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2003年12月

読書メモ:U字型の成長過程

朝の連続ドラマ小説『てるてる家族』が面白い。前回の『こころ』も面白かったから、2003年度は私にとって朝ドラの当たり年だったようだ。

 以前も、日記で似たようなことを書いたことがあるかもしれないが、私はたぶん、「U字型成長」の物語を偏愛しているのだと思う。U字型成長とは、たとえば『魔女の宅急便』の主人公、キキのような成長過程を指す。すなわち「落ち込んだりもしたけれど、私はげんきです」型の物語だ。

 U字型成長には、二度大きな山がある。
  • 失いゆく過程
     一つは、今まで出来ていた「何か」ができなくなったり、失われていく過程である。『魔女の宅急便』でいえば、キキが魔法を使えなくなる=飛べなくなる時期。また『てるてる家族』(原作:『てるてる坊主の照子さん』)では、春子や夏子が感じているぼんやりとしたスランプが該当するだろう。夏目漱石の『こころ』の場合は、愛する旦那さんを失うという大きな転換点がある。
  • 回復する過程
     もう一つの山は(敢えて対照的に捉えるほどのものではないが)、出来なくなった何かや、失われた何かが回復したり、以前とは少し違った形で取り戻されたり、変わっていく過程である。
 失いゆく過程にはさまざまなパターンがあるが、回復にあたって転機となるのは、「偶然の出来事」であることが多い。
 『魔女の宅急便』では、主人公のボーイフレンドのトンボが、飛行船のトラブルに巻き込まれたことや、『てるてる家族』の最近の例でいえば、夏子が東京で「てるてるパン」に出会ったことなどがあげられる。
 もちろん本人の志向性なくしては偶然に出会えないが、回復には漸次的な積み重ねのみならず、偶然的な出来事が大きく働くのも事実だろう。

▼このようなU字型の成長を、『てるてる家族』のように短い時系列で重層的に描くか、『魔女の宅急便』や『こころ』のように長い時系列で描くかの違いはあるが、どちらも本質的には同じような構造を持っていると言える。

 もう一つ重要なのは、U字型成長では、外的にはさして何も変わったように見えない点である。キキが魔法のホウキではなくデッキブラシで飛べるようになったとか、結果として成功に導かれたということはあるかもしれないが、それ自体は「劇的」な変化とは言えない。
(JではなくU字であることに留意。心理的には高さは同じである。世の中では一時V字回復などと言われたが、それとも違う)。

 また、失いゆく過程も、取り戻す過程は必ずしも良い話ばかりではない。トラブルに巻き込まれるとか、あるいは喪失そのものが、回復のプロセスに関わってくる場合もあるし、痛みをともなう。
 しかし、このU字型の経験は、少なくても本人にとっては(内的には)、とても意味のある経験になりえるはずだ。

 「落ち込んだりもしたけれど、私はげんきです。」

 糸井重里のこのコピーが、すべてを物語っている、と私は思う。

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読書メモ:本人の日々

本人術
 先月の日記にも少しだけ書いたが、南伸坊氏の『本人の人々』は実に愉快だ。

 書店的にはサブカル本の棚に置かれているらしいが、学術書としてもおかしくない。  南伸坊氏が、さまざまな時の有名人に扮して(変装)、一言述べる、という考えようによっては大変気色悪い企画なのだが(とりわけ梅宮アンナとかデヴィ夫人や、叶美香(に扮する南伸坊氏)などは絶句系)、氏が体現された「本人術」は、心理学的な他者理解=自己理解の方法論としても有効と考えられる。

 「段取り力」やら「質問力」で知られる氏ならば、「本人力」と名づけるところだろう。「力」ではなく「術」とするあたり、味が出ている。

本人になってみる、という経験
 「本人術」では、単に人の文体を真似る、模倣する(アリストテレス風にいえばミメーシス)のみならず、その人の姿、格好も含めて模倣することで、文章にも「本人らしさ」が、一層にじみ出るのが特徴だ。氏曰く、
 私は、さまざまな本人になってみた。そうして、その本人の身になって文章を書いたのである。(略)
 不思議なものだが、そのようにして書くと、ごく自然に自分の文章とは違う文が書けるのである。外見は内面を写すが内面は外見に左右されるのだった。女装をすると、たいがいの男は女っぽくなるのだが、これと同じようなことが、もう少しビミョーな具合におこっていると考えて大きく間違わない。(pp.11-12)
 実際は、「本人の身になった写真を、鏡を見るように『見ながら』本人としての言葉をつむぎ出す、という手順になったことが多かった。」そうだが、実際に「本人になってみる」という段階が重要なのだと思われる。

 心理学の世界でも、「内面は外見に左右される」という点は以前から指摘されている知見ではあるが(たとえば、悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか=情動の二要因理論は…あんまり関係ないか)、それを高度なレベルで実践しうるのが南氏のなせる技、と言えよう。

村上龍と竹中平蔵
 具体例がないと分かりにくいかもしれないので、ここでは2名の「本人術」をご紹介しよう。本書は、もともとは雑誌(『ダカーポ』)の連載記事のため、雑誌風の「編集術」の効果を引用では紹介できないのが残念なところだ。

 たとえば、村上龍(に扮する南伸坊氏)曰く、
リュウ?俺は違うよ一介のホームレスよ
 もっとも大事なことは、生きのびるためのスキルだと思う。どこに行けば、ベストセレクションで賞味期限オーバーの弁当があるか、段ボールやアルミ缶をゲットできるのかって情報の収集能力とか、正確さ、スピードが問われていると思うんですよ。
 必要なのは「自分で考え判断することの大切さ」なんであって、どん欲にポジティブに生きてく、最終的にフィジカルの力だしモチベーションだと思うなあ。(p.30)
(注:太字はキャプション。インタビュー記事風に読もう)
 うわー、確かにホームレスっぽい村上龍だ(二重の演出になってる)。 
 あるいは、竹中平蔵(に扮する南伸坊氏)曰く
一寸先は闇というのが世の中の実相です
 これは、お断りしておきますけれども、あくまでも一般論であって、私のコメントの片言隻句を深読みといいますか、針小棒大に誤解をされるようなことが、ままあって、大変コマったことであると思っているわけでありまして。(p.58)
 確かに、竹中さんってそういうこと言ってますね。そういえば彼の講義でも、経済学の「前提条件」がさらっと、しかし確実に語られていたのかも。

