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2004年12月

本年もお世話になりました

 2004年の本は現在、執筆中。
 新年にずれ込んでしまうかもしれませんが、その際はどうぞご了承を。

 今年も無事、年末を迎えることができました。すべての偶然に感謝。

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「食べる」と「食う」

▼ちょっとした言葉の使い方に、自分自身の心持ちが現れることは少なくない。たとえば「焼き肉でも、食べに行かない?」と「焼き肉でも食いに行かない?」は、同じようだが、微妙に違う。もっと分かりやすく言えば「彼には○×をごちそうしよう」と「彼には○×を食べさせよう」は日常使われなくもないが、「彼には○×でも食わせておこう」になるとニュアンスはだいぶ違ってくる気がする。

 以前も日記で紹介したことがあったかもしれないが、精神科医の大平健氏は、「食べる」という言葉には「交流性」、「食う」という言葉には「攻撃性」が含まれると指摘している。確かに、言われてみればそんなニュアンスはありそうだ。
 恋愛講座的ではあるが(懐かしい響きだな)、男性から女性に「焼き肉でも食いに行かない?」と声をかけていたら、二人はできているの関係は安定している可能性は高いだろう(この場合の「攻撃性」が何の暗喩しているかは私は知らぬ世界である)。

 大平氏の読みやすい本には『食の精神病理』があるが、鷲田清一氏編の『「食」は病んでいるか』に、大平氏本人によるちょっとした紹介があるので引用してみよう。

 食欲は、よく性欲とならべられて動物の二大欲望などという呼ばれ方をしますが、「拒食症」といいうつ病といい、その食欲を考えるとき、そんな大雑把なコトバの使い方では、何の理解もできないことは間違いありません。

 ポイントはコトバそれ自体なのかもしれない、と私は考えました。あらゆる認識は、そのための道具に正否がかかっています。顕微鏡や望遠鏡…こうもののおかげで、われわれが肉眼で見られないものを見られるようになったとすれば、道具としてのコトバを工夫して、われわれの常識では理解できない精神のあり方を「見られる」ようにするのが精神科医のつとめではないか。そう考えました。

 結論をいうと、柳田国男多田道太郎の説を基にして、「食」を「たべる」と「くう」という二つのキーワードで区別して、患者の病理を考えたのです。その際、「たべる」には「たべさせたり、たべさせてもらったり」する交流性を当て、「くう」には「くうかくわれるか」の攻撃性を当てました。

すると、「拒食症」の患者が拒否しているのは、ひとが用意してくれた食事を「たべる」ことであって、その限りではひとり隠れて残飯をむさぼり「くう」ことは、何の不思議でもないと分かります。そればかりか、患者がケーキなどを盛んに作っては、家族や担当医に食べるように強いるのも(これもよくあることですが)、じつは「くわせよう」としていたのだと理解できるわけです。(pp.148-149)(太字は引用者による)

▼本書で指摘されているように(あるいは柳田国男や多田道太郎が述べているように)、「食う」と「食べる」を分けて考えると、見えてくるものも少なくない気がする。たとえば、渡部信一氏が指摘しているような(それを佐伯氏が引用しているような)自閉症児の拒食症のケースを見ても、同様のことが言えるだろう。

 渡部信一氏によると(注:『障害児は「現場(フィールド)」で学ぶ―自閉症児のケースで考える』)自閉症児の偏食は、障害のない子どもの偏食とは比較にならないほど深刻だという。一人の自閉症児の偏食を改善するために、「偏食を治すため」の三泊四日の合宿に参加させた。合宿の基本方針は「三食とも野菜中心」というものだった。「お腹が空けば、嫌いなものでも食べるだろう」という考えからだった。しかし、残念ながら、彼が三泊四日のあいだに口にしたのは、水だけだったとのことである。スタッフはなんとかして果物や野菜を食べさせようとあらゆる手段を講じたが、彼はがんとして拒否したという。(略)

 ところが、このようにすさまじいまでの偏食傾向をもつ自閉症児が、幼稚園や保育園に入園し、集団生活をしているうちに、まるでウソのように、偏食がなくなってしまうケースがしばしばあるという。渡部氏はそのような事例をいくつか丁寧に観察した上で、次のような分析をしている。

 (略)普通児の集団のなかで、普通児が「ごく自然にかかわる」中で(たとえば、障害児のお弁当のなかのものを「ちょうだい」といってつまんだり、「おいしそう」と歓声をあげたり、当該の障害児がちょっと口に入れただけで「あ、食べたよ、食べた!」といって大喜びをしたり…)、「いつのまにか」食べるようになってしまうのだという。そこにあったのは、「共同体のなかに、いっしょにいる」ということの楽しさ、心地よさであり、それが大きな支えとなって、「育ち」や「学び」が成立しているとしか考えようがないとしている。(pp.168-169)

 確かに、「食べる」という行為には交流性が当てられると思うが、渡部氏のような話を読むと、そもそも人と人とのつながりがあって初めて「食べる」という営みが可能になるとも言える気がする(鷲田清一氏もよく述べているが、赤ん坊は決してひとりでは食べられないわけで、存在そのものにも同じことが言えそうだ)。

 結局、「食」と「交流性」は切っても切り離せないものなんだろうな。

 すべて「感覚」と呼ばれるものがそうであるように、味覚もまた直接は他者と分かち合うことができない。「おいしい?」「うん、とっても!」といったような何らかのコミュニケーションや、他者に対する想像力が「食」を成立させているとも言えるし、逆に、「食」がそのような関係や想像力を促進させているとも考えられる。

▼年末の地震の被害が気になって仕方がないが、同時に、年末年始くらいは「暗い」ニュースを忘れたいと思ってしまうのも事実である。
 彼(女)らが、今、どんな生活に置かれているのか。「食事が喉も通らない」日々をどう過ごしているか、あるいは「食べたくても食べられない」という飢えとどう向かい合っているのか。そんなことを考えたり、考えなかったりしつつ、今年一年を終えそうである。

