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2005年2月

通院2回目

▼突発性難聴ネタの続き。2回目の病院へ行く。検査の結果、だいぶ良くなったらしい。またしても税金にして7000円近く投入してしまった(注:冷静に考えると、私なんかは、税金の納入額よりも、支出されている額の方が大きいような…)。しかし、聴力が回復したと言っても、意識的にはちょっと違和感があるのは何故だろう。心身症?

読書メモ(断片):ちぐはぐな身体

▼とある場で「潔癖性」の話題になる。

 私は、良くも悪くも衛生的概念があまりないので(注:不潔という意味ではないので念のため。例えば、賞味期限が切れた食べ物でも、あまり気にしないとか、その程度である)、潔癖性のことは正直、良く分からないでいたのだが、その場での、結論からすると「内」と「外」に対する意識が高い人を指すらしい。

 そういえば、最近、文庫化された鷲田清一氏の『ちぐはぐな身体』には、以下のような記述があった。潔癖性か否かに関わらず、確かに、「内部」と「外部」、<わたし>と<わたしでないもの>の境界を脅かすものに対して、人は意識が向かうらしい。
 (略)このように見てくると、げろも便も尿も痰も鼻水も唾も垢も、どれもこれもいつでも「きたない」わけではないことがわかる。つまりそれらは、ある状況に置かれたとたん、きたなくなるのだ。

 どういう状況か。身体の内部にあったものが身体の穴(開口部)から出てきたとき、もしくは出たり入ったりしているとき、あるいは身体の一部が身体から剥落したとき。たとえば鼻水。出てもすぐに拭いてティッシュとともにごみ箱に棄てれば問題ないが、ずるずると鼻の下を行ったり来たりしていると問題である。便も、すればすぐに水に流し、肛門を拭くように教えられる。その鼻水にしても便にしても、からだのなかにあるときはまったく問題ではない。気にもならない。体内から排出されても、それをすぐに拭い、除去し、見えないところに廃棄すれば、これも問題ない。その中間の状態、つまり出っぱなしになっている状態、出たり入ったりしている状態が問題なのだ。

 境界があいまいになるとき、つまり内か外か、それがじぶんのものかもはやじぶんのものでないのかが明確でなくなるとき、ひとはそれに「きたない」と感情的に反応する。じぶんの内部と外部、<わたし>と<わたしでないもの>との境界をあいまいにするもの、境界を不分明にするもの、それが「きたない」のだ。(pp.26-27)(文庫版)
 昨日の日記に書いたように、最近、耳の調子が芳しくなく、時分の<身体>に意識が向いてしまっている。ちょょっと身体が不調になっただけで「自分が自分でなくなったような」(誇張して言えば、自分が不快)感じがするのは不思議なものである。

 言い換えれば、聴覚は「自分のもの」だと思っているが(内側)、ちょっとした弾みで「自分のもの」ではなくなった気がする(外側)、といったとこか。

▼身体的感受性が豊かなうちに(注:治ると、その時のことは忘れてしまうものだからな)、今一度、身体論について見直してみたいところである。

突発性

▼耳鼻科に行く。私は、日本国をこよなく愛している面倒なことが嫌いなため、滅多なことでは病院へ行かないことにしてるのだが(注)、 どうやら突発性難聴という病気らしい。お年を召した先生だったが、とてもユニークかつ懇切丁寧に説明してくれた。
(注) 先日、とある場で、「日本の将来を考えるなら、お年寄りは病院へ行かない方が良い」的な過激なことを言ったら、顰蹙を買ってしまった。もちろん、より正確に言えば、保険でいくら負担されているのか意識した方が良いという意味である。ちなみに今回は、私に7000円近くの税金が投入された。フリーターの一日の給料前後といったところか。
 聴力検査では異常がないと思っていたが(本人談)、グラフにしてみると明らかに一部の聴力が落ちている。計測&可視化の効果恐るべし。こうやって簡単に数値にできるものに一瞬憧れるが、長年携わっていると飽きるような気がしないでもない。

