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読書メモ:レトリック感覚

▼オリジナルは2003年10月に書かれたものです。

▼最近、どうも物事を単純に二分して考えてしまう傾向が強すぎるせいか、時々、二分法的思考(デジタル思考?)から出られなくなってしまう。

 そもそもヒトという生き物は、対極的な二つの軸のあいだに生きているという話もあるが、それにしても森羅万象について「バランスが大切だよね」という結論に終わってしまうのは、自分としても情けない気もする。

 そんなことを最近思いながら、数年前に一度読んだ(形跡が残っていた:本人は記憶なし)、『レトリック感覚』を読んでいたら、なるほど!と思える一文に偶然出会えてしまったので、メモ代わりに紹介させていただこう。

 一言でまとめてしまえば、<既存の対義語にとらわれず、つねに新たな対義語の発見につとめるべし>ということになると思う。タイミングと喩え方が良かったせいか妙に納得してしまったのだった。
 美と醜、大と小、優と劣、支配と服従…といった、標準的な対義の型が、ふだんの私たちの記憶のなかに、安定した制度のように、たくわえられ、維持されている。(略)

 安定が安住になり、固定化しすぎると、やがてそれらの対義語群はたがいに隣の語群と、近隣のよしみでなじみすぎ、やがて境界があやしくなる。(略)いつしか私の無意識の世界では、美と小、大と劣、優と服従…といった、うさんくさい対義関係がひそかにうごきはじめる。(略)

 たぶん、対義語は、つねに私たちが発見につとめるべきなのだ。そして、つねに新鮮に、生き生きとした状態をたもつよう、手入れをおこたってはならぬものであろう。(略)

 そして、対義語の否定としての緩叙法についてもまた、同じことが考えられる。

 海にゐるのは、
 あれは人魚ではないのです
 海にゐるのは、
 あれは、浪ばかり。(中原中也『在りし日の歌』「北の海」)
 
 驚いたことに、人魚と浪を対義語として発見した人がいた。

 (略)人魚は、否定されることによって、<<そこにいない人魚>>として姿を現した。はじめから人魚など気にもならない人は、決して「人魚ではないのです」などとは言いはしない。
 なお、「緩叙法」とは、「あることがらを積極的に肯定するかわりに、それとは反対のことがらをはっきり否定する」、あるいは「そのことがらを、程度の差はあるにしてもとにかく弱めて表現する」(p287)といった意味らしい。

 著者の例を借りると、「わたし、彼のこと、嫌いじゃないわ」的、表現のことである。この手のセリフは恋愛的コミュニケーションにおいて、理解に苦しまされることが多いような気もするのだが、これは「恋愛講座」ネタだな。

 概念レベルで「枠」にはまってしまわないよう、気を付けないと。

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