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めぞん一刻

▼本日記でも何度か話題にしたことがあるが、私は高校生時代から高橋留美子のマンガ『めぞん一刻』を愛読している(ちなみに養老先生も、なぜか本書を推薦図書に挙げている名著である)。あえて記すほどではないが、たぶんこれまでの私の人生の中で、最も読み込んだ本と言っても過言ではない。

 お話をご存じの方には、余計な説明は不用かと思うが、本書は典型的なラブ&ビルディングストーリーである。以下の3人が主たる登場人物。

  • 夫に先立たれアパートの管理人として住み込んでいるヒロイン(響子さん)
  • アパートの住民で当初は浪人生だった五代君(時の経過とともに大学生、就職浪人、就職…に至る。優柔不断で甲斐性なしの貧乏人というキャラ)
  • 五代君の恋敵として登場する三鷹さん(テニスのコーチをしており、資産持ちという設定。言うまでもなく五代君とは正反対の性格である)

 三者が繰り広げる恋愛的ドタバタ劇は、私にとっては「恋愛の教科書」とも言える内容で、何度読んでも味わいがある物語だった。

 マンガを「教科書」扱いするな、というツッコミもいただきそうだが、私にとっては夏目漱石の『こころ』のようなものだ、と言えばちょっとはカッコが付くかな(あんまり変わらないか。でも実際『めぞん一刻』は『こころ』を内包していたりもする)。

 多くの読書論で繰り返し指摘されていることではあるが、本の「読み方」や読み込みの「深度」は、読み手が置かれた状況や経験によって異なる。

 最初に本書を読んだ時は、予備校や大学生活の雰囲気だとか、恋愛的トライアングル(五代君VS三鷹さん)や、ヒロインと五代君の「いったりきたりすれ違い♪」具合(byあみん「待つわ」)を楽しんでいたものだ。

 しかし、学部卒業後は、「対象喪失」的な視点だとか(先に書いたようにヒロインは未亡人だったりする)、キャリア論的な観点からも「読める」ようになった。お話の中では五代君は就職に失敗してから、キャバレー勤務を経由して、保育士を目指しているが、このあたり男性の生き方としても、何かと考えさせられるところ大だったし。

▼自分自身と重ねて「読む」のも読書の醍醐味というか、私の読み方の癖ではあるが、『めぞん一刻』と私のこれまでは重ねられるところが多い。

 しょーもない話だが、私が浪人しようと思ったのも、不器用ながらも毎日の生活を楽しむことを大切にしているのも、多少は苦労をしても好きな仕事に就こうと思ったのも、ささやかな幸せを願うのも、五代君を少なからず意識している…と言っても過言ではあるまい(いや、過言だわな。実際は、半分以上は後付だし、物語から都合の良い部分を切り出しているだけかもしれない)。

 この延長で言えば、今年の私は、ようやく卒業(修了)して、就職して、それから…と、本書で描かれていた「3つの願い」のいくつかをようやくかたちにできた年であったとも言えなくはない(と言っても、「優柔不断で、甲斐性なしの貧乏人…」というくだりは、あまり重なりたくないけども)。

 オススメしすぎると逆に「引かれる」可能性もなくはないが(「深く」というより「濃く」読めなくもないし)、自分自身の「物語」を築いていく上で『めぞん一刻』は、重要な一部を含んでいたんだな、と改めて感じる今日この頃。この物語を「卒業」後、私自身がどんな物語を紡いでいけるか、楽しみなところである。

▼ちなみに『めぞん一刻』には英語版があって、これは「英語の勉強」の口実としてはもってこいかも(評判が分かれるらしいが、ニュアンスなど参考になるところも多かった)。

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読書メモ(ミニ):論理思考の鍛え方

 試験問題ネタの続き。ちょっと前に読んだ『論理思考の鍛え方』のメモをまとめて今回のシリーズ(?)を終えます。

 本書は、いわゆる論理的思考本=クリティカルシンキング本だと思って購入したのだが、タイトルと中身が若干、ずれている典型的な本だった。帯(表紙)に書かれている通り、「論理的な思考能力を測る各種難関試験の問題を分析し、一貫して求められている力とは何かを解明する」というのが本書の趣旨で、論理的思考の「鍛え方」というよりは試験問題の分析が主な本だった。扱われているのは、いわゆる国立・私立の有名小学校入試から、中学入試、大学入試、企業の採用試験やら国家公務員、ロースクールの適性試験など、幅論理思考の鍛え方はかなり広い。

 著者曰く、上記の試験問題を分析すると、試験で重視されている「能力」は、次の7カテゴリに分類可能らしい(p.23)(括弧内の説明は、目次にあった説明)。

  • 推理能力(物事の関係性の発見)
  • 比較能力(相対性の認識)
  • 集合能力(全体と部分の把握)
  • 抽象能力(高度な問題解決能力)
  • 整理・要約能力(言語を媒体とする論理性)
  • 直感的着眼能力(「創造性を働かせて中心、核となる問題のポイントを抽出、着眼する能力」)(p.45)
  • 因子順列能力(「問題解決に当たってどの能力をどのような順番で使用するかという複合能力」(p.51)

 それ以前に、これが成立する前提として「同一性を発見する力」や「相対的に見る力」が挙げられているのも本書の特徴であろう。

 私個人的には、この手の「能力」をある種のカテゴリに還元するような考え方は、あまり好きになれないのだが(理由を書き始めると、止まらなくなりそうなので以下略。この手の分類は歴史も長いらしい)、本書は実際の「試験問題」が事例となっているという点で、なかなか興味深い論考ではあった。

 最近、私自身が読んだ関連書では、『ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?』や、『「頭がよい」って何だろう―名作パズル、ひらめきクイズで探る』に近いものがあるが、試験ネタを体系的にまとめたものとしては本書は新規性は高いだろう。
(大学入試に特化したものとしては、『悪問だらけの大学入試―河合塾から見えること 』や、現代国語に限定すれば『教養としての大学受験国語』などもあるかな)

