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2004年9月

「忙しい」についての一考察

▼私の今年度のモットーは、「いただいた仕事は断らない」なのだが(そんなモットーがあったとは!)、実のところ、これも、そろそろ破綻しつつあるらしい。

 え、ちっともそう見えないって?確かに、日記を更新していると暇そうに見えるし(実際、時間に余裕がなければ更新できないのは事実である)、人に言わせると、私はどんなに多忙な状態にあっても、ちっともそう見えないキャラとのことである。

 要するに、酔ってるのに顔が赤くならないが故に、人より余計に飲まされる…みたいな役柄ってことか(ちなみに私はすぐ赤くなる。飲まされすぎると自動スリープ機能が働くため、極限まで飲まされる…ということはないらしい)。

▼もっとも、ひとは一般的に「忙しい」という言葉の中に多様な意味を込めるため、「忙しい」と言われても、正確なところはよく分からないのが実情である。

 単純に忙しいという状況を指す場合もあれば、人の誘いを断る口実だったり、「自分は人から必要とされている」というメッセージが暗黙に込められていたり、あるいは「私はあなたと関わりたくないの」という強い意味が含まれている場合もありうる。

 穿った受け方をすれば、「私は仕事を首尾良くこなす力量がない」とか「要領が悪い」とアピールしているとも考え方も可能であろう。

 要するに、あんまり安直に使用すべき言葉ではないってことだわな。

▼という考察ができるくらい忙しい今日この頃のおざわさんでございました。

追伸
 もちろんテーマソングは、鉄腕アトムの主題歌(の替え歌)
 ♪限界をこえて ラララ 星のかなた~
 って、まだ星の彼方には行きたくないわな(元ネタは飲み会コール?)。

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フォアグラ

 一日前のお話。先日、平素からお世話になっているe氏からフォアグラの缶詰その他をいただいきました(ありがとう!)。

 一人で食べるのはもったいないな…とは思っていたのですが、仕事が一息ついた安堵感もあって、ストックしてあった赤ワインと共にごちそうになりました。食した後、もったいなかったかな…と、ちょっと後悔してしまったのですが(小市民!)、大変に美味でした。ごちそうさま!

 一缶を二回に分けて食してみたのですが、二回目の半分は残ったオイルも含めて、念願のフォアグラパスタにして食してみました(いつだったかフランスに行った時にメニューにあって印象に残っていたのですが、自宅で試せるとは!)。

 フォアグラと上質のお塩だけでパスタを味付けできるなんて、なかなか贅沢者でございます。

 ちなみに、わたくしは自炊派を自称するだけあって、それなりに食生活は意識した生活をしております。私のWeb日記は、プチ<非>日常を記すのが基本ですが(単純な日常でもなく、かといって過度な非日常でもなく、という意)、過去ログを振り返るに私にとってはカップラーメンを食べたことも、フォアグラを食したことも、同じ次元のネタなようです。両極の「あいだ」は、ごくごく平凡な生活なんですけどね。

 以上、どうでもいいお話(一方の極限?)でした。

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読書メモ(断片):思春期をめぐる冒険

▼移動中の電車の中で、ようやく『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』を読み終える。私は村上春樹のあまり良い読み手ではないのだが(読んだことのない作品も多い)、結果として、本書は、私にとっては村上春樹作品のレビューにもなったし、臨床心理的な考え方を深めるために役だった気がする。

 本書によれば、心理療法と村上春樹を結びつける接点は「異界」の扱いにある。異界というのは、「こちら」と「あちら」の二分法で言えば、「あちら」側。目に見えない現実だとか、目に見える現実とは異なった位相の世界(p.201)のことを指す。

 例えば、こんな感じ。
(略)自分の心に納めきれない出来事が起こったとき、その出来事を何とか心に納めていくプロセスには、どうしてもこの世とは違う異界の視点が必要となってくる。

 たとえば、若くして亡くなった人の家族に対して「代々の因縁を背負うために生まれて、その因縁を背負って若くして逝った」というような、あの世とのつながりを説明するような物語が宗教関係者などから語られることがあり、それが残された家族にとって大事な拠り所になることもある。

しかしいくらこの世の常識とは違う視点が持ち込まれていても、単に異界に原因を求めるだけの安直な物語になっているものが巷には溢れている。この「代々の因縁を…」という物語にしても、原因を異界に求めている単純な因果関係であると言ってしまうこともできる。

このような物語を素朴に信じること自体、かなり難しいと言えるが、少しでも気持ちが楽になるのなら、とそのような物語にすがりたくなることもある。たとえ単純な因果関係ではあっても「代々の因縁を背負うために生まれ、若くして逝った」という子どもの人生の物語を痛みとともに抱え、その意味をどこまでも深めて自分の核とつながりをもたせながら日常を送っていくことができたら、それは物語を心に納めて生き抜くことになる。

ところが悲哀の苦痛を少しでも鎮めようとするプロセスの中では、話を発展させて子どもを神格化したり、英雄として扱うようになるなどということも起こりうる。これでは物語を深めるという方向とは逆に、物語が外に溢れ出ることになってしまう。

日常生活の中で、異界にまつわる物語が不用意に他人に語られ、その物語自体が独り歩きするようになると、「あの人は少しおかしくなっている」と言われかねない危うさを含んでくる。

悲しみや苦しみに直面できない弱さから、あの世の物語の世界に入り込んでしまっては、どこかで歪みが生じて新たな苦しみを生み出すことになってしまうのだ。(pp.11-12)

(太線部分は引用者。引用者が、改行位置を変更しています)
 まだ十分に咀嚼できていないのだが、「わたし」と、ある「出来事」を媒体する役割を「異界」は担うことになるらしい。この手の三角形モデル(例:「わたし」と「あなた」は直接的に結びつくのではなく、何かを媒介とする)に、私は常々興味を持っているのだが、何にせよ「媒体」を固定的に考えてしまうのは危険ってことになるんだろうな。

 何回か部分的に引用してきたので、全体をレビューしたいですね。

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中空構造

▼所用で、小学校へお出かけ。長時間に渡る聞き取りに参与させていただく。

 小学生くらいだと「キャラクター」の存在が授業のメリハリを付けるのに重要な意味を持つらしい…とか(一瞬、香山リカ・バンダイキャラクター研究所(2001)『87%の日本人がキャラクターを好きな理由―なぜ現代人はキャラクターなしで生きられないのだろう?』のことを思いだしてしまった。ホントにそうなのか?)、興味深いお話を伺う。

▼帰りしな、真っ暗な校庭で、思いっきりダッシュしたくなってしまった自分にマイナス2000点弱(年齢を考えろって)。一瞬「校庭の中心で愛を叫ぶ」というフレーズが思い浮かんだが(最近、「中心」論が気になっているらしい)、どちらかというと「グラウンドの中央で風の歌を聴け」の方が、私にはピンとくるような気がする。

 夜の校庭(学校)でみみをすますっていう経験も、なかなか楽しいかもしれない。

▼みみをすますっていえば、やっぱり谷川俊太郎。
ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように
                     谷川俊太郎「みみをすます」の一節
 というわけで、かなりの偶然ではあるが、最近疑問に思っていた問題が何だったのか少し分かってきたので、まずは『中空構造日本の深層』を読み直すことにする。  初版が1982年(村上春樹の『風の歌を聴け』はその10年前)。

