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2004年5月

読書メモ:今月の本

▼先月何読んだっけな、と先月分の日記を久々に確認したら、4月分の「今月の本」をまとめ忘れていたことが発覚。4月分は改めて記したい。

▼今月は、出張や移動が多かったせいか、出張先や移動中の暇な時間に読んだ本が比較的多い気がする。普段は移動中、AERAやニューズウィークを読んでいるのだが(時々、オレンジページとか)、今月は、何故か部屋で雑誌に目を通し、移動中、ハードカバーを読んでいたのかもしれない。

▼まず新書系で、面白かったのは『確率的発想法』。

 私は、確率的に物事を考えるのが得意だと自分では思っていたが…錯覚だったかもしれない(昔は、「打算的だ」と言われたり、夢がないと思われていた時期があったが、今は、「偶然」ということですべて済ましているのかも)。
 一般的に確率の本は難しいものが多いが、この本は、初心者にも分かりやすく、タイトル通り「日常的に役立つ」数学の本になっている気がする。大学で統計を学ぶ上での基礎にもなりそうだ。

▼ルポタージュ系で参考になったのは『eデモクラシーへの挑戦』。

 企業組織、学校・教育、政府・地方公共団体など、分野を問わず、ネットコミュニティ(オンラインコミュニティ、電子コミュニティ)の形成をいかに促進し、持続的に発展させつつ、何らかの問題発見や問題解決に役立てていくか?は、近年、おそらく多くの関心を集めている問いの一つである。

 企業や教育分野では、理論的、実践的報告はちょくちょく国内でも出始めているが、地方公共団体はあまり良い事例が多くないようだ。本書は数少ない成功例(?)の一つである神奈川県藤沢市の電子会議室をテーマとした本。  歴史的経緯や、電子会議室運用のノウハウ、また利用者の具体的なデータも示されており、オンラインコミュニティに関心のある人ならば、きっと参考になるだろう。ただ理論面では、ちょっとモノ足りないかもしれない。

 金子郁容先生の「ルール」「ロール」「ツール」という分析のフレームワークや、「ソーシャルキャピタル」概念を突っ込んで知るためには、『新版 コミュニティソリューション』をあわせて読んだ方が理解が深まる気がする。

 この手の分野は、理論というよりは事例から学ぶことが多そうだ。

▼私自身は、軽薄に「ネットコミュニティ」や、「オンラインコミュニティ」を論じる以前に、ローマ共和制や、マルクスの共同体概念に還って考えるべきではないかと思っている(私は何事にも遠回りなのである)。

 ここになって歴史が得意ではないのが裏目に出つつあるのだが、たまたま「自分探し」系現代論の一つのつもりで手に取った『「ほんもの」という倫理』は、コミュニティ概念を考えるにも参考になった。今月の最大の収穫本である。  教育・学習の世界でも、最近何かとauthenticity(ほんもの性、真正性)概念の重要性は指摘されている。しかし、多くの場合、それが「実体」として存在するような錯覚を与えている気がしてならない。authenticityに唯一の「正解」があるような前提に立つほど危険なことはないと思うのだが…。

 著者が言うように(著者はもっと深淵な言い方をしているが)、本来、「他者の他者」としての自己のあり方、すなわち対話や関係性をふまえながらauthenticityのありようを考えていかなければならないはずである。

 久々に骨のある本だったので、改めて読書メモを書きたい。

▼最後は、CD-ROM付きのエスノメソドロジー本。エスノメソドロジー関連の本は、読んでいる最中には分かった気になるが、ページを開いた瞬間、よく分からなくなることが少なくなかった(要するに私は、おバカさんである、ということだ)。

