« 2004年5月 | トップページ | 2004年7月 »

2004年6月

今月の本

▼今月は、敢えて3冊に絞り込むとしたら以下の3冊…かな。
 『自分で考えてみる哲学』は、因果関係に焦点を当てた哲学の入門書。単なる哲学の紹介本(正確に言えば「哲学者」の紹介本)ではなく、哲学的=科学的なモノの考え方に迫った良書である。翻訳も読みやすい。
 
 『組織行動の考え方』は、組織論の一分野「組織行動」(組織の中での人間のふるまい)のテキストではあるが、金井先生流のまとめのせいか、読み手の力づけに優れているような気がする。
 これまでやや端折られることが多かった評価の問題にも詳しく、モチベーションと「夢理論」など、独自の考え方の紹介もあって参考になる。

 『演技と演出』は、口語体(です、ます)で読みやすいが、演出とはいかなるものか、演技とは何なのかを考えさせられる。

 演技や演出に関しては、私も、縁あって社会学的な理論を知識としては持っていたし(ゴッフマンが最も有名か。手に入れやすい入門書は、『ゴフマン世界の再構成か』)、あるいは山崎正和氏に代表されるような劇作家でもあり、かつ批評家でもあるような人の本の本を読んだことがあったが(彼の場合はジンメルに依っている部分が多い。たとえば、『社交する人間』)、これらの論と、平田オリザ氏の本を併せて読むと理論と実践(私の場合は、ワークショップ的なものへの転用)をうまく融合させられそうな気もする。

 三冊共に共通するのは「考え方」が、丁寧に描かれている点であろう。
 来月は、新刊もかなり多いようだから楽しみな月である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

一皮むける

▼大変遅れてしまいましたが7月から、本日記は正式に「プライベート」版と、「パブリック(公式)」版に分かれます(!)。blogもはじめます。

 もっとも、プライベート版もこれまで通りの体制で、それほど位置づけの変更はないとは思います。表面的には、読書メモを移動するぐらい…だと思います し、実際、見た目にも何も変わりません(笑)。でも、移行後、文体やちょっとしたニュアンスがどう変わるか?は自分でも興味深いところです。

一皮むける
 さて、これも一つの区切りなので、最後に(現スタイルでは、という意味です。ちなみにホームページの開設から10年目、現スタイルでの日記は3年と7ヶ月目)、自分のことを書いてみたいと思います。

 いきなり結論、というわけではないのですが、私は、最近、何となく「一皮むけた」のかな、と思うことがあります。「一皮むける」は、とてもうまい表現(絶妙!)ですが、組織論の金井壽宏先生の言葉をお借りしています。
 私なりに要約すれば、何かしら人生の転機、節目、トランジションをくぐり抜けて、変化するといった感じの意です。

 もちろん変化は、自分一人で捉えることはできないもので、厳密に考えればbefore/afterで明確な基準を設定すべきでしょう。さもないと、自分 は「一皮むけた」と思っていても、他人から見た時「何も変わっていないじゃない」と言われてしまう可能性もあります(実際、その可能性は高そうです)。

 ですから、以下の話にはさして根拠はないですし、所詮、一個人のお話に過ぎません。でも、最近、人と話をしていても、自己評価でも(私は臨床心理学では ユング派を好んでいる部分もあり、「夢」の変化も大切だと思っています)、何かが変わっている、という感じがどこかにあったりします。。

 お仕事的には、私は、このような「変化」の過程を捉えることに興味があるのですが、「計画された偶然」的な契機も関係しているんですかね。

何が変わったのか
 さて、何がどう変わったのか?は、一言で言うのはとても難しいのですが、敢えて言えば「等身大」の捉え方でしょうか。私は、常々「等身大にモノを見たい」と願う部分が強いようで、研究でも、あるいはその他の仕事でも、自分と他者(世界)を出来る限り切り離さないように、両者の適切な距離感を保ってたいと思っていたりします。

続きを読む "一皮むける"

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

予定変更

▼急きょ、予定変更になって、同僚といろいろと話し込む。そうそう、研究的にはこういう話がしたかったんだよね。新生活が始まってから、研究面に限らず、人との出会いには何かと恵まれている気がする。

 思わず、「なんでだろう」と考えそうになったが、こういうことは結果として受け入れて、未来に開いていく方が良いのだろうな。 ▼クロネコ(小倉さんの会社ね)とはまったく話は異なるが、適切な「問い」と「答え」というのは、神話や物語ではとても重要な要素だと思う。

 中沢新一氏のカイエ・ソバージュ『愛と経済のロゴス』に、以下のような一文があった。下手をすれば「へー」で終わってしまう知識かもしれない。しかし、これはとても重要な問いかけではなかろうか。
 神話や昔話では、主人公が自分に向けられた問いに上手に答えられると、超自然的な存在の援助が受けられたのに、うまく答えられなかったり、答え方を間違ったりしたばかりに、ひどい苦しみを体験するはめになった、というプロットがしばしば利用されているのを見かけます。

 エディプスはスフィンクスの問いかけてきた難解な謎をみごと解いたおかげで、新しい運命が開かれることになりましたが、そのさいに「あまりにうまく謎を解きすぎた」ばかりに、そののち人類がかつて体験したこともないほどの苦しみを味わうことともなりました(謎が解けないでいると死か荒廃がもたらされますが、逆にあまりうまく解きすぎると疫病や近親相姦の悲劇がおこるのでした)

 まわりの世界からの呼びかけや問いかけに、正しいやり方で答えるのはいつもとても難しいことで、私たちはそれに関しては失敗ばかり繰り返してきたのではないでしょうか。(p.190)

(下線は引用者による)
 いい問いを立てることも容易ではないが、適切な答えはもっと難しい。うまく解きすぎても、うまくいかないっていうのがこれまたやっかいな所だ。

▼関係ないが、トリビア的「へぇ」と、NHKの「ガッテン」は、実は似ているようでまったく違う。「1/1へぇボタン」より、「ガッテンボタン」が欲しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

恋愛系映画メモ:ラブ・アクチュアリー

▼6月14日(月)の日記でちらっと予告していたが、やっと時間が出来たので『ラブ・アクチュアリー』を観賞。

 そんな暇がどこにあるんだ?というツッコミをいただきそうだし、睡眠時間を削ってまで見るモノでもないよう気もする。しかし、より的確に言えば、そもそもコレは一人で観る映画ではないよね、と自分にツッコミを入れる必要があろう。