 たぶん結局の所、私は中心が「空」であるというモデルが好きなんだろう。

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日常を丁寧に「踊り続ける」こと

▼何だかここ数日妙に忙しく、ほとんど記憶喪失状態である。昨日は、急きょ予定をキャンセルしてしまって申し訳ありません>関係各位

 ラテンの血が流れるおざわ家(×ラーメン屋)では、家訓として「踊らされるくらいなら、踊っちゃえ」 という言い伝えがある。知らない人も多いかもしれないが、「歌って踊れてしゃべれるマルチメディア人間」が私の人生の目標だっするくらいだ(ウソ800)。

 もっとも実際は、歌えない、踊れない、しゃべれないという東照宮のサルも真っ赤な不器用な人間である。しかも、踊らされるというよりは、脅されているという説も有力である。納期が迫っているとか、〆切ギリギリ病が併発しているという説もあり。

▼以上まで書いて、ふと、最近読んだ『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』で紹介されていた『ダンス・ダンス・ダンス』の解説文を思い出す。
日常を丁寧に「踊り続ける」こと
 ではここで『ダンス・ダンス・ダンス』の羊男の言葉から考えてみよう。「僕」は自分が本当の意味で生きていくには、羊男の世界(「向こう側」)とつながっていくことが必要なのだとわかった。

 しかしそのために普段の生活の中で何をどうしていけばいいのかまったくわからなかった。そんな「僕」に対して、羊男は「どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。(中略)踊るしかないんだ」と言う。

 これは身動きがとれないような状況に陥っているときこそ、現実世界の中で起こってくるさまざまな出来事に対して、意識的にきちんとかかわることの重要性を示している。ダンスのステップを踏むときは、ただ漫然とだらだら歩いているときとは全身の動きが全然違ってくる。自分なりのリズムを大切にしながら、意識的に身体全体の筋肉を動かすことが必要になってくるのだ。このような動きが自分のものになると、現実に対する感じ方が変わってくるのである。

 以前にも述べたが、心理療法はこのダンスのステップのリズムを整える場としての意味をもっていると思う。日常の心の動きが、心理療法という場が定期的に加わることによって意識的なものに変わってくるのだ。
(p.204)(改行位置変更。下線部は引用者)
 身体論的というか、演劇論的リズムの重要性は劇作家の山崎正和氏も常々指摘している記憶があるが、身動きがとれないような時こそ、自ら踊る=さまざまな出来事に対して、意識的にきちんと関わる必要があるってことなのかもしれない。

 言い換えれば、非日常的出来事が起こる時こそ、日常性はきっちり守るとか、逆に日常が生活の大半を占めるようになってしまった時は、日常外(非日常)に目を向けるといったようなバランスこそが、現実的な生き方にもつながるのかな。

 理想とは、結局は極めて「現実」的で、一見、「凡庸」な生活の中にあるのだろう。

▼その他、日記に書けそうな事件といえば、バ○オを使っているM氏(シアトル在住)から「パソコンの調子が悪い」という国際電話が入ったこと。ほとんど電話の電源を切っていたのに、つながるとはかなりの悪運である。幸運を祈る。

 とりあえず今日のところは踊りつつ、ぐっすりと眠りたいところだ(本音)。

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耳=身の中の身

▼以下、単なる読書メモ(しかも孫引き)。個人的にはかなり「ふむふむ」の度合いが高いのだが、「耳」の語源は、「身の中の身」すなわち「身身」や「実実」であるという説があるらしい。また、「雷」の語源は、「神鳴り」や「神成り」とのこと。
 鎌田東二によると、「雷」は「神鳴り」あるいは、「神成り」であるという説明の仕方が古くからあるらしい。そしてこの説明は、神々の出現と音との関係を示していると述べている(『身体の宇宙誌』)。
(改行)
 また、目で見ることのできない神のことを、音や声、つまり響きをとおして現れる存在だと考えるならば、「音声をキャッチする耳は神々の依代であるといえるだろう。神々はまず最初に人間の耳に訪れる」と、耳が、日常を超えた超越的な世界に真っ先に開かれているものであることを明らかにしている。そして耳をなぜ「みみ」と呼んだかということについて、「身の中の身」、つまり「身身」あるいは「実実」であると鎌田は論じている。
(改行)
 こう考えると、「みみ」という言葉は、生命や例の形代としての耳の位相をはっきりと示していると言えるだろう。(p.110)
 一昨日の日記に書いたことだが、私自身、『世界の中心で、愛をさけぶ』にどこか違和感を感じてならないのは(セカチューファンの方、すいませんね)、「世界の中心で」という表現以外にも、「さけぶ」という言葉にもあるのかもしれない。

 少なくても私の価値観では、愛はさけぶというよりは、ささやくとか、そっと耳を傾けるという表現の方が、しっくりくるかな…と思ったりもします。

 「耳」や「声」っていうのも、知っているようで知らない世界の一つなんだろうな。

▼ちなみに引用元の『思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界』は、読んでいる途中ではありますが、個人的にはかなりヒット。

 河合隼雄の推薦文「フィクションとノンフィクションの交錯する点を掘り下げ、心の深層の知恵を示しつつ、村上春樹作品と心理療法の本質に迫る良書である」が、本書の特徴を端的に言い表しているが、私自身もかねてから気になっているフィクションとノンフィクションの関係を捉えていく上でも、とても重要な参考書になりそうだ。

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あっという間に一週間

▼仕事やら私事やら、出張等で珍しく一週間も日記が更新出来ず。一部ではおざわさん逃亡説(?)が流れたようですが、生きてます。ご心配なく。

 アリバイ(?)のために詳細を書いておきますと、13日(火)と14日(水)は池袋に出張でした。15日(水)は大岡山でお仕事を終えて恵比寿&池袋で会合。16日(木)は、珍しく田町に出張&シャンパンに酔って終了(私、シャンパンに酔いやすい気がします)。17日(金)は赤坂に出張&中華をごちそうになり、18日(土)~20日(月)は名古屋に出張…と、なんだか住所不定無職みたいな生活です。

 忙しそうに見せかけて実は暇だったり、暇そうに見せかけて実は忙しかったりという演技が得意な私ではありますが、この一週間の読書メモ等はまた改めて。

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世界を広げる

太陽が地球を回っている?
 小学生の4割が「太陽が地球を回っている」と答えた、という調査報告が出たらしい。サンプリングや調査方法など、いくつも気になる点はあるし、結果をそのまま鵜呑みにすることは危険だと思われるが、かなり気になる報道である。
 個人的な話だが記憶を辿るに、地球が太陽を回っている、という事実を私自身が初めて知ったのは、たぶん小学生の時の月食の時だったと思う。

 「地球が太陽を回っている(月は地球を回っている)という話は、月食や日食の仕組み(月食ならば地球の影に月が隠れる)を知れば、決して間違えようのない「知識」だとは思うのだが、うーん。どうして、こんな結果が出てくるんだろう。

 月食や日食といった天文現象に興味がないのか。あるいは親や学校教育も含めて、日本全体の「理科離れ」が間接的に影響しているのかな。

天動説と地動説
 時々私は、天動説が地動説へと移行した衝撃のことを、「実は恋人が二股をかけていた!」的な、どうでもいい話を使って説明することがあるのだが(:「わたし」が彼(彼女)にとっての中心だと思っていたら、実は、オプション一つだった…という説である。あまりにくだらないので最近は使わない)、「自分が世界の<中心>ではない」という知見を持つことは、長い人生を歩んでいく上で必要不可欠なはずである。

 地球は太陽を回る惑星の一つに過ぎず、その太陽も銀河を構成する一つの星に過ぎず、その銀河も宇宙を構成する一要素に過ぎない…という観点(これは自然に対する「畏怖」に近いものかもしれない)を持って初めて、私は「わたし」を語りうると思うのだが、上記のような調査報告を見ると、もしかしたら大人でも天動説的価値観を持っている人が少なくないのではないか…と危惧してしまいそうになる。