 以上、「本人術」のほんのさわりをご紹介させていただいた。やっぱり書籍を離れると引用も効果がない…ような気がするので、これ以上の詳細は手に取るしかないでしょう(たぶん)。
 本書では、さまざまな著名人総勢70名(なんとあの「タマちゃん」もいる)になりきった南伸坊氏の芸を楽しめて、結構、お得(?)かもしれない。

追伸
 本当は南伸坊氏風の「本人術」を活用して何か書いてみようと思ったのだが、さすがに姿格好は…。まだ自分を捨てきれないかも。

 これを高度化させてプラトンに扮してみたり、デカルトに扮してみたり、ニーチェに扮するようになれると、たぶん賢くなれるような気がします。もうちょっと修行して、ガンジーっていうのもありか。

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読書メモ:「異和感」の対自化

▼私は、時々、研究的に人にインタビューをさせていただくことがあって、日頃から「質問のレパートリー」を増やすように心がけているのだが、臨機応変(=半構造的)に、適切な質問を投げるのは容易ではない。

 自分としても、何とか「質問力」的な力を向上させるべく、インタビュー的な手法を用いて描かれた著作を読んだり、方法論的な本を読んだり、プロの方のインタビューの記録を拝見させていただいたり、テレビでよく放映されているお茶の間インタビューを分析したりと、それなりに試みているのだが、自分で実感できるレベルまで力量を上げるのは大変である。

▼という前置きはさておき、たまたま読んでいた本の中に、「異和感の対自化」という手法が紹介されていて、参考になりそうなのでメモしてみる。
  • 野口 裕二・大村 英昭(2001). 臨床社会学の実践. 有斐閣
    宮本信巳(2001) 「臨床社会学の体験と方法 -精神看護の実践・研究・教育を通して-」(p25-52)
(注)以前、『現場心理学の発想』という本の中で「違和感分析」という手法を読んだことがあったが、それとは違うようだ。改めて『現場心理学の発想』を確認後、up dateするかも。
 一般的には「異和感」は違和感の誤用である。しかし、本書によれば「身体感覚を適切に視野に収めるための用語として」(p35)、「違和感」ではなく「異和感」という言葉を敢えて用いているそうだ。

 著者曰く、異和感には「怒り、苛立ち、悔しさ、恨み、裏切り、不信、疑い、無力感、虚しさ、徒労感、焦り…」(以下、合計24件の形容詞が続く)や、「息苦しい、胸苦しい、むかつく、腹が立つ、体が熱くなる…(略)」などの、ありとあらゆる「否定的な感情」が含まれるらしい(p36)。

 これだけ否定的な形容詞や動詞が並ぶと、それだけで一瞬、引いてしまいそうになるが、あくまで異和感は対自のための「糸口」のようだ。
 曰く、「異和感を糸口として、他者についての理解や、相手と自分を取り巻く現実についての理解を深め」、その結果として「異和感の解消と対人状況の改善を図れる」(p36-37)とのこと。
 要するに、自己理解と他者理解のための手法ってことになるのかしら。

▼「異和感の対自化」は、具体的には8段階の質問として捉えられる。括弧内は、それぞれの段階の名称である。
  • (1) 誰のどういう言動から異和感が生じたか?
    (異和感と他者の言動との照合)
  • (2) 異和感の中には、どのような感情や感覚が混じっているか?
    (知覚した異和感の内容確認)
  • (3) 相手の言動のどこが気に入らなかったか?
    (相手の言動への批判の徹底)
  • (4) 相手の側に正当性ややむをえない事情はなかったか?
    (相手の正当性や限界の発見)
  • (5) 自分の側に囚われや相手に対する先入観はなかったか?
    (自分の側の囚われと先入観の発見)
  • (6) 異和感が生じるのもやむをえない事情はなかったか?
    (自分の正当性や限界の発見)
  • (7) 自分と相手はどこが共通し、どこが違っていたか?
    (自分と相手との差異と共通性の明確化)
  • (8) 異和感はどのように変化し、どのような関心が生じたか?
    (異和感の解消と新たな関心の発見)(以上p37を編集)
 著者によれば、これらは「思考と感情と身体感覚の入れ混じった流れ(p38)で、具体的には(1)~(2)では、体験した異和感の再現を、(3)~(6)では、相手と自分への否定と肯定を徹底することで、双方に対する康平でバランスの取れた理解を、(7)と(8)では距離を保ちつつ、今後の見通しや方針を考えることが試みられる模様である。

 なかなか総括的な質問になっている気がする。段階的に考えることで、質問のレパートリーを増やすためのトレーニングにもなりそうだ。

 個人的には、他者が抱いている「異和感」に近づく契機として、この質問群は応用可能かな、と思ったりもする。
(結局は同じことを言っていると思うが、私自身は、他者が「異和感」を意識し、それに言葉を与える過程に関心があるのだと思われる)。

 というわけで、今後、意識的にポジティブな意味での「異和感」ないし「違和感」に少し着目してみようっと(個人的には「齟齬感」の方が、しっくりくるかな。かみ合わせが悪い感じが、私にとっての違和感なのかも)。

▼取り急ぎメモにて。たぶん後日更新します。
 うまくまとまっていなかったらごめんなさい。

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読書メモ:「弱さ」のちから 

▼以前、ちらちらと読んでいた『<弱さ>のちから』を読み直す。鷲田清一氏による哲学的「フィールドワーク」の本である。
 インタビューで取りあげられているのは、「ケア」に携わる人たちである。ただし登場する人は、看護やケア施設といったいわゆる「ケア」に携わる人のみならず、坊さんや尼さん、生け花の先生や、性感マッサージとか、ゲイバーなど、通常はケアの場面で語られることのない人々などさまざまだ。

 私は、どちらかというと専門を越えてコトバを使うのを好むので「ケア」を狭い意味に閉じこめない方がいいと思っているし、本書の「ケア」は「弱さ」という概念で結ばれていて、大変、合点がいくものばかりだった。

