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「食べる」と「食う」

▼ちょっとした言葉の使い方に、自分自身の心持ちが現れることは少なくない。たとえば「焼き肉でも、食べに行かない?」と「焼き肉でも食いに行かない?」は、同じようだが、微妙に違う。もっと分かりやすく言えば「彼には○×をごちそうしよう」と「彼には○×を食べさせよう」は日常使われなくもないが、「彼には○×でも食わせておこう」になるとニュアンスはだいぶ違ってくる気がする。

 以前も日記で紹介したことがあったかもしれないが、精神科医の大平健氏は、「食べる」という言葉には「交流性」、「食う」という言葉には「攻撃性」が含まれると指摘している。確かに、言われてみればそんなニュアンスはありそうだ。
 恋愛講座的ではあるが(懐かしい響きだな)、男性から女性に「焼き肉でも食いに行かない?」と声をかけていたら、二人はできているの関係は安定している可能性は高いだろう(この場合の「攻撃性」が何の暗喩しているかは私は知らぬ世界である)。

 大平氏の読みやすい本には『食の精神病理』があるが、鷲田清一氏編の『「食」は病んでいるか』に、大平氏本人によるちょっとした紹介があるので引用してみよう。

 食欲は、よく性欲とならべられて動物の二大欲望などという呼ばれ方をしますが、「拒食症」といいうつ病といい、その食欲を考えるとき、そんな大雑把なコトバの使い方では、何の理解もできないことは間違いありません。

 ポイントはコトバそれ自体なのかもしれない、と私は考えました。あらゆる認識は、そのための道具に正否がかかっています。顕微鏡や望遠鏡…こうもののおかげで、われわれが肉眼で見られないものを見られるようになったとすれば、道具としてのコトバを工夫して、われわれの常識では理解できない精神のあり方を「見られる」ようにするのが精神科医のつとめではないか。そう考えました。

 結論をいうと、柳田国男多田道太郎の説を基にして、「食」を「たべる」と「くう」という二つのキーワードで区別して、患者の病理を考えたのです。その際、「たべる」には「たべさせたり、たべさせてもらったり」する交流性を当て、「くう」には「くうかくわれるか」の攻撃性を当てました。

すると、「拒食症」の患者が拒否しているのは、ひとが用意してくれた食事を「たべる」ことであって、その限りではひとり隠れて残飯をむさぼり「くう」ことは、何の不思議でもないと分かります。そればかりか、患者がケーキなどを盛んに作っては、家族や担当医に食べるように強いるのも(これもよくあることですが)、じつは「くわせよう」としていたのだと理解できるわけです。(pp.148-149)(太字は引用者による)

▼本書で指摘されているように(あるいは柳田国男や多田道太郎が述べているように)、「食う」と「食べる」を分けて考えると、見えてくるものも少なくない気がする。たとえば、渡部信一氏が指摘しているような(それを佐伯氏が引用しているような)自閉症児の拒食症のケースを見ても、同様のことが言えるだろう。

 渡部信一氏によると(注:『障害児は「現場(フィールド)」で学ぶ―自閉症児のケースで考える』)自閉症児の偏食は、障害のない子どもの偏食とは比較にならないほど深刻だという。一人の自閉症児の偏食を改善するために、「偏食を治すため」の三泊四日の合宿に参加させた。合宿の基本方針は「三食とも野菜中心」というものだった。「お腹が空けば、嫌いなものでも食べるだろう」という考えからだった。しかし、残念ながら、彼が三泊四日のあいだに口にしたのは、水だけだったとのことである。スタッフはなんとかして果物や野菜を食べさせようとあらゆる手段を講じたが、彼はがんとして拒否したという。(略)

 ところが、このようにすさまじいまでの偏食傾向をもつ自閉症児が、幼稚園や保育園に入園し、集団生活をしているうちに、まるでウソのように、偏食がなくなってしまうケースがしばしばあるという。渡部氏はそのような事例をいくつか丁寧に観察した上で、次のような分析をしている。

 (略)普通児の集団のなかで、普通児が「ごく自然にかかわる」中で(たとえば、障害児のお弁当のなかのものを「ちょうだい」といってつまんだり、「おいしそう」と歓声をあげたり、当該の障害児がちょっと口に入れただけで「あ、食べたよ、食べた!」といって大喜びをしたり…)、「いつのまにか」食べるようになってしまうのだという。そこにあったのは、「共同体のなかに、いっしょにいる」ということの楽しさ、心地よさであり、それが大きな支えとなって、「育ち」や「学び」が成立しているとしか考えようがないとしている。(pp.168-169)

 確かに、「食べる」という行為には交流性が当てられると思うが、渡部氏のような話を読むと、そもそも人と人とのつながりがあって初めて「食べる」という営みが可能になるとも言える気がする(鷲田清一氏もよく述べているが、赤ん坊は決してひとりでは食べられないわけで、存在そのものにも同じことが言えそうだ)。

 結局、「食」と「交流性」は切っても切り離せないものなんだろうな。

 すべて「感覚」と呼ばれるものがそうであるように、味覚もまた直接は他者と分かち合うことができない。「おいしい?」「うん、とっても!」といったような何らかのコミュニケーションや、他者に対する想像力が「食」を成立させているとも言えるし、逆に、「食」がそのような関係や想像力を促進させているとも考えられる。

▼年末の地震の被害が気になって仕方がないが、同時に、年末年始くらいは「暗い」ニュースを忘れたいと思ってしまうのも事実である。
 彼(女)らが、今、どんな生活に置かれているのか。「食事が喉も通らない」日々をどう過ごしているか、あるいは「食べたくても食べられない」という飢えとどう向かい合っているのか。そんなことを考えたり、考えなかったりしつつ、今年一年を終えそうである。

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