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2004年8月

今月の本

新書・文庫
 目を通した冊数が少なかったせいかもしれないが、今月は、新書・文庫系では、「あたり」本と出会えなかった気がする。

 でも、夏休みらしい読書ということで、サガンを何冊か読み返す(私は何を隠そう『悲しみよこんにちは』を、読書感想文で選んだことがあったりして。本当は、『銀河鉄道の夜』で書きたいのだが、いつも挫折していた)。

 ちなみに前者は、映画版もある。私は原作から先に入っているので、小説と映画の比較を行いにくいのだが、南フランスに是非、一度行ってみたいな、と思わせる映像美である。話も原作ほど複雑じゃないしね。

 『悲しみよこんにちは』の映画版は、イギリス、アメリカの共同制作だが、私は、基本的にはフランス映画に惹かれやすいらしい。『男と女』『アメリ』『落穂拾い』など、DVDを持っているのはフランス系映画が多い。こういうのは一人で観て楽しむものだし…と、自己正当化してみたり。

 どちらにせよ、シュールでメランコリーで、かつパッションに溢れているような作風(意味不明)が、好みらしい。いずれフランス映画に見られる眠さ(けだ るさ)と、ハリウッド映画に見られる眠さ(かったるさ)について、考察してみたい。どっちにしても映画を観ると眠くなるというのも私の習性である。

 と、新書・文庫について書くつもりが、映画になってしまった。

単行本
 新書・文庫同様、今月は、読んだ本自体少ない。海外出張へ行ったり、月末、仕事がたまってしまったせいだろう。

 その中でも、とくに面白かったのは、やはり『反社会学講座』かもしれない。これは、奥井(2004)の『社会学』や、森下(2002)の『社会学がわかる事典』と併せて読むと、なおさら良いだろう。
 同じ「社会学」系の本と言っても(もっとも、一つには「反」が付いているけれど)、こんなにも違うものなのか!と思わされること必須。
  • 奥井智之 (2004). 社会学. 東京大学出版会
 哲学にも同じことが言えるが、社会学を学ぶということは、過去の偉人や社会理論について知ることではなく、「社会学」という道具やモノの見方や視点を知る、という点に価値があると私自身は思っている。

 「反」とか「使いこなし」とか、おちゃらけた感じには批判もあるのかもしれないが、上記3冊ともに、社会学という切り口から、現在の社会や、未来に切り込んでいる点が、最大の特徴だと言えよう。
(これを機会に、いわゆる古典に手を伸ばす人が出てくるかもしれない)

 社会学という切り口ではないが、内田先生の本も同様のテイストかも。  読書メモでも引用させていただいたが、相変わらずの内田節というか、鋭さである。秋以降、新刊も続々出るようで楽しみなところだ。

その他
 プレゼンテーション本だと思って購入した『プロフェッショナル・プレゼンテーション』 は、結局は、いわゆるクリティカルシンキングや、ロジカルシンキングといったスキルを、プレゼンテーションで活かせるように発展(再編集?)させたもの だった。ビジネスの文脈が強いので、それ以外では使いにくいが、ちょっと工夫して読み替えれば、学校教育でも使えないことはないかな。  上野(2004)のインタビュー本は、インタビュー実務に関わっている人には、得るものが相当多いはず。私も、大変に勉強になった。  ビジネス的なインタビュー(基本的には、ある商品やサービスなど、結果をパブリックな方向に活かすことが目的となる)と、教育・臨床的なインタビュー (基本的には、個々人の目的に沿って行われ、その結果を、公に活かしていこうとする?)の、共通点と差異をどう考えていくかは課題だな。

小説
 姫野カオルコの小説を読もうと思ったが、結局、エッセイ集『すべての女は痩せすぎである』でおしまい。開き直りの術を身につけるにはいいかも。

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ドーピング

▼先週は多忙だったせいか(日記を読み返してみると、そう見えないかもしれないが)、昨日は、若干、本を読んだきりで、夜も早く寝てしまった。でも、疲れが取れない…。仕方がないので、チョコラBBでドーピング。メイクのりが悪いというよりは、おそらく私の場合は、人生のノリの問題か。

 どうでもいいがチョコラBBでもクレジットカードのJCBでも、深津絵里のキャラクター設定は大変良く似ていて好感度は高い。ただし、勢い余ってJCBでドーピングキャッシングすると、後々危険なのは言うまでもない。

