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2003年11月

読書メモ:レトリック感覚

▼オリジナルは2003年10月に書かれたものです。

▼最近、どうも物事を単純に二分して考えてしまう傾向が強すぎるせいか、時々、二分法的思考(デジタル思考?)から出られなくなってしまう。

 そもそもヒトという生き物は、対極的な二つの軸のあいだに生きているという話もあるが、それにしても森羅万象について「バランスが大切だよね」という結論に終わってしまうのは、自分としても情けない気もする。

 そんなことを最近思いながら、数年前に一度読んだ(形跡が残っていた:本人は記憶なし)、『レトリック感覚』を読んでいたら、なるほど!と思える一文に偶然出会えてしまったので、メモ代わりに紹介させていただこう。

 一言でまとめてしまえば、<既存の対義語にとらわれず、つねに新たな対義語の発見につとめるべし>ということになると思う。タイミングと喩え方が良かったせいか妙に納得してしまったのだった。
 美と醜、大と小、優と劣、支配と服従…といった、標準的な対義の型が、ふだんの私たちの記憶のなかに、安定した制度のように、たくわえられ、維持されている。(略)

 安定が安住になり、固定化しすぎると、やがてそれらの対義語群はたがいに隣の語群と、近隣のよしみでなじみすぎ、やがて境界があやしくなる。(略)いつしか私の無意識の世界では、美と小、大と劣、優と服従…といった、うさんくさい対義関係がひそかにうごきはじめる。(略)

 たぶん、対義語は、つねに私たちが発見につとめるべきなのだ。そして、つねに新鮮に、生き生きとした状態をたもつよう、手入れをおこたってはならぬものであろう。(略)

 そして、対義語の否定としての緩叙法についてもまた、同じことが考えられる。

 海にゐるのは、
 あれは人魚ではないのです
 海にゐるのは、
 あれは、浪ばかり。(中原中也『在りし日の歌』「北の海」)
 
 驚いたことに、人魚と浪を対義語として発見した人がいた。

 (略)人魚は、否定されることによって、<<そこにいない人魚>>として姿を現した。はじめから人魚など気にもならない人は、決して「人魚ではないのです」などとは言いはしない。
 なお、「緩叙法」とは、「あることがらを積極的に肯定するかわりに、それとは反対のことがらをはっきり否定する」、あるいは「そのことがらを、程度の差はあるにしてもとにかく弱めて表現する」(p287)といった意味らしい。

 著者の例を借りると、「わたし、彼のこと、嫌いじゃないわ」的、表現のことである。この手のセリフは恋愛的コミュニケーションにおいて、理解に苦しまされることが多いような気もするのだが、これは「恋愛講座」ネタだな。

 概念レベルで「枠」にはまってしまわないよう、気を付けないと。

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読書メモ:心理臨床への手びき

▼オリジナルは2003年9月に書かれたものです。

▼臨床心理の本を何冊か読む。今日読んだ中では、『心理臨床への手びき』で紹介されていた、学生さんが寄せたレポートの内容が泣かせる。  紹介されていた学生さんのレポートによれば、ひとつの研究をスタートさせて一応終わりにするまでには、4つの段階があると言う。
(以下、引用時改行位置を改変。編集を加えさせていただいている)
  • (1)先行研究をレビューしている頃
    「そのことに多くの関心を寄せ、相手(研究対象)へのよりよい関わりとは何かを問うている良心的なおとな」
  • (2)研究計画を具体的にたてているあたり
    「スマートにデータをとりたい職業人(搾取に一番近い態度になる頃になるかもしれない)」
  • (3)現場にはっているとき
    「いくら研究者のつもりでも、相手を前にするとただのひとりのなまの人間(そのことに気づかざるを得ない、こころと身体をつかう時期)
  • (4)ふたたび机に戻って考察・論考化しているとき:
    {相手(子どもなり大人なり)にもらったいっぱいのメッセージを、学術的手段にのせて、どうにか世の中に伝えられないかと苦悩している代弁者」。(p208-209)
 「良心的なおとな」とか、「職業人」とか、「なまの人間」とか、「代弁者」という表現がいい。確かに最後の段階は、「代弁者」みたいなものだし。

