« 2003年8月 | トップページ | 2003年11月 »

2003年9月

読書メモ:フィールドワークの物語

▼オリジナルは2003年6月に書かれたものです。

▼最近、「自分の想いをうまく表現できない」問題に直面している。といっても、どうやってプロポーズをしようか悩んでいるわけではない(私は、そんなことでは悩まない、なーんてね)。今は、論文がまとまらなくて、困ってしまっているらしい。

 おそらく「うまく表現できない」問題は、人類普遍の問題である。自分の気持ちを、いかに意中の相手に伝えようか迷っているお嬢さん・お坊ちゃんはもちろんのこと、自分の不勉強や能力のなさを、表現力の問題に転嫁してしている学生さんやビジネスパーソン(私もその一人)。表現を職業としている作家、漫画家や詩人や画家などは、とくに悩みも深そうだ。

 もっとも私の場合は、思ったことをいかに描くかではなくて、観たもの=思ったことの間のバランスをどう取るか、なのですけど…。でも、〆切も近づいているし、困ったもんだ。

▼うまくいかない時は、(1)人に相談する、(2)本に相談する、(3)一人で悩む、(4)すべてなかったことにする、くらいしか選択肢がないのだが、とりあえず本に相談モードである。
 民族史の描き方に関するテキストとして知られる『フィールドワークの物語』によれば、民族史の描き方は、「写実的物語」「告白体の物語」「印象派の物語」という3つのスタイル(文体)に分けられるらしい。

 私なりに要点をまとめてみると、次のようになる。
  • 写実的物語(リアリスト・テールズ)
    観察者が、第三者的な視点から、対象を描こうとする時の文体。多くの民族史(フィールドワーク)では、この物語が採用されている。
    観察者の視点は絶対だが、観察者(=民族史の著者)の存在は、読者(=民族史の読み手)からは見えないように描かれることが多い。
  • 告白体の物語(コンフェッショナル・テールズ)
    観察者が、現場で感じたことを、自身の内面に焦点をあてながら記述しようとする際の文体である。「写実的物語」とは異なり、観察者(=民族史の著者)が物語の中心に位置づけられる。
    多くの場合、写実的物語の裏話を紹介するような文脈で描かれる。
  • 印象派の物語(インプレッショニスト・テールズ) 
    「写実的物語」と「告白体」の両方の特徴を併せ持ち、現場で起きたエピソードを回想的に描く際の文体である。
    印象派の物語では、何らかの知識を持つ(観察の対象、著者自身)とその知識の内容を分けず、意味の固定化を避ける。
 例えば、写実的物語の場合、著者は対象から知ったこと(あるいは知っていると思っていること)を題材として取りあげるが、その知識をいかに手に入れたかは明らかにされない。

 一方、告白体の場合は、著者自身に焦点が当てられるため、現場で知ったことが何なのかは描かれないことが多いとされる。

 両者に対して印象派の物語では、両者は一つに統合される。

 本書では、この3文体それぞれが紹介されているが、確かに、それぞれの印象はかなり異なる。民族史を読む時には、それがどんな文体(写実的?告白的?印象派的?)で書かれているのか。また、文体によって何が選択的に描かれていないのかを意識することは、確かに重要そうだ。

 なお、著者のジョン・アン・マーネンはMITの経営学の大学院の先生である。原書は非常に含みのある英文だが、翻訳書は非常に読みやすい。

 でも、易しい内容ではないです。誤読があったらごめんなさい。

読書メモ:エゴ・ストレングス(未来への記憶)

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

▼世の中、両立が成立しないことは以外と多い。何度か似たことを書いているが、仕事(学業・部活)と恋愛の両立はいにしえからの難題とされる。
 いよいよ後半戦がスタートしたらしい野球においても同様である。「阪神と巨人、どっちも好きなの」というのも、なかなか成立しなえない。少なくてもその歴史を知る人からすれば「邪道」と思われるだろう。

 「彼も好きだけど、先輩(上司)のAさんも好きになっちゃった…。私、どうしたらいいの?」と、戸惑う乙女心も、当人にとっては深刻な悩みである。いずれ彼やAさんを巻き込みどろどろ(×血中コレステロール値)な関係に陥る可能性は高いが、私の知ったことではない。

 私の場合は、一般には、ややマニアックなネタかもしれないが、質と量という両立しがたい軸がある。質的研究と量的研究、すなわちぶりぶり統計を使ってスマートにいくか、ナラティブで「厚い記述」(byギアツ)を目指すかの軸である(法則定立か個性記述か、という呼び方をしても良いだろう)。

 人によっては両立も二股もできそうな気もするが、原理的にもなかなか両立できないことも多い。両者とも、「私だけを選んで。お願い」と、熱きラブコールを送ってくるからだ(幻聴ではないので念のため)。

▼こういう時は、「他の人も、同じように悩んでいるんだ」という投影同一視的解決がてっとりばやい。私の場合、河合隼雄氏の発言に多いに支えられている気がする。彼はもともと数学出身だからだ。

 彼によれば(正確には彼の指導教員によれば)、実際的には「役に立たない」ような研究手法も、「エゴ・ストレングス」(自我の確立)ためには「役に立つ」という。ちょっと長いが、河合隼雄先生の「語り」は中途半端に要約するより、そのまま記した方が良さそうなので引用してみる。

 というわけで『未来への記憶~自伝の試み~(下)』より。下線は私。
 しかし研究して博士になるということは、いままでのいわゆる客観科学的な操作に基づいてやらなければいけないのですが、臨床心理の実際は本質的にはそれと異なるのですね。

 そうなると、なにか実験してみたり、あるいは調査をして統計をとったりする。そうすると数量的に出てきますね。それで仮説はこれであって、それを実験的に検証したらこういう結果がでてきた、というのを論文に書いたらPh.Dがとれる。

 ところがPh.D.をとるために研究した仕事というのは、実際に自分が臨床家になったときには、何の役にも立たないわけですよ。臨床家としては、人と人との関係が一番大事なんだから。

 それで、臨床心理の大学院生が集まってしゃべっているうちに、みんな憤慨しはじめたんです。われわれは何の意味もない研究をさせられている、われわれがPh.D.のために勉強していることは臨床家として役に立たない、ということになってきたんですよ。
 そこでクロッパー(注)が講義に来たときに、われわれはなぜこんなことをさせられるのか、それは臨床家となるために役立っているのかと質問したのです。そうしたらクロッパーは「役に立っている」と言うんですよ。なぜかと聞くと、「臨床家となるためのエゴ・ストレングスのために役立っている」と答えたんです。ぼくは感激しましたね。つまり、臨床家となるための強い自我を確立するためにはそれが要るんだ、そのこと自体は役に立たないが、とクロッパーは言ったのです。だいぶ騒いでいたアメリカの大学院生も、この一言で黙りましたね。(p55-56) 

(引用者注)ロールシャッハテストで有名な人
 私がやっているようなことは厳密には「臨床」的ではないかもしれないし、数量的研究が「役に立たない」とは思わないのだが(ぶるぶる、ぶるぶる)、最近、自分の関心は、研究室・実験室ではなく、日常的な実践の積み重ねの中にあるらしい、ということは分かってきた。
 おそらく私にとっては多様性や、重層的や、不確実性と、その両極の間で「揺れる」ことが魅力的なのであろう。中村雄二郎風にいえば、「コスモロジー、シンボリズム、パフォーマンス」と、「普遍、論理、客観」の軸か。 

 今回は、後者を重視せざるを得ないが、仕方があるまい。エゴ・ストレングスは、どこかでフラジャイル(by松岡正剛)につながっていると思えば良い。

▼話を戻そう。もちろんエゴ・ストレングスに役立つからといって、脈略もない二股はあまり好ましくないが(そもそも次元の違う問題を並べててしまう点に、私の問題はありそうだ)、この考えはここぞという時に「役立ち」そうだ。

 もちろん、「どうして彼は振り向いてくれないの」「自分の気持ちが分からない」で揺れる乙女に、「その悩みはエゴ・ストレングスに役立っている」と言っても役に立たない。安易に用いてはならないコトバではあるが(さもないと世の中の不条理に適用されてしまう)、支えにはなるだろう。

読書メモ:能力構築競争

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

概略
 日本の自動車産業がなぜ「強い」のかを、「能力構築競争」というコンセプトを用いて明らかにした本。ものすごく暴力的に要約してしまえば、日本の自動車産業は、製品開発力を向上させる組織的な「能力構築競争」を行ってきたことが、「強さ」につながっている、という論である。
 自動車産業の過去・現在・未来のみならず、日本の産業全体にも言及が多く、非常に見通しの良い入門書である。といっても単なる日本型経営や製品開発の礼賛本ではなく、個人的に得ることが多かった。

 マクロな組織論は素人なので、メモに書き出しつつ、私が本書を読んで興味深かった事柄を、以下3点にまとめてみた。

表層的競争と深層的競争
 第一に、組織間の競争や、組織の能力(competence)を二層モデルで捉えている点である。企業間の競争は、組織の能力間の競争である、というのが本書の立場なのだが、二層のうち「表層」的な競争とは、マーケティングやブランドなど消費者と直接接点を持つ競争のこと。一方、「深層」的な競争とは、製品開発や生産現場で行われる「深層」的な競争である。

 「能力構築競争」は後者の深層的な競争として位置づけられている。著者による「能力構築競争」の定義は次の通り。
企業が開発・生産現場の組織能力を切磋琢磨し、工場の生産性や工程内不良率や開発リードタイム(開発機関)など、顧客が直接評価しない「裏方」的な競争力指標における優劣を、まじめに、かつ粘り強く競い合うことである。(p13)
 このような深層的な競争が、自動車産業では積極的に行なわれており、かつ海外では模倣されにくかった、というのが本書の論点である。
 組織では「コア・コンピタンス」(core competece=中核的な企業力=ある企業が持つ独自の強み)は、よく知られている考え方だが、本書では「表層」と「深層」と分けたことで、分かりやすいモデルとなっている。

 なお、関連して興味深いのは、販売時の過剰な競争は、価格の低下につながることが多いが、深層的な競争が過剰になると、採算を軽視した「もの造り」になるという指摘も興味深かった。能力育成ばかりではなく、能力が過剰な場合に目を向ける必要も確かに ありそうだ。

情報論的、進化論的メタファー
 第二に、情報論・進化論的メタファーが用いられている点である。組織論で進化論的メタファーが用いられることは珍しくないし、間違った用法も多いのだが、本書は著者の定義が比較的明確である(個人的には、進化論メタファーの大半は、「進化」の意が<変異>していると思う)。

 本書では例えば、生産を「設計情報の転写」と見なしたり、組織の能力構築の原動力を「システム創発」「進化能力」と捉えている。著者による、能力を構築する能力としての「進化能力」の定義は次の通り。
進化能力とは、「システム創発」という混沌とした状況のなかで、なおかつ何があっても学んでしまうという、「しぶとい学習能力」である。長期にわたす能力開発競争では、失敗から学ぶ、意図した成功から体系的に学ぶ、意図せざる成功から学ぶ、他者の成功から学ぶなど、あらゆる機会から学習する能力が必要である。(p54-55)
 要するに、能力構築競争を行える企業は、組織の学習能力が高い、ということを言っているだけといえば、それだけの話である。 そもそも著者も、本書の中で「進化能力」が何たるか分かっていないと告白している。

 著者の仮説としては、「競争力に関して組織の成員が共有するある種の心構え(preparedness)なのだろう」(p198)とか、「何が起こっても最後には学習してしまうしぶとい組織能力」(p199)と書いているが、能力構築過程の詳細は、結局は、よく分かっていないようだ。
 もっとも、これが分かってしまえば誰も苦労しないのであるが、自分なりに考えるのに必要なヒントには満ちているとは言えよう。

 学習(システム創発)にあたっては、「事前合理的計算」「偶然試行」「環境制約」「企業者的構想」「知識移転」が行われている(p175-176)という指摘も興味深い。この図式化は、今後、私も使わせてもらおうっと。

自動車業界の特徴
 第三は、自動車産業の特徴がまとめられている点である。そもそも、なぜ組織的な能力構築競争が、自動車産業で行われやすいのか。

 著者によれば自動車が「統合(integration)的」な製品だからである。自動車に対して一般的なPCを例に考えてみれば良い。PCの場合は、個々の部品には多くの場合標準的規格が存在する。一般ユーザでも、少し知識があれば適当に組み合わせながら、自分で組み立てが可能だ。

 しかし自動車の場合は、部品間の相互性が非常に強い。すべての工程が密接に関係しており、「擦り合わせ」が求められる。このようなまとまりの良さを求められる製造業は、日本が強いらしい(ノートPCもそうだ)。

 オープン(業界標準の規格)とクローズド(囲い込み)、インテグラル(統合)かモジュール(組み合わせ)などの図式は、非常に分かりやすい。

 では逆に、なぜ日本では、この手の業界が「強い」のか、という点については、著者もいろいろ述べているが、第二に書いたように、分かっていないことも多いようだ(心理学的にも研究が進んでいるが興味深い文化差だ)。

 ちなみに中国では、部品を標準化するという技術が進んでいるらしい。
 これこそ優れた「進化能力」ではないかと思うのだが…。
家電やオートバイなど、日本企業が得意としてきた「擦り合わせ製品」を、イミテーションと改造の繰り返しによって、いつの間にか汎用部品(実はコピー・改造部品)の寄せ集めに近い、ある種の「疑似オープン・モジュラー製品」に変えてしまう、というプロセスが、中国ではよく観察される。(p355)
 この辺りの動きは、今後、興味深いところだ。

▼関連図書
 今回は触れていないが、その他貿易摩擦が能力構築競争に与えた影響や、トヨタの歴史、また自動車産業の未来像にも一章割かれており、この一冊で多くのことが分かる。入門書として<統合的><まとまりのある>本だ。

