学する』(ちくま新書)を、ようやく入手。
 西研氏と言えば、先日、私は藤野美奈子氏との対談『不美人論』を読んだ印象がかなり強く残っていたためか(注:純粋に愉快な本ではあるが、展開がちょっと強引だったと思われる)、「引き」ながら読み始めたのだが、本書は、私的にはためになった。

 やや抽象度が高いので、ややもすると重要な箇所を読み飛ばしてしまいそうなのが難点だが、どの発言(本書の大半は対談を収録している)も、自分に引きつけて考えさせる引力を持っている気がする。とりあえず、一つだけメモ。

 この「追体験」という発想は、確かに力がありそうだ(以下、引用は苅谷の論。引用箇所は対談の発言ではなく、まとまった主張が記されている)。
追体験のすすめ-自発的に選び直すために
(略)教育の根幹には、教えることを通じて、社会編成の原理原則をはじめ、科学にしても思想にしても歴史にしても芸術にしても、私たちがこれまでつくり上げ、選びとったものを次世代に継承する、という役割がある。そのとき、過去に積み上げられた知識としてそのまま伝達すればよいと考えるのではなく、選び直しという発想を通じて、次世代に追体験させるということを、教育の中心に置くのである
(略)
 たとえば、擬似的に、自分たちがもう一度国家をつくり出す、あるいは選び直してみるという追体験の機会を与えることで、生徒たちは、なぜ自分たちが国家を必要としているのかを理解できるようになるだろう。そこから、個人の自由のを確保するために、国家をどのように制御していけばよいのか、ということも、考えるようになるだろう。
(略)
 たとえば現代の科学的知識がまったくなくなってしまった世界を想像し、科学の代わりにオカルトや似非サイエンスが支配的な世界だったら私たちの生活はどうなっているかを考えてみる。こうやって、今ある科学を選び直すことで、科学を学ぶことの意味を追体験できる。あるいは、ある科学的発見に至る過程を生徒に追体験させても良い。
(略)
 文化を伝えるということは、本来、こうした選び直しの契機を含んだことなのではないか。ただ、それが今の学校ではあまりに自覚されていないだけである。自由が所与のこととしてあった当たり前に思われている時代だからこそ、それを獲得することが、いかに大変なことかを、選び直しを通じて追体験する。自覚して選び直すことが、伝えられるということの本義なのだろう(pp.119-121)(下線部は引用者による)
 確かに!と、腑に落ちて間もないので、とりあえずガッテンしている最中である。

 私も「体験から学ぶ」とか「過程を学ぶ」といったような類のことを好んでいるつもりだし、シミュレーションやロールプレイも好きなのだが、「追体験」というのは、これらのさらに上位にある発想かもしれない。「体験」の意味を捉え直す契機にもなっているかも。

▼同じようなことを、対談の中で西氏が次のように発言しているので、これもメモ。

 一面的な理解かもしれないが、「追体験」のためには、それが「ない」時の状況を想定させるのが分かりやすいのかもしれない。「ない」状況から、その「ない」ものをどう再構成させるか、あるいは逆照射させるという発想ということになるのだろう。
(略)「社会契約説」だったら、たとえば「法律がなかったらどうなるか」というように、自分たちにとって自明なある種の生活の条件を意図的に落としてみることになる。
(引用者改行)
自然状態の設定というのはそういう意味がありますね。そのことによって、法律という所与であった生活条件がどのような働きをしているのか、さらに、それはどうあるべきなのか、ということが浮かび上がってくる。
(引用者改行)
このように、生活のなかで自明になっている条件をいったん取り払うという思考実験によって、そのことの存在理由を照射するという思考の方法がある。これも一種の追体験理解の方法だと思うのですが、ゲームの根拠を問うということとつながっていそうですね。
(pp.198-199)(下線は引用者)
 これって日常的にも重要な考え方だし、ある人は、このような考え方を、日常的にも実践しているのかもしれないが、改めて示されると考えさせられる所、大である。

▼そういえば似たようなことは、同じ哲学者の黒崎政男氏も言ってたかも。
(だいぶ次元は異なるかもしれないが、哲学的に共通な考え方なのか)