 師曰く、どうやらストレスやら疲労が原因らしい。しかし、「君はストレスというよりも、疲労かねー」という雑談診断。うーむ。こんなところで見破られてどうするっていった感じだが、これで「働き過ぎ」が証明された(論理的飛躍)。良かった良かった。

 とりあえず、よく寝て良く食べて、自分で自分をいたわりたい(死語)。

▼思春期(いわゆる「箸が転んでもおかしい年頃」)には、私も「突発性笑い病」を発症した記憶があるが、あれの原因って何なんだろう。

読書メモ(断片):封印される不平等

▼最近(といっても数年前からだが)、私が考えあぐねている世の中の問題に構造的な「不平等」がある。私自身は、ある程度、世間的には「恵まれた」(注1)家庭環境に育ってしまったため、この問題は「見えにくい」し「扱いにくい」問題である。

 私は、あまり自分自身の「成功」を自分に帰属するのが好きではないため(こういう言い回しをすること自体が、「嫌み」に映る場合もあるかもしれないが、私はうまくいったら「運が良かった」と考え、うまくいかなかったら「自分の責任」と考えるのが好きだ)、様々な要因を考えてしまうのだが、どう考えても「家庭環境」はかなり大きい。

 しかしながら、そうは言っても、うまくいった時は「自分の努力(や能力)」が原因であると考えてしまいがちであるし、逆に、うまくいかない場合は、他者についても「その人の努力(や能力)」が原因であると考えてしまうことも少なくない。

▼だが、このような考え方は「不平等」を見えにくくする要因につながりうるらしい。関連して『封印される不平等』の次の指摘が、興味深かったのでメモしておこう。
◆見えにくい不平等
(略)
 座談会の中でおもしろい指摘があった。高い教育を受け、よい職業に就き、しかも高い所得を稼いでいる人が、自分の成功は自分が頑張ったからであると誤解している場合が多い、というものである。
(引用者改行)
その人の親は教育・職業ともに上層階級にあり、しかも親の所得も高かったことを忘れて、あたかも自分の成功は、自分の努力が競争に打ち勝ったことでもたらされたと思い込んでいるのである。親子間で不平等が連鎖していることに気がつかないか、見たくない、あるいはさわりたくないとする気持ちがある。

 本人の成功は、実は家庭環境が優れていたからこそ、達成された側面があるにもかかわらず、あえてそのようなことに目をつぶって、世の中には機会の不平等は存在しない、と思うような人がけっこう多いのである。こういう人は競争社会の勝者であることに間違いないが、むしろ素直に、「私は家庭環境に恵まれていたからこそ、今の自分の恵まれた生活がある」と認めて、自分の力を誇示することをやめたほうが、まだ人間味があるのではないか

 逆に、親の教育・職業・所得が下位階層になり、自分の不成功を親のステイタスの低さにせいにして、自分の努力を怠る人をどう評価すればよいのだろうか。さらに、こういう人たちとは逆に、家庭環境のハンディ・キャップを自分の強い意欲と努力で乗り越えて、人生を頑張る人もいる。「機会の不平等」をあえて直視して、それから逃げようとせず、それを排除すべく果敢に挑戦する人たちの姿は賞賛されてよい。

 とはいえ、実際にはそれら家庭環境にハンディ・キャップにある人たちには、強い意欲と努力を持てるような育て方がそもそもされない雰囲気にある、というのが冷たい現実なのである。子どもに「勉強しよう」とか、「いい職に就きたい」といった意欲を持たせないような世代間の連鎖が冷酷に社会に存在しているのである。これが「機会の不平等」の見たくない、あるいは見えない側面とも言える。(pp.218-219)
 下線は引用者による。
 引用箇所に使われている「努力」や「所得」は、誤解を招きそうな用法だが、何らかの理由で「家庭環境にハンディ・キャップにある」人の子どもが「強い意欲や努力を持てるような育て方がそもそもされない」雰囲気にあるというのは深刻な課題だろう。

 「努力する」という姿勢が果たして、天性の能力、後天的(=家庭環境や文化的)に形津くられる能力なのかは、もしかしたら議論が分かれる論点なのかもしれないが、「機会の不平等」(注2)により、そもそも「努力する」という姿勢そのものが構造的に失われかねないような社会の到来は、何としてでも避けたいところである。