 って、この論理はかなり飛躍してますけどね。

 しかし、知識として「地動説」を知っていても、価値観として「天動説」を信じている人(コペルニクス的転回を経験していない=脱自己中心化していないというか、ラカン的な欠如だとか喪失感が欠如している?)は、最近の傾向かもしれない。

私=世界の中心傾向?
 さらに話は飛躍するが、この手の「私=世界の中心」傾向は、もしかしたら近年のプチナショ(by香山リカ。私に言わせれば「なんとなく、ナショナリズム」傾向)にも通じているのかもしれない…なんてことを、ふと思ってみたりもする。

 例えば、次のような記述。やや冗長だけど、例も含めて引用。
 いま私たちがしなければならないことは、個々人の内面にある葛藤や不安から目をそむけずにそれを見つめ、それぞれがそのことを自覚した上で克服を試みることなのではないだろうか。

 その証拠に、グローバルな視点でとか国際常識を踏まえてなどと識者が強調すればするほど、若い人の関心はそれぞれの個人の内面にますます向かいつつあるではないか。

 二〇〇四年、どこにでもいる高校生カップルの個人的な恋愛を描いただけの『世界の中心で、愛をさけぶ』が、三〇〇万部を超えるベストセラーになった。「世界の」とタイトルにはあるが、この作品が取り扱っているのは登場人物のごくごく身近な空間と内面だけだ。

 しかし、若い人にとっては、自分と恋人、あとはせいぜい家族や友人だけしかいない等身大の空間こそが「世界」なのだろう。そしてだれもが、私もそのひどく狭い「世界」の中心で愛を叫びたい、と願っており、その「世界」を広げることや「世界」の外で起きていることには関心を持とうとしない。

 多くの人は、そういう若者を見て、<私>にばかり拘泥するな、もっと広く社会に目を向けよ、と言うだろう。しかし、事態はその逆で、若い人は(もちろん若くない人も)<私>について考え足りないまま過ごしてきたからこそ、いま<私>の物語にこれほど熱狂しているのではないだろうか。

 一度、<私>についてそれぞれが徹底的に向き合わなければ、個人を超えた歴史認識や世界認識など、私たちは持てないのではないか。もちろん、「愛国心」がそれを持たせてくれる、などというのはまったくのファンタジーでしかない。(太字は引用者)(pp.213-215)
 本書も含めて「ぷちナショ」について論じる香山リカの指摘は、確かに通俗的な部分も多いし、印象的な事例を用いて語りすぎている部分も少なくない。

 さらに言えば、上記の「自分と向き合う」というメッセージも凡庸である。しかし、なぜ彼女は敢えて、執拗に凡庸な問題提起を行っているのかは謎だし、彼女が指摘するように、ある意味平凡な小説が、なぜ300万部を超える「ブーム」となったのかも、謎ではある。深読みかもしれないが、これらは多少は意識しても良いのではないか。

 科学=社会的価値観の相互関係を真摯に考えるならば(一部の宗教が、「進化論」を異端視していることも含めて考えれば)、見過ごせない問題かもしれない。

 小学生の4割が「太陽が地球を回っている」と回答したというのが、単なる知識の欠如であって、その背後にとてつもない問題を抱えていないことを願いたい。

 「世界」に目を向けつつ、自分自身の「世界」をいかに築くか。これも課題だな。

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読書メモ:確率的発想法

▼私自身は、阪神淡路の大震災の時やオウムの地下鉄サリン事件の時に初めてそれを強く感じ、9月11日の同時多発テロの時にも再び思ったことだが、「なぜ自分がそうならなかったのか?」という疑問は、とてつもない難問である。

 ヤスパースは、このような感じ方のことを「形而上の責任」と呼んでおり、大澤真幸氏は「責任論」という論文の中で紹介している(ヤスパースは戦争の文脈で、大澤は阪神大震災等を例示しながら語っている)。
  • 大澤真幸(2000). 「責任論」 (『論座』2001年1月号).
    (同様の内容は『MD現代文/小論文』などでも読める。ちなみにこの辞書は受験用ではあるが、隠れた名著である)
 私などは、そういう感じ方に名前が付いていて、そのように感じている人が少なからずいるということを知っただけでも、救われた気がしたものだが(このようなことを考えていると、「なぜ自分がそういう目にあってしまったのか?」という不毛な疑問を多少、相対化できるというメリットもある)、最近読んだ本の中で、小島寛之氏がさらに発展的なことを述べていたのでメモをしておく。
 本書は確率論に関する本であり、まさかこんな話が含まれるとは思ってもみなかったが、経済学的な文脈でも「形而上の責任」は論じることができるらしい。
 たとえば、わたしたちは、身体的な不自由あるいは知的な障害をもって生きる人々を目にすることで初めて、自分がそのようにあったかもしれない世界を知ります。これは、自分のこれまでの人生の捉え方に過誤があったことを知らしめます。現在の自分のありようすべてが、そのような不自由や障害に対して(たとえば保険をかけるなど)事前に対処をした帰結であるわけではなく、実際は想定していなかった可能性(障害を負うという可能性)が偶然生起しなかったにすぎない、と知るからです。これはいわば無知のヴェールの帰結です。
 このとき、わたしたちは「事前に自分が障害をもつ可能性があると知っていたらしたであろう備え」を、偶然そうならなかった事後になすことができます。これは、わたしたちが、無知ゆえに行わなかった備え(かけなかった保険)が、幸運によってたまたま不要であったとしても、過去を最適化するために支払うものです。こういう通念のもとでは、障害をもつ人々への富の移転が行われることや、彼らへの配慮で日常生活の設備や制度に多少の不自由を我慢することは、障害者のためではなく、「健常者」の側の個人的な最適化行動だということができます。(p.227)
 「最適化行動」と言うと抵抗を持つ人も少なくないかもしれないが、私たちが暗黙的に行っている行動も、実は、このような観点から捉えられるかもしれない。

 上と逆の例だが、著者が麻雀で「テンホウやチュウレンポウトウなどをあがったプレーヤーが、他のプレーヤーたちに食事をおごったりします」(p.225)と述べていたのが、私には納得度が高かった(注:麻雀は高校時代に卒業しているので念のため)。

 著者によれば、これは「『祝いごとのふるまい』という意味もありますが、それよりも、自分に自分の実力を超える幸運が働いたことに対するばつの悪さを解消するためのふるまいだと考えるほうが正しいでしょう」(p.225)ということである。ゴルフでいえばホールインワンの祝賀も似たような意味があるのかもしれない。

 たまたまそうなったこと、あるいは、たまたまそうならなかったことを、自分の中でどう意味づけ、位置づけ、明日へとつないでいくか。これもまた重要な疑問なのだろう。

▼本書、『確率的発想法 数学を日常に活かす』は数学的な本でありながら、人間味に溢れていて大変勉強になる(というコメントは本書に不適切かもしれないが)。文系だの理系だの、そういう不毛な壁を破る一つの好例かもしれない。

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「演じる」ということ

▼ちょっと前の日記。所用で、ロールプレイのファシリテーター的なお仕事の見学をしに行く。もちろんテーブルトーク等、ゲームの文脈ではなくて(!?)、経営学・組織論や臨床心理の世界で用いられるシミュレーションに近い話。
 上司になったつもりで、とか、人事担当者になったつもりでとか、クライエントやカウンセラーになったつもりで…など、ある一定の役割を演じながら、立場による視点の違いを体験的に「なったつもり」で、学ぶ手法(?)のことである。