雑酒2

▼今日はサムシングスペシャルな日だったらしいのだが、とくにスペシャルな催しを企画する暇もなかったので、いつものように帰宅後、アルコールを注入して終了。

 唯一スペシャルだったのは、いつもは缶酎ハイを飲むところを、ビール(正確には「雑酒2」)を飲んだ点であろう。そんなのが「スペシャル」になるのか疑問だが、竹内まりや風に「毎日がスペシャル」に生きるのが、私の理想である(ウソ)。

▼早い話、明日発売のアサヒの「新生」がなぜか店頭に並んでいたので、早速、試してみたのであった(元来、新しいモノ好きだからな)。もちろん、比較検討のためキリンの「のどごし<生>」も同時購入。もう一本比較しようかと思ったが、私は同時に3本以上飲むと、そのままお休みモードに入ることが多いので、今日は省略。

 購入したばかりの冷蔵庫で、キリキリに冷やして飲んでみたが…。

▼あらまあ、意外といけるじゃない。ビールっぽさから言えば、アサヒの方がそれらしいような気もしないでもないが、総合的にはキリンかな。個人的には、アサヒ、キリン、ニッケイの中から一つ選ぶとしたらニッケイを選びたい(意味不明)。

 お店のおばちゃん曰く(よく分からないが、私はどこへ行っても、おばちゃんと仲良くなりやすいらしい)、「メーカーさんの方がヒートアップしててねぇ」という話。

 ビールの価格の相当な割合が「広告費」だということは分かってはいるが、まあ、今回も熾烈な競争が繰り広げられているのだろうな。

 というわけで、明日から私は、基本的に無糖系チューハイに戻ることにしよう。

▼追伸

 メッセージありがとうございます。マサ様、コメントありがとうございます。
 詳しくはまた改めて書かせていただきますね。

自信の泉源

▼ある人にとっては言うまでもないことかもしれないが、人を「育てる」基本は、「ほめる」ことにあるのだろうな、ということを改めて再確認する。

 どうしても短期的には(あるいは性格的な問題もあるのかもしれない)、「○×ができないと、△◇になる…」といった、プチ脅し的な言い回しを使ってしまいがちなのだが、それだけではその場の緊張を生むことはできても、その先がないらしい。

 「北風と太陽」の寓話は、身にしみて分かっているつもりなんだけど、いざやろうとすると、それが言葉にならなかったり、行動にでないところが難点である。

▼考えてみれば、私自身の大学生活を振り返ってみても、私が所属していた学部時代の先生方は、やたら「ほめる」のが上手だった、と思う。人は、ほめられると現時点での実力はさておき、「その気」になって、さらに背伸びしようとするものである。

 私自身は、あまり背伸びするのは好きではないし、あくまで自分のペースを守ることを重視したいと思っている。だから、自分の身の丈以上に、妙に張り切っている人を見ると、引いてしまう傾向があるのは事実である(私は基本的には、良く言えばクール。悪く言えば、冷めた人間だ)。しかし、褒められたことが自信の泉源になって、ちょっと背伸びしようとしていた時期があった気がしないでもない。

 「根拠のある自信」をいかに根付かせていくかが、とりあえずは当面の課題かな。

▼なんてことを、金井寿宏(2005). リーダーシップ入門. 日本経済新聞社 を読みながら考えてみる。リーダシップっていうのは、実は広義な意味合いがあるのかも。

何度でも原点を振り返る

▼「振り返り」(いわゆるリフレクション。あるいは再吟味)は、その言葉通り、基本的には自分の後ろを向くことを指すことが多い。しかし、それが「今」あるいは「未来」への原動力になるのならば、それは間違いなく「後ろ向き」な行為ではない、と思う。

 かみしめれば、かみしめるほど、味わいがより深くなり、自分自身にとっての栄養となる。それがまさに振り返り=リフレクション=吟味(再吟味)の本意であろう。もちろん、それは一人で行う、個人的な試みではなく、振り返りの過程や結果を、他者と分かち合ってこそ、さらなる深化が得られるはずである。その点で、吟味は咀嚼とは異なる。

 だって、かみしめることに意味があるのではなく、味わうことに意味があるのだから。なんてことを思いながら、去年の今頃を振り返ってみたり。

確かさ

▼プチ出張。新幹線に乗って、特急に乗って、飛行機に乗って、バスに乗って…やっと目的地にたどり着く。時間的にはさほど変わらないし、距離的にもマクロな視点で見れば近くなったのだが、お値段的には若干、高くなったらしい。