 と、ここで終わりにしようと思ったが(昨日の日記と重なってしまっているが)、少し感想を書いてみよう。

3大疑問
 恋愛映画を滅多に観ない私が今回珍しくDVDなんぞ買ったというと、「リアリティ」と「アクチュアリティ」について考えたいと思っていたからである。

 こう書くと「あんたは何を研究している人なの?」と聞かれそうだが(一応、教育関係の仕事をしていることになっている)、何を隠そう私にとっては
  • 疑問(問い)とは何か
  • 「現実」とは何か
  • 知りたいという気持ちはどこからやってくる(こない)のか
 といった問いが根源にあり、その表層に生きているだけなのである。

 なーんて、半分思いつきに列挙しただけだけどな。

 そういえば、平田オリザの新刊『演技と演出』にも書いてあったが、一定の主張をした後、「なんちゃって」と言ってしまうところが、私の演出手法かもしれない。おそらく、どの問いも「疑問」について<疑問>に思う…のように自己言及的な部分があるため、どこかで切り離しをしたいのだと思われる。

 ちなみに恋愛講座の最初の題名には「なんちゃって」が付いていた。
 今は、おそらくなんちゃってが文章にしみこんでいる…はず。

映画とリアリティ
 疑問文にしてしまうと、哲学的に難しいことを考えているように見えるかもしれないが、やさしい問題を無理に難しくしているわけではない。

 たとえば2番目の疑問文を言い換えれば、
  • とてもじゃないが「リアル」に思えない映画(恋愛映画はとくにそうだ)を、人は何故「楽しむ」ことができるのか?
 という謎でもある。

 日常語としても「映画のような展開」とたとえられるように、映画の多くには偶然性や飛躍が、物語の転換点になっていることが少なくない。冷静に考えてしまうと「そんなわけないだろう」と突っ込みたくなるものだ。

 とりわけ恋愛モノは、すべてを「運命」に変換するストーリーが組まれることが多いのが特徴である。これに「はまる」ことが出来れば映画を楽しむことができそうだが「はまらない」と、しらじらしさを感じるだけである。

 カップルで映画を見に行った際、どちらかがリアリティに囚われた見方をしてしまうと、観賞後の話がかみ合わず、結果、気まずい雰囲気…になる危険度も高いと言えよう(この手の失敗談は、よく耳にするわな)。

 逆に考えると、よくよく考えるとリアリティがなさそうなのに、何故、特定の映画を面白いと思える時があるのか?という疑問が浮かぶ。私も、長年、それが 謎だったのだが、それを説明しうる概念が「アクチュアリティ」である。(もう一つ「物語」という軸もあるのだが、これを書くと長くなるので略)

リアリティとアクチュアリティ
 「リアリティ(reality)」に対して、「アクチュアリティ(actuality)」という概念があるのを知ったのは、木村敏氏(精神科医)の著作によるところが多い。

 氏によれば「現実性」という点では同じような意味合いを持つが、似ているようで異なる概念である。文脈が違うので恣意的な(飛躍した)引用になっているかもしれないが、お許しいただきたい。
 現代文の授業っぽいが、やや込み入った文章でもあるので、赤と青で「リアリティ」と「アクチュアリティ」を分けてみた(逆に分かりにくい?)
 「リアリティ」と「アクチュアリティ」という二つの用語は、本書のなかでしばしば対概念として用いられている。辞書の上では両方とも「現実性」や「実在性」の訳語が当てられていて、実際にもかなり漫然と理解されているようである。しかしそのラテン語の語源をたどると、リアリティのほうは「もの、事物」を意味するresから来ているし、アクチュアリティのほうは「行為、行動」を意味するactioに由来している(略)。つまり同じように「現実」といっても、リアリティが現実を構成する事物の存在に関して、これを認識し確認する立場から言われるのに対して、アクチュアリティは現実に向かってはたらきかける行為のはたらきそのものに関して言われることになる。(p.13)『偶然性の精神病理
 つまり(この単純な区別は誤解も招くが)、リアリティというのは客観的な現実、アクチュアリティは主観的(生命的)な現実のことである。
 たとえば、時刻が経過しているという事実を把握しているが、実感として「時間が流れていない」と経験される場合、その人にとっては時間の「アクチュアリティ」が失われている、と考えることができる。

 どんなにリアリティがあっても、アクチュアリティを感じられない時には、世界にうまく入り込めないものである。なぜなら、後者は「間」や「タイミング」とも関係しているからである、という氏の説明は納得がいく気がする。
 タイミングとは、わたしが行為的に世界に関与するときにのみ、世界との接点に発生する現象である。タイミングということばほど時間のアクチュアリティを的確に表現している言いかたはないのではないか。(p.17)
 視点を変えれば、リアリティに目を奪われてしまい過ぎても、アクチュアリティを感じられないものである。たとえば、恋人や親しい友人と過ごす時間の経過 がそれにあたる。時間(時計)を意識している限り、お互いの関係はあまり深まらないだろうし、関係が深まれば時間を意識しないものである。

 ちなみに「理想的な関係では、お互いが時間のことを意識しない」という指摘そのものを意識している場合、アクチュアルではない。リアリティは意識できて も、アクチュアリティそのものは捉えがたい部分があるかもしれない(私も最初、木村氏が何を言ってるか分かりにくかったし)。

リアリティとアクチュアリティの描き方
 ここからは、私の勝手な解釈だが、おそらくどんな映画(物語)もアクチュアリティそのものを描くことはできない、と思われる。「間」の取り方や、「タイミング」は決して人に強要できないものである。

 部分だけ切り抜くと大げさな言い回しなように見えるかもしれないが、リアリティとアクチュアリティの境界は「運命」とも言い換えられるらしい。
 偶然と必然が触れ合ったところに「運命」が成立する。自己の存在という地平で言えば、運命は客観的現実と生命的現実との接点、リアリティとアクチュアリティの接触面を支配している。
 そこで問題になってくるのがアクチュアリティをふまえたリアリティの描き方、あるいは「物語」ということになるのだが、ここから先は、私もまだよく分かっていない。うーん、って考えて分かるもんでもないのかな。

で、ラブ・アクチュアリー
 さて、話を元に戻すと、この映画、純粋に面白かったです。アクチュアリティにあふれていたような気がします(笑)。
 個人的には、言葉の壁を越える…という話が良かったですね。はい。
 (少なくても「である」調で語る映画ではないかもしれない)

 恋愛に限らないと思うのですが(話が戻りますが)、人が何かに惹かれた時の潜在力って、どこからやってくるものなんでしょうね。

 「失恋は恋を失うことではない」とは、谷川俊太郎の名言ですが(したがって恋は盲目であるとすれば、人は本質的に恋の盲目さを失うことはできない、とい う意味になると私は考えています)、決して失えない盲目さにどう自覚的であるか、が一つの鍵なのかな、という気もしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