 コア・コンピタンスや組織学習について発展したい人は、本棚に行けば、たくさん本がある。定番中の定番は、
  • 野中 郁次郎・竹内 弘高 (著). 梅本 勝博 (翻訳)(1996). 知識創造企業.東洋経済新報社
 あたりでしょうか。『最強組織の法則』は、タイトルが大げさだが、組織学習に関する定番。『知識創造企業』は、日本企業の<強み>を「知識」という観点でまとめた本(世界的に知られる日本の経営理論)です。

 かつて『知識創造企業』には相当な影響を受けたのだが、組織論の知識もupdateしないとな…。説明しようとすると分からないことって結構多い。

読書メモ:自分時代はバカの時代

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

朝日新聞2003年7月10日(全国版)の文化欄に、吉岡忍が興味深いことを書いていた。私も常々、「世の中、バカが多すぎる」と思っている人が多すぎるとは思っていたが、吉岡によれば「自分以外はバカ」と思っている人が多いらしい。気配をそのまま伝えるため、少し長めに部分抜粋してみる。

 下線は引用者による。
 しかし、二十一世紀の初頭、不景気風の吹きすさぶこの国で個々ばらばらに暮らしはじめた人々の声に耳を傾けてみよう。取引先や同僚のものわかりが悪い、とけなすビジネスマンの言葉。友達の先輩後輩の失敗をあげつらう高校生たちのやりとり。ファミレスの窓際のテーブルに陣取って、幼稚園や学校をあしざまに言いつのる母親同士の会話。相手の言い分をこき下ろすだけのテレビの論客や政治家たち…。

 ここには共通する、きわだった特徴がある。はしたない言い方をすれば、どれもこれもが「自分以外はみんなバカ」と言っている。自分だけが分かっていて、その他大勢は無知で愚かで、だから世の中うまくいかないのだ、と言わんばかりの態度がむんむんしている。私にはそう感じられる。
(略)
 「大衆」という、自分自身もそこに入っているのかいないのかが曖昧な使いにくい言葉をあえて使えば、いまこの国は「自分以外はみんなバカ」と思っている大衆によって構成されているのではないか、というのが方々歩いてきた私の観察である。
 「そこに私は、この国がこれからいっそう深く沈んでいく凶兆を読みとっている」と結ぶ吉岡のトーンは暗い。ひたすら暗い。暗鬱だ。

 バカバカいっていると、きくぞー師匠みたいになっちゃうぞ、と言いたくもなるが、事態はそう楽観的ではないようだ。皆、オンリーワンにバカなのだ、と言うことにしておけば、少しは世の中も変わる気もしないでもないが…。

▼そもそも存在しない壁を実体があるように「見て」しまうのは、ハダカの王様の世界と同じだ。本当の壁は、そう簡単に見えはしない。

 星の王子様だって言っているじゃない。バカは目に見えないって。
 永遠にやってこない<白馬に乗った王子様>みたいなもんだよね。

読書メモ:トゥルーマン・ショー

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

▼昨日、BSで映画『トゥルーマン・ショー』(1998年アメリカ)(注)をやっていたので思わず観てしまった。実を言うと、昨日は昨日で『ガダカ』(1997年アメリカ)も観た。映画を続けて観るなんてかなり久々だ。
(注1)解説より引用「生まれた瞬間から、年中無休で、その生活ぶりを全世界にテレビで生放送されている青年トゥルーマン。本人だけが、自分の人生がすべてテレビ局に演出されているものだとは知らない。やがて秘密を知った彼は自分の運命を自らの手で切り開こうとするのだが…。」(略)
 ジョージ・オーウェルの『1984年』の影響を受けた私としては、いわゆる監視社会の未来だとか(巷でも防犯カメラが話題なようだが)、<見る><見られる>関係について、いろいろ考えさせられた。

観察バラエティー
 何度か日記にも書いているネタではあるが、私は、いわゆる視聴者参加型というか、観察バラエティー番組が苦手である。その代表格はフジテレビの『あいのり』だ(笑)。数ヶ月にいっぺん、たまたまタイミングが合った時に観ようとするのだが、いつも途中で止めてしまう。

 ついでに言うならば、以前やっていた日本テレビの『電波少年』も、苦手な番組の一つだった。見ると<もぞもぞ>するのだ(岡崎京子風に言えば「じりじり」か)。この手の番組に<もぞもぞ感>を覚える人は少数派かもしれぬが、今回、映画を観ながら、その理由が少し分かった気がする。

<見られている>という意識
 まだうまく言葉にできていないのだが、画面のムコウの登場人物の意識過剰というか、無意識過剰(by江藤淳)が見え隠れするのがどうも、どこかで引っかかるらしい(逆にいえば、私も無意識過剰ってことだ)。

 言い換えれば、登場人物に共感すればするほど、画面の登場人物の裏側にあるだろう心境~わたしは視聴者に<見られている>~が、見ている側(わたし)にまで伝わってくる気がしてしまうのだ。

 プロの役者さんでも、無意識過剰で<正体>が見えてしまう人は、たぶん私は苦手である。プロの役者は、本来、本性不明だから<役者>なのである(キムタクしかり、窪塚君しかり。女優では広末涼子なんかも)。

 社会心理学には、公的自己意識(他者から見た自己)とか私的自己意識(自分から見た自己)なんて概念があるが、<見られている自分を見ている自分>が、他者にどう伝わっているかは、なかなかの難問らしい。
<見られていない>という感覚
 そもそも、「見られて(監視されて)いるかもしれないし、見られて(監視されて)いないかもしれない」というパノプティコン(注2)に、進んで入ろうとする気持ちっていうのも、実のところよく分からない。

 じゃあ、あなたはなぜ(どういう気持ちで)Web日記を書いているの?
 と聞かれると困るのだけれども。

 監視カメラが偏在するような社会では、<見られている>感覚よりも<見られていない>感覚の方が、重要になってくるのかもしれない、とも思う。

 このあたりの事情は、社会学的には
  • マーク ポスター(原著) 室井 尚・吉岡 洋 (翻訳)(文庫)(2002). 情報様式論.岩波書店
 の解説で大澤真幸が、示唆的なことを書いていた記憶がある。他者と自己形成(あるいは自己の解体)は、いつまでも変わらぬ問題なのだろう。

読書メモ:「食」は病んでいるか

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

▼鷲田清一氏の新刊を読む。大半は、何かしらで読んだことがあるような内容だったが、妙に考えさせれる。
 大平建氏や中沢新一氏の、数ページのエッセイも、鷲田氏の解説と合わせて読んだら、あまりの迫力に「圧倒」されてしまった
 うまく「咀嚼」できていないので、しばし時間を置いてメモを書こう。

▼鷲田清一氏が引用していた『人間の限界』を早速発注してみた。
 「吟味」について考えるのに、重要なヒントが得られそうだ。
その他に人間的な「吟味」のできないものとしては、老年性痴呆症の患者などの「食べることしか楽しみのない」生活をあげることができる。また精神病院での食事のもの悲しい光景は、ひごろはのろのろと動いている患者たちの恐ろしい速度の「早食い」である。また精神分裂病者は老年性精神病者(原文ママ)における、食物に毒が盛られていると確信している被害妄想は、人間学的には信頼というものの喪失のすさまじい表現に他ならない。
(上記は『「食」は病んでいるか』からの孫引き。p16)
 恋人であれ、友人であれ、どんな関係であれ、「一緒に食事を楽しむ」ことができなくなったら、終わりだな、と思う時がある。関係が根付いていれば、次の食事のプランを立てるだけでも楽しいだろう(何を料理するかを考えるのはもっと楽しい)。実際、何を食べに行ったとしても、美味しく感じるはずだ(それがマクドナルドだろうと、吉野屋(×吉田屋)の牛丼だとしても)。

 こう書くとあまりに常識的ではあるが、「吟味」っていうのは優れて、共同的な営みなのだろう(関係があってはじめて吟味が可能になるわけだし)。この辺り、もうちょっと掘り下げて考えて見ても良さそうだ。

 ちなみに「吟味」は私が好きな言葉の一つである。Reflection(反射・内省と訳されることが多い)を「再吟味」と訳した人は偉大だ。

▼なんてことを考えながら、ふと思ったこと。

 最近よく見かけるダイエット食品に、「カロリーの吸収をカットしてくれる」というな薬がある。一時、テレビコマーシャルも頻繁に流れていた。類似品も多いようで、電子メールでもダイレクトメールがかなり頻繁に送られてくる(楽天の「くじ」に応募したせいかもしれない)。

 以下、食事中の方には恐縮だが(日記を読みながら食事する人はいないか?)、私は、あの広告を見る度にローマ末期の話を思い出す。
 「食べるために吐き、吐くために食べる」という、世も末現象である。
 (現代版としては、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』かしら)。

 「別にいいじゃない」といえば、その通りかもしれない。私も何度もやってるので人のことを言えないのだが、この感覚はマクドナルドで食べきれなかった分をゴミ箱に捨てるのと似ているのかもしれない。
 捨てるくらいなら注文しなけりゃいいのに!と分かってはいるのにね。

 捨てる時は「もったいないおばけ」が出てきて、人と食の「非対称性」にそれなりの制裁を加えるものだが(もっとも、その存在も最近希薄だが)、カロリー吸収の薬を飲んだ時は、どんなおばけが出てくるのだろう。
 もっとも、あの薬自体「おまじない」みたいなものなのかもしれないが…。

読書メモ:実践ネットワーク分析

▼オリジナルは2003年7月に書かれたものです。

▼安田雪(1997)('2001)『ネットワーク分析』と、『実践ネットワーク分析』を読み直す。一時、ネットワーク分析で生きようと思っていた時期もあって、いろいろ勉強したのだが、諸事情により取りやめたのだった。

 今回の読書メモは、ネットワーク分析の紹介(注1)ではなくて、『実践ネットワーク分析』で触れられている、社会学的な理論構築技法について。実は本書は、理論構築法に関する優れた解説書になっているのだ。

 私は、ずっと前(といっても1999年)遠隔授業の先駆けWIDEのSOIで安田雪先生の授業をこっそり受講していたのだが、本書では、その授業内容の一部が活字になって、より分かりやすく説明されている。

  • http://www.soi.wide.ad.jp/class/99001/
    久々に授業を見た(99年のコンテンツも保存されているのがありがたい)。eLearningって、この手の技法系では有用かな、と思ったりもする。ただし、音声が聞き取りにくい箇所が多く、真剣に聞こうとするとストレスがたまるのが難点。

 お恥ずかしい話だが、私は、学部時代、いんちき学生だったので、大学院に入ってSOIの授業を通して、「変数」「概念」「定義」「理論」「命題」「仮説」「作業仮説」といった概念の重要性を知ったのだった。

▼というわけで、『実践ネットワーク分析』から、該当部をさっくりメモ。

  • 変数=特定の変化する質的・量的特性をもつもの(p28)
  • 概念=対象を抽象的にとらえる言葉(p28)
  • 定義=特定の事実群に、科学的な取り扱いのために必要な意味的限定を与えること(p28)
  • 理論=論理的に整合性のとれた単数、ないしは相互に関連する複数の論理的命題(p24)
  • 命題=複数の変数の関係を論理的に述べたもの(p24)
  • 仮説=理論から論理的に導き出しうる命題(p24)
  • 作業仮説=仮説における命題が含んでいる概念の抽象度を下げ、具体的にその真偽を検証できる内容に表現し直した言明(p25)

▼本書では、命題の立て方がデュルケームから引かれていて、これも参考になる(知っている人には、当たり前のことでしょうけど)。例えば、次の文章を、変数と変数の関係に置き換えると、命題1、命題2のようになる。

社会の統合が弱まると、それに応じて、個人も社会生活から引き離されざるをえないし、個人に特有の目的がもっぱら共同の目的にたいして優越せざるをえなくなり…」
(デュルケーム.1897:1980. p156) 
  • 命題1 社会統合が弱まると、個人は社会生活から引き離される
  • 命題2 社会統合が弱まると、個人に特有の目的が共同の目的よりも優越する。

 これをベースとして、さらに置き換え(レベルの移行)を行うこともできる。例えば、「社会の統合」を、他の概念に言い換え=限定を加えて、「家族」や「組織」や「地域」に置き換えると命題1は、次のように変形される(p30)。

  • 命題1a 家族の絆が弱まると、個人は家庭から離れて行動することが多くなる
  • 命題1b 経営者と従業員の絆が弱まると、従業員は会社生活に関心が薄れる
  • 命題1c 地域共同体の統合が弱まると、個人は政治に関心を失う

 同じく命題2を、「家族」「組織」「地域」で言い換えると次のようになる。

  • 命題2a 家族関係が弱くなると、個人の目的が家族全体の目的よりも優先される
  • 命題2b 経営者と従業員の関係が弱まると、従業員個人の利益が会社全体の利益よりも優先する
  • 命題2c 町内住民の人間関係が弱まると、住民個人の目的が町全体の目的よりも優先される。

 こうやって変数の範囲を、狭めていくことで、検証可能な理論を作っていける、という考え方は、なかなか興味深い。

検証可能な作業仮説を作成するためには、理論命題の抽象度のレベルを下げ、理論命題に含まれている変数に具体的な限定を与え、社会の事実として可視的な作業定義を与えることが必要なのである(p30)。 

 しかし実際、抽象度を上げるとか下げるとか、説明変数は何で、被説明変数は何なのかとか(あなたはどの変数に注目したいのか)とか、物事を関係論的に捉えるっていうのは、結構難しい(私も時々混乱する)。

 言われてみれば当たり前なのだが、なかなか自分一人では言語化が難しいし、練習が必要な手続きかな、と思ったりもする。 というわけで、「自分で命題をつくってみよう」演習編のテキストを書かねば…。

 (注1)ネットワーク分析とは「人間関係から組織の関係、インターネットのような情報交流網まで、あらゆる「関係」をとりだして、その要素間のつながりや情報の流れ、権力関係を分析するためのツール」である(本書解説より)。 

