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日常を丁寧に「踊り続ける」こと

▼何だかここ数日妙に忙しく、ほとんど記憶喪失状態である。昨日は、急きょ予定をキャンセルしてしまって申し訳ありません>関係各位

 ラテンの血が流れるおざわ家(×ラーメン屋)では、家訓として「踊らされるくらいなら、踊っちゃえ」 という言い伝えがある。知らない人も多いかもしれないが、「歌って踊れてしゃべれるマルチメディア人間」が私の人生の目標だっするくらいだ(ウソ800)。

 もっとも実際は、歌えない、踊れない、しゃべれないという東照宮のサルも真っ赤な不器用な人間である。しかも、踊らされるというよりは、脅されているという説も有力である。納期が迫っているとか、〆切ギリギリ病が併発しているという説もあり。

▼以上まで書いて、ふと、最近読んだ『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』で紹介されていた『ダンス・ダンス・ダンス』の解説文を思い出す。
日常を丁寧に「踊り続ける」こと
 ではここで『ダンス・ダンス・ダンス』の羊男の言葉から考えてみよう。「僕」は自分が本当の意味で生きていくには、羊男の世界(「向こう側」)とつながっていくことが必要なのだとわかった。

 しかしそのために普段の生活の中で何をどうしていけばいいのかまったくわからなかった。そんな「僕」に対して、羊男は「どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。(中略)踊るしかないんだ」と言う。

 これは身動きがとれないような状況に陥っているときこそ、現実世界の中で起こってくるさまざまな出来事に対して、意識的にきちんとかかわることの重要性を示している。ダンスのステップを踏むときは、ただ漫然とだらだら歩いているときとは全身の動きが全然違ってくる。自分なりのリズムを大切にしながら、意識的に身体全体の筋肉を動かすことが必要になってくるのだ。このような動きが自分のものになると、現実に対する感じ方が変わってくるのである。

 以前にも述べたが、心理療法はこのダンスのステップのリズムを整える場としての意味をもっていると思う。日常の心の動きが、心理療法という場が定期的に加わることによって意識的なものに変わってくるのだ。
(p.204)(改行位置変更。下線部は引用者)
 身体論的というか、演劇論的リズムの重要性は劇作家の山崎正和氏も常々指摘している記憶があるが、身動きがとれないような時こそ、自ら踊る=さまざまな出来事に対して、意識的にきちんと関わる必要があるってことなのかもしれない。

 言い換えれば、非日常的出来事が起こる時こそ、日常性はきっちり守るとか、逆に日常が生活の大半を占めるようになってしまった時は、日常外(非日常)に目を向けるといったようなバランスこそが、現実的な生き方にもつながるのかな。

 理想とは、結局は極めて「現実」的で、一見、「凡庸」な生活の中にあるのだろう。

▼その他、日記に書けそうな事件といえば、バ○オを使っているM氏(シアトル在住)から「パソコンの調子が悪い」という国際電話が入ったこと。ほとんど電話の電源を切っていたのに、つながるとはかなりの悪運である。幸運を祈る。

 とりあえず今日のところは踊りつつ、ぐっすりと眠りたいところだ(本音)。

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