▼何はともかく、まったりとしていて、それでいてしつこくない、確かにたゆたう時間を楽しむ。それにしても「確かさ」っていうのは、いったい何からやってくるのだろう。

冷蔵庫入手

▼引っ越し後、約3週間経ってやっと冷蔵庫を入手。本日、電源オンの儀式がしめやかに行われる。って、ただプラグを差しただけであるが。

 感じとしては、通常はとても静かだが、冷却中は意外と音がするような…。まあ、多少、サイズが大きくなったのと、省エネ重視だから、仕方がないのかな。もしかしたらそれ以上に、冷蔵庫の近くで、パソコンの作業をしていることの方が影響が大きいかもしれない(それ以前は、冷蔵庫は別室=キッチンにおいてあったからな)。

▼後は布団が届けば完璧である。って、冷蔵庫や布団なしに、お前はどうやって生活してたんだ?というツッコミを受けそうだが、いわゆるクッション材(プチプチ)をマットにした生活が2週間。その後、薄いマットを購入してとりあえず生活をしていたのだった。

 人間、段ボールがあれば、最低限の生活が出来るのは間違いない(もっとも、しばらくこの生活が続くと、体のあちこちが痛くなってくるのが難点。一度は経験あれ)

▼大学院時代、段ボールや、ちょっとしたマット生活で、鍛えただけのことはある。なーんて自慢にも何にもならないけど、人生における貴重な経験の一つである。

読書メモ(断片):希望格差社会

▼夜中、山田昌弘氏の『希望格差社会』を再読。私は、この手の本とは適度な距離を置きたいと思っているのだが(どうしても読んでいるうちに「だから、どないせいちゅうねん」とツッコミたくなってしまうのである)、その原因の何割かは、文献の引用、いわゆる援用の仕方の仕方にあるような気がしてならない。
 以下のようなたたみかけるような文献の引用も、確かに、言いたいことは分からないでもないが、なんだか「外圧」っぽい印象をどうしても受けてしまうかも。
 イギリスの社会学者でブレア首相のブレーンとして知られるアンソニー・ギデンズは、『暴走する社会』を書き、社会を秩序づけていた確実性が失われ、「暴走(run away)」し始めていると指摘した。
(引用者改行)
ポーランド出身の社会哲学者バウマンは、『リキッド・モダニティ(液状化する近代社会)』の中で、社会の様々な制度が、まるで、液体のようにとらえどころのないものになっていると説き、「人生を使い捨てている」人が増えていると警告している(『使い捨て人生』未訳)。
(引用者改行)
そして、フランスでは、社会学者、ボードリヤールは、『不可能な交換』の中で、社会のあらゆる領域に不確実性が浸透し始めたと論じ、社会学者ブルデューは、亡くなる直前に書かれた『市場独裁主義批判』の中で、ニューエコノミー経済での成功者の対極に、市場から「はじかれた人々」が増大することに危機感を抱く。
(引用者改行)
アメリカでは、都市社会学者マニュエル・カステルは、『ネットワーク社会』(未訳)の中で、IT化に伴うネットワーク社会のマイナス側面に懸念を表明し、家族研究家ステファニー・クーンツは、『家族に何が起きているのか』の中で、大多数のアメリカ家族の生活基盤が損なわれていることを指摘し、感情社会学者ホックシールドは、一九九〇年代に入ってからの労働環境の変化によって現代アメリカ人が「時間に追われる生活」を強いられている状況を描いている(『時間の拘束』(未訳)。pp.18-19
 確かに、本の紹介という意味では勉強になるのは事実ではあるが…。

 悪い事例には事欠かないが、例えば北欧などで生じているような動きについて触れられていないのもバランスが悪いし、国内文献の取り上げ方もバランスが微妙かも。著者の「パラサイトシングル」に比べると、「希望格差社会」が指示していると考えられる対象が曖昧なのも災いしているのかもしれない。

▼と、珍しく批判的なことを書いたが、本書で触れられていることや、取り上げられている内容自体は重要な事柄も多い気もする(だから再読してるわけだ)。

 問題は、この手の主張やデータの伝え方、表現の仕方にある、ということかしら。難しい問題であるが故に、これを話題として取り上げるのは慎重さが必要なのだろう。

朝から晩まで

▼今日は朝6時起床で、朝から晩(19時近く)までバリバリ働く。集中すれば、こんなに仕事出来るのね!と我ながら感心してみたり←このくらい当たり前だろ、と言われそうだが。やりがいがある分、燃え尽きないようにしたいものである。