 上記の分類以上に、論理的思考力の上位概念(?)として、「利益衡量」が挙げられていたのも興味深い点だった。見方にちょっと偏りがあるかなという気がしないでもないが、著者によれば、医師国家試験では「瞬間的利益衡量」、国家公務員一種では「総合的利益衡量」、ロースクールの資格試験では「論証能力」「実質的利益衡量」が求められているらしい。「利益衡量」っていう考え方は、私的にも参考になるかも。

 一般論としても、ひとの「能力」というものをいかに捉え(たとえば、それが個人に還元できるのか、相互的なものなのかというのは大きな論点である)、それをいかに「評価」していくかは(プロセスの中で評価してゆくか、成果・結果として評価するかは違う)、永遠の課題だよな…と、言うまでもないことの重要性を確認する今日この頃。

 来年は、このあたり少ししつこく見ていこうかな。

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試験問題

▼昨日の話題に関連して、『学ぶ力』という本の中で、森センセー(注:森毅氏のこと)が、次のようなことを言ってたことを、ふと思い出す(前にも何かの本で読んだ記憶があるが、手に入れられたのがこの本だけだったのでお許しを)。
 試験には、過去の実績を見るもの未来の可能性を見るものがあります。入試は原理的には未来です。特に大学院や就職試験はそうです。僕も経験がありますけど、高校のときにどれだけ勉強したかは、本当を言えばどうでもいいんです。
(引用者改行)
 大学に入ってからついてきてくれそうか、そのために高校の成績を参考にしましょうというのが大学側の立場です。高校の先生は、高校でこれだけやったんやから大学に入れてほしい。方向が逆です。(略)
 学校の成績をよくすることだけを一番効率的に行うには、英語の試験ならテキストにある単語は全部憶える。テキストにない単語は憶えても成績のためには全然役に立たない。これは当たり前の話です。(略)
 ところが未来型はテキストがないですから、そうはいかないでしょう。そうなると何が大事か。たとえば知らん単語が出てきたら、何とかそれを当てるという能力、現実にはそれをやっているんです。(p.68-69)
  • 河合 隼雄・佐伯 胖・工藤 左千夫・工藤 直・森 毅(2004).
    学ぶ力. 岩波書店 (太字は引用者)
 本質的には「未来の可能性」(未知な問題への対処、あるいは問題の発見)の方が重要だけれど、それを試験でどう見抜くかが難しいところである。

▼ちなみに森センセー曰く(注:念のため書いておくと彼は数学の先生です)
 僕は三十何年やっているから知っているんですけど、京大はおもしろくて、数学の教授を一人モルモットに使って、入試問題を解かすんです。「受験生は三十分やけど、お前は数学の教授やから十五分で解け」と言って、けっこうハードな環境です。(略)
 そのときにその教授が「この問題はわかった。解き方はこれこれでやればいい」と言って五分以内に解ければ没です。だから少なくても京大の数学の教授には、すぐに解き方がわからない問題というのが原則です。だから解き方を教わってないのではなく、もともと解き方のわからん問題を何とか見ようというのが入学試験です。(p.70)。
 とのことである。これもどこかで読んだことがあったが、一つの手ではあるな。

 何を隠そう(隠してないけど)、私は京大を受けようと本気で考えていた時期があったらしいのだが、数学は本当に難しかった。表面的な対策のしようがないしな。

 私事はさておき、数学や英語(注:英語の場合は、未知の単語を推測させるという出題が可能か)以外で、この手の「解き方のわからん問題」をペーパー試験でいかに出すかが重要になってきそうだけど、やはり難問だよな…(以下、リフレイン)。

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フィードバック

▼何らかの評価をしなければならない時(たとえば試験問題を作らなければならない時とか)、その人の「これまで」を評価しようとするか、あるいは、将来的な「ポテンシャル」も含めて検討するかは、大きな違いがあるような気がする。また、その結果をフィードバックするか否か、また、どんな形で戻すかも問題だ。

 一般的には評価といえば前者を指すだろうが、将来的なポテンシャルも含めて評価してもらえると、評価される側としてはうれしいことが多い気がする。

 しかし、金井・高橋(2004)曰く、前者は多様な判断基準を持つもので、フィードバックする必要があるが、後者は共通の軸を築くことが重要で、フィードバックは必ずしも必要ないらしい。前者は分かるが、後者の認識の違いは…うーむ。
 もうひとつ重要なのは、人のポテンシャルの評価その人の過去の成果貢献度の評価は、まったく別物ということだ。過去の成果や貢献度は、タイムリーにフィードバックすることで、戦略的方向性の徹底、気づき、成長、認知などの効果がある。これらはどんなに客観的に正しい評価を行っても、本人に適切にフィードバックをしなければなんの効果にもつながらない。そしてその判断基準は、ビジネスや職種特性、戦略的判断により多様なものとなり、同じ成果に対する評価が、戦略が変わった途端に百八〇度変わってしまうことさえある。
 これに対し、人としてのポテンシャル、将来性の判断は、その人の将来的な活用や育成、異動やジョブ・アサインメントの効果を高めるために重要だ。たとえば、リーダー人事の発掘や意図的試練の付与などの育成策につなげるために必要となってくる。このような人材評価は、必ずしも本人へのフィードバックが必要とはかぎらない。
 一方で、全社に共通した用語やポテンシャルの判定の考え方が必要だ。たとえば「あいつは優秀だ」といっても、人によってその中身は異なる。この評価は長い時間をかけて試行錯誤しながら、社内が同じ目線で見られるようになることが重要なので、先ほどの成果評価とはかなり異質なものだ。この両者は混同せずに、はっきりわけて行う必要がある。
 もしかしたら、後者に関しては直接的なフィードバックというよりは、ポジション(役割)を与えるとか、フィードバックの仕方が違う、という見方も可能かも知れない。