 私も何故かロールプレイには参加させていただいたことがあって、不登校や無気力な学生役(+カウンセラー役)とか、など、何度か経験したことがあったが、その度に、役割を演じることの難しさと可能性を考えさせられることが多かった(注)。
(注:この言い回しって、下手すると、意味がありそうでない陳腐語かも)

 改めて冷静に見てみると、いやー、なかなか大変。でも、最初は、白々しいなぁ…と思いつつ、だんだん役に「はまって」くると、本人でも意識していないような深層が思わず出てきてしまうのが面白いと言えば面白い。自分が当事者の場合は、ロールプレイの過程を撮ったビデオは、とても直後に見れたものじゃないが、しばらくして見ると、自分が発した言葉のみならず、仕草にも癖があったり発見も多かったする。

 今一度、演じるってことについて、少し考えを深めたいところである。
 帰宅後、『教師のためのからだとことば考』を少し読み返してみた。
 話しことばはからだの動きと一つになって生きる。しかし、世の中の訓練や授業では、ほとんど、ことばはことばだけ、からの動きはからだの動きだけ、それぞれに独立して行われている。それは人としての表現の、ある部分を明確にしたり、美しくしたりする役には立つけれども、人のからだ全体が、大きく脈うち、深く息づいて見るものに迫る、つまりこころの動きが鮮やかに現れることにはなりません。
 だから、朗読を、ただ音声の発し方のやりくりで教えるのではなく、むしろ音声が発する土台たるからだを動かすことによって、生き生きした表現に至ることができる。
 このように、その場の状況において、すっとからだをはずませられる能力、これを、普通、演じる能力、と呼びます。「演じる」というと、とかく外形的な身ぶりを器用にまねすること、と考えがちのようです。まねする、という行為自体に、極めて敏感な感受性が必要なことも事実であって、まねのうまいほどの人は、からだもしなやかだし、ある状況下に起こりうる行為に、すっと即応できることはたしかです。しかし、演じるということを、劇行動を指すことばとするならば、それは全く別のことです。人が、ある場に立ったとき、内発的に動き出してくる予測できぬからだの動きにまかせ、さらにそれを、対象に向かって意識的に発展させること、とでも言いましょうか。つまり、この場合のからだの「動き」とは、movementではなく、actionだということです。(pp.119-120。下線は引用者)
 うーむ。やはり竹内氏の著作って、何度読んでも発見があるな…。

 直接的に身体を伴うことが少ないCMC(Computer Mediated Communication)的な文脈において、ロールプレイをいかに行うかも課題って言えば課題だな。

 そのためにももうちょっとロールプレイの経験を積まなくちゃいけないかも。

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ちゃらーん

▼いつものように「笑点」を観賞。滅多にテレビを見ない私だが、なぜか笑点だけは欠かさず見ようと心掛けているらしい。
 三遊亭楽太郎師匠の「ちゃらーん」は…やっぱり合わないなぁ。

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読書メモ:別役実のコント教室

エンタの神様
 朝から晩まで所用で外出。帰宅後、意味もなく「エンタの神様」を見て時間を無駄にする。ただし多くのお笑いには短時間に時事ネタが凝縮されているため、本番組を見るとおおよその国内事情の把握が可能…というメリットもなくはない。

 例えば、最近、巷ではさとう珠緒が流行っているみたい?とか(ちなみに未だに私は彼女をテレビで見たことがない。コロッケの美川憲一みたいなものか)、ウシ君とカエル君は相変わらずシュールな関係を続けているらしい…など、同じ曜日にやっている山瀬まみの「お父さんのためのワイドショー講座」並に教養を高められる番組である。

 残念ながら、私は人を笑わせるのは得意ではないのだが(笑いのツボが微妙にずれているらしく、タイミングも合わないことが多いらしい)、お笑いの人たちがいったいどのようにネタを捻出しているかは以前から謎に思っている。

 そんな最中、たまたま先日A氏にご紹介いただいた、『別役実のコント教室―不条理な笑いへのレッスン』では、笑いには、「うそつきの精神」が欠かせないなど、笑いに関する有用な知見が多く紹介されていたので少々メモってみよう。

笑いの種類
 まず確認すべきは、「笑いの種類」である。著者は5つに分類している。

 第一に、「言葉遊び」。これは「駄じゃれとか、同じ言葉を繰り返していってみせる笑い」(p.23)とのこと。親父ギャグのほとんどが、これに該当するだろう。

 第二が、「即物的笑い」。著者によれば、「舞台上で、すてんって転ぶ」「ぶつ」(p.23)などが挙げられるらしい。これもコントでよく見かけるわな。

 第三は、「形象。キャラクターによる笑い」。「変人とか得体の知れない人間が出てきて笑わせる」(p.24)というもの。志村けんの「変なおじさん」とか、チャップリンなども、この分類に含まれるようである。

 第四は、「関係の笑い」。これは著者も「ちょっと高級」と述べているように、説明もやや分かりにくい。「関係の笑いというのは、おかしい人間が出てくるわけじゃないし、極端におかしなことをするわけでもないくせに、笑えるというおかしさ」(p.23)とのこと。

 例の方が分かりやすいかもしれない。すなわち、「ケーキだと思っていたものが爆弾だったとかというふうな、あるいは、爆弾をほとんどケーキだと思って取り扱っていましたというふうな情景。それが醸し出す笑いなどですね」(p.23)。

 要するに、非日常性の導入ということになるのかな。

 第五は、「不条理の笑い」である。これも定義としては否定形で、一見、分かりにくい。著者によれば、「なかなか説明しづらいんですが、ほとんどおかしくはない、あるいはわっと笑えるような笑いではない」(p.24)とのことである。

 たとえば以下のような例が分かりやすいかもしれない。
 フランスジョークなんですけども、街角で男の人がナイフで胸を刺されて倒れているんですね。血がどろどろと流れて。で、通行人が来て、顔をのぞき込んで、「痛いかい?」って聞く。と、刺されたほうが、「痛いよ。笑うと余計痛い」っていう返事をするというのがあるんです。これもわーっとは笑えないですけども、それだけのケガをしている人間がどうして笑うんだよと、こういうおかしさみたいなものがある」(p.24)
 おそらく漫才やコントの多くは、第一から第四までの笑いを組み合わせて(場合によっては第五の「不条理さ」も加えて)、その場その場を展開しているだろう。

 ちなみに本書では全体として「不条理の笑い」を志向している。

笑いを生み出すもの
 以上のように笑いを分類をすると何となく分かった気になるものだが、分類は出来ても、それだけでは新たな笑いを産出できるわけではない。どうすれば人を笑わせられるかについて、著者は「うそつきの精神」と「虚構の精神」について説明している。

 ここでは「うそつきの精神」についてメモをしておこう。
 何がいいたいかといいますと、ようは、うそをつく精神というのが、ものを書く精神、とくに笑いをつくり出す精神を生み出すための準備活動として、非常に有効だということなんですね。うそをつく時の精神ていうのは、笑いをつくり出す精神と非常に似ているんです。
(勝手に改行)
 うそをつく場合、「まずこれをこういうふうにいえば、あいつはきっとこういうふうに思って驚くだろうな」と、明らかに相手を読まなければいけない。相手を読んで、その相手の反応に対する感受性に、非常に鋭敏になってなくちゃいけない。それから自分自身が、その話し方も本当らしいように装わなければいけない。ポーカーフェイスっていうのをつくらなければいけない。そして、笑いもポーカーフェイスでなければ、なかなか笑わせられないということなんです(p.29)
 要するに聞き手中心というか、聞き手が面白がるような(聞き手が驚くだろう)「うそ」を、リアリティをもって話せるようになる必要があるのだろう。
 個人的には、「ポーカーフェイス」という喩えが良さそうだと思った。曰く、
 われわれは作家ですから、顔はつくる必要はない。顔はつくる必要はないんですけれども、精神のポーカーフェイスっていうのが必要なんです。そのための精神のトレーニングとして、うそをまず一つつくって、これを、あいつに対してこういうふうに言えば絶対信じるとよというふうな文体を自分の中で練って、それから、それに対するポーカーフェイス、精神のポーカーフェイスを維持するということの訓練をするんです(pp.29-30。太線は引用者)
 つまり、うそには、信じさせようという試みも同時に必要ってことらしい。なんとなく分かるようで分からない部分もあるが、相手を信用させる(<聞き手を自分のコンテキストに巻き込む>と言い換えられる?かもしれない)ためには、相手にそれを見破られないような冷静、沈着さも同時に求められるといったことになるのかもしれない。