▼まとめの著者のコトバが大変、印象に残ったので引用してみる。これは、そのまま「弱さ」についての問題提起にもなっている。
 じぶんを他者の存在にインヴォルブすることで、逆にじぶんが「乱れて」しまうということ。これを、他者本意と、保留付きでだが、呼んでもいい。他者本意に思考を感受性を紡ぐということ。そのためには、専門家ですらじぶんの専門的知識や技能をもいったん棚上げにできるということ。それが、知が、ふるまいが、臨床的であるということの意味ではないだろうか。そうすると、「臨床」ということの意味も、医療現場に臨んでいるということではなくて、他者のことを他者のほうから見るということ、そしてそのためにはみずからの専門的知識さえ手放す用意があるというところにあることになる(注:原文ママ)。そしてそこにこそ、臨床の、必然ではない自由があるのではないだろうか。じぶんが乱れうること、じぶんをほどくということが、ほんとうの自由だとしたら。そういう自由を他者の存在の<弱さ>が劈(ひら)いてくれる(p194)。
 一般には、「自分を棚上げにしない」ことが臨床的な接し方だと言われることも少なくないが、実際、棚上げすべきは「専門的知識」なのだろう。確かに、私自身もそのことは最近分かり始めてきた。
 プライベートな場面か否かを問わず、他者と向き合う際、自分の「専門的知識」(それがたとえ私のようななけなしの専門知識だったとしても)が、「出会い」の阻害になってしまっていることは少なくない。

 しかし、そのことが分かっていても(他者と接する時の態度は多少変わっても)、私がなかなか「弱さ」を他者に語り得ないのは、結局は、専門的知識でそれを語ろうとしてしまっている点にあるのかな、と思ったりもする。

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読書メモ:経営戦略の論理

▼E先生にお勧めいただいた伊丹敬之先生の『経営戦略の論理』(第三版)を読む。戦略を「論理」と捉える視座といい、市場や組織内、また市場と組織を結ぶインタフェースという観点といい、相当、勉強になりそうな本だ。
 今まであまり戦略論には縁がなかったのだが、今年は、オススメもあって(いつもながらありがとう)『戦略サファリ』とか、『競争戦略論』などと出会えたのが良かった。どれも参考になる本ばかりだった。
  • 青島 矢一・加藤 俊彦(2003). 競争戦略論.東洋経済新報社
 心理学系の人間にとっては(注:私の自己規定文の一つ)、「戦略」という概念にいまいち馴染めないのだが、戦略を「自分自身の長期的な基本設計図」とか、「理想自己と、そこに至るまでの変革のシナリオ」と捉えると、おおよそどのような分野にも汎用が効く概念になりそうな気がする。

 ちなみに、上記の定義は『経営戦略の論理』による「戦略」の2つの定義を応用したもの。正確には次の通り。
  • 「市場の中の組織としての活動の長期的な基本設計図」(伊丹本の定義その1。強調は引用者)
  • 「企業や事業の将来のあるべき姿と、そこに至るまでの変革のシナリオ」(伊丹本の定義その2。強調は引用者)
 私は、おそらくこれまでの人生、ほとんど「戦略的」に生きていないのだが(自己規定文その2)、一説には、それ自体が暗に「戦略」だという説もあって、いったい何が戦略で、何が戦略ではないのかよく分からない気もする(もしかしたら戦略っていうのも、自己規定文の一つなのかな)。

 プランニングとか、シナリオとか、デザインとか、ストーリーとか、その辺りの概念を考えると、少し見えてくるものもあるのかもしれない。

▼その他、いろいろ思うところがあるのだが、書いていたら、あっと言うまに5000字近いレポート(?)になってしまったので、また後日。

 にしても、『経営戦略の論理』は事例のはさみ方が大変うまい(経営系の本全般に言えるかもしれない)。これは是非とも見習いたいところである。

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読書メモ:メンタリング、コーチング、カウンセリング

▼なんだか似たような概念がたくさんあるので、その語源だとか定義を探っていたのだが、実は既に購入してあった本に(しかもオススメとか言って人に勧めていた本に)、参考になることが載っていた。
 肝心なことを読み飛ばしていたか、意識していなかったようだ。
 (相変わらずトホホである)。
 本書の第4章「キャリア・カウンセラーを組織変革に活かす」に示されていた、「メンタリング」「コーチング」「カウンセリング」の共通点をざっとまとめてみると、次の3点にまとめられる。
(キャリアの文脈なので適時読み替えていただけるとありがたいです)。
  • 社員が職業生活を通して自己実現できる方向を目指すことの援助を、活動の究極目標としていること。
  • 言語的コミュニケーションと基礎的援助技法(傾聴)が有効なこと
  • 社員こそ「行動の主体である」という価値観に立ち、援助の過程では社員の感情面や認知面、意思的な面に注意を払う。
 逆に3つの差異と、それぞれの立場(コーチング、メンタリング、カウンセリングを行う主体)に求められる知識は次のような点にまとめられる。
  • コーチング
    (要点)社員の仕事上のパフォーマンスを改善すること
    (必要となる知識)組織に特有な職務遂行のための能力や技術
  • メンタリング
    (要点)社員が自分(が所属する)組織の目指す方法に向かえるように援助すること
    (必要となる知識)それぞれの組織の風土や体制、企業目標や理念、職場の人的環境など
  • カウンセリング
    (要点)社員自身が自己洞察を深め、より建設的な方向で自分の問題の解決に向けて新たな行動がとれるようになること
    (必要な知識)「個人の行動的・情緒的側面、パーソナリティ、問題可決や意思決定能力、葛藤や不安などについての知識と高度な援助能力」(孫引き:Bovard et al.. 1999)。
 概念がごちゃごちゃしていたので、少しすっきりした気分である。
 原著にあたってから改めてメモを書きます。

▼やっぱり私は、コーチングでもメンタリングでもなく、「カウンセリング」的なものに惹かれるのかもしれない。にしても、本書はよくまとまっていることに改めて気づかされる。以上、pp.93-95の編集でした。

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読書メモ:「質」とは何か

▼オリジナルは2003年11月に書かれたものです。

▼定義とはややこしいものである。

 たとえば、「質」とか「量」というのは、ありがちな対立軸ではあるが、よくよく考えるとその区別はあいまいである。

 一般的には、「量」は数字で表されるような「何か」で、「質」は数字で表れないような性質の「何か」を指すことが多いような気もするが、定性と定量の区別とか、質的研究と量的評価の違いは、相対的にしか分からない。