読書メモ:かいけつゾロリ

▼先日(と言っても結構前のことだが)、某氏から「子ども受けする本」の話題を伺った。未知の分野に限らず、先達は貴重なものである。

 お勧めいただいた『かいけつゾロリ』シリーズは斎藤美奈子氏がAERAで紹介していた記憶もあるのだが(手元にないので確認できず)、業界でも何かと話題の本らしい。問題発見=問題解決に興味を持つ人間としては、「かいけつ」という名の本は見逃せない!?ということで立ち読み&購入。

 そもそも元をたどれば、某所で子どもが勧めてくれたのが、ゾロリシリーズとの最初の出会いだった。あの時、彼女が「これが一番面白い」と勧めてくれた一冊と、タイトルに誘惑された一冊(笑)をとりあえず買ってみる。
 図書館で借りれば良かったな…と思いつつ、職場の図書館にあるわけなく、地元の図書館でもリクエスト待ちだったので妥協した。

▼私が評すのは筋違いかもしれないが、この本、実は奥が深い。

 子どもゴコロをつかむような仕掛けはもちろんのこと、もんだいはっけん=もんだいかいけつのプロセスが、随所に織り込まれているのが特徴。それでいてしつこくない(by美味しんぼ)=教示的しらじらしさがないのである。

 ゾロリ(主人公:男である)が、女装したがために女ゴコロではなく、男ゴコロをつかんでしまうあたりも、おざわさんゴコロにマッチしている(ぜんぜん褒め言葉になってないか)。

▼ついでに科学教育で有名なガリレオ工房が監修したという、コナンキャラの学習マンガ『サイエンスコナン 磁石の不思議』も購入。

 この手の学習マンガのキャラは、ドラえもんばかりだと思っていたら(アマゾンのフィルタリングでは『理科実験Q&A』が推薦された)、コナン風の事件発生=カイケツものに仕上がっているのが特徴。

 テレビでやってるコナンは、やや単調的過ぎると思うのだが(もっとも私がずっと前に見た『シャーロック・ホームズの冒険』や『名探偵ポワロ』が基準なので、あまり比較になっていないかもしれない)、上記作品も、学習マンガとしては成功していると思われる。ふむふむ。参考になるわな。

▼放送大学教材の岩村 秀 (編)(2004)『若者の科学離れを考える』も、何かと参考になる内容だった。他力本願ではあるが、かいけつゾロリと、サイエンスコナンにもこの手の問題をカイケツしていただきたいところだ。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

読書メモ(暫定版) 演技と演出

演劇的方法論
 平田オリザ(2004)『演技と演出』を読む。大変に面白い。刺激的だ。

 私は、演劇はかなりの初心者で、実際、数も見ていない。しかし、以前、大学の同期の友人が劇団を立ち上げたのをきっかけに、ちらほらと演劇(論)に関心を持つようになった。事ある度に、多いに刺激をいただいている。

 演劇的な手法は、おそらく教育・学習の世界でも有用ではないかと思う。私自身が、高校の授業よりも、代ゼミの授業に影響を受けていたせいかもしれないが()、学校授業においても、多少の「演出」は不可欠だと思ったりもする。

:私は、高校3年まではバリバリの理系人間だった。もし予備校に行ってなければ、英語や小論文とは縁がなかったような気がする。
 ちなみに、演劇的メタファーをコンピュータの世界に取り入れた代表作に、ブレンダ・ローレルの『劇場としてのコンピュータ』がある。演劇教育ではICU高校での優れた実践をまとめた『教育における演劇的知』があって、両者ともに参考になる(ちなみに平田オリザ氏はICU出身。私も友人の影響がなければICUに行っていたかも…なんてな)。

 もちろん経験をあらゆる分野に一般化するつもりはないが、少なくても「導入」段階では、何かしら人を惹きつけるような仕組みは必要なはず。もし「演出」 という言葉に白々しさを感じるならば(私も、この言葉には時々、違和感を感じることがある)、「場のデザイン」でも良いかもしれない。

 個人的には、何かしら「デザイン」するという仕事は(さらに言い換えれば、意図的に何らかのサービスを提供するという営みは)、演出やリアリティ(ほんものらしさ)に関わる仕事や営みではないかと思うのだが、どうだろう。

▼では、著者の言う、演出とは何か。結論を急ぐようではあるが、著者は「あとがき」でシンプルに、以下のように述べている。
 本文中でも繰り返し触れてきたように、「演出をする」ということは、自己を把握し、自己を操作して、自己を演出すること(=演劇)と、他者とのイメージを共有すること、あるいは、他人同士のイメージの共有を手助けすることの二つに分かれます。(p.219)
 この引用だけじゃ、分かりにくいかな。以上を私なりに、言い換えれば、一つは、他者が書いた言葉を、自分の中に取り入れる(役を生きる)こと。第二は、 それと同時に、「役を生きている自分を客観的に眺めるもう一人の自分」(p.214)を同居させながら、他者(観客)とイメージやコンテキストを共有しつ つ、他者と対話的な関係を構築していくことが「演出」である。

 著者曰く、この両者を成し遂げられるのが優れた役者であり、そのように誘導していくのが演出家の仕事、ということになるらしい(まだ、私自身「自分の言葉」として取り入れられていないので、分かりにくい部分があるかも)。

演出家に求められる要件
 本書で、個人的に興味深かったのは、演出家必要な5つの要件である(p.13:ちなみに同様の指摘は『「リアル」だけが生き延びる』にもある)
  • 世界観
  • 方法論
  • 構成力
  • 説得力
  • リーダシップ
 一つひとつの紹介は、o-lab.org での読書メモに移行する際に、改めて行うとして、とくに興味深かったのは「世界観」と「構成力」である。

