▼何らかの理由で人の関心を惹きたいと思う時、もっとも安易、かつ最も困難な話のネタに、「お金の話題」がある。たとえば、○×はお金になるとかならないとか、△□をやっておくと稼げるとか…、まあ、その手の類の話題である。

これは例えば「仕事」の文脈では、確かに人の気を惹くのは間違いない。しかし友達同士の茶飲み話ならさておいても、話し方によっては大変「はしたない」話になる。
少なくても私は、いきなりこの手の話をする人とは仲良くなれないと思うのだが、安易な故に、自分も時々「お金になる…」的なことを口にしてしまうことがなくもない。今日も、少し口にしたし。
▼以下は、あくまで一つの考え方だが、本来的には、「お金になる」(稼げる)ということは、その「何か」の希少価値が高い、ということを意味しているだけで、それ以上の意味は含まれないはずである。
「希少性に価値がある」という考えも、実際、希少性を「完全に」証明するものはないのだから(実際はあり得ないかもしれないが、太平洋のどこかに巨大な金鉱がひそんでいるかもしれない。そうしたら、金の相場は今よりは下がるはずである)、「皆がそう思っているから、そうなっている」面も少なくない。
その程度の概念なのだからこそ、敢えて重み付けしたり、絶対視するような発言は大変に危険だし、物事をその観点でしか捉えられなくなったらこわいな、と思う。
(もちろん、これも程度問題で、○×に関わればあなたの将来の「自己実現」がはかれるとか、△□をやるとハッピーになれる…という、さらに危険な誘惑よりかはマシ、という説もなくはないが、どっちもどっちといったところか)
結局のところ、たとえば「仕事」(働くということ)の意味をどう語るかについて、まだ私の中で適切なことばが見いだされていないってことになるのだろうな。
▼作家の重松清氏は、インタビュー集『
教育とはなんだ』の中で、玄田有史氏と対談しているのだが、その中の一説がふと思い返されたのでメモしておきたい。
玄田 子どもたちに対して、お金についてリアリティーを持って語りかけるというのは、ものすごく難しい問題です。経済学はまだ二百年ぐらいの歴史しかない若い学問ですが、その歴史の中で、最も重要な課題なのにいまだ答えが出ていない問いは、「お金とはなんだろうか」なんです。
重松(引用者注) リアリティを持って、というのは?
玄田 たんに銭勘定の話ではなく、言語と同じように、ある種のコミュニケーショ
ンの手段としてとらえる。同時に、お金のもろさやはかなさ、いかがわしさのようなものもゆるやかに保ちながら語っていくことができれば…と思うんです。
(略)
玄田 じつは、都立高校で生徒たちに話をしたとき、「大学の先生って給料いくらもらえるの?」と訊かれて、答えられなかったんです。そのときすぐに答えられなかったことが自分でも情けなくて…。給料が安いからとかではなくて、給料の話をすること自体に衒いがあったんですよね。
(引用者改行)
「僕の月給は四十三万円だ」でも「年収が一億二千万円ある」でも、自慢でも自己卑下でもなく、ある種淡々とした自然な語り口で、ささやかな誇りを持って語れるひとが一割でもいれば、社会の雰囲気って全然変わってくると思う。「お金を稼ぐとはこういうことだ」と言えることが大事なんです。でも、そういう文脈については、僕らはまだ未熟かもしれない。これがアメリカのような寄付社会なら、寄付という行為はひじょうに高い自己プレゼンテーションとしてあるんですが。(p.290-291)
確かに、収入のことを自然に口にするのっていうのも難しいよな…。
でも、氏が指摘していることはもっともなことかもしれない。
▼玄田氏の『
ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』は、最近の若者のニート化(Not in Education , Employment, or Training=職に就かず、学校にも所属せず、就労に向けた具体的な動きをしていない」の問題を指摘していて、何かと話題だ。
「ニート」は、先の『
仕事の中の曖昧な不安―揺れる若年の現在』に比べると、概念だけが一人歩きしている面が否めなくもないが、一般論として「働くということ」、そして、そこから得られる収入やささやかな誇り(自分と社会との関係のあり方)について、それを他者にどう語っていけば良いかは、相変わらず問題である。
というわけで、お金の問題っていうのも、結局は、「関係性」というか、ある種「コミュニケーション」の問題なのだ、ということを再確認して今日のところはおしまい。
このあたりは『
小僧の神様』や『
賢者の贈り物』から学ぶべき事の方が大きいのかもしれません、ね。ちなみに『
教育とはなんだ』も大変良い本です。
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