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2004年10月

おざわ塾

▼こんにちは。おざわ星系塾のおざわです。いかがお過ごしでしょうか。私は今日も快調です。「新しい日本のリーダ」を育てるべく、本日はマッコール著(金井壽宏 訳)の『ハイ・フライヤー―次世代リーダーの育成法』を読んで勉強してました。

 しかし、今日は知らぬ間に、我が選挙区にて市長選挙があったとのこと。確かに、選挙カーが走っていた印象はあるのですが、詳細は記憶にございませんでした。わたくしのモットーは「日本一新」「婚前渾然一体」「首尾一貫」でございますが、あいにくなことに、本日は市民としての自覚を失しておりました。大変遺憾でございます。

▼そんな私ですが、おざわ塾は随時開講しております。暇な方はご連絡ください。念のため、福澤論吉諭吉先生は、「福澤塾」ではなく、その当時の年号を塾名にしたことで知られておりますが、「おざわ塾」は、実に安易なネーミング&パクリでございます。

 類似品に小沢征爾音楽塾、小沢昭一こころ塾、小沢征良エッセイ塾がございます。久々にアマゾンのマーケットプレイスを見たら、『おわらない夏』は何と1円…。

 私、年末には本を出すらしいのですが、暴落しないようにしたいです。はい。

▼これに懲りず、おざわ日記(全国版)をよろしくお願いいたします。おわり。

 さあ、来月もはりきっていきましょう!

読書メモ(ミニ):ハイ・フライヤー

▼長いこと初版が売れ切れていたマッコール著(金井壽宏 訳)の『ハイ・フライヤー―次世代リーダーの育成法』の重版がようやく売りに出されたので、取り急ぎ入手。

 初版が品切れになってからというものの、一時、アマゾンのマーケットプレイスで6000円を超える高値で売買されていたのだが、重版が出て良かったわ。ざっとしか見ていないが、確かに5~6000円でも買う人が出ていたくらい、大変に訳書である。

 個人的には、入手が遅れたがのが悔やまれる…(図書館で借りようと思っても、これまたなかなか借りられず難儀したのだ)。

▼本書は、いわゆる組織論や経営学で言うところの、リーダシップに関する本。しかし、「経験からの学習」(広義の学習論)に関心を持っている人にとっては必読本に近いかもしれない。核心的的な説明も多い。

▼改めて今月の本を書くつもりだが、今月は何かと良い本に恵まれたかもしれない。やはり読書の秋…って関係ないかもしれないが。

 今月の一押しは、進化論系の本ではあるが『ドーキンスVSグールド』だろう。私は、大学時代にドーキンスに出会って大変影響を受けたが、その後、どちらかというとグールド派だったりする。実際、ドーキンスとグールドの違いは、私も細かい点についてはよく分かっていない面があったが、本書のおかげで大変クリアーになった。

 本書と合わせて『社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤った』を読むとなお良いかもしれない(この本は、グールドの批判本になっている)。

▼個人的には、グールドを読むなら『ワンダフル・ライフ』が一押しである。『社会生物学の勝利―批判者たちはどこで誤った』で指摘されているような問題はあるにせよ、『ワンダフル・ライフ』の最後の一文のような考え方。すなわち、
 それ(引用者注:人が歩む道)は忍従の道ではなく、自分たち自身が選ぶやりかたで成功したり失敗したりする自由が最大限に保障された道である。(グールド著 『ワンダフル・ライフ』より)

 は、魅力的だと思ってしまう。

 失敗しても、そこから学ぶことができる、というのが人が人たる所以なのだから。
 (このあたりは、『ハイ・フライヤー』も同じ価値観を共有している)

 もちろん、同じくグールドが示しているような、決定論的差別(黒人差別にせよ、ユダヤ人差別にせよ)のような「失敗」は避けなければならないが…。

 このあたりはグールド『人間の測りまちがい―差別の科学史』に詳しい。

▼生物学・進化論関係は、前々から勉強してるが、そろそろ少し自分の知識を整理しても良い頃だな、と思っていたりもする。20年後、30年後になれば、心理学系の人も、この手の知識は必須だと思うのだが、どうなんだろうな…。

 プレートテクトニクス(地震の原理を説明しうる概念)だって、50年ほど前までは、単なる仮説だった訳だし。でも、将来を見据えるのって難しいものだわな。

ちょこっと会合

▼午前~お昼。長年、お世話になった先輩&後輩とランチを食すため都内某所へ。もともとはE氏への荷物運びが名目だったような気もするが、大変良いご挨拶の機会になったばかりか、最近の業界動向について伺うことができた。短時間ではあったが、限られた時間内でこういう機会を積極的に作っていきたいな。

▼午後~夕方。せっかくなのでお買い物。ついでなので冬物衣服も購入。どうでもいいことだが、何が「せっかく」で、何が「ついで」なのかの境界は大変あいまいだ。「せっかく」とか「ついで」という言葉で、自分自身の機会を拡大してるんだとは思うが。

 お目当てが決まっていたので、探すのは簡単だったが、うーん悩むところだ。

▼消費行動をしながら思うことだが、私は、自分なりに「物語」を作りながら、お買い物をしている傾向が強い気がする(物語マーケティングの対抗行為か)

 正確には「物語」というよりは、こじつけに近いかもしれないが、先日10月25日の日記に書いたような「○×つながり」を買い物でも活用しているような気がする。振り返ってみるに、あちこち店を移動するのは、それが原因かもしれない。

 結果として、いい物語を紡ぐことができれば良いわけで、それ以上でもそれ以下でもないが、この順序に何か隠されているかもしれないな。
(注:おそらく「それ以上でもそれ以下でも」というのは、曖昧に文章を終わらせる時に使う常套句の一つであろう。「物語」という言葉同様、物事を何となく分かった気にさせる危険なフレーズかもしれない。「隠されている」も同様の概念だ)

 というわけで、雨の土曜日も終了。気分も良くなったので明日は仕事だな。

▼所用で『エモーションマーケティング―「感情」こそが生涯顧客をつかむ』を読む。言いたいことは分かるが、うーん。エモーションも危険な概念の一つか。

バック

▼10月26日(火)~29日(金)まで所用のため日記更新お休み(後日更新するかもしれないが、リアルタイムではないのであしからず)。

▼29日(金)にはアメリカ西部は某W州から、COACHのiPodケースが欲しい!!という意味不明なメッセージがやってきたが、私にとってコーチといえば宗像コーチ(by エースをねらえ)を指すので、詳細は知らない。

 まあ、吉田カバンのiPodケースよりはいいかな。でも何故にハート?

▼関係ないがバックつながり。横浜は元町にあるのは、ハンドバックの「キタムラ」だった。調べて見たら吉田カバンの本社は東京。あれ、そうだったっけ?