具体的テクニック
 その他、個々具体的な技術として参考になったのは、一つは、「事実を述べながら同時に事態を進行させていく」という技術と、間接的なセリフの重要性について。
 せりふというものは、事実を述べながら同時に事態を進行させていくというふうに少しずつ変化させていかなくてはいけない。この感覚は分かりますか。せりふと同時に、事態を斜めに動かして、話の内容と事態を同時に進行していかなければいけないんです。お話の内容を聞き取ることと、演劇的な体験とは別なんです(p.135-136)。
 「帰る」というお客を、力で「帰るのをやめてください」ととめるというのは、意外に演劇的ではないです。そうではなくて、「大丈夫ですから、店長、私がもう絶対とめますから」と、店長にぺこぺこと、わりと悲しげにいいわけをしてみせることで逆に客をとめるという方法というのが、演劇的、構造的なんです。このテクニックは覚えておいていただきたい(p.105)。
 後者は具体的な話の中に埋め込まれているので、若干分かりにくいかもしれないが、直接的な言葉ではなく、第三者を媒体とすることが「演劇的」らしい。これは、多くの人が指摘する演劇のポイントであるが、演劇以外にも使い道は多いにありそうだ。

 さて、おざわさんの次なる野望は、演出家もしくは噺家ということで決定。

▼今日は9月11日。「飛行機がビルに突っ込む」という場面が、ギャグやフィクションの一シーンにならなくなってから3年が経過したことになる。世の中を「笑い」という観点から捉え直してみたい’取り戻したい)ものだが、まだまだ時間がかかるのかな。

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カレー屋さん

▼埼玉県は所沢近辺(入間市も含む)には、おいしいカレー屋さんが結構あるようで、今日はお世話になっている先生に、入間にある「ジャイプール」というお店をご紹介いただいた。いつもながら、ありがたいことである。

 帰り間際、お店の案内状を見るまで気づかなかったのだが(遅い!)、「ジャイプール(JAIPUR)」というお店の名前がいい感じだ。

 以下、内輪ネタになってしまうが、「じゃい」と来れば「ない」と返すのが、知る人ぞ知る先端組の掟である。ジャイプールの由来は何なんだろうな…と思って調べてみたら、どうやら実在するインドの都市らしく、割とメジャーな観光地でもあるらしい(無知)。今度行ったら名前の由来を聞いてみよう。

▼ちなみに、じゃいカレー(注:某所にある食堂で出されるカレーのこと)は、食べたら病んでしまう病みつきになってしまうのではないかと思われるような味付けだったので、必要以上によく覚えている。わざわざ高校時代の友人B氏が、じゃいカレーの試食に来てくださったのも記憶に新しい。

 独立なんとか法人化により、食堂の質も少しは改善されていることを願いたいところだが(注:食堂はもともと民間企業だったかも)、個人的には、食堂がかんばしくないおかげで、料理の腕を上げたような部分もあり、あの食堂には感謝している。なんて書くと嫌みっぽいけど(すいません)。

 なお先方の名誉のために言っておくと、モーニング~ランチには少なからず美味しいメニューもある。「じゃいカフェ」(注:某所にあるカフェのこと)のパスタとか、牛丼とかはなかなかだったし。私も、時々利用した。

 こういう重要な情報は、『ナレッジサイエンス―知を再編する64のキーワード』のような書籍には当然書かれていないのが難点と言えよう。日々ネタにし過ぎているため、語り忘れるという暗黙知忘却知に近い知識である(ネタにしつつも、利用しているところが学生らしさと言えよう)。

 ちなみに私は新しい職場でもこわくて食堂に近づいたことはない。トラウマってやつである(そんなのはトラウマとは呼べない気もする)。構内にある松屋で、カレーを数回食べたきりだ。「おいしくてリーズナブル」な食事が出来るか否かは、職場(学校)選びの上で重要な課題かもしれない。

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読書メモ:哲学マップ

哲学マップ
貫成人(2004)の『哲学マップ』を読み終む。図式化も切れ味も良く、コンパクトに哲学(的なものの考え方)を学べる新書である。東洋哲学にも言及があって、凝縮度も高い。竹田青嗣氏や、西研氏の入門書よりも、哲学の世界の全体像が見えやすいかもしれない(ただし、やや難しい。  本書の特徴は、哲学的な「問い」を大きくは三段階(厳密には四段階)で整理している点であろう。具体的には、以下の4つ(代表的哲学者を含む)。
  • (1) 「~とは何か」という問い(イデア/現実の二項対立)(プラトン)
  • (2)「わたしとは誰か、なにを知りうるのか」という問い(自我/対象、主観/客観の二項対立)(デカルト)
  • (3)第一と第二の問い組み合わせ(「経験に先立つ本質」(カント)
  • (4)「なぜそれを問うのか」という問い(虚構、流動性)(ニーチェ)
  それぞれ私流に簡単に言い換えれば、第一は「真理」への希求に関する問いであり、第二は、人の「認識」についての問いといったところか。

 第三と第四は説明が難しいのだが、第三については、「経験に先立つ本質」についての問い(p.201)、第四は「超越的実体を否定し、すべての差異が諸力のせめぎ合いによって生まれる流動性を肯定する」(p.127)と書かれていることから、「流動性」(不確実性?)がキーワードになりそうだ。

問いの段階
 これらについては、著者が第四の問いについて述べた箇所が比較的分かりやすい(なお引用文では、上記の第三段階が省略され、第四が第三段階として言及されているのが、若干分かりにくいかもしれない)。
 同時に(引用者注:ニーチェの哲学の登場によって)哲学の問いもシフトする。「しかしそれにしても本当のところはどうなっているのか」と問い詰めるなかで、真や善「とはなにか」という第一段階の問いは、近世になって「それを本当に知りうるのか」「知ろうとしている自分は何者なのか」という第二の問いに転化した。ところがいまやニーチェによって、最初の問いが問題にした真や善は、それがなにかを知りえないばかりか、そもそもそのように問うこと自体が意味をもたず、また第二段階の問いによって問われていていた自我の存在も否定される。そのとき、「そもそもなぜそのようなことを問題にしていたのか」「はじめに求めていたものが無意味と判明したとき、どう気持ちを切り替えればいいのか」という第三段階の問いが浮上する
(勝手に改行)
 「なぜそれは問題だったのか」という問いに答えるものがニーチェのニヒリズム(『道徳の系譜学』『善悪の彼岸』)であり、「どう気持ちを切り替えればいいのか」という問いに答えるのが、永遠回帰と力への意志における流動性の肯定だ。とはいえ、それぞれの内容はまだ抽象的なものにとどまっている(pp.126-127)。
 ニヒリズムとか永遠回帰っていう考え方は、一見誤解されがちなことが多い(とくに前者は、否定的なイメージがつきまとう)。著者のように「そもそもなぜ問題なのか」、「どうすれば良いのか」という、第一から第三の問いに対する問いとしてニーチェ以降を捉えるのは、いい考え方かもしれない。

