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2005年1月

今月の本

▼今月の本。今月は、新書はどれも「これ」と呼べるものがなかったような気がする。出会い方が悪かったのか、興味関心が沸かなかったのか、どちらかかな。

 今月もっとも読み応えがあったのは、『あなたへの社会構成主義』だった。「意味や価値は社会的な関係の中で作られる」というのが社会構成(構築)主義と呼ばれる立場の基本的な考え方だと思うのだが、本書は優れた入門書である。  最近、「構成主義」的な立場に立った論は少なくない(構成主義と書くと難しそうに聞こえるかもしれないが、「関係性」「つながり」を大切にした立場、と考えると分かりやすくなるかな?)。『学力の社会学』も、構成主義的な立場からの論だった。
 両者ともに、教育関連の人にとっては何かと意味のある本かもしれない。

▼その他、今月はテストや学力関係の本を集中的に読んでいたのだが、中で参考になったのは、『.「考える力」はこうしてつける』と『テストの心理学』の二冊かな。 ▼その他、今回は研究関連の専門書が続くが、以下の2冊も何かと参考になった。  学力論争本は多いが、最近の議論の「まとめ」になっているかもしれない。

 上記図書については詳しい読書メモを一度も書いていないが(今月、久々に振り返ってみて思ったが、「読書メモ」は、入門書以上専門書未満の本が対象らしい)。

 入門と専門の間に何があるのか考えたいところである。

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MajiでTaoれる5秒前

▼完全に風邪を引いてしまったようでダウン寸前。

 思わず「MajiでKoiする5秒前」(by広末)を口ずさんでしまいそうになったが、喉があまりに痛いので、しばらく順延(そもそも、そんな曲覚えていないわな)。

 ♪ずっと前からー 調子が悪かったらやばいが、考えてみれば、♪ちょっと前からー喉が痛かったり、何かしらの症候が出ていたような気がしないでもない。

▼あまりにひどく、数分後にはこのまま逝ってしまうのでないかと思われたため、部屋の掃除を一瞬始めそうになる(注:死後に、汚い部屋を人に見られるのはしゃくでしょ)。しかし、そんな元気があるなら仕事をした方が良さそうなので、とりあえず仕事。

▼5秒前に対抗するためには、村上龍の『5分後の世界』しかあるまい、なーんてどうでもいいことを考えながら、早めに寝ることにする。

 検索後、マジ恋(MK5)の作詞作曲が竹内まりやだったことを知り一瞬愕然。

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対岸の彼女

▼現実逃避に、角田光代氏の『対岸の彼女』を読む。ついに直木賞といった感じだが、だんだん文章が上手くなっている気がしないでもない(偉そうな言い方だけど)。

 わたしは確か、江國香織の『ぼくの小鳥ちゃん』の解説を角田光代氏が書いていたのを見て、彼女ってエクニさんの解説を書けるような人なんだーと感心しつつ、当時の何作かを手に取った記憶があるが(またまた偉そうな言い方)、受賞はエクニさんの後で良かった…といったところか。

 よくよく考えれば彼女は『キッドナップ・ツアー』でいくつか賞を取っているんだから、今回の直木賞は安定株過ぎる嫌いもあるかもしれない。

 ま、私にとっては江國香織の独自のメランコリーの方が好みだな。

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夢の分析

今年のモットーに「古くて新しい」問題に取り組むを掲げたせいか、最近、竹取物語的な夢を見ることが多くなったような気がしないでもない。

 しかし、パターンは相変わらず同じで、エレベータ(階段)を上がったり、下ったりという相変わらずの型である(月まで届く階段というのは初めて見た気がするが、なぜかそこから降りる時には、神社の階段を下りていた気がしないでもない)。

 最近、川嵜克哲氏の新刊『夢の分析―生成する〈私〉の根源』を読んでいたせいかもしれないが、ユング的に解釈すると、一皮むけようとしているのかな。

▼ちなみに『夢の分析』は、本格的な夢分析の本。言うまでもないが「AはBの象徴である」的な単純な本ではない。一人のケースが取りあげられており重みがある。

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春色のメロディー

▼岡村孝子の新曲「春色のメロディ」を購入する。もう何度ともなくネタにしている気もしないでもないが、彼女の曲を聴き始めてから、おそらく今年で15年が過ぎようとしている。相変わらずといえば相変わらずである。

 この15年、変わったといえば変わったし、変わっていないと言えば変わっていない。と、書きながら、自分自身について書いているのか、彼女について書いているのか、よく分からなくなってきた…という、まさにその点が彼女の誘引力なのだろう。

 パッヘルベルのカノンがベースになっているから、というのがおそらく最大の理由だとは思うのだが(岡村孝子の曲の多くは、パッヘルベルのカノンが基本である)、生活リズムの一部に化してしまったというのも大きな理由かも知れない。

▼以前、お世話になった先輩が、好きになるにもエネルギーが必要だが、嫌いになるのはもっとエネルギーが必要だというようなことを言っていた記憶がある(正確には、距離を置く理由がなければ、人の気持ちは変わらないものだ、だったかな)。

 平凡な日常を平凡に過ごすということが、平凡に感じられない日々を過ごしたい。
 人を不安にするものは、事柄そのものではなく、むしろそれに関する人の考えである。だから、死は本来、それ自体として恐ろしいものではない、そうでなかったら、ソクラテスもまた死を恐れたはずである。死は恐ろしいものだという先入的な考えがむしろ恐ろしいのである。それゆえ、われわれは、何者かによって妨げられ、不安にされ、あるいは悩まされたなら、決して他人を咎めてはならない。むしろ責むべきものは、われわれ自身、ことにそれに関するわれわれの考えである。自分の不幸のために、他人を責めるのは、無教養者の仕方であり、自分を責めるのは、初学者の仕方であり、自分もを他人をも責めないのが、教養者の、完全に教育された者の、仕方である。ラッセル『幸福論』「エピクロテス」p.49
 自分や他人とか、責めるとか責めないとか、そういう概念自体が問題なんだよな。

▼ストア派とパッヘルベルのカノン(バロック時代)について考えても面白いかも。

▼それにしても今さら「OLの教祖」はあるまい。バブル時代じゃあるまいし。

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読書メモ(断片):僕の叔父さん網野善彦

▼谷川俊太郎の「生きる」という詩は、「かくされた悪を注意深くこばむこと」という言葉で結ばれている。私は、この一節がお気に入りで、大学時代も「悪」とは何か、ということについて、繰り返し考えていたような気がする。

 私は、自分自身が置かれた立場を絶対だとは思いたくないし、たとえば自分がたくさんの他者に支えられていると同時に、制約されている(たとえば私は税金のおかげで生活できている面もあるが、制約も少なくない)ということは忘れたくない。少なくても、自分自身にどんな権力が働いているか、そこには敏感でありたい。