 しかし、この本はCD-ROMのビデオ映像等があるせいか、納得度は高い。この主の考え方や方法論の本(メソドロジー=方法)は、自分で経験するとか、自分でやってみるというプロセスが不可欠なのかもしれない。
 分野は違うが、『マルチメディアで学ぶ臨床心理面接』も同様に、CD-ROM教材で「実際」を知ることが出来て、かなり勉強になった本である。
(注) ちなみに両者で、使われている映像分析ソフトの一部は同じものである。以前から、映像を分析=検討=再吟味できるシステムがあったら便利だなぁと思っていたら、既に存在していた上に、何かとお世話になっている先生が作成されていたソフトだと知って、無知の至福(誤用)を感じた。
 改めてコメントするほどのものではないが、視聴覚教材は効果的に使うと、理解は圧倒的に深まる。しかも、時間を空けて何度か見ると、ますます効果がありそうだ(視聴後に感想を書いているとなおさらである)。

 私自身は、授業の履修者として、あるいはアシスタントとして、クライエント中心療法で知られるロジャーズの有名な『出会いへの道-あるエンカウンター・グループの記録』(の短縮版)を、1年に1回、5~6年にわたって見た記憶があるが、見る度に、確実に自分が変化しているのが実感できた。

 分からない部分が、より明確に分かるようになる感覚は、視覚的というよりは身体的なものに近いのだろう。時間をかけて、人との対話を通してはじめて、「ほんもの」や、隠された悪(by谷川俊太郎)を見抜けるようになれるのかもしれない、なんてことを思ったりした5月であった。

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読書メモ:年齢本レビュー

今週月~水は、かなりお仕事が忙しいので、以前書いたものをコピペ。

▼本棚を整理していたら、村上龍の『13歳のハローワーク』と、池田晶子氏の『14歳からの哲学』を同時に発掘(?)し、思わず微笑んでしまった。

 私の本棚、もしくは一度目を通したことのある「年齢本」をリストアップしたら、13~17歳までは揃った。しかし、なぜか18歳、19歳は私もぱっと思い浮かぶ該当書がない。「29歳本」は多いが、「19歳」本は少ないらしい。
  • 村上龍(2003) 『13歳のハローワーク
     最近、何かと話題の本。いわゆるお仕事のカタログ本。リクルートじゃなくて、村上龍が出した点に意味があるのかな。
  • 池田晶子(2003) 『14歳からの哲学 考えるための教科書
     平易な表現だが、書かれていることはかなり深い。池田晶子の本は、どれも読むのに咀嚼が求められるが、本書も例外ではない。
  • 三田誠広(文庫1991) 『いちご同盟
     私が最初に読んだのは15歳の時(懐かしい!)だったような記憶が。音楽では有名な尾崎豊の「15の夜」がある。
  • 春日武彦(2002) 『17歳という病―その鬱屈と精神病理
     ちょうど17歳の高校生の事件が相次いだ頃の本。音楽では、南沙織(私が知っているのは森高千里のカバー)の「17歳」が有名か。
▼20歳以降は、とびとびになる(検索をかけてみたが、成人向け出版が多い?)。私の記憶にある最も大きな本は、立花隆の『二十歳の頃』である。
  • 立花隆(文庫2001)『二十歳の頃(2)』『二十歳の頃(1)
     ちょうど私の学部時代に、本書の単行本が出版されて、多いに刺激を受けた記憶がある。もしかしたら本書は、私がフィールドワークにさらなる興味を持つようになった契機の一つかもしれない。
 21歳以降でぱっと思い浮かぶのは、『25歳からの恋愛論』。確か私が25歳の時に書店で見かけて思わず買ってしまった本。
 まったくもってマーケティングにしてやられているが、内容はまったく憶えていないし、手元に残っていないのが残念。BookOffに売ったか?

 『28歳からのリアル』は、ちょうど28歳の時に書店で見かけて買った記憶があるが、これまた行方不明中。AERAみたいな本のつくりだった記憶が…。誰か借りっぱなしだったら返してください(笑)。

 29歳~30歳は、最近、『負け犬の遠吠え』ですっかり売れっ子になってしまった(ちょっと前は『制服概論』とか、マニアックな本を出していたのに!)、酒井順子の原点とも言える『29歳30歳のあいだには』がある。内容としては負け犬の遠吠えの方が面白いが、後者もテイストは似てる。