 同時に、このような不平等を「見たくない」として避けたり、「見えない」ものとして注意を払わないような態度も取りたくないところである。
(見えにくいものを見る、というのは、なかなか難しいことではあるが)。

▼なお、私的には「努力する」や「頑張る」は誤解を招きかねない表現だと思っている。「不用意にあきらめない」といったくらいの表現が妥当かもしれない。「努力」というのは、それに価値を置きすぎても、置かなすぎても良い結果をもたらさない概念ではないかとも私は思っている。これもまた「バランス」が重要な概念なのかな。

▼注は、続きに記しているので、よろしければご参照くださいませ。

続きを読む "読書メモ(断片):封印される不平等" »

おはようからおやすみまでお仕事

▼以下、単なる備忘録。朝はひたすらメールの返信(まだ書き終えてない)。昼~夕方にかけては、赤ペンを持ってお仕事×1→夕方に速達で送付。速く仕事してりゃ速達料金いらないのにな…といつもながらに「後悔役に立たず」(by河合隼雄)。

 雨だったが珍しく自転車を稼働させ、時間外窓口まで一走り。定形外料金140円+270円=410円だったが、移動するコストを考えてみれば宅配便でも良かったな。

 夕方は、別件のお仕事×1。今さらではあるが、私が知らなかった事実(具体的な数や背景を知らずに仕事してしまっていたらしい)を教えていただき勉強になった。

▼耳の調子が悪い。そういえば、高校3年生の時にも同じような症状に罹ってしまったような気がする。放置プレイにするわけにもいかないので、明日は病院だな。

悪あがき

▼ほぼ一日、パソコンの前に向かって「悪あがき」を試みる。しかしながら、ある瞬間、緊張の糸が途絶えて、とりあえず缶酎ハイで乾杯。アルコールにも様々な効用があるが、この場合は、諦念を加速させる契機として働いている可能性が高い。一言で言えば、あきらめましょう。ぱっぱらぱっぱー(by華原朋美)といった所か。

▼というわけで、夕刻からは別件のお仕事(楽しい方)。久々に、InDesignを使う。

監督業日誌

▼いろいろありすぎて、ここに書くようなことは何もない。以前も似たようなことを書いたことがあるが、日記に記す内容は「平凡以上非凡未満」であることが多い。

 あまりに日常的(平凡)な内容は、私にとっても、本日記を読んでくださる方にも、書くことに意味をもたらさないだろう(注1)。かといって、あまりに非日常的(非凡)な出来事は、書きたくても、書けないのである。しがらみ云々の問題もあるが、時間的な「成熟」や「沈殿」が事を記すのに必要という意の方が強いと思われる。
(注1)もっとも、私が書いている内容に何の意味があるのか、私にもよく分かっていないのが実情ではあるが。
▼ものすごく抽象的に書けば、人生色々。男も色々。女も色々。人生はドラマ…って、内容的には何の意味もない記録になってしまうわな。

 試験というのは、「集中力」を試す契機でもある、ということも再確認。

 そういえば、私は某所の採用試験で「恋人の有無」を聞かれた記憶が蘇る。もちろん、私は机をひっくり返したくなったのは言うまでもないが沈着冷静に回答したつもりだが、私が、泣き出したらそれはそれで「聞き手」の記憶にも残っただろうな。

▼夕刻は、とある出版社の方とお会いする。考えがまとまっていないことを語らせていただいている(聴いていただいている)最中、ちょっとしたアイディアが浮かぶ。「聞く」ということの意味について、今一度(いいえ何度でも)考えてみたいところだ。

ホテルオークラ

▼訳あってホテルオークラへ。お上りさん故に、ホテルオークラがどこにあるのかいまいちよく分からず、「徒歩5分」のはずが「徒歩20分」かかってしまう。ホテルオークラくらいになると、タクシーで乗り付けないと、いまいちサマにならないようだ。