 言い換えれば「何を、どのように描くか?」である。

 私も、時々失敗するのだが、大きなことを描こうとすると、ものすごく抽象的になってしまう。しかし、だからと言って、身近(私の場合は恋愛かな?)なことを例にすると、そこから抜け出せなくなってしまうことがある。
 著者の言い回しを借りれば、一方で社会的な問題に触れつつ、他方で人間的な問題に言及するというのは容易ではなく、常々悩まされる問題である。この両者のバランスを保つのは、演劇においても不可欠らしい。
  劇作家の描くテーマは、たいてい、このどちらか(注:社会的なテーマもしくは人間的なテーマ)に偏ります。それは悪いことではありません。しかし、その個 々の作品が名作となるかどうかは、この二項対立の逆のパートをきちんと描いているかどうかにかかってきます。社会的なテーマを扱う作品ほど、人間的な側面 を掘り下げて書かなくてはなりません。人間的なテーマを扱う作品ほど、その社会的な背景をきちんと描かなくてはなりません。(p.153)
 演劇的には、このような時、「第三者」を取り入れるとうまくいくようだ。著者はこれを「変化のための適切な刺激」(p.165)と呼んでいて、「弱い刺 激」「内部への直接の刺激」「内部を崩壊させる刺激」「極端に強い刺激」など4つを例にしている。もちろん「刺激」と言っても、刺激=反応的な単純なもの ではなく、人間を描くための「仮説」のようなものである。これは、『演劇入門』で「セミパブリック」と呼ばれる関係の取り方に近いのかもしれない。

 どのように描くか、という点については想像力を開いたり、閉じたりするという喩えが大変に分かりやすかった。
  (略)あたかも観客が自分で気がついたかのようにし向けるのが、演出の仕事です。そのためには、どうしても、一度観客の想像力が大きく開く瞬間を作らなく てはならない。観客の脳の中に、無意識の選択肢をいくつも作っておいて、その中の一つを、観客があたかも自分で選んだかのように誘導していかなければなら ないのです。(p.124)
 私なりに言い換えれば、オープンなクエッション(問いかけ)で受け手の「分からなさ」を増しつつ、徐々に焦点を絞っていくことで、その人なりの「問い」 を持てるようにする、という手法であろう。もしかしたら「分からなさ」っていうのは、想像力に近いのかもしれない、と思ったりもした。

▼以上、自分では分かったつもりになっているのだが、著者が示している例(彼がワークショップで用いている教材)がないと、抽象的になってしまうのが難点である。こういう時、やはり物語(ナラティブ?)の力は偉大だな。

 物語的なものと、抽象度の高い説明(一言でまとめると…)を、いかに組み合わながら示していくかは、今後、個人的な課題かもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

女性の生き方

▼いきなり引用です。タイトルは「クラブ」。小学校の卒業文集です。
 六年間の思い出といえば、修学旅行、林間学校、遠足、運動会など、たくさんあります。
 でも、とても印象に残ったのは、六年の十一月十四日のクラブです。私は、五年の時は手芸部で、今年は生物部です。生物部は、六年四人と五年二人、岸田先生の、小さいクラブです。
 この日、私たちは、「コジュケイ」のはくせいをつくることにしました。その鳥は、学校の窓ガラスにぶつかって、死んだのだと先生はおっしゃいました。
 肛門から、はさみを入れて、お腹の皮をさきます。その後、肉を切らないようにして、中の肉をとり出します。そのためには、足とつばさを、適当なところか ら、切らなければなりません。足は、うまくいきました。つばさも一こできて、残るは、つばさ一ことなりました。そこは、先生がなさいました。ところが何と いう失敗!先生は、つばさを切り落としてしまったのです。あと、頭のところの肉をとれば、肉がとれたのに。そして、かわかしたあと、中身を入れて、はくせ いができたのに…とても残念!
 さて、この文章を書いたのは誰でしょう?(孫引きですが、引用は朝日新聞1993年1月7日掲載だそうです)。もちろん、私じゃありません。
(注:コジュケイをご存じない方(私もそうだったけど)、Googleのイメージ検索を参照。成長すると大きめな鳥のようですね。)

 引用者(加藤典洋氏)は、次のように評しつつ、文章の書き方について広く論じてます(もともとは文章の表現法に関するテキストです)。
 ふつう、ちょっとめはしのきく子はまず、こういうことは書かないでしょう(略)。ふつうはそういうことに頭がいって、ちょっとまずいかなあ、なんて思います。(略)無頓着なよさ。ある純粋なもの、ありますね。これは、いい子だなあ、と僕なら、思う。(略)
 文章は、その、書き手の、文章を書くということにかけてのある純粋さを、こうして感じさせる。文章を書く心得の第一は、自分が書きたいと思ったら、それを書く、ということなんです。
 自分との関係が第一。それから、それが人にどう見えるか、という順序(以上、引用はpp.30-31。下線は引用者)
加藤典洋(1996). 言語表現法講義. 岩波書店
 さて、オリジナルの文章を書いたのは誰かと言うと、小和田雅子さん、言うまでもなく今の皇太子妃です(もし、最初に「長崎(佐世保)の事件云々」のリード文を書いたら、きっと多くの方は誤読されたことでしょう?かね。)

 私も、飾らないとても素敵な文章だと思います。今の私たち(カエルの解剖もしないですもんね)からすれば、一瞬、残酷なことを書いているように見えるか もしれません。でも、冷たさではなく、あたたかさを感じさせます(実際、手書きの字を見れば、また違った感じがするのでしょうね)。

▼強引な重ね合わせかもしれませんが、加藤氏の指摘は、「文章を書く」ということに限らない気がします。
 究極的にはどちらが先とは言えないかもしれませんが、自分自身と対象との関係こそ、何よりも大切にすべきことだと思います。人がどう思っているか?は、熟考する機会を、時に嫌でも与えられますし。

 また、生きていれば(「教育的配慮」などという妙な隠蔽をしなければ)、そこに必然的に(自然に)「生」や「死」が介在するものだとも思います。隠蔽するから逆に、隠された悪が顕在化するというのは言い過ぎでしょうか。

 こういう文章が新聞に掲載されてしまう立場、ということ自体、公人の難しさを察するばかりですが(でも、いい作文だからいいかな)、女性が生きやすい社会のデザインを本気で考えないといけないですよね。
(「女性」というくくりをしているけれど「男性」優位社会に対して、の意味)

 でも、なんでまあ、こうもうまくいかないのか?
 といった話題で、昨晩は盛りあがる(野郎二人で、というところがミソ)。

▼口だけじゃなくて、行動しろって説もあるけれど>自分

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

あめのひの おるすばん

▼2ヶ月くらい前に書いた文章です。

▼先日、後輩と話をしている時に、「河合隼雄って一言で言うと、何なんでしょうね」という話題で盛りあがる。もちろん「文化庁長官」だとか「臨床心理の大家」という属性の話ではない。

 たとえば私が、松任谷由実の曲の特徴を要約すれば「喪失」、竹内まりやは「偶然」という言葉を与えたくなるのと同じような意味での、「一言」である。

 内田樹氏は、『寝ながら学べる構造主義』のあとがきで、フーコーが言いたいことを「私はバカが嫌いだ」、レヴィ=ストロースは「みんな仲良くしようね」と、エレガントにまとめてくださっているが、河合隼雄は何なんだろうな。