 この後、さらに考察が続くのだが、最後の一文がとくに深い
 「現場(保育園や幼稚園、あるいは施設などのフィールド)でデータをとることの意味とは」に対する今のところの答えは、自分が感じている”苦しみ”を自分のこととして感じられなくならないため、そして代弁者として声を発するときの力をもらうため、としておきたいと思います。
(勝手に改行)
 考察や論文化の段階では、出会ったおひとりおひとりの顔を思い浮かべることが、何よりの力になります。相手の自己治癒力を信じて、相手と自分とのなまのやりとりのなかでうまれたもの=相手と自分の間でしかうまれ得なかったものを見つめられる研究者になっていけたら…と思います」。(p209-210)
 実に深い。この文章が掲載されているのは、「私の考える心理臨床」という最終章の最後の節なのだが、学生さんの声がそのまま載っているところが素晴らしい。私も、こういうことが言える人になりたいものだ。

 にしても、素朴なあたたかさ(あるいは、自分が感じている苦しみ)が、いつのまにか失われたり、感じられなくなったりするの何故なんだろう。

安野光雅氏が言っていたことだが、画を描く時に「○×描く」のと「○×描く」のは違うように、対象を描くのと、関係を描くのは違うんだろうな。

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読書メモ:思考力育成への方略

▼オリジナルは2003年9月に書かれたものです。

▼私は「他人に厳しく、自分に甘い」人である。ほんとは逆といいたいところだが、まあ、みんなそんなもんだろう(勝手な一般化)。こういう人間は、ときどき意図的に「星一徹モード」(by巨人の星)を自分の中に起動させ、自己修練を図らないと、甘さが増してしまう危険がある。

 たとえば、何かしらのテクノロジーを駆使して、大リーグ養成ギブスのような認知的道具(正確には非認知的道具)を、自分に向けて開発するのも良かろう。もちろん、目指すは大リーグではなく、自己批判力である。

 もっともこの場合、「ギブス開発の情熱を別な方向に向けた方が生産的だよ」という反論もあり得るので、再考も必要かもしれない。

▼てっとり早いのは、セルフちゃぶ台返しである。ちゃぶ台をひっくり返せば、少なくても状況の変化は実感できよう。最近は、さぬきうどんだってセルフなんだから、ちゃぶ台返しだって「ひとりでもできるもん♪」と思いたいが、我が家にはそもそもちゃぶ台が存在しないので却下。

▼仕方がないので(なんて書くと失礼だが)、認知的星一徹こと、クリティカルシンキング本を読み直してみた。やはりこういう時は、元祖『OL進化論』(最近、20巻も出たし)を…と思ったが、『クリティカル進化論』で。

 ついでに、書棚を整理していたらずっと前買った本にあった「批判的読解のためのチェックリスト」が目に入ったのでメモをしておく。
(a)語の用法は明確であるか
1 重要な語は定義されているか
2 用語の意味は一貫しているか
3 早まった一般化をしていないか(その語の及ぶ範囲が限定されているか)
4 比喩や類推は適切か
5 語の感化的用法(色づけ)はないか

(b)証拠となる資料・事例は十分に整っているか
6 証拠となる資料や事例は十分か
7 その事象を代表する典型例か
8 隠された資料や証拠はないか
9 反論の材料となるような、反対の立場からの資料や証拠は考えられないか
10 不適切な資料や証拠はないか

(c)論の進め方は正しいか
11 証拠のない主張・結論はないか
12 隠された仮定・前提(理由・原因・条件)はないか
13 誤った(または悪用された)理由づけはないか
 自分の論文はおおよそ意図的に無味なのだが、もうちょっと比喩を使ってもいいのかもしれない。例:君はバラ。ぼくはウナギだ。

▼星一徹はさておき、もうちょっと吟味しよう。

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読書メモ:臨床社会学のすすめ 

▼オリジナルは2003年8月に書かれたものです。

▼一日中モニタの前に向かって、プログラミングちっくな作業(正確に言うと私の場合は分析作業なのだが)に没入していると、ときどき「自分は特別だ」感に襲われる時があるような気がする。

