新しい一歩
▼新体制スタート(の予感)
ようやく公式サイト(職場の名刺にも記載)の準備が整ったので、時期を見て個人的なページ(今、ご覧いただいているページ)と順次、切り分け作業を行っていく予定です。4月中に予定していたのにすっかり遅れてしまって、一部の人にはご心配をおかけしました。すいません。
今後、「読書メモ」は基本的には公式サイトに移動します。その他の私の職場以外の日常と、数年前から好評連載中(?)の「恋愛講座」については、若干形は変わりますが、基本的にはこのまま継続する予定です。
区分けがうまく行くか分かりませんが、セミパブリックとセミプライベート、フォーマルとカジュアル、A面とB面(この比喩が使えるのは、レコード・カセットテープ世代に限定される?)などのように、自分自身楽しみながら継続します。どうぞこれからもあたたかく見守っていただければ幸いです。
▼恋愛講座について(暫定的なお知らせ)
(1)恋愛講座の位置づけ
恋愛講座については、「ネタ」が分かってくださる方と、有無を言わず「引いて」しまわれる方がいるので、継続するか大変に迷っていたのですが、恋愛系読書メモとして、少し形を変えて更新するつもりです。
以下、「恋愛講座」について少し背景的な話も含め、お話をさせていただきます。フォーマルには、私にとっての最大のクライエント(顧客)は大学生になるのですが、自分自身の大学生活を振り返ってみると、今の職業にも少しばかり継承されている若干の学習・研究活動を除くと、サークルやアルバイト(高学年になるとキャリア全般)、恋愛談義が、大学生活の「ほとんど」でした(一応断っておくと、その分、大学院に進学してからは苦労しました)。
私の学部時代のキャンパスライフが、しょーもなかっただけなのかもしれませんが、一つのことに集中するためには、他の多くのことに支えられなければならない私なりに思っています(言い訳)。しかし、さらに重要なのは、これらの事柄の一つひとつは完全に切り離されているわけではなく、互いにわずかかもしれませんが関係しあっていると考えられる点です。
(2)理解と分からなさ
一見、関係なさそうな事柄に関係を見いだした瞬間や、一人では「点」にしか見えなかったことが複数人の手によって「線」として意味づけ、結びつけられた瞬間が、授業でも、サークルでもバイトでも恋愛などの場面を問わず、私にとっての最大の喜びの瞬間でもありました。ありふれた言い回しですが、これはアルキメデスが「ユーリカ」と叫んだ気持ちに近いのかもしれません。
もっとも、喜びだけではなく、分かった気持ちになったことで痛みを感じることや、余計に分からなくなることの方が少なくありません。分からなさを、自分なりに抱え込まずしては、いつまでも疑似的な理解にとどまるような気もします(何が疑似で何が現実的なのかは分かりませんが)。
私はまだまだ理解の彼岸にも悲哀にも達していないのですが(本当の血を吐く苦しみを経験しないまま、就職してしまいました)、ライフデザインとしての今の私自身の当面の目標は、そのような理解や分からなさの瞬間(時間)や場(空間)を、他者(当面は大学生)に提供することです。もちろん外から眺める訳ではなく、私自身も当事者でありたいものです。
(3)受け手と送り手の間にある溝
少し話しが逸れました。一般に、ほとんどコミュニケーション場面にも言えることですが、「送り手」が伝えたいことと、「受け手」が聞きたいこと、もしくは「受け手」が理解の足場に出来ることの間には永遠の距離があります。
その溝をどうやって埋めるかが、私にとっての仕事の一つになりますが、そこで「恋愛」ネタが登場するわけです(長い前置き!)。つまり、私にとっては、サークルやアルバイト、あるいはその中で起きる恋愛に関する事象のある要素は、<自分が伝えたいこと>の関連づけの道具でもあるのです。たぶん。
もちろん、上記は話をキレイにまとめすぎているような気もするし、強引な連携は、ある人にとっては、逆にうっとうしいかもしれないし、安っぽく見られるかもしれないし、「引かれて」しまうかもしれない…などリスクがありますが、そのように話すことでしか見えないこともあるとも思っています(『アナロジーの力』とは違うかもしれないけれど、少しは関係があるかな)。