 すべての「学」は究極的にはそこに通じるのかな、とも思ったりする。
 歴史学とは、過去を研究することで、現代人である自分を拘束している見えない権力の働きから自由になるための確実な道を開いていくことであると、網野さんは信じていた。
(引用者改行)
話をしている最中に、こちらが少しでも今の学問の世界に行きわたっているような常識に依存した発言をしたりすると、「歴史学は意識を解放するめの方法でなきゃだめなんだよ。よく知りもしない相手に自分の常識を押しつけるのは、ぜったいによくない。ぼくは今日の常識が明日の非常識に変わってしまう光景を、何度も目撃してきたからね。今日の常識に依存して歴史を解読しようという君の態度は、ぜんぜんいただけない」という厳しい言葉がしょっちゅう飛び出していた。
(引用者改行)
「ぼくは別に歴史学をやってるわけじゃないよ」などと反論しようものなら、「いや、どんな学問でもそれは同じだ」と、ますます頑強に攻撃してくる。そしてこちらが辟易した顔をしていると、少し反省したのか「でも、とりわけ歴史学はそうじゃないといけないんだ」とひとこと、これが網野さんの思想だった。(pp.70-71)(太字は引用者)
▼しかしながら、他者に支えられているという事実も、制約されているという事実も「棚上げ」して、自分の立場を絶対的に捉えている人が少なくない。

 たとえば、「学生」でいる間に、どれだけの税金が投入されているか大学生は知っておいても良いし(かく言う私も大学時代にその事実を知ったのだが)、国家公務員やそれに準ずる法人が対費用に対してどれだけの「成果」をあげているかについて、目を向けておいた方が良い。競争原理についても、権力の網の中では、「フェアな競争」が行われないという点についても、確認しておいた方が良いだろう。

 私自身の反省も含めて、「歴史」(とりわけ負の側面)をしっかり学んでおきたいところである。「かくされた悪を注意深くこばむ」ことも「生きる」ことの一部であろう。

▼『僕の叔父さん網野善彦』は純粋に読み物として面白い。個人的には、裏話的話題が興味深かった。網野歴史学の入門書としても最適かも。

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三角関係

▼某所でコーヒーを飲みながら原稿を書いている時の出来事である。何度かネタにしているが、私は喫茶での滞在時間が比較的に長いせいかカップル諸君の「告白」や「別れ」はたまた「出来ちゃった」のシーンを目撃することが少なくない。

 人に言わせると、目撃率は驚異的らしいが、今日は、「別れ」の場面であった。どうやらゆるやかな三角関係にピリオドを打つ、という趣旨らしい。

▼こういう時の男の対応というのは、なかなか難しいものがあるが(注:今回は男が振られている)、思わず、五代君(by『めぞん一刻』)が危うく振られそうになったシーンを重ね合わせてしまった。以前は、この手のシチュエーションに巡りあうと、必要以上に神経過敏になっていたが、私も、話に耐性が出来てしまったらしい。

 高橋留美子(文庫版 1997)によれば、三角関係が終焉を迎えそうな時、残された男が取れる手段は「すがる」「身を引く」「平静を装う」の3つに分類される。

 たとえば以下のような感じである(マンガの引用なので、セリフの代わりに矢印を利用している。男性側の発言→女性側のリアクションとして理解いただきたい)
パターン1 すがる 
結婚してください→何を今さら

パターン2 身を引く 
潔く引っ越します→よかった…。結婚式に呼ぶのも悪いし。

パターン3 平静を装う
しあわせになってください→ありがとうございます(p.228)

高橋留美子(文庫版 1997). めぞん一刻(7). 小学館
 パターン2とパターン3は類似している気もするが、パターン3は明るく振るまい、パターン2は無念の表情を示している点は大きく異なる(詳しくはマンガを見てね)。

▼と前置きが長くなったが、今回の目撃例は「パターン1」で、見ているのが気の毒なくらいしつこかった。こういうシチュエーションに至った時には、「引く」か「待つ」ことが肝要だと思うのだが、なかなかそうは出来ないものらしい。

 まあな、いろいろあるわな。

 女性が「ごめんね」じゃなくて、「ありがとう」と言っていれば、少しは状況が変わったと思うのだが、これもまた日本語表現の難しいところである。

 席を立った女性を追いかけて、彼はいったいどこへ向かったのだろう。
 ちょっぴり気懸かりである。

▼時間が経てば『対象喪失』が役に立つ時があるかもしれない(伝わらないけど)。

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読書メモ(断片):現代プレゼンテーション正攻法

▼物事、「原点を大切に」しようと思って、歴史を遡っていくと、おおよそのネタはギリシア時代にたどり着いてしまうことが多いらしい(中国史を学ぶと、中国4000千年前に遡る可能性もありそうだが、幸いか不幸か、無知なのでギリシアでお腹一杯)。

 国家論も科学論も、人生論も、仕事論も、はたまた恋愛論も、プラトンやらアルキメデスやら、アリストテレスなどが重要な論点を述べていたりする。

 精神科医の大平健氏(『やさしさの精神病理』などが有名』)などは、「ニコマコス流」(byアリストテレス)を応用して、ビジネス学や、パソコン術、はたまた恋愛コミュニケーションについて論じているが、それほど応用範囲が広いらしい。言い換えれば、哲学を学ぶということは、哲学についての知識をアタマの中に蓄えておくことではなく、その知見や視座を実践することにあるとも言えるのかもしれない。 ▼私流に言えば、「ネタ化」(by齋藤孝風)と言い換えられるだろう。

 最近、私は「ネタ」を探して求めてプレゼンテーション関連の本を、ちらほら集めたり、読み返していたのだが、いわゆるプレゼンテーションスキルについても、アリストテレスが次のようなことを言ってるのだそうだ(知る人ぞ知る話か)。
 エトス(ethos)、パトス(pathos)、ロゴス(logs)はアリストテレスにより説得の三大手法とされている。説得が功を奏するためには聴衆にその3つを感じさせる必要がある。(略)

エトス エトスは話し手の人格や資質である。エトスとは話し手の信頼度でもあり、人々はそれに直接的あるいは間接的に注意を払う。(略)

パトス パトスとは聴衆の感情的な状態である。(略)パトスは、聞き手を情緒的に揺さぶり、トピックやプレゼンテーションそれ自体に感情的に肩入れさせる能力とも言える。

ロゴス ロゴスは、権威をふくめて、証拠に直接基づいている論理的な、アピールである。構成および証拠は両方ろもロゴスに使用することができる。(p..10-12から一部抜粋)
 いわゆるロジカル○×や、クリティカル△□や、論理的云々について述べた本は「ロゴス」を中心に据えているし、EQなんかは「エトス」や「パトス」を重視しているということになるのだろう(私的には、「エロス」があっても良いと思うが、エトスとエロスの違いについて調べ始めたら、結構、時間がかかりそうなので省略)。