 広告代理店的発想ではあるが、旭化成のかつてのCMのイメージを借りれば、「ニヒ!」といった感じが、ニーチェを的確に表現している…わけないか(正確には、「イヒ!」である。資料参照)。冗談はさておき、否定を肯定に変えるというと誤解になろうが、否定の否定の持つ力は確かにあるのかもしれない。

リゾームと複雑適応系
 私はニーチェの良い読み手ではないので、「流動性」と言うとドゥルーズやガタリが思い返されるのだが(若気の至りで読もうとして挫折した著作である。さっぱり理解できていないが、その分、印象にだけは残っている)、著者はドゥルーズやガタリに関してこんなことを書いている。
 近代の諸装置は、それを批判すると称するひとびとも含めて同一性の呪縛にとらわれている。ひとつは、種や個人などの「自己同一性」であり、もう一つは、すべての区別や境界の根拠として設定される「同一者」である。(略)
 種ではなく個体に注目すれば、すべての個体はあらゆる回路を経て他のあらゆる段階の個体と関係し、横断線が縦横源にのびる「リゾーム(根茎)」構造の内にあることがわかる。リゾームは、すべての起源・目的となる同一者を求める西欧形而上学的思考の対極にある。(略)
 ドゥルーズは、古来の二項対立をはじめとする固定された枠を突き破る方途を示したが、おなじく固定された枠組みを流動化するメカニズムを示すのが「複雑適応系」の考え方だ。(略)社会や経済、歴史は巨大複雑適応系である。なんらかの固定したシステムができあがっているように見えても、それは、複雑なシステムが自己生成、自己展開する中での過渡的局面に過ぎない。それを実体化すると、ニーチェのいう眺望固定病に陥る。逆に、既存のものを逆手にとり、こちらかの偶然のゆらぎを引き起こして、固定された枠組みを変えることは十分可能なのである。(pp.196-pp.198から一部抜粋。下線部は引用者)
 ご存じの人はご存じ、一つは「リゾーム」であり、もう一つは「複雑適応系」の考え方である。世の中を、植物的なメタファーで捉えるとか、偶然性も含めて捉えるということで、「どうすれば良いのか」を考えやすくなるのかもしれない。でも、なかなか難しい世界であることには変わらないのかな。

▼上記引用が示しているように、本書は新書、また入門書といってもそれなりに難解である。しかし、哲学史全体をつかむのには、とても優れた本であろう。もちろん細部も丁寧に描かれいて、なかなか勉強になる。
(もっとも私は、哲学史全体を知っている訳でも、細部をよく分かっているわけではない。これもまた認識論的問題(?)と言えよう)。

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読書メモ:数学力をどうつけるか

▼都内出張。ふらっと書店に寄ったらちくま新書の新刊『数学力をどうつけるか』が売っていたのでとりあえず購入&行き帰りの電車で読む。
 著者は、『分数ができない大学生』や『小数ができない大学生』『算数ができない大学生』などで、一躍(?)著名となった一人、戸瀬信之氏である。私も、近年の大学生の基本的数学力(のなさ)が気になっているのだが()、かなり現状は深刻なようだ。しかし、その主張が広まらないせいか(?)、著者はかなり現状に批判的で、本書の発言もやや過激である。
:「数学力がない」という定義は様々ある。私自身は、特定の問題が解けるか否かも重要だとは思うが、割合や比率、確率や統計といったや数学的なものの考え方に<重要性>を見いだせるか否かを基準としたいところである。

 たとえば、料理の時に3人前のレシピを2人前や4人前に変更できる能力も「数学力」の一部である…という指摘に、学生が「なるほど!」と思ってくれるなら、まだ可能性はあるだろう(こんなの数学以前の問題と言われそうだが、私自身はこのくらい現状は厳しいと思っていたりもする)。どうやったら数学(的な考え方)の重要性を人に伝えられるかは、理系出身者(?)として、これからの個人的な課題の一つかもしれない。
▼あからさまな批判は私は苦手なのだが、よくも出版社が許したな…と思えるほど、特定の論者に対する批判も見うけられて、思わずドキドキしてしまった(詳細は知らぬが出版社は、良くも悪くも「権威」からの評価には敏感であるらしい。まして筑摩書房は教科書を発行している会社だし…なんて余計なことを考えてしまった自分に-2000点)。

 個人のみならず文部科学省や関連研究団体にも批判が向けられていて、例えば、国立教育政策研究所に対してはこんな記述が…(注:国立教育政策研究所はそれなりに影響力を持った研究機関らしい)。
教育研究を活性化する=国立教育政策研究所を廃止する】 日本の教育研究は非常に遅れている。データにもとづく議論がほとんどないし、あったとしてもまともな議論にならない。(略)相手があまりに観念的で、論争にならなかったのである。根拠なしに、それは定説であるとしか言えない人たち、あるいは事実を捻じ曲げて語る人たちとは議論にならない。(略)

 少人数クラス・習熟度別学習を推進している日本の文部科学省のやっていたことと言えば、表面的な実施率の調査だけであり、国立教育政策研究所がやっても高々、アンケート調査だった。国家予算を大量に投入するには、あまりにも事前の準備、すなわち少人数クラスの実現法・教育法の実践的な研究がおろそかであった。(略)

 国立教育政策研究所は権威的に文部科学省に立った研究を行ってきた。その結果、研究所の所員たちは学力低下問題を見落としたばかりか、学力低下はないと主張して問題の解決の着手を遅らせたのである。「学力低下論争批判」に論を寄せた人々である。今後の教育研究の充実を計るために、この研究所を廃止すべきである。そして民間の研究機関、大学の研究グループに対して、競争的な依託研究を促すのがふさわしい。
数学力をどうつけるか』 pp.203-205から引用
 「データにもとづく議論がほとんどない」というのは、苅谷剛彦氏も常々指摘している点だが、著者に言わせれば、データの取得それ自体がうまくいっていないらしい(私も、そんな気がしているから上記を引用しているわけだが、実際のところは正直、分からない)。

 個人的には、単なる論争や批判の応酬ではなく(苅谷氏の『なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて』が、現状をよく示しているかも)、現実をどのように捉え・評価し、どうやって調査・研究の結果生まれた知見を活かしていくかを考えて行きたいところだが、なかなか大変そうだな…。

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今日の不思議な出来事

その(1)郵便局で「切手ありますか?」という質問を投げかけるおばさん。所用で郵便局に行ったら、前の列に並んでいたおばさんお嬢さんが、「切手売ってますか?」という質問を局員に投げかけていた。

 局員曰く「もちろんです」。お嬢さん曰く「いやー、よかったわ。80円切手ありますか?」とのこと。うーん。切手が売っていない郵便局って、世の中にあるのかな…と、ふと疑問に思う今日この頃だった。郵便局から郵便事業を取ったら、単なる「局」にしかならないような気がするが気のせいだろう。

 ちなみに家族から「家」を取ると「族」。ちょっとあやしげな感じである。

 基本的に、私は「公」よりは「私」に期待したいので、可能な限り郵便ではなく、宅配ならばクロネコ(メール)やペリカン便、お金を預けるならば銀行など、民間企業を使うように心掛けてきたが、郵便事業の今後は気になるところである。

その(2)妊娠を告げるお嬢さん。某所スタバでお茶をしながら本を読んでいたら、隣のカップルが「出来ちゃったみたい」と衝撃告白。

 人生ではじめて、隣席から聞こえてきた声(注:聞こうと思ったんじゃなくて、聞こえてきたんです)で、コーヒーを吹き出してしまった。口に入れたものをちょっとでも吹き出すなど、武士ならば切腹するところであろう。