▼今日の日経新聞を読んでいたら、サムソナイトと提携していたエース(サムソナイトの方が有名だが国内メーカーだ)はサムソナイトとの提携関係を解消するらしい。でもって2004年末から、オリジナルブランドProtecAをリリースする模様。

 そろそろ、私のビジネスバックもよれよれになってきたので、自分へのご褒美(死語)にエースのバックを買おうと思っていた矢先の出来事。どうせならProtecAシリーズが出るまで我慢しようかな…なんてことを思ってみたり。悩むところだ。

 まあ、ユニクロのバックも耐久性&信頼性からしてみれば申し分ないのだが…。

▼いずれにせよiPodケースについては、わたくしも欲しいので要相談。ビバ円高。

アジル

▼石川県(能登)には「いしる」と呼ばれるお魚ベースの醤油がある。私が石川県民だった時はあまり活用できなかったのだが、能登料理には欠かせない味である。

▼童話の世界では、アヒルは重要登場キャラクターである。今やディズニーランドの代表はミッキーマウスだが、本家はドナルドダックだ(おざわさんのディズニーネタは有名だが、『ドナルド・ダックを読む』を読むなど研究も進めているらしい)。

 北京ダックも当然アヒル。言うまでもないが、アヒルの子はアヒルである。

▼ニーチェやカミュ系のニセ愛読者なら「ニヒる」は人生において欠かせない行為である。いわゆる一つのニヒリズム。虚無主義。合コンにおいて「愛読書はキルケゴールの『死に至る病』です」と喝破できれば一流のニヒリストである。

 ちなみにイヒッは旭化成が一世を風靡したフレーズである。
 イヒを「ニヒ」と聞き間違えられるようになったら、君も立派なニヒ仲間。

 あれ、キルケゴールはニヒ系じゃないっけ?

▼経営学領域では「アジル」(アジリティ)は「俊敏」と訳されるらしい。代表的な和書は『アジルコンペティション―「速い経営」が企業を変える』や、『俊敏な知識創造経営―東芝ナレッジマネジメントの研究』といったところか。後者は野中先生本である。

 対極にあるのが辻信一(文庫 2004)の『スロー・イズ・ビューティフル』や『スローライフ100のキーワード』などをはじめとする、最近のスローライフ、スローフードブームかもしれない(ちょっと違うが、高橋俊介(2004)の『スローキャリア』なんて本もある)。

 人生において、時にいしるやアヒルを味わいたい時もあれば、ニヒりたい時もあるだろう。アジリティが求められる時もあれば、「出会いはスローモーション♪」(中森明菜の歌である。ちょっと古い)と歌いたい時もある。そんなもんである。

 今日はアジルな一日であった。言いたかったのはそれだけ。忙しいので失礼。

ひとめぼれ

▼先日いただいた新米を食べきってしまったので、先だって購入した「ひとめぼれ」を炊いて食べる(金沢に住んでいる時は、地元を買っていたが、埼玉県民となった今は、宮城県産を選択するわたし。一応、地元意識があるらしい)。

 寝ぼけ眼で袋を見た時、思わず「おちこぼれ?」と誤読してしまった私は、きっと何かをお米に投影しているに違いない。

▼私にとって「おちこぼれ」といえば、高橋留美子の『めぞん一刻』に登場する五代君である。五代君のような「甲斐性なしの貧乏人」に憧れながら今日まで生きてきたが、言い換えれば、「不器用でも人間味のある」ひとを目指したいということか。

 後は手先が器用だったらな…なんてことを思ってみたりもする。

▼結局、まったりした一日で終わる。読書。榊原清則(2004)の『キャリア転機の戦略論』は、彼の代表作『企業ドメインの戦略論―構想の大きな会社とは』に比べると、ややパワー不足かな…。読み物として事例は面白いが、密度は低いかも。

 同じイギリス事情でも(本書で紹介されいているのは、彼がイギリスの教員だった頃のインタビューである)、まだ『講義のあとはパブで』の方が、雰囲気が出ていたような気がしないでもない。

 これも、事例集をどう読むか、次第かな。

(ここだけの話だが、同じキャリア論でも金井先生(例えば『組織変革のビジョン』に比べて、榊原先生の本は「暗い」気がしてならない。悪い意味ではないが、アメリカ的文化とイギリス的文化の違いかな、と思ってみたり。これもステレオタイプかも知れぬが)。

 ついでに『世界の大学危機』も斜め読み。大学危機そのものよりも、世界の大学事情について知る上で、大変によいガイドブックかも知れない。
 本書は、主にアメリカ・ヨーロッパの紹介。一般にはあまり知られていないアジア諸国の大学事情(私も詳しくはない)の本もあればいいのにな…。

新潟県中越地震

▼新潟の地震はなかなか大変なことになっているよるようだ。

 昨日書いた日記を読み直して、ふと思ったのだが、あることをネタ(話の種)にした時、必ずしも文中に書いているロジック(時間の流れ)が正しいとは限らない気がする。

 何度か1月前後の日記でも書いていることではあるが、神戸・淡路の大震災の時、私は予備校の自習室にこもっていて(注:当時は真面目だったのだ)、夕方かなり遅い時間まで「まさかあんなことになっている」とは全く知らなかったのである。

▼もちろん、朝のニュース(当時私は家を朝6時ちょい過ぎに出ていた)で地震が起きていたことは知っていたし、自習室でもまわりがざわざわしていた気もした。しかし、「何か大変なことが起こった」ということは、正直な話、感じることはできなかった。

 それゆえ、地震と代ゼミの講師室(初めてテレビ画面を見た時はウルトラマンをやっていると思っていた。そのくらいリアリティがなかったのである)の記憶がどうも切り離せないらしい。今でもあの時の光景がありありと思い返されるもんな…。

 あの時ほど、言葉を失った時はなかったし、メディアと切り離された生活を送るということの「こわさ」を知ったことはなかったと思う。

▼きっと昨日の日記にほんの少し書いたことも、代々木に行ったことそのものよりも、新潟の地震から想起される記憶に左右されていた気がしていならない。

 などと、こんなことを考えても何が変わるわけではないが、とりあえず何が出来るかを考える時間が必要、ということなのかもしれない。

結婚式二次会

▼大学時代お世話になった先輩の結婚式二次会に参加するために、代々木へ。代々木駅で降りるのは…、代ゼミ時代以来ではないかと思われ…る。
(注:私は、某所のサテライン=通信衛星授業受講者だったのだが、なぜか代々木校でも授業を受けたことがあるマニアックな人間だったりする)。cake

▼たいへんおめでたい席で、まさかS氏(O研)や、S氏(T研)にお目にかかれるとは思ってもいなかった。

 後者のS氏は最近、ユビキタスクローニング(時空自在生体複製)の研究されているようで、先日も某所でお目にかかった。本日、告白し忘れたのでこの場を借りてコメントしておくと、先日、夢にも登場いただいている。何が抑圧されているのか気になるところだ。

▼帰った来たら地震が…。新潟方面の方々のご無事を願いたいところである。

読書メモ:組織変革のビジョン

▼金井壽宏先生の『組織変革のビジョン』を読み直す。ご自身も「あとがき」で記しているように、「扱いが不完全なところ、思考や議論が不十分なところが残っている…(略)」感が否めない本だが(注:私のような人間が言えることではないが)、その分、ビジョンに関する生き生きした語りを垣間見れる本であった。

 彼の多くの著書が味わい深いのは、豊富な文献からの引用(とくに名言が多く含まれる)や、ちょっとした小咄が多いからかな…と一瞬、思ってしまったが、それ以上に氏が一つひとつの「ことば」を大切にされているから、という方が正確かもしれない。

▼本書のタイトルにもなっている「ビジョン」という言葉は使い古されてしまった感もあるが、次のように語られると、なるほどと思ってしまう気がする。

 以下、下線部は引用者による。
 しかし、わたしは、ここではアジェンダをあえてビジョンと言い直さないようにしている(引用者注:アジェンダの設定ををビジョンと同格に捉えるような見方もあるらしい)。ビジョンは本当はよい言葉であるのに、かつてビジョンという名のウソのスローガンを聞いたひとは、「ビジョンが大事」といってももう燃えない。だから、アジェンダ設定をビジョンと言わないし、ビジョンを言いたいときは、「ビジュアルな(ありたい姿がありありと想いうかぶ)ビジョン」とか「見ていてわくわくするような地図」と言ったりしている。