 端的にまとめれば(この本、「ポイント」がコンパクトにまとまっていて良い)、
○ポイント○ プレゼンテーションをするとき、エトス(話し手の人柄や信頼性)、パトス(聞き手の感情)、ロゴス(内容の論理性)があることを肝に銘じておくこと。これらは、3000年というプレゼンテーションの長い歴史の中で培われてきた手法であり、慎重に使えばプレゼンテーションはさらに強力なものとなる!(p.12)
 以上に要約される。まあ、これまた「実践」するのが容易ではなのだけども。 

▼ちなみに本書は、「正攻法」と名乗っているだけあって、プレゼンテーションのあり方を、正統的に「プレゼンテーション」している良い本。評価項目だけでも参考になる。

 本書同様、聴衆を意識せよ、というメッセージを噛み砕いて説明している本の代表格は、山田ズーニー『あなたの話はなぜ「通じない」のか』あたりかな。

 藤原 和博氏の『自分「プレゼン」術』も関係すると言えば関係するか。

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松平健のサンバ術(ネタ案)

やることがないのでやることがあまりに多いので入浴中、『松平健の「サンバ術」』の構想を練っていた。齋藤孝氏がやらないなら仕方があるまい(やるわけないって)。

 そもそもこのネタはセンター試験の「倫理」の問題を見ながら思いついたものなので、まずはセンター試験的な「産婆術」(byソクラテス)の意味について確認しておく(試験問題は代ゼミ朝日新聞のWebページで閲覧ができる)。

問2 下線部a(注:「問答」)に関して、ソクラテスは自分の問答を産婆術(助産術)と呼んだ。それを説明する記述として最も適当なものを、次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。

(1) 産婆は妊婦の出産までの過程を熟知しており、妊婦に適切な出産法を教えることができる。対話相手は無知であるが、問答によってソクラテスから真理を教授されることにより、真偽を判断することができる。

(2) 産婆は高齢のため出産はできないが、妊婦の状態を見極めて、その赤子を取り上げることができる。ソクラテスは無知であるが、問答によって真偽を吟味しながら、対話相手自らの考えを引き出すことができる。

(3) 産婆は高齢のため身ごもることはできず、出産を助けることだけができる。ソクラテスは無知であるが、問答によって対話相手の考えを引き出す手助けを学ぶことを通じて、無知から解放されるようになる。

(4) 産婆の助けがないと妊婦の出産は困難であり、出産は両者の協同により成功する。ソクラテスも対話相手も無知であるが、問答によってお互いの不足を補いながら探求することにより、真理に到達できる。
(センター試験2005年 公民(選択科目「倫理」) p.44より引用)

 言うまでもなく正解は(2)である(解答確認しちゃったけどね。ちなみに私的には、「真理」に到達できるとは思わないが、4のような立場の方がしっくり来る)。

▼ここからヒントを得よう。産婆とサンバの最大の相違点は、年齢が関係しないという点である。とりわけ松平健的サンバ術は世代を超えた試みである。高齢のため踊れないとか、ノリが悪いなんてことはあり得ないだろう。

 そもそも松平健が(でさえ)踊っている、という点に価値があるような気がするし(芸能ニュースに疎いが、たぶんそうなんだろう)。

 それゆえ、サンバにおいて重要になってくるのは「無恥」である。他人の目を気にしてたんじゃ、踊り切ることは不可能だろう。凡人にはなかなか真似ができないが、「無恥の知」を克服することで、眠っていた身体的リズムをを引き出すことが可能になるのである。

 って、こんなこと書いてお前は恥ずかしくないのか?というツッコミをいただきそうだが、「無恥の知」はわきまえているので心配ない(たぶん)。

 今後、ソクラテスの「産婆術」と、松平健の「サンバ術」を、いかに融合するか、研究を進めたいところである。Shall we samba?

▼追伸 岡村孝子の新曲を予約。「春色のメロディ」ですって。シングルだけではamazonで1500円に達しなかったので、脈略もなく『倫理用語集』を買ってみた。山川の用語集ってonline or CD-ROMにならないのかな…。

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すぬっぴん

▼夢の中に、すぬっぴん(おざわ流スヌーピー。手塚治虫ならば「ヌーピー」か)が出てきて、それがあまりにリアルだったので、かなりびつくりしてしまった。

 そもそも「リアルなスヌーピー」が何たるかよく分からないが(「ビーグル犬」というモデルは確かにあるが)、それが「すぬっぴん」と変形されている夢の構造も謎だ。これはもう、「TIGER スヌーピー やきたて サンドイッチトースター」を買え、という思し召しかもしれないな(前から欲しかったんだけど、これ以上、キッチンに物が置けない…)

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読書メモ(断片):お料理療法

▼先日、何かの検索のついでに「お料理療法」という文字を見つけて気になったので、読んでみた(最近、行為としての「お料理」についていろいろ調べているらしい)。

 心理療法系の本を読む限りでは、あらゆる行為は心理療法の<契機>あるいは<媒介>のようなものとして機能するらしい。考えて見れば、箱庭はそもそも「世界技法」が起源だし(シンボリックな名前だ)、「手紙」でも「日記」でも、電子メールであろうと、何かしら「自己」「表現」に関わる行為は、使い方によって治療的意味を持つ。

 もちろん、Aという行為をしたらBという事象が必ず生じるといった、単純な因果関係で結ぶことはできない点は留意が必要ではある(例:ある種の音楽の聴き方はリラクゼーションにつながるかもしれないが、場合によっては単なる雑音に過ぎないわけで)。

▼こういうことを差し引いて考えなければならないが、何かの<ヒント>にはなりそうだ。以下に出てくるKさんは、小学3年生らしい。通常、この年齢だと「いじめられっ子」を想定しがちだが、「いじめっ子」としてのクライエントである。