 こうして並べてみると、私も長く生きてきたなぁ(笑)と思ってしまう次第である。今年は、20代最後のまとめの歳?かな、という気もする今日この頃。いろいろ決断すべきことが出てくる歳でもあるのかもしれません。

追伸
 本のタイトルに年齢を書いておくと、私のように間違って買ってしまう人が少なからず(?)いるのだろう…か。確かに40代、50代からの…というタイトルの本は少なくないし、セグメントはハッキリしているかもしれない。

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読書メモ:統計はこうしてウソをつく

統計はこうしてウソをつく
 質問紙系のオシゴトに声をかけていただいたので、久々にブラッシュアップのために流し読みしかしていなかった『統計はこうしてウソをつく』を読む。
 いわゆるリサーチリテラシー(by谷岡一郎氏)系の本は、上記以外にも、谷岡氏による『社会調査のウソ』や、ブルーバックスの名書『統計でウソを付く法』などいくつかあるが、本書は、新書よりは専門的な内容である。

 と言っても、専門的=難しいという意味ではない。身近な例(アメリカの話題が多い)で、いわゆる社会統計の問題が幅広く取りあげられている。谷岡氏の本は日本の事例が多いから、本書を読むとバランスが取れるかも。

 なかなか面白かったので、メモを取ってみた。なお、読書メモはおざわ日記二本化(パブリック&プライベート)に伴い、本家は移行予定。プライベート版では基本的には「わたし」が主語だが、読み替え可能…なはず。

統計の壁、みたいなもの
 私自身、それなりに統計を学んできたつもりだったが、本書を読んで、なるほど!と思わされることが少なくなかった。
 たとえば、自分はこれまで「日本よりアメリカの方が弁護士が多い」という説をそのまま信じていたし、「自殺は青年期の人の第二の死因である」的な主張も、そのまま受け入れていた(単に無知だけかもしれぬが?)。

 しかし本書によれば=二次資料を用いてはならないのだが、前者について弁護士(ローヤー)の制度は、日米で異なり、司法試験の合格率にも大きな違いがあるらしい(関連p.145)。後者では、青年期にはそもそもいわゆる成人病で亡くなる人の数は少ない、という事実を忘れていた(p152)。

 さすがに、最近では若干の調査経験を通して、サンプルの問題(誰が対象になっているのか)や、ワーディングの問題(注:参照)は、私もかなり見極められるようになった。
 しかし、そもそも調査の前提となっている定義だとか、その他の(一見、見えにくい)要因については、「常識」的知識が災いしてしまうようだ。なかなかクリティカルシンカー(批判的思考者)になるのは難しい。
:本書が紹介している例では、たとえば「あなたは違法な銃販売を取り締まることに賛成ですか」と聞けば、4分の3が賛成し、「誰が銃を所持してよく、誰が銃を所持してはいけないかを決める権限を警察に与える法律に賛成ですか、反対ですか」と聞けば逆の結果になる(pp.68-69)。前者は、銃規制論者による調査で、後者は全米ライフル協会による調査である、という点に注意する必要があるだろう。質問の出し方で結果は違ってくる。
UFOに誘拐されたことがある人の割合
 単純に面白かったのは、「UFOに誘拐されたことがあるか」という調査のお話。本書によれば、「目覚めると体が麻痺していて、部屋のなかに見知らぬ人間がいる、あるいは何かがあるという感じがした」などの指標を作り、一定の基準(5問中4問?)を満たした人を該当者として定義した例があるらしい。結果は、「人口の2%がUFOに誘拐されたことがある」(p.70)である。

 なんとも笑い話ではあるが、下手をすれば同じようなことをしでかす可能性がないわけではなく(程度はもちろん異なるが)、留意が必要そうだ。他にも、面白いネタが多々あったのだが、詳細は読んでのお楽しみ)。

新たな統計に出会ったときに立てるべき基本的な問い
 なお、著者による「新たな統計に出会ったとき立てるべき基本的な問い」は、「誰がこの統計をつくったのか」「この統計はなぜつくられたのか」「この統計はどのようにつくられたのか」の3つであった(pp.43-44)。