 ビジュアルな大きな絵(地図)を描き、その絵の実現に向けて、それを緻密にアジェンダ項目に落としていって、人々を巻き込むこと-。

 変革型リーダシップのエッセンスを自分なりの言葉で語るとき、わたしがいちばん気に入ってる表現がこれになる。(pp.167-168)
 もちろん、「ありたい姿がありありと想いうかぶ」」という表現や、「わくわくするような地図」という言葉が<生きる>のは、彼の言葉が豊富な理論で裏付けらているからである(使い方によっては大変に陳腐な言葉になりうる)。

 このあたりは、部分引用じゃ捉えきれないかな。

▼「実行」ということばもしかり。他人に「実行が重要だよ」、と言われても、「そんなもん分かってるわ」と反抗もしたくなるものだが、「最後までとことんやり抜く」と言われれば、これも文脈や語り方によっては、すっと入ってくる場合もあるかもしれない。
 研修などのとき、わたしはエクスキューションを「実行」と訳さず、わざと「最後までとことんやり抜くこと」と言うようにしている。「実行」にすると言葉がさらっとしてしまってきれいごとのように聞こえ、「やったらいいんでしょう」となってしまいかねないことを恐れるからだ。(p.171)
 結果として意味は同じだったり、ちょっとした表現の違いに過ぎないかもしれないが、このような語彙を、どれだけ豊かにしていくかで、他者に対する説得力は違ってくるのだろう。このため「ことば」の持つイメージを豊かにしていく必要がありそうだ。

▼これだけイメージ豊かな金井先生が褒め讃える、ことばの名手の一人にラグビーの平尾誠二がいる(ここだけの話だが、私もひそかに嫉妬している同性である。もっとも生まれ変わったらラガーマンになりたい…、と思ったことはないが)。

 金井先生が紹介しているのは次の2つのエピソードである。
 平尾さんはそうした言語化能力に長けていて、よくほんとうにはっとさせられるような発言をされる。たとえば、「ラグビーにフィギュアスケートと同じような規定演技があれば、日本チームは優勝するでしょう」とも言われたことがある。これは、きびしい警句をジョークにつつみこんだ表現だ。日本チームはきれいなパスがいいパスと思って反復練習しているから、きれいなパスをする。しかし、ゲームはそれで決まるわけではない。

 「きれいなパスをつなぐことを考えすぎるな」と言われるのと、「規定演技があれば日本チームは優勝する。だけど、ラグビーに規定演技はない」と言われるのを比較すると、おもしろみも、イメージも、後者のほうが勝っている。(pp.220-221)
 確かにうまいよなぁ。直に彼から話を聞いたら、文字では捉えきれない迫力もありそうだ。この手の「きびしい警句をジョークにつつみこむ」という技術を、私も、いい加減に身につけなくてはならないな、と思うのだが、なかなか難しい。
 
 関係ないが、ジョークと言えば最近入手した、『イラン・ジョーク集―笑いは世界をつなぐ』はとっても愉快である。イランの文化を知る意味でも名著だ。すでにamazonのレビューにも書かれているが下ネタが微妙に含まれているあたりがイランイラン風。

 もう一つのエピソードもせっかくだから引用しておこう。
 もうひとつ、なるほどと思わせる平尾さんの言葉をあげると、「ラグビーで大切なのは見切りと仕切り」というフレーズがある。ゴールをめざす刻々の流動的見切りがタイミングで、仕切りがポジショニングになる。大和言葉で韻を踏んでいるところが、またすばらしい。「ラグビーにはタイミングとポジショニングが大事」と言われると当たり前と思うかもしれないが、「ラグビーは見切りと仕切り」と言われると、「それはどういう意味ですか」と乗り出したくもなる。いわゆる「まんま」ではないちょっと変わったテイストが加わると同時に、相手の興味を引く絶妙の話術ではないだろうか。(pp.221)。
 「見切り」と「仕切り」とは…、まったくもって見事としか言いようがない。

 ギター侍(だっけ)的に言えば、「カタカナ斬り」といったところか。斬るだけじゃなくて、新しいものを生み出すところは、違うといえば違うけれど…ね。

 たとえば、これをそのまま転用して「恋愛で大切なのは見切りと仕切り」と言うと、誤解を招きそうである。ラグビーだからこそ生きてくる組み合わせだろう(逆に、「恋愛で大切なのはタイミングとポジショニングである」は、少なくても私はしっくりくる)。

▼にしてもこの手の語彙力や発想力っていうのは、どこからやってくるのだろう。

ロイヤルパークはいあっと

▼先日、訳あって某所のロイヤルパークホテルを訪れる機会があったのだが、調べてみたら、この会社はホテルオニコウベも系列にしていたことが発覚。

 北は北極、南は南極まで広がる本Web日記の読者の皆さんの半数以上はご存じないかもしれないが、ホテルオニコウベは知る人ぞ知る宮城県(私の実家)のリゾート地である。スキー好きの方ならば、その名を聞いたもあるかもしれない。

 漢字で書くと、ホテル鬼首。なんか夜に出てきそうな感じだわな。

▼しかも、ロイヤルパーク=外資系だと思っていたら、れっきとした日本企業。三菱地所系らしい。そうか、考えてみれば横浜のランドマークタワーって三菱系だったもんなぁ(みなとみらいには「三菱みなとみらい技術館」もあるくらいだ)。

 たぶんロイヤルパークを、パークハイアットと混乱していたのだろう。パークといえばパークホテル(そのまんま)もあるし、名称の激戦区である。

▼その他、名前が似てる(気がする)のは、セレスティンとウェスティン。celestiteは、ラテン語で「天空の」「素敵な」「絶妙な」を意味するらしい。ふーん。ティンは国家なり。

おにぎり

▼深夜、経費節約のため、おにぎりを作成。先日いただいた新米でリベンジした。

 なぜリベンジかというと、先週の無印良品の週間(5%引き)で、ガスコンロをついに導入 → 土釜おこげで炊いてみたのだが、新米は予想以上に水を減らす必要があったようで、少し水っぽいお米になってしまったからだ。

 ん?分かりにくい日本語だな。要するに新米を炊くのに失敗した、ということだ。

 ちなみに土釜おこげも、無印良品製品。意味もなく揃えてしまった。

▼本日、作業をしながら発覚したのだが、先日は1合のお米に1.5合弱の水を足してしまっていたらしい(普通のコップを計量カップ代わりに使ったのが過ちのものだった)。今回は、きちんと量ったので上手い具合におこげごはんが出来上がった。

 新米を食べられる幸せを、ちょっぴり噛みしめてみたり。

▼ガスコンロでお米を炊くっていうのも妙な話かもしれないが、1~2合だとそれがベストかな、と思ったりもする(少なくても電子レンジで炊くよりはおいしい)。

 電器ジャーの調子が悪いから土釜おこげを購入し、その後、アパート付属の電器コンロの調子が悪いから(IHじゃ炊けないしね)、ガスコンロを買ったのだが、結局、トータルコストで見ると高く付いているような気がしないでもない。

▼先日、F氏が言っていたように、しばらくは「選択と集中」で行くことにしようっと。

ふれあい

▼人前でお話をする反社会学講座機会をいただいた時、たまには愉快なことを言って笑わせよう(受けを取ろう)、と思うのだが、これがまた難行である。

 今回は、何かネタでも仕込んでおこうかと(注:どうでもいいことにエネルギーを注ぐな、なんてツッコんではいけません)、爆笑問題の本でも読もうかと思ったが、見あたらなかったので、手もとで一番ネタが多そうな『反社会学講座』を再読する。

