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読書メモ:教えることの復権

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

▼この日記にも、少しだけ書いたことがあったが、私は、秋学期(10月~1月)に、とある大学で社会調査法の授業を担当させてもらっていた。

 私は、何故か「教授法」の研究なんてこともやっているので、自己批判も兼ねてひそかに自分の講義の一部を録音していたらしい。
 ようやく自分と距離が置けるようになってきたので3ヶ月ぶりに聞いてみると、なんちゅーか、中途半端なトークを繰り広げていることが判明。自分の声を聞くだけでもぞっとするのに、かなり冷や汗モノである。

 冷静にテープ起こしをしてみると、悪い意味での調査報告書的な表現手法(断定を避けた微妙な表現を用いる)が、そのまま自分のトークにも乗り移っているようで、それが自分の言葉にうさんくささに繋がっている模様。オレって、こんなに白々しい奴だっけ?と思わず突っ込み中である。

▼今さらではあるが、「先生」とはなかなか微妙な立場である。私も、学生やらクライエント等の立場を通して、「先生」と呼ばれる職業がいかに特権的存在であり、勘違いの巣窟か、イヤってほど実感させられてきた。

 しかし、特権的存在であることを無理に逃れようとすると、とたんに「うさんくさく」なるのである(少なくても、私はうさんくささを感じることが多い)

 特権的な存在であるということを勘違いすれば「権力者」と化すし、逆に、特権的な立場であることを否定(あるいは忘却)すると、白々しい上に、無自覚な権力が行使される可能性が増すようである。

 最近、目にした苅谷先生の言葉が、今日は、ちょっと重いかも。
 教師は教室で強大な権力を与えられている。教室にいる間は、生徒たち、学生たちの頭のはたらかせ方を直接コントロールする権限を与えられているということだ。もちろん、完璧なコントロールなどできるはずもない。それでも、コミュニケーションの主導権を握っていることで、学ぶ側の頭のはたらかせ方を方向づけるくらいはできる(略)
 教師が教えることの特権を謙虚に行使し続けよう自覚することが、遠回りに見えても、教えることの復権に欠かせない条件になるだろう(p225-226)。
 教えること=特権的な行為であるという自覚なしには、人(生徒や学生、クライエントに限らず)から「教わる」ということは難しいのかも。

▼私は、調査の世界、あるいはメディアに接する時の基本的構えとして、<ウソを見抜く力>を身に付けることが決定的に重要だと思っているのだが、どうも、それ自体が、ウソっぽいような気もしてきたかも。
 本当の特権は(少なくても教師の場合は)、自身が行使している権力やウソを注意深く拒む力を育成することに行使されるべきなんだろうな。

 ちなみに教壇で初めて「先生」と呼ばれた時のてれくささは、恋人から名字ではなく、名前で呼ばれるようになった時の感じに等しい。

 なーんてウソを付いてみるテスト。

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