 以下の事象が生じたのは、カウンセリングも既に後半(正確に書けば、結果として後半)にさしかかっている。それまでの積み重ねももちろん無視できない。
  Kさんはお料理をしている時、無心であった。失敗も楽しみ、蕎麦粉の再利用を考え、タレの味も工夫して、わたくしに料理の手順を指示し、食器にこだわり、普段の本例には見られない知恵の発露があった。そうすることによってみんなに好かれようとか、何かを見たそうとかする動きは微塵もなかった。そこには、料理を自分が作った喜びによる自己確認があり、つぎにそれを食べさせようとする他者への働きかけがあり、その結果、認められた嬉しさを味わっていた。
(引用者改行)
「先生に何かを頼む」「みんなに食べさせる」「いじめる」のように即物的なかかわりの仕方で、関係の中に積極的に介入していく。すなわちKさんは、抽象概念ではない即物的なところで光るのが「資質」であり、そこで己を発揮する。これがKさんの自己実現なのである。
(引用者改行)
傷ついた子どもたちがよみがえるアイテムに、火と水と土がある。料理には火と水があり、本例の場合には土の代わりに、こねるものとして蕎麦粉があった。その前段階に紙粘土があった。五感がよみがえると人は生き返ることを、真仁田(1997)は、キャンプでよみがえっていく子どもたちを例に語っている。(p.102。一部改行位置変更)
 「資質」や「自己実現」を、断定的に語って良いものかどうかは分からないが(断定的に表現してみせているだけかもしれないが)、料理という行為の持つ意味が、本文のいくつかで含意されている気がする。要するに、他者との関係性を見直す契機とか媒体ということじゃないかと思うが、そこまで単純な話じゃないかな。

 もう一つ面白かったのは、「火」「水」「土」という3つの要素について言及されている点。万物は、火でできているのか、水でできているのか、土でできているのか…といった古来からの議論も、何かしら意味がある事なのかも知れない。

 確か、「水」「空気」「土」「火」の4つの元素から万物は成り立っていると述べていたのはエンペドクレスだったと記憶があるが(「万物は水」と述べたのはタレス)、著者は、意図的に「空気」を外しているのかもしれないな、と深読みをしてみたり。

▼本書は、かなり「癖」がある書き方。万人にお勧めできる本ではない。

 一見、「あちら側」の世界の人と思わせることにも何かしら意味があるのかもしれない、と思ってみたり(と勝手な深読み。でも悪い意味ではない)。

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スーバー・ビジョン

▼とある縁があってスーパビジョン的なものを受ける機会をいただいた。スーパービジョンは、組織論的な文脈で言い換えれば、メンタリングに近い概念か(正確には違うかな?言うまでもくハイビジョンでも、ビジョナリーカンパニーの「ビジョン」とも違う)。
 メンタリングは以前の日記にも書いたが、「年長の経験や知識、地位とパワーがある人が、それらを持たない若年の人びとのキャリア形成を促進するために、個人的に援助する」こととされる。
 私は、直接は心理学的な「転移」や「逆転移」が問題になるような職に就いているわけではないが(表向きは誰が見てもエンジニアだしな)、こういう機会を通して、他者を通して自分自身の在り方を見直すのは欠かせない気がする。

▼この手の話題は、自分のネタとは言えども、具体的なことを書くと差し障りがあるので、抽象的なメモになってしまうのが難点。こういう時、うまい「お話」を書けると、とても説得力があるのになぁ。あるいは事例を積み重ねるしかないのかな。

 専門領域外ではあるが、『スーパービジョンの技法―カウンセラーの専門性を高めるために』と、『スーパーヴィジョンを考える』を借りて読んでみることにする。

▼行き帰りの移動時間の中で、『松平健の「サンバ術」』の構想を練る。

 ハナミズキからプラタナスまで、エンジニアリングからココロのケアまで、「踊って歌って書いて論ずる」教養人不器用貧乏を目指す今日この頃。

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最近買った新書

▼新書を適当にブラウズ&購入。以前読んだ『安全学』が何かと印象深かったので、村上陽一郎氏の『安全と安心の科学』を購入(集英社新書)。

 「安心」というと、社会心理学的な「信頼」と「安心」の違いについて考察している『安心社会から信頼社会へ』を思い返すが、私自身は、この手の分野は心理学的な話題より、実際的な論の方を好むのかもしれない。

 両者で定義は大きく異なるが、「安全」とか「安心」とか「信頼」という日常語について見直す必要もあるのかもしれない。

▼以前読んだ本つながりでは、福沢一吉氏の『論理表現のレッスン』は、素晴らしい。最近、安直なロジカルシンキング、クリティカルシンキング本が目について仕方がなかったが(失礼)、「論理」とは何か、論理的な「表現」とは何かについて、きちんと説明している数少ない本だと言える。

 やや扱う例題に偏りがあるのが気懸かりではあるが、それを差し引いても、前作の『議論のレッスン』と併せて教科書としても使えそうな内容である。例年好例(?)の、クリティカルシンキング本の紹介文も、そろそろ更新しなくてはいけない頃かも。

▼クレジット決済するのに一冊では申し訳ないな…と思って買ったのが(注:手持ちにお金がなかったからなのだが、同時に小心者でもある)、古郡 廷治氏の『失敗を恐れない人生術』(ちくま新書)。いわゆる名言集なのだが、巷の類書とは異なり引用元がきちんと参照されているので、これは使えるかも!

 もっとも私的には、ロラン=バルトの『恋愛のディスクール』や、パスカルの『パンセ』に勝る本はなかなかないのですが(比較する方が間違ってる?)。パンセの
 人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使のマネをしようとすると獣になってしまう。
 なんて一節は、もはや暗記語句で、引用元も忘れてしまった(調べておこう)。

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試験にでる恋愛

▼この2日間は、センター試験がらみの業務があって休日出勤。しかも昨日(初日)は、サーバ不調のため深夜に職場に向かうハメに…。

 このあたりの与太話はまた改めて書くとして(書いていいのけ?)、センター試験「公民」の倫理の試験問題に興味深い問題が載っていたのでメモ。

 公民の選択科目である「現代社会」や「倫理」「政治・経済」は、一般教養度(?)を測る上でも、なかなか興味深い科目の一つだと私は思っているのだが、とりわけ「倫理」は妙な問題が多いという点で、一読の価値がある(マイナー科目は新聞に掲載されない場合が多いが、代ゼミだとか朝日新聞のWebページで閲覧ができる)。

▼文部科学省的、というか、「倫理」という科目として、あるいはセンター試験的に「恋愛」を語らせると、次のような問題に形を変えて現れるらしい。
 「恋愛は人生の秘鑰(* 秘密を解く鍵、の意)なり」。明治時代の詩人、北村透谷の言葉である。憧れ、喜び、悲しみ、痛み、あるいは献身や嫉妬など、恋愛は様々な陰影を人の生に与える。そうした男女の関わりについて、人々はどのように考えてきただろうか
 「そうした男女の関わりについて、人々はどのように考えてきただろうか」という問い方はニュートラルだが、本問、全体の調子がやや後ろ向きである。

