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恋愛系映画メモ:ラブ・アクチュアリー

▼6月14日(月)の日記でちらっと予告していたが、やっと時間が出来たので『ラブ・アクチュアリー』を観賞。

 そんな暇がどこにあるんだ?というツッコミをいただきそうだし、睡眠時間を削ってまで見るモノでもないよう気もする。しかし、より的確に言えば、そもそもコレは一人で観る映画ではないよね、と自分にツッコミを入れる必要があろう。

 と、ここで終わりにしようと思ったが(昨日の日記と重なってしまっているが)、少し感想を書いてみよう。

3大疑問
 恋愛映画を滅多に観ない私が今回珍しくDVDなんぞ買ったというと、「リアリティ」と「アクチュアリティ」について考えたいと思っていたからである。

 こう書くと「あんたは何を研究している人なの?」と聞かれそうだが(一応、教育関係の仕事をしていることになっている)、何を隠そう私にとっては
  • 疑問(問い)とは何か
  • 「現実」とは何か
  • 知りたいという気持ちはどこからやってくる(こない)のか
 といった問いが根源にあり、その表層に生きているだけなのである。

 なーんて、半分思いつきに列挙しただけだけどな。

 そういえば、平田オリザの新刊『演技と演出』にも書いてあったが、一定の主張をした後、「なんちゃって」と言ってしまうところが、私の演出手法かもしれない。おそらく、どの問いも「疑問」について<疑問>に思う…のように自己言及的な部分があるため、どこかで切り離しをしたいのだと思われる。

 ちなみに恋愛講座の最初の題名には「なんちゃって」が付いていた。
 今は、おそらくなんちゃってが文章にしみこんでいる…はず。

映画とリアリティ
 疑問文にしてしまうと、哲学的に難しいことを考えているように見えるかもしれないが、やさしい問題を無理に難しくしているわけではない。

 たとえば2番目の疑問文を言い換えれば、
  • とてもじゃないが「リアル」に思えない映画(恋愛映画はとくにそうだ)を、人は何故「楽しむ」ことができるのか?
 という謎でもある。

 日常語としても「映画のような展開」とたとえられるように、映画の多くには偶然性や飛躍が、物語の転換点になっていることが少なくない。冷静に考えてしまうと「そんなわけないだろう」と突っ込みたくなるものだ。

 とりわけ恋愛モノは、すべてを「運命」に変換するストーリーが組まれることが多いのが特徴である。これに「はまる」ことが出来れば映画を楽しむことができそうだが「はまらない」と、しらじらしさを感じるだけである。

 カップルで映画を見に行った際、どちらかがリアリティに囚われた見方をしてしまうと、観賞後の話がかみ合わず、結果、気まずい雰囲気…になる危険度も高いと言えよう(この手の失敗談は、よく耳にするわな)。

 逆に考えると、よくよく考えるとリアリティがなさそうなのに、何故、特定の映画を面白いと思える時があるのか?という疑問が浮かぶ。私も、長年、それが 謎だったのだが、それを説明しうる概念が「アクチュアリティ」である。(もう一つ「物語」という軸もあるのだが、これを書くと長くなるので略)

リアリティとアクチュアリティ
 「リアリティ(reality)」に対して、「アクチュアリティ(actuality)」という概念があるのを知ったのは、木村敏氏(精神科医)の著作によるところが多い。

 氏によれば「現実性」という点では同じような意味合いを持つが、似ているようで異なる概念である。文脈が違うので恣意的な(飛躍した)引用になっているかもしれないが、お許しいただきたい。
 現代文の授業っぽいが、やや込み入った文章でもあるので、赤と青で「リアリティ」と「アクチュアリティ」を分けてみた(逆に分かりにくい?)
 「リアリティ」と「アクチュアリティ」という二つの用語は、本書のなかでしばしば対概念として用いられている。辞書の上では両方とも「現実性」や「実在性」の訳語が当てられていて、実際にもかなり漫然と理解されているようである。しかしそのラテン語の語源をたどると、リアリティのほうは「もの、事物」を意味するresから来ているし、アクチュアリティのほうは「行為、行動」を意味するactioに由来している(略)。つまり同じように「現実」といっても、リアリティが現実を構成する事物の存在に関して、これを認識し確認する立場から言われるのに対して、アクチュアリティは現実に向かってはたらきかける行為のはたらきそのものに関して言われることになる。(p.13)『偶然性の精神病理
 つまり(この単純な区別は誤解も招くが)、リアリティというのは客観的な現実、アクチュアリティは主観的(生命的)な現実のことである。
 たとえば、時刻が経過しているという事実を把握しているが、実感として「時間が流れていない」と経験される場合、その人にとっては時間の「アクチュアリティ」が失われている、と考えることができる。

 どんなにリアリティがあっても、アクチュアリティを感じられない時には、世界にうまく入り込めないものである。なぜなら、後者は「間」や「タイミング」とも関係しているからである、という氏の説明は納得がいく気がする。
 タイミングとは、わたしが行為的に世界に関与するときにのみ、世界との接点に発生する現象である。タイミングということばほど時間のアクチュアリティを的確に表現している言いかたはないのではないか。(p.17)
 視点を変えれば、リアリティに目を奪われてしまい過ぎても、アクチュアリティを感じられないものである。たとえば、恋人や親しい友人と過ごす時間の経過 がそれにあたる。時間(時計)を意識している限り、お互いの関係はあまり深まらないだろうし、関係が深まれば時間を意識しないものである。

 ちなみに「理想的な関係では、お互いが時間のことを意識しない」という指摘そのものを意識している場合、アクチュアルではない。リアリティは意識できて も、アクチュアリティそのものは捉えがたい部分があるかもしれない(私も最初、木村氏が何を言ってるか分かりにくかったし)。

リアリティとアクチュアリティの描き方
 ここからは、私の勝手な解釈だが、おそらくどんな映画(物語)もアクチュアリティそのものを描くことはできない、と思われる。「間」の取り方や、「タイミング」は決して人に強要できないものである。

 部分だけ切り抜くと大げさな言い回しなように見えるかもしれないが、リアリティとアクチュアリティの境界は「運命」とも言い換えられるらしい。
 偶然と必然が触れ合ったところに「運命」が成立する。自己の存在という地平で言えば、運命は客観的現実と生命的現実との接点、リアリティとアクチュアリティの接触面を支配している。
 そこで問題になってくるのがアクチュアリティをふまえたリアリティの描き方、あるいは「物語」ということになるのだが、ここから先は、私もまだよく分かっていない。うーん、って考えて分かるもんでもないのかな。

で、ラブ・アクチュアリー
 さて、話を元に戻すと、この映画、純粋に面白かったです。アクチュアリティにあふれていたような気がします(笑)。
 個人的には、言葉の壁を越える…という話が良かったですね。はい。
 (少なくても「である」調で語る映画ではないかもしれない)

 恋愛に限らないと思うのですが(話が戻りますが)、人が何かに惹かれた時の潜在力って、どこからやってくるものなんでしょうね。

 「失恋は恋を失うことではない」とは、谷川俊太郎の名言ですが(したがって恋は盲目であるとすれば、人は本質的に恋の盲目さを失うことはできない、とい う意味になると私は考えています)、決して失えない盲目さにどう自覚的であるか、が一つの鍵なのかな、という気もしています。

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