 私がとくに印象に残っている彼の言葉の一つに「ふたつよいことさてないものよ」があるが(私流に解釈すれば、良いことに目を向けすぎて影の部分に目を逸らさないようにしよう、か)、本人の言葉だし、ちょっと違う。

 「成熟」とか「待つ」というのも、彼が繰り返すキーワードである。エッセイ集のような本だと、似たような話が繰り返し登場する。たとえば、本棚の手元にあった『「出会い」の不思議』を、ぱらぱらめくってみても
言葉が熟すのを待つ
 もし話し合うことによって癒しを行いたいのなら、彼らの「言葉が熟し」、それを聞かせてもらうほどに「関係が深まる」のを待たなければならない。その待っている間、何ヶ月とかときには何年とかの間、前記の悲しみを、自分の心のなかにずっと据えている力がなくては、事が起こらない(p.209)。

あいまいを誠実に
 実はクライエントの経験していることは、きわめてつかまえどころのない不安や恐怖であり、簡単には言語化できないのだ。そのような「あいまいさ」に対して、こちらも「あいまいを誠実に」生きる姿勢をもつとき、不思議な共鳴が生じ、ゆっくりしたペースで治療への道がひらかれる。(p.54)
 などは、ほぼ同じことを言っている(実際やるのは難しいのだが)。

▼話を戻すと、その場では、時間の都合もあって「待つ」ということについて話をしただけで終わってしまったのだが、「待つ」だけでは、あみんの「待つわ」(by岡村孝子)と変わらない気もする(全然違うけど、似てなくもない)。

 ふと、ちひろ美術館で読んだ『あめのひの おるすばん』を思い返したのだが、これもちょっと違うよな…(全身全霊で待っているという意味では、似ている部分もある気もするが)。
# 表紙の絵は、彼女の絵にしては甘すぎず「待つ」感じが出ているかも。たまたま、あの時も雨が降っていたからよく覚えている。

 かといって「不在と存在のあいだを待つ」だと、ちょっと抽象的過ぎるし、逸れてしまっている。後は、「人生、楽ありゃ苦もあるよ(by水戸黄門)」とか、「いいかげん(良い加減=いい加減)」とか、そんなもんかな。妙案が浮かばないのだが、これもまた「言葉が熟す」のを待つしかないのかしら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

絵本の読み聞かせ

▼先日、偶然、とある絵本の読み語りをさせていただく機会があった(相変わらず、たどたどしい読み方だったような気がするが)。絵本にジャンルがあるとすれば、「恐竜・怪獣もの」といったところだろうか。

 かいじゅうモノの絵本と言ったら、センダックの『かいじゅうたちのいるところ』が知られるところではあるが(名作である)、きょうりゅうを描いた絵本も実は少なくないらしい。

 何よりも私にとって発見だったのは、子どもにとっては怪獣も恐竜も似たようなものらしい、という点である。確かに想像的には同じものだわな。

 いろいろ話を伺ってみると、男の子は「怪獣・恐竜」系に惹かれる子と、「乗り物」系に分かれるらしい。私自身は、年少時、ウルトラマン好きだったそうだから怪獣系かもしれない(証拠は残っているが、ほとんど記憶にないのが残念なところである)。

▼いつだったか、『人生ではじめて出会う絵本100』に影響されてか(正確には、安野光雅氏の展覧会が契機か)、絵本に集中投資した時期があって、レオニを揃えたり(何度も日記で登場させているが、私が最も好きなのは、『さかなはさかな』である)、『げんきなマドレーヌ』だとか、『三びきのやぎのがらがらどん』など、定番は何故か我が家に揃っているらしい。

 しかし、言うまでもないが黙読と音読は全く違う。斎藤孝じゃないが、音読(読み語り)にしかできないこと、というのが確かにあるらしい。
 何故に、自分で絵本を眺めるのと、声に出して読むのでは、まったく違うんだろうな?などということを考えながら、一日を終える(日記を振り返ってみたら、同じことを1年くらい前にも考えていたみたい)。

 この点、やはり掘り下げて考えるべきなのだろうな。

▼夕刻、M氏夫妻(?)にお誘いいただいて某焼肉店へ。例によって、持ちネタで盛りあがる。最近、そのネタが多いような。

臨時ニュース:隊長、大変です!近所で火事です。若干、煙いです。しかし、火事よりも、人の集まり具合がスゴイです。この近所って、こんなにおじいちゃん、おばーちゃんが住んでいたのね…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

読書メモ:知るということのレベル

▼私は長いこと「大学」いう世界にいるせいか、どうしても考え方が<大学人>ぽくなってしまっている部分がある気がする。

 4月以降、学生としてのトレーニングを終えてからは、可能な限り、学生さん以外にも、同期の友人や、後輩(社会人としては私よりも遙か先輩である)や先輩、また縁あったその他の方とお話させていただく機会いただいているのだが、その度ごとに本当にいろいろな発見がある。

 昨日、引用した谷川俊太郎氏の詩ではないが「しってることを あなたにおしえる しらないことを あなたにおそわる いいきぶん」とは、まさにそんな感じなのであろう。

 しかし、同時にフラジャイルな気分でもある。何せ、私自身は、半分は「研究者」として分類される職種であるが、自分がやってきたことが本当に意味があるのかは、常に他者の判断に委ねられているから。

 十八番の恋愛メタファーで言い換えれば、どんなに恋愛に役立つような理論を構築できたとしても(注:あくまでも喩えですよ)、それが「実践」的に価値を持たなければ、単なる絵に描いた餅に過ぎない。少なくても私にとっては、自分自身(の考え)が、他者にとって意味があるのか?と自分自身に問う瞬間ほど、「弱さ」というかフラジャリティを感じる瞬間はないものだ。

▼これは永遠に抱えるべき問いかもしれないが、最近は、他者(自分)に対して「言葉」や「概念」を何らかのかたちで提供することも、私自身の仕事の一つかな、という気もしている(これは『結婚の条件』からヒントを得た)。

 たとえば私は、松岡正剛氏が用いる「フラジャイル」という言葉(概念)を契機に、少し自分の認識が広がった気がしている。物語的な語り口を使えば、「世界の見え方が変わった」と言うべきかもしれない。