▼やっと自宅にADSLが開通。光は2ヶ月くらい先になるらしいが、とりあえずつなぎ。

▼行き帰りの移動中、A氏にご紹介いただいていた金井寿宏(2005). リーダーシップ入門. 日本経済新聞社 を読む。新書ながら、大変に参考になる本である。

久々にゆっくり読書

▼何かとばたばたしていた関係で、3月はおそらくこの数年間(正確に言えば、この5年間ほど)で、最も読書数が少なかった月ではないかと思う。もっとも3月中は、読書の楽しみ(愉しみ?)や深みとはまったく異なる、代え難い時を過ごしていたのであるが(昨日も似たようなことを書いてる)、ぼちぼち読書も再開したいところである。

 というわけで読みたかった2冊を手に取る。  いやー、どちらも面白かった(前者はまだしっかり読んでいないのだが)。

▼とりわけ『』の後半部では、吉見俊哉氏らしからぬ語り口で記されていたのが印象的。「当事者」にしか書けないこととがある反面、「当事者」であるがゆえに言葉にしきれない事があるのだろうな、ということを再認識させられた次第である。
(例:自分が所属している組織のことは、自分が一番良く知っているつもりだが、それゆえに=当事者であるがゆえ=自己言及的になるがゆえの困難さがありそう)。

 本書の端的な紹介、表紙の文章が最も分かりやすいだろう。
 高度成長を象徴する大阪万博から数え、二〇〇五年の愛知万博は日本で開催される五度目の万国博覧会である。その間、万博は一貫して、豊かさへの大衆的な欲望と国家の開発主義政策との癒着を可能にする仕掛け-万博幻想-として機能してきた。本書は、こうした「幻想」を広く長く作用させてきた「政治」の場としての万博の内実とその行く末を、国家と地方行政、財界、知識人そして大衆の間に繰り広げられるせめぎ合いに焦点を当てることで浮き彫りにする試みである。
 「表」と「裏」という単純な二項対立は誤解を招くが、表層からは決して見えてこない万博の裏側、とりわけ「政治」的側面が取り上げられているのが本書の特徴である。

▼しかしながら、この手の裏側を知ってしまうと、正直、正面から「万博」なるものを楽しめなくなってしまいそうなのが難点である。

 だってそうでしょう。例えば、ディズニーランドなんかは、表から見えないところ(巧妙に隠されているところ。ゲストが見ないようにしているところ)に、何があるかを知ってしまったら、それを知る前と知った後の感覚は、きっと違うと思われるし。

 私について言えば、私は、小学生の頃に行われた筑波の科学万博に対し、大変ピュアに「楽しかった」という記憶しか残っていないのだが(あの万博があったからこそ、私は科学技術全般に強い興味を持つようになったと思っている)、吉見氏に言わせれば、あの万博は「お子様ランチ」的側面が強かったらしい。

 以下、引用。
 こうしたどちらかというとネガティブな受けとめ方に対し、技術主義的な未来の映像とコンピュータ、ロボットに夢中になることができたのは、むしろ子どもたちであった。まさに子どもたちこそ、つくば科学博が観客として狙いを定めた最大の標的にほかならなかった。(略)

しかも万博会場には、子どもに人気のロボットやコンピュータ、新しい映像テクノロジーの玩具が並べられていた。結果的に、つくば科学博は、大阪万博や沖縄海洋博以上に子どもたちのための冒険ロマンを主軸に据えた博覧会となっていったのである。(引用者改行)

実際、つくば科学博の会場で入場者たちが接する映像や展示の「中身は『子どもたちのための万博』を意識してか、『お子様ランチ』のようなものが多い」(『朝日新聞』一九八五年三月一〇日)との指摘は数多くなされていた。そしてまさに五〇〇万人にも上ったとされるこの子どもたちの来場が、不入りに悩んだ科学万博への動員数をなんとか表向きに補完する役割を果たしたのである。(p.172)(太字は引用者)
 実際、当時の私は「子ども」ではあったが、改めてこのように指摘されると、過去の記憶まで変わってしまいそうなところである。少なくても私にとっては「万博の教育的効果」とはあったような気もするが、どうなんだろうな。