▼私はチョコラBBの長年の愛用者であるが(とくに口内炎に効くのだ)、今回、ホームページを見て初めて知った「チョコラ」の名前の由来。
 創業者の内藤豊次が、エーザイの前身である桜ヶ丘研究所時代に、チョコレートを使ったコーラ飲料の発売を考えていたときに用意しておいた商標から取ったものなんだよ。
もちろん、チョコもコーラも直接製品には関係ないけどね。
http://www.chocola.com/station/teach/q02.html
 チョコレート+コーラだったとは…。実は、両者(正確には後者はペプシ)ともに私がかねてから愛用しているお薬(?)である。疲れた時や、集中力が持たない時にチョコレートや、ペプシを摂ると、元気が出る(気がする)。

 チョコラのページは、これまで何度か開いていたが、いつも深津絵里のCM情報に隠されてしまっていたような気がしないでもない。

▼さあ、今週も(来月からも、秋からも)元気出して行きましょう。

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基本的アカデミック能力

▼ちょっとした雑談で、「大学で何を学ぶ(べき)か」という、大変にベタな話題になる。私自身は、大学というのはさまざまな考え方や捉え方(いわゆる複眼的思考だとか批判的思考もその一つである)、あるいは物事の多様性、はたまた自主的・自発的に行動を起こすこと(の重要性)を学ぶ所だと思っているのだが、やはり人によって捉え方は違うらしい。

 確かに、「社会で役立つような専門的知識を学ぶ場」でもあるし、「(生きていく上で求められる)コミュニケーションスキルや処世術を学ぶ場」でもある。どれが正しいというわけではなく、これもまた多様性の一つなのだろう。

▼私は、たぶん自分が行きたかった大学の一つがICUだったせいか(+大学時代影響を受けた友人がICU出身だったせいか)、おそらく自身の価値観はICU流の教育にも影響を受けている可能性が高い(私が基本的には、リベラルアーツ志向なのはそのせいでもあると思われる)。

 ICU流の「リベラル・アーツ」の価値観からしてみれば(『ICU<リベラル・アーツ>のすべて』を参照)、大学で学ぶべき事柄(ICUで言うところの「アカデミック能力」)は、「専門学問の知識探求を可能にし、世界の一市民としての責任を担うことができる能力」(p.11)と捉えることができるらしい。
 本書の第1章「英語でリベラル・アーツ」によれば、「アカデミック能力」は具体的には以下の5つに分類が可能なようである。いずれも常識的な知見かもしれないが、ふと読み返して「なるほど」と思われたのでメモしておく。
  • 1. 客観的思考能力
  • 2. 批判的分析思考能力
  • 3. 主体的問題設定、問題提起へ向けての思考能力
  • 4. 問題解決への思考能力
  • 5. 主体的問題設定、問題提起へ向けての思考能力
 以下、具体的には次のような内容を指すらしい。
客観的思考能力
 いかなる分野を専攻するにしても、自分が興味をもったテーマ、知識探求をしようとする分野の事柄を、まず、客観的、かつ、正確に読んだり、聴いたりして理解できる能力が必要である。授業で与えられた課題、またそれについて他者が記述したものの要点や趣旨、作者の仮説、定義などを主観を交えないで理解する能力である(p.12)。

批判的分析思考能力
 批判的思考(Critical Thinking)という言葉は、広義に解釈されて、考える能力一般を漠然と指す場合もあるが、ここでは、聞き手、話し手の表現したい内容を客観的に理解した上で、その主張の論理性や扱われている例証や情報が妥当な検証となっているか、問題提起と結論において首尾一貫した論理性がみられるか、論理に飛躍はないか、人を納得させるだけの証拠を提供しているかなど、常に批判的に分析する能力を意味する(p.13)。

主体的問題設定、問題提起へ向けての思考能力
 単に、他者を批判することだけに終わることなく、問題やテーマを主体的に設定し、それに関する主張を他者にどのように問題提起していくかが問われることになる。(略)言い換えれば、自分の創造力、想像力を最大限に活用して、独自の問題を設定、定期し、それが将来、知的発展の可能性があるかを推論、予測する能力が必要となる(p.14)。