 私なんかは、「質」という字をじっくり眺めて考えていると、「質入れ」とか「賃」「貢」「負」とか、別な概念が彷彿してくるのがまた難点である。

▼そんなことを考えながら「評価」に関する本を、ざっくり探していたのだが、『大学は生まれ変われるか』という新書の中に、「質」と何か?についてのなかなか興味深い(行き所のない)解説が書かれていた。引用してみよう。
 それでは大学の名にを評価するのか?それは一言でいって、大学の「質」とでもいうべきものである。(略)
 それでは「質」とは何か?これまた限りない議論となる厄介の対象である。(略)オランダの大学評価の専門家は、質とは何かについてのおびただしい議論や論争を整理したうえで、結局質の定義をもとめるのは時間の無駄だという結論に達した。彼によれば、qualityとはloveのようなもので、誰もがそれについて語り、その存在を感じたり認識したりすることはできるが、いざそれを定義しようとするとむなしく立ち往生するしかない代物だという(Vroeijenstijin. 1995)。(p36:下線は引用者)
 そうかqualityっていうのはloveなようなものなのか、と一瞬納得しそうになったのだが、もしqualityとloveが同じようなものなのであれば、loveについても、同様に定義を考えてみるのが筋というものだろう。
(注:定義を探るのは、時間の無駄だと書いてあるような気もするが、細かいことは気にしないのが長生きの秘訣である。)

▼A氏にご紹介いただいて新潮国語辞典を買ったばかりなので(自慢、ふふふ)、とりあえず手元の辞典3冊で調べてみた。
新潮現代国語辞典 レンアイ【恋愛】
 特定の異性にひかれて愛し慕うこと。精神的・肉体的な結合を求める男女間の愛情。「ラブ」「リーベ」などの訳語という。こい。愛恋。
 「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり 想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり〔透谷・厭世〕」
 「結婚は(略)恋愛を調節することには有効ではない〔侏儒〕」

新明解国語辞典 れんあい【恋愛】 
 特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。

集英社国語辞典 れんあい【恋愛】
2人の男女が違いに特別の情愛をもち、恋しく思うこと。恋。
 なお、新明解の有名な「合体」云々は、私の持っている版では出てこないのであしからず。この3つをふまえて検討すると、「質」というのは、「一体感」とか「結合」とか、特別な「情愛」のことを指す、ということを暗に示唆していると考えられる。これはなかなか深淵な指摘(勝手な解釈)だろう。

 もっとも「質とは人生の秘鑰なり」なんてことを書いてみても、やはりむなしく立ち往生するばかりであり、やるせない思いに駆られることの方が多いような気がしないでもない(かなえられるのは「まれ」なのか?)。

▼話を戻すと、「質」は「目的への適合性」と考えるべきらしい。
 「質」はそれ自体の絶対的な価値基準で示せるものではなく、大学の学部・学科の教育目的ないし研究目的にいかに合致するように達成しているかを証明したもの(OECD. 1999)
 しかし、「目的」というのも実に難しい概念である。「目的」を辞書で引くと…このまま辞書と戯れて一日が終わりそうなので、今日はここまで。

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読書メモ:食について考える

▼オリジナルは2003年10月に書かれたものです。

▼忙しくなったり、生活にメリハリがなくなると、つい手を抜いてしまう代表的な生活習慣は「食」である。何も食べずに栄養不足に陥るか、逆に、安直に食べれるカロリーの高いモノを食べ過ぎてしまったりする。

 私も一時、食べ過ぎたり、食べなさすぎたりして体重が大幅に増加したり、減少した経験があるのだが(T先生曰く、「こぶた一匹分」に相当する)、「食」は分かっていても、なかなか自分でうまく扱えないものだ。

 なんてことが少し気になって、食関連の本を続けて読む。
 フロイトに言われるまでもなく、食と性、あるいは愛が密接に関係していることは、うすうす皆、気づいているはずだが、身近な故に、見えないことも多いようだ(逆に言えば、「食」を通してすべて見えてしまうことも少なくない)。

 大平先生の本には、常々影響を受けてきたが、『食の精神病理』は、一見、軽そうに見えて内容的には実に重かった。
 
 『変わる家族 変わる食卓』は某メーリングリストでも話題になっていたり、新聞記事でも見かけていたので、だいぶ前に手に入れていたのだが、実態として、こんなにも変容しているかと思うと驚かされる。

 そして、トドメは『「食」は病んでいるか』である。食のあり方が変わっているというよりは、「生存の条件」が揺らいでいると言った方が良いのかもしれない(そういう意味では、「病理」的であるとも言えるだろう)。

 以下、『食の精神病理』について3点ばかり興味深かった点まとめてみた。『変わる家族 変わる食卓』と『「食」は病んでいるか』はまた改めて。

その1 絵本と「食」の関係について
 一つは、絵本は「食」の物語であるという指摘。著者は『赤ずきん』の物語や『おおかみと七ひきのこやぎ』、また『三びきのこぶた』『わたしのおふねマギーB』や『三びきのやぎのがらがらどん』などの作品を用いて、「食」と「物語」との関係を示しているのだが、久々に目から鱗だった。

 松岡正剛が遊びの本質の一つに「ごっこ遊び」を挙げていて、以前、なるほどと思わされていたが、「ママゴト」も実は奥が深い遊びらしい。
ママゴトというマネゴトは、そもそも、いつも大人たちに世話をされ、食べさせてもらうばっかりのこどもたちが、現実をひっくり変えそうとしてする遊びなのかもしれません(p37)。
 絵本や物語や日常的なメタファーに見られる「食」については、今後も、少しずつ目を向けていくのがよさそうだ(村上春樹、よしもとばなななんかは、食の描き方そのものが、彼(彼女)らの作品の特色だけど)。

その2 「食べる」というコトバの原点
 もう一つは、「食べる」の原点は神様のお下がり、という点。柳田國男によれば、「食べる」というコトバは、タバル、タブの受身の形らしい。つまり、「タバハル」=「たまわる」=「いただく」=神様からいただくというわけ。

 さらに「食う」は攻撃、食べるは「交流」という、多田道太郎の説。「人を食った態度」「人に食ってかかる」「大物を食う」という表現に見られるように、「食う」には攻撃的なニュアンスがあるらしい。
 大平氏は、食べるの「交流性」に加えて「一体化」をあげている。今では死語になりかけているが、確かに「同じ釜の飯」とか「一宿一飯の恩義」なんてコトバも確かにあったのは事実である。

 暗黙知って、実際はこういう場でやり取りされているはずだが、「食」が媒介する影響っていうのは、あまり考察されていないようだ。

 著者は冒頭で、
読者の特権は、著者が行き着いたところから出発できることにあります。(p22)
 と書いているのだが、著者が長年かかって出会った考えを、こうやってまとまった形で得られるのは、大変ありがたいことである。

その3 本当の自分と身体の自分
 三点目は、大平先生がかねてから指摘している「本当の自分」と「身体の自分」について。「本当の自分」っていうのは、身体的な制約を受けない自己像のことだが、これが過食とか拒食とも関係しているらしい。

