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じぶんにしか出来ないこと

▼最近、いろいろな人と出会い、話をする機会が増えた。この5年間、とくに後半の数年間は、割と閉じられた生活をしていたので、大変に刺激になると同時に、いろんな意味で自分の無知さを思い知るばかりである。

 最近、いろいろと考えさせられるのは仕事について、「自分にしか出来ないこと」(一般語としての「自己実現」の意味に近い気がする)が、実体化されすぎているような気がしてならない点である。香山リカに言わせれば、妄想に近いのかもしれないが、そこまで言わなくてそんな傾向が強い。

 私も職業柄か、知人から「いいよね、君は。好きなことをやっていて」と言われることは少なくないのだが、これに対してなんと答えれば良いのか、迷うところがある。確かに、私のやっているような職種(教職もしくは研究職と呼ぶのか?)は、自分が好きなことを勝手にやっているように見えるし、実際、私自身もそのようにふるまっている部分がある…気がする。
(ぱっと浮かんだのは『理系の女の生き方ガイド』だが、ちょっと違うか)

 しかし、職業として、それが自分にしか出来ないかというと、そんなことはまったくない。「機能」として見れば、代わりはいくらでもいるはずである(機能として見なければ、どんな職業であれ代わりなどいるわけはない)。また、「好きなことをやっている」というのも、「好きなこと」が実体として事前に存在していたわけではなく、後付けで「好きになっている」部分も少なくない。

 自分自身でも、「好きなこと」は固定的ではないし、やりたいことを改めて聞かれれば言葉に詰まるのが実情である。Scheinの有名な3つの問い、(1)何が得意か、(2)何をやりたいのか、(3)何をやっている自分が充実しているのかだって、普段は、興味も関心も一貫しているようなフリをしているが、一貫していないような物語を組み立てることもできる。話の加減次第だ。
(このあたりの問いは、金井先生の『キャリア・デザイン・ガイド』に詳しい)

 もっとも「自分の好きなことが分からない」とか、「じぶんにしか出来ないこと」という時の、「自分」とは何なのか、そう思う他者の意識の持ちよう(M氏に言わせればメタワールド)は、ずっと以前から謎に思っているわけだが、それは仕事というよりは、自分の存在そのものであろう。

 しかし、これだって自分一人で考えているわけではない。常に、「わたし」だとか「じぶん」は、ある種の状況性とか、社会に「埋め込まれて」いるわけで、単独で考えていたり、やりたいことをやっているわけでは決してない。
(このあたりは、『状況に埋め込まれた学習』から私は影響を受けている)

▼もしかしたら、他者が「自分にはないものを持っている」という、言われてみれば当たり前のことが、うまく受け入れられないだけなのかもしれない。

 「じぶんにしか出来ないこと」なんて、そうそうあるわけではないということを知りつつ、諦念も含めて未来にいかにつなげるか。いつもながら、問いの着地点は変わらないような気もするが、なかなか大きな課題である。
 じぶん以外のひとには不可能な仕事というのは、そうそうあるものではない。別にじぶんじゃなくてもいいんじゃないかという思いが、職場にいて全然よぎらないひとなど、おそらくいまい。こういう虚しさ、寂しさが、現代人の気分には思いのほか深くしみとおっている。(鷲田清一(2004). ことばの顔. 中公文庫 p.34)
 さてはて、これからどんな方向へ進んでいこうか。

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