 他の人にとっては直接は響かないかもしれないが、私なりにその意味を伝えることはできるし、その伝え方を考えることも自身の課題である。

 「言葉を与える」と言うと傲慢になりそうなので、言語化のお手伝いをするという表現の方が良いかもしれない。あるいは「お手伝い」というよりは共同で言葉を作り出す(紡ぎあげる)といった方が正確かな。

▼こんなことを考えたのも、最近読んだ金井・高橋先生の『組織行動の考え方』に(も)、関連する事柄が書いてあったからでもある。

 一部引用させていただこう。
 組織行動という分野の使命は、単にピュアな研究者としてフォーマルに理論構築をし、(うまくいけば)それを実践に使ってもらうだけではなく、うまく実践ができているひとが実際に使用している理論(つまりは持論)を言語化するお手伝いをすることにもある。そのためには、実践家とともに、さまざまなタイプの共同作業が必要になってくる。協同して知識を生み出す喜びと意味を、組織行動の研究の発展を目指すひとたちの間で広めていきたい。『組織行動の考え方』(pp.240-241:下線は引用者)。
 上記の引用は、知識創造理論(by野中・竹内)的には、暗黙知→形式知のプロセスに似ている気がするが、こういう状態では、知識を生み出す(知識創造)と、何かを「知る」ということは、ほぼ同義かもしれない。

 金井・高橋の本では、この点についても、間接的に言及されていて、「知る」ということのレベルについて次のような問いと段階が記されていた。
「知るということのレベル」 自分がよく理解し、知っていると自認する何かを例にあげて、どのレベルで知識を使っているのか、考えてみてください。(p.246)
(1)知ることは、自分の中をくぐった(一時的に手持ちの)情報(フロー)が増えること
(2)知ることとは、自分の知識ベース(ストック)に変化が起こること
(3)知ることとは、その気になれば、そのことをほかのひとに教えることができること
(4)知ることとは、知る前と知った後で、世界の見え方が変わってくること
(5)知って本当に理解することとは、自分が変わること
(6)知って身につくということは、その知識を使って、怖がらずに自分や自分が所属するシステムを変えてみようとすること
 何故こんなことが「組織行動」に関する本に書いてあるのか疑問に思われるかもしれない。しかし、分野は何であろうと、「知る」ということの奥深さこそ、その学問の(すなわち知るこということ)原点なのだと思われる。

 きっと、言語化するということ、知るということ、知識を創造するということは、どれも、情報や知識ベースに変化が起きるという(1)(2)にとどまらず、世界の見え方や自分自身が変わること(3)(4)(5)であり、結果として体系(自分や組織を取り巻く流れ)が変わっていくことなのだと思う。

 話を戻すと(飛びすぎ)、人との出会いは、それがどんなものであれ、自分が変わる契機であるということを改めて発見した次第である。これって、たぶん、異文化コミュニケーション的な考え方にも通じるんだろうな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

読書メモ:組織行動の考え方

▼私にも、いつだったか留学しようと思っていた時期があって、MBAとは言わなくても、組織論を学びたいと思っていた時期があった。実は。

 もっとも、その計画は流れてしまったのだが、組織論からは学ぶことは多く、予定変更後は、大学院同期のA氏から、かなりのエッセンスをご教示いただいた。もし彼と出会っていなかったら…と考えると恐ろしいものがある。

 金井寿宏・高橋潔(2004) 『組織行動の考え方』は、出た直後に紹介して頂いていたのだが、同じ東洋経済から出ている『競争戦略論』と同様に、その分野の初学者にとって分かりやすく、しかも奥行きのある本だった。

 これまで、組織行動と名の付いた本は少なくないが、本書では、著者らのメッセージが随所で反映されているのが特徴であろう。

 全体としては、こんな問いが想定されており、いずれも魅力的。
  • たえず高業績をあげるひとにはどんな特徴があるのか(第2章)。
  • ひとはどうして働くのか、どうしてがんばる気になるのか(第3章)。
  • どういうキャリアを歩むのがいいのか(第4章)。
  • 成果につながる仕組みはどのようにつくればいいのか(第5章)。
  • 評価はどうあるべきか(第6章)。
  • 誰からどのように評価フィードバックをもらうのがいいか(第7章)。
  • リーダシップはいかにとるべきか(第8章)。
  • そもそも仕事を通じて幸福になるにはどうすればいいのか(第9章)。
  • どのようにすれば、経験に応じてひとのマネジメントにまつわる自分なりの持論をもつようになれるのか(第10章) 以上p.5を改変
 この文章、金井先生的な色が強いと思うが、こういう問いの立て方にはまったくもって惚れますね(各章の内容は、もちろん専門的でもあります。でも、分かりやすい)。神戸に行っていたら人生変わってたよなぁ…。なんてね。

▼「組織行動の考え方」は、ちょっと言葉を換えれば(例:高業績→高成績、働く→学ぶ、仕事→学習、マネジメント→授業デザイン)、すぐに私自身が「専門」としていることになっている学習分野に変わる。
 組織論(組織行動)と、学習論はかなり近接分野なんだよね、やはり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

コラボレーション

▼ふと、谷川俊太郎さんのとある詩が気になって、手持ちになかったので図書館まで探しに行った(よくよく考えれば、私のプライベートな読書メモに断片は記されていた)。題名が記されていないが、三宅なほみ先生の『インターネットの子どもたち』(絶版中)の裏表紙に載っていたものだ。

そらにかかるみえないあみ
そのあみのめのひとつがあなた
ひとつがわたし しってることを
あなたにおしえる しらないことを
あなたにおそわる いいきぶん

じめんのしたのからみあうねっこ
そこにいるあなたとわたし
そらのうえでじめんのしたで
わたしとあなたはむすばれている
こどもとおとなも てきとみかたも

だれもひとりではいきていけない

 私は詩が苦手なのだが(嫌い、という意味ではない)、たぶん、こういう原体験というか言葉にならない「何か」があるから、今の<わたし>があるのだろう、と思う。コラボレーションの基礎は、子どもの頃に学んでいるはずだし、もし、それが見失われているようであれば、取り戻すように工夫したい。

 本当は「するべきだ」、と言いたいところなんだけれどね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

恋愛頭脳&だめんずうぉーかー

恋愛頭脳&だめんずうぉーかー
 お仕事で質問紙作成レクチャー。真面目な集まりだったはずだが、脱線ビームにより、なぜか「恋愛頭脳」と、「人工知能を搭載した恋愛指南マシーン」として先ほど発売された「だめんずうぉーかー」ネタで盛りあがる。