 しかし最近は、どうも「本当の自分」と「身体の自分」の、分離化が進んでいるそうである。以下の指摘は、確かに身に覚えがあるかもしれない。
 以前の緊張にみち、とかくギクシャクしていた関係は、ひとまず共存といいますか、ある種の役割分担というかたちに収まってゆきました。
 「食」も使い分けられるようになります。ふだん「身体の自分」が口に入れている食物と、イベントのときに「本当の自分」が(アタマで)味わう食物とは、別々でかまわない、違っていてトーゼンということになりました。毎日の食事はコンビニ弁当とサプリでイイのです。しかし、ちょっとした集まりでも、ワインや料理、料理人がウンチクの材料となるような店じゃなきゃ行く気がしない!そういう時代になったのです(p142)。
 このあたりは『変わる家族 変わる食卓』を合わせて読むと、事態はさらに深刻化(バラバラ化?)していることが察せられる。
 憂うばかりじゃなくて、何か考えないといけないな…。

 以上のような問題意識を受けた、大平先生の処方箋は、(1)「身体の自分」を回復させる。(2)食の交流性を取り戻す、というきわめてシンプルなもの。具体的には「早起き」が勧められていたりする。
 確かに、それ以上の処方箋はないような気もする。

 食の問題は、環境問題の一つとして考えても良さそうだ。

おまけ1
 私は、最近になって(正確に言えば、3年~4年前くらいに体重が増え過ぎた頃から)、自分の「食」を見直すようになったのだが、それは結果的に、自分の身体はもとより、人間関係や自分自身を吟味する過程でもあった。

 表面的には、コンビニ弁当を食べなくなったとか、最低限の外食しかしなくなったとか、自炊が好きになったとか、とかその程度なものだが、それによって得たものは大きい気がする(ついでに体重も喪失したが)。

 しかし、こういうことは常に問題が生じた「後」にしか、実感できない面があるのが難点だ。今になって振り返ってみると、いろいろ徴候はあったし、指摘してくれる人もたくさんいたのだが、実際、体調を崩してみたり、何かに支障をきたしてみないと、なかなか実感的に分からない。

 問題が起きないと分からない、という構造自体問題だよなぁ。

おまけ2
 私自身の問題意識に引きつけるようで恐縮だが、私は、いわゆる「インタビュー法」を学ぶにあたって、もっとも基礎的な質問(人にちょっと突っ込んだことを尋ねる練習問題と考えても良い)は、「昨日、何を食べた?」ではないかと思っている。もちろんこの問いから、何を深めるかが問題なのだが…。

 ただ、上記のような本で指摘されていることをふまえると、この質問は使い方によっては相当、危うかったのかもしれない。また社会調査系の授業を持つ機会があれば、少し感触を見てから例題にしようっと。

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読書メモ:ジンメル・つながりの哲学

▼オリジナルは2003年10月に書かれたものです。

▼先日、飛行機に乗っていた時のことである。コーヒーがまだ来ないなぁと思いながら、少し背を伸ばした瞬間、ある生き物のことを思いだした。
 
 しばらくその名前を思い出せなかったのだが「ミーアキャット」だ。

 座りながらも懸命に遠くを見つめようとする、その姿は、まさにミーアキャットである(もっとも、私の場合、見ようとしている対象が微妙だが)。

▼ミーアキャットは、動物園にもいるし、動物番組でも時々紹介されるのでご存じの方も多いとは思うが、アフリカの半砂漠地帯に住む小動物である。二本足で立ちながら、まわりを見渡す習性を持つ。
 なかなか愛嬌のある動物だ(googleで検索すると写真も出てきます)

 そもそも、なぜミーアキャットの名が出てきたかというと、モトをたどれば『ジンメル・つながりの哲学』という本に紹介されていたからだった。この本では「鳥瞰」「俯瞰」的な物の見方に対して、「当事者の視点」の重要性が語られているのだが、その比喩として「ミーアキャット」が使われていたのだ。
▼おそらく「鳥の目」「虫の目」という言葉は多くの人が聞いたことがあるだろう。著者は、これに加えて(正確には「虫の目」と置き換えるべき概念として)「ミーアキャットの目」を提唱する。

 著者のイラスト付きの説明のうち文章だけを引用させてもらうと、
  • 俯瞰する「鳥の視点」では、物事の概観はできるが、与えられた認識を身のまわりの生活と結びつけるのは難しい。
  • 這いずり回る「虫の視点」からは、身のまわりの生活はよく見えるが、その状況を客観視することができない。
  • 立ち上がってあたりを見わたし、自分の位置を確かめる「ミーアキャットの視点」からは、身のまわりの生活もよく見え、しかも自分の生活を客観的にとらえ直すこともできる。(以上、p43)
 ということだ。

 私などは、鳥の目=マクロ、虫の目=ミクロとして捉えていた。私自身は、日頃から、マクロとミクロの両視点を実践するべく「鳥の目プレイ」や「虫の目プレイ」を試みているのだが、「虫の目」は自分でも分かりにくかった。

 何せ「虫の目」の場合、トンボは空を飛べるし(しかも複眼だし)、テントウムシだとサンバを踊りそうな感じだし、カマキリだと…、やっぱり最後はメスが優位なのね、などと妄想が働きがちなのも難点であった。
 しかも鳥と虫の比喩の場合、食物連鎖的に「鳥」が優位に立ってしまうので、よだかの星を目指すと、どうしても不自然になる。

 これに対してミーアキャットは、「当事者の視点」という意味では、なかなか優れた比喩ではないかと思われる。また、物事を「ミクロ」に見る、という言い方よりも、「当事者として見る」の方が、ピントくることが最近は多い。

 もちろん比喩であるが故に、制約も多い。当事者としてみれば、「鳥」だって別に物事を俯瞰しようと思って生きているわけではなさそうだ。

▼私は、俯瞰や鳥瞰が苦手で、かといってゴキブリほどの素早さも生命力もなく、はいずり回るのも限界がある。ミーアキャットのごとく、ちょっと背伸びをする芸を身につけてもいいかな、と思った次第である。
 もっとも飛行機の中で、こんなことばかりやってたら危険人物だけれども。