 飲んでいるものを吹き出すなんてドリフターズの世界のお話だと思っていたのだが、まったくもって面目ない限りである。もっとも、私のおかげか(?)緊迫感も消え、お二人とも幸せそうなオーラに包まれたのが何よりだった。

 ということにしておく。

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サーバ移行

▼本日より、長年使っておりましたサーバを正式に移行します。少し低速に、しかし高機能になりました。ついでに日記のインタフェースとして、Movable Typeを利用することにしました(いわゆるブログってやつです)。

 これによって「コメント」が出来るようになったり、既にブログツールを使っている方はご存じの「トラックバック」という機能が使えるようになります。ツッコミコメント歓迎ですが、内輪ネタはご遠慮くださいませ(笑)。

 昨年の7月に書いたことですが、コメント機能を持たせることで下記のような事件妄想が生じる可能性を、わたくしは懸念にしております。
2003年7月の日記より

▼例えば、こんな投稿(注:コメント)が寄せられたとしよう。
2003年7月13日12時59分 投稿者:紀香
今回の読書メモ、面白かったです。また遊ぼうね。
 私が読めば、「何だ、メール送ってくれれば良かったのに」的感想で終わる何でもない投稿である。しかし、第三者は残念ながら私と同じような読み方はしない。場合によっては、次のような投稿(注:コメント)が誘発されるだろう。
2003年7月14日13時41分 投稿者:菜々子
最近、お暇なようですね。論文の調子はいかがですか。この前のことは気にしていません。
 このような事態がさらに深刻化した場合、掲示板(注:コメント機能)の継続は止めざるを得なくなる。予期せぬ場外乱闘は、可能な限り避けねばならぬからだ。

▼もっとも、今すぐ停止すべきは、おざわさんの妄想である。
 どうぞお手柔らかに…、ね(これもまた妄想であろう)。

▼移行期間中は、やや表示が遅くなったり、適切な表示が行われない場合があるかもしれませんが、1日、2日で直ると思います。ツールは変わっても、内容は今まで通りです(多少はコメントを意識するかもしれませんが)。

 しばらくは試行錯誤が続いてしまうかもしれませんが、どうぞ今後とも、「おざわ日記」(or おざわ日記全国版)をよろしくお願いします。

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アイロンがけ

▼憧れの新婚生活新生活が始まって早6ヶ月。昨年度までは、アイロンがけなど、あまりしたことがなかったのだが(環境が環境だったからな)、最近は今さらながら、身だしなみを心掛けているらしい。一応、接客業だしな。

 しかし、いっこうにうまくならないのがアイロンがけ。夏場は、アイロンを起動するだけで部屋の体感温度は急上昇。リネン水を使う必要もないくらい汗だくになるわ(注:ものの喩え)、手際が悪いせいか一度のばした所に再度シワを作ってしまうわで、温度とともにイライラ度も急上昇。

 星一徹ならば、ちゃぶ台返しならぬ、アイロン台返しを行うべき光景と言えよう(注:そもそも星一徹が、アイロンがけしている姿も想像出来ぬが)。

▼というわけで、さくっとググってみたら、あるじゃない。アイロンがけ入門講座が。「新婚さん必見」という文字が微妙に気に掛かるが、細かいことを気にしているとオトナになれないので(by福澤論吉)却下。  ムービーまであって、なかなか分かりやすい。たいしたコツはないようなのだが、たとえばカフス部分は「まず裏からかけるのがポイント!左手で布をひっぱりながら、端から中央へ。反対側はアイロンを持ち替えて同様に。 」などは、確かに言われてみれば、その方が良さそうだ。

 文章にするとややこしいが、おそらくこの手の手順は、一度教わったら、誰かに教えるつもりで言葉にすると定着も早いのかもしれない(教育研究では有名な知見だが、こういう場面でも適用できるらしい=転移・移転)。

 アイロンがけの熟達者に言わせるとまた違うのかもしれないが、ほどほどにできる人でも「+α」の部分を、こういった手段で学べるといいのかな。

▼この手の家庭・家事といった社会的日常を対象とした研究は、野島久雄・原田悦子 (2004). “家の中”を認知科学する―変わる家族・モノ・学び・技術. 新曜社 で紹介されているように、ぼちぼち進められている模様。いずれ何か参考になるような知見も出てくるかもしれない。

▼個人的にはズボンの裾上げの方法を取得したいところである。

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読書メモ:やる気

▼先日、やる気(いわゆるモチベーション)について書いたら全国65536人(弊社推定値)の読者の1名の方が、いろいろと関連文献等の情報を教えてくださった。ありがたいことである(事前調査不足ですいません)。

 個人的には「やる気はどこからやってくるのでしょう」という文句はhitomiのLOVE2000から拝借させていただいたつもりだったが(例:愛はどこからやってくるのでしょう)、似たようなタイトル(失礼)の本が出ていたらしい。その名も、『やる気はどこから来るのか―意欲の心理学理論』。心理学ジュニアライブラリという、心理学の入門シリーズの一冊である。
 考えてみれば、この「心理学ジュニアライブラリ」は、私も結構、お気に入りで、三宮先生の『考える心のしくみ―カナリア学園の物語』や、吉田先生の『人についての思い込み〈2〉A型の人は神経質?』に出てきたエピソードは、私も使わせていただいたような記憶がある。両者とも、下手な心理学系の大学の講義(失礼)を受けるより、核心に近い気がする。
 これを機会にシリーズ全部揃えようかな、などと思ってみたり(ちなみにここだけの話でもないが、学会という所に出かけると出版社から本が安く(2割引)買えるというメリットがある。貧乏人にはありがたいが、それまで待てないから普通に買ってしまうことが多いような気もしないでもない)。

 私自身は、やる気はどこからやってくるのでしょう(あるいは、愛はどこからやってくるのでしょう)という疑問そのものが<どこからやって来るのか>、という相変わらず抽象的な疑問にとらわれている気がしないでもないが、それはそれとして、久々にモチベーションについて考えてみよう。

▼後日談。私がよく拝読させていただいている先生の日記でも、『やる気はどこから来るのか―意欲の心理学理論』が取りあげられていた。タイムリーである。最近、勉強をさぼりがちだったのでキャッチアップせねば。

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読書メモ:成功する読書日記

▼私の読書メモは、基本的には個人的な雑談(しょーもないネタ?)と、私自身が読んで印象に残った箇所を引用しながら構成している。

 本当は、いわゆる「書評」のように、体系的な書き方をした方が、この日記を読んで下さっている読者に対しても親切なのかもしれないが、半分は個人的なメモでもあるので、その点はご了承いただきたい。

 逆に、読書メモがそれなりに長く続いているのは、引用+αだから、あまり労力がかからないし、気が楽、というのも理由として挙げられよう。

▼この手の引用の特徴や効用に関しては、鹿島茂氏が『成功する読書日記』の中で以下のように述べている。
 著者の指摘を受けて、そのまま「引用」してみよう(pp.22-24)。
 一つは、その本についての情報として、引用に勝るものはないことがあげられます。(略)引用をすれば、その作者の文体、癖、思想など、ほとんどのものがわかります(略)。

 第二は、引用してみると、その作者の文章の上手い下手が露骨にわかってしまうことです。書き写していくと、どこで作者が息継ぎをするのかが手に取るように感じられてきます(略)。

