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(略)このように見てくると、げろも便も尿も痰も鼻水も唾も垢も、どれもこれもいつでも「きたない」わけではないことがわかる。つまりそれらは、ある状況に置かれたとたん、きたなくなるのだ。昨日の日記に書いたように、最近、耳の調子が芳しくなく、時分の<身体>に意識が向いてしまっている。ちょょっと身体が不調になっただけで「自分が自分でなくなったような」(誇張して言えば、自分が不快)感じがするのは不思議なものである。
どういう状況か。身体の内部にあったものが身体の穴(開口部)から出てきたとき、もしくは出たり入ったりしているとき、あるいは身体の一部が身体から剥落したとき。たとえば鼻水。出てもすぐに拭いてティッシュとともにごみ箱に棄てれば問題ないが、ずるずると鼻の下を行ったり来たりしていると問題である。便も、すればすぐに水に流し、肛門を拭くように教えられる。その鼻水にしても便にしても、からだのなかにあるときはまったく問題ではない。気にもならない。体内から排出されても、それをすぐに拭い、除去し、見えないところに廃棄すれば、これも問題ない。その中間の状態、つまり出っぱなしになっている状態、出たり入ったりしている状態が問題なのだ。
境界があいまいになるとき、つまり内か外か、それがじぶんのものかもはやじぶんのものでないのかが明確でなくなるとき、ひとはそれに「きたない」と感情的に反応する。じぶんの内部と外部、<わたし>と<わたしでないもの>との境界をあいまいにするもの、境界を不分明にするもの、それが「きたない」のだ。(pp.26-27)(文庫版)
(注) 先日、とある場で、「日本の将来を考えるなら、お年寄りは病院へ行かない方が良い」的な過激なことを言ったら、顰蹙を買ってしまった。もちろん、より正確に言えば、保険でいくら負担されているのか意識した方が良いという意味である。ちなみに今回は、私に7000円近くの税金が投入された。フリーターの一日の給料前後といったところか。聴力検査では異常がないと思っていたが(本人談)、グラフにしてみると明らかに一部の聴力が落ちている。計測&可視化の効果恐るべし。こうやって簡単に数値にできるものに一瞬憧れるが、長年携わっていると飽きるような気がしないでもない。
◆見えにくい不平等引用箇所に使われている「努力」や「所得」は、誤解を招きそうな用法だが、何らかの理由で「家庭環境にハンディ・キャップにある」人の子どもが「強い意欲や努力を持てるような育て方がそもそもされない」雰囲気にあるというのは深刻な課題だろう。
(略)
座談会の中でおもしろい指摘があった。高い教育を受け、よい職業に就き、しかも高い所得を稼いでいる人が、自分の成功は自分が頑張ったからであると誤解している場合が多い、というものである。
(引用者改行)
その人の親は教育・職業ともに上層階級にあり、しかも親の所得も高かったことを忘れて、あたかも自分の成功は、自分の努力が競争に打ち勝ったことでもたらされたと思い込んでいるのである。親子間で不平等が連鎖していることに気がつかないか、見たくない、あるいはさわりたくないとする気持ちがある。
本人の成功は、実は家庭環境が優れていたからこそ、達成された側面があるにもかかわらず、あえてそのようなことに目をつぶって、世の中には機会の不平等は存在しない、と思うような人がけっこう多いのである。こういう人は競争社会の勝者であることに間違いないが、むしろ素直に、「私は家庭環境に恵まれていたからこそ、今の自分の恵まれた生活がある」と認めて、自分の力を誇示することをやめたほうが、まだ人間味があるのではないか。
逆に、親の教育・職業・所得が下位階層になり、自分の不成功を親のステイタスの低さにせいにして、自分の努力を怠る人をどう評価すればよいのだろうか。さらに、こういう人たちとは逆に、家庭環境のハンディ・キャップを自分の強い意欲と努力で乗り越えて、人生を頑張る人もいる。「機会の不平等」をあえて直視して、それから逃げようとせず、それを排除すべく果敢に挑戦する人たちの姿は賞賛されてよい。
とはいえ、実際にはそれら家庭環境にハンディ・キャップにある人たちには、強い意欲と努力を持てるような育て方がそもそもされない雰囲気にある、というのが冷たい現実なのである。子どもに「勉強しよう」とか、「いい職に就きたい」といった意欲を持たせないような世代間の連鎖が冷酷に社会に存在しているのである。これが「機会の不平等」の見たくない、あるいは見えない側面とも言える。(pp.218-219)
下線は引用者による。
- 橘木俊詔 (編)(2004).封印される不平等.東洋経済新報社
(注1)もっとも、私が書いている内容に何の意味があるのか、私にもよく分かっていないのが実情ではあるが。▼ものすごく抽象的に書けば、人生色々。男も色々。女も色々。人生はドラマ…って、内容的には何の意味もない記録になってしまうわな。
