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エンタの神様
朝から晩まで所用で外出。帰宅後、意味もなく「エンタの神様」を見て時間を無駄にする。ただし多くのお笑いには短時間に時事ネタが凝縮されているため、本番組を見るとおおよその国内事情の把握が可能…というメリットもなくはない。
例えば、最近、巷ではさとう珠緒が流行っているみたい?とか(ちなみに未だに私は彼女をテレビで見たことがない。コロッケの美川憲一みたいなものか)、ウシ君とカエル君は相変わらずシュールな関係を続けているらしい…など、同じ曜日にやっている山瀬まみの「お父さんのためのワイドショー講座」並に教養を高められる番組である。

残念ながら、私は人を笑わせるのは得意ではないのだが(笑いのツボが微妙にずれているらしく、タイミングも合わないことが多いらしい)、お笑いの人たちがいったいどのようにネタを捻出しているかは以前から謎に思っている。
そんな最中、たまたま先日A氏にご紹介いただいた、『
別役実のコント教室―不条理な笑いへのレッスン』では、笑いには、「うそつきの精神」が欠かせないなど、笑いに関する有用な知見が多く紹介されていたので少々メモってみよう。
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笑いの種類
まず確認すべきは、「笑いの種類」である。著者は5つに分類している。
第一に、「
言葉遊び」。これは「駄じゃれとか、同じ言葉を繰り返していってみせる笑い」(p.23)とのこと。親父ギャグのほとんどが、これに該当するだろう。
第二が、「
即物的笑い」。著者によれば、「舞台上で、すてんって転ぶ」「ぶつ」(p.23)などが挙げられるらしい。これもコントでよく見かけるわな。
第三は、「
形象。キャラクターによる笑い」。「変人とか得体の知れない人間が出てきて笑わせる」(p.24)というもの。志村けんの「変なおじさん」とか、チャップリンなども、この分類に含まれるようである。
第四は、「
関係の笑い」。これは著者も「ちょっと高級」と述べているように、説明もやや分かりにくい。「関係の笑いというのは、おかしい人間が出てくるわけじゃないし、極端におかしなことをするわけでもないくせに、笑えるというおかしさ」(p.23)とのこと。
例の方が分かりやすいかもしれない。すなわち、「ケーキだと思っていたものが爆弾だったとかというふうな、あるいは、爆弾をほとんどケーキだと思って取り扱っていましたというふうな情景。それが醸し出す笑いなどですね」(p.23)。
要するに、非日常性の導入ということになるのかな。
第五は、「
不条理の笑い」である。これも定義としては否定形で、一見、分かりにくい。著者によれば、「なかなか説明しづらいんですが、ほとんどおかしくはない、あるいはわっと笑えるような笑いではない」(p.24)とのことである。
たとえば以下のような例が分かりやすいかもしれない。
フランスジョークなんですけども、街角で男の人がナイフで胸を刺されて倒れているんですね。血がどろどろと流れて。で、通行人が来て、顔をのぞき込んで、「痛いかい?」って聞く。と、刺されたほうが、「痛いよ。笑うと余計痛い」っていう返事をするというのがあるんです。これもわーっとは笑えないですけども、それだけのケガをしている人間がどうして笑うんだよと、こういうおかしさみたいなものがある」(p.24)
おそらく漫才やコントの多くは、第一から第四までの笑いを組み合わせて(場合によっては第五の「不条理さ」も加えて)、その場その場を展開しているだろう。
ちなみに本書では全体として「不条理の笑い」を志向している。
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笑いを生み出すもの
以上のように笑いを分類をすると何となく分かった気になるものだが、分類は出来ても、それだけでは新たな笑いを産出できるわけではない。どうすれば人を笑わせられるかについて、著者は「うそつきの精神」と「虚構の精神」について説明している。
ここでは「うそつきの精神」についてメモをしておこう。
何がいいたいかといいますと、ようは、うそをつく精神というのが、ものを書く精神、とくに笑いをつくり出す精神を生み出すための準備活動として、非常に有効だということなんですね。うそをつく時の精神ていうのは、笑いをつくり出す精神と非常に似ているんです。
(勝手に改行)
うそをつく場合、「まずこれをこういうふうにいえば、あいつはきっとこういうふうに思って驚くだろうな」と、明らかに相手を読まなければいけない。相手を読んで、その相手の反応に対する感受性に、非常に鋭敏になってなくちゃいけない。それから自分自身が、その話し方も本当らしいように装わなければいけない。ポーカーフェイスっていうのをつくらなければいけない。そして、笑いもポーカーフェイスでなければ、なかなか笑わせられないということなんです(p.29)
要するに
聞き手中心というか、聞き手が面白がるような(聞き手が驚くだろう)「うそ」を、リアリティをもって話せるようになる必要があるのだろう。
個人的には、「
ポーカーフェイス」という喩えが良さそうだと思った。曰く、
われわれは作家ですから、顔はつくる必要はない。顔はつくる必要はないんですけれども、精神のポーカーフェイスっていうのが必要なんです。そのための精神のトレーニングとして、うそをまず一つつくって、これを、あいつに対してこういうふうに言えば絶対信じるとよというふうな文体を自分の中で練って、それから、それに対するポーカーフェイス、精神のポーカーフェイスを維持するということの訓練をするんです(pp.29-30。太線は引用者)
つまり、うそには、信じさせようという試みも同時に必要ってことらしい。なんとなく分かるようで分からない部分もあるが、相手を信用させる(<聞き手を自分のコンテキストに巻き込む>と言い換えられる?かもしれない)ためには、相手にそれを見破られないような冷静、沈着さも同時に求められるといったことになるのかもしれない。
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具体的テクニック
その他、個々具体的な技術として参考になったのは、一つは、「事実を述べながら同時に事態を進行させていく」という技術と、間接的なセリフの重要性について。
せりふというものは、事実を述べながら同時に事態を進行させていくというふうに少しずつ変化させていかなくてはいけない。この感覚は分かりますか。せりふと同時に、事態を斜めに動かして、話の内容と事態を同時に進行していかなければいけないんです。お話の内容を聞き取ることと、演劇的な体験とは別なんです(p.135-136)。
「帰る」というお客を、力で「帰るのをやめてください」ととめるというのは、意外に演劇的ではないです。そうではなくて、「大丈夫ですから、店長、私がもう絶対とめますから」と、店長にぺこぺこと、わりと悲しげにいいわけをしてみせることで逆に客をとめるという方法というのが、演劇的、構造的なんです。このテクニックは覚えておいていただきたい(p.105)。
後者は具体的な話の中に埋め込まれているので、若干分かりにくいかもしれないが、直接的な言葉ではなく、第三者を媒体とすることが「演劇的」らしい。これは、多くの人が指摘する演劇のポイントであるが、演劇以外にも使い道は多いにありそうだ。
さて、おざわさんの次なる野望は、演出家もしくは噺家ということで決定。
▼今日は9月11日。「飛行機がビルに突っ込む」という場面が、ギャグやフィクションの一シーンにならなくなってから3年が経過したことになる。世の中を「笑い」という観点から捉え直してみたい’取り戻したい)ものだが、まだまだ時間がかかるのかな。
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