▼巷でも、何かと話題になっているが、本書は、大変に愉快な本である。

 たとえば「ふれあい」について論じた章では、朝日新聞における「ふれあい」という語の用法について次のような指摘をしている。
(前提として、世の中には「ふれあい会館」や「ふれあい祭り」のように、「ふれあい」という名を好む風潮がある、ということを知っておくと良い。著者によれば埼玉県には「ふれあい」と名の付く公共施設が全国で二番目に多いらしい。一位は愛知)
 社説欄にもふれあいはたびたび登場します。九七年四月、援助交際をする女子中高生に向けたメッセージ。

> 生きていく途中で特別な人と出会い、ふれあい、共感がもてたとき、
> 喜びに満たされます。あなたは、かけがえのないそんな体験を、
> わずかなお金とひきかえに遠ざけてしまうかもしれないのです。

 これでは、中年男が若い娘にキショイー、キモイーといわれるのも無理はありません。それより最大の問題は、このメッセージが社説欄に載ったことです。読者が存在しないこと、それに自己満足100%という点で、社説は自費出版の自分史と似ています。ただでさえ新聞を読む女子中高生は少ないのに、しかも社説欄です。このメッセージはだれの心にもふれることなく廃品回収に出されてしまいました。

 社説に関しては、愛知県のふれあい施設建設を応援した例もあります。そして極めつけは、二〇〇一年二月、前月末の旅客機ニアミス事件を考察した社説です。「触れ合いそうになった両機の距離は…」飛行機の接触事故さえもふれあいと表現してしまう朝日のふれあいフェチぶりには、もう感服するしかありません。(pp.155-156. 太字は引用者)
 この一文には私もおもわず感服してしまった(気はふれていないので心配なく)。

 ジェフリー・ミラーの名著『恋人選びの心 性淘汰と人間性の進化 (2)』によれば(断っておくが本書は専門書。真面目な本である)、「創造性とは、ランダムな考え方をカオスのようにランダムに結びつけることではなく、ある社会的効果を得るために、新奇性を戦略的に使うことを意味している」(p.563)、と言う。

 上記例は、新聞のキーワード検索を新奇性豊かに使った好例と言えるだろう。
 (パクリだがデータベース演習に「ふれあい」は使えるキーワードだな)

▼ちなみにミラーは、次のようにも述べている。
 ユーモアを理解することはまた、恋人選びの重要な一部でもある。進化心理学の発見の中で、もっとも衝撃的でもっとも不思議な発見の一つは、世界中どこに住んでいるどんな人々でも、優れたユーモアのセンスを高く評価していることだ(引用中:さらに脚注付き)(p.584)
 たぶん『反社会学講座』の著者は、相当モテるんだろうなぁ。
 もっとも、笑いにもツボがあるらしいので、受けるか否かは場合によるらしいが。

▼あれっと。もともと今日の私は、何を話そうと思っていたんだっけ?

 どうやら、おざわさんはボケ役の方が向いているらしい。一応、オチ付き。

宣言の宣言

▼竹田青嗣氏の『恋愛論』を読んでいたら、以下の文章にマーカーが何度か引かれていた。いつ引いたのか覚えていないが、印象的だったのでメモ。
 病や狂気のうちにある感情の本質は「不安」である。日常生活から、その中で安定した自我から逸脱することの不安である。恋愛の感情もまたたえず不安を含んでいる。しかし恋愛感情の本質は不安ということではない。それがもたらすのは、むしろつねにこの不安を超え出ようとする「力」であり、またそれが指し示す「意味」とは、この不安を超え出ることができるという「可能性」だからである。(p.26)
 この手の寄せて落として上げる(不安というネガティブな概念を持ち出しておいて、その後、それを否定する)というロジックは確かに説得的だけれど、今思えば、そもそも安定と不安定の縁にしか、感情って宿らないような気がしないでもない。そもそも「不安」を不安でなくする作用が、その可能性じゃないかと思ってみたりして。

▼山パン(山崎パン)は買いません宣言をしているわたくしだが、先日、台風の時に珍しく(パン屋さんに行くのが面倒だったので)、「新食感宣言」なる食パンを購入&冷凍していた。今日はそれすらストックが切れたので、近所のパン屋に買いに。

 「久々だねー」って、まあ、覚えてくださっていたのね。恐るべしご近所。

▼宣言と言えば、int(プログラム言語)。さもなくば共産党宣言

 「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」を、プログラム言語的に書き表せば…、random と nextGaussian は必須か。

 class の本意は…、階級?

▼そういえば昔、森高千里が『非実力派宣言』なんてアルバムを出してたな。

 宣言の最高峰といえば、さだまさしの関白宣言だが、個人的には、平松愛理の『部屋とYシャツと私』の方が好きだなぁ。なーんて、いずれも古い=年齢がばれる。

ポケベルが鳴らなくて

▼先日、とある話題で今は懐かしい裕木奈江の話題で盛りあがる(盛りあがるって言うよりはネタにしていただけ…かもしれない)。
 軽くググって見たら、どうやら最近の彼女はギリシアに留学中らしい。
 それ以前は、舞台でご活躍とのこと(しかも、既に結婚も)。ふーん。

▼前々から、お仕事用に国武万里という人が歌っていた「ポケベルが鳴らなくて」(裕木奈江が不遇の目に遭う契機になったとも言われるドラマのタイトルでもある)を入手したいと思っていたのだが、軽くググってみたら歌詞が見つかった。わたしゃ、「ポケベルが鳴らなくて 恋が空回りしてる」だと思い込んでいたが、正確には
 ポケベルが鳴らなくて 恋が待ちぼうけしてる
 だった。作詞は何と(というか想像の範疇ではあるが)、秋元康だったらしい。中古シングルを入手するのは難しくなさそうなので、早いうちにゲットしておこうっと。

▼もはや携帯電話の存在が「当たり前」のようになってしまったが、その昔は、ポケベル(ページャー)が。そのさらに前は、携帯電話なんぞ想像もできない時代が確かにあった、ということは記憶のどこかに留めておいても悪くはなさそうだ。

 私なんかは東京ラブストーリー(1991年のドラマらしい)の時代に、もしポケベルや携帯電話があったら、二人はどうなっていたんだろう…などと思わず考えてしまいそうになるが、逆に言えば、ドラマが書きやすかった時代でもあるのかも知れない。

▼メディアとしての電話の歴史については、吉見俊哉『メディアとしての電話』が出色の出来だし、携帯以降については『ケータイ学入門―メディア・コミュニケーションから読み解く現代社会』が、入門書としては分かりやすい。

 異色のメディア論としては、森岡正博氏の『意識通信』は、今読んでも斬新。

 ところで『場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響』の下巻っていうのは、いつ出るのだろう。上巻だけ入手したっきりなのだが…。

▼その他、関連書には『絶え間なき交信の時代』『電話するアメリカ―テレフォンネットワークの社会史』『ポケベル・ケータイ主義!』などがあるが、いずれも資料的価値も高いかも。この手の本の整理もしなくちゃならないなぁ…。

ホームカミングデー

▼「秋祭」(いわゆる大学祭の一つ?)と、「ホームカミングデー」と呼ばれる卒業生を大学に招く催しが行われるということで、久々に学部時代の大学に訪問する。

 久々に訪れた大学は…懐かしい!の一言であった(と言っても、そんなに久々ではないんだけれどね)。でも、周囲の街並みは結構変わっていてびっくりしてしまった。大学も、建物自体は変わっていないが、雰囲気はちょっと違っていた気がする。

▼もっとも、変わっているのか変わっていないのか、よく分からないのは「人」である。久々にお目にかかった人も少なくなかったが、変わったと言えば、変わっているし、変わっていないと言えば、変わっていない。時間の魔法とは不思議なものだ。