問題解決への思考能力
 問題提起を行った後にも、知識探求の過程で、必ずしも計画したようにうまくことが運ぶとは限らない。何か不都合な問題に直面したときにどうするか、どのような解決方法を探るかなど、「問題解決への思考能力」を発揮しなければならない場面は多くある。(略)仮説はあくまで仮説なので、さらなる情報を発見したとき、潔く仮説修正を行うか、間違った仮説は最初から立て直すことが必要となる(p.15)。

論理構築のための思考力と自己表現へ向けての思考能力
 「客観的思考」、「批判的分析思考」、「主体的問題設定、問題提起へ向けての思考」、「問題解決への思考」などの思考過程を経て、自分の頭の中で積み重ねてきたアイディアを論理的かつ効果的に他者に発信し、納得させ、評価を受けなければならない。そのためには、言語を媒体として他者に伝えて初めて可能になる(p.16)。
 私流に言い換えるならば、クールかつ共感的に他者の声を「聴く」能力と、批判的・複眼的に捉える能力であり、必要に応じて他者に自らの仮説を提示する能力であり、その際に必要な自己表現力ということになるかな。

 「一般論」を切り口として、自分がこれまで何を学んできて、これから何を学びたいのか、たまに自らを振り返り、未来を思い描くのも悪くないかも。

▼ついでにamazon.co.jpで調べてみたら、
 学長自ら、いわゆる入試対策本を監修するとは、さすが外資系というか、インターナショナルな大学だけのことはある。知る人ぞ知る世界かもしれないが、ICUの入試問題は他の一般的な大学と比べると変わっていて、それが10年前(それ以上前か?)の私には魅力的だったのだった。

 大学の入学試験制度にせよ、企業の入社試験(例:『ビル・ゲイツの面接試験』)にせよ、「入り口」に注目してみるのも、重要な観点なのかもしれない。ちなみに『ICU<リベラル・アーツ>のすべて』にも入試についての情報あり。

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マーケティングインタビュー

▼先月出たばかりの『マーケティング・インタビュー』をようやく入手。調査の概念的な知見は、『調査的面接の技法』が出色の出来だと思うのだが、どうしても抽象度が高くなってしまっていた。後者は、マーケティングという特定目的ではあるが両者を組み合わせることで、かなりのことが学べる…かも。  前者では、インタビュー調査における「沈黙」だとか、これまでの一般の調査本ではあまり触れられていなかったような事柄にも言及があって、やはりかなり実践的かもしれない。これまで「沈黙」については臨床的面接の本にしか言及がなかったような気がするけど、そんなことないかな。

▼昨日は、朝から晩までお仕事。結構、しんどかったけど充実してたかな。でも、無理すると頭髪の脱毛も加速しそうである。♪抜ける 抜けるよ 抜ける頭髪(中島みゆき「時代」風) なんて歌っている場合ではない。

▼アテネオリンピック。シンクロは、またしてもロシアが壁らしい。
(柔道なんかは、日本が壁だと多くの世界から思われているのだろうが)

 「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃないなら勝たせてほしい(俵万智 『チョコレート革命』)

 でも、ライバルがいるっていうのは、それはそれでいいことなのかな。

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読書メモ(断片):内側から見た富士山

富士通と富士山
 昨日、都内に出た後に適当に書店をブラウズ。

 最近、何かと話題の『内側から見た富士』が、『内側から見た富士』に見えてしまったのは、『ビル・ゲイツの面接試験―富士をどう動かしますか? 』を読んだ効果か、単なる蜃気楼か。
 それとも、もしや富士山噴火の前兆か(そんなわけないって)。

 いわゆる「成果主義」に対する批判本は、最近、ちらほらと出始めているようだが(『虚妄の成果主義―日本型年功制復活のススメ』とか)、多くはちょっと(かなり)扇動的に過ぎるかな…という気がしないでもない。

 成果主義を流行的に導入しようとしている人たちも、あるいはそれを批判しようとしている人たちも、評価制度の見直しという一つの試みを「主義」として捉えている点で、同じようなタコツボにはまっている印象を受ける。
(そもそも、なぜ「年功」に対して「成果主義」なのか分からないような)

 私は、どうも「主義」という言葉が苦手で、いわば「主義嫌い主義」である(意味不明)。これもきっと共産主義とか、社会主義などを想起してしまうからなのかな…。さらに言えば「宣言」という言葉も苦手傾向あり。せいぜい許せて森高千里の「非実力派宣言」とか(懐かしい!)、そんなもんだろう。
 # 今考えてみれば、あの頃はバブル経済の崩壊寸前だったのか。