 で、軽く口説きを入れる商談。契約の都合、守秘義務が生じているらしい。ひ・み・つ事は日記に書かないことにしているが、オッファーがあったので記録のみ記す。

▼夜はちょうど銀座で予定があったので、そのまま直行。学生時代、お世話になった皆様とお目にかかる。予告もなしに失礼いたしました。

松井秀喜とJAL便

▼ヤンキースの松井秀喜が、ニューヨークに出発…というニュースを目撃。この手のニュースを見る度に、私はいつも思うのだが、ニュースで登場する飛行機(ちなみに松井のスポンサーはJAL)は、果たして本当に松井秀喜が乗った機体なのだろうか。

 マイナーな会社はともかくとして、成田空港における日本航空の便数はかなりの数になる故に、特定が難しい気がする。私も何度か見送りに行ったことがあるが、必ずしも定時きっかりに離陸するわけではないので、正直言って分からない。

 松井だったらファーストクラスに乗っていることは確実だろうが、一生懸命手を振っても、相手から見える訳ではないしなぁ…(窓側でかつ、Aじゃないとダメか)。

 ニュースに出てくるのはいわゆる一つの「イメージ」映像なんだろうな…ということで、勝手に納得してみるテスト。もっとも喩えNHKでも、ANAではなくJAL便のイメージ映像を流すあたりは、癒着というか正確な報道を心掛けている結果なのかしら。

バレンタインデイ

▼日記の更新をまたしてもごぶさたしてしまった。これから過去を遡って、いくつか記録を書いていきたい。で、何の脈略もないが今日はバレンタインデー。

 例年、カバンに若干の余裕もないくらい(by こん平師匠)、頂戴するチョコレートを、「いかにお断りするかが」課題だったが、今年は…(以下、略)。

 ちなみに、私は男。カバンには若干の余裕がございます。甘いもの好きです。

▼先日、映画『アルマゲドン』を久々に観てしまったが(相変わらずハリウッド映画+宇宙モノは、しょーもない映画が多い)、バレンタインデーとインディペンデンス・デイの類似性と相違点について、思わず考察しそうになった今日この頃。

 くだらなさから言えば、インディペンデンス・デイに勝るモノはない気がする。

読書メモ(ミニ):学校評価―情報共有のデザインとツール

▼金子郁容(2005). 学校評価―情報共有のデザインとツール. 筑摩書房を読む。なぜか幼稚舎を途中で退任されてしまったのは、私的には至極残念だったが、本書には彼なりの学校・教育論が描かれていて、私的には大変興味深かった。

 関連書には、『コミュニティ・スクール構想』や、『21世紀のこどもたち-初等・中等教育のモデルを求めて』などがあるが、本書の方が内容は濃い。

 詳細はまた改めて書きたいところである。副題にもある「デザインとツール」については思うところ大だし。

読書メモ(ミニ):子どもの面接法

▼移動中、『子どもの面接法―司法手続きにおける子どものケア・ガイド』を読む。普段、ここでは紹介しないことにしている「専門書」に位置づけられそうな本だが、インタビューに興味がある方全般に役立ちそうな内容が含まれるのでメモ。

 失礼な言い方になってしまうことを承知で書くが、何らかのインタビューにおいて相手に「無知」の姿勢で取り組もうとするならば、相手が「子ども」であっても「大人」であっても、根底的な態度は変わらないはず。などと考えてみたり、みなかったり。

▼読み物としては(全く文脈は違うが)、杉山亮氏の『子どものことを子どもにきく』が、「子どもへのインタビュー」としては大変面白い内容だと思われる。考えてみれば、本書と出会ってからずいぶん時が経ってしまったな…(ちなみに本書の記録は1989年から始まる)。

入試問題

▼時間に余裕があったので、入試問題をさらりとのぞいていたら、どこかで見覚えのある文章が。出典を見るまでもなく、池田晶子氏の文章だった。

 私が国語の入試問題の出題者だったら(無意味な仮定)、池田晶子氏は選考から欠かせないと思っていたが、してやられた感じである。←偉そうな(注:他大学の問題も閲覧したいのですが、赤本とかそういうのが出るまで機会がないのです)。