 うまく言葉に出来ないのだが、「自己」中心的というよりは、「自分」が恍惚と奪われていく感覚に近い気がする。無知が奪われていく、といった方が適切なのかもしれない。とにかく根拠のない全能感みたいなもんだ。

▼こういう時に必要なのは「幻滅」感らしい。奥村(2000)によれば、「私は特別な存在だ」という感覚に欠くような状態が「幻滅」である。幻滅の例として、著書ではコペルニクス的転回(天動説→地動説)があげられている。
(エリアス. N. [1991]. 参加と距離化.法政大学出版局)

 著者は、この「幻滅」を経由することこそ、もっとも重要なことではないか、と考える(略)。
 まず、自分に対する「幻滅」を受け入れよう。そうしなければ、「私」の仕組みを認識することは始まらない。そして、自分がどうしているのかを認識することがなければ、自分のやり方を制御する可能性を手に入れることができない(p58)

 「幻滅」を経由して自分を「知る」こと・「知る」ことで自分に少し「幻滅」すること。この往復は、ある「自由」を私たちに与えてくれると、著者は思う(p59)。

奥村隆(2000)「『存在証明』の臨床社会学」 大村 英昭・野口 裕二(2000).臨床社会学のすすめ. 有斐閣
 ここだけ引用すると、なんだか自己啓発系の文章みたいな印象を受けるかもしれないが、著者の社会学的知見(著者の立場は「臨床社会学」らしい)に裏付けられた発言は、説得力があるような気がする。

 でも、「幻滅」って人に勧められるもんじゃないし、人に勧められて味わう感覚でもない。そもそも欠けているのは、アクチュアリティってことかしら。

▼前も似たようなことを書いてるかもしれぬが、他人のことを自分のことのように「読み替える」能力って重要だな。

 にしても「幻滅」と「失望」って何が違うんだろう。
 香ばしい幻滅よりは、香ばしい失望(by松岡正剛)の方がいいかも。

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読書メモ:これから論文を書く若者のために

▼オリジナルは2003年8月に書かれたものです。

▼夜、珍しく仙台の街へ。いつから仙台は牛タンの街になってしまったのだろう。私が高校生の頃は、手頃の価格で、腹いっぱい食べれる、一風変わった焼肉屋さんという印象しかなかった記憶があるのだが…。

 牛タンといえば…、書棚をぱっとブラウズして私が真っ先に目に入ったのはは『これから論文を書く若者のために』であった。
 本書は、いわゆる学術論文の書き方の概説書なのだが、データの解析や解釈の演習の一例としてベガルタ仙台(サッカーチーム)と牛タン定食がネタにされている不思議な(ユニーク)な本である。

 一見、軽く見えるが、論文の書き方としては、私にとっては「かゆいところ」に手が届く本だった。たとえば、「タイトルの付け方」などについて、本書のようにきちんと例示してくれた本は、これまでなかったような気がする。

▼本書によれば、論文の中身は
取り組んだ問題、着眼点、研究対象、
研究手法、研究結果(結論を含む)
 から成り立っている。たとえば「ベガルタ仙台が強い理由の一つは、選手が牛タン定食を食べていること」を報告した論文をまとめるならば、
問題:ベガルタ仙台は強い
着眼:牛タン定食を食べると身体能力が高まる
対象:ベガルタ仙台の選手
手法:牛タン定食を食べる回数を実験的に操作して、試合の成功に及ぼす影響を見る
結果:牛タン定食を食べると、身体能力が高まり試合に勝つ
 といった要素が必要となる。これらが決まったら次は論文タイトルである。著者によれば、論文のタイトルでは「問題」「着眼」「対象」の3つが原則なのだそうだ(結果を入れるのは避けるべきらしい)。

