耳=身の中の身
▼以下、単なる読書メモ(しかも孫引き)。個人的にはかなり「ふむふむ」の度合いが高いのだが、「耳」の語源は、「身の中の身」すなわち「身身」や「実実」であるという説があるらしい。また、「雷」の語源は、「神鳴り」や「神成り」とのこと。
少なくても私の価値観では、愛はさけぶというよりは、ささやくとか、そっと耳を傾けるという表現の方が、しっくりくるかな…と思ったりもします。
「耳」や「声」っていうのも、知っているようで知らない世界の一つなんだろうな。
▼ちなみに引用元の『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』は、読んでいる途中ではありますが、個人的にはかなりヒット。
河合隼雄の推薦文「フィクションとノンフィクションの交錯する点を掘り下げ、心の深層の知恵を示しつつ、村上春樹作品と心理療法の本質に迫る良書である」が、本書の特徴を端的に言い表しているが、私自身もかねてから気になっているフィクションとノンフィクションの関係を捉えていく上でも、とても重要な参考書になりそうだ。
- 岩宮恵子(2004).
思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界. 日本評論社
鎌田東二によると、「雷」は「神鳴り」あるいは、「神成り」であるという説明の仕方が古くからあるらしい。そしてこの説明は、神々の出現と音との関係を示していると述べている(『身体の宇宙誌』)。一昨日の日記に書いたことだが、私自身、『世界の中心で、愛をさけぶ』にどこか違和感を感じてならないのは(セカチューファンの方、すいませんね)、「世界の中心で」という表現以外にも、「さけぶ」という言葉にもあるのかもしれない。
(改行)
また、目で見ることのできない神のことを、音や声、つまり響きをとおして現れる存在だと考えるならば、「音声をキャッチする耳は神々の依代であるといえるだろう。神々はまず最初に人間の耳に訪れる」と、耳が、日常を超えた超越的な世界に真っ先に開かれているものであることを明らかにしている。そして耳をなぜ「みみ」と呼んだかということについて、「身の中の身」、つまり「身身」あるいは「実実」であると鎌田は論じている。
(改行)
こう考えると、「みみ」という言葉は、生命や例の形代としての耳の位相をはっきりと示していると言えるだろう。(p.110)
少なくても私の価値観では、愛はさけぶというよりは、ささやくとか、そっと耳を傾けるという表現の方が、しっくりくるかな…と思ったりもします。
「耳」や「声」っていうのも、知っているようで知らない世界の一つなんだろうな。
▼ちなみに引用元の『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』は、読んでいる途中ではありますが、個人的にはかなりヒット。
河合隼雄の推薦文「フィクションとノンフィクションの交錯する点を掘り下げ、心の深層の知恵を示しつつ、村上春樹作品と心理療法の本質に迫る良書である」が、本書の特徴を端的に言い表しているが、私自身もかねてから気になっているフィクションとノンフィクションの関係を捉えていく上でも、とても重要な参考書になりそうだ。
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