 『新・考えるヒント』は言うまでもなく、小林秀雄の『考えるヒント』をモチーフにした本。本書をきっかけに小林秀雄の世界に入るのも悪くない(そういえば、一昔前は(今もかもしれないが)、小林秀雄氏は、現代国語の頻出作家だった)。

 物事を根源から考える、というのは氏のような人のことを指すのだろう。凡人には憧憬はできても、氏の考え方は継承しにくいが、その点は池田晶子が、うまく引き継いでくれているような気がする(ただし、一見「難解」な文書である)。

▼ちなみに、入試問題に関しては、残念ながら私は内部事情に疎いので、何をどうひっくり返しても、何も出てこないのであしからず。

一枚の切手にも二分のカロリー(9日更新)

▼先日(と言ってもかなり前の話だが)、大量の郵便物を送る業務があった。いっそのことクロネコメールで送ろうかと思ったが、営業所が遠いので、却下。

 郵便物で面倒なのが切手である(注:少数の場合何の記念切手を貼ろうかという「楽しみ」もなくはないが)。一枚一枚貼るのは、何かと面倒である。さすがに大量になると「なめて貼ろう」とは思わないが(もともと私は水を付けて張る派だが)、e氏によれば、実は、切手にも「カロリー」があるらしい。

 何カロリーあるのかな、と思ってググってみたら2カロリーとのこと。2キロカロリーと2カロリーの違いについて解説してくださっているサイトがあったが、食品のカロリーはCalと表記し、自然科学ではcalと呼ぶらしい。

 食品カロリーは1000単位になるため、1Cal=1000cal ということになる。
 一般的には「カロリー」といえば、食品のカロリー(Cal)を指すらしい。

▼ちなみに、2カロリーというのは、食品で言うところのカロリーです。切手を100枚なめれば、200カロリー。ビール500ミリ一本分弱のカロリーといったところかかな。いずれにせよダイエットペプシ一本より、切手は多くのカロリーを含むらしい。

 もっとも切手と言っても、普通の切手と、大型の記念切手(たとえば切手趣味週間のような)ではサイズが違うので、カロリーも違うような気がする。

▼考えてみれば(糊の成分を考えれば)、糊にもカロリーがあるのは当たり前といえば当たり前だが、そこまで深く考えないのが凡人人間のサガなのであろう。

▼おまけ。パラサイトシングル論で有名(?)な、山田昌弘氏の『希望格差社会』を読む。苅谷剛彦氏の「インセンティブディバイド」(意欲格差)論の二番煎じかな、と思ったが、うーん。実証的データに基づいているわけでもないし、根拠が薄いかな。
 危機感をどこかで持っておくのは必要かとは思うが、慎重さも必要かと思う。
 後味がいまいち良くないので、今一度、苅谷氏の本を読み直すことにしよう。

コメント(2月9日追記)(コメントの仕方を変えました)

 Sayokoさま。コメントありがとうございます。

 『希望格差社会』は、確かに私も、面白かったとは思うのですが、「絶望感」の方が目立ってしまい、誰に向けて書かれているのかが?見えにくかったのが惜しまれる点ではあります(それだけ「構造」的な問題が大きい、ということかもしれませんが)。

 「絶望」なのか「不安」なのか(例:『仕事のなかの曖昧な不安』)、私には、よく分からないのですが、少なくても、「格差」の問題を過小評価しない(問題を「ない」ことにしない))とか、不安が絶望に転じないように、何ができるのか考えたいところですねー。

 パラサイトシングルも、だから何(So what?)感はぬぐえないのですが、「負ける」とか「勝つ」とか単純な二項対立を超える必要もあるのかな、という気はします。これも構造的な問題なのかな…。

読書メモ(断片):ワクワクとイライラ

▼私は、性格として「手堅い」のはあまり好きではないらしい。喩えるなら(あくまでたとえ話である)、車を買うなら「トヨタ」は選ばないとか、そんな感じ。

 トヨタ研究(あるいは日本の自動車産業研究)の第一人者として知られる藤田氏に言わせれば、お客を「イライラ」させないが、同時に「ワクワク」させない車がトヨタの特徴であり、今後の課題ということになるらしい。