 実際的には、成果評価では判断基準も含めたフィードバックが必要だろうし(&判断基準が変わる、ということも含めて)、ポテンシャルについては全体のビジョンが明確になっていることが前提になるような気がする。

 どちらにせよ両者の違いを意識しておいた方が良さそうではある。

▼フィードバックをどう扱うか、という点については、「フィードバックは資源である」というアッシュフォードの論文を引いて次のような説明をしていたのが参考になった。
 ミシガン大学のスーザン・J・アッシュフォード氏の一九八六年の有名な論文に、「フィードバックは資源である(feedback as a resource)という指摘がある。フィードバックは石油や天然ガスのように、上手に使えば価値を生む資源だというのだ。だが資源というのは、だれかが発見するまでは土中に埋もれたままだし、運よく発見できたとしてもその使い方がわからなければ、そこに価値は発生しないどころか無用の長物でしかない。資源というかぎりは、目的のためにきちんと利用しなければ意味がないのだ。
 フィードバックでもうひとつ大事なのは、それが他人にとっていかに有用なものであっても、自分にはたいして役立たないと思ったら、潔く捨てるということだ。いくら資源だといっても、掘り出したものは全部、有効活用しなければならないなどと考える必要はないのである。(p.98)
 他者からの声を「資源」として捉えるっていう見方それ自体も重要なのかも。「フィードバック」という概念(あるいは「多声性」でも)をどう伝えるかも課題だな。

▼以前も書いたが、『部下を動かす人事戦略』は概略的な入門書。とくにキャリア全般に興味があるならば、以下の二冊がお勧めである。
 上記も含め組織とひとに全般に関心があるならば、以下が大変参考になる。  この分野、私もちゃんと学び直したいなぁと思いつつ、未だ行動できず(言い訳)。

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読書メモ(ミニ):予備校が教育を救う

▼移動時間中、『予備校が教育を救う』を読む。タイトルは大げさだが、中身のほとんどはエッセイ風。強い主義主張が含まれているわけではなく、予備校をめぐる思い出話半分に、予備校、高校、大学をめぐる現状分析と、将来に向けてのいくばくかの願いが込められた…といった感じの本である。
 何故に「K」という略称を使っているのか分からないが、著者は河合塾の人。
 個人的にメモを取っておきたいな、と思ったのは「人気講師のヒミツ」の一節。著者によれば、人気講師には共通する特徴があるらしい(p.60)。

 第一は、発声。「声がよく通り、話し方に説得力があること」(p.60-61.)。
 第二に、「予習に大変な時間を費やしていること」(p.61)が挙げられている。

 ほぼ同じテキストで講義をする場合でも、その年のはじめての授業の場合「90分の授業に備えるために平均して7時間予習をするらしい。記憶違いかもしれないが、90分の授業で「7時間」の予習というのは、どこかでも聞いたことのある話である。これ、じつは大変に示唆的な時間なのかもしれない。

 さらに、予習の仕方の共通性として「前半でシナリオをつくる。そして後半でシナリオをたどりながら」「言葉探しをしている」とされている。
 授業の冒頭でテーマや問題点を明瞭に理解させるには、どの言葉、どういう表現が一番インパクトがあるだろうか。結びのキーワードはどうしたら印象的か。人気講師たちは共通して、言葉の威力、言葉の奥深さ、そして言葉の恐ろしさを知っているのだ(p.61-62)。
 抽象的な話ではあるが、なるほど確かに、私の経験からしても「人気講師」と呼ばれる人は、言葉の使い方がうまいな、と思わされることが多かった。

▼また人気講師のふたつのパターンとして、「普通の人気講師は」、満足が82パーセント、普通が15パーセント、不満が3パーセントなのに対して、「本物志向の人気講師」は、「満足」が78パーセント、普通が3パーセント、不満が19パーセントの評価を示すとされる(p.61)。これは満遍なく人気を取るか、ある種の人に受けるかの違いかな。

 ついでに、年齢の話。講師は、年齢が若いほど学生の「満足度」が高いという数値も興味深かった。授業評価の方法や母数が不明だが、30台未満が50パーセントの満足度なのに対して、55歳以上だと30パーセントを割っている表が出ていた。

 これに関して著者曰く、
 アンケート結果を分析していくと、年齢がいって人気が落ちはじめた講師の場合、一般的に「楽しいか」の項目では数字がダウンするが、「よく分かるか」の項目が持ちこたえるか、むしろ上昇する(p.64)。
 とのことである。こういう数値って、高校や大学ではあまり(ほとんど)公開されないので、なかなか参考になりそうである。もちろん単純に比較はできないけれど。

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ブラッディメアリ

▼今月上旬の海外出張で、ウェスティンに宿泊した無線LAN経由でネットワークを使いに行った時のことである。

 私は、ロビーでチャイラテとサンドイッチを頼み、昼食を取りながらメールの返信を書いていたのだが、ふと見渡すと、まわりのお客さんは、誰一人もお仕事モードではないことに気づいた。みなさま、平日の真っ昼間から、お酒を飲んで盛りあがっているのである。

 見る限りどビジネスパーソンっぽい人も多いし、聞こえている会話の中には商談も交じっており(私のリスニングはあてにならぬが)、かなり謎である。しかも、皆頼んでいるのはワインばかり。もしかしたらここのワインには、とてつもない秘密があるのでは…と、想像力を(都合良く働かせて&誘惑に負けて)、私もワインを頼んでしまったのである。

 これぞまさしく「郷に入ったら郷に従え」的行為と言えよう(にもかかわらず、一人だけパソコンを使っていて、それはそれで妙だったような気もするが)。

▼がしかし、実際やってきたワインはごく普通(注:「普通」が何を指すのか私はよく分かっていない)。念のため銘柄だけ聞いておいたが、後日、確認した限りでは(ワイン屋さんのおじさんが言う限りでは)、取り立てて特別な逸品ではないらしい。日本で言うところのスーパードライや、一番搾りみたいなものか。