富士山の動かし方
 ちなみに、『ビル・ゲイツの面接試験』で紹介されていた面接試験問題の一つ「富士山を動かすのに、どれだけ時間がかかるでしょう」は、いわゆる推定問題らしい。類題に「世界中にピアノの調律師は何人いるでしょう。」「アメリカにガソリン・スタンドは何軒あるでしょう」などがある模様。

 もちろん、実際の富士山の体積や、調律師の数や、スタンドの数を知っている必要はまったくなく、推測を積み重ねさせるという問題である。

 たとえば「アメリカにガソリン・スタンドは何軒あるでしょう」という問いなら、車の数、ガソリン・スタンドの営業時間、一回あたりの給油時間、地域格差などを加味しながら、おおよその数を出す力が求められているとのことだ。

 富士山の場合も同様で、結論としてはトラック150億台分の土石から富士山は出来ているらしい(考え方については、本書に詳しい説明あり)

▼この手のパズル問題で、適切に人が評価できるとも思えないが(『ビル・ゲイツの面接試験』で紹介されていたのは、あくまで入社時の選抜試験)、入社時の評価方法にしても、あるいはその後の継続的な評価方法にせよ、単なる「主義」ではないbetterな方法を考えなくちゃならないのだろうな。

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心のフレーム

▼今日は、岡村孝子の新曲「心のフレーム」の発売日。既に新曲はラジオで聴いていたが()、初回限定のDVD目的に予約購入したらしい。

:幸いにも今年4月から私は埼玉県民である。なぜか、それに合わせるように、ラジオ番組が関東北部ローカルで始まったのだった=自己中心。ラジオを聴くために埼玉県に移住しに来たわけではないので念のため)

▼心のフレーム(写真のフレームをイメージすると分かりやすい?)っていうのは、言われてみると、その存在を実感できそうな「何か」かもしれない。実際、人間は、ある種の現実=リアリティを、自分なりの枠=フレームで切り取りながら生きているわけで…なんてことを考えてみたり、みなかったり。

▼知る人ぞ知る世界ではあるが、シングルにカップリングされているのが「Baby, Baby」っていうのも、大変にシンボリックである。
 というのも、<心のフレーム>に関連しそうな歌詞が「Baby, Baby」にあるからだ。以下、引用(著作権的に芳しくないかも)。
クリスマスに二人で見た海が鮮明(あざやか)すぎて
どんな人とあの海へ行っても心が動かない
人ゴミなら良かったざわめく景色が
こびりついたまぶたの奥のあの日かき消したのに
(岡村孝子 作詞・作曲 「Baby, Baby」)
 確かに、心のフレームが強すぎると(焼き付き過ぎると)、新たな経験をしにくくなったり、過去の記憶にとらわれやすくなってしまう可能性もあるのが難点と言えよう(生きていれば、いろいろあるものだからな)。

▼でも、そのフレーム自体を必要に応じて吟味しながら(SchonならばFrame Reflectionと呼ぶのかもしれない)、新たな時間を築き、積み重ねていくのも、素敵なことなんだろうと思ったりもする。きっと、これもギリシア語で言う「タ・パテマータ・マテマータ」(経験から人は学ぶ)の一つか。
あなたと歩くこの瞬間(とき)を 心のフレームにとどめましょう
遙か遠く未来へと ゆっくりゆっくり重ねながら
(岡村孝子 作詞・作曲 「心のフレーム」)
 歳(あるいは経験)を重ねていくことの一つの価値は、ゆっくりと時間を重ねていけるようになる(そういう心構えができる)ことなのかもね。

 さもなくば、真の忘却は、忘却という言葉そのものが与えられない、といったところか(指摘されるまでまったく意識していなかったが「さもなくば」は、私の口癖らしい。これもまた、心のフレームに刻まれるのかな)。

▼ついに、岡村孝子を聴き始めてから丸15年を越えるような歳になってしまったらしい。もはや好きなアーティストというよりは、人生の先輩といったところか。

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バランス力

▼帰国後、とりあえずAERAとニューズウィークと、エコノミスト、東洋経済あたりを買って読む。最近、経済誌(日経以外)を読むようになったのは…、半分は仕事の関係だが、日経とのバランスを保つためもあるかもしれない。