▼確かに、筑波の科学博は、指摘の通り「科学万歳」だったような気もするが(実際、この手の傾向は万博全般に言えることらしい)、同時代史を振り返ってみれば、同年85年の8月には日航機の墜落事故が起きていることも忘れてはならないだろう。

 さらに翌年には、スペースシャトルチャレンジャーが墜落。
 またその後に、チェルノブイリの原発事故の惨事が起きた。

 確かに、テクノロジーのきらびやかな未来が描かれていたような気もするが、その外では科学の限界や課題に直面せざるを得ない状況だったことは間違いない。

 科学博で描かれていた世界が、極めて楽観主義的、技術主義的な世界だったことに当時の「わたし」は気付いていたのか。それは今となっては分からないが、夢が大きかった分、現実の困難さを、痛く感じることができたのかもしれない。

 なんてことを思ってみたりもする。

ぼちぼち日常に戻る

▼3月から今日に至るまで、毎日を生きるのに精一杯で(言い換えれば、一日一日をとても大切にしてきたという意味でもある)、なかなか日記を書く余裕がなかった。

 この間、ちゃんと日記を書いていれば、とてつもなく重要な記録を残せたような気もしないでもないが、記録を残すために生きているわけではないし、今回ばかりは仕方がないところである。通常ならば、日記を書いていなくてもメールに間接・直接的に記録が残っているものなのだが(注)、今回はゆっくりメールも書いていなかったらしい。
(注)某所では「恋人ができると日記を書かなくなる」という説が流布されているが、これはすなわち「メールで日常的なことを記すと、日記に記すことがなくなる」=「日記を更新しなくなる」という極めて単純な説である。しかしながら例外多数。あくまでも仮説=与太話の域を出ない。
 もっとも先に書いた通り、瞬間を楽しんでいた(現在進行形も含む)のは確かで、この一ヶ月間強の日記の更新のお休みは、目の前にある現実を、自分なりの早さで「現実」たるものにするのに不可避な時間だったのかな、とも思う。

▼と書いてはみたが、我ながら勝手な結論である。ちなみに、少なくても私が妙に難解な表現を好んで使う時は、自分でもよく分かっていない心象表現であることが多い。かと言って「青く、高い空が広がっている」なんて書いても、自分らしくはないわな。

▼安易な言葉にするのは避けなければならないが、改めて人と人との「あいだ」にある、つながりだとか、絆のようなものを大切にしたいと思った次第である。
生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ
(谷川俊太郎「生きる」より)
 小学校教科書にも採録されている有名な詩だが、改めて想起させられる。誰も、人は一人では生きていけない。そういう当たり前のことを「日常」として大切にしたい。

実は広島市民

▼たくさんの方からツッコミをいただいてしまいました。これから1ヶ月くらいかけて、これまでお世話になった皆さまには個別にメールorハガキorお手紙等で、ご連絡いたしますので、どうぞ気長に待っていただけるとありがたいです。

 と、秘密にする理由もないので書きますと、この春から私は広島市民になりました。東京に生まれ、宮城県は仙台市周辺で育ち、神奈川県藤沢市の大学に通い、大学院は石川県金沢市(から約1時間)で過ごし、埼玉県所沢市を経由して、広島県広島市民に…と全国、津々浦々転々としております。

 ここだけの話、というわけではありませんが、実は私は、適度な地方都市好みだったりします(少なくても都心の満員電車は苦手っていうか、好きになれない)。「民」にしか出来ないことにもチャレンジして参りたいとも思っています。

 どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

ご報告

▼2月25日以来の久々の更新になってしまった。3月の分はいずれキャッチアップする予定。この間、あまりに多くの出来事に遭遇したが、簡単にまとめると以下の通り。

  • 一 転職した
  • 二 結婚した
  • 三 転居した
  • 四 パパになった
  • 五 車を買った

4月1日なので一つくらい嘘が混じっているかもしれない。いずれも詳細の解説が必要と思われるが、取り急ぎ第一報ということでご了承いただきたい。

なお、本件について十分なご報告を申し上げていない皆さま、お詫び申し上げます。
また改めてご挨拶に伺う予定です。

▼関係各位には重ねてお礼申し上げます。
これも皆さまのお支えのおかげです。重ねてお礼申し上げます。

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