 逆にいえば、私は「ワクワク」さをどこかで求めている、ということになるのかな。
▼以前読んだ本だが、藤田氏はトヨタの今後の課題の一つに次を挙げている。
 第五に、ワクワクする車作りがあります。品質面を見ると、トヨタはお客をイライラさせない製品をつくらせれば、あらゆる指標で文句なしに世界一ですが、お客をワクワクさせる車作りではまだ今一歩だといわれています。特に、個性的なワクワクを車に要求する欧州市場では、トヨタ車は埋没しがちで、長いこと元気がありませんでした。最近は多少存在感が出てきたようですが、まだまだでしょう。(p.312)
 車における私の師匠F氏に言わせれば、トヨタ車はあらゆる面で「80点」だが、逆にある部分が「90点」や「95点」と秀でている車もない…とのことである(「合格点」だったか微妙に言葉が間違っているかもしれないが、お許しあれ)。表現は違うが、同じ結論だ。

▼いったい、「イライラ」(取り)と、「ワクワク」(づくり)の違いは何に起因するのか気懸かりなところだが、藤田氏に言わせれば、「イライラ取りは組織能力」、「ワクワクは個人的天才の能力に依存」するらしい(p.313)。

 この両者を両立できれば、「鬼に金棒」である。藤田氏曰く、
 当然のことですが、「ワクワクするしイライラしない」製品ができれば、どこの市場に行こうが鬼に金棒です。それが、日本の統合型もの造りが目指す、次なる目標と言えるでしょう。そして、「組織の力」と「個人の才能」が噛み合ったとき、初めてそれが可能になるのだと私は考えます。
 何だか結論としては大変、至極真っ当だが、結局、「組織」と「個人」の関係が、ここでも問題になってくるらしい。

 では、一体どうすればいいんだ!?とツッコミたくなるが、ここで藤田氏が「参考にできるかもしれない」と紹介している企業がある。任天堂である。
 その点で、トヨタを含め日本の自動車メーカーが参考にできるかもしれない会社のひとつが、ゲームソフトの任天堂ではないでしょうか。現在会社を率いる岩田聡社長の話では、この会社では、天才クリエーターとしてゲームソフト業界に君臨してきた宮本茂氏などの個人的才能による「ワクワク作り」と、任天堂開発軍団とも言うべき安定した開発チームによる「イライラ取り」が、非常にうまく融合していたという印象を持ちます。(p.323)
▼私のように、自動車業界よりもゲーム業界の方が、幼少時から親しみがある人にとって、この結論は、参考になるようで、いまいち分かりにくいのだが、、「ワクワク作り」と「イライラ取り」という分類軸は、他にも転用できそうな気がする。

 恋愛論的に言えば、イライラさせないという能力は、適度な意思決定の速さ(あまり速すぎても、遅すぎてもいけない)であり、話を「聞く」際の傾聴(あるいはボケ)とツッコミのタイミングと言い換えることができるだろう。もしかしたらこれは組織能力社会・文化的に影響される面も少なくないかな…という気はする

 一方、ワクワク作りは…、やっぱり個人的才能なんだろうか。「イライラ」させないように日々心掛けることはできるが、「ワクワク」っていうのは難しいよなぁ。

 以上、「イライラ(取り」と「ワクワク(作り)」の枠組みに、「ワクワク」してみるテスト。

ブルーマンデー

▼一週間分くらいの新聞記事を適当にクリッピングしていたら、厚生労働省の自殺死亡者統計に関連する記事に目が止まった。

 曰く、「月曜日に自殺する人が多い」とのこと。「ブルーマンデー」という言葉は聞いたことがあったが、自殺にも反映するのね…(その他、4月、5月もピークらしい)。しかし我思うに、「月曜日」という概念があるだけでうらやましい(注)。

 (注)私なんか毎日が日曜日月曜日だから、曜日の実感がないかも。なんてな。

参照 自殺死亡統計の概況 人口動態統計特殊報告
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/tokusyu/suicide04/index.html