読書メモ:理系白書

▼オリジナルは2003年6月に書かれたものです。

▼毎日新聞で連載されていたらしい『理系白書』読んでみました。

  • 毎日新聞科学環境部 (2003). 理系白書. 講談社

 私なんかは、理系白書…とかいうと、つい『理系のための恋愛論』なーんて本を思いだしてしまうのですが、本書によれば「理系」は、就職市場でも、教育市場でも、恋愛市場(とくに男性)でも、不利なことが多いらしい。

 なかなか深刻な状況なのね…(一部上記にはウソが含まれてます)。

▼確かに、『プロジェクトX』を見てても、理系の人々は、連日、試練続きなことが多い。工場に寝泊まりして、家にちっとも帰れなかったり、妻に泣かれたり(たいてい結婚はしてるのは気のせいか?)、大変そうだ。

 それに比べて、「文系」は何だ。『つりバカ日誌』なんぞ見てたら、オレでさえ、一発、営業やろうかな、とか思っちゃうほどだ(比較になってないって)。

▼というわけで、「理系」の皆さん。今こそ立ち上がる時です。敵の苦手分野は、数学…といいたいところですが、最近では「シミュレーション」でしょう。相手の予測の甘さを、ズバっと指摘すれば完璧です。
(その前に、『理系白書』を読み込まなくっちゃいけないかな)

 というわけで、「文系」の皆さん。今こそ、ビジネスチャンスです。私の予測では、これからは「理系」をターゲットにした商品が売れそうです。『理系のための恋愛論』や、経営戦略入門に続いて、「理系のための心理学」「理系のための社会学」「理系のためのワイドショー講座」など開発しませう。

 ちなみに私は、文系・理系のちょうど「・」なので、両者の敵でもあり、両者の味方でもあります。仲良くやりましょう。いぢめないでくださいね。

読書メモ:理解できない他者と理解されない自己

▼オリジナルは2003年6月に書かれたものです。

▼久々に再読。2001年の3月の出た時に読んでるから、ほぼ2年ぶり。

 本書の指摘で重要そうなのは、例えば、次のような箇所だろうか(本書のp238~239から引用・編集。括弧内は引用者が勝手に命名)。

  • 「理解できない」他者を「理解できた」状態に変えなければ他者と共に生きることができないならば、他者と共に生きることは私たちにとって単なる苦痛でしかない。(相互理解の暴力性?)
  • 「理解できない」状態を「理解できない」状態のままにして他者と共に生きていくこと(引用者注:方法?)を模索すべき。(判断保留?)
  • 「理解できない」他者を「理解できない」他者として受け容れた上で他者と共に生きていく方法は、(略)、他者を受け容れた上で他者に対して主張することなのである(「賭け」としての他者受容?)
 要するに、理解しえない他者と出会った時に、無理に「相互理解」を目指すのではなく、「理解できない」ことそれ自体を受け容れることの重要性を指摘しているのだと思われる。

▼言いたいことは分かるのだが(受容)、そもそもいったい、なぜ「理解できない」ということが理解できるのか、そこで私はつまずくようだ。

 2年前のメモにも、「理解できないって何?」と記してあり、あまり理解は変わっていない。さらに、今回は、そもそも著者の言う「理解」が何なのか分からないし、「受け容れる」という概念も、いまいちぴんと来なくなっている。

 確かに、他者を<理解しなければならない>と強迫的にとらえている人にとって、本書のような主張(相手を理解することを目指すのではなく、「理解できない」ということを理解する)は、意味のあることかもしれない。

 しかし、かといって、目指すものが他者や、他者を理解できないことの「受容」では、本質的に何も変わっていない気がしてならない。受け容れられないものと出会った時、人はどうすれば良いのか。

 私としては、橋本治の『「わからない」という方法』のように、理解できない=「わからない」を方法論的に捉える方がしっくりくる。
 何よりも受け容れる必要がありそうなのは、自分自身の<わからない>感じであり、それ以上のものはない気がする。その上で、<わからなさ>を何かしらに応用するのが、より現実的な「戦略」ではなかろうか。

 なお、再読の収穫は、初めて読んだ時にはよく分からなかった「ゲーム理論」や、社会心理学的な「信頼」論の理解が得られた点だろうか。本書は、ゲーム理論や、コミュニケーション理論のよき入門書になっている。また何年か経ったら、読み直してみることにしようっと。

▼追記
 以前、私は、この手のバリバリの理論系の本を読むことが出来たが、最近、どうも論を慎重に追っていくだけの体力を失ってしまったようだ。読んでいる途中で、まどろっこしくなってしまうのだ。

 私自身の本質的な興味はあまり変わっていないはずなのだが(もちろん、これも少なからず変化しているが)、いつの頃からか、何かしら臨床的というか実践的というか現場感覚を含む研究に関心が移っているようだ。

読書メモ:お姫さまとジェンダー

▼オリジナルは2003年6月に書かれたものです。

▼若桑みどり氏の新書『お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』を読む。いわゆる昔話のジェンダー論的読み替え本なのだが、久々に、コテコテというかベタなジェンダー論を読んだ気がする。
 著者が題材として取りあげているのはディズニーアニメ版の『白雪姫』『シンデレラ』『眠り姫』の3作品。
 どれも典型的な「シンデレラストーリー」である(シンデレラストーリーっていうのは、「他力本願」「ゴールは結婚」「女の敵は女」な物語のこと)。

 著者の主張は極めてシンプル。この手のシンデレラストーリー=シンデレラ・コンプレックスにとらわれた人々を解放するのが本書の狙いらしい。なんてったって最終章の副題は「お姫様、自分で目覚めなさい」だもの。

 確かに主張は分かる。ジェンダー論の意見には同意したい点も少なくない。しかし、本書は入門書だとしてもロジックが甘いような…。

▼意図的に狙っているにせよ、シンデレラストーリーのみに焦点をあてているため、論が偏っている印象を受けるし、何よりもジェンダー論の全体像が見えにくい。結果的に誰に向けられた本(若い女性?おじさま?)なのかも、私なんかは、読んでいるうちに分からなくなってしまった。

 メディアリテラシー的にも、いい題材なような気がするのにちと惜しい。個人的には若桑先生のような「目利き」が、『千と千尋の神隠し』をはじめとする宮崎駿作品をどう解釈されるのかが、気になるところである。

 なお、さらに私が分からないのは、シンデレラストーリー的な大きな物語の後に来るべき世界のあり方である。目覚めることは良いことなのかもしれないが、それはそれで生きやすい世界とは限らない。

 一人ひとりが物語を持つことが期待されるのだろうが、シンデレラストーリーよりさらに安易な「大きな物語」に飛びついてしまう人もいるかもしれない。その危険性も含めて検討しないと、問題を見過ごしてしまいそうだ。

▼この手の本では、↓が分かりやすく、全体像が見えやすい気がする。
 個人的には、斎藤美奈子本に影響を受けたところが大なんですけどね。
 分析・検討の仕方をどう洗練していくかも、考えなくっちゃね>自分。

読書メモ:生きるヒント

▼オリジナルは2003年6月に書かれたものです。

▼先日、某所で偶然、目撃したせいか知らぬが、今日、夢の中に、五木寛之が登場した。いつぞやの上野千鶴子の夢といい、なんだか妙な感じである(どちらの夢も、悪い夢ではなかったけれどね)。

 五木寛之のエッセイは新聞や雑誌記事でよく見かけるが、考えてみれば、ちゃんと手に取ったことのある著作は『生きるヒント』だけである。しかも予備校時代のことだから、今から遙か10年近く前の話。

 夢に出てきたのも、何かの縁なのだろう(五木寛之風)と思って、10年前に読んだ本を本棚から取り出してみてびっくり。
 何カ所かメモ書きはしてあるし、線も引いてある引いてあるのだ(笑)。

▼『生きるヒント』は、「歓ぶ」「惑う」「悲む」「買う」「喋る」「飾る」など、12個の動詞をキーワードにしたエッセイ集である。確か、それなりにベストセラーとなって、その後、何冊か続編が出ていた記憶がある。たぶん私は、小論文の書き方を学びたくて、手に取ったのだろう。

 しかし、傍線やらメモをたどって読み直してみて、またびっくり。当時の私は、「知る」「占う」「歌う」の3項目がとくに気になっていたようなのだが、今の私の関心とそれほど違わない。
 っていうか線を引きそうな箇所はほとんど一緒(笑)なのである。

 線を引っ張ってあったところを引用してみた。まずは「知る」(7章)から。
知る」:しかし、私たちは日々、なにか小さなことを知ることによって、生きる歓びや自信をもつことができる。また、生きる方向を見つけ出すことができる。それとともに<知る>ことによって、より深い悲しみ、より深い絶望、より深い困難におちいることもある。また、知ることがかえって虚心に物事を見るための大きな障害となることもある。そんな難しい存在が、<知>というものの実体なのです。(p163)
 今の私なら、プラトンのメノンのパラドックスの話だとか、心理学ならばステレオタイプ形成なんかをの話題を、連想しそうな話題である。
 どうやら、五木寛之を読んでも、何を読んでも、私は、「知る」ということの謎につまずいてしまうことが多いらしい。

 続いて「占う」(8章)から
占う」:どんなに近代的な自我とか意識的な人間であっても、やっぱり心の中に古代人の超自然的なものに対するおそれというものを抱いていることなのだから、そのことをちゃんと認めた上で、たとえば科学を論じたり、社会を論じたり、あるいは芸術を論じたりすべきじゃなかろうか、という気がするんです(p185)
 最近、私は妙に文化人類学に関心をもっているのだが、そのルーツは「占い」にあったのかもしれない。
 考えてみれば(誤解を招くかもしれないけど)、「占い」を、予測や推測、推論の一種と捉えれば、十分、認知心理学的な研究になりそうだ。

 メモから察するに、昔っから、「科学」「社会」や「芸術」を切り離さないで考えたいって野望のようなものはあったのだろうな。

 もう一つは「歌う」(10章)から。
歌う」:日本でも<言霊>という言葉があって、単に言葉が意思伝達の手段ではなく、大きな宗教的な、あるいは霊の世界に属するような力を持つものとして尊ばれてきたわけですが、今度の録音のときに、あるゲストが言った言葉をぼくは非常に興味深く聞きました。(略)それは、言葉より先に歌があったのではないか、という説なのです。(p219)
 今の私風に言い換えれば「言葉を超越」したもの(言葉を越えた何か)、中村雄二郎風にいえば「汎リズム論」のような概念に、以前から関心を抱いていたらしい(実際、読書の次の趣味は、音楽だし)。

 思い返すに、予備校時代は中村雄二郎の『臨床の知とは何か』や、『術語集』を愛読していたような気もしないでもないので(小論文対策に、あちこちで中村雄二郎本が推薦されていたのだ)、五木寛之を読む時も、中村雄二郎的な文脈で読んでいた可能性は高いかもしれない。

 その後、五木寛之を読むことはなかったけれど、当時はそれなりに<何か>を考えさせられていたんだろうな、とちょっと懐かしく思ってみたりもする。

 卒業アルバム的な懐かしさ?に近いのかしら。

 10年前に読んだ本も、使いようによっては、ポートフォリオのリソースの一つというか、「考古学」的な捉え方が可能なのかもしれない。 

▼もしかしたら「知る」「占う」「歌う」が、私の中核的概念なのかも、と思ってみたりもして。「踊って」「歌って」「飲める」みたいなノリだが、ちょっと誤解を招きそうな気もしないでもない。

読書メモ:病いの語り

▼オリジナルは2003年6月に書かれたものです。

▼「物事にはさまざまな側面がある」なーんて言われるまでもないことだが、自分と関わりのない分野や事柄は、多様性や多面性を見逃しがちである。「病気にはillnessとdeseaseの2つがあるよね」ってことは、言われれば分かるような気がするが、普段は気にも留めなさそうだ。
 実際、「病い」(illness)と「疾患」(disease)は、異なる意味合いを持っているらしい。「病い」は病気の個人的な意味、個人的な経験を指すのに対して、「疾患」は病気の生物学的側面を指すのだそうだ。「病い」の方が、「疾患」よりも社会、文化的な意味合いが強い、ということになるのだろう。

 クラインマンという医療人類学者(聞き慣れない職業名だね)によれば、「病い」は4つの意味に区分できるそうだ。
  • 症状自体の表面的な意味
    日常的に用いられている「病い」の意味である。たとえば、今日は「食欲がない」といえば、心配事があるんじゃないか、とか、落ち込んでいるんじゃないか、と多くの人は思うだろう。
  • 文化的に際だった特徴をもつ意味
    「表面的な意味」と比べて、文化的・社会的背景の意味あいが強い病いである。最近ならばSARSが典型になりそうだ。
    SARS自体は、ただの感染症に過ぎないが、既に過剰な意味が付与されている。例えば、私が「香港」や「台湾」あるいは「トロント」に旅行に行くといえば、過剰な反応を呼び起こすだろう。
    病いもまた社会・文化的な背景を持つらしい。
 この2つは社会・文化的な意味あいだが、以下の2つは個人的、あるいは個人をとりまく関係の中で生じる意味である。
  • 個人的経験に基づく意味
    その人にとっての病いの意味である。個々人の歴史(ライフヒストリーあるいはストーリー)の中で位置づけられる意味合いである。その時々のその人を取り巻く出来事と、結びつけられながら構成される。
  • 病いを説明しようとして生ずる意味
    自分自身や他者に対して、病いを説明する際に構成される意味である。人は「病い」に対して何かしらの説明をしたくなるものである。原因は何なのか、なぜ今、病いにふせているのか、なぜ私なのか…などなど、考え始めれば尽きない。
 「病い」に限ったことではないが、自分にとっての意味、自分をとりまく関係の中で生まれる意味、日常的な意味、さらに社会、文化的な意味など、多層的な意味のあいだでどうやって折り合いを付けていくかは難しい問題だ。