 結局、ひとというのは変化と不変のあいだにしか、生きられないものなのだろう。

 今も昔も、この手の見方自体は変化していないかもしれないが(私にとっては結局のところ「あいだ」が重要なのである)、見えているものは確かに違う一日だった。

▼その後、後輩と合流し、食事におつき合いいただく。

 本当は、夜な夜なお話をしたかったのだが、諸事情により最終便で帰らざるを得なくなる。いろいろあって大変と言うか、思うようにならないこともあるらしい。残念。

▼どうでもいいことだが、私の出身学部(大学ではなく学部というかキャンパスか)で、特筆すべき事柄の一つは、お手洗いに置いてある花ではないかと思っている。

 どうやらお掃除のおばちゃんお嬢さんが、置いてくれているものらしい(私が知る限り、お嬢様方は愉快な人が多くて、ご多分に漏れずお話好きである。私は、彼女らとお茶をしたことがある数少ない学生の一人である、と自分では思っている)。

 今日も、お手洗いの片隅でお花が凛と飾られていたので、思わず写真を撮ってしまった(念のため断っておくが、男性用である。よからぬ誤解をしないように。女性陣の噂を聞く限り、女性用のお手洗いの方が、お花は充実しているらしい)。


 
 ほとんどはおばちゃんお嬢さま方の家の庭先で育っていた生花や、お手製のドライフラワーらしいが、過去10年以上(それ以上になるのかな?)、このような試みが継続しているということは、とても素晴らしいと思う。

 地元密着型を志向した、比較的小さいキャンパスだから出来ることなのかもしれないが、彼女らには頭が下がるばかりである。

 これはたぶん『未来を創る大学』にも書いていなかったネタだよな。

 ちなみに写真は、左からκ(カッパ)、ε(イプシロン)、ι(イオタ)のもの。ο(オミクロン)の写真は誤って消してしまったので、揃っていないのが残念。

▼試しに、自分の職場のお手洗いにも花を飾ってみようかな。
 なんて言ってみるテスト(放置プレイになる可能性も高し)。

主客逆転

▼都内に出張。時間がぎりぎりになってしまったので、忍者ハットリ君の如く某西武線終着駅ホームの縁を全速力で走っていたら、危うく落下しそうに。

 いやー、あぶなかった。前後から電車が来ないことを知った上での確信犯だったのだが(注:断っておくが山手線とか、見知らぬ路線でそんなことはしない。終着駅だから可能な技である)、本人以上に周囲の人はもっと驚いただろう。

 今後、さらなるバランス力を鍛えなくてはならない…と思った今日この頃である(注:よくよく考えるとそもそも電車が遅れた=乗り換え時間が少なかったのが要因である。それ以上に、余裕を持って出かける必要があるのは言うまでもないが)。

▼帰り道、久々に鷲田清一氏の『「聴く」ことの力―臨床哲学試』を読む。こういう主客逆転の捉え方(例えば、「他者を迎え入れるというのは(略)、迎え入れられることでもあるのだ」)には、何度読んでも納得させられるものだなぁ。
 シェレールによれば、歓待とは(注:歓待=ホスピタリティ)とは、<客>を迎え入れる者をその同一性から逸脱させるものである。いいかえると、「社会的分類の中での範疇化された」自己をつきくずすきっかけとなるものだ。他者を迎え入れること、それは他者を「われわれ」のうちに併合することではない。「聴く」ことの力すなわち、他者をサプロプリエ(s'approprier=同化する、専有する、横領する)ことではない
(改行)
それはむしろ、自己を差し出すことであり、その意味で他者とのぬきさしならぬ関係、関係が意味を決めるのであって<わたし>が関係の意味を決めるのではないような他者との関係のなかに、傷つくこともいとわずにみずからを挿入してゆくことである。(ボランティアについて述べた金子郁容のことばを借りていえば)みずからをあえてヴァルネラブルな位置に据えることである。他者を迎え入れるというのは、そのまま、じぶんの理解を超えたものによって迎え入れられるということでもあるのだ。(pp.136-137)
 下線部は引用者による
 「同化」や「専有」「横領」を意味するこの言葉は、バフチンの『小説の言葉』にも登場する重要なことばなのだが、概念の使い方が違うらしい。要チェック。

 私的には、主客を逆転させる捉え方の方が、しっくりくるかな。
 常に意味は関係の中に委ねられている、という感覚も然り。

ホスピタリティ

▼ホスピタリティについてついでにメモ。

 語源をたどるっていうのは、なかなか愉しい。ホスピタリティということばと、ホテルやホスピタル、ホスピス、ホスト/ホステスがつながっているとは。
 他者を迎え入れるということ、このことを西洋人は<ホスピタリティ> (hospitality = もてなし、歓待)ということばで表してきた。ホテル(hotel)、病院(ホスピタル=hospital)、ホスピス(hospice)、そしてホストおよびホステス(host/hostess)といったことばもおなじ語源からきている。つまり、ラテン語で「客」を意味するhospes、ないしは「客として迎え入れる・もてなす」という意味の動詞hospitareに由来する。ちなみにこのhospitareは、英訳するとreceive as a guestとなって、「客として受け入れる・接待する」ということであるから、歓迎の行事やホテルのフロントという意味のレセプション(reception)もまた、ホスピタリティの形象であるといえる。

 広い意味で<ホスピタリティ>を職業としているひとは数多くいる。医師、看護婦、家政婦、カウンセラー、ソーシャルワーカー。ホテルマン、旅行業者、理髪業者、そして接客業者たち。宗教家、教師、交番のおまわりさん、役所の窓口のひと。俳優、運転手、商店街の小売業者。これ以外にもいわゆるサービス業のひとたちがほとんど、これに入るだろう。
 他者を迎え入れる、ということについて今一度考えたいところである。

とってもいい日

▼とある説によれば、10月11日は「とっても(10)、いい(11)日」らしい。

 私もこの手の語呂合わせは大好きだが、本日、この良き日に知人の結婚式の二次会にご招待いただいた。まったくもって光栄な限りである。

 お幸せそうな二人を前に、何か、洒落たことを言おうと思ったが、こういう時ほど、なかなか思い浮かばないのが難点である。「お幸せに!」というありふれた言葉に敢えて私なりに一言付け加えるとすれば、うーん。例えば、この一節か。
幸せって単純なこと 
ぽかぽか日差しのような 
あなたをいつも近くに感じながら 
昨日と今日と明日を永遠(とわ)につないでゆく
終わることのない愛で
  岡村孝子作詞・作曲「Winter Story」
 中島みゆきならば、
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます
  中島みゆき作詞・作曲「糸」
 ちなみに、歌詞カードを見ていないので変換がちょっと違うかもしれない。

▼中島みゆきの「糸」では、引用部の前に「織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない」とか、「織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない」という、奥行きのある一節も含まれていて、なかなか印象的である。

 両者、語っている向きは違うが<時間>や<空間>の「あいだ」をつなげてゆくことが、いわゆる「幸せ」(仕合わせ)の本意である、と言っているような気がする。

 共に過去と現在と未来を築いていきつつ、一方で、他者にとっても意味のある関係を織りなしていくかは、これからの自分にとっても重要な問いなんだろうな。

 なんてことを思った、とってもいい一日だった。
 いろんな意味で、今日は記念日。

▼過去の日記を見たら、2002年の同日には「とっても気分のよい一日だった」と記している。うーん、もうちょっとで「とってもいい日」にたどり着きそうだったのに。惜しい。