所沢航空発祥記念館

▼先日、所沢航空発祥記念館へ行ってきた。

 所沢は何を隠そう、「航空発祥の地」らしい。宮崎駿監督の『となりのトトロ』の名前の由来は「トコロザワ」→「トトロ(ザワ)」らしいし、航空機の管制センターもあるし、おまけに西武ドームまであって、所沢は何かと話題のある街である(大げさ)。

 さて、所沢航空発祥記念館。平日だったためか、人の姿はまばら。人があまり入っていない割に学芸員らしき人の数はかなり多く、果たして採算合うのかな…と余計な心配をしてしまった(注:彼女らは学芸員なんだろうか、というくらいのお嬢さんが多かった。偏見じゃないが、男性職員を見かけなかったのは気のせいか)。

 実機の展示や、飛行機の原理の展示があったり(このあたりは科学館ちっくなところもある)、航空機の歴史について触れられているコーナーがあったり、フライトシミュレーターもあったりで、子どもから大人まで「楽しめる」のは確かかもしれない。

 私は、某社のフライトシミュレータ好きな人間と自負していたつもりだが(注:ジェットでGO!ではない)、ここのフライトシミュレータは意外と難しかった。

▼以下、なんちゃってレビュー。いい博物館だとは思うが、子どもからしてみると一回行ったくらいでは、「飛行機はなぜ飛べるのか」といった科学的な原理は、素通りしてしまいそうな気がする(しかし、もともと興味を持っていないと二度は行かない?)。

 映像シアターもあったようだが、時間がなかったのと別料金だったので省略(定期的に番組が変わるようなので、リピートする価値はあるのかもしれない)。

 理想的には、より体験型で、かつ、何らかの「おみやげ」を付けるのが、この手の博物館に求められている気がする。
 「おみやげ」というのは、博物館と家庭を結ぶ仕組みのことね。たとえば、紙飛行機キットのようなものが「おみやげ」に含まれていれば、家でも飛行機の原理について試せたり、学習機会の拡張になるわけで。

 もしかしたら学芸員は子どもには何かしら意味のある存在だったのかもしれないが、後一つ工夫を加えることでもっとよくなる博物館かもしれない。

▼おまけその1
 博物館内にあるレストランは、なかなか良かった。私はパフェを食べたが、意外といけた。天気が良ければ、目の前の公園で遊ぶのも楽しそう。
 ミュージアムショップには行く時間がなかったので、こちらは詳細は不明。

▼おまけその2
 私が知る限り、「三菱みなとみらい技術館」が都内近辺だと類似施設か。所沢では飛行機のフライトシミュレーター、みなとみらいではヘリコプターが運転できる。装置としては、みなとみらいの方が一段上かもしれない。あっちは動くしな。

 私が昨年度まで住んでいた石川県は小松空港の近くには、「石川県航空プラザ」がある。ここにも古いが本格的なシミュレータがある(ただし別料金)。

読書メモ(断片):先生はえらい

▼書店で『先生はえらい』を見かけたので寝ながら読む。筑摩のジュニア向けの新書。他にも本シリーズの本を何冊か買ってみたが、編集者の腕がよいせいか、、どれも読みやすく、かつ本質的な内容に触れられている気がする。

 『先生はえらい』は相変わらずの内田節が発揮された本(内容は、他の本とも重複している)。先生はえらいといっても「教師論」ではなくて、あくまで「師弟論」。師はいかにあるべきか?ではなく、弟子がいかなる存在なのか?が論の中心である。

 論の核心は本書を手にとって読んでいただくのが良いと思うのだが、自動車教習所で教えてくれることと、F1ドライバーが教えてくれることの対比的喩えが興味深かった。曰く、両者の違いは「一方からはあなたは『定量的な技術』を学び、一方からは「技術は定量的なものではない」ということを学んだ」ことにあるらしい。
 F-1ドライバーが必ずあなたに教えるはずのことが二つあります(私はレースのことなんかぜんぜん知りませんが、それくらいのことならわかります)。