 というわけで、一杯飲んでしまった手前、後に引けなくなり(注:アルコールが入った状態で仕事を続けるわけにはいくまい)、最近野菜不足だったしなぁという適当な口実を加えて、二杯目は私の定番、ブラッディメアリを頼んでみた。

 ブラッディメアリは、トマトジュースとウオッカベースのカクテルということになっているらしいが、私が知る限り、お店によって味も見かけも結構、違う気がする(それが楽しみなのだが)。

 ウェスティンのブラッディメアリは、結構、スパイシーなベースでレモンが効いていた。見た目に大きなセロリとミニトマトが2個飾ってあったのが、印象的だったかも(ストローが二本付いてきたのは…、よくあることだけど、ちょっと虚しい)。

 ブラッディメアリに関しては、村上春樹の描写が大変美しいので、以下省略。
 (確か『村上レシピ』にも関係することが書いてあった記憶が。違うっけ)。

▼本当は、今日の晩には、ウェスティン風のブラッディメアリでも作って飲もうと思っていたのだが、結局、ワインを飲んで終了してしまった。結局、オチなし。

 なお、海外出張中にお前は何をやっているんだ、というツッコミはしていけないことになっている。昼から酒を飲んでいたなんて、口が裂けても報告できまい。

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読書メモ(ミニ):サンタクロースを探し求めて

▼深い意味があるわけではないが、例年、クリスマスには、フランクルの『夜と霧』(一昨年新訳が出たが、旧訳も捨てがたい者がある)を読む事にしている。たぶん、私は妙に浮かれた、あのクリスマスの空気が苦手なのだろう。
注:『夜と霧』は、ナチスドイツの強制収容所に収容されていた医師(心理学者)による著作である。私の愛読書の一つ。
サンタクロースってほんとにいるの?  もし50年前に生まれていたら、とか(注:私がそういうことを考え始めたのが、ちょうど戦後50年後くらいだったんだと思う)、もし50年後に生まれていたら、どんなクリスマスを過ごしていたんだろう?と思うと、いろいろ考えさせられるし。

 そういいつつ、今年のイブはウェスティンでお泊まりだもんね♪、とか浮かれたことを言ってみるテスト(私のキャラに似合わなさすぎるわな)。

▼というわけで、今日は慎ましやかに暉峻淑子氏の『サンタクロースを探し求めて』を読む。わたくし、この本と出会うまで知らなかったのだが、この人は有名な絵本『サンタクロースってほんとにいるの? 』の著者でもあったらしい。さらにいえば、岩波新書の『豊かさとは何か』『豊かさの条件』でも知られている。

 うーむ。こればっかりは、つながらなかったわな。  『サンタクロースを探し求めて』を書くことになった経緯をはじめとして、グーテンベルクの森シリーズならではの、数々の本との出会いについてふれられている。

 また改めてメモを書くことにしようっと。

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占いその2

▼血液型占いのことを書いたら、珍しく反響のメールをいただいた(ブログでコメントもできるはずだが、重要なことはメールや問い合わせ窓口経由がほとんどらしい)。

 どうやら<科学者>たるものは、血液型占いそれ自体に対して批判的態度を取らなければならないらしい。うーむ。確かにそうだとは思うのだが、私は、正直、血液型占いが当たるか当たらないかとかには、あまり関心がないのである。
人についての思い込み
 それ以前に、たかだか4種類しかない分類が「占い」として通用すること自体が、私的には謎である。4種類しかないのに、「当たる」も「当たらない」もないでしょう(注:確かに組み合わせ的には、4×4の「相性占い」は人間の認知能力の範囲内ではある。星占いのように12×12になると、それなりの知識が必要になるしな)。

 あるいは、そもそもをたどれば、占いというものを信じたり、信じなかったりする人間という存在そのものが謎だし、それが日常的に取りあげられる社会的な状況や、「相手の血液型が何であるか」を求める人間関係というものが謎である。歴史的、人類学な「占い」の意味も、奥深いので、知る価値はありそうだし。
(ついでに言えば血液型占いを「信じる」のと、サンタクロースの存在を「信じる」という時の「信じる」の働きも、私にとってはかなりの不思議である)

▼繰り返しになるようだが、別段、私は血液型占いを擁護しているわけではないし、それ自体に批判をしているわけでもないのである。ただ単純に謎なだけだ。
もちろん、この手のステレオタイプ(注:物事に対する思い込みのこと)が強固に働く時の危険性は重々承知している。話が飛躍するようだが、第二次世界大戦においてユダヤ人がなにゆえに迫害されることになったかを思い返せば良い(たとえば、B型の人は不器用だから排除…ということになったら大変なことになる?)。

 マーケティング用語的にいえば、いわゆるディ・マーケティング(積極的プロモーションの逆。それを流行らせないための手だてのこと)が血液型占いには必要とされているわけで、短期的には血液型以外の話の<ネタ>(ツール、あるいは媒体)が欲しいな、と思う。血液型占い信奉者(?)にいかに「声」を届けるかが重要なんだろうな。

 このあたりの分かりやすく、参考になりそうな本は…  他にも多数あるような気がする(Webサイトにもあるのかな?)。

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占い

▼私にとって「血液型占い」や、一時流行った「動物占い」などの占いは、<信じる><信じない>に値するものではなく、あくまでも<コミュニケーションのツール>である。

 初めて出会った人に「血液型は何?」と聞かれれば、ほとんどためらいなく「何型だと思う?」という典型的な会話を、私は始めようとするだろう。

 私の血液型を「A型」と見抜いてくださった方から「どうりで真面目そうだと思った!」と評していただいたならば、それなりの返答をするし、その人にとっての血液型のイメージについて耳を傾けたりする(相手の血液型が何かを聞くのも礼儀の一つだろう)。

