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春色のメロディー

▼岡村孝子の新曲「春色のメロディ」を購入する。もう何度ともなくネタにしている気もしないでもないが、彼女の曲を聴き始めてから、おそらく今年で15年が過ぎようとしている。相変わらずといえば相変わらずである。

 この15年、変わったといえば変わったし、変わっていないと言えば変わっていない。と、書きながら、自分自身について書いているのか、彼女について書いているのか、よく分からなくなってきた…という、まさにその点が彼女の誘引力なのだろう。

 パッヘルベルのカノンがベースになっているから、というのがおそらく最大の理由だとは思うのだが(岡村孝子の曲の多くは、パッヘルベルのカノンが基本である)、生活リズムの一部に化してしまったというのも大きな理由かも知れない。

▼以前、お世話になった先輩が、好きになるにもエネルギーが必要だが、嫌いになるのはもっとエネルギーが必要だというようなことを言っていた記憶がある(正確には、距離を置く理由がなければ、人の気持ちは変わらないものだ、だったかな)。

 平凡な日常を平凡に過ごすということが、平凡に感じられない日々を過ごしたい。
 人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである。だから、死は本来、それ自体として恐ろしいものではない、そうでなかったら、ソクラテスもまた死を恐れたはずである。死は恐ろしいものだという先入的な考えがむしろ恐ろしいのである。それゆえ、われわれは、何者かによって妨げられ、不安にされ、あるいは悩まされたなら、決して他人を咎めてはならない。むしろ責むべきものは、われわれ自身、ことにそれに関するわれわれの考えである。自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは、初学者の仕方であり、自分もを他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。ラッセル『幸福論』「エピクロテス」p.49
 自分や他人とか、責めるとか責めないとか、そういう概念自体が問題なんだよな。

▼ストア派とパッヘルベルのカノン(バロック時代)について考えても面白いかも。

▼それにしても今さら「OLの教祖」はあるまい。バブル時代じゃあるまいし。

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