とくに、「大学の四年間に夢中になれることを見つけたいと多くが口にするが、見つけられる者は圧倒的に少ない。」(by小倉千加子)昨今においては、授業内容でも、サークルでも、アルバイトでも、恋愛でも、何かの一点を契機に、世界を広げられるような足場を作りたいとも思うわけです。
私自身も、そうやって少しずつ何かに夢中になりながら、何かを諦め(その過程で諦め方についても学びました)、今に至っているわけですから。
(4)現実の困難さと学問上の困難さ
さらに言えば、少なくても人文・社会科学系のある領域では学問上の困難さと、現実の困難さは密接に関係しているはずで、両者を関連付けることは、何かしらのスタートになる気がしています。
ちょっと関連度は低いかもしれませんが、小倉千加子氏曰く
私の日記では、両者を無理に結びつけることで、時に、<自分が伝えたいこと>の背後にある無意識のようなものが見え隠れしてしまうかもしれませんが、それは読み手であり受け手の能力でもあり、「関連づけ」の力が発揮された結果だとも思っています。
言語外の発言(の解釈)に責任を負うことは難しいのですが、優れた解釈はこっそり私にも教えていただけるとありがたいです。
なお、受け手と送り手(が二分出来るものとして)の対称性について言うならば、私個人を「恋愛」と結びつけるのは、私のその他の部分を捨象(読書メモも、私の日記のコンテンツの一つです)しているとも言えます。
もちろん、それ以外にネタがない、ということを象徴しているのかもしれませんけれどね。多角的・複眼的思考とはなかなか難しいものです。
長くなりましたが、私なりの現時点での恋愛講座の位置づけについて、一度、声に出して語ったものを(仮想の聞き手は誰だろう)、テープ起こししてみました。にしても語りって、予想以上に支離滅裂かも。
ようやく公式サイト(職場の名刺にも記載)の準備が整ったので、時期を見て個人的なページ(今、ご覧いただいているページ)と順次、切り分け作業を行っていく予定です。4月中に予定していたのにすっかり遅れてしまって、一部の人にはご心配をおかけしました。すいません。
今後、「読書メモ」は基本的には公式サイトに移動します。その他の私の職場以外の日常と、数年前から好評連載中(?)の「恋愛講座」については、若干形は変わりますが、基本的にはこのまま継続する予定です。
区分けがうまく行くか分かりませんが、セミパブリックとセミプライベート、フォーマルとカジュアル、A面とB面(この比喩が使えるのは、レコード・カセットテープ世代に限定される?)などのように、自分自身楽しみながら継続します。どうぞこれからもあたたかく見守っていただければ幸いです。
▼恋愛講座について(暫定的なお知らせ)
(1)恋愛講座の位置づけ
恋愛講座については、「ネタ」が分かってくださる方と、有無を言わず「引いて」しまわれる方がいるので、継続するか大変に迷っていたのですが、恋愛系読書メモとして、少し形を変えて更新するつもりです。
以下、「恋愛講座」について少し背景的な話も含め、お話をさせていただきます。フォーマルには、私にとっての最大のクライエント(顧客)は大学生になるのですが、自分自身の大学生活を振り返ってみると、今の職業にも少しばかり継承されている若干の学習・研究活動を除くと、サークルやアルバイト(高学年になるとキャリア全般)、恋愛談義が、大学生活の「ほとんど」でした(一応断っておくと、その分、大学院に進学してからは苦労しました)。
私の学部時代のキャンパスライフが、しょーもなかっただけなのかもしれませんが、一つのことに集中するためには、他の多くのことに支えられなければならない私なりに思っています(言い訳)。しかし、さらに重要なのは、これらの事柄の一つひとつは完全に切り離されているわけではなく、互いにわずかかもしれませんが関係しあっていると考えられる点です。
(2)理解と分からなさ
一見、関係なさそうな事柄に関係を見いだした瞬間や、一人では「点」にしか見えなかったことが複数人の手によって「線」として意味づけ、結びつけられた瞬間が、授業でも、サークルでもバイトでも恋愛などの場面を問わず、私にとっての最大の喜びの瞬間でもありました。ありふれた言い回しですが、これはアルキメデスが「ユーリカ」と叫んだ気持ちに近いのかもしれません。
もっとも、喜びだけではなく、分かった気持ちになったことで痛みを感じることや、余計に分からなくなることの方が少なくありません。分からなさを、自分なりに抱え込まずしては、いつまでも疑似的な理解にとどまるような気もします(何が疑似で何が現実的なのかは分かりませんが)。