 逆に言えば、ただそれだけである。それ以上のものでもないし、それ以下のものでもない。軽蔑もしないし、尊重もしない。私にとっては、「今日は天気が良いですね」「あなたはどこの出身ですか」などという会話と同列の話題に過ぎないからである(ちなみに出身地にも、血液型同様、何らかの「イメージ」が存在していることは少なくないよね)。

▼よほどそれを絶対視している人には、何らかのリアクションをするかも知れないが、未だかつてそういう人に出会ったことがない。ほとんどの人は、血液型占いには「例外が多い」事に気づいているし、中長期的に気にする人を私は知らない。

 星占いもしかり。占いが当たっているかいないか、あるいはそれを<信じる>か<信じない>かは結果を聞く時点で、既に決まっているのである。あたっていて欲しい時には、それを<信じる>し、そうでない時には、それを<信じない>だけの話である。

▼なーんてことを考え始めながら、『 占いの謎―いまも流行るそのわけ』を読む。なかなか面白い。私としては、占いは肯定するも否定するまでもなく、著者が最後に述べているように「人間というもののあり方そのもの」に根付いているものだと思う。
 世界が偶然の寄せ集めととらえられることに気づいたとき、そういう偶然性を、なんとか必然性へと読みかえようとするこころみ、その一つが占いなのではないだろうか。われわれの人生、また世界に起こることに、理由や根拠をあたえ、世界を秩序づけられたものとしてみることを、占いはおこなおうとしているのだと考えられるのである。
(引用者改行)
その意味で、占いは、人間というもののあり方そのものに根ざしており、それゆえ、はるか昔から今にいたるまで、人間は占い行為をおこなうのであり、おそらく、このあとも、どんなに科学が進歩しようと、占いに頼る人がいなくなることはないだろう。(p.216)
 占い云々について批判したり、擁護するよりも、その人間というもののあり方そのものについて考える方が、私的には生産的な議論かな、と思ってみたりする。

 もちろん科学的には、それは批判されるものだとは思うが、表層的に批判してみたところで、その人の考えが変わるわけではないのも事実である。要するに「血液型占い」以上に取るに足る<コミュニケーションのツール>が必要ってことだよな。

▼文藝春秋の新書は当たりはずれが大きいが、これはなかなかかも。他、鏡リュウジの『占いはなぜ当たるのですか』(講談社文庫)も読み物としては面白い。

 断っておくが、私は別に占いを擁護しているわけではないの。
 ただ好き嫌いを聞かれれば、「好き」な方ではある。
 もちろん占いのことばかり会話している人は、きっと苦手なタイプだろうけれど。

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読書メモ(断片):深層意識への道

▼私の持ちネタの一つに、「コミット」がいかに大変なものか?(あるいはコミットの語源)という話題があるのだが、どうやらその原典は実は、河合隼雄氏経由だったらしい。前にもメモったことがあるかもしれないが、改めてメモをしておく。
 欧米人は自我を確立する。自立するということをものすごく大事にしている。ところが日本人はそんなことを考えていなかった。「イエ」が大事だと思っていた。このごろ、とうとう個人ということを考えだしたのだという話を私がしたら、デイヴィット・ミラーが、「うん、そういうけど、ヨーロッパでも個人など考えだしたのはつい最近だ。近代になってからだ。昔はそんなこと考えていなかった。その証拠に…」と、僕に言ったのです。
(改行)
「河合さん、コミットするという言葉があって、いまは皆、よい言葉に使っているやろ?」と。そうですね。たとえば、「自分はこのNPOにコミットしています」とか、「私はこういう運動にコミットしています」とか、よい意味で使っているけれども、コミットするなどはだいたい悪い言葉なんやと。
(略)
その証拠に僕に、「コミットという言葉を使って英語を何か言ってみろ」と言うのです。commit suicideは自殺するでしょ。commit a sin は罪を犯す、cmmit a crime は犯罪を犯す。コミットという言葉を使うと悪いことしか出てこないのです。(p.175)
 何度かこの日記上でもネタにしているが、私は妙な外来語があまり好きではなく(と言いつつ、ついつい使ってしまうあたりが小心者なのだが)、「コミット」や「コミットメント」という言葉は、これまで使う時と場所を自分なりに選んできたつもりだ。

 「コミット」は、「自殺する」「罪を犯す」「犯罪を犯す」に匹敵するような行為でもあるということを、頭のどこかに留意しておきたいところである。

▼ちなみにデイヴィット・ミラーは…『蘇る神々』が訳出されているけど絶版中。

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読書メモ(断片):河合隼雄的ギャグ

▼ついでにメモをしておく。私は、河合隼雄氏の講演をまだ一度しか聞いたことがないのだが、河合隼雄という人はとても人を笑わすのがうまいと同時に(関西弁風に言えば、おもろい人やなーという感じ?)、とてつもなくこわい人である。見方によって笑っているようにも険しい顔をしているようにも見える般若といったところか。

 しかし、この人の手にかかると、自慢話もそうは聞こえないのがミソ。たとえば、
 私ほど、日本人の夢を聞いた人間はいないだろうと思います。毎週、毎週、夢を聞いているわけですから。今は文化庁にいますから、あまり聞くことはありませんが。僕はよく言っているのですが、夢を食う動物にバクがいるでしょう、ご存じですか、バクは夢を食うと昔から言われています。「夢を食うのがバク。夢で食うのがボク」(笑)。(p.115)
 なーんて、まあ、何というかかわいらしいギャグでございます。彼が人の夢を聞いている時、どんな表情で聞いているのか、想像できそうでできないなぁ…。

▼そういえば最近、わたくしの夢も落ち着いているかも。

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チェンジングボード

 先日、羽田第2ターミナル(ANA側)を初めて利用した。新ターミナルはオーシャンビューだとか、京急を降りてすぐのお店はスターバックスではなく、タリーズとプロントだとか、おしゃれなお店が入っておみやげ物屋さんも充実しているとか、そのあたりの話題は敢えて私が書くまでもないと思うので省略。