 本書の最後にたたみかけるように書いてあった社会統計に関する批判的アプローチについての一文が印象に残ったので、ご紹介させていただく。
 目標はリストを暗記することではなく、慎重なアプローチを考え出すことだ。統計について批判的になるには、数字について疑問を発する用意が必要だ。たとえば、報道を見聞きして新たな統計に出会ったら、批判的な人々は評価を下そうとする。この数字の出所は何なのだろうか。どうやってこの数字を出したのだろうか。この数字を出したのは誰で、どんな利害があるのだろうか。鍵となるコトバにはどのような定義がありうるのだろうか。そして、どの定義が選ばれたのだろうか。この現象にはどのような測定方法があり、そのうちどれが選ばれたのだろうか。どのようなサンプルが集められ、そのサンプルは結果にどう影響するのか。統計は適切に解釈されているか。比較がおこなわれているのか。そうだとすれば、比較は適切か。競合する統計があるか。そうだとすれば、対立する統計を掲げる人たちはその論点にどんな利害がかかっているのか。また、その利害はその人たちの統計の用い方にどんな影響を与えそうか。なぜ統計が対立するように思われるのか、対立する陣営どうしが数字を用いる仕方にはどんな違いがあるのかを理解することは可能か。(『統計はこうしてウソをつく』より引用:pp.214-215)
 社会調査は「疑問文」によって成立しているが(アンケートの基本は疑問形である)、それを読み解く際にも「疑問」が必要なんだな、ということを改めて確認してみたり。ネット調査も含めると、ますます奥の深い世界だわな。

追記
 なお、本書にはオンラインサーベイについては何ら言及はない(そもそも、そのような趣旨の本ではない。あくまで社会調査全般の読み方の本)。

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じぶんにしか出来ないこと

▼最近、いろいろな人と出会い、話をする機会が増えた。この5年間、とくに後半の数年間は、割と閉じられた生活をしていたので、大変に刺激になると同時に、いろんな意味で自分の無知さを思い知るばかりである。

 最近、いろいろと考えさせられるのは仕事について、「自分にしか出来ないこと」(一般語としての「自己実現」の意味に近い気がする)が、実体化されすぎているような気がしてならない点である。香山リカに言わせれば、妄想に近いのかもしれないが、そこまで言わなくてそんな傾向が強い。

 私も職業柄か、知人から「いいよね、君は。好きなことをやっていて」と言われることは少なくないのだが、これに対してなんと答えれば良いのか、迷うところがある。確かに、私のやっているような職種(教職もしくは研究職と呼ぶのか?)は、自分が好きなことを勝手にやっているように見えるし、実際、私自身もそのようにふるまっている部分がある…気がする。
(ぱっと浮かんだのは『理系の女の生き方ガイド』だが、ちょっと違うか)

 しかし、職業として、それが自分にしか出来ないかというと、そんなことはまったくない。「機能」として見れば、代わりはいくらでもいるはずである(機能として見なければ、どんな職業であれ代わりなどいるわけはない)。また、「好きなことをやっている」というのも、「好きなこと」が実体として事前に存在していたわけではなく、後付けで「好きになっている」部分も少なくない。

 自分自身でも、「好きなこと」は固定的ではないし、やりたいことを改めて聞かれれば言葉に詰まるのが実情である。Scheinの有名な3つの問い、(1)何が得意か、(2)何をやりたいのか、(3)何をやっている自分が充実しているのかだって、普段は、興味も関心も一貫しているようなフリをしているが、一貫していないような物語を組み立てることもできる。話の加減次第だ。
(このあたりの問いは、金井先生の『キャリア・デザイン・ガイド』に詳しい)

 もっとも「自分の好きなことが分からない」とか、「じぶんにしか出来ないこと」という時の、「自分」とは何なのか、そう思う他者の意識の持ちよう(M氏に言わせればメタワールド)は、ずっと以前から謎に思っているわけだが、それは仕事というよりは、自分の存在そのものであろう。

