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読書メモ:確率的発想法

▼私自身は、阪神淡路の大震災の時やオウムの地下鉄サリン事件の時に初めてそれを強く感じ、9月11日の同時多発テロの時にも再び思ったことだが、「なぜ自分がそうならなかったのか?」という疑問は、とてつもない難問である。

 ヤスパースは、このような感じ方のことを「形而上の責任」と呼んでおり、大澤真幸氏は「責任論」という論文の中で紹介している(ヤスパースは戦争の文脈で、大澤は阪神大震災等を例示しながら語っている)。
  • 大澤真幸(2000). 「責任論」 (『論座』2001年1月号).
    (同様の内容は『MD現代文/小論文』などでも読める。ちなみにこの辞書は受験用ではあるが、隠れた名著である)
 私などは、そういう感じ方に名前が付いていて、そのように感じている人が少なからずいるということを知っただけでも、救われた気がしたものだが(このようなことを考えていると、「なぜ自分がそういう目にあってしまったのか?」という不毛な疑問を多少、相対化できるというメリットもある)、最近読んだ本の中で、小島寛之氏がさらに発展的なことを述べていたのでメモをしておく。
 本書は確率論に関する本であり、まさかこんな話が含まれるとは思ってもみなかったが、経済学的な文脈でも「形而上の責任」は論じることができるらしい。
 たとえば、わたしたちは、身体的な不自由あるいは知的な障害をもって生きる人々を目にすることで初めて、自分がそのようにあったかもしれない世界を知ります。これは、自分のこれまでの人生の捉え方に過誤があったことを知らしめます。現在の自分のありようすべてが、そのような不自由や障害に対して(たとえば保険をかけるなど)事前に対処をした帰結であるわけではなく、実際は想定していなかった可能性(障害を負うという可能性)が偶然生起しなかったにすぎない、と知るからです。これはいわば無知のヴェールの帰結です。
 このとき、わたしたちは「事前に自分が障害をもつ可能性があると知っていたらしたであろう備え」を、偶然そうならなかった事後になすことができます。これは、わたしたちが、無知ゆえに行わなかった備え(かけなかった保険)が、幸運によってたまたま不要であったとしても、過去を最適化するために支払うものです。こういう通念のもとでは、障害をもつ人々への富の移転が行われることや、彼らへの配慮で日常生活の設備や制度に多少の不自由を我慢することは、障害者のためではなく、「健常者」の側の個人的な最適化行動だということができます。(p.227)
 「最適化行動」と言うと抵抗を持つ人も少なくないかもしれないが、私たちが暗黙的に行っている行動も、実は、このような観点から捉えられるかもしれない。

 上と逆の例だが、著者が麻雀で「テンホウやチュウレンポウトウなどをあがったプレーヤーが、他のプレーヤーたちに食事をおごったりします」(p.225)と述べていたのが、私には納得度が高かった(注:麻雀は高校時代に卒業しているので念のため)。

 著者によれば、これは「『祝いごとのふるまい』という意味もありますが、それよりも、自分に自分の実力を超える幸運が働いたことに対するばつの悪さを解消するためのふるまいだと考えるほうが正しいでしょう」(p.225)ということである。ゴルフでいえばホールインワンの祝賀も似たような意味があるのかもしれない。

 たまたまそうなったこと、あるいは、たまたまそうならなかったことを、自分の中でどう意味づけ、位置づけ、明日へとつないでいくか。これもまた重要な疑問なのだろう。

▼本書、『確率的発想法 数学を日常に活かす』は数学的な本でありながら、人間味に溢れていて大変勉強になる(というコメントは本書に不適切かもしれないが)。文系だの理系だの、そういう不毛な壁を破る一つの好例かもしれない。

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