 一つは「運転技術には『これでいい』という限界がない」ということ。今一つは「運転は創造であり、ドライバーは芸術家だ」ということです。

 技術には無限の段階があり、完璧な技術というものに人間は達することができない。このことはどんな道でも、プロなら必ず初心者に教えるはずのことです。どんな領域であれ、「この道を甘くみちゃだめだよ」というのがプロが初心者に告げる第一声です。そう言わなかったら、その人はプロではありません(もし素人さんに向かって、「こんなこと誰でもできるよ、簡単簡単」というようなプロがいたら、その人には何か危険な下心があると思った方がいいです)。(略)

 道に窮まりなし。だからこそ人は独創的でありうる。
 おわかりですね。
 教習所の先生は「君は他の人と同程度に達した」ということをもって評価します。プロのドライバーは「君は他の人とどう違うか」ということをもってしか評価しません。その評価を実施するために、一方の先生は「これでおしまい」という到達点を具体的に指示し、一方の先生は「おしまいということはない」として到達点を消去してみせます。

 ふたりの先生の違うところはここです。ここだけです。(pp.29-31)
 あくまで比喩ではあるが、自動車教習所とプロのF1ドライバー的なあり方を融合することが果たして可能かのか?が問われているってことでもあるのだろうな。

 自動車教習所のような存在は「なくてはならない」が、同時に、それだけでは不十分な領域はある(自動車は運転出来ればそれで済むかもしれないが、世の中を渡っていくスキルはそうはいかないだろう)。そこをどうするか?が問題だわな。

▼以下、相変わらずではあるが本書に記されていた内田先生のコミュニケーション論。以前、これと同じようなことを人に語っていた記憶があるのだが、だんだん内田語があたかも、自分の言葉化してきているらしい。
 私たちが話をしている相手からいちばん聞きたいことばは「もうわかった(から黙っていいよ)」じゃなくて、「まだわからない(からもっと言って)」なんですね。

 恋人に向かって「キミのことをもっと理解したい」というのは愛の始まりを告げることばですけれど、「あなたって人が、よーくわかったわ」というのはたいてい別れのときに言うことばです。

 ごらんの通り、コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから、「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。

 対話へと私たちを駆り立てるのはその欲望です。

 理解を望みながら、理解に達することができないという宙づり状態をできるだけ延長すること、それを私たちは望んでいるのです。(p.102)
 自動車教習所とF1ドライバーの喩えで私が書いたことも、結局は、「理解を望みながら」「理解に達することができない」という状況をいかに作り出すか、にかかっているのだろうな。「わからない」という状況ほど、「わからない」ことはないのだろう。

▼本書を「先生はえらい」も「恋人はえらい」も同じようなものじゃないか?と思いながら読み進めていた人は少なくあるまい(え、そんなことない?)。

読書メモ(ミニ):喪失と獲得

▼出張。帰りの電車の中で、最近、何かと話題になっていた『喪失と獲得―進化心理学から見た心と体』を読む。私がひそかに大好きな進化心理学系の本。この手の「仮説」に満ちあふれた本は読んでいるだけで、大変に刺激的である。
 喪失と獲得がセットになっているという考え方は、かなり広範囲で使えそう。

▼進化心理学系で、私のかねてからのお気に入りは『恋人選びの心』である。  喪失とか獲得とか、恋人選び(究極的には、子孫繁栄か繁殖と呼ぶべきか)が、皆同じ土壌で考えられるのが、進化心理学の大変に興味深い点であろう。

もう2月

▼久々に「今月の本」を書きながら思ったのだが、最近、「1日」を振り返る時間はあっても、「1ヶ月」を振り返る余裕がないような気がする。私はかねてから数年後のビジョンはあっても、1ヶ月~3ヶ月先の見通しが立っていないことがあったが、奇妙な反転現象というか、時間感覚にやや難があるのかもしれない。

 さてこれから1ヶ月、何かとあわただしそうではあるが、それ自体を楽しみたいところである。毎年思うが、2月は1月が短いのが痛いなぁ…。

▼そういえば1月の「今月の本」に書き忘れたが
 これも先月読み直した本の中では、とても参考になった。心理学的な時間論本。

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