 朝日と産経の対極的関係は有名な話ではあるが(注:朝日新聞とAERAばかり読んでいると、彼(女)らが仮想敵としている対象を実態以上に大きく見積もってしまう可能性があるのが困る所だ)、日経と東洋経済、エコノミストもよくよく読んでみると、立場が微妙に異なっているらしい。

 この世界に詳しい人には、何を今さら…と言われてしまいそうだが、バランス論大好きの、人生バラ色、バツイチ人間としては(3分の2はウソ)、可能な限り複眼的視点でモノを見られるようにしておくことが重要そうだ。

▼結局、適切な意思決定(内田樹氏風に言えば、「リスクを事前に回避する」力)っていうのは、多様な軸でモノを見られる力量に比例するのかな,、なんてことも思ったりする。先日も引用させていただいたが、内田樹(2004). 街場の現代思想. NTT出版 の下記の一文は、やはり示唆的である。
 「困難な決断においてつねに正解を引き当てる」ような能力は私たちには備わってはおらないし、そのような能力は誰によっても育てることはできない。
 しかし、「困難な決断を迫られるような状況に追い込まれる可能性を検討して、リスクを事前に回避する」ということなら、そのための能力は私たち全員に潜在的に備わっているし、それを育成するということは可能である。(pp.115-116)。
 どうやって、後者のような能力を育てていくか(自分自身も含め)、しばし課題としたいところである。 さてはて、先は相当長いな。

▼朝のバランスを保つため(だけ)に、時々見ているNHKの朝ドラ『天花』。久々に見たら、なんと今日はプロポーズの日だったらしい。

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読書メモ(断片):社会学

▼この数年(正確にはこの数ヶ月か?)、何故か知らぬが「社会学」関連の入門書が充実しているような気がしてならない。

 この数ヶ月では、Web上でも何かと話題になっていた『反社会学講座』が出色の出来であった。
 その影にすっかり隠れてしまった感があるが東大出版会からは『社会学』という、そのまんまのタイトルの教科書が出ている。前者と後者は、併せて読むと捉え方の違いも分かって面白いかも(ただし重複項目は少ない)。

 ちょっと前には、日本実業出版社からでている事典シリーズで『社会学がわかる事典』が、これまた大変に素晴らしい参考書だったりする。
  • 奥井智之 (2004). 社会学. 東京大学出版会
 いずれの図書にも共通するのは、「社会(学)」という、大変に広大な(森羅万象に近い)領域を、一人の方が、一環した記述をしている点であろう。確かに偏りはあるのかもしれないが、どのページも文体が一緒というのは、大変に安心感がある。その世界に誘われる確率も高くなりそうだ。

▼というわけで、恋愛講座(恋愛系読書メモ)の新展開は、「反恋愛学講座」にしてみようかな、と思ってみたり、見なかったり(ネタ)。

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祈るということ

▼昨日の読書メモで、内田樹氏の『街場の現代思想』を引用したばかりではあるが、一つ気になる言葉があったのでメモしておく。
第12回 「贈与について」より
 「祝」と「呪」は紙一重のものである。
 違うのは「祝」は「災いが起こらないように」するための仕掛けであり、「呪」は「災いが起こるように」するための仕掛けであるということである。
 いずれも「災い」のコントロールにかかわるという点では変わらない。
 人に贈り物をするのは「何かが起こる」ことをめざすのではなく、「何も起きない」ことをめざしている。
 それは神社仏閣にお線香やお灯明をあげたり、お賽銭を投じたりするのと変わらない。
 そういうときに合掌しながら諸君が祈願するのは「家内安全」であり「五穀豊穣」であり「学業成就」であるが、これらはいずれも「悪いことが何も起こらなければ達成されるであろうこと」であって、「非常な幸運に恵まれなければ、達成できないこと」ではない。
 つまり、「祝」というのは、「よきこと」を呼び寄せるためのものではなく、「ふつうのしあわせ」の実現を阻む「悪しきもの」を隔離するための儀礼なのである。(pp.178)
 私も時々、究極的な願い事は「否定形」の形を取ると思うことが少なくなかった(断るまでもないが、内田氏の言う「祝」のための願いである)。

 時々誤解されることがあるが、これは決して後ろ向きな発想ではない、と私は思っている。だってそうでしょう。夢を叶えたいならば、その制約条件(=目標を阻む事柄)を考えることは必須の条件だからである。