 ちなみに2001年の10月10日には、シクラメンを買っている。もうそんな季節。

早朝活用術

▼某池袋線車内で、真剣な眼差しで読書をしている人を発見。どんな本を読んでいるのか気になって、手鏡でかがみ込んで見たら『図解 朝10時までに仕事は片づける―やればできる!あなたの朝に奇跡を起こす8つの習慣』とのこと。

 うーん。わたくしは、こう見えても朝4時~5時までには仕事を片づけているが、世の中にはそのさらに上がいるらしい(謎)。

▼確かに、朝10時までに仕事を片づけて、世の中で言う「モーニングセット」をディナー代わりにして寝る、という世界標準時的生活を送るのも私は悪くないとは思う。

 が、欠点があって、
  • (1)友達が少なくなる(世の中で言う飲み会に参加すると、駆けつけ一杯のつもりが、寝起きに一杯になってしまい不健康である)
  • (2)朝11時からの会議やうち合わせが入ると、結構、しんどい。
    まして午後3時からのうち合わせは、絶望的状況である。
  • (3)このような生活リズムを人に説明すると、他者からの印象が悪くなる。
    しかし、説明しないとお昼=深夜に携帯がかかってきたりするのも難点。
    夜にデートをすると、自分一人だけ寝られない、という欠陥も。
 などのリスクを負うことになる。くれぐれも注意されたい。以上、大いなる誤読。

▼にしても、最近、どうやらこの手の「早朝」本が流行らしい。軽く検索してみたら『早朝会議革命~元気企業トリンプの「即断即決」経営』とか、『早朝起業―「朝5時から9時まで」の黄金時間を自分のために使う方法』など、他にも多数。

 思うに、この発想は太平洋的である。冬の日本海側に住んでごらんなさい。早朝に起きてもあたりは暗いし、寒いし、昼になっても暗いし。やる気なくなってくるから。

 なーんて冗談はさておき、金沢21世紀美術館も開館したことだし、朝一のJAL便(朝一便の小松行きは安いのです)で、金沢に遊びにいこうかな。

ありふれた日常を生きる

▼AERAの04年10月11日号で、村上春樹の『アフターダーク』の特集が組まれていた。そこで紹介されていた内田樹氏のインタビューの再構成記事が、私にとって再度、腑に落ちたので引用してみたい(内田樹氏の読者ならばおなじみのお話か)。
 日常生活では理不尽なことがいつ何時起きるかわからない。同級生に虐待され、妻に不倫され、不治の病にかかる。私たちは、その経験を自分が気をつけなかったからとか「合理化」しようとする。

 村上作品は違う。「邪悪なもの」を何の必然性もなく、「まるで冗談のように、何の目的もなく、私たちを傷つけるもの」と位置づける。(略)

 理不尽な危機の予感のうちに生きている人間だけが、日々の生活のなかで、村上春樹の好んで使う表現を借りれば、「小確幸」(小さいけど確かな幸せ)を享受することができる。(略)。

 同じようなことは、文化庁長官で臨床心理学者の河合隼雄氏も指摘する。河合説によると、現代人は不安を絶えず抱えて生きている。犯罪に巻き込まれる不安だけでなく、「自分が何をしでかすかわからない」という加害者になる不安も含めてである。(略)

 邪悪を自らに引き寄せ、「明日は我が身」と考えながら日々を送る姿勢が、現代社会のかすかな希望として、読者に読み取られている。それが「普遍性のある物語」(河合)として、世界で読者を獲得しているというのだ。

 村上作品には、「邪悪なもの」の侵入をいかに防ぐかの回答も、巧みに忍ばせてある。「ディセンシー」(decency)の恐ろしいまでの重視である。「上品さ」「礼儀正しさ」「寛容さ」「真っ当さ」とでも訳せるであろうか。

 作品では、掃除、料理、洗濯などの場面が繰り返し克明に描写され、人のいやがる仕事を黙々と積み重ねる人物が登場する。そして、何げない諸作業が日常生活を下支えしていることが強調される。(pp.46-47)
                        『AERA』 2004年10月11日号
 上記引用部分はAERA流の<コラム>的展開で、文脈が飛ぶし、分かりにくいが(部分省略しているから、余計分かりにくくなっているかもしれない)、重要なのは「理不尽な危機(邪悪なもの)の予感」と、「ディセンシーの重視」という指摘だろう。

▼内田氏がかねてから指摘している「ディセンシーの重視」については、『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』でも言及されていた。
 村上春樹の作品には、家事の様子がよく描かれている。主人公がアイロンがけを自分で決めた方法できちんと仕上げたり、換気扇や窓に至るまで部屋の掃除をしたり、あり合わせの食材でおいしそうな料理を作っている場面がくわしく描かれていることが多いが、これは非常に意味のあることだと思う。このようなかたちで日常生活を大事に扱う態度こそが、「向こう側」にしっかりとかかわることにも通じるのである。(p.205)
 理不尽なこと(何が何だか分からないこと)は、偏在しているものだ。

 だからこそ、それを予期しうるアンテナと(これは何かを「疑う」という意味ではないと思う)、きわめて平凡かもしれないが、しかし確実な(私ならば「リアリティのある」と呼びたい気がする)日常生活を送ることが重要になってくるのだろう。

 日常生活は、時に人を埋没させるが、理不尽さに埋没されることを救いもする。結局のところ、ひとは日常をいかに生きるか?を問いつつ生きていくしかないのかもしれないが、このような指摘はとても重要だと思ったりもする。

 なんてことを思ったりもした今日この頃。また、お話しましょう>関係者。

大学の選び方

▼先週の『AERA』で大学の満足度調査結果(byベネッセ)の結果が掲載されたり、今週の東洋経済(2004年10月9日号)で「本当に強い大学」という特集が組まれたり、受験シーズンを前に、大学ランキング系の話題が活発なようだ。

▼私は自分が受験生の時(といってももう10年近く前の話か)、この手のマスコミの報道は入念にチェックして志望校を選んだつもりだったが、入学後の実感としては、「入ってみないと分からないもんだな」というのが正直なところ。

 もちろん、大学4年間には満足はしているが(質問紙調査=アンケートで、5段階評価で問われれば間違いなく5を付けるだろう)、他大学との比較が出来るわけではなく、あくまで本人基準値でしかない。
 そもそも大学っていうのは、仮に他大学の授業にモグって講義を受けることが出来たとしても、「所属」は一つの大学でしか出来ないわけだし。

 もし今、大学選びに迷っている人に何かコメントできるとしたら(って、そんな読者はいないか)、事前に手に入れられる情報を用いて慎重に「大学選び」をしつつも、入学する大学を決めたら(希望の大学に受け入れてもらえたら)、与えられた環境をいかに活かし、いかに環境に働きかけるかに専念すること、だろう。

▼もちろん、大学を評価するにあたって「財務力」「経営革新力」「人材創出力」「研究力」(by東洋経済)など、さまざまな軸はあるだろうが、私自身が敢えて一つ重視するポイントを挙げるとすれば、ファカルティ側の「自己改善力」の有無でしょうかね。

 言い換えれば、与えられた環境の中で一定の制約はあるにせよ、学生が何らかの対象に働きかけた時、その相手が教員であれ、事務であれ、その人がきちんとリアクションしてくれること。
 願わくば具体的な改善を、「一緒」に巻き起こせること、かな。
 (前提として、工夫次第で世の中は良くなるというポジティブな世界観も必要かな)

 念のため断っておくと、自分がその社会の一員ならば、一方的に主張する…というのは原理的に不可能だと思っている。何らかの対象にコミットするということは、自分をヴァルネラブルな位置にさらすことでもあるしね。by金子郁容