 個人的にもっとも興味深かったのは、男子トイレ洋式個室内にあった「チェンジングボード」である(写真参照。お手洗いの中でそんな写真を撮るなって気もするが)。最初、何をするための道具なのか分からなかったのだが、どうやら個室内で着替えるために存在するものらしい。初めてお目にかかったので、ちと驚き。

 しかしながらEさんからの情報によると、女性のお手洗いではこの器具は珍しいものではない模様(注:確かに、ストッキングとかの着替えが必要な時もありそうだ)。男性がスラックスやズボンの着替えをする状況は少ないような気もするが、何せここは空港だし、荷物も置けそうだし、あれば便利なものなのかもしれない。

 ただし、この写真のインストラクションは使い方は分かるが、何に使うのかが一見分かりにくいような気がするのが難点(もしかしたら、分からないのは僕だけかもしれませんが…)。ふと、久々にD.A.ノーマンの『テクノロジー・ウォッチング―ハイテク社会をフィールドワークする』を読み直したくなってみたり(ローテクモノだけどね)。

 使いやすい道具と使いやすいマニュアルをどうデザインするかは課題だわな。

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すっかりごぶさたしてしまいました

▼なんだかんだ言いながら、すっかり更新をごぶさたしてしまいました。

 常々私は、「自分は忙しい」という言い分は、他者にとっては「自分は無能である」とアピールしているに過ぎないことが多いと思っておりまして、その言葉を自制しておりました(弊社自己査定)。しかし、先日F氏にご指摘いただいたように、どうも最近、何かと「忙しい」と口にしてしまっているようで、我ながら大変、遺憾でございます。

 全く困ったものですね(他人ごとじゃないけれど)。

▼日記の更新をお休みしている間、何をやっていたか?と申しますと…メルボルンに出張しに行ったり(2度目の南半球!)、名古屋近辺にお出かけしたり、広島に研修に行ったり、横浜で打ち合わせをしたり…と、またしてもあちこち出かけておりました。

 新生活が始まってから、これほど家に不在の時間が多かった期間は珍しいかもしれません。体調的にも、なかなかしんどい日々が続いてしまいました。

▼でもって日記を書く余裕もあまりなかったのですが、しばらく日記を書かないと(1)読んだ本の内容を忘れてしまうし、本を二重に発注しちゃうミス頻発。(2)もう12月も下旬に近づいているの?&もう週末なの!と思ってしまうほど、日付感覚や曜日感覚に疎くなる気がする。(3)おざわ失踪説など、妙な噂の流布の原因につながる…などなど、不都合な点も多いので、そろそろ復活させたいと思っております

 形式を見直さないといけないかな…と思いつつ、今まで通り気楽に行こうかな。

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デジタルアルバム

▼デジカメで撮った写真を、いわゆる「Webアルバム」に変換するいいアプリケーションがないかな…と探していたら、なかなか使いやすいものを見つけた。Windows版としては結構、メジャーなものらしい。

  • すなねぃる!!
    http://www.vector.co.jp/soft/win95/net/se256118.html

 あらかじめフォトショップ等で加工して、これを使って公開すれば、すぐ他人にも写真が公開できるかも。
 レンタルサーバだと写真の大量掲載はつらいが、自前だったら割と気楽かな。

▼終日、某コンテンツ作業作成。25時近くに帰宅。

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自然言語と人工言語

▼朝から某コンテンツ作業に従事。白衣が似合うようになってきたかな。

▼午後はゼミで3時間ほど打ち合わせ。「何のために、何をやりたいのか」を考えておきたいところである。わたくし、個人的には語学(自然言語)の選択も、プログラム(人工言語)で何を学ぶかも基本は同じではないかと思ったりする。要するに、それを使って何をしたいか、何を目指しているのか?ではないかな。

 自然言語でも話ができるのと、高度な議論や交渉ができるのとが異なるように、プログラムもコードが多少書けるのと、アルゴリズム等を理解して構造的に考えられるのとは違うしね。なーんて、自然言語と人工言語の学習について書き始めると止まらなくなりそうなので、またの機会のネタということで。

▼21時から来年3月の打ち合わせ。多くの方と久々にお会いできて大変うれしゅうございました。どうも今後ともお世話になります。

 集まった時間が遅かっただけあって、結局、終電に乗ることに。車内でちょっとしたトラブル(?)に遭遇してしまったのだが、日記上で書くのははばかられるので、しばらくしたらネタにしてみたい(シチュエーションとしては『リバーズ・エッジ』に近い…わけないか)。

 人っていうのは意外と、「意外な事態」に冷静なもので、根本的にはあたたかいものらしい。気をつけて帰ることができたのかちょっと気がかり。

 一駅分タクシーに乗って落ち着いたのは深夜2時。なかなか大変な生活だわ。

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読書メモ(ミニ):部下を動かす人事戦略

▼午前中は打ち合わせのため品川へ。行き帰りの電車の中で、『部下を動かす人事戦略』を読む。著者らも述べているように、全体としては「部下」に限らず「ひと」を動かすという趣旨で書かれた本。「人事」全般や「戦略」的な話については概略程度なので、あくまでも入門書といった位置づけかな。

 自分自身のキャリア全般について考えるならば、『キャリア・デザイン・ガイド』や『働くひとのためのキャリア・デザイン』その他、著者らの本を読み深めていくと良いのかも。

 『部下を動かす人事戦略』は共著だけれど、それぞれの著者の味がそのままでているような気がしないでもない。

▼午後から深夜は、某コンテンツ作業に従事。

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久々のオフ

▼久々にルーチンワークがなかったのでなかったことにして、午前中はのんびり&まったり過ごす。2日前に作ったカレーの残りが意外とおいしかった。いい具合に辛くなっていたし。夕食は、まったりと洋食。ドリアを食べるのは久々だったかもしれない。早めの夕食だったので、夜はワインを空けてよもやま雑談。