む。なぜか幼稚舎を途中で退任されてしまったのは、私的には至極残念だったが、本書には彼なりの学校・教育論が描かれていて、私的には大変興味深かった。


第五に、ワクワクする車作りがあります。品質面を見ると、トヨタはお客をイライラさせない製品をつくらせれば、あらゆる指標で文句なしに世界一ですが、お客をワクワクさせる車作りではまだ今一歩だといわれています。特に、個性的なワクワクを車に要求する欧州市場では、トヨタ車は埋没しがちで、長いこと元気がありませんでした。最近は多少存在感が出てきたようですが、まだまだでしょう。(p.312)
車における私の師匠F氏に言わせれば、トヨタ車はあらゆる面で「80点」だが、逆にある部分が「90点」や「95点」と秀でている車もない…とのことである(「合格点」だったか微妙に言葉が間違っているかもしれないが、お許しあれ)。表現は違うが、同じ結論だ。当然のことですが、「ワクワクするしイライラしない」製品ができれば、どこの市場に行こうが鬼に金棒です。それが、日本の統合型もの造りが目指す、次なる目標と言えるでしょう。そして、「組織の力」と「個人の才能」が噛み合ったとき、初めてそれが可能になるのだと私は考えます。何だか結論としては大変、至極真っ当だが、結局、「組織」と「個人」の関係が、ここでも問題になってくるらしい。
その点で、トヨタを含め日本の自動車メーカーが参考にできるかもしれない会社のひとつが、ゲームソフトの任天堂ではないでしょうか。現在会社を率いる岩田聡社長の話では、この会社では、天才クリエーターとしてゲームソフト業界に君臨してきた宮本茂氏などの個人的才能による「ワクワク作り」と、任天堂開発軍団とも言うべき安定した開発チームによる「イライラ取り」が、非常にうまく融合していたという印象を持ちます。(p.323)▼私のように、自動車業界よりもゲーム業界の方が、幼少時から親しみがある人にとって、この結論は、参考になるようで、いまいち分かりにくいのだが、、「ワクワク作り」と「イライラ取り」という分類軸は、他にも転用できそうな気がする。

F-1ドライバーが必ずあなたに教えるはずのことが二つあります(あくまで比喩ではあるが、自動車教習所とプロのF1ドライバー的なあり方を融合することが果たして可能かのか?が問われているってことでもあるのだろうな。私はレースのことなんかぜんぜん知りませんが、それくらいのことならわかります)。
一つは「運転技術には『これでいい』という限界がない」ということ。今一つは「運転は創造であり、ドライバーは芸術家だ」ということです。
技術には無限の段階があり、完璧な技術というものに人間は達することができない。このことはどんな道でも、プロなら必ず初心者に教えるはずのことです。どんな領域であれ、「この道を甘くみちゃだめだよ」というのがプロが初心者に告げる第一声です。そう言わなかったら、その人はプロではありません(もし素人さんに向かって、「こんなこと誰でもできるよ、簡単簡単」というようなプロがいたら、その人には何か危険な下心があると思った方がいいです)。(略)
道に窮まりなし。だからこそ人は独創的でありうる。
おわかりですね。
教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人とどう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を消去してみせます。
ふたりの先生の違うところはここです。ここだけです。(pp.29-31)
- 内田樹(2005). 先生はえらい. 筑摩書房(ちくまプリマー新書)
私たちが話をしている相手からいちばん聞きたいことばは「もうわかった(から黙っていいよ)」じゃなくて、「まだわからない(からもっと言って)」なんですね。自動車教習所とF1ドライバーの喩えで私が書いたことも、結局は、「理解を望みながら」「理解に達することができない」という状況をいかに作り出すか、にかかっているのだろうな。「わからない」という状況ほど、「わからない」ことはないのだろう。
恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」というのは愛の始まりを告げることばですけれど、「あなたって人が、よーくわかったわ」というのはたいてい別れのときに言うことばです。
ごらんの通り、コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから、「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。
対話へと私たちを駆り立てるのはその欲望です。
理解を望みながら、理解に達することができないという宙づり状態をできるだけ延長すること、それを私たちは望んでいるのです。(p.102)
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