 意味の構成を「織物」にたとえたくなる理由も分からないでもない。

読書メモ:ナレッジマネジメント5つの方法

▼オリジナルは2003年6月に書かれたものです。

▼6月1日からお送りしている「よくわかるナレッジ」シリーズの最終日(連載ものだったのか!)では、読書メモとして最近出たばかりの『ナレッジ・マネジメント5つの方法』を取りあげてみよう。
 組織やチームの知識の共有方法に関する本である。業界用語的には「知識移転(transfer)とも呼ばれているらしい。このtranferという言葉はなかなかクセモノで、業界によって訳語や概念が微妙に異なるようだ。まず、私がある程度知っている分野について、概念を整理してみた。

▼学習や教育の分野で「転移(transfer)」といえば、ある状況で学んだ知識を、別な状況で(新たな学習のために)用いるはたらきのことを指す。

 「学校で勉強したことって、生きていく上ではあまり役に立たないよね」という嘆きを、業界風にとなえるならば、「学校で学んだ知識って、他の状況には転移しにくいんだよね」という嘆きになる(はず)。

 このあたりの事情は『授業を変える』に詳しい。
 誰もが学校で学んだ知識は、卒業後、あるいは日常的な状況で応用可能であって欲しいと願っているはずだが、実際的には、知識の転移は難しいと言われている。知識にはある領域があり、状況や文脈が異なると、以前学んだ知識をうまく活用できなくなってしまうのだそうだ。
 かといって先行する知識(既有知識)がなければ応用もできない。

 この制約を、いかに乗り越え、用いるかはこの業界でも課題のようだ。

▼臨床心理の世界で「転移(transference)」といえば、クライエントがカウンセラーに向ける感情やイメージのことを指す。逆に、カウンセラーがクライエントに向ける感情は「逆転移(counter transference)」と呼ばれている。

 フロイト派やユング派や、ラカン派など、立場によっても「転移」の捉え方は違うらしいのだが、「転移」は重要な治療プロセスである。

 一般に、クライエントは自身の感情を内に抑圧したことが、何らかの症状につながっていることが多いとされる。このような無意識的な抑圧が何らかの対象(例えば、カウンセラー)へ向かい、表出されれば(すなわち転移が生じれば)、結果として自身の内なる感情への気づきにつながる。

 否定的な感情が転移された際などは困難もともなうが、「転移」は、多くの場合、治療的な意味を持つことも多いらしい。
 私が、最初にきちんと読んだ臨床の本が河合隼雄なので、この辺りの事情は、河合隼雄的なユング、ユングからみたフロイト理解に寄っている部分が大きい気がする(ラカン的な転移ならば、ジジェクの『快楽の転移』あたりが分かりやすい。ラカン的な転移はまたニュアンスが異なる)。

 オンラインセラピーでは臨床的転移が生じにくいという話もあり(『インターネット・セラピーへの招待』)、転移をどう捉えるかは意外重要な問いかも。

 なお私、あらゆる領域でそうなんですが素人理解が多いので、説明が間違っていたらごめんなさい(ご教示いただければ幸いです)。

▼経営や組織論の世界では、転移ではなく「移転(transfer)」と言うことばが使われる。移転されるのは、広義の「知識」だが、言葉化しうる=形式知や、身体的・言語化しにくい=暗黙知の両者が含まれている。

 過去のノウハウを今にどうやって活かすか、あるいは、あるチームで得た成功(ベストプラクティス)をいかに他のチームに伝え、共有していくかは、どのような業界であれ非常に重要な問題だろう。

 私も、広義の「Tranfer」に関心があるので、組織論の文脈でも、いろいろ本を探していたのだが、ようやく組織論の世界でも、知識移転に関するよくまとまった本が出た(正確には出ていたことに気づいた)。

 やっぱり研究している人はいたのね…先を越された感じだわ(笑)。

▼教育・学習の文脈の「転移」の多くが、<個人>と<知識>の関係を描き、臨床心理や精神分析的な「転移」が<人>と<人>との関係を描いているのに対して、組織論的な「移転」は非常にダイナミックである。

 知識が転移される対象は、個人、チーム、組織をまたいでいるし、最近は電子化が進んでいるために空間的にも幅は広い。知識の創造、共有、蓄積など、時間軸な軸も重要である。実践は、なかなか複雑な世界だ。

 にも関わらず、本書では、知識移転プロセスが5つの類型にまとめられていて、非常に分かりやすい。その5つとは…うーむ。唸らされるわ。

 原題はCommon Knowledgeである。個人、チーム、組織など広い次元での「知識共有」に関心のある人はもちろん、ナレッジのコモンズ化に関心のある人にとっても、参考になりそうだ(ホントだったら秘密にしておく本かも)。
 個人的には、異なる「学問領域」間のコンセプトの<転移><移転>プロセスに関心を持った。本書も原点は、状況論的な知識観にあると思われるし。

 というわけで今月は、もうちょっとナレッジ週間を続けようっと。

▼ちょっとおもむきは違うが似た概念として「ミーム」をあげられるのかもしれない。進化論的概念である。もとをたどれば、RNAだってtransferしてるし。ちなみに辞書によれば癌の転移は、a metastatic carcinoma と表記するらしい。物理の相転移は phase transition と表記するとのことだ。

 ウィニコットの「移行対象」はtransitional objectなんだそうだ。
 何かこのあたり重大な秘密が隠されていそうだな。
 「transfer」は非常に興味深いコンセプトであることに違いない。

読書メモ:なぜ教育論争は不毛なのか

▼オリジナルは2003年5月に書かれたものです。

日々是変化
 教育を取り巻く動きっていうのは、日々変化が激しいようだ。

 ついちょっと前まで「ゆとり教育」やら「生きる力」やなんてことが言われていたと思ったら、最近では「学力低下」が表面化し、「確かな学力」なんてことが求められているのだそうだ。しかも、「国を愛する心」なんて理念も、教育基本法の改正にあたって掲げられているらしい。

 個人的には、「国を愛する心」ではなく「国に恋する心」の方が適切ではないかと、恋に恋して止まない乙女としては(誰だよ、それ)主張したいところだが、まあ、そんなことはどうでもいい。

根拠と評価
 私は常々思うのだが(すべて苅谷先生の受け売りであるが)、何かを変えるならば(何かを改革、変革したいならば)、その「根拠」の提示と、変化にあたっての「評価」を行わねばならないはずだ、と思う。

 例えば、髪型を変えたり、髪を初めて染めた時のことを考えてみよう。自分の身の回りの人は、なぜ?と聞くだろう。その時、人は何かしら返事をすることが期待されている(時に必要以上に詮索される)。

 本当の理由は誰にも分からないものなのかもしれないが、「気分転換」とか「イメージチェンジ」にせよ、何かしら言葉を交わす必要はあろう。

 髪型を変えたり、染めてしばらくは、「変化」を自分でも意識することが多いはずだ。彼氏・彼女に褒められたとか、イメチェンしたその日、運命の人に出会えた(笑)、「軽く見られるようになっちゃった」とか「やっぱりわたしは私だわ」などと、自分なりの物語をつくるものである。

 やがて変えたこと自体、意識的には忘れ去られるんだろうが、それでもその記憶は、次の変化の時に活かされることが多いはずだ。

捉えにくいからこそ
 しかし、だ。身近なところでは、自己評価や他者からの評価を気にしていたとしても、ちょっとスケールが大きくなると、途端にそれがうまく機能しなくなることがある。確かに、「構造改革」くらいになると、どう評価していいか難しいし、分かりにくいものだし、そもそも捉えがたいものかもしれない。

 でも、だからこそ印象論ではなく、データの積み重ねが必要である。過程も踏まえて、自分なりの物語が作れるだけの資料が欲しい。

 改革の結果、何が本当に変わったのか、事前の予測と事後の変化の間にどんな関係があって、どんな意図せざる結果が生じているのかを何らかの方法で捉えなければ、働きかけた意味がない気がする。

 でも、評価の重要性ってなかなかその意義が伝わらないんですよね。
 なんでなんでしょう。

で、読書メモ
 なんてことを、『なぜ教育論争は不毛なのか―学力論争を超えて』を読みながら思ったりしたのでした。

 しかし、苅谷先生によれば、教育の世界ではなかなか現状は変わっていないようだ。評価が問われないポジションって、本当はあり得ないはずなのに、政策的(文部科学省に対する)評価っていうのは後回しらしい。

 例えば、最近の「確かな学力」政策についても、結局、絵に描いた餅政策っていうのは変わっていないらしい。

 本当にできるかどうかは別として、そうなればいいという楽観的な見方をもとに、ここでも美しい世界を描き出そうとしているのだ。具体策は各学校や教師の「創意工夫」に任せて、国は大枠を示すにとどまる。評価が問われないからこそ、実現可能性を考慮に入れずとも、改革の大枠を示すことができる。この構図は「生きる力」の教育改革と同じである。(p281)
 単に理想を描くだけでなく(もちろん、理想を描くこと自体は否定されるべきことではない)、それをいかに実行し、その達成の度合いや結果を評価するという、評価とフィードバック(p284)をどのように行い、いかに浸透させ、定着させていくかは、今後ますます重要になるのだろうな。

 政策的な議論っていうのも<評価>を考える上でヒントになるのかもしれない。ってことで、今度は政策系の本も読んでみよう。
 世界っていうのは、知れば知るほど奥が深くなってゆくものだ。

▼ちなみに本書は、前半は中井浩一氏インタビューによる語り下ろしになっていて、後半はこれまで各種論壇等の記事をまとめたもの。最後に、書き下ろしの論考が付されている。最後を読むだけでも参考になる。

 本書でも、階層化論(説明すると長くなるのだが、学業成績と社会階層とは関係があるっていう話)に触れられているが、詳しくは以下を参照。

 いつか私も、これらを正確にまとめられる程度の理解を得たい。

読書メモ:自由を考える

▼オリジナルは2003年5月に書かれたものです。

管理とか監視とか
 最近、ちょっとした雑文をまとめるにあたって、「管理」とか「監視」、あるいは「見る」「見られる」関係について考えている。

 例えば、Web日記のアクセスログをどう捉えるか?という問いは、私も、時々、悩まされる問題である。

 私は、それなりにテクノロジーを「使える」位置にいるので(最新の技術を教えてくれる人がまわりにたくさんいるし)、Web日記のアクセスログの分析も、<本気>でやれば、必要以上に、いろんなことが分かったりする。

 アクセスログの最も基本的な情報は、ある利用者(具体的に「誰」ということは分からない)の訪問数や閲覧した時間である。
 私自身も、どのコンテンツが、どの程度、閲覧されているかという情報は、日記を更新するにあたって、参考にさせてもらっている。

 もうちょっと高度になると、訪問者IDを記録することで、訪問者を匿名的に特定することが可能になる(具体的に「誰」ということが分かるわけではない)。訪問者IDを利用することで、ある利用者のコンテンツごとの利用傾向や、訪問頻度の把握ができたりする。

 さらに、これとIPアドレスの分析と組み合わせると、利用経路の把握もできなくはない。例えば、訪問者IDが同じで、かつ訪問経路が違うと「今、仙台に出張中なのかな」とか、「4月から所属が変わったのかな」なんてことが分かったりする(繰り返すが技術的には個人名は特定されない)。

 ちなみに私は、訪問者IDを日常的に取っていないので念のため。

紙一重の問題?
 この手の技術をご存じない方に、上記のような話をすると、必要以上にびっくりされてしまうことがあるが、例えば、「amazon.co.jp のお勧め機能と同じようなもんだよ」と説明すると、理解してもらえることが多いようだ。おおよそレベルに違いはあれど、アクセスログを解析していない企業は存在しないはずである(さもなければサイトの自己評価・点検が不可能になる)。

 しかし、どこか釈然としない部分が残る。

 なぜなら利用者の利便を高めるための情報の「把握」と、利用者の「監視」は紙一重だからである。極論だが、私は、Web日記を公開することで、一歩間違えば、「逆ストーカー」になれなくもないわけで。
(もちろん、Webサイトを利用してくれないと何もトレースできないし、個人を特定することは容易ではないのだが)。

 今や、個人でも、そういう技術を行使できるようになった、あるいは、逆に常にそういう情報を知らぬ間に第三者に提供している可能性がある(そのことによって利便性を得ているが、何かを失っている)ということが、いったい何を意味するのか?考えれば考えるほど、難しい問題だ。

 オンライン上での利用者のプライバシーと自由、一方で、利便性やセキュリティのバランスをどう捉えるか、重要な問いであることは間違いない。

5年後、10年後
 この手の問題を考えるにあたっては、中央公論連載中の東浩紀氏の「情報自由論」や、『自由を考える』が、重要な指摘に満ちている。

 上記のような問題は、実は「権力」に関わる問題らしい。

 これまでは「権力」と言えば、上から与えられるものだと考えられていた(『1984年』の世界である)。しかし、これに対して最近では、環境に埋め込まれた新たな権力が登場しつつあるらしい。
 東氏は、両者に「規律訓練型」「環境管理型」という言葉を与えている。

  • 規律訓練型権力
    ひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける(価値観の共有)
  • 環境管理型権力
    人の行動を物理的に制限(多様な価値観の共存を認める)

 規律訓練型の権力とは、要するに、要するに、一つの価値観(大きな物語とも呼ばれる)を皆に共有させようとする試みのことである。

、大澤氏が分かりやすく解説しているのでそれを引用してみよう。

学校でいちばん重要なのは、個々の教科を教えることではなくて、今、聴衆の皆さんが僕たちの話を静かに聞いているような、こういう態度を形成することである。(略)そういう態度をとれるようになるのは、「学校化」のおかげなんですね。(略)このように、内面から自己規律しうる主体を形成するのが、近代的な権力を構成するひとつのベクトルだった。(p36-37)。

 学校(学校化)に限らず、社会(社会化)は多かれ少なかれ、「規律訓練型」によって成り立っていることが多い。

 一方、環境管理型権力っていうのは、目に見えにくい(環境に埋め込まれている)タイプの権力である。説明として興味を引くのは『マクドナルド化する社会』に登場する、「イスの硬さ」の話である。

 ホントかウソか知らぬが、マクドナルドは「硬いイス」によって、結果的に、客の回転率を高めるように仕掛けている、のだそうだ(下線は引用者)。
 (あの硬く、座りにくいイスには理由があったのだ!)