 私も、いつの間にかどちらかといえば意見する立場ではなく、される立場になってしまったが(この手の二項対立は、あまりに安直かもしれないけど)、一緒に良いものを作っていこう、という姿勢だけは忘れないようにしたいものだ。

 要領が悪いとか、まあ、いろいろな批判はあるだろうが、IQじゃなくて愛嬌でカバーということで(って、オチとしては二流だなぁ)。

▼と、『未来を創る大学』を読みつつ、台風一過の秋の日の夜更けを楽しんでみたり。

 以下、東洋経済の安西祐一郎君のインタビュー記事より引用
 人間というのは18歳で一生が決まってしまうわけではない。20代、30代、40代、50代ともう一回人生をやり直すことができるような、そういう時代になってほしい。人それぞれにいろいろな能力を持っており、能力を開花するために、一度就いた仕事をやめて、また違う仕事をやってみようと考えてもいいと思うんです。違うことがやりたくなったとき、もう一度大学で学べる。生涯発達観を改めるべきですね。人生2回説、3回説を念頭に置いたうえで、大学も仕組みを整えていけばいい。(p.100)
 確かに「大学の入学者となるターゲットを広げたいだけじゃん」と穿った見方も可能かもしれないが、井関利明君風にいえば、「一人十色」的な価値観も重要かな、と。

野球の話

▼パリーグの一部のチームが合併するとか、ライブドアと楽天が新球団の設立を申請しているとか、その場所が何と仙台であるとか(注:私の実家。宮城県民=東北人にとってはうれしいニュースである)、最近、野球をめぐるニュースが多い。

 私が外部で何らかのお話をさせていただく時、もっとも良く使う喩え話や、雑談はスポーツに関する話題なのだが(その次は恋愛話だったりするが、最近、自主規制をしているという噂もある)、数あるスポーツの中でも野球は頻出中の頻出である。

 もっとも、私は別段、野球が好きというわけではないし、特にごひいきのチームがあるわけではない(敢えていえば日ハムか。これも友人の影響が大だが)。なので、たいてい私の話題も表層的なのだが(パリーグがプレイオフ制を導入したのも最近知った程である)、今回のごたごたにおいて古田の活躍は特筆すべきかな、と思っている

▼詳しいことは私は分からないのだけれど、捕手というのは野球の選手の中でも、もっとも「チームワーク」の重要性を感じさせるポジションではないか、と思う。関連する話題では小泉信三氏が、エッセイ集『練習は不可能を可能にす』で書いていたことが印象に残っている。味わいある文章なので、そのまま引用してみよう。
「チームワーク」について
 私はよくスポーツの試合を見てあるくがチームワークということについて、その人間社会の縮図を見ると感じ、今さらながら興味を新たにすることがしばしばである。

 やはり一番わかりやすいのは野球であろう。

 (略)ここに何万人という大観衆があっても、おそらくそのだれもが見ていない光景がある。それは捕手が一塁援護に駆け出す姿である。打者がゴロを打ったと見た瞬間に、忠実な捕手は必ずマスクをかなぐり捨て(あるいはマスクをかぶったまま)一塁の後ろへ駆けつけるはずである。そして、内野手が悪投して一塁手がパスボールすれば、すぐにそれを拾って、走者の進塁を防ぐか、あるいは、離塁する走者を一塁で刺そうとする。これがチームワークというものの最も簡明な一場面である。

 見慣れたものには、それは何でもない光景である。しかし、考えて見ればここに高邁なチームに対する奉仕の精神、その精神に従って行動する義務感と義務を遂行する意思の発露を見るといっても、それは決していいすぎではない。多くの場合、捕手の一塁援護は不必要に終り、かつだれにも認められないのである。(略)およそ縁の下の力持ちといっても、これほど人に認められない力持ちはないであろう。

 球が内野手に捕られ、それが一塁に送られた場合でも、一塁手がそれを後逸するのは、十度に何度あるか否か。多くの場合、援護は不要に終わるのである。(略)その時[引用者注:何十か一度、一塁手が球を後逸する]もし捕手がバックアップに来ていなければ、その捕手自身はもちろん、そのチーム全体は落第である。

 (略)いやしくチームに対する責任を知るものは、多分は無用であるが、しかし、万一の場合の必要に応ずるためのこの用意は怠らない。これがチームワークであり、またスポーツマンの精神である。スポーツでない実人生の無数の場面において、われわれはこの捕手のそれに類する用意と努力をしなければならぬ。それはスポーツがわれわれに与える最も貴重な教訓の一つであると思う。

 (略)全員の各員があえて縁の下の力持ちを避けないことによって、始めて全員の成功がある。
 難しく説明しようとすれば、いくらでもむずかしく説くことができる。しかし一塁援護のために駆け出す捕手の用意と覚悟を察するものは、チームワークの何たるかを知るであろう。
                     (『河流』新潮社 昭和35年11月)
 pp.168-170. 下線部は引用者による。
 上記の場面は、テレビではなかなか観られない光景であろう。

 今年は、私も縁あって友人にお誘いいたき久々にプロ野球観戦したり、春の慶早戦早慶戦を見に行ったりしたが、どちらもテレビの画面として切り取られていない光景(小泉流にいえば「縁の下の力持ち」に類する場面)を見られたのが良かった。

 野球に限らないが、多くの場面において、ひとは<球の行方>に目を向けてしまいがちである。最近の話でいえば、ライブドアVS楽天にせよ、プロ野球合併問題のいざこざにしても、その結末だとか表層だけに目を向けがちと言えよう。。

 しかし、その背後に無駄とも思えるような見えない営みがあることは忘れてはならないはずだろう。古田一人の活躍ではないと思うが、比喩的な意味での「捕手」がいてくれたからこそ、今に至っていることだけは記憶に留めておきたいところだ。

 って、半分は自分への言い聞かせでもあるのかもしれませんが。

▼私が古田に関連して読んだことはあるのは、平尾誠二(ラグビー)との対談集『「日本型」思考法ではもう勝てない』と、『勝利のチームメイク』の2冊しかない。
勝利のチームメイク「日本型」思考では
 前者は、ラグビーの平尾誠二氏による対談集。お相手は野球の古田、心理臨床の河合隼雄氏、経営学・組織論の金井壽宏氏ら。

 いずれも異色の組み合わせのように見えるが、プロフェッショナルというのは、こういうことかと思わされる対談だった記憶がある。

 後者は、サッカーの岡田、ラグビーの平尾、野球の古田の3氏によるクロス対談集。
 スポーツっていうのは一見、「血と汗」のように見えるが「知と汗」でもあるんだな、と思わされた一冊でもあった。野中先生風にいえば「知的体育会系」か。

 コラボレーションについて語る上でも、スポーツの話題は欠かせないな。

超恋愛論

▼いつの日が野口悠紀雄氏が「超」恋愛法を出版してくださる日を、ひそかに心待ちにしていたのだが、気づかぬ間に吉本隆明氏(よしもとばななのお父さま、と紹介されるのは不本意かもしれないが)が『超恋愛論』なる本を刊行されていた。
超恋愛論
 というわけで、早速注文…してから早3週間。
 生協さん早くお願いね。

▼野口悠紀雄ブランドで、「超」恋愛手帳(ショッキングピンク)とか、「超」恋愛日誌を出せば、きっと売れると思うんだけどな…。

 前者(『「超」整理手帳』が元ネタ)は、黒や茶系統ばかりだから明らかに男性ターゲットだし、後者(『「超」整理日誌』が元ネタ)もビジネスパーソン向けだし、まだまだシェア拡大の余地があるはずである。出版社さん企画持ち込みは、いかが?