 たとえば、上の文章には次のような問題文が続いている。
 男女の関わりは、生に大きな喜びを与えるとともに、時として深い苦悩をもたらさずにはおかない。人はそこで、最も親密でありたいと願う他者と出逢い、さらにはその関わりを通じて、様々な形で二人を囲む人々や社会とも向き合うことが求められる。
(引用者改行)
私たちもまた、(e)人とともに生きる自らのの姿を、身近な男女の関わりの中に深く見つめていく必要があると言えるだろう。
センター試験2005年「倫理」pp.54-55より。太字は引用者。
 いかにも「教科書」的な文章ではあるが(正直言ってつまらないわな)、「時として深い苦悩をもたらさずにはおかない」などという表記をするあたり、なかなか出題者の恨み辛み想いがこめられているような気がしないでもない。ちなみに「生」は「性」の誤植ではない…なんてことは、お下品なので思っても書いてはいけない)。

▼個人的には、下線eに介して和辻哲郎が次のようなことを言っていたというのは勉強になった(和辻が言いそうなことではあるが)。これまた、「不信」だとか「裏切り」が出てくるあたり…、出題者の心情を察するばかり…か。
問7 下線部eに関連して、人間を「間柄的存在」と捉えた思想家に和辻哲郎がいる。彼の考えを説明した記述として最も適当なものを、次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。

正解選択肢(4)  対なる男女は、それぞれが独立した個人でありながら、また一つの共同存在でもある。その共同体は、不信裏切りという個の背反の可能性を孕みながら、個がそうした己を否定して自他の合一を目指すところに成立する。(同 p.58。同注)
▼さらに、問6は森鴎外の「諦念」について問うていたりもして。
問6 下線部dに関して、森鴎外が自らの立場とした「諦念」について説明した記述として最も適当なものを、次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。

正解選択肢(1) 自我と社会の矛盾に遭遇したとき、あくまで自己を貫くのではなく、自らの社会的な立場を冷静に引き受けながらも、なおそこに自己を埋没させまいとする立場。(同 p.57。同注)
 何というか、ホープに溢れる話題ではないが、日々是諦念で今日も終了。

▼話は変わるが、書店で見かけたので『試験にでる心理学』を揃えて買ってみた。「公務員試験対策・記述問題のトレーニング」のための本らしいのだが心理学っていうのは、ここまでメジャーな「科目」になっていたのね…。と一瞬驚愕。
 どこかのamazonのレビューにも似たようなことが書いてあったが、4冊揃えるお金があるならば+αで、『ヒルガードの心理学』を買った方が後々お得かな。
(もちろん「試験対策」と考えると、上記4冊は役に立つのだろうが)

▼ちなみに私は「しけたん」(でるたん)は使ったことはない。Z会派である。

▼後日談、引用箇所は実は難問だったらしい。森鴎外の「諦念」ってメジャーな概念じゃじゃなかったのね(教科書に載っている=主流とは限らないのだけれど)。
 思想分野では,主に標準的事項が出題されている反面,ソクラテスの「産婆術」,和辻哲郎の思想などについて教科書的な説明を超えた内容や教養が問われており,高得点のためには従来どおり学習の広がりや深化が求められた。特に森鴎外の「諦念」という盲点的事項は難問であっただろう。(代々木ゼミナール2005年大学入試センター試験速報より)
 松平健の「サンバ術」という本を、齋藤孝氏あたりが出してくれると面白いのに(謎)。

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センター試験

▼なぜかセンター試験のお手伝いをすることになって都内某所へ出張。

 私は、試験の雰囲気が苦手なせいか、一週間くらい前から、受験生並に緊張していたような気がしないでもない。

 前日、「遅刻しませんように」と、念仏を唱えながら睡眠したこともあって、当日は予定通り起きて、寒空の中、いざ仕事に。

 初っぱなから電車は乗り過ごすわ、会場に向かう道を間違えるわで大あわてしそうになったが、ここは年の功もあってか、余裕で遅刻して入場(注:遅刻といっても20秒くらいである。念のため)。にしても、自分が所属する組織の場所を間違ってしまったのは我ながら恥ずかしい。

▼お仕事の内容は、ここに書くまでもないのだが(要するに試験監督である)、一つ受験生に申し訳ないことをしてしまった点がある。なぜか私は、会場の黒板に「試験場コード」と「受験番号」(の範囲)と、試験科目と試験時間を書く役を任命されてしまったのが、私、字がうまくいないのである。

 断る理由もなかったのでとりあえずは書いてしまったのだが(写真参照。一部、モザイクを入れている)、正直言って、何度見ても美的センスに欠いている。受験生諸君は、なんちゅー字じゃ、と思ってくださったに違いない。

 外国語以外の試験時間は、他の人が書いてくださったのだが、何せ外国語が最も受験生が多いし、「試験場コード」と「受験番号」の箇所は、ずっとそのままだったため、丸2日間、私の難のある字が掲げられてしまったことになる。

 今さらどうしようもないが、受験生諸君の気休め(例:「妙な文字を書く奴もいるんだな」「オレ(私)の方が、よっぽど上手い」)になってくれたことを祈るばかりである。

▼そういえば私の直筆を日記上で公開するのは初めてからもしれない。やはり日ペンの美子ちゃんのペン習字にトライするしかないか…な。

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読書メモ:メンターとプロトジィ

▼世の中、カウンセラー志望は多くても、クライエントを自ら積極的に志望する人は少ない(そりゃそうか)。同じく、ビジネスやキャリアディベロップメントの文脈では、メンターという役割が注目されているが、指導を受ける立場であるプロトジィは、そもそもの概念自体、あまり知られていないような気がする。

 私は、この分野、いまいちよく分かっていないのだが、良きカウンセラーになるためには、ロールプレイングであってもクライエント的な立場になってみる必要はあると思うし、メンターを目指すなら「プロトジィ」としてのこれまでの自分自身をよく吟味する必要があるのではないかと思ってみたりもする。

 両者があくまで関係概念ならば、クライエントはいかにしてクライエントとして振る舞っていくのか、あるいは、プロトジィはいかにしてプロトジィとして形成されていくのか、そのあたりについて考えてみる必要があるような気がする。