 しかし、これだって自分一人で考えているわけではない。常に、「わたし」だとか「じぶん」は、ある種の状況性とか、社会に「埋め込まれて」いるわけで、単独で考えていたり、やりたいことをやっているわけでは決してない。
(このあたりは、『状況に埋め込まれた学習』から私は影響を受けている)

▼もしかしたら、他者が「自分にはないものを持っている」という、言われてみれば当たり前のことが、うまく受け入れられないだけなのかもしれない。

 「じぶんにしか出来ないこと」なんて、そうそうあるわけではないということを知りつつ、諦念も含めて未来にいかにつなげるか。いつもながら、問いの着地点は変わらないような気もするが、なかなか大きな課題である。
 じぶん以外のひとには不可能な仕事というのは、そうそうあるものではない。別にじぶんじゃなくてもいいんじゃないかという思いが、職場にいて全然よぎらないひとなど、おそらくいまい。こういう虚しさ、寂しさが、現代人の気分には思いのほか深くしみとおっている。(鷲田清一(2004). ことばの顔. 中公文庫 p.34)
 さてはて、これからどんな方向へ進んでいこうか。

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新しい一歩

新体制スタート(の予感)
 ようやく公式サイト(職場の名刺にも記載)の準備が整ったので、時期を見て個人的なページ(今、ご覧いただいているページ)と順次、切り分け作業を行っていく予定です。4月中に予定していたのにすっかり遅れてしまって、一部の人にはご心配をおかけしました。すいません。

 今後、「読書メモ」は基本的には公式サイトに移動します。その他の私の職場以外の日常と、数年前から好評連載中(?)の「恋愛講座」については、若干形は変わりますが、基本的にはこのまま継続する予定です。

 区分けがうまく行くか分かりませんが、セミパブリックセミプライベートフォーマルカジュアルA面B面(この比喩が使えるのは、レコード・カセットテープ世代に限定される?)などのように、自分自身楽しみながら継続します。どうぞこれからもあたたかく見守っていただければ幸いです。

恋愛講座について(暫定的なお知らせ)

(1)恋愛講座の位置づけ
 恋愛講座については、「ネタ」が分かってくださる方と、有無を言わず「引いて」しまわれる方がいるので、継続するか大変に迷っていたのですが、恋愛系読書メモとして、少し形を変えて更新するつもりです。

 以下、「恋愛講座」について少し背景的な話も含め、お話をさせていただきます。フォーマルには、私にとっての最大のクライエント(顧客)は大学生になるのですが、自分自身の大学生活を振り返ってみると、今の職業にも少しばかり継承されている若干の学習・研究活動を除くと、サークルやアルバイト(高学年になるとキャリア全般)、恋愛談義が、大学生活の「ほとんど」でした(一応断っておくと、その分、大学院に進学してからは苦労しました)。

 私の学部時代のキャンパスライフが、しょーもなかっただけなのかもしれませんが、一つのことに集中するためには、他の多くのことに支えられなければならない私なりに思っています(言い訳)。しかし、さらに重要なのは、これらの事柄の一つひとつは完全に切り離されているわけではなく、互いにわずかかもしれませんが関係しあっていると考えられる点です。

(2)理解と分からなさ
 一見、関係なさそうな事柄に関係を見いだした瞬間や、一人では「点」にしか見えなかったことが複数人の手によって「線」として意味づけ、結びつけられた瞬間が、授業でも、サークルでもバイトでも恋愛などの場面を問わず、私にとっての最大の喜びの瞬間でもありました。ありふれた言い回しですが、これはアルキメデスが「ユーリカ」と叫んだ気持ちに近いのかもしれません。

 もっとも、喜びだけではなく、分かった気持ちになったことで痛みを感じることや、余計に分からなくなることの方が少なくありません。分からなさを、自分なりに抱え込まずしては、いつまでも疑似的な理解にとどまるような気もします(何が疑似で何が現実的なのかは分かりませんが)。