 言い換えれば、夢に向かって近づくためには、同時に、夢が叶わなくなってしまいそうな時の情景を思い浮かべる想像力が欠かせないはずである。「そうなるよう」と同時に「そうならないように」という願いも、あってしかるべきである(もっとも後者が過ぎると後ろ向きになってしまう気もするが)。

 これも私が時々引用する一節だが、谷川俊太郎氏の「生きるということ」という詩は、「すべての美しいものに出会うということ そして かくされた悪を注意深くこばむこと」結ばれていたことが、ふと思い返される。

 前々からこの詩から影響を受けることがあったが(もっとも小学生の時にはさっぱり分からなかったが)、祝いも、願いも、祈りも、生きるということも、究極的には、「悪」を拒むことにある、のかもしれないな…。

 などと思ってみたり。さて、願いを叶えるために(逆説的には「悪しきもの」を隔離するために)、今の私には何ができるかな。

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読書メモ(断片):街場の現代思想

▼内田樹氏の本を読む度に思うのだが、彼の文章の特徴の一つは、短文の中に、何かしらの本質が凝縮されている点にある。

 幸福について語らせても、お金についても、あるいは人生の転換点や、人間とは何か?を問わせても、結婚の意義について論じさせても、「断定的」な語り口でありながら、余韻が残る切り込み方である、とも言えよう。

 おそらく、これは彼自身もよく言っているように、誰かの声がどこかで引用されていたり、編集されているからだと思われるが、なかなか謎である。

▼たとえば、こんな感じ。なお、【】内は、引用者による注。
【幸福】 幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。(p.71)

【お金】 「お金はたいせつだ」。なぜなら、それは人間が人間とコミュニケーションするために不可欠の道具だからだ。そもそもそのために発明されたものなのだ。(p.86)
 幸福については、私も、村上春樹の「小確幸」(しょうかっこう=ATOKに登録して欲しい言葉の一つだ)の言葉が好きだ。ちなみに書籍版の幸せのリストといえば、Barbara Ann Kipfer のThe Wish List あたりが有名か。

 お金については、以前、某CMで♪「よーく考えよう。お金は大事だよ」的な歌が乱発されていたことがあったが(小学生低学年の間では、とても流行ったらしい)、「なぜ大事なのか?」が示されていなかった点が惜しまれる。

 もっとも、内田樹氏の概念を借りれば、人間外の存在(アヒル)を登場させたり、園児のような経済概念をまだ身につけていないであろう人物を登場させることで、人間性やお金の本質について「暗に」問うている、と説明することも可能かもしれない。
 実際、私もこのようにネタにすることで、「コミュニケーション」の道具というか契機にしている面もなくはないしな(たいへんに自己言及的である)。

 たった数行の記述ではあるが、これを契機にさまざまな方向に思考を発展させることを促すのも、内田氏ならではの文体なのかもしれない(小確幸のリストを頭の中で思い浮かべるのも、なかなか愉しそうでしょ?)。

▼他にも、いくつかある。今度は、少し長めの引用をしてみよう。
【決断】 「困難な決断においてつねに正解を引き当てる」ような能力は私たちには備わってはおらないし、そのような能力は誰によっても育てることはできない。
 しかし、「困難な決断を迫られるような状況に追い込まれる可能性を検討して、リスクを事前に回避する」ということなら、そのための能力は私たち全員に潜在的に備わっているし、それを育成するということは可能である。(pp.115-116)。

【失敗】 失敗することの唯一の意義は、失敗から学ぶことができる、ということである。失敗から何も学ばない人間は、そのあとも失敗を続けることになる。(p.118)
 ひとは正しい決断ができるように願うが、そもそもをたどれば困難な決断が生じないように日々の小さな意思決定を積み重ねていくことが重要である…といった当たり前のことを指摘してくれる人というのも実は少ない。

 私がよく話題にするネタではあるが、恋愛の場面で「私を取るの?仕事を取るの?」と恋人に決断を迫られる…というシチュエーションは、それまでの二人の歴史性なしには生じ得ない(小さな負の出来事の積み重ねの結果として、二人がねじれの位置に置かれてしまったものと思われる。もっとも単なるネタかもしれないので、一概には言えない部分もあるが)。