 って、自分でも何を言ってるかよく分からないが、クライエントやプロトジィ像を持たずに、ただ抽象的にカウンセラーやメンターを目指すのは危険そうではある。

▼最近読んだ『質的心理学 創造的に活用するコツ』に寄る限りでは、メンターとプロトジィの関係においては、熟達者か否か、経験の有無や、あるいは結果として年長か若年かという関係が想定されている模様である。
 メンターとは、恩師、よき指導者という意味であるが、産業・組織心理学や企業の人事・労務管理の分野では、職業人のキャリア発達に大きな影響を与える存在を指している。その場合、上司や先輩、同僚などがメンターとなることが多い。メンターの指導を受ける立場はプロトジィと呼ばれる。両者は形式的に指名されて配置される場合もあるが、個人的にメンター=プロトジィ関係が結ばれることもある。一定期間、固定的で継続的な関係をもつのが特徴である。
 より熟達した者から初心者へ、職務における技能や専門性、情報や知識の蓄積を伝達・提供するメンターの支援は、メンタリングと言われる。また、レビンソンがメンターを「よき相談相手」と称しているように、個人的かつ情緒的な支援関係もメンタリングの重要な側面である。つまり、メンターとは「年長の経験や知識、地位とパワーがある人が、それらを持たない若年の人びとのキャリア形成を促進するために、個人的に援助する」ことと言える(p.206)(注:脚注の代わりにリンクを張ってみた)
 やっぱりカウンセリングとメンタリングは意味合いが違うんだろうな。

 結局、私の関心はメンタリングというよりは、カウンセリングなのだろう(と書きながら、以前、同じようなことを日記に記していたことを思い出す)。私自身の認識が、進歩していないのは…、プロトジィとしての認識不足なのかもしれない。

▼メモ:『ライフサイクルの心理学』は、上下に分かれている模様。
 『キャリア発達におけるメンターの役割―看護師のキャリア発達を中心に』は、なかなか興味深そうなので、とりあえず購入してみる。

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ミニにフラッシュ(×タコ)

▼Macネタ。例年だったら、生中継があったのだが、今年はなぜか中止に。仕方がないので、いくつかのMacコミュニティのお世話になりながら、半生中継&チャットで会場からの情報を仕入れる。まったくもってボランティアの人には頭が下がる(と同時に、我ながら物好きだなぁと思う今日この頃)。

 噂のiHomeは、フタを空ければMac mini。シリコンのiPodは噂通りの製品だった。シリコンのiPodは、iPod miniユーザとしてはいまいち心が動かされないのだが、Mac miniはかなり気になるところ。これだったら、プレイヤーとしても使えるよなぁ。電源や熱対策が気になるが、簡易サーバとして使っても良いかもしれない。というわけで、この2ヶ月間ばっちり働いて、目指すはMac mini+Power Mac G5!

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こいびと といえば

▼某銀行の取引番号を忘れてしまって、仕方なく再設定を行うことに。

 この銀行は、私が最も信用しているネット銀行の一つなのだが、その分、パスワードの数も多く、何か取引をするためには通常のパスワード、5桁と4桁の暗証番号、キーワード×3が必要だったり(銀行によっては2つしかないのに)。

 再発行の最終プロセスまでは到達したのは良いが、キーワード認証で「こいびと といえば」という質問が出てきて思わずフリーズ。もちろん自分で登録したものなのだが、いったい「こいびと」って誰だ!?状態である。

 以下、「こいびと」が何かを把握するまでの5日間の記録です。

初日:推測しにくいからこそパスワードとして意味があるのだが、当人も把握できていないとなると、直観でいくしかない。とりあえず当時の私の思考回路を想起するために、NHK教育的BGM「アルゴリズム体操♪」を復唱するが思い出せず。

 少なくても実在しない人物であることは確実なので、当時の時代情勢(をたどって、「ななこ」「のりか」や、「たかこ」など入れてみたが、いずれもハズレであった。念のため断っておくが、順に松嶋菜々子、藤原紀香、岡村孝子である。実在はするが、私にとっては実在していない人物である(深い意味を詮索しないように)。

 3回間違い、一定時間作業できなくなって、とりあえず翌日持ち越し。

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読書メモ:刑務所の中のごはん

▼最近、「食」関連の本を読んでいる(正確には集めている?)のだが、『死刑囚 最後の晩餐』と『刑務所の中のごはん』は、意外に読み応えがあった。
  • タイ トレッドウェル・ミッシェル バーノン (著)、宇佐 和通 (訳)(2003).
    死刑囚 最後の晩餐. 筑摩書房
 この手の本は、良くも悪くも「のぞき見」趣味的な読み方をしてしまいそうになるが、どちらも「食」について考える上で、なかなか示唆深いエピソードが含まれており興味深い。個人的に、何かのヒントにしたいところである(何を狙っているは謎)。

▼私はあいにく刑務所にはご縁がないが、小学生か中学生の頃に見たテレビ番組で、刑務所内の「食」を特集していたシーンが偉く記憶に残っている。

 当時の記憶が確かならば(15年は経っているのでアテにならないが)、服役していても大晦日には、「年越しそば」(カップ麺)を食べられるはずである。しかもテレビ番組では、受刑者がカップ麺を前に泣いていたシーンが流していて(注:よくありがちな「作り」ではあるが)、当時なりに偉く心を動かされた気がする。

 それ以来、しばらくは某社のカップ麺を見る度に、刑務所のシーンを想起してしまっていた…という話はさておき、上記両書を含めて考えると、「食」においては、ある種の「制約」がおかれることで、見えてくるものも少なくないのかもしれない。
(同じ次元で書くと怒られるかもしれないが、『夜と霧』に登場する食事のシーンも、どうしても記憶から離れないものである。具が少ないスープをかき混ぜる度に、「あの」シーンを思い返してしまう。ドイツ風豆入りのスープなど作ったなら、なおさらである)。

▼もっとも、「お金がないから○×でも食べよう」という時の「お金がない」は、「制約」とは言えない気もする(切実さが足りないからな)。「食」の問題に、どういう切り口で切り込んでいくか、しばし考えてみたいところである。

▼時々引用しているので、既にバレているかもしれないが、ここ数日、『夜と霧』を読み直していた。記憶が確かならば、これで9度目か。

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iHome

▼そろそろ新製品が恋しい季節である。Apple の iHome の以下の情報は、かなり真実味がありそうだけど、真相はいかに!?!?
  • http://www.aixgaming.com/gallery/ihome_pics
 結局、500ドルMacっていうのは、コレのことなのかしら。

▼知る人ぞ知る、Pippin @(ピピン アットマーク)が懐かしいな。知らない人は、こちらのページを参照。バンダイがアップルと共同開発したMac互換のマルチメディアプレイヤー。なんとインターネットにもモデムで接続できた。

 当時に、対抗機種に富士通のFM-TOWNS マーティという製品もあるのだが(昔は、日本には独自企画のパソコンがあったのである。宮沢りえがCMに出ていたので覚えている人も…少ないか)、残骸を持っているなど口が裂けても言えない。

 まして、私が中学時代、F社のプログラミングコンテストに入賞していたとか、高校時代も応募していたなど、誰も知らないことになっている。

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次の30年へ

▼良いか悪いか知らぬが、たぶん、私は理想が高い人間である(何せ、小さい頃の夢は「世界征服」だからな。しかしながら、「征服」という行為が、あるいは「世界」というものが、一体何を意味するのかはよく分かっていないのが難点である)。