私はまだまだ理解の彼岸にも悲哀にも達していないのですが(本当の血を吐く苦しみを経験しないまま、就職してしまいました)、ライフデザインとしての今の私自身の当面の目標は、そのような理解や分からなさの瞬間(時間)や場(空間)を、他者(当面は大学生)に提供することです。もちろん外から眺める訳ではなく、私自身も当事者でありたいものです。
(3)受け手と送り手の間にある溝
少し話しが逸れました。一般に、ほとんどコミュニケーション場面にも言えることですが、「送り手」が伝えたいことと、「受け手」が聞きたいこと、もしくは「受け手」が理解の足場に出来ることの間には永遠の距離があります。
その溝をどうやって埋めるかが、私にとっての仕事の一つになりますが、そこで「恋愛」ネタが登場するわけです(長い前置き!)。つまり、私にとっては、サークルやアルバイト、あるいはその中で起きる恋愛に関する事象のある要素は、<自分が伝えたいこと>の関連づけの道具でもあるのです。たぶん。
もちろん、上記は話をキレイにまとめすぎているような気もするし、強引な連携は、ある人にとっては、逆にうっとうしいかもしれないし、安っぽく見られるかもしれないし、「引かれて」しまうかもしれない…などリスクがありますが、そのように話すことでしか見えないこともあるとも思っています(『アナロジーの力』とは違うかもしれないけれど、少しは関係があるかな)。
とくに、「大学の四年間に夢中になれることを見つけたいと多くが口にするが、見つけられる者は圧倒的に少ない。」(by小倉千加子)昨今においては、授業内容でも、サークルでも、アルバイトでも、恋愛でも、何かの一点を契機に、世界を広げられるような足場を作りたいとも思うわけです。
私自身も、そうやって少しずつ何かに夢中になりながら、何かを諦め(その過程で諦め方についても学びました)、今に至っているわけですから。
(4)現実の困難さと学問上の困難さ
さらに言えば、少なくても人文・社会科学系のある領域では学問上の困難さと、現実の困難さは密接に関係しているはずで、両者を関連付けることは、何かしらのスタートになる気がしています。
ちょっと関連度は低いかもしれませんが、小倉千加子氏曰く
(略)学生は十八歳や十九歳でも、無意識のレベルでは教員以上に現実の困難さを知っている。無意識に言葉を与え、それが「腑に落ちる」なら学生の無意識はそのことを前から知っていたのであって、ただ意識化していなかっただけなのである。学生の意識の量を増やすこと以外に文系学部の教員のする仕事があるとは思えない。「~すべきである」という物言いをせずに、学生自身に「~はしたくないと思っていた自分は間違ってはいなかったんだ」と自信を持たせることができれば御の字であって、それ以上の仕事を社会科学系の教員に求めるのは酷である。私がここで重要だと思うのは、無意識に言葉を与える、ということ。意識の量を増やすことだけがすべてだと思いませんし、それ自体、批判的に捉えていく必要があると思いますが、現実の困難さを意識するためにも、学問的な困難さを学ぶことは必要だと思うし、そのまた逆もしかりでしょう。
小倉千加子(2003). 結婚の条件. 朝日新聞社
私の日記では、両者を無理に結びつけることで、時に、<自分が伝えたいこと>の背後にある無意識のようなものが見え隠れしてしまうかもしれませんが、それは読み手であり受け手の能力でもあり、「関連づけ」の力が発揮された結果だとも思っています。
言語外の発言(の解釈)に責任を負うことは難しいのですが、優れた解釈はこっそり私にも教えていただけるとありがたいです。
なお、受け手と送り手(が二分出来るものとして)の対称性について言うならば、私個人を「恋愛」と結びつけるのは、私のその他の部分を捨象(読書メモも、私の日記のコンテンツの一つです)しているとも言えます。
もちろん、それ以外にネタがない、ということを象徴しているのかもしれませんけれどね。多角的・複眼的思考とはなかなか難しいものです。
長くなりましたが、私なりの現時点での恋愛講座の位置づけについて、一度、声に出して語ったものを(仮想の聞き手は誰だろう)、テープ起こししてみました。にしても語りって、予想以上に支離滅裂かも。
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