 「恋愛頭脳」は、知る人ぞ知る不思議な診断テストである(私は後輩に教えてもらった)。一方、「だめんずうぉーかー」も知る人ぞ知る(私はAERAで知った)、倉田真由美氏のエッセイである。タカラから新発売された恋愛指南マシーンは倉田氏監修の下、「約10,000人の男女のアンケートをベース」にしたシステムにより、診断相手のダメ度を教えてくれるらしい。

世の中のアンケートのイメージ
 個人的には、社会心理学系の専門家が、この手の診断テスト(?)をどう捉えているか &人工知能の専門家が、この手の人工知能(無能かな)「マシーン」の存在をどう捉えておられるか気になるところである。

 しかし、世の中的には、アンケート(質問紙)で何らかの診断をするというと、この手の結果が戻ってくると思われている気がしてならない。有名なクレッチマーの類型論は、心理学の教科書には必ずと言って良いほど載っているが、巷の恋愛本でも紹介されている気もするし(ユングの方が多いかな)。

 アンケート(質問紙)をデザインする時には、その人のアンケート自体のイメージも含めて検討する必要もあるのではないかと思ったりもするのだが、専門的になるので、ここでは省略(考えるのが面倒という言い訳)。

 予定では今日は、類型論と、特性論、状況論について話をしようと思っていたが(これも心理学系の教科書にはよく載っており、私が担当させて頂くのは忍びないのだが…)、「類型論」で止まってしまった。脱線し過ぎたな。

日々是ネタ創発
 尺度の信頼性をどう確保するか?というのは大変難しい問題であり、いったい何故にこのような結果が導き出されているのか分からないが、私の結果は以下の通りである。思わずリバースエンジニアリング(?)しようかと思ったが、ネタはネタとして取っておくのがよさそうだ。

 日々是ネタ決戦。N総研の言葉をお借りすれば「ネタ創発」か、

▼以下、恋愛頭脳の結果からの部分的な引用
 (こう言うのって著作権はどうなっているんだろう)。

総合判断  恋愛観レベル 達人

 おそらくこれはペテン師として「達人」という意味なのであろう。以下、引用量が増えてしまうので、ジャンル別診断とコメントを合わせてみた。

 なお、最初に断っておく。このような場合、俵万智さんの著名な短歌、「『おまえオレに言いたいことがあるだろう』決めつけられてそんな気もする」法則が適用されるため、言われると、確かにそんな気がしてくるものである(人というのは自分に都合の良い類似性を探すものである)。

 しかし、よく見ると「自己犠牲の精神」と「安定と刺激」「駆け引き」「許容と束縛」が、微妙に矛盾しているのが気懸かりである。そもそも、これらは異なる概念なのか…、と思わずマジで考えてしまいそうになった今日この頃。

  • 人生における恋愛:なかなか良いバランスです。ozawaさんにとっては、男女関係にあまり没頭するのは好ましくないようです。ヒマな人や寂しがりやな人と付き合うとトラブルも多そうですが、その気持ちも汲めればさらにozawaさんの恋愛観は磨かれることでしょう。(
  • 社会における恋愛:ちょうど良いバランスを保っています。社会的な体裁も保ちつつ、その一方で彼氏彼女とは上手に夢のある世界をつくりあげていくことができます。人を好きになると社会的に壊れてしまう人が多い中、ozawaさんは全方面に上手にやっていける資質をもっていると言えるでしょう。(最適
  • 自己犠牲の精神:付き合ったばかりの頃は全てを捧げる意気込みでも、時間が経てば相手に要求することばかりで「与え合う」良い循環を失う傾向にありませんか?付き合ったころのまやかしが解けると損得を意識しはじめる傾向にあるのではないでしょうか?ozawaさんは長く付き合うには向いていないようです。(
  • ルックスozawaさんは、やや内面重視の傾向があります。決して好みのルックスでなくても、いつのまにか優しさや頼りがいにほだされていることが多いのではないでしょうか?付き合う前には、これでいいのかと多少悩むのかもしれません。しかし長期的には悪くない結果が残るタイプと言えるでしょう。(
  • 財力:お金にあまり固執しない、という点は評価できますし好感がもてます。財力よりも気持ちを通わせることの重要性をよく認識していると言えるでしょう。ただしozawaさんの彼氏彼女が財力重視の場合は摩擦が生じやすく、どちらかがどちらかに、またはお互いに不満をもつことになりかねないので注意。(
  • 安定と刺激:安定と刺激をちょうどよいバランスで望んでいるようです。浮気など派手に冒険することよりも、大切にひとりの人と愛を育みつつ何か刺激を見出すことを理想としているのでしょう。しかしいくらozawaさんの理想が皆の支持を受けるものでも、彼氏彼女の価値観によってはそのギャップが頭痛の種となりつづけることでしょう。(最適
  • 駆け引き:とてもバランスの良い価値観をしています。ここでバランスをとれない人は、恋愛で疲れ果てたり逆にハマれなかったりする人が多いのですが、ozawaさんは絶妙です。長く付き合うとよく口論などになるならば、ozawaさんよりも相手の責任が大きいのではないでしょうか。(最適
  • 許容と束縛:とてもバランスの良い価値観を保っています。放任と束縛、どちらに寄るわけでもなく、一般的な感覚にマッチする線引きができていると言えます。ozawaさんは、鈍感や無関心ではなく包容力があり、また束縛ではなく相手を惹きつけることで距離感を上手に保てるタイプでしょう。(最適
  • 将来への意識:将来にわたって物事を捉えがちで、どことなく今を楽しめないでいませんか?それはozawaさんの彼氏彼女にも伝播し、ちょっと退屈な感覚を味わわせることもあるでしょう。しかしバランスは及第点。そんなあなたをきっと理解してくれるはずです。(最適

 以上、結果を面白がりつつ、結果に対して「なんとなく、クリティカル」(なんクリ)を発揮するのが粋な生き方ではないかと思われる。

 なんて書くと、甘い!と各方面から怒られそうな気もするが(さもなければ抹殺されるのかもしれないが)、質問紙作成に必要なのは「粋」の精神であろう。という、よく分からない結論で終了。 占い的にもよくできた文章だな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