 目先の問題も大切だとは思うが、私としては、しばらくは「遠い未来の世代」に対して何をできるかを考えたい、と思ってみたりする(一応、「未来からの留学生」として育ってきた自負もあるしな。いつも思うが、これは実に深淵な言葉である)。
 ほとんどすべての学校改革論や教育論は、長期的にみてわれわれが直面している、最も深刻で重大なこの問題から目を背けている。それは想像力を欠如させているとみえないところにいる二種類の「異質な他者」~開発途上国の人々と遠い未来の世代~を、日本の教育学の中にどう組み込むかという問題でもある。心情的な連帯、などという感傷主義はやめよう。むしろ、教育システムが持つ、財や機会を配分する機能が重要である。開発途上国の人々を含めた人々との財やチャンスの再配分をどうするかという問題や、未来世代との再配分の問題に対して、教育学が何をできるのかを考えてみる必要がある。
(引用者改行)
長期的な教育のあるべき方向を考える際には、彼らとの間で整合性を持った社会を作り出すことに向けて、教育が貢献できるのか、という問いである。彼らの存在を無視して議論を組み立てるかぎり、どんな教育論も、豊かな先進国の、短期的な欲求やニーズの充足をめざす議論に終始してしまうことになる。自己中心的で快楽追求的な若者を批判する論理は、学校をめぐるあまたの議論にそのままあてはまってしまう。「自分たちの、今しか考えていない」、と(pp.81-82)(太字は引用者)。
 「教育学」に何ができるかというよりは、「教育」に何ができるかという問いの方が、より普遍的だと思うが、私にとっての「古くて新しい」問題というのは、結局、ここに至るのだろう。あるいは、「教育」に何ができないのか、といったところか。
 『教育 思考のフロンティア』でも繰り返し描かれているが、世界における「多様性」というものの意味を今一度、考えていきたいところである。そういえば、「征服」のもう一つの用法に、「難病を征服する」があった。「征服」すべきは難題ってことか。

 何はともあれ、理想は現実の困難さ故に、存在しうる「何か」であり、それは自分自身の「無力さ」と隣り合わせではないか、と思ってみたりする。

▼ちなみに、『教育 思考のフロンティア』は、昨今の教育をめぐる論説が、大変バランス良く整理されており、教育に関心がある人にとっては大いに参考になる本である。基本的に本書は、具体的なデータを持たない論説が中心ではあるが、観念的・一方的ではない。議論の礎としては、近年まれに見る良書かも。

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読書メモ:質的心理学

▼ずっと前に買って、そのまま完全に失念してしまっていた『質的心理学 創造的に活用するコツ』を読み込む。「質的心理学」とは、これまた聞き慣れない言葉ではあるが、要は「量」ではなく「質」を重視する心理学の研究方法の一つといったところか。

 少なくても「臨床心理学」や「発達心理学」などといった○×心理学(その他、社会心理、青年心理、犯罪心理、認知心理、学習心理…など多数)とは違い、「質」について心理学的に考察する、という意味ではなさそうだ(それはそれで面白そうだが)。

▼「量」と「質」というのは、いうまでもなく対義的概念である(例:「恋人は量じゃなくて質だ」という用例は…、あんまり耳にしないな)。心理学においても、ある「事象」をいかに捉えていくかは、かねてから問題になっているらしい。

 私にとっては本書全体で、大変、興味深い内容が続いているのだが、とりわけなぜ「質」なのか、あるいは「量と質の関係について」(p.8)、編者の一人であるやまだようこ氏が述べている次の一文が、なかなか味わい深かったのでメモしておく。
 やむをえず量を犠牲にして少数事例とていねいにつきあう方向へ行くのは、「多様性(注)」と「深さ」を求める故である。それは、人が生きる文脈や存在のしかたの多元性、多声性、そしてそこからなお導き出せる深い統合の感覚に鋭敏になることである。
(引用者改行)
私たちが実際に生きる世界が、多様な差異と複雑な文脈に埋め込まれた世界なら、単純な一般化を犠牲にしてでも、腰を据えて具体的な事例にていねいに取り組む他はない。
(引用者改行)
多様な事例と文脈を幅広く観察して豊かな知識をもっていない人間が、たまたま偶然に出会った一事例からいきなり何か重要な発見ができると考えられるほど、現在の学問水準は低くない。たとえ実際の研究論文は一事例で記述されたとしても、その背景には多様な事例の深い蓄積が必要である。多様性と深さがなければ事例の理論的位置づけも、何が重要かを質的に見分ける眼を養うことも困難である。(p.10)

 太字は本文ママ。下線は引用者による。
 「多様性」と「深さ」とは、なかなか身にしみる言葉である。私は、自分自身では「多様性」をこよなく愛しているつもりだし、物事も表層ではなく、できるだけ深層的に捉えたいとは思っている(そもそも「現実」が何たるか、よく分かっていないからな)。

 しかし、「物事の多様性が重要」と言っても、それだけでは常識というか、一般論に過ぎないのが難点である。実際、自分自身の生き方として「多様性」を重視していくのは生やさしいことではないと思うし。また、物事の「深さ」をはかるのも容易ではない。「深さ」を目指すあまり溺れてしまうこともありそうだ。しかし、だからこそ「多様性」や「深さ」を希求しながら、事象を捉えていくことが必要なのだろう。

 「質」のみならず、「量」においても多様性や深さをいかに考慮するか、もまた重要な課題なんだろうけど、これまた難しい問題なんだろうな。

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仕事はじめ

▼年末年始のお休みを終え、今日から生活リズムを完全に日常に戻す(本当は昨日から日常に戻す予定だったのだが、一日遅れてしまった)。
 午前中は、事務仕事を一通り終わらせて、午後は某コンテンツ開発・評価業務で午後2時から夜8時まで、お食事込みで打ち合わせ。
 今月も、結局、仕事がつまりそうだな…。一ヶ月の計画を練り直さなくては。

▼帰り道、古本屋に寄って講談社文庫でDeweyの『経験と教育』を買う。
第1章 伝統的教育対進歩主義教育
第2章 経験についての理論の必要
第3章 経験の基準
第4章 社会的統制
第5章 自由の本性
第6章 目的の意味
第7章 教材の進歩主義的組織化
第8章 経験讚育の手段と目的
 はるか前に図書館で借りて読んだ記憶があるが(注:当時も貧乏人だったので、図書館で借りていたのである)読み直すのは久々かもしれない。

 昨年の10月に文庫版で出ていたとは知らなかったな…。
 あれ、以前も文庫だったかしら。

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踊る大捜査線(と組織論)