▼いつものように自分勝手な読書メモになってしまった…。

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読書メモ:悪の読書術

▼オリジナルは2003年11月に書かれたものです。

▼福田和也氏の、「悪の○×術」の第三弾が新書化されていた。本当は、茂木健一郎氏の『意識とはなにか―〈私〉を生成する脳』を見てから買うつもりだったのだが、近所の書店に売っていなかったので、なんとなく購入(古本屋=ブックオフに並びそうな本だけどね)。
 読書術というだけあって、村上春樹や江國香織はもちろん、林真理子とか宮部みゆきとか、京極夏彦とか藤沢周平、大沢在昌やら、直木賞芥川賞ネタや、上野千鶴子と小倉千加子、齋藤美奈子やら、ノンフィクション、翻訳書、マンガ、サブカル、絵本や、いわゆる「読書」論まで内容は幅広い。

 福田和也氏の他のブックレビューとも重なる部分も多いような気もするが、軽い批評なので、自分の読書マップを振り返るのに役立つかも。

▼本書では「社交としての読書」が強調されているのだが、とくに印象に残ったのは、読書を通して「自分がどう見られるか」を意識せよ、という話。
(略)前述したように、どんな本を読むのか、どんな本を自らの愛読書として人に示すのかということは、自分がどんな人間になりたいのか、どんな人間だと、人から見られたいのかという問いに直結しています。
 本を読む、本を選ぶというのは、自らの内面の表面であると同時に、どのように自分自身を、その精神面で作っていくのか、という選択と戦略にも関わっているのです。(p228)
 要するに、「自分という人間が、こういう本を読むということが、どういう文脈で解釈され、受け取られていくのか」(p229)に意識せよ、とか、「自分はこの本が好きだから読む、ではなく、自分を自分として作り、向上させるために何を読むのかを、客観的に考えるべき」(p231)という話。

 これだけ読むと福田和也氏の発言にしちゃ妙に教養主義的だな、と思われるかもしれないが、「社交的な意味」、つまりは「スノッブ」な意味での話である。最初にハイソな代表例として、白洲正子氏の名が挙げられていたりして、これもなるほどな、と思わされた。
(この辺りは、あまり紹介し過ぎると、本書を読む楽しみを失わせてしまいそうなので、詳しくは本書を手にとってご覧くださいませ)

 私なんかは、まだお子ちゃまなので、「福田和也氏の本を読みました」(たとえば『悪の恋愛術』とかね)と表明することは、その聞き手や読み手(私の場合は日記を読んでくださっている方)に、どのような印象を与えるのだろう?と思ってしまうのだが、実際のところどうなんだろう。
 こんな疑問を持ってしまうこと自体、アレなんでしょうけど。

▼著者曰く、江國香織という人は、「男性にはよくわからない」もので、「わかるというか、感じる人間は、かなり異様というか、男性としてはやや過激で、むしろ女性の側から見ると、警戒すべき存在であるかもしれません」(p57)なのだそうだ。うーむ。やはり、そうなんだろうか。
 
 もっとも女性でも男性でも、川上弘美が世界で一番好き、と言われたら、それはそれで私も先入観を持ってしまいそうだ(私も好きだけど)。

▼他者の眼を内在させる、ということも善し悪しなんだろうな。

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読書メモ:儀式は何の役に立つか

▼オリジナルは2003年11月に書かれたものです。

他者が他者について考えていること
 選挙である。私なんかはあっさりと誰に入れるかを決めるのが、純粋に立候補者を選ぶというのは実を言うと難しい。なぜなら「他の人が誰に投票するか」も少なからず気になるからだ。

 例えば、入れようと思っているその人が「有利」なんてことを聞くと、「勝ちすぎておごられても困る」から敢えて別な人を選択するということもあるだろう。このように他者の動向が「私」に影響を与えるわけだが、同じように他者も他の人の動向を気にしているとすると、事態は複雑になる。

 まず他者が何を考えているかを考え、その上で他者が他者について何を考えているかを考え、そのまた他者が他者について考えて…考えるほどややこしくなってくる。しかし、人はこのような知識の知識を持っているから、お互いにコミュニケーションがうまくいっているのも事実だ。

 最近、この手の考え方は「ゲーム理論」の分野で、魅力的な仮説がいくつも出されているが、最近、たまたま読んだ『儀式は何の役に立つか』(原題は『合理的儀式』)は、この辺の事情を「共通知識(Common Knowledge)」という観点から、非常に鮮やかにまとめている。
 訳者の安田雪氏のコトバを借りれば「人々がある事実を知る」だけでは不十分で、「『人々がその事実を知っている』ということを皆が知っている」ことで、知識は力をもつのである。確かに、なかなか魅力的な指摘だ。

共有知識とは何か
 著者の定義によれば、「集団の中で、ある事象あるいは事実について、皆がそれを知っており、皆がそれについて知っていることを皆が知っており、皆がそれについて知っていることを皆が知っていることを皆が知っている…」ような知識のことである(p10)。

 え、何のこっちゃ分からないって?

 おそらく身近な例で分かりやすいのは、自動車の左側通行ルールである。左通行ルールが成立するためには、まず私がそれを知っていることが必要であり、同時に、私は他の人が左側通行ルールを知っているということを知らなければならない。しかし、それだけでは成立しない。私がこのルールを知っているということを他の人が知らなければならないからだ。ちなみに、この手の問題は「協調問題」と言われるらしい。

 あるいは、電子メールのCc(カーボンコピー:同報)とBcc(ブラインドカーボンコピー)の違いも身近な例だろう(p17)。Ccの場合、受信者はそのメールが誰に送付されているのかを知ることができるが、Bccの場合、それは分からない。Ccが利用されている場合は宛先に含まれている者同士は、お互いがそのメールの存在を前提に話をすることが可能だ。
 私はBccを滅多に使わないが、同報メールは単に情報を伝えたいというだけでなく、ある特定集団内で共有知識をつくりだす効果は高い。

 これと同じようなことは、マーケティングでも多用されている。本書で取りあげられているのは、例えば、ゴールデンタイムのテレビ広告(正確にいえばスーパーボウル放映時の広告)、人気映画の動員数No1!的宣伝である。皆が知っているという状況を作り出すことで、その商品を消費者は「安心して」購入できるわけだ。
(「主体=私の欲望は他者の欲望である」はラカンの有名なテーゼだったと思うが「他者の欲望」は皆が知っている知識についての知識ということか)

儀式とは何か
 著者は、このような観点から「儀式(ritual)」を捉えるのがユニークな点で本書のメインの主張でもある。著者によれば公共的な式典やメディアイベントは「公共的儀式」として、共通知識を生み出すのに役立っているらしい。結果としてそれは、社会的統合や権威体系の維持につながっている。儀式が繰り返されるのも「共通知識」を生み出すためだという。