読書メモ:ソーシャルキャピタル

▼今月から「おざわ日記」も新体制のつもりでいたが、結局、間に合わず。あと一週間くらいかかってしまいそうな感じです。すいません。

全体的コメント
 お仕事的関係で、ミシガン大学ビジネススクールシリーズ?の『ソーシャル・キャピタル』を読む。

 ソーシャル・キャピタルって何よ?と思われた皆さん(&結論を先に急ぐ皆さん)は、次に進んでください。

 始める前に、本書のいただけない点。以前も読みかけて途中で投げてしまったのだが、理由は、どうやら翻訳の問題にある気がする。
 とくに、人名がいただけない。

 フロイトをフロイドと記すのはともかくとして、「フロー体験」で知られるチクセントミハイが、チクゼントミハイリ?になっていたり、ソーシャル・キャピタルを語る上で欠かせないロバート・パットナムがプットナム?になっていたり、贈与論のマルセル・モースがマウス…になっていたり、!?が多かった。

 珍しく日記上で批判めいたことを書いているが、原著は、文献が多く参照されている骨のある本なのに、これではもったいない。おそらく、これは出版社の責任も大きいだろう。訳書では文献リストをはしょらなかったのは良いが、後、一歩のところで手を抜いてしまったのでしょうか。

 悪い本ではないし、もったいないので敢えて書いて見ました。

ソーシャル・キャピタルとは何か
 さて、気を取り直して、今回、私は著者がソーシャル・キャピタルをなんと定義しているのかを探していたのだが、どうやら以下のような概念らしい。
 ソーシャル・キャピタルとは、個人的なネットワークやビジネス・ネットワークから得られるさまざまな資源のことである。情報、アイデア、指示方向、ビジネスの機会、金融資本、影響力、精神的なサポート、善意、信頼、協力などがその資源として挙げられよう。(略)(引用訳書pp.40-41)。
 定義にしては包括的過ぎる気もしないでもないが、要するに人と人とのつながり、関係性を通して得られる「何か」を指したいようだ。

 思ったのだが、おそらく著者は、本書を通して、つまり「ソーシャル・キャピタル」という概念を通して、「現代アメリカ文化に含まれている虚構」の一つである「成功は個人的な事柄(事業)」(p.7)という見方を批判したいようだ。

 同様の著者のメッセージがより顕著に表れているのは、「ソーシャル・キャピタル」の定義を記した先の引用に続く文章である。
 個人主義の神話を拠り所とし、自分の運命を決定できるのは他ならぬ自分であるとか、人間関係を重視しないようなふりを装うような場合にも、その資源(引用者注:ソーシャルキャピタル)は見つけられないままだろう。一般的に才能、知性、教育、努力、目標、幸運などは個人の属性に帰するものと言われているが、このようなものでさえ、まわりの人との関係によって発展・形成、実現されるものである。(翻訳書p.41。下線は引用者)
成果主義とソーシャル・キャピタル
 似たような文章をどこかで読んだ気がしていたが、そう、それは『虚妄の成果主義』の「あとがき」だった(注:成果主義をとことん批判し、日本型の年功序列制度を擁護した本。個人的には、それなりに読み応えがあった)。

 直接は何ら関係はないが、書いてあることは実に似ている。やや長くなるが引用してみよう。以下は、著者が自分の学生(東大生)に対して、老婆心(?)的に投げかけるメッセージらしい。
 仮に、君が優秀な社員だったとしよう。(略)
 しかし、
 君は、「××プロジェクトは私がやった仕事です」、あるいは「△△は私一人でやりました」とはけっして口にしてはいけない。実際にはそうかもしれないが、例え本当だとしても、それを口にしてはいけない。それを口にした途端、状況は一変してしまう。「だったら、一人でやれ」と周りの人は反応するだろう。そして君は悟るのだ。コピーをとってくれたり、書類の束をきれいに整理してファイルしてくれたり、お客さんにコーヒーを入れて持ってきてくれたり、会議後ホワイトボードを真っ白にふいてくれたり、机の横のくず入れを時々空にしてくれたり、切れかけた蛍光灯を取り替えてくれたり、郵便物をポストに入れてくれたり、席を外している時にかかってきた電話をとってくれたり、頼みもしないのに飲み会の設定をしてくれたり、プレゼンを前にして恥ずかしくなるようなくだらない冗談を飛ばして緊張感をほぐしてくれたり…。要するに、まるで空気のように君をサポートしてくれる人々が君の周りにいたおかげで、君は他の人よりも創造的で付加価値の高い仕事に集中できていただけなのだ。君は周りの人に支えられて、ようやく仕事をしている。君を頼って、君にぶら下がって生きているように見えたかもしれないみんなが、実は君をサポートしてくれていたおかげで、君は「優秀」な社員でいられたのだ
(高橋伸夫(2004). 虚妄の成果主義. 日経BP社)
下線は引用者 pp.226-227
 深読みかもしれないが、『虚妄の成果主義』の著者もまた、上のようなことをいわんがために、「日本的年功序列」の重要性を説き、「成果主義」批判をしているのではないかと思えるほどである。

 問題意識は、両者ともに似ていると思われるが『ソーシャル・キャピタル』では、どちらかというと「ゆるやかなネットワーク」の重要性が指摘され、一方、『虚妄の成果主義』では、日本的な年功序列制度(流動化は想定されていない)の重要性が指摘されている点は、大きく異なる。よく言われる個人主義と集団主義的な発想が、ここにも反映されているのかもしれない。

 うまく言えないのだが(ある人にとっては常識かもしれないが)、「つながり」や「ネットワーク」の捉え方が、どこか違うのだろうとは思う。何らかの成果を集団に帰するか、制度に帰するか、あるいはその関係性(ネットワーク、あるいはソーシャル・キャピタル概念)に帰するかの違いかもしれない。

 高橋氏のメッセージには、私も強く同意したいのだが、「言われれば分かるが、実践できない」知見に近い側面もある点が引っかかる。また、このような考え方を力説されると、「しらじらしく」思えてくる人も少なくないだろう。おそらく、説明されて分かるものではなく、「そして君は悟るのだ」と記されているように、自ら気づかなければ到達できない考え方なのかもしれない。

 このあたりの説明の仕方というか、「語り口」に秘密が隠されている(?)気もする。もっとも、結局は、自発性パラドックスの問題(自発的に行動しろよ、という指示の矛盾)に引っかかっているだけかもしれないけれど…。

追記
 現状、手に入れられる本で「ソーシャル・キャピタル」について分かりやすい入門書は、金子郁容『新版 コミュニティソリューション』である。上記本にも引用されているが、パットナムの『哲学する民主主義』は、ソーシャル・キャピタル概念を語る上ではかなり重要。ただし、読み込むのは難しい。

 この分野は専門外なので(もっとも、すべてにおいて「専門」と呼べるようなものは私にはないのだが)、誤読があったらすいません。他に良い参考書等があれば、ご紹介いただけるとありがたいです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)
|

« 2004年5月 | トップページ | 2004年7月 »