イスが硬ければ、長いあいだそこに座っていられないわけで、客は何となく去っていく。そうやって消費者を回転させている。あと、これは都市伝説かもしれませんが、マクドナルドは込み合ってくるとBGMの音量を上げているとも言われますね。(略)。

繰り返しますが、これは従来の価値観からすると、良いとも悪いとも言いがたい。ビック・ブラザーが「食事は三十分で終えろ」と命令する社会と、イスが硬いせいで何となく三十分で食事を終えてしまう社会と「管理」という点では同じ効果が起きているわけです。(p34)
(ちなみにビック・ブラザーは『1984年』に出てくる権力の象徴)

 この指摘は、とにかく考えさせられる。

 私なんかは「環境○×デザイン」と称して、マクドナルドの硬いイスと同じような「環境管理型権力」を、日々第三者に行使しているし、そのための基礎研究を行っていたりするからだ。
 アクセスログの管理だって、「環境管理」の一環と言えなくもない。

 自分を棚に上げて言い訳がましいが、東氏が繰り返し「良いとも悪いとも言いがたい」と言っているように、環境管理に対する価値判断は難しい。環境的な働きかけを行わないのは不可能だし(建築家やデザイナーはそれ自体が職業だ)、利用者にとってメリットになる事柄も少なくないからだ。

▼ただ、環境による働きかけは意識させない分、危険をはらんでいる。
 再び東氏を引用してみる。

たとえば、今僕たちが座っているこのイスもかなり硬いわけですが(笑)、なぜこのイスは硬いんだろうと考えたところで、それはインテリア・デザイナーのコンセプトとか予算とか、さまざまなことに行き着くんでしょうが(笑)、それは考えても仕方がないことなわけです(p45)

 一度「マクドナルドのイスは硬い」問題を知識として持ってしまえば、以降も意識するかもしれないが(私なんかはますますマクドに行かなくなりそう!)、普段は、「なぜイスが硬いか」など考えようもない。
 逆にいえば、ごく自然に権力を行使することが可能になるわけだ。

 なぜこれを権力と呼べるのか?これが分かりにくいのも、環境管理型の特徴である。イスのデザインを検討している人は、それを「権力」の行使とは思わないだろう。規律訓練型権力も、それが「文化」という名で呼ばれると見えにくいものになるが、環境管理型はより一層、見えにくくなる。

 さらに問題なのは、このような環境管理が新たなテクノロジーと結びついた場合なのだが、その話は、またいつか考えてみたい。

 東氏も大澤氏も指摘していないが、個人的なレベルでもWebの公開や、アクセスログの閲覧のように広義の「環境管理」を行えるようになっている点は、今後留意せねばならないような気がする。

 というわけで、おざわさんまたマクドナルドを敵に回しました(笑)。
 でも、良いとも悪いとも言ってないです。念のため。

読書メモ:いつもと同じ

▼オリジナルは2003年5月に書かれたものです。

▼私は、当たり前のことを何気なく語ってくれる人が好きだ。

 私が好んでふれる作家や創作家や作曲・作詞家は、いつも同じようなことを、同じリズムに乗せて伝えてくれている。

 よく読む本の中では、内田樹や河合隼雄、山崎正和や鷲田清一や、小説ならば、よしもとばななや江國香織がその典型である。彼(女)らは、同じメッセージを繰り返し(かたちを変えて)伝えてくれる人たちである。

 私の岡村孝子歴に至っては、ほとんどビョーキなような気もしないでもないが、昔読んだ(20年以上も前の)絵本やマンガを飽きずに今も、ときどき読んでいるのも、きっと同じような理由なのだろう。

 私好みのメッセージは、極めて単純である。「遊び」って大切だね、愛ってかけがえのないものだよね、何事にも「加減」ってあるよね、耳をすまして生きていこうね、時を積み重ねるって大切だよ、とか、その程度のもんだ。

 しかし、このような指摘に出会う度に、私は「うんうん」「そうだそうだ」とうなずくばかりである。
 一見、当然な、疑いようもないメッセージほど不思議なことはない。

 なお誤解を招きそうなので書いておくと、自己啓発的なメッセージと異なるのは「一つの解答」が決して与えられていない点だ。河合隼雄風にいえば、「難しいですなぁ」とか「分かりませんなぁ」という問いである。
 いつの世も、変わらない謎があるということを確認しているわけだ。

▼というわけで、例によって(ほとんどはWebサイトで読んでいた気もするが)、内田樹氏の新刊を読んでいたら、彼もまた「いつもと同じ」ことを好む人であるということを知って、少し、うれしくなった。

 桑田佳祐も、村上春樹も「いつもと同じ」だからこそ聴きたくなるのだ。

 桑田佳祐君の音楽なんかだって、ファンは毎度「違う音楽」を聴きたいんじゃないと思いますよ。『勝手にシンドバット』と同じ曲想の音楽を何度も何度も聴きたいんですよ(p159)。

 ぼくは村上春樹と橋本治と矢作俊彦と村上龍と高橋源一郎のものは新刊が出ると本屋に走って行って買いますけれど、みんなほんとうに律儀に「いつもと同じ」ことを書いているんですよね。だから大好きです(p161)。

 すなわち「快楽はある種の反復性のうちに存する。これを洞見と言わずして、何と言いましょう(p160)」ってことである。反復性(と若干の差異)は、ここ1年、2年で私が再確認しつつある、重要なキーワードでもある。

 というわけで今日の、私も、例によって朝は機嫌が悪く、「笑点」を見る頃に元気になって、ハッチポッチステーション(録画)で気分を盛り上げ、野球を見て、これといっていつもと変わらない一日が終了。

 もっとも、ごくごく平凡な「いつもと同じ」リズムがどこかに(背景に)あるからこそ、「いつもと違う」時間を味わえるってことなんだろうな。

▼ちなみに、私は、内田氏のコアな読者なようである。彼曰く

コアな読者の中には、ぼくのホームページのコンテンツを自分で編集して、項目を立てて、自分のパソコンに「私家版・ウチダ本」というものを作っている人がいますけれど、ありがたいことに、その人も本が出るとちゃんと買ってくれます。それは、他人が編集した本はコンテンツが重複していても、やっぱり別な本だからですよね。(p158)

 なんだ、オレのことじゃねーかと思いつつ(お金がないといいつつも律儀に新刊を買ってたりする)、私以外にも、同じようなことをしてる「コア」な人がいるということを知れたのも、これまた愉快であった。

 なお、眠れぬ夜といえば、

 ヒルティとかアランとか、そのあたりも「定番」なんでしょうかね。

読書メモ:質問力って何?

▼オリジナルは2003年4月に書かれたものです。

▼最近、書店で「質問力」の類の本を多数見かけるようになった。最近テツandトモの「なんでだろう」も流行っていることだし、私の研究とも遠くはないので(強制的関係づけ)、まとめて読んでみた。

(注)そんなことを考えつつ、今日AERA(安野モヨコさんが表紙)を買ったらびっくり。斎藤美奈子「ほんのご挨拶」で、斎藤孝氏と大前研一の<質問力>本が取り上げられていた。
さすが斎藤美奈子氏。実に鮮やかな「質問力」であった。

 私が見る限り、「質問力」ブームの発端は、一昨年くらいに流行った「聞く力」本にあるんじゃないかと思うんだが、そもそもルーツをたどればアリストテレス、プラトンに行き着きそうな「古くて新しい問題」である。

▼書店には、類書も含めて8~9冊くらい並んでいたのだが、今回は入手した4冊ご紹介。まずは手堅く斎藤孝本。

 斎藤孝氏にとっての「質問力」は、コミュニケーションを円滑にし、深めていくための手段(あるいは「技」)という意味あいが強いようだ。
 例によって事例満載。各種著名人のインタビューや、対談記事が多数紹介されている。彼の日頃からの『読書力』による積み重ねと、『できる人はどこがちがうのか』で紹介されていたような、「その道のプロから学ぶ」という姿勢が本書においてもいかんなく発揮されているらしい。

 帯には、谷川俊太郎、手塚治虫、黒柳徹子、村上龍、河合隼雄、徳田夢声、ダニエル・キイスなどの名があげられているように、齋藤氏が紹介している事例は、これでもか!ってほど、大御所ばかりである。
 対談の相手(インタビュイー)も著名人が多く、村上春樹やら吉本ばななや、宇多田ヒカルなど、インタビュー集的な読み物としても楽しめる本になっていたりする。本の作り方がうまいというか何というか。

 彼の「質問力」の方法論は二つ。コミュニケーションの際、相手に「添いつつ」「ずらす」という、要約すればただそれだけの話なのだが、例によって

  • 添う技
  • ずらす技

 なんて言う名前が付けられていたりする。要は(勝手なまとめで相手に添っていないかもしれぬが)、相手の世界や経験性を重視しながら、時に、具体=抽象間を行き来しつつ、自分と相手の世界の世界の重なりやズレを深めていく過程が重要ってことなんでしょうかね。

(注)齋藤美奈子氏は、先のAERAの連載記事で「活字で書かれた対談が会話の参考になるものでしょうか」なーんて「質問」をしていたが、確かに、これは気になる指摘かも。

 ちなみに本書はインタビューの技法(調査的面接)の参考書としても、かなり使えそうだ。実際、良質の事例を引っ張ってくるのは相当な技である。これは「誰にでも出来る技」?だとは思えないだけどねぇ。

▼二冊目は、飯久保広嗣氏の本。私はこの方の著作を読むのは初めてである。この本以外にも、クリティカルシンキング本などを出しているらしい。

 飯久保氏の本になると、限りなくクリティカルシンキング本に近くなってくる。最初に、質問には知識獲得型の「学ぶ質問」と、原因追及型の「考える質問」があるという分類を行って、質問=思考を同じ次元に並べてみせるところが、著者の技量というか、論理的思考のマジックと呼ぶべきか。

 本書の中核になるのは論理的に問い、考えるための4つの技法である。具体的には、(1)状況を分析せよ、とか(2)原因の追及をせよ、とか、その上で(3)意思決定せよ、さらに(4)リスク対応も忘れちゃだめよね、といった「モデル」を提示してみせる。
(リスク対応っていうのは、結局は、副次的影響とか、行為の予期せざる結果と言い換えられそうな概念なんだろうな)

 結局、本書は物事をクリティカルに捉えていく上で、「疑問」の持つ役割に注目した、という言い方もできるのかもしれない。いまいち「考える」ことと「質問」の関係がはっきりしないのは、私の気のせいかな…。

▼三冊目は、中島孝志氏の本。この著者、多数、ビジネス書を出されているようだが、私は初めて読んだ。他にも同じようなタイトルの本を出しているのだが、書店とamazonの書評で検討して、選んだのがこの一冊。

 帯によれば、仕事に即効・応用自在、7つの”ロジカル”質問力によって「本質を鋭く捉える」「自分の望みを実現する」「”奮起”させる」「発想の壁を越える」「相手を心理操作する」「仕事力を強化する」「一目置かれる人になる」ことができるらしい。思わず、心理操作って何?と質問したくなったが、三笠書房らしいというか典型的なビジネス書らしい。

 確かに、いろんな意味で「質問力」を鍛えてくれそうな本である。たとえば、「質問力」の重要性を説いた一節、「ユダヤ人も、孫子も、これほど”質問”を重んじた!」(p17)は、結構考えさせられた。
 うーん。なぜ「ユダヤ人」と「孫子」が並列可能なんだろうなぁ。

 ノリとしては「中国人も、窪塚洋介も、ピンポンが好き!」ってことなんだろうか。ビジネス書的なステレオタイプっていうのがあるのかもしれぬ。
 他にも細かい突っ込みを入れて読むことで、質問力を伸ばせそうだ。

 個人的には、同じ「中島氏」対決ならば、中島義道の『生きにくい…私は哲学病』あたりが、本書に対抗できそうだ。あんまり物事を問い過ぎると生きにくくなる…、っていうかアリストテレスなんか毒杯だもんね。

 「質問」ネタに突っ込む時は注意が必要ってことでもあるんだろう。

▼最後は、日本が誇る最終兵器、大前研一氏である。

 自身の「質問する力」を発揮してみせたこの本。安易に「質問力」を育成させようなどという親切心は、彼にはなさそうだ。しかし、多くの読者に「タイトルと内容が違うのは何故?」という共通の質問力を喚起している点で、本書は全体として読者の「質問力」の育成につながっている…はずである。

 ♪大前研一のなんでやろーと歌ってしまいたくなったが、そんな恐れ多いこと、私にできるわけはない(アタッカーだわな)。

 確かに、政治経済的批評としては一流だと思うのだが(私は素人なので判断できぬ部分も多いが)、でもねぇ、時期が悪かったのかな。

 個人的には、既存の常識を否定することを「質問力」の前提と捉えるか、理解を深めることを「質問力」の前提とするか、そのあたりが気になるんだが、どうなんでしょうね。結局、「問いそのものを問うていく」しかないのかな…。

 一昨年は「聞く力」、今年は「質問力」なので、再来年あたりは「突っ込み力」がブレイクしても良さそうだ。関西風の「なんでやねん」をマスターするには、10年は修行が必要というウワサも耳にしているのだが、このあたり関西方面の方に突っ込んでもらいたいところである。

読書メモ:科学が作られているとき

▼オリジナルは2003年4月に書かれたものです。

最近の流行は…
 私は流行りモノをネタにしたがる傾向がある。最近は、いつニュースを見てもSARSがネタになっているので、伝染病ネタが気になるところだ。伝染病の元祖と言ったら、パスツールだよねー的連想から、いくつか本を物色してみた。気づいたらなぜか、最近の科学論でブツギを呼んだらしい『科学が作られているとき』に到着。前々から気になっていたので読んでみた。

 500ページ近い分厚い本なのだが、読み始めたらこれ、めっぽう面白いのである。小説みたい、という言い方は一般には失礼なのかもしれないが、著者は人類学者だし、きっと褒め言葉だろう。