 メディアを介したコミュニケーションを一元的な知識の「伝達」として捉えるのではなく、共通知識という「儀式」の視点から捉える、という提案は、なかなか興味深い。とくに、その「公共性」とか、共有知識がどうやって作られていくか、すなわち、「『人々がその事実を知っている』ということを皆が知る」ようになる過程の検討は、確かに重要な検討課題なように思われる。

 フーコーの(ベンサムの)「パノプティコン」の読み替えも、なかなか興味深い。「見られている」ことを知っている、ということを知っているという前提で相手を見るのと、それを前提としない場合では微妙に結果も違いそうだ。

追伸
 以上、なかなか刺激的な本で、後半うまくまとめることが出来ていないような気がするのですが、とりあえず公開版をupしてみました。
 本書を読んで、自分の論文に「たましい」が入っていなかったことに後から気づいたのですが、時既に遅し。もっと早く読んでおけば良かった…。

 青木昌彦氏の書評を朝日新聞に発見。内容のほとんどすべてがコンパクトに全部まとまっているなぁ。まだまだ修行が必要だわ>私。
 http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4531

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読書メモ:「学び」を問いつづけて

▼オリジナルは2003年8月に書かれたものです。

▼本全体の紹介ではなくて恐縮だが、『「学び」を問い続けて』に収録されていた「『独学』の教育的意味をさぐる」が興味深かったのでメモしてみる。
 私は研究ネタとしては「独学」とちょうど対極的な対象を扱わせていただいているにも関わらず、対立軸として独学についてはあまり考えたことがなかった気がする。
 意外なところ(?)が盲点だったかもしれない。

▼本論考(初出は1975年の『教職研究』誌の9月~12月号とのこと)では、独学の条件が4つに整理されていて分かりやすい(以下、若干表記変更)。
  • (イ)学習目標の自由選択
    「何を」学ぶかについて、学習者は完全に自由な選択を行える
  • (ロ)学習手段の自由選択
    「いかに」学ぶか~すなわち、どういう手段を通して学ぶか~についても、学習者が完全に自由な選択権をもっている。
  • (ハ)学習目標の妥当性
    「何を学ぶか」について「選ばれた学習目標が」が、たしかに、教育的視野からみて「のぞましいもの」となっている。
  • (ニ)学習手段の有効性
    「いかに学ぶか」についても、学習者が自らの判断と選択によって採用した手段が、「有効な」(つまり効果的であり、能率的でもある)ものであり、学習の結果が、他の教育機会(たとえば系統的学校教育)によった場合と比較して、勝るとも劣らぬせいかを生み出す
 独学というと「自由選択」の側面が強調され、(ハ)や(ニ)に示される「妥当性」や「有効性」が見過ごされることが多い気がする。確かに、自由選択することもも容易ではないが、妥当性や有効性の検討はもっと難しい。

▼佐伯氏が述べるには、独学の落とし穴の一つは「迷信行動」にある。言い換えれば、偶然の成功を、必然的に見なしてしまう点が問題だ。。
人間というものは、ハトと同じで、自分が行ってみる「試み」は必ず何らかの「成果」をもたらすものと思っている。長い年月にわたって、何の成果もなく、誰からも評価されない状態で、「独りで」学んでいくことは至難の業である。このような状態が長くつづくと、(略)、きわめて「迷信行動」におちいりやすくなり、「ちょっとした偶然的成功を過大にうけとり、論理的吟味や慎重や検証過程を経ずに「ああやったからうまくいったのだ」と信じ込む(p298)
 これはいわゆる「確証バイアス」の問題に近い気がする。確かに、独学の場合、独りでやっていることから生じる思い込みがこのようなバイアスを増す可能性は確かにありそうだ。

▼もう一つ指摘されている落とし穴は、社会心理学的には「認知的不協和」と呼ばれる現象である。佐伯氏は、「艱難汝を玉にす」という諺(私は大学受験時代によく聞かされた記憶がある)を引きながら、次のように書いている。
艱難が多ければ多いほど、われわれの認識がゆがめられ、うけ入れるべき事実をうけ入れ難くする可能性もあることは十分銘記すべきであろう(p302)
 成功体験から脱することが難しいように、これまたの積み重ねと、孤独さが認識をさらにゆがめる可能性もある、ということだろう。

 もっとも両者ともに「独学」に限らず、どんな学習形態でもあてはまりそうだ。集団で「迷信行動」に陥ることの悲劇は、世の中至る所で見うけられるし、艱難もまた集団を通して必要以上、増幅される危険性もある。

 佐伯氏によれば、真に独学できる人間とは、次のような学習者とのことだが、私は、これに「協調」とか「集団」という言葉を当てはめてみたた。
「独り」でいながら、決して「独りだけ」にならない人間、「孤独」に耐えながらも決して「孤独」におちいらない人間、こういう人間だけが真に「独学」できる人間であろう。(p303)
 もしかしたら真に「独学」できる人間は、実質的には協調的で、真に「協調的」に学べる人間は、実質的には「独学」的なのかもしれない。なーんて、またしても永遠の循環に入り込んでしまっているような気もしますが…。

▼本書は、著者の比較的、昔の学習・教育に関するエッセイを集めた本。最も古いのは1973年だから今から30年近く前である。何ら古びている感じを受けないのは、世の中が変わっていないから、というよりは、プラトン以来の「本質的な問い」が描かれているからなのだろうな。
 ↑は、私が大学時代、最も影響を受けた本の一つである。これも初版は75年。あれから何が変わって、何が変わっていないのだろうか。

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読書メモ:神話と日本人の心

▼オリジナルは2003年10月に書かれたものです。

▼旅先にて。移動中+αで河合隼雄の『神話と日本人の心』を読む。以前、同氏の『中空構造日本の深層』は、いまいち腑に落ちなかったのだが、「中空構造(あるいは中空均衡構造)」の概念は、なかなか魅力的だ。
 「中空構造」っていうのは、中心が「無」な構造のことだ。正確にいえば何もないわけではなく、能動的でも、機能的でもない無為が存在する構造のことを指す(これを氏は英語で発表できるのだからすごい人だ)。

 なんのこっちゃ分からない、という人は「中空構造の対義概念は<中心統合構造>である」、と言うと分かりやすいかもしれない。中心統合構造とは、神のような存在(父性的な存在)が、全体を統合する原理である。キリスト教的原理や、科学万能主義的な価値観を考えれば分かりやすい。