 ベガルタ仙台と牛タンに関する論文の場合、適切なタイトルは
(○)なぜ、ベガルタ仙台は強いのか:勝利を呼ぶ牛タン定食仮説の検証
 となる。以下のようなタイトルは具体性や説明力(中身)に欠けるという。
(×)ベガルタ仙台に関する栄養学的研究
(×)なぜ、ベガルタ仙台は強いのか:その要因の解析
(×)ベガルタ仙台の強さと牛タン定食
 なるほど、である。個人的には×なタイトルに身に覚えがあって、痛い。

▼以上、牛タンの歴史について調べようと思ったら、気が付いたら論文の書き方の話になってしまった。

 なお著者によれば、牛タン定食は、「牛の体の先端(舌)と末端(しっぽ)」を使っているので、「両端定食」と呼ばれているらしい。おやじ風ギャグにちょっと受けてしまった私。本書には、今後もいろいろお世話になりそうである。

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読書メモ:考える道具

▼オリジナルは2003年8月に書かれたものです。

何をではなく、どのように考えたか
 しばらく在庫切れでなかなか手に入れにくかった『考える道具(ツール)』を、某所で手に入れた。入門書ではあるが、骨があって(まだまだ私なんかは消化し切れてませんが)評判通り良い本だった。
 本書は表向きには、いわゆる哲学の入門書だが、単にさまざまな学説を概説しているだけではなく、哲学者の「考え方」がまとめられているのが特徴だ。本書にならって言えば偉大な哲学者たちが「何を」考えたかだけでなく、「どのように」考えたかが示されている。

 プラトンやデカルトやカントはもちろん、最近では『利己的な遺伝子』のドーキンスや、ポストモダンではデリダまで25章構成で、24人の哲学者とその考え方が紹介されている。例えば、↓のような考え方である。
  • タレス
    「還元」(物事をある部分に分けて捉えること)
  • ゼノン
    「背理法」(一旦、そうではないことを仮定して真偽を確かめる方法)
  • プラトン
    「アナロジーとアレゴリー」(類比と寓喩=概念の置き換え)
  • ヘーゲル
    「弁証法」(Aでもなくでもなくより高次のCを考え出すこと)
  • ヴィトゲンシュタイン(後期)
    「言語ゲーム」(考えるな、見よ)
 ちなみにヴィトゲンシュタインは2回登場している。

 ちなみに、本書は翻訳者が中山元氏というだけのことはあって、参考文献(日本語で手に入るもの)も充実しているし、翻訳も読みやすい。

オッカムの剃刀
 本書を読んで、一つ自分の誤読に気づいた。

 私のアタマの中では、オッカムの剃刀=「説明はシンプルであればあるほど優れている」のように記憶されていた。

 だが、正確には
  • 必要でない限り、存在者を増やすべきではない」(p95)
  • 必然性なしに多くのものを定立してはならない」(p101)
  • 「少なく言えることを、多くの言葉で語ってはならない」(p101)
 という命題が、オッカムの剃刀の正体のようである(下線は引用者)。ただ単純ならば良いってわけではない。しかし私は、いつの間にか「必要でない限り」や「必然性」の部分を「剃って」しまったようだ。

 著者は、「デートを断わられる」という場面でオッカムの剃刀の優れた利用法についてまとめているので、引用してみよう。
 たとえばぼくが、何度デートの提案をしても断れたとする。たしかに彼女はこの半年の間、ずっと忙しかったのかもしれない。デートをするには、ナーバスになりすぎていたのかもしれない。デート・コースに気をそそられなかったのかもしれない。でも、こうした状況でいちばん単純で、ごくふつうに考えつく説明がある。彼女はきっとぼくのことを好きではないのだ。相手がこの想定に反する感情を表明するまでは、彼女はぼくのことを好きではないと考えるのが、ぼくにとってもエネルギーの節約になる(p98)。
 要するに、同じ事態を説明するのに、より本質的ではない説明を削り落とすことが、オッカムの剃刀の正しい使い方であるようだ。
 これは「思考の節約」とも、「単純さの原理」とも呼ばれているそうだ。
 複雑な理論が、シンプルな理論よりも物事をうまく説明できるなら、ぼくたちは複雑な理論を採用すべきなのだ。オッカムは、なによりも単純さを優先したわけではない。説明する力に甲乙のない二つの理論があり、そのどちらかを選択する場合には、単純な理論を選ぶべきだという根拠を示しているだけだ(p101)。
 もちろん、同じ条件で、説明力が同じならば確かに単純な説明を取るべきことが多いであろう。ちなみに「私を取るの、仕事を取るの?」命題においては、何が本質的なのかについて考える方が先である。