 フランス語が読めると、もれなく彼のパスツール論が読めるらしい。
 やっぱりいろんな言語ができた方が得だわな。

 本書はいろんな読み方ができそうなので、メモが書きにくい。誤解を恐れず一言でまとめてしまえば「科学」という営みが実験室内外(社会・政治的な意味も含めて)で、いかに行われているかを描いた本である。

 そもそも「科学」っていったい何なのか?多くの人は、この問いを考えずにいる(私も、当然のように考えるのを放棄していた)。しかし、本書によれば、それを考えないからこそ「科学」は進展している、とも言えそうだ。

ネットワークとしての科学あるいは研究
 本書で、私がもっとも気になったのは、研究っていうのは、あくまで人や、事物との関係、あるいはネットワークなんだよね、という話だ。

 これを言ったら身も蓋もないような気もするのだが、研究っていうのも、あくまで人と人との関係(コミュニティ?)の上に成り立っているものらしい。

 確かに、これは経験的に納得がいく。実際、他の研究者に関心をもってもらえなければ研究は成立しないし(お金も、人も得られない)、いったん成立した関係は維持・発展しなくちゃならない。
 そのためには、自らの行為に名目(目的)が必要、というのも事実だ。

 例えば、自身がやってる研究の名目ををうまい具合に「翻訳」するとか、目的を他の言葉に置き換えたり(本書では「置換」という言葉が使われている)、あるいは新たに名目を考案することも少なくない。さらには「迂回路を見えないように表現する」なんていう戦略を用いることもある。

 言われてみれば、確かにそうだわな。

 そう思い始めると、すべてそう見えてしまってなかなか離れない所が構築主義的(あるいは近年に限れば文化人類学的と言っても良いのかもしれない)な考え方のこわいところだわ。

 本書を読んでずいぶん考えさせられたが、結局、本書を通して科学の「実体」が何たるか分かるわけではない。確かなのは、科学は自然を相手にしているだけでもなく、かといって単に社会的な産物というものでもないということ。また、人間の営みの一つってことは、間違いなさそうだ。

 自分自身の営みを考える上でも、仮説=ヒントに溢れているかも。

おまけ
 本書は「方法の規則」(p435-436)という形で、主張の一部がコンパクトにまとまっている。これだけ読んでも、よく分からないような気もするが、私が気になった2点を引用してみました。

 ↓の論争っていうのは科学の論争、ね。

  • 論争の決着は、自然の表象の「原因」であり、その結果ではないのだから、この自然という結果を、なぜどのように論争が決着したのかを説明することは決してできない(第2章)
  • 論争の決着は、社会の安定性の「原因」であり、その結果ではないのだから、論争がなぜ決着したのかを説明するために社会を用いることはできない。人間のリソースと人間以外のリソースを動員する試みを対称的に考察すべきである(第3章)

 科学論っていうのも、もうちょっと読んでおくべきだった領域だっと反省チュウ。とくに因果関係は私が苦手な分野なので、要注意である。

 以上、素人が、大書にもかかわらずじっくり読み込んだわけではないので、誤解・誤読等があればご教示いただけると幸いです。

追記
 2003年6月若干の修正を加えました。

読書メモ:知識創造の方法論

▼オリジナルは2003年4月に書かれたものです。

▼『知識創造の方法論』を読む。実に面白い。
 著者の野中先生は、経営学系では横綱級。世界で通用する数少ない社会科学系研究者の一人であろう。
 紺野先生は、最近、野中先生とよく共著を書かれている方である。
  • 野中 郁次郎・竹内 弘高(著)梅本 勝博 (翻訳)(1996). 知識創造企業.東洋経済新報社
 私は、野中先生らの『知識創造企業』にえらく影響を受けているのだが(自分がこの大学院で学生をやってる66.4%は彼の影響である)、今回、本書を読んで自分がこの理論に魅力を感じる理由が、少し分かってきた。

 私の勝手な「読み」ではあるが、野中先生(とその仲間たち)の理論の背景には、おそらく次のような特徴が含まれていると思われている。

(1)自身の限界をふまえている
 知識創造理論の優れている点第一は、自身の限界を踏まえている点である。言い換えれば、「謙虚」なのだ(それ故、一部では「役に立たない」とか「東洋の神秘」などといって批判されているらしいが…)。

 『知識創造の方法論』でも、謙虚さは随所に現れている。
 未来永劫通用通用するような絶対的なビジネスモデルや経営方針などというものはない、ということ以外に絶対的な真理はないのです。私たちは、変化し、流動するアップ・アンドダウンの激しい「絶えざるいま」をたえず生きつづけていかなければなりません。そこには絶対の知識はないのです。一時たりとも気を抜く暇もありません(p62-63)
 「サダム・フセインは悪、ブッシュは正義」と信じて疑わない人たちには分かりにくい世界かもしれないが、「絶対的な真理」に対する宙づり的な感覚なくして、本来、「実践」や「研究」に対して何も語れないはずである。

 もっとも、自身の限界を踏まえるということは、自己言及的であり、時に苦しい立場になる(なかなか分かってもらえない)のも事実だけれど。

(2)自分のポジションを明確にしている
 第二は、自分のポジションを踏まえている点である。『知識創造の方法論』では、これまでの歴史を振り返って、知のあり方を4つの先達を引きながら整理している。プラトン、デカルト、西田幾多郎、デューイである。

 「巨人の肩の上に立つ」という言い方があるが(確かニュートンのことばだったはず)、過去から脈々と問われ続けてきた問いを整理し、比較し、図的に現し、自身の位置を明らかにすることは重要なことだろう。

図 プラトン、デカルト、西田、デューイの知の型
合理論の流れ 経験論の流れ
抽象(形而上) 【プラトン】
本質(イデア)追求
言語対話・論争的アプローチ
覚醒・転向
理想主義
情熱的
真・善・美の追求
【西田幾多郎】
客観と主観の融合(純粋経験)
内省的アプローチ
忘我の知
直観重視
有機的生命体的
共同的性格
具象(形而下) 【デカルト】
合理主義
分析的戦略的アプローチ
明晰性の追求
物理の支配
数学的論理・科学的
節制・冷静の要求
【デューイ】
経験主義
主体的実証的アプローチ
信念・習慣・行動の重視
実験の重視
体験的身体的
結果主義

  意識していようがしていまいが、「考える」ということは、こういう先達が残した歴史や、現在の時代性に制約されているはずである。この「型」(肩)をふまえることは、先達に対する敬意も含まれると思われる。

(3)なぞりと重ね合わせと変奏が鮮やか
 第三は、なぞりあるいは重ね合わせを重視している点である。本書では、知識創造理論のコアである「共同化」「表出化」「連結化」「内面化」と、上記のプラトン、デカルト、西田、デューイを重ねあわせてゆく。
  • 西田幾多郎は純粋経験を出発点として同化・直覚する
    共同化=暗黙知から暗黙知を創造する
  • プラトンは本質追究思考であり、対話・メタファーを重視する
    表出化=暗黙知から形式知を創造する
  • デカルトは分析論理思考であり、分析・総合を行う
    連結化=形式知から形式知を創造する
  • デューイは実践をつうじて知を学習・体得していく
    内面化=形式知から暗黙知を創造する
(注)そもそも知識っていうのは、ことばで伝えられるもの(形式知)と、身体的・状況的なもの(暗黙知)の2種類あって、両者は密接に関係しあっているよね、というのがこのモデルの前提。
 ちょっと強引なような気もしないでもないが、こういう考え方そのものは面白い。他にも、さまざまな応用ができそうだ(それが重要なのだ)。

 ちなみに、本書では、このモデルがいくつか変奏されていて、例えば、知識創造理論のプロセスを、知識間ではなく、時系列で捉えると、次の4段階で描かれるらしい(ステップ、やるべき行為、そしてそのリソース)。

ステップ
(方法論)
やるべきこと そのために必要なこと
(1)観察 意図の理解
アイディア原型の生成
観察、現場への参画(環境の取り込み)
「経験」の知の発揮
(2)概念化 意味の発見
事象の背後にあるメカニズムの把握
アブダクション的思考と対話
「メタファー」の知の発揮(経験から仮説へ)
(3)モデル化 因果関係の発見(理論化)
システム的プロトタイプの創出
変数へのブレークダウン
「デザイン」の知
(4)実践化 知識としての表現、移転
変数の指標化、測定
コンセプトによる綜合
「物語」の知

 一つのモデルを変奏してゆく技量っていうのも、実は方法論として重要なんだろうなぁと思ってみたりもする。

(4)豊富なケースとメタファー
 第四は、豊富なケースと具体例、またメタファーである。ケースは省略するが(読んでのお楽しみである)、メタファーも随所に発揮されている。

 例えば、何故に哲学と経営学が関係するのだろう?という説明のために、こんな一文が引用されていたりする。
もし君が相手の愛を呼び起こすことなく愛するならば、すなわち、もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間として君の生命発現をつうじて自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛はひとつの不幸である(マルクス『経済学・哲学草稿』城塚登・田中吉六訳)
 あらま、マルクスってこんなことも書いてたのね。何のこと書いてあるか分からないって?答え:「片思い」だそうです。「日常の言語では表現できないことを伝えるために哲学は存在している」のだそうだ。

 本書の最後でも、美しいメタファーが使われている。
したがって、私たちは理想主義とプラグマティズムを結婚させなければなりません。それはいわば理想主義的プラグマティズムと呼んでもよいものです。それは、理想を抱えつつも慎重に現実を見極め、自覚しつつも突っ走り、顧客のことを考えながらもそれを越え、苦なるものを楽に変える。これらを執拗に追求する。こうした姿勢が今後の軽々者、現場、個々人のすべてに共有されている必要があるのです(p276)。
 いいなぁ。結婚。なーんて夢見る乙女状態になりそうだが、知識創造とは、まさに理想と現実の狭間から生まれるものなのだろう。

まとめ
 以上、本書の背景的な特徴を4点にまとめてみた。ちなみにうち半分は、先日のA氏との会話で、思いついたものである>感謝。

 個人的には、仮説やモデル、理論の関係を、もっと詳しく書いていただいた方が、私のような初学者にはありがたかったかも(やや、話の展開が早かったような気がする)。あと、ヴィトゲンシュタイン的な要素を入れるとどうなるんだろう?とか、いろいろ考えてしまった。

 にしても、「あこがれ」を持たせてくれるような本や人との出会いはありがたい。先達なくして実践と研究の狭間で彷徨うことなんてできないもんね。

読書メモ:オルフェウスプロセス

▼オリジナルは2003年4月に書かれたものです。

▼『オルフェウスプロセス』を読む。本書は、オルフェウス室内管弦楽団を組織論的に研究した本である。オルフェウスは、指揮者がいないオーケストラとして知られ、過去30年間に渡って活動を続けていたらしい。

 著者の一人は、同楽団のエグゼクティブ・ディレクターを務めたこともある人物である。

 オザワ一派としては(世界のオザワと勝手に同類化)、「指揮者がいないってどういうこと?」といまいち実感が湧かなったのだが、金子郁容氏の『コミュニティ・ソリューション』と本書を読んで、多少、その謎がつかめた。
 『オルフェウスプロセス』によれば、オルフェウスの組織論的な特徴は以下の8つ。著者らは、これを「原則」と呼んでいる。
  • (1)その仕事をしている人に権限をもたせる
  • (2)自己責任を負わせる
  • (3)役割を明確にする
  • (4)リーダシップを固定させない
  • (5)平等なチームワークを育てる
  • (6)話の聞き方を学び、話し方を学ぶ
  • (7)コンセンサスを形成する
  • (8)職務へのひたむきな献身
 いつも組織論系の本を読む度に思うのだが、要点だけを読んでしまうと「どれも同じ」に見えてしまい、紹介するのが難しい。

 しかし、この「原則」で説明されている事例は(原則に至るプロセスは)、オルフェウス独自のものが多い。
 何とも表現しがたいのだが、やはりこの手の世界を学ぶには、事例研究、ケーススタディ的に、事例を慎重に読みながら、具体→抽象化のプロセスを丁寧に追いかけていくしかないのかもしれない。

 ちなみに本書は、8つの「原則」ごとに章が作られれており、まず「原則」の概略を説明。事例として、オルフェウスと、他類似企業を紹介した上で、原則を実行に移すための方略と、「おちいりやすい罠と落とし穴」がまとめられている。読み物としては、なかなか参考になる。

 ちなみにオルフェウス以外では、JPモルガン、リッツ・カールトン・ホテル・カンパニー、WLゴア&アソシエイツ~スキー用品等に使われている「ゴアテックス」の会社らしい~インテルや、ストーニーフィールド・ファーム~有機農業で知られているらしい~などが取り上げられている。

 非営利組織のマネジメントという観点から本書を読んでも得るものは多そうだ。私は、授業内でグループ学習実施にあたってのヒントを得たかも。

読書メモ:生き方の人類学

▼オリジナルは2003年4月に書かれたものです。

コミュニティ・オブ・プラクティス
 最近、いろんなところでコミュニティ・オブ・プラクティス、実践共同体、実践コミュニティという言葉を耳にするようになった。流行語的使われ方をしているせいもあって、その文脈によって用法は異なるようだが、

 私が見聞きする範囲では、
  • (1)職場、学校、地域等において、人と人とのつながりを重視する
  • (2)人と人とのつながりの中に参加することで、参加者やコミュニティに何かしら意味がもたらされる。
  • (3)コミュニティの中では、何かしらの知識が創造されたり、ノウハウが共有されたり、その人のアイデンティティが構築されている。
 といったようなイメージで捉えられることが多いようだ。(注:(2)と(3)は、同じことを言っているような気もするが、便宜上分けてみました)。

 もともとは人類学的な知見であるらしい。これまで、何冊かコミュニティ・オブ・プラクティス系の本を読んでみて、言われていること確かに分かるのだが、私がよく分からないのは、プラクティス(実践)の概念である。