 中心統合的な価値観は確かに有用な面もあるのだろうが、最近のアメリカ(キリスト教)とイスラム教の対立や、自然環境問題の例をひくまでもなく、どこか危うさや、限界がありそうな感じがしてならない。
 しかし、だからといって、その対極にある母性的な原理(包むというイメージが近い)ですべてがうまくいくとは限らないのが厄介である。

 「中空構造」は、その点、父性的な原理と母性的な原理、すなわち相反したり、矛盾するような概念、均衡させうる可能性があるのが特徴だ。『神話と日本人の心』では、これを裏付けるようなさまざまな神話の例と、彼の臨床経験(必ずしもそれは表面に出てこないのだが)が引かれている。

 もちろん「中空構造」は万能ではない(そもそも、万能とか万能じゃないとか、その手の価値観自体、近代合理主義的だが)。それ自体はいわば、からっぽなので、父性原理的な価値観がいつの間にか中空均衡を破壊する可能性もある(今のアメリカと日本の関係を考えれば分かりやすい)。

 また、父性的な原理と母性を均衡させる、といって容易なことではなく、「命がけ」の仕事であるらしい。確かに中空的になればなるほど<ひきさかれる>感じとか、<ねじれる>ような痛みを伴いそうな気もする。

▼以上のようにまとめてしまうと、本書を分かった気になってしまいそうになるが、たぶん私も読みとれていない奥深さがあって、その感じは伝え切れていなさそうだ。たぶん、年十年もかかって少しずつ理解するのだろう。

 周辺と中心の関係とか、そもそも中心化や周辺化(周縁化と言うべきなのかな)の関係だとか、考えさせられるところ大だった。

 何度か、往復しながら読む必要があるのかもしれない。
▼個人的な話だが、私がつくるモデルはいつも「中空」である(あたまがからっぽ、という意味ではないと思いたい=例:林家木久蔵師匠)。論文ではいつもボツにしてるんだが、この点、なんとかうまく言語化したいもんだ。

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読書メモ:異文化コミュニケーション 入門

▼オリジナルは2003年10月に書かれたものです。

▼後輩のK氏が、某β国(しかも東側)に飛ばされて、はや1ヶ月。近況の知らせと、お悩み相談的メールをいただく。不幸にも、私には相談に乗る時間がないのだが、カルチャーショックと遠距離恋愛の両立は大変そうだ。

 遠距離恋愛に関しては私が知る領域ではないが、異文化に対する適応プロセスとしては「U型曲線」と「W型曲線」というモデルが知られている。このモデルでは、時間の経過と、異文化への適応・不適応が何段階かに分けて示されており、何かと参考になりそうだ。

▼以下、主に池田理知子・E.M.クレーマー(2000)の『異文化コミュニケーション・入門』(p147-153)の説明にそって、このモデルを紹介してみよう。U型モデルでは、異文化適応の過程が5段階に分けられるそうだ。
(一部引用。引用にあたっては文面を変更、編集を加えています)
  1. 準備段階
    新たな旅立ちに向けて、期待に膨らませると同時に不安も覚える、という段階(注:私も、遠足の前日に似た感覚を経験した記憶あり)。
  2. 旅行者の時期
    新たな生活環境に背理、すべてが新鮮に感じられる時期。著書では「蜜月状態」なんて表現が使われている。このような状態は、状況によって異なるが数週間~1年ほど続くらしい。
  3. 参加者の時期
    蜜月の時代が終わり、自分の慣れ親しんだやり方ではうまくいかない場面に遭遇し、焦燥感が募る時期。孤立感も高まる。
  4. ショック期
    孤独感、不満、いらだちがもっともピークに達する時期
  5. 適応期
    次第にショックから立ち直り、新たな環境に慣れていく。文化的相違を受け入れ始める時期。
 なーんてことない、いわゆるビルディングストーリーではあるが、とくに「旅行者」から「参加者」への移行の過程は、興味深い気がする。
 わたしゃせいぜい海外に滞在しても最大2週間だから、海外留学的焦燥感のようなものはいまいち感じたことがないし…。

 W型モデルではさらに、帰国後のストーリーが3段階に分かれている。
  1. 帰国直前の期待と歓びで胸躍らせる時期
  2. 帰国後期待が打ち砕かれ落ち込むショック期
  3. 再適応
 これはU型モデルの3、4、5の変形版と考えられるだろう。今から帰ってきた話のことをするのも恐縮だが、戻ったら戻ったらで、「ディアスポラ的憂鬱」なる現象も待ちかまえている可能性もあるそうだ。
(ディアスポラ=旧約聖書に由来。バビロン幽囚後離散、放浪の憂き目にあったユダヤ人が約束の知を求めてさまよった様子のこと)。

 適応過程が5段階なり、8段階に分けられるから、だから何だ(So what?)と言われると困るのだが、まだ先は長いということでしょう。合掌。
 「いやー、今日おれディアスポラな気分なんだよ」とか言ってみると、少し悩みが高尚になった気もするかもしれません。

▼なお、このようなカルチャーショックの要因として著者が注目しているのは
  • サインやシンボルの解釈が自分が慣れ親しんだものと異なること
  • 対人関係の崩壊
  • 自己崩壊の危険性
 の3つの要因である。コミュニケーションできない→対人関係不安→自己(自我)崩壊っていうのは確かに、これも分かりやすい図式だわ。
 個人的には、過剰適応や、過剰に崩壊して、ムコウに移り住むと言わない限り、私はあたたかく見守っております。おみやげよろしく。

▼なお、本書『異文化コミュニケーション・入門』は、解釈学的・現象学的アプローチから平易に記された異文化コミュニケーションの入門書である。上記に一部記したカルチャー・ショック以外にも、自己・アイデンティティの問題から、相互理解、メディアやグローバル化もコンパクトにまとめられて、非常に分かりやすく、勉強になる。参考文献や資料も充実。
コミュニケーションは、「地平の融合」(Gadamer, 1975)である。他者と出会えば、そこから何らかの新たな情報を得、それを自分なりに解釈するが、それと同じことを相手も行う。(略)
もちろん、双方の出会いが、お互いの理解につながるとは限らない。だが、少なくとも2つの地平が出会えば、双方が影響を受ける。お互いの地平が他者へ向かって開かれ、お互いを変える。そして、その影響が「地平」全体へと広がっていくのである。(略)「地平の融合」のプロセスに終わりはない(p38-39)。
 「地平の融合」っていう表現は、なかなか魅力的かも。

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