 私はまだまだ理解の彼岸にも悲哀にも達していないのですが(本当の血を吐く苦しみを経験しないまま、就職してしまいました)、ライフデザインとしての今の私自身の当面の目標は、そのような理解や分からなさの瞬間(時間)や場(空間)を、他者(当面は大学生)に提供することです。もちろん外から眺める訳ではなく、私自身も当事者でありたいものです。

(3)受け手と送り手の間にある溝
 少し話しが逸れました。一般に、ほとんどコミュニケーション場面にも言えることですが、「送り手」が伝えたいことと、「受け手」が聞きたいこと、もしくは「受け手」が理解の足場に出来ることの間には永遠の距離があります。

 その溝をどうやって埋めるかが、私にとっての仕事の一つになりますが、そこで「恋愛」ネタが登場するわけです(長い前置き!)。つまり、私にとっては、サークルやアルバイト、あるいはその中で起きる恋愛に関する事象のある要素は、<自分が伝えたいこと>の関連づけの道具でもあるのです。たぶん。

 もちろん、上記は話をキレイにまとめすぎているような気もするし、強引な連携は、ある人にとっては、逆にうっとうしいかもしれないし、安っぽく見られるかもしれないし、「引かれて」しまうかもしれない…などリスクがありますが、そのように話すことでしか見えないこともあるとも思っています(『アナロジーの力』とは違うかもしれないけれど、少しは関係があるかな)。

 とくに、「大学の四年間に夢中になれることを見つけたいと多くが口にするが、見つけられる者は圧倒的に少ない。」(by小倉千加子)昨今においては、授業内容でも、サークルでも、アルバイトでも、恋愛でも、何かの一点を契機に、世界を広げられるような足場を作りたいとも思うわけです。

 私自身も、そうやって少しずつ何かに夢中になりながら、何かを諦め(その過程で諦め方についても学びました)、今に至っているわけですから。

(4)現実の困難さと学問上の困難さ
 さらに言えば、少なくても人文・社会科学系のある領域では学問上の困難さと、現実の困難さは密接に関係しているはずで、両者を関連付けることは、何かしらのスタートになる気がしています。

 ちょっと関連度は低いかもしれませんが、小倉千加子氏曰く
 (略)学生は十八歳や十九歳でも、無意識のレベルでは教員以上に現実の困難さを知っている。無意識に言葉を与え、それが「腑に落ちる」なら学生の無意識はそのことを前から知っていたのであって、ただ意識化していなかっただけなのである。学生の意識の量を増やすこと以外に文系学部の教員のする仕事があるとは思えない。「~すべきである」という物言いをせずに、学生自身に「~はしたくないと思っていた自分は間違ってはいなかったんだ」と自信を持たせることができれば御の字であって、それ以上の仕事を社会科学系の教員に求めるのは酷である。
小倉千加子(2003). 結婚の条件. 朝日新聞社
 私がここで重要だと思うのは、無意識に言葉を与える、ということ。意識の量を増やすことだけがすべてだと思いませんし、それ自体、批判的に捉えていく必要があると思いますが、現実の困難さを意識するためにも、学問的な困難さを学ぶことは必要だと思うし、そのまた逆もしかりでしょう。

 私の日記では、両者を無理に結びつけることで、時に、<自分が伝えたいこと>の背後にある無意識のようなものが見え隠れしてしまうかもしれませんが、それは読み手であり受け手の能力でもあり、「関連づけ」の力が発揮された結果だとも思っています。
 言語外の発言(の解釈)に責任を負うことは難しいのですが、優れた解釈はこっそり私にも教えていただけるとありがたいです。

 なお、受け手と送り手(が二分出来るものとして)の対称性について言うならば、私個人を「恋愛」と結びつけるのは、私のその他の部分を捨象(読書メモも、私の日記のコンテンツの一つです)しているとも言えます。
 もちろん、それ以外にネタがない、ということを象徴しているのかもしれませんけれどね。多角的・複眼的思考とはなかなか難しいものです。

 長くなりましたが、私なりの現時点での恋愛講座の位置づけについて、一度、声に出して語ったものを(仮想の聞き手は誰だろう)、テープ起こししてみました。にしても語りって、予想以上に支離滅裂かも。

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