 てなわけで、新書で出たので早速、読んでみました。
 「実践とは何か?」と問われたら、やはり気になるわな。。 実践とは何か
 著者は人類学者。本書に出てくる事例も、文化人類学的フィールドワークが土台になっている。本書では、人類学的立場から「社会的に構成され、慣習的に行われている行為や活動」(p11)のことを「実践」と呼んでいる。

 ちなみに、ウェンガー(「コミュニティ・オブ・プラクティス」の概念を広めた一人である)は、実践のことを次のようにまとめている。
(注:「実践」という言葉には)ある特定の領域で物事を行うための、社会的に定義された一連の方法、という意味がある。つまり、行動やコミュニケーション、問題解決、作業、説明責任などの基盤となる、共通の手法や基準である(p77)
 著者とウェンガーの大きな違いは、実践の「慣習性」の捉え方であろう。ウェンガーでは、「慣習性」は、あまり強調されていないような気がする。慣習性について、著者はヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を援用しながら、次のような説明を行っている。
「言語ゲームの場所では、とにかく実践が行われるという事実が存在する。その結果、行われている実践は規則に従っているかのように見えるに過ぎないのである。
 つまり、実践というのはある規則で記述できる概念ではなく、あくまで慣習的な過程である、ということを言いたいらしい。
(注)いきなり「言語ゲーム」と言われてもぴんと来ないかもしれないが、要するに規則っていうのは、規則が正しいから守られているのではなく、規則が現実に守られているから、正しくみえるってこである。規則っていうのは実践的なものらしい。
 では、実践の慣習性をどう捉えれば良いのか。著者はブルデューのハビトゥスを援用するのだが、ここから私には正直、難しくてよく分からない。

 私なりにまとめると、ハビトゥスっていうのは、「個人が持っている身体化された<傾向性>の集合(性向、性癖、嗜好、くせ)」のこ
とである。しかし、ハビトゥスの概念では、実践の慣習性を明らかにできないらしい。著者によれば、「慣習化された行為としての実践は、実践している人の実際的で即興的な実践状態からしか明らかにすることができない」(p18)とのこと。

参加や協働 + 権力関係や差異化としての「実践」
 ここで登場するのがレイヴとウェンガーの「実践コミュニティ」の概念である。レイヴにとっての、実践とは「行為者の参加、協働、交渉、さらに<構成員のアイデンティティ化のことである。

 結局は、レイヴやウェンガーの焼き直しか…と一瞬、思わされたのだが、著者によればこれらの観点でも、まだ不十分らしい。実践コミュニティを捉えるためには、人々の参加や協働、交渉、あるいはアイデンティティ(化)のみならず、人々の権力関係や差異性に着目しなければならないらしい。
 慣習やハビトゥスが同一の実践を生み出すと主張するならば、それは権力支配の言説にほかならない。したがって、生き方の人類学は人びとの間のミクロの権力関係が凝集するコミュニティのなかの人びとの参加、協働、あるいは対立、交渉を記述するとともに、彼らの実践の差異化の過程、すなわち彼らの<自由>を描かなければならないだろう(p250)。

 コミュニティのなかで他者との実践に従事しながらも他者との差異化を自覚し、自分の生き方を実践していくことによってアイデンティティ化は多様に展開する可能性がある。実践コミュニティにおける権力関係とは、実はアイデンティティ化をもたらす肥沃な土壌なのである(p236)。
 その他、ウェンガーのモデルの問題点として、言語的コミュニケーションに重きが置かれていることや(確かに、その嫌いはあるかもしれない)、差異化(脱中心化?)の要素が抜けているという問題を指摘している。
 ウェンガーが求めるのはあくまでコミュニティ内部へ向かう帰属意識であって、そこから差異化するベクトルは考慮されていないのである。したがって、そこでは実践のなかで行為者が他者と向き合い、交渉をとおして自分を差異化していく過程はまったく無視されることになるのである。(p230)

 この見方はアイデンティティが意味と価値の交渉、つまり言葉によるコミュニケーション行為によって形成されることをあまりに理想化しすぎていないだろうか?」(p227)

 確かに、実践を捉えるためには、コミュニティにおける権力関係や、言語的コミュニケーション外の事柄、実践の中で行われている差異と反復(これって、ドゥルーズの概念じゃないかしら)を捉えることは必要そうだ。

▼で、結局
 結局、「実践」っていうのは何なのか、本書を通してますます分からなくなったような気がしないでもない(いい意味での分からなさだろう)。

 実践コミュニティに限らず、個人=集団=組織=文化の関係を考えていく上で、本書には重要なヒントが重要なヒントが含まれていそ
うなのだが、まだまだ消化不足である。改めて読む必要がありそうだが、上記は、とりあえず読後の整理を兼ねたメモである。ついでに、

 これも発注してみた。これを読めば少し理解が深まるかしら。

追記
2003年6月若干修正しました。

読書メモ:組織戦略の考え方

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

分かっているようで分かっていないこと
 「分かっているようで分かっていないこと」を気づかせてくれる人やモノとの出会いほどありがたいものはない。最近、都合上、個人=集団=組織の関係についていろいろ考えているのだが、「組織」っていうのも、身近でありながら、よくよく考え始めると分からなくなってくる。
 本書は、組織論系の「分かっているようで分かっていないこと」がコンパクトにまとまっていて、久々にいろいろと考えさせられた。

官僚制って何?
 たとえば、組織形態としての官僚制の特徴は何か?官僚制のメリットとデメリットは何なんだろうか?巷では官僚制は批判の対象として頻繁に取り上げられているし、自分なりにもイメージは持っている。しかし、その特徴や機能を一言で言おうとすると、私なんかは一瞬、戸惑ってしまう。

 著者は、このあたりの基本を、非常に鮮やかに描いている。
仕事の多くをプログラム化し、そのプログラムで対応できない例外をヒエラルキーによってその都度上司たちが考えて処理する。これが組織設計の基本中の基本である(p27)。
 要するに、上司(ヒエラルキーの上にいる人たち)は、例外処理と全体の方向性を定めるために存在しているわけだ。たとえば、次のような3つの階層を想定すると、組織内の人材育成なんかも非常に考えやすくなる。
  • 決まり切った仕事を注意深く処理し、若干の例外的な状況に創意工夫で対応できる知的熟練者の育成
  • 例外的事象を鋭く分析し、バランスのとれた決断を遂行できる管理者層の育成
  • 戦略を思考できるトップ・マネジメントの育成(p37-38)
 言われてみれば当たり前のことなのだが、当たり前過ぎて、これまで意識してこなかったような事柄かもしれない。

 最近、多くの企業が採用している事業部制も、私なんかは、営業とか製造部といった社内組織を、職務ごとにAV事業部とか家電事業部に分けるってことだよね、といったイメージを持っているに過ぎなかった。
事業部制の本質的な特徴は、日常業務の処理と戦略的な課題とをそれぞれ事業部と本社に分割する点にある(p35)
 といったことは、おそらく自分の口からは出てこないだろう。言われれば、何の苦もなく理解できるが、いやはや、勉強不足だわ。

ボトルネックって何?
 『ザ・ゴール』のおかげで世に広く知られることになった「ボトルネック」なんて言葉も、一見当たり前過ぎて、逆に忘却されていた概念に近い。

 ボトルネックの考え方自体は、非常にシンプルで
  • 仕事全体をいくつかの部分からなるプロセスとして捉える
  • 全体の足をひっぱる(制約となる)プロセスを発見し、対策する
 というだけの話なのだが、この考え方を、製品開発、意思決定や、人材開発等に活かすという発想は確かにあまりなされていなかった気がする。

 まったくもって再考させられるばかりである。

組織における「自己実現」って何?
 マズローの欲求階層説で、広く知られている「自己実現」という概念も、分かっているようで、ぼんやりとしたイメージで語られることが多い。

 著者は「自己実現」に気を取られるあまり、「承認・尊厳欲求」の重要性が見過ごされていると述べているが、これは確かに的を射ているかも。
大規模な組織になるほど、多様な貢献の仕方が可能であり、多様な生き方ができるはずである。そのすべての仕事にカネや地位で報いることはできないまでも、そのそれぞれの仕事をきちんと評価して、貢献したと承認する作業が組織運営の根幹のはずである(p95)。
 就職や転職でよく言われているらしい、自分がやりたいこと(夢)、やってきたこと(実績)、やれること(現実)の3つを重視すべきという主張は、私も分からないでもないのだが、これらは他者から(組織内外で)認められてなんぼなもんだということが見過ごされがちなような気がしてならない。

組織の腐敗過程
 最後に、組織がダメになっていく(著者は「腐敗」と述べている)チェックポイントについての指摘は、非常に身にしみた。

 私が知る限り、衰退していく組織は、お互いが直接的に対話せずに「○○さんは△□のことをこう思っているのではないか」的な、お互いの邪推に終始することが多い。仕事も、内向きの交渉事ばかりで、本質的な仕事そのものに時間がかけられなくなってくるのも事実である。

 こういう腐敗過程は、短期的には(仕事のアウトプットを見る限り)判断できないものだが、見分けようと思えば、「雑談」の質で見分けが付くらしい。いやはや。確かに。最近、私の周りでも雑談が多かったし(謎)。
 単に○○専務は□□部長が嫌いだからといった感情論や、当事者が傷つくからといった配慮論などは、レベルの低い内向きの雑談に属する。これに対して最近調子の良い社内の新事業はなぜ成功しているのか、逆に失敗した事業はどこがダメだったのか、といった外向きの話が、深く分析され、解釈を加えられて、雑談の中で伝えられていく場合には社内の雑談の質が高いと判断するべきであろう(p208)。
 以上、本書から私が気になったところをいくつかまとめてみた。その他にも、組織内フリーライダーの話題や、組織内権力や、リエゾンの問題など、いろいろと考えさせられる話題が多数あった。

おまけ
 ホントの基本っていうのは、「分かっているつもり」にさせることではなく、そこから脱する機会を与えてくれることだと実感する今日この頃です。

 なお、若干、お値段ははりますが(古本でも見たことありません)、
 組織論系の人は、必読の部類なんでしょうね。初めて『行為の経営学』を読んだ時は、さっぱり分からなかったが、今は少し理解が深まったかも。

読書メモ:ヴァーチャル日本語 役割語の謎

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

▼最近の「日本語」ブームにすっかり乗ってしまっているんじゃが、最近、「文体」や文章の「スタイル」が気になっておるのだ。ちょうどそんな時、
 なる本に出会ってしまったのぢゃ。「役割語って何?」って声が聞こえてきそうじゃが、まあ、そうあわてんで、問題を解いてみよ(本書p.v)

 【問】以下のセリフの主を、次の選択肢(a)~(h)から選べ。
  • そうよ、あたしが知ってるわ
  • そうじゃ、わしが知っておる
  • そや、わてが知っとるでえ
  • そうじゃ、拙者が存じておる
  • そうですわよ、わたくしが存じておりますわ
  • そうあるよ、わたしが知ってるあるよ
  • そうだよ、ぼくが知ってるのさ
  • んだ、おら知ってるだ
  • 選択肢
    (a)お武家様、(b) (ニセ)中国人、(c) 老博士、(d) 女の子、(e) 田舎者、(f) 男の子、(g)お嬢様、(h)関西人
 そうじゃ、特定のキャラと結びついた特徴ある言葉づかいのことを「役割語」と呼ぶのじゃ。「そうですわよ、わたくしが存じておりますわ。ほほほほほほほ」と来れば、きっとその声は白鳥麗子だと考えられるじゃろ。

 本書は、そんな役割語の謎を追った本じゃ。

 役割語とは、いわば言葉づかいのステレオタイプだとも捉えられよう。「そうあるよ」となんていう言葉を使う中国人アチョーは、実際、いるわけないある。いかん、言葉が感染してきたでおじゃる。

 「標準語」と呼ばれる用法もまた、役割語の一つであり、つくられた(ヴァーチャルな)ものであるという指摘は、まことにあっぱれであった。標準語にやや特色を持たせたことばを使うのが、物語の主人公で、役割語を使うキャラは、脇役であることが多いそうな。これ、なるほどですわよ。

 せっかくだから「役割語」の著者による定義を引用しておくあるよ。
ある特定の言葉づかい(語彙・語法・言い回し・イントネーション等)を聞くと特定の人物像(年齢、性別、職業、階層、時代、容姿・風貌、性格等)を思い浮かべることができるとき、あるいはある特定の人物像を提示されると、その人物がいかにも使用しそうな言葉づかいを思い浮かべることができるとき、その言葉づかいを「役割語」と呼ぶ。p205「役割語の定義と指標」より
 ほなさいなら(私は、今、関西方面におるのじゃ)。

読書メモ:日本語の21世紀のために

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

▼私は、テレビのニュース、とりわけ地方版がどうしても好きになれない。たまたまチャンネルを変えたり、テレビを付けた時に、間違って地方ニュースを見てしまう時があるのだが、むずむずすることが多いのである。

 どこかで祭があったとか、何かしら催しがあったとか、地方ならではのほほんとした(ちょっとボケが入った)ニュースを流すのは許せなくもない。しかし、だ。アナウンサーの常套句は脱力系以外のナニモノでもない。
  • 料理が振る舞われるイベントの常套句
    「おいしそうにほおばっていました」
  • チビっ子が登場する催しの常套句
    「元気に駆け回っていました」
 もう聞くだけでうんざりである(神社仏閣系イベントの常套句である「豊作を祈願していました」は、まだ許せなくもない)。毎年恒例なんだから、もうちょっと工夫できないものなのかな、と思う(常套句に対する常套句)。

