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読書メモ:「弱さ」のちから 

▼以前、ちらちらと読んでいた『<弱さ>のちから』を読み直す。鷲田清一氏による哲学的「フィールドワーク」の本である。
 インタビューで取りあげられているのは、「ケア」に携わる人たちである。ただし登場する人は、看護やケア施設といったいわゆる「ケア」に携わる人のみならず、坊さんや尼さん、生け花の先生や、性感マッサージとか、ゲイバーなど、通常はケアの場面で語られることのない人々などさまざまだ。

 私は、どちらかというと専門を越えてコトバを使うのを好むので「ケア」を狭い意味に閉じこめない方がいいと思っているし、本書の「ケア」は「弱さ」という概念で結ばれていて、大変、合点がいくものばかりだった。

▼まとめの著者のコトバが大変、印象に残ったので引用してみる。これは、そのまま「弱さ」についての問題提起にもなっている。
 じぶんを他者の存在にインヴォルブすることで、逆にじぶんが「乱れて」しまうということ。これを、他者本意と、保留付きでだが、呼んでもいい。他者本意に思考を感受性を紡ぐということ。そのためには、専門家ですらじぶんの専門的知識や技能をもいったん棚上げにできるということ。それが、知が、ふるまいが、臨床的であるということの意味ではないだろうか。そうすると、「臨床」ということの意味も、医療現場に臨んでいるということではなくて、他者のことを他者のほうから見るということ、そしてそのためにはみずからの専門的知識さえ手放す用意があるというところにあることになる(注:原文ママ)。そしてそこにこそ、臨床の、必然ではない自由があるのではないだろうか。じぶんが乱れうること、じぶんをほどくということが、ほんとうの自由だとしたら。そういう自由を他者の存在の<弱さ>が劈(ひら)いてくれる(p194)。
 一般には、「自分を棚上げにしない」ことが臨床的な接し方だと言われることも少なくないが、実際、棚上げすべきは「専門的知識」なのだろう。確かに、私自身もそのことは最近分かり始めてきた。
 プライベートな場面か否かを問わず、他者と向き合う際、自分の「専門的知識」(それがたとえ私のようななけなしの専門知識だったとしても)が、「出会い」の阻害になってしまっていることは少なくない。

 しかし、そのことが分かっていても(他者と接する時の態度は多少変わっても)、私がなかなか「弱さ」を他者に語り得ないのは、結局は、専門的知識でそれを語ろうとしてしまっている点にあるのかな、と思ったりもする。

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