▼ちなみにオッカムの剃刀は、ベッカムブームに便乗した剃刀でも、リストカット用のカミソリでも、がっでむ!と叫びたい時に使うカミソリでもない。1285年生まれの哲学者(13~14世紀)、オッカムの概念である。

 私が「オッカムの剃刀」の概念を初めて知ったのは、たぶんカール・セーガンの小説だった記憶がある。映画『コンタクト』の中でもオッカムの剃刀が引用されていたことはよく覚えている。
 人から聞いたり、本で読んだり、映画で知ったことばも、知識は「考える道具(ツール)」として使わないと、、時が経つにつれ、自分に都合よく改変されてしまったり、さびついてしまうことが多いようだ。

 「オッカムの剃刀」については関連するWebページも多いので、関心のある方は、ぜひgoogleで検索してみてくださいませ。  今回、私は↑の物理FAQをあわせて参照させていただきました。

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読書メモ:仏教が好き

▼オリジナルは2003年8月に書かれたものです。

▼先日、学部3年(今から6年前?)に書いた論文集をたまたま、読み返す機会があったのだが、後書きを見て驚いてしまった。

 私は、どうもあの頃から「夢」と「現実」(夢ではないもの、現実ではないもの)に悩まされていたらしい(一体、いつから意識的に気になり始めたのか、逆に気懸かりである)。

 そういえばいつだったか、ある哲学系の研究者(のタマゴ)が、「現実」とか「現実ではないもの」についてついて考えたがる人は循環的な思考をすることが多いということを仰せだったことを思い出した。

 彼曰く、「現実」についてこだわりを持つ人は(「私は」の方が、その際の会話の文脈的に近いかも)、一見、同じところをぐるぐる、ぐるぐる(お腹がへった時の音ではない)しているように見えるので、周囲の人間からは、「あいつは理解力がない」とか「分かっていない」と思わせることが多いそうだ。

 実際、あの時の会話は、私の理解力のなさのせいで、話は核心に近づいているようで、先に進まなかった記憶もある。いったい何に根拠があるのか分からないが、なかなか興味深い話ではある。

▼他人から私がどう見えているかはよく分からないが、少なくても私自身が好むのは、「これが答えだ!」と、モノの本質をズバリ言う人よりも、答えのまわりをぐるぐる回るタイプであることは確かだ。

 今もなお、答えの鮮やかさよりも、問いの立て方が豊かな人を、尊敬してしまう気がする(答えが鮮やかな人を尊敬しないわけではないけど)。

 このような思考法を「ぐるぐる」思考と呼ぶと、田口ランディっぽくなってしまうので、何か良い命名がないかと思っていたら、ユングが(「科学」の人間にとってはあやしげな名前だと言われそうだが)、circum ambulationという言葉を残しているらしい。日本語で言うと「巡回」。以前、関連書を読んだ時は読み流していたが、今回は、すっと入ってきた気がする。

 以下、河合隼雄と中沢新一氏の対談『仏教が好き』から引用。
 ユングがよく使う言葉がありまして、英語でcircum ambulation、「巡回」という意味です。僕の好きな言葉なんですが、結局、中心には入れないということなんですよ。われわれはまわりをめぐるだけ。まわりを何度も何度もめぐることによって、いわば中心に思いをいたすなり、中心を感じ取るなりということはできるけれども、中心に入ることはできない。(略)
 ユング自身、自分の書いている本も「サーカムアンビュレーション」が多いと言っている。たしかにぐるぐる回っているものが多いんですよ。だからぱーんと直接的にものを言うことが好きな人にとって、ユングの言い方は持って回っているというとか、うねうねやっているように見えてしまう。けれども僕がユングの考え方で好きなのは、やはり真ん中に行けないと思っているからなんですね。(p162)
 私は、気が付くと真ん中が存在しないモデルを立てたがるので、やはり「circum ambulation」型の発想をしやすいのかもしれない。