▼いったいこのむずむず感は何に由来するのか、丸谷・山崎氏の『日本語の21世紀のために』を読みながら、ふと考えていたのだが、結局、「読者に内容を伝えなければならないという意識がない」(p90)のだろうな。
 山崎氏が指摘するような、新聞記事の常套句↓もしかり(下線は私)。
山崎:たとえば、新聞的クリシュ、陳腐な常套語です。これはあまりにもひどい。たとえば、ある小学校でウサギを飼っていた。そのウサギが殺されてしまった。すると社会部記者は、「心ない振る舞いに、よい子はがっくりと肩を落としていました」と、必ず書くんです。これはほとんど思考停止を意味している(p89)。
 丸谷氏がこれを受けて、読者に内容を伝える意識がないとか、↓のようなことを述べているが、まったくもってその通りであろう。
丸谷:言語が伝達のためのものだという大前提がわからないで、言語を扱っているわけなんですよ(p90)。
 同じ「おいしそうにほおばっていました」でも、伝達の意思があれば、もうちょっとニュアンスが違って聞こえるのかもしれない。自戒しようっと。白々しいことばを使っていると、白々しい人間になってしまいそうだ。

読書メモ:待つしかない、か

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

▼哲学者の木田元氏と、演出家の竹内敏晴氏の対談本。木田氏は、メルロ=ポンティの翻訳者としてもよく知られている。メルロ=ポンティといえば身体論だし、身体論といえば竹内敏晴氏である。
 私なんかは、まさにそうなのだが、日常に流されるまま生きていると自分の「身体」に無自覚になってしまうし(そもそも身体は自分のものなのか?という問いもある)、自分をすべての中心に置いてしまいがちである。
(注)まして、この季節、コタツの中で生活していると、すべて自分の手の届く範囲内に収まってきて危険である。
 でも、本来的には<わたし>は主体でもあるし、客体でもあり、見ると同時に見られ、触れると同時に触れられる存在でもある。人は、世界の結び目でもある(「蝶番=ちょうつがい」などにもたとえられる)。

 この手のことを所与ではなく、ともに考えさせてくれるよい相手となってくれるのが、おそらく私にとっての木田元氏によるメルロ=ポンティや、竹内敏晴氏である(もっとも大学院に入るまで見向きもしなかったのだが)。

▼お二人を「哲学者」や「演出家」と括るのは恐縮だが、お二人の実践者としての差異と視座の共通性のせいか、本書は、なかなか密度の濃い対談になっている。対談の組み合わせとしては、絶妙かも。
 「待つしかない」は、木田氏のことば。「待つ」というのは、何もしないわけではない、かといって相手を支配しようとするものでもない。生まれてくる<何か>に、身を開き続けること、というような意味かしら。

 「待つ」ことの意味については、私もよく考えさせられているのだが、あみんの「待つわ」や、石川ひとみ「まちぶせ」とはちょっと違いそうである(比較になってないっていう噂もあるが、遠くもないような気もする)。

▼個人的には、メルロ=ポンティも、竹内氏も、読んだ瞬間は、分かった気がするのだが、しばらくすると話の輪郭が分からなくなってくるのが謎である。書店で半分しか読めていないので、かなりの勢いで消化不足かも。

 あと5年くらいたつと、実感的に分かるようになるのかなぁ。

 なお、演劇と哲学といえば、
  • 鈴木 忠志・中村 雄二郎(文庫)(1999).劇的言語.朝日新聞社
 この本も刺激的ですね(でも、一言で言うと何なのか分からない)。

 最近、某「声に出して読む」著者の影響か、「身体論」が流行っているようですが、当然、それら便乗本とは一線違います。

読書メモ:臨床とことば

▼オリジナルは2003年2月に書かれたものです。

▼河合隼雄氏(臨床心理学=ユング派)と、鷲田清一氏(哲学=現象学・身体論系)の対談本が出ていたので、早速読んでみた。
 河合先生の対談本は少なくないが(とっさに思いつくだけでも、吉本ばなな、村上春樹、中沢新一、安野光雅などなど数名)、どれも考えさせられることが多い。今回の対談本も、読みながら唸ることが何度かあった。
▼ただし、先生の対談本はエッセンスを一言で言うことが難しい。どれも同じようなことが言われているようで、微妙に違うからである
 (まさに「臨床的」な語り口ともいえる)。

 どの対談も、「そうなんだよねぇ!」と納得することは多いのだが、内容を理解=消化するというよりは、すい臓か肝臓あたりでその力を発揮していそうな、そんな感じの読後感である。何度も、読み直したり、ふと手に取ることで、少しずつ理解していくものなのでしょうかねぇ。 ▼少しだけメモ(おそらく後日改定予定)
 以前から気になっている「文体」について。鷲田氏の発言より。
そのときに、文体って大切だなと思いました。学問というのは、これまでの科学のイメージは、できるだけ誰でもぱっと見て分かるように記号化する。あるいは意識化するということをやってきたんですけど、僕は哲学とか文学ということを見て、記述というのは、ある文体でないとできない。(p75)
 最近、私が「文体」に関心を持っているのは、(1)文章を書くにあたって自分の「文体」を意識せずにいられない。(2)自分の「文体」を意識してしまと、文章が書けなくなる(笑)、という崖っぷち状態にいるからなのでした。
文体は人なりと昔言いましたけど、本当にすぐれた科学研究をした人は、あの語り口でなくてはならないということがあるような感じがして。単に個別の例というだけでなく、科学における語りの仕組み、語りとは何かということも考えて行わなければいけないと思います。(p75-76)
 結局は、「語りの仕組み」や「語りとは何か」ということなんでしょうかねぇ。これは、某氏と議論を重ねている「かたりとかたちプロジェクト」(仮=勝手に名称)で、深めていかねばならぬテーマかな、と思ってみたり。

▼もう一つ鷲田氏が言及していた「ソクラティック・ダイアローグ」が興味深かった。これは「自分の中で反省する哲学ではなく、人と対話するなかで或る論理を紡いでいく」(p132)という、議論の一つのスタイルのこと。

 本書で紹介されている3つのルールがシンプルですばらしい。
  • 人の話を最後まで聴くこと
  • 偉い哲学者の名前をいっさい出さないこと
  • ダイアローグの最初は自分が体験した具体的な事例を素材にしてやり始めること。(p133)
 これ、いわゆる人文系大学院でやったら面白そうかな、と。確かに偉い学者の名前を一種の「記号」として交換しあう機会も時には必要でしょうが、敢えてそれを禁止してみた方が、議論が「深まる」ことが多いかも。

 そういえば、同様の議論=禁止語のススメは『知的複眼思考法』でも書いてあったな。個人的には、「学力」は禁止語にしたい今日この頃。

読書メモ:インターネット・セラピーへの招待

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

▼今日は、珍しくメディアコミュニケーション絡みの本を読んでみた(いわゆるCMC=Computer Mediated Communication研究の発展型))。
 一言でいってしまえば、インターネットを利用したセラピー(いわゆる心理療法や、カウンセリング)の現状や特徴について概観した本である。
 これまでにもインターネットを利用したカウンセリングに関しては、論文や雑誌の記事で見たことはあったが、書籍の形でまとまったのは今回が初めてなような気がする(もちろんアメリカやイギリスでは何冊か出てる)。

 臨床心理系は、いろいろ流派があってややこしいような気もするが、著者はナラティブ派の臨床医。ナラティブセラピー派は、「構築主義」(構成主義)と呼ばれる考え方と深いつながりがあって、客観的な「事実」よりも、当人が組み立てる「語り」や「物語」を重視する立場と言われているらしい。
 本書でも、全体的としてはナラティブセラピー的な立場で書かれている。

▼私なんかは、いったいネットでセラピー(カウンセリング)なんぞ可能なのかしら?と、どちらかというと否定的に思ってしまうのだが、かの有名な人工無能イライザは、ロジャース派のカウンセリングスタイルを真似たものだったんだし、あながち簡単に否定することは出来なさそうである。
  • hotwiredの関連記事
    ちなみに、ロジャース派は、カウンセリングの一派。クライエントの発話に対して、カウンセラーが「オウム返し」的疑問を発すると良いらしいという(例:「最近、困ったことがあるんです→「最近、困ったことがあるんですね」)知見を、イライザは利用したらしい。
 著者が本書で掲げているインターネットを利用したセラピーのメリットの、ほとんどネット(主に電子メール)のメディア的特徴と重なる。つまり、簡便性や、匿名性、非日常性、自己開示の容易さなどである。

▼とくに著者は、電子メールが「書き言葉」である点に可能性を見いだしているようだ。つまり、書き言葉の場合、書き手は明確に表現を行わなければならず、基本的には、感情もことばで表さざるを得ない。

 確かに、表現しがたいものを、言葉として表現するという行為は、治療性もありそうな気がする。言語やイメージも「表現」ということばでまとめてしまえば、かの有名な箱庭も、表現しがたい<何か>の表現なわけだし。

 ただ、どうなんだろうなぁ。私自身、自分が発した言葉に制約されやすいタイプなせいかもしれないが、人によっては「書き言葉」という特徴はデメリットにもなるような気がする(長所イコール短所なだけかも知れぬが)。

▼もう一つ、著者が述べていて私が気になったのは、ネットセラピーの場合、「転移」が少ない、という指摘。「転移」っていうのは、立場によって捉え方が結構違うので、著者の定義を引用しておくと、
転移とは、クライエントの現在の人間感情、ことに幼少時代の重要な人物に対する感情が、セラピストに投影されることを言います。セラピストが、自分に向けられた感情を解釈することによって、クライエントは現在の状況と過去の 体験について理解を深めます。転移感情は、治療的な介入のために不可欠な道具です。(p149~150)
 一応、念のたのセラピストっていうのはいわゆる臨床医やカウンセラー、クライエントっていうのは患者さんのことね。精神分析派(フロイトなど)では、「転移」が決定的な意味を持つと言われている。
 しかし、ネットセラピーでは必ずしも転移は起きないらしいのだ。
電子メールを使ったやり取りでは、このような転移関係や依存関係はあまり起こらないというのが、私の経験です。ネット上の対人関係は、大方、サラリと しています。姿も声も聞こえず、実体がないので、転移感情が喚起されにくいようです(p150)。

話の内容は十分に伝わるが、相手を実感できないというパラドックスが、信頼関係を築くことができるが転移感情や依存関係を生じないという、パラドックスを生むのです(p151)。
 要するに、クライエントにとってセラピストは、あくまでネットの向こうの存在であって、実体や実感がないから、転移が生じにくいという話らしい。著者は、「関係が断てる」ことをネットセラピーのメリットとして重視していることもあわせて考えると、確かに、転移は生じにくそうな気もする。

 私個人的には、ネット上だから「実感がない」という説明の仕方が、いまいち「実感」できないので何とも言えないのだが、電子メールの「書き言葉」という性質が、意識を他者ではなく、自分に向けさせる可能性はあるのかも(そういえば「私的自己意識」とかいう概念もありました)。
 いずれにせよ重要な問題提起なような気がするので今後の課題かな。

 なお、インターネットセラピーでは、「幻覚や妄想を扱うことはできません」(p219)と述べられていたのも気になるところである。程度問題なのかもしれないが、幻覚や妄想と「現実」の関係が、本書ではやや捉えにくいかも。

▼「あとがき」には、本研究で明らかにされていないことが整理してあって、これは、ネットセラピーに限らずメディア上のコミュニケーション全般に関心のある人にとっても、参考になりそうです。
  • 1)フレーミング(ネット上での言い争い)のメカニズム
    著者が掲げている「ネットに対するアクセス頻度の差が誤解の原因になる」と いう仮説は、確かに検証する価値があるような気もする(先行研究がありそう な気もしないでもないけど)
  • 2)ひきこもりとネットセラピーの関係
    「ネットはひきこもりや不登校を蔓延させる温床なのか、それとも彼らの心の 健康を取り戻す道具となりうるのか」という対立的な問いは、古典的ではある が変わらず重要な問題なんでしょうね。
  • 3)ネットと家族関係
    ネットによって家族関係はどう変化するのか、どんな影響があるのか。これは確かに、もっと研究が行われても良さそう。
 私の日記の読者(ありがたいことです)は、なぜか臨床系の方も少なくないらしいのですが、メディア&コミュニケーション研究に関心がある方には、オススメかもしれません。参考文献やコラム等も、充実してます。

読書メモ:○と△と□ふたたび

▼オリジナルは2003年3月に書かれたものです。

▼以前、『セックスと嘘とビデオテープ』(映画)や、「部屋とYシャツを私」(平松愛理)や、『恋愛と贅沢と資本主義』のように、3要素を並べた作品をネタにしたことがあったが、よくよく見ると、結構多い。

 巷ではえらく評判が高い(が、値段が高くて買えない)  は、一見、何の関係もなさそうなゲーデル(不完全性定理で有名な数学者)、エッシャー(騙し絵で有名だよね)、バッハ(言わずと知れた音楽家)を、アクロバットに並べている。←数学が分かればもっと面白く読めるんだろうけど、またチャレンジしてみようかな、と思ってみたり。

▼一方、↓は、「ハエ」「マウス」「ヒト」というこれまた、一見、距離がありそうな3つを、生物という次元で並べているし、
 新聞書評でも、結構、話題になった(ような記憶がある)、大書。『銃・病原菌・鉄』では、銃、病原菌、鉄の3つの要素を切り口に、1万3000年の人類史を語ってしまおうという大書(注:ちなみに私は、途中まで読んで挫折しました。要するに、いくつかの要素を取り出して、歴史を論じるのも「あり」なんだという間違った理解をしそう)。
▼自分にとって重要な3要素(の関係)を考えるだけでも面白いかも。

 「愛」「心」「真理」の3要素をもってくれば宗教書が書けそうだし、「愛」「愛」「愛」だったらジョン・レノン、もしくはおさるさん(あーいあい♪)

 人間関係も、第三者が入ってこそややこしくなることもあれば、コミュニケーションが深まる場合だってありそうだ。純粋な二者関係っていうのはなくて、常に言葉や、道具に媒介されているという言い方もできそうです。

 私は、今日の心境は、「エッシャー、ハエ、病原菌~不思議な謎の生命」ということにしておこう。そういえば「だんご三兄弟」も、三者関係ですね。

« 2003年8月 | トップページ | 2003年11月 »

ad


2012年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29      
無料ブログはココログ