 困難な決断を迫られた時こそ、それまでの経緯や、そこに至ってしまった「失敗」から学ぶことが必要になるのだが、なかなかそうはいかないというのが現実らしい。時間的制約があるにせよ、たいていは表層的な対処で終わてしまい、結果的に、また同じことをくり返してしまうからだ。

▼そこをいかに越えるかに、人間性が問われることになるが、「人間」の「人間」たる所以についても、いつもながら端的に記されている。
【人間】 (略)人間というのは「決して気持ちが通い合わない他者(つまり「死者」のことだ)」の気配や魂魄のメッセージ「さえ」聴き取り、感じ取ることのできる能力によってサルと分岐した。人間の人間性は、「絶対的に理解も共感も絶したはずの他者の声が、それでもなお聴き取れる」という逆説のうちに存するのであり、そこ以上にはない。(p.158)

【結婚】 結婚とは「この人が何を考えているのか、私には分からないし、この人も私が何を考えているのか、分かっていない。でも、私はこの人にことばを贈り、この人のことばを聴き、この人の身体に触れ、この人に触れられることができる」という逆説的事況を生き抜くことである。
 自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。(pp.158-159)
 私流に言い換えるならば、「わからないこと」「未知なこと」を大切にすること、あるいは「既に知っている」と思っていることを見直してみる、ということに尽きるのではないかと思われる。言い換えれば未知の知と、既知の知。

 内田氏が例にする「死者」や「魂魄」は、ちょっと大げさに思われる人もいるかもしれないが、例えば、「夢」のように本人の意図を越えた所にある何かを大切にしたり(大切にするというのは、理解するという意味ではない)、コミュニケーションの契機とするのも、実はすぐれた方法なのかもしれない。

 理解や共感は出来ないよりは出来た方がずっといいが、そのために急ぎ過ぎたり、夢だとか内なる「死者」だとか、「魂魄」のようにささやかな声に耳をすますことができなくなるのは避けるべきだろう、と思う。

▼結局、内田氏の本は、自分が重要だと思っていることを再確認するためだったり、自分を適切な位置に戻す(調子に乗りすぎても、沈みすぎてもうまくいかないものだ)ためのお薬なのかな、と思ってみる今日この頃。

 以上、少々お盆らしいことを考えてみた。

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久々に泳ぐ

▼某所で久々に水泳。たいして泳いだつもりはなかったが、かなりの体力を使ってしまったらしい。やはり月1以上で泳がないといけないな。

▼シロガネーゼの語源を調べてみたら、ミラネーゼ(Milanese=ミラノっ子)由来で、女性誌『VERY』によるものらしい(後者はAERA 2004年2月9日号)。

 ちなみにAERA的には、『VERY』はいわゆる「勝ち犬」系雑誌に類される模様。その他、『LEE』や『STORY』、『家庭画報』などが類するらしい。その対極にある「負け犬」系雑誌には『Oggi』、『日経ウーマン』『コスモポリタン』や『CREA』が分類される模様。うーん。私も読むなら後者だわな。
(以上、さらに知りたい方は、AERA 2004年2月9日号 pp.14-15参照)

▼「負け犬」だとか「勝ち犬」とかいう言い回しは、私は好きではないのだが、内田樹氏が、次のように書いていたことには少し納得した記憶がある。
 私が感心したのは、「三十代、未婚、子ナシ」の「負け犬」に対置するに、「既婚、子アリ」の「勝ち犬」をもってしたことである。
 この用語の選択には(本には書かれていないけれど)深い含意がある。
 メディアは「勝ち犬」「負け犬」という区分に着目して、「勝ち負け」関係に論点を絞っているが、酒井さんのオリジナリティはここにあえて「犬」という軽蔑的な含意を持つ名詞を配したことにあると私は思う。
 勝とうが負けようが、年齢だとか既婚未婚だとか子どもがいるいないで人間の価値を判定できると思っている人は、「人間」ではなく「犬」だ、そう酒井さんは言い放っているのである(言ってないけど)。
 これは実に過激なご発言である(言ってないけど)。
内田樹(2004). 街場の現代思想. NTT出版 pp.52.
 要するに「負け」だの「勝ち」にこだわる人っていうのは、「犬」なのね。さらに内田氏曰く「自分の現在の『不幸』を他罰的な文脈で説明してしまう思考、それが『勝ち負け』幻想が再生産し続けるものである」(p.55)とのこと。幸せとか不幸というのは、外からではなく、内からやってくるものなのかな。