▼2日の夜のことだが、『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ! 』を観た。わたくし、流行りものには距離を置く…ことにしているのだが(注:なんてこと言ってるが、コンビニ等で新製品を見かけると必ず買ってしまうタイプである)、実際、観てみたら、これが結構、面白かった。
(『古畑任三郎』や『HERO』だとか、フジテレビのこの手の作風は好きみたい。内容よりも、テイストが好きなのかな)

 過去に何度か関連するエッセイか記事を読んだ記憶もあるが、経営学的な「組織論」や「リーダシップ論」、またちょっと視点は異なるが「現場研究」の観点からもネタにしうる映画かもしれない(大げさ)。

▼組織の形態として、いわゆる「官僚型」と「ネットワーク型(リゾーム型)」の比較については、様々な論考がある。この分野で、新書で読みやすい本には、沼上幹『組織戦略の考え方』や『組織デザイン』などがあるが、とっかかりとして本映画を切り口にしてみるのも悪くないかもしれない(もちろん相当な飛躍が求められるが)。
 現場VS○×(注:映画風の文脈で言えば「キャリア」になるが、役人でも理論主義者でも何でも良い)という論点は、映画の前作でも、テレビ版でも描かれていた。しかし、今回の映画では、さらに「リーダシップ」という観点が明確に含まれていた点は、特筆すべきだろう(直球過ぎる気はするが)。

 「自律的であれ」というインストラクションは本質的には矛盾しているのだけれど(注:それに従った時点で自律的ではないからね)、指示・命令型のアンチテーゼとして、「自律的であれ」という言い回しは、「現場」においては力を持ちうる気はする。

 なーんてカタイことを書いてしまいましたが、2時間20分の内容をうまく圧縮して、何かに使えないかなぁと思案中。『12人の優しい日本人』と、本映画を組み合わせると、何か見えるものがあるかも。

▼映画(とくに脚本)としては、まあ、偉大なるB級映画といったところかな。

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実家に帰省中(仙台ネタ)

▼実家(仙台)に帰省中だから…というわけではないのだが、先日読んだ『予備校が教育を救う』に、不思議な地元ネタが記されていたのでネタにしてみる(部分だけ引用すると本書は単なるエッセイに見えなくもないけど、ここは単なる小話か)。

 要は、仙台人(正確には高校~予備校生くらいの年代?)は
  • (1)受験的にすれていない
  • (2)伝統的で古風なところがある
  • (3)服装や身のこなしが、ファッショナブルで清々しい
 ということである。なんだか仙台が褒められているんだか、けなされているんだか、よく分からないが、下にある著者の「考察」が大変におかしかった。
 ところで、仙台のK文理(注:河合塾文理のこと。なぜか本書ではKと伏せられている)といえば、数あるK予備校の校舎や関連予備校のうちで、講師たちが一番行きたがる所である。なぜかと講師に聞くと第一の理由として、生徒が受験的にすれていなくて「コクのある」教え方が通用するというのである。多分、地元の高校の教育が優れているのであろう。

 二番目の理由は、事務職員の講師や生徒への応対が実に丁寧で気持ちがいいということだ。古風な伝統が生きているのであろう。

 三番目は生徒の服装や身のこなしが、ファッショナブルで清々しいことである。ファッショナブルであることは、とても東京の校舎の生徒たちのおよぶところではないとのことだ。この理由はしばらく分からなかったが、ある時、ある講師がそっと教えてくれた。
 彼によれば仙台の主だった進学高校は共学ではない。したがって、予備校は現役生にとっても浪人生にとっても、思春期に入ってはじめて異性と教室を同じくする場所となる。当然、生徒も服装に気を配るというわけだ。この講師は物知りで、ルーズソックスの発祥の地は仙台だと断言した。本当だろうか(p.115)(下線は引用者)。
▼以前、何かのテレビ番組で、楽天ゴールデンイーグルス関連の報道の際にも揶揄されていた記憶があるが、仙台の人間は一般的に、「すれていない」というイメージがあるらしい。確かに、名古屋や大阪・京都、広島、福岡よりもインパクトがないというか、印象が薄いと私自身も感じるが、「すれてない」っていう言葉はお上品にまとめすぎじゃないかなぁ…と思ったりもする(要は世間知らず?)。

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文明の構図

▼山崎正和(劇作家)の『文明の構図』に収められた都市論の中に、「安全な都市を造って人間がそこに住んで、さて文明にとってそれがどんな意味があるのか」という一節がある。山崎正和氏は、阪神・淡路大震災の被災者でもあるらしいが、これは生き残った者にとっての根源的な問い(の転換)かもしれない。

 似たような問いの転換の仕方は、『夜と霧』の一節にもある(前にも書いたが、著者はナチスドイツの強制収容所に収容されていた人である)。
 おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖(ぎょうこう)に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。(p.113)
(注:下線は引用者による)
▼自然災害においては、どこかの国民の一部が好むような「報復」も「復讐」は言うまでもなく、不可能である(そもそもそれが正しいとは思わないが)。もちろん、災害に対して「科学技術を発展させる」という試みは可能だろうが、それは「報復」とは意味が異なる話だろう。ただ、人間という存在の「弱さ」と、無念さと無力さを感じるばかりだ。

 MUNENは、たぶんTSUNAMIと同じく、複数形にできる(はず)。

 たまたま災害に遭わずに生き残っている、ということが一体、どんな意味を持つのか?なんてことを考えつつ、考え切れなくなったので、深い眠りに付く。

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新年所感

▼気づいたら2004年も終わり、2005年になってしまいました。さらに気づいた時には、2006年になっていそうです…と思ってしまうほど、昨年もあっという間でした。

 さて、毎年恒例の「新年抱負」もしくは「新年所感」です。振り返るに、昨年の私のモットーは、「頼まれた仕事は断らない」でしたが、10月~12月にかけては生活が破綻しかけていたという説もあるので、今年は見直したいと思っています。はい。

 理想的には、小学生の頃から『竹取物語』を愛読していた私としては(注:日記には初めて書いたかもしれませんが、私が、古語で唯一通しで読んだことのある古典です)、どんな無理難題でも、受けて立つ心意気だけは大切にしたいのです(注:そういう趣旨の物語じゃありませんが)。

 しかし、実際は、かぐや姫を見いだした翁(お爺さん)や、お婆さんのように生きる方が、私には合っている気がします(姫になって月に還るという手もありそうですが、現在の科学技術の水準からすれば、姫になるのは月に永住するのは難しそうだし)。

 というわけで(何の脈略もありませんが)、今年は、「古典」を大切する一年でありたいと思っています。無理難題を意識しつつも、「古くて新しい」問題に取り組もうかな、と。平凡の波に呑み込まれない程度に、平凡に生きていきたいところです。

 どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

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