▼この手の思考をしやすい人間にとっては、「否定」(ではないもの)と、「仮定」(そうかもしれないもの)は、非常にやっかいな問題である。「中心」は中に入ることができない仮定的なものだからだとは思うのだが、否定とか仮定の問題は、もっとちゃんと考えなくっちゃいけないな。

 対談の中で、中沢新一氏は「結局、心のケアというのは『否定』の技術の問題に尽きる気もしますね」と述べている。これを受けて河合氏は「そうなんだけど、それを忘れる人が多いんだと思いますね。どうしても「肯定」の技術のほうをみんなやりますから」と言っている(p149)。

 これは我が意を得たりである。確かに、世の中に必要なのは「肯定」の技術というよりも、「否定」の技術であろう。うん。問題は、たいてい夢と現実(あるいは、夢ではないもの、現実ではないもの)の間からやってくるということは分かるのだが、その先になかなか進めないのが難点である。

 真ん中を目指すのではなく別な道を探るべきなんだろうな。

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読書メモ:教えることの復権

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

▼この日記にも、少しだけ書いたことがあったが、私は、秋学期(10月~1月)に、とある大学で社会調査法の授業を担当させてもらっていた。

 私は、何故か「教授法」の研究なんてこともやっているので、自己批判も兼ねてひそかに自分の講義の一部を録音していたらしい。
 ようやく自分と距離が置けるようになってきたので3ヶ月ぶりに聞いてみると、なんちゅーか、中途半端なトークを繰り広げていることが判明。自分の声を聞くだけでもぞっとするのに、かなり冷や汗モノである。

 冷静にテープ起こしをしてみると、悪い意味での調査報告書的な表現手法(断定を避けた微妙な表現を用いる)が、そのまま自分のトークにも乗り移っているようで、それが自分の言葉にうさんくささに繋がっている模様。オレって、こんなに白々しい奴だっけ?と思わず突っ込み中である。

▼今さらではあるが、「先生」とはなかなか微妙な立場である。私も、学生やらクライエント等の立場を通して、「先生」と呼ばれる職業がいかに特権的存在であり、勘違いの巣窟か、イヤってほど実感させられてきた。

 しかし、特権的存在であることを無理に逃れようとすると、とたんに「うさんくさく」なるのである(少なくても、私はうさんくささを感じることが多い)

 特権的な存在であるということを勘違いすれば「権力者」と化すし、逆に、特権的な立場であることを否定(あるいは忘却)すると、白々しい上に、無自覚な権力が行使される可能性が増すようである。

 最近、目にした苅谷先生の言葉が、今日は、ちょっと重いかも。
 教師は教室で強大な権力を与えられている。教室にいる間は、生徒たち、学生たちの頭のはたらかせ方を直接コントロールする権限を与えられているということだ。もちろん、完璧なコントロールなどできるはずもない。それでも、コミュニケーションの主導権を握っていることで、学ぶ側の頭のはたらかせ方を方向づけるくらいはできる(略)
 教師が教えることの特権を謙虚に行使し続けよう自覚することが、遠回りに見えても、教えることの復権に欠かせない条件になるだろう(p225-226)。
 教えること=特権的な行為であるという自覚なしには、人(生徒や学生、クライエントに限らず)から「教わる」ということは難しいのかも。

▼私は、調査の世界、あるいはメディアに接する時の基本的構えとして、<ウソを見抜く力>を身に付けることが決定的に重要だと思っているのだが、どうも、それ自体が、ウソっぽいような気もしてきたかも。
 本当の特権は(少なくても教師の場合は)、自身が行使している権力やウソを注意深く拒む力を育成することに行使されるべきなんだろうな。