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プレゼン本

▼昨日は、事務作業で半日終わる。不毛に時間が過ぎてゆく。

▼訳あってプレゼンテーション本を2冊ほど買う。買ってうまくなるなら誰も苦労しないような気もしないでもないし、おまじないみたいなものか。
 出版社を見ただけでも察しがつくと思われるが、前者はビジネス向け(マッキンゼー本)、後者はどちらかというと大学関係者向けである。
 マッキンゼー本に、ロゴス、パトス、エトスという術語が出てこないのは言うまでもないが(後者の本の主軸になっている)、アカデミックな領域の本でMECE(Mutually Exclusive, Collectively Exhaustive=漏れなく重複なく)という言葉をあまり見かけないのも、これまた謎である。

▼その他、何冊か図書館で借りる。読んだだけでうまくなるなら…(略)。

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読書メモ(断片):勝つための論文の書き方

▼ちょっとしたご縁で、いわゆる論文(卒論)の書き方についての、ちょっとしたレクチャー(?)のようなお仕事をいただいた。ありがたいことである。

 私は、卒論を書く文化があまりない環境に育ったので(よく言ってるが、だから大学院入学以降は、結構、苦労させられた)、夏休み中に卒業論文の準備をする、という心意気だけで感心してしまう。11月頃から焦るのも悪くないよ…なーんて、思っても口に出さないのがオトナというものであろう。

 入門書というと、戸田山和久 氏の『論文の教室―レポートから卒論まで』と、鹿島茂 氏の『勝つための論文の書き方』の組み合わせが、現状、手に入れやすく、かつ、「卒論を書く」という目的(与えられた課題)を越えた<何か>を得やすい参考書ではないかと、私自身は思っている。

 前者で形式(「型」)を学びつつ、後者では、そもそも何のために論文を書くのか、という点についてサジェスチョンを得るというのが、オススメの理由になのだが、後者はちょっとマイナーらしい(鹿島ファンは多いのに!)。

▼『勝つための論文の書き方』は、見出しを見ただけでも良い意味での疑問がふつふつと喚起される良い見本ではないかと思う。
第一回講義 日常生活と論文
○どうせなら、日常生活に応用のきく論文の書き方はないものだろうか。
○自分の頭で考えることの楽しさ
○自分の頭で考える部分を見つけるにはどうすればいいか?
○問題を立てるという行為を学ぶ
○問題の立て方は学習可能か?
○問題を立てたことのない学生に立て方を教える
○論文の書き方の授業は実生活にも応用可能か?
○論文と作文・レポートの違いとは?
○未知に対する問いがなければ論文ではない
○なぜ日本人は問いを見つけるのが下手なのか
○良い論文とは「?」で始まり、「!」で終わる
○面白い論文とは何か

第二回講義 問題の立て方
○論文指導とは問題の立て方を教えること
○良い問いというのは二種類のみ
○問いは、比較からしか生まれない
○問題を立てさせるには、比較のフィールドを広げてやることが必要だ
○類似性と差異性の把握
○問いを見つける (1)歴史的方法=縦軸に移動する
○問いを見つける (2)横軸にずらす
○見つけた差異と類似を分析する
○仮説による問題の検討
○未知の問いをどうやって発想するか
○起業家にも見立て力は必要だ
○複数の専門分野を持つ
○他分野借用を誤解してはいけない
○複数の専門分野を持つことは、物書きにもサラリーマンにも有効だ
○経験と知識を積んで、かつ原点にもどる
○宿題と質疑応答
鹿島茂(2002). 勝つための論文の書き方. 文藝春秋 
目次より(そういえばこの本、目次にページ数が書いていない)
 結局は、第一に、自分自身の問い(こう書くと誤解を招くことがあるので、「自分自身にとって意味のある問い」、だとか「自分自身が重要性を感じる問い」の方が良いかもしれない)について思いをめぐらす想像力が必要で、それを他者に伝えるための言葉や一定の型に落とす作業が第二に求められて、そこから第三に、建設的批判だとか、比較や、差異、相違、見立てという考え方を意識的に理解することが重要、ってことになるのかもしれない。

 以上を総合すると「なんとなく、クリティカル(なんクリ)」ってことになるのだが、最近のワカモノたちは長野県知事を知っていても、彼の書いた本のことについては未知なんだよなぁ…。歳のほどがばれてしまうのだけど。

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