語源を探る

▼移動中の読書。今回は、『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』で引用されていた鎌田東二氏の『身体の宇宙誌』(耳=みみの語源が「身の中の身」、つまり「身身」あるいは「実実」であるということを指摘していたのが印象に残った)と、竹田青嗣・西研(2004)の『よみがえれ、哲学』の2冊を持ち歩いていたらしい。

 最近、私は何故か語源に凝っている(?)のだが、身体の「身」という言葉一つとっても、多様な解釈があるらしい。著者によれば、「実」と「身」にはつながりがあるが、言霊的な発想をすると、「三、水、海、霊」とも関係しているらしい。

 こうした語呂合わせ的な語源解釈は、現在では学問的吟味に耐えうる解釈ではないと否定されているとのことだが、想像力を豊かにするという意味では楽しいかも。

 以下、引用してみる(この著者に限らないが、身体論系の論者は冗長な(別に批判的形容詞ではない)文章を書くケースが多い気がする。こういう本を読んだ直後は、私も一時的に冗長さが移ってしまう気もするので、お仕事では気をつけないと)。
 「身」という言葉の上から考えてみよう。近年の国語学の成果は、上代特殊仮名づかいの精密な研究を通して、同じ「ミ」という言葉でも二種類の「ミ」があることを明らかにした。それによると、「mi」と発音する「三、水、海、霊」と、[mii」と発音する「身、実」は別種の語源的成り立ちをもつものとされる。区別して、前者を甲類、後者を乙類とする。これにしたがえば、「身」は「実」と同語源である。ということは、「身」は「実」のつまった身体であるということだ。食物の「実」を摂取し、食物連鎖を通して生態系の生きた循環の中にある身体が「身」なのである。

 問題は、そうした意味世界をもつ「身、実」が、「三、水、海、霊」と別種のものであるとする近代国語学の成果は、はたして正しいのだろうかという点である。近世以降の言霊論者の中には、一音多義説を唱える人びとがいて、たとえば、「身」なら「身」という音韻が「実」のみならず、「三、水、海、霊」の意義をも含み持つものであることを主張した。そうした言霊思想の流れを汲んだ大本教の出口王仁三郎は、「ミ」とは、「一、日、火、霊」が増殖・成長して(増、殖、二)、「三」となり「身」となり「実」をみのらせる発展過程だと位置づけた。そしてその「ミ」が次に、「四、世、節」を形成するのだと。

 こうした語呂合わせ的な語源解釈は、現在では学問的吟味に耐えうる解釈ではないと否定されている。しかし、にもかかわらず、私たちは、わが「身」の中に「水」が流れる水路があり、「海」から這いあがってきた生命進化の痕跡があり、「霊」を宿し、生命が脈打っていることを直観的に了解する。(pp.4-5「まえがき」より引用)
 語源は探り始めると、なかなか奥が深そうである。ある意味、キリのない世界だが、時間がある時には、メモっておくのは悪くないだろう。

 どうでもいいが、コンピュータの画面ばかり見ていると、耳から入ってくる言葉が恋しくなる。言葉っていうのも、本質的には身体的なものなんだろうな。

▼竹田青嗣・西研(2004)両氏の『よみがえれ、哲学』は、対談形式本。期待して読んだが、「哲学」入門というよりは「近代哲学研究」入門の毛色が強いかもしれない。

 ある程度、近代哲学の知識がある人でないと、なぜそこで論じられていることが重要なのか(自分にとってどんな意味があるのか)分からない気がする。そもそも近代哲学の<衰退>の過程を知らなければ、「よみがえれ」という概念も出てこないよな…。

 しかも現代社会との結びつきになると、近代哲学者ではなくハンナ・アレントのような政治哲学者が援用されていたりして(その心は分からないでもないが)。

 また哲学を他の学問と区別しようとしているが、その区切りに何の意味が意味があるのかちょっと疑問に思った。両氏のポストモダン批判は納得がいくものも少なくなかったが、詳細は私の手に余るので、何とも言えない(結局、So what?感は残る)。

オリゴのおかげ

▼とある機会に、「オリゴのおかげ」を使った飲み物(炭酸系)をごちそうになった。

 私はもともと炭酸水が大好きである。気分転換にペプシを飲んだり(ついでにハーゲンダッツを食べると、プチ祝祭の敢行となる)、夜にビールや缶チューハイを飲む楽しみの一つは、しゅわーっという炭酸の感覚である。

 ただし、焼酎はロックで飲むのが好きだったりして(炭酸は少し甘いのがいい)。

▼自分でウオッカ等を使って飲み物をつくる時、甘みをどう付けるかが問題となるが、ハチミツだと味がきつすぎるし(注:ハチミツにもいろいろあるのは知っているが、自分好みのハチミツを探すのは骨が折れるのよ)、かといってただの砂糖というのも、なんだか味気ない。少し甘すぎる気もするしね。

 その点で、「オリゴのおかげ」は甘味料としても前々から気になっていたのだが、「おなかの調子を整えるという」という意味でも、ほどよい甘さという意味でも、なかなか良さそうである。ライムのような天然素材とも合うようだし。  やっぱりチューハイも自分で作った方が、美味しいんだろうな…。

▼おいしい炭酸水を安く買えると、経済的にも缶チューハイより良さそうなので、いくつか試してみようっと。目標は350ミリで134円以内かな(現実的!)。
 # でも一度、自作で味をしめると、元に戻れなくなるような気もしないでもない。

▼それにしても、ライム&ペリエ&オリゴのおかげの組み合わせは美味しかった。

花のある生活

▼こう見えても私は、それなりに、お花好きである。こう書くと、全国65536人の読者のうち4096名くらいが、花っていうのは「女」の暗喩だろう、などと邪推されるかもしれないが、花は花である。ちょっと前、『フラワー』なる本がamazonやbk1のランキング上位を飾ったことがあったが、私は詳細を知らないのであしからず。

 それにしても、フラワーコーディネーターっていうのは、なかなか大変そうな仕事である。「コーディネーター」系の職業全体に言えるのかもしれないが(インテリアコーディネーターしかり、○×プランナーしかり)、少なくても私が見た限り、
  • お客さんの好みに耳を傾けつつ、
    (しかも、私本人の好みではなく、想像上の好みだったりするから厄介だ)
  • その時々(季節折々)にあったお花を用意し、
  • 予算やボリュームの制約を加味し、
  • 一定時間内のパッケージング…などなど
 が求められる職種である。花の種類、色の配置、空間デザイン…だけでも、それなりのセンスが必要だろうし、私のような凡人には出来なさそうな内容である。

 今回はちょっと痛みやすい花が多かったかな…という気がしないでもないが(まったくもって注文の多い客である。お店の方も、気にされていたけどね)、センスは私も見習いたいところである。次回はオレンジ系統のあでやかな花もいいかな。

▼秋といえばブーゲンビリア…と思っていたのだが、正確には8月下旬~9月のお花だったらしい。え、なぜ私がブーゲンビリアを知っているかって?

 そりゃもう俵万智さんの短歌でしょう。
ブーゲンビリアのブラウスを着て会いにゆく花束のように抱かれてみたく
                         俵万智『チョコレート革命
 こういう感覚って男性には分からないけど、想像できなくもないかな。

▼思わず、花火の「花」の語源を調べたくなったが、英語では花火=fireworksであって、flowerworksではないあたり、感性がちと違うのかもしれない。

 俵万智に歌わせれば、
はなび花火そこに光を見る人と闇を見る人いて並びおり
                        俵万智『かぜのてのひら
 って感じになるのかしら。「はなび花火」っていうリフレインがいい感じ。

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