 ちなみに教壇で初めて「先生」と呼ばれた時のてれくささは、恋人から名字ではなく、名前で呼ばれるようになった時の感じに等しい。

 なーんてウソを付いてみるテスト。

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読書メモ:戦下のレシピ

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

▼なんだか夏っぽくないので、最近、雑炊とか、チゲ鍋とか、どちらかといえば寒い季節の料理を作って食べている(楽だしね)。

 鍋を食べているとき、広島の「原爆の子の像」に供えられた折り鶴が14万羽焼けたニュースを見ていたせいか(注1)、冷蔵庫の余った野菜を適当に入れて雑炊を作ったせいか、この寒さじゃ今年は米不足かなぁ…なんて考えていたせいか、ふと『戦下のレシピ』のことを思いだした。
 齋藤美奈子が「戦争の影響で食糧がなくなるのではない。食糧がなくなることが戦争なのだ。」(p180)」と書いていたが、食料がなくなる(食べることができなくなる)感覚は、結構、こわいものがある。
(人によっては「オロオロする」感覚の方がしっくりくるかもしれない)。

 天気予報を見る限り、明日からは、東北地方も早いところ夏らしくなるようだが、はやいところ回復してもらいたいものだ。
 もっとも暑くなれば暑くなったで、文句を言ってそうな気もするけど。
 でも、「オロオロ」しなくて済むだろう。

(注1)私はこの事件の場合、容疑者の所属大学は関係ないのではないかと思う。大学の所属名(サークルとか)を悪用していたならば別だけど。

▼おまけ。戦争当時の「捨てない技術」。『戦下のレシピ』より孫引き。
捨てていたものを生かす 『主婦之友』昭和19年7月号
▼捨てていたものを取りあげる場合 
ただ栄養があるから食べるという前に、これまでなぜ捨てていたかを考えてみましょう。
(1)臭いか
(2)あくがあって苦いか。
(3)筋ばって硬いか。
(4)まずいか。
習慣のように捨てていたというのも、結局はこれだけの理由があってのことです。この原因を取り除く調理法の工夫さえつけば、何でも美味しく食べられるのです。
(1)臭みの強い野菜は、油炒めや和え物がよい。
(2)あくの強いものは、茹でこぼして水によく晒す。
(3)筋ばって硬いものは細かく刻んで繊維を短くするか、摺りおろすかすれば口ざわりもよく、美味しくなる。
 一瞬、なるほどって思ったのだが、考えて見りゃ、新鮮な野菜は生に近い状態で食べるけど、古くなれば炒め物にしたり、あく取りもしっかりやるよな。こういう知恵ってどこで教わったのだろう。

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読書メモ:自動車絶望工場

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

▼以前、『能力構築競争』を絶賛(?)するようなメモを書いたのだが、その後、E先生にご指摘をいただき『自動車絶望工場』(鎌田慧氏の代表作と言えよう)を読み直してみた。
 『能力構築競争』を読んで、不覚にもちと浮かれてしまったのだが、この二冊は、同時に読まれた方が良いのかもしれない、と思ってみたりもする。
 
▼鎌田氏の『自動車絶望工場』は、いわゆる「潜入ルポ」「体験取材」という手法で、実際に著者が、期間工(季節工)として半年間、工場に勤務した経験をまとめた本である。今からちょうど約30年前(1973年)の話である。

 トヨタの「かんばん方式」と呼ばれる大量生産(当時の労働者にとってはそれは単純反復労働を意味する)に対する告発本としても知られている。日記形式で表現されている工場労働の精神的・肉体的疲労感や絶望感は、迫力がある(私は学部時代に読んで結構、衝撃を受けた記憶あり)。

 数少ない国内のフィールドワーク系の名著ではないかと思う。

▼その後の展開は、これまたE先生にご紹介いただいたのだが、どうやら本質的にはある部分の体質は変わっていないという見方もあるらしい。
 「強い」企業がいったい何に支えられているのか、今一度冷静に考えてみる必要がありそうだ。というわけで『トヨタの労働現場―ダイナミズムとコンテクスト』は、きちんと読み込んでからメモを書くつもり。

▼最近、自分の中で<外>から物事を見る視点の方が強くなってしまっているのかもしれない…と、しばし反省中。

 E氏には貴重なご指摘をいただいた。感謝。

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