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バランス

▼お昼まで八王子に出張。午後は池袋で打ち合わせ。

▼昼食はお客様を交えて喫茶で食す。このお店の価格設定がなかなか不思議で、ロールキャベツ(+パンorライス)が800円ちょいなのに、ふつうの紅茶やコーヒーが600円を超えていて微妙にアンバランス。

 個人的な感覚からすれば、ロールキャベツは1200円くらいにした方がバランスが良いような…。でも、お味は良かったしお得だったかも。ロールキャベツはお店による味の違いが大きいけど、あそこはなかなかだったかな。

▼夕食も池袋で、お客様を交えて会食。これまた偶然入ったお店が不思議な感じな所で、お酒はお値段の割に分量がかなり大きいが、お料理は全般的に少なめ(でもお味はまずまず)。お店の雰囲気的には女性ターゲットだったような気がするが、かなり不思議なバランスだった。

 今日の教訓。よーく考えよう。バランスは大事だよー♪(字余り)

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備忘録的メモ 

▼夕方まで溜まっていた事務仕事全般。ペーパーワークは依然として苦手らしい。

▼注文していた『認知科学への招待―心の研究のおもしろさに迫る』がようやく届いたので軽く目を通す。認知科学分野では、私は東京大学出版会の5冊組の教科書を何かと使わせてもらっていたが、内容が入門以上なので、人に勧めにくい部分があったのは事実。本書は一冊にまとまったテキストとしては、バランスが良いかも。

 認知科学関係も、本をきちんとまとめておかないとな…。

▼夕方、イタリア料理をごちそうになる。まったくもってありがたいものである。人との出会いっていうのは、やはり偶然の積み重ねなのね、と思われながら一日を終える。

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11月下旬から12日までの約2週間

▼日記を書くのをごぶさたしてしまった悪の根源(!?)について簡単にまとめておこう。

  • (1)メルボルン国際会議出張
     国際会議に出張へ行った…と書くと、財前君(注:白い恋人巨塔)の招待講演のような大事を思い返す方も少なくないかもしれないが、私の場合、単なる原稿棒読み発表なので間違えないでいただきたい。

     動物にたとえるならば直立不動のペンギンである。スタンディング・オベーションの前に、質問を聞き取るのに精一杯だったような気がしないでもないが、これも人生経験の一つだろう、と無難にまとめておく。

     メルボルンでは例によって、いろいろな方にお世話になった。私は、どうやら海外で人にご紹介いただく率が高いような気がする(って、まだ2回しか全うな海外出張経験はないのですが)。

     ちなみに、メルボルンでは現地の評判を確認した上で、何件か食事に出かけたが、あまり当たりがなかったかな…。ワインはおいしかったけどね。天気が芳しくなく南十字星が見られなかったのが残念。

 2番目、3番目の理由については、また改めてまとめておくことにしよう。

▼ちなみに今回の海外出張時に持って行った本は、河合隼雄氏の新刊『深層意識への道』と多木浩二氏の『雑学者の夢』の二冊。どちらも岩波書店のグーテンベルクの森シリーズ。いわゆる読書案内本である。

 河合隼雄氏の『深層意識への道』は、氏の自伝『未来への記憶(上)』と『未来への記憶(下)』を併せて読むと、なお良いかもしれない。後者は彼のこれまでのキャリアや人との出会いが記述の中心になっているが、前者はそれに加えて本との出会いが含まれているといった印象。

 両者ともに語り下ろし本なのでとっても読みやすいが、例によってちょっとした一言に重みがあるのが、氏の本の特徴といったところか。

 多木浩二氏の本は、結局、出張中には最後まで読み切れなかったので、改めて読みたいところ。それにしても、両氏ともに、すさまじい読書量だよな…。

 自伝というとちょっと引いてしまう部分が、私にはあるのだが、本との出会いを絡めると、自分自身のキャリアを考えるにあたっても、結構、学ぶところが多いような気がする。本シリーズは他にも、いくつかでているのでおさえておきたいところだな。

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スケジュールミス

▼以下は8日(水)の当日に書いたメモ。

▼ようやく仕事も山を越えて、日記を書く気持ちの余裕も出来てきたらしい。といっても久々の業務では、いきなりスケジュールミスで必要な出張をドタキャンをしてしまった…ので、久々の日記も失敗談から始まってしまうことになりそうだ。

 しかも、本日のドタキャンは短時間ならまだしも、ほぼ終日、別の業務を入れてしまったので、終日に渡り、迷惑をかけてしまったらしい。かなり反省。

▼というわけで、今日は反省の意味も含めて、スケジュール帳を購入。「キャレル型」っていうのかな、1週間の予定が見開きで見られるものに初めてしてみました。

 なぜか日経WOMANでもご推薦されていたもの(っていうかいわゆるコラボモデルって言うのでしょうか!?)が書店で見た時にはベストだったのだが、デザインはとくに女性向けというわけではないし、機能的にもなかなか良いかも。

 最後のページに載っている「Career up Gude」(キャリアアップガイド)のページに、「海外留学の費用は?」「社会人大学就学に必要な費用は?」とか「注目の資格、いくらで取る?」とか、「開業時にかかった費用はいくら?」だとか、はたまた「結婚フルコース全部味わうといくら?」などといったミニ知識が掲載されているのは、日経WOMANご推薦(コラボモデル)のご愛敬といったところか。

 ちなみに回答は、順に「約200万」「97万」「約16.7万」「平均898万」「約552万」ということらしい。開業っていうのは意外とお金がかかるのね…などと感心してみたり。

 念のため調べてみたら実は、これってamazonでも買えたらしい。別段ネットショッピングにこだわっているわけではないが、来年度以降の参考のためにメモ。

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音信不通

 すっかりごぶさたしておりますが、わたくし、電波が届かないところにおりまして、しかも、電池も切れ気味のため連絡が取れない状態が続いております。

 メールの返信や、日記の更新の再開は8日以降になりそうなのでお許しください。

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