 第三は、引用の習慣を続けていくと、その読書日記が、ひとりでに、オリジナルな名句名文選(アンソロジー)になっていくことです(略)。

 第四は、引用だと、批評や要約などに比べて、ただ、写せばいいだけなので、プレッシャーがかからないという利点があります。ただ、こう言うと、必ず、でも、どこを引き写せばいいかわからないという質問が出るはずです。(略)これに対しては、読み終わって本を閉じ、ついでに目も閉じたとき、一番、記憶に残っている一節がいいと答えましょう。それはかならずしも、その本のエッセンスを示す箇所とはかぎりません。本筋とは関係なく、自分にとっては妙に気にかかる一節、心に触れる箇所というのがあるはずです。そこを引用すればいいのです(略)。
 要約すれば、一つは「引用に勝るもの」はないということ、第二は、引用が文章習練の機会になること、第三は引用の集積がアンソロジーとしてまとまっていくこと、第四は引用の際のポイントとして自分が気にかかるような一節に注目すること、とまとめられるだろう。

 いつだったかNHKの教育番組で、作文教育について特集していたのを横目で見たことがあったが、そこでも適切な引用の仕方について教えていた記憶がある。確か「著者が○○と書いているように」とか、「△□と書いている」など書き始めに一定のフォーマットを与えるようなものだった気がする。

 確かに引用っていうのは、他者の声を理解する基本なのだろうな。

▼鹿島氏によれば、その後、「引用になれたら、次にチャレンジしていただきたいのは、引用だけからなるレジュメ(要約)です。自分の文章はあまり使わずに、その本のエッセンスとなるような箇所を何カ所か選び出し、その引用だけで本を要約するのです。」(p.25)という段階があるらしい。

 さらには、「引用だけのレジュメに習熟したら、次になすべきことは、物語や思想を自分の言葉で言い換えて、要約してみるということです。フランスの教育では、これをコント・ランデュ(compte-rendu)と呼び、引用を使ってするレジュメとは区別しています」といったことを述べている。
 コント・ランデュのメリットとして、さらに示されているのは「引用の中にある言葉や句を使ってはいけないので、語彙を豊かにするのに役立ちます。また、言い換えが作者の言っていることと矛盾してはいけませんから、必然的に正しい理解を心掛けるようになります」とのことだ(pp.25-26)。
 ちなみに太字は引用者による。

 これが出来るようになって、はじめて「批評」に至るとのことである。

▼必ずしも段階的ではないかもしれないが、引用→レジュメ→コント・ランデュ→批評という流れをおさえておくのも悪くはなさそうだ。要約力っていうのも、よくも悪くも他者の言葉を縮約的に編集する力であって、そのためにはまずは適切な引用ができるようになる必要があるってことかもしれない。

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読書メモ:やる気はどこからやってくるのでしょう

▼いつだったか、友人たちと「やる気」(意欲、モチベーション)をテーマに、延々と議論したことがあった(一見、どうでもよさそうなテーマで、夜な夜な話を続けられるというのは、おそらく学生の特権と言えよう)。

 中でも印象に残ったのは、意欲は能力なのか?とか、モチベーションを「伸ばす」ことは可能なのか?とか、モチベーションに関心を持つ人のモチベーション(関心の源泉)は一体どこにあるのか?といった話題だった。

 私自身は、ちょうど苅谷(2001)の『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ』を読んでいた頃だったせいか、やる気ですら社会階層をはじめとする環境に左右されるということを力説していた記憶があるが、結論が出る訳でもなく、どーでもいいことを議論出来る環境のありがたさに感謝しながら、朝を迎えた記憶がある。

 ま、今も変わらず、恋愛における格差について議論している気もするが。

▼しかし、あれから2年くらい経って改めて考えてみると、自分自身の考え方の枠組みは、それほど変化していないようだ。唯一、確証を高めつつあるのは(私自身が、そういう目で社会を見ているせいかもしれないが)、階層二分化が確実に進んでいる、という実感である。

 なんとかせにゃならんな、と思いつつ、具体策が思い浮かばないのが難点である。橘木(2004)を改めて読んでみて、苅谷氏の発言に思わず再度、アンダーラインを引いたものの、うーむ。具体的に何が出来るんだろう。
苅谷 僕がなぜ、この数年こんなふうにしつこく教育の場における階層の問題を取りあげているかというと、結局、教育というのは、二十一世紀型の産業社会の中では、所得に結びつく能力、あるいは直結しないまでもかなりの影響がある能力を形成する場だからです。そのときに、僕がこれまで行ったような調査の結果を見ていくと、子どもたちが自分で考えたり調べたりする授業への関わり方や、「やる気」自体が社会階層によって違ってきてしまっている。つまり低い階層の子どもは、高い階層の子どもよりもやる気がなくなってしまっているわけです。しかもその格差は拡大する傾向にある。その結果として何が起こる可能性があるかというと、低い階層から抜け出すための知識や能力を身につける大きなチャンスである教育の場で、そのチャンスを生かすことができにくくなるということです。
 そうすると、教育における階層の問題というのは、人々のやる気の格差を広げ、さらに能力の形成において格差を広げることで二重の意味で機会の不平等を拡大するおそれがあるわけです。そういった意味で、どこかでちゃんと機会というものをもう一度人々にとって見えやすいものにする。同時にそれがけっして閉ざされていない構造をつくり出す。さらにそれを達成できるだけの能力をある程度多くの人々に保障してあげる、という三つのポイントを教育については考えていかなければならない。この三点ともこれまでの教育の議論では不十分だったのです。

 以上、橘木俊詔 (編)(2004).封印される不平等.東洋経済新報社 のpp.99-100. より引用。
(苅谷剛彦氏の発言部分。下線部は引用者。)
▼やる気がない(ようにしか見えない)人を前にした時、「どうしようもない」と切り捨てる(放置しておく)のも一つの方法かもしれないが、本人の問題なのか、その人を取り巻く環境の問題なのか、あるいは、その人を評価する立場にある人(上司であれ、教師であれ、同僚であれ)の見方の問題なのか、多様に考えてみるのも悪くないような気がする。

 社会のみならず集団・組織レベルでも「機会の不平等」について考える必要も、時にはあるのかもしれない、などと思ってみたり。

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読書メモ:航空管制

▼かつて私は、無線免許を持っていた頃があった。縁あって中学生の頃にアマチュア4級の資格を得たが、高校時代1度だけ活用したきり、その後、利用も更新もしていないので、今や懐かしい記憶である。

 今日、テレビを見ていたら、航空管のことをテレビでやっていて、ふと、中学、当時の塾の英語の先生(パイロットを志願していた)が「特1(無線免許名)を取ると、飛行機の管制官になれる」と言っていたことを、思い出す。

 半分以上は、私の中学時代以降の話だと思うが、私の地元だった仙台には、航空大学校の仙台分校があったり、全国でも珍しいクロス滑走路(仙台空港プロフィール参照)があったり、何かとその手の世界で有名らしい。

 最近は、なんとゲームにまで登場している模様。  昔はフライトシミュレーターでよく遊んでいたけど、こんなゲームが出ていたとは知らなかったな…(無知)。でも、仙台空港って路線が少ないから(しかも私は小松や沖縄便とか、マイナーな路線しか使っていないし)、ゲームとしては結構、楽なんちゃうか?などと余計なことを心配したりする。

 検索していたらamazonの推薦に、以下が出ていたので、何となく購入。
 上記2冊はブルーバックスらしく淡々と書いているのがいい(多少の前提知識がないと、読みにくいのはブルーバックスの特徴であろう)。
 『機長のかばん』は、タイトルがいい。確かに、あのかばんに何が入っているのか、一般人には気になるところである(ちなみに、塾の先生はあのかばんの中身を熱く語っていた記憶がある。今頃何やってるんだろうなぁ)。

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