▼オリジナルは2002年8月に書かれたものです。
▼キャリア(デザイン)に関して、いくつか本を買って集中的に読んでみた。私は短期的なものの見方をしがちなので、長期的な視野でキャリアを考えてみたいと思ったのであった。
今回いくつか読んだ本で、「あたり」だったのは金井先生の、『
働くひとのためのキャリア・デザイン』で紹介されていた『
トランジション』である。結局、キャリア関連の本を読もうと思っても、心理学色が強くなってしまった。
『トランジション』の著者は、臨床心理学+組織論系の人らしい。内容も、
神話や
通過儀礼の例が前面に出てくるなど、臨床色が強い。訳者にも指摘されているが、確かにユングの影響を受けていそうな感じがする。
なお翻訳者も、臨床心理学の人である(金井先生は経営系が専門とされているが、かつては臨床を目指したこともあったそうだ)。
▼トランジションとは「(人生の)転機」とか「移行期」を指す言葉である。著者によれば、「関係の喪失」「家庭生活の変化」「個人的変化」「仕事や経済上の変化」「内的変化」(p35-36)等が、転機の例としてあげられる。
要するに、「自分っていったい何だったのだろう?」と悩んでみたりするような出来事が生じている時のことだと思えばいい。
私は個人的には、(啓蒙書と呼ばれるジャンルに描かれる)「変化を恐れるな!」的な、メッセージは好きではない。そんなことより「恐れ」がどこから生じ、恐れとどう向き合うかが問題なはずである。
本書で描かれた変化のプロセスは、その意味でも参考になりそうだ。
本書では、変化を3つのプロセスに分けている。
最初に「終焉」を掲げているところが、最大の特徴…と言えるかもしれない。このプロセスをどう経験するかで、人生の転機の意味も変わってくるだろうし、自分自身の変化と存在のあり方も違ってくる
以下、それぞれ3つに分けて要点をまとめてみた。
「何かが終わる」時 (終焉)
なぜいきなり「終焉」から始まるのか。
最初戸惑うが、よくよく考えてみれば納得がいく。なぜなら、本来、何かをゼロからスタートするといっても、その時点までの経験や過去が必ず、何かしら関係するから、まったくのゼロということはないからだ。しかも何かをスタートすれば、何かを失っている=終えているはずである
しかし、何故か不思議なことに、「何かが終わったこと」を語るよりは、未来の目標や目的を語ることが優先されることの方が多いのが実情である。このことが、トランジションの意味を見失わせていることは確かに多そうだ。
著者は、「何かが終わる」時の特徴として、
- 離脱 慣れ親しんできた場所や社会的秩序から離れること
- 覚醒(かくせい=disenchantment) 幻から現実への移行
- 方法感覚の喪失 さまよい、混乱し、自分の居場所を失う
などをあげている。確かに、何かの終わりは、あまり美しいものではないし、目を向けたくないものである。
しかし、これをくぐり抜けないと、次のプロセスに移れないのだそうだ。
「ニュートラル・ゾーン」(中立圏)
ニュートラル・ゾーンに関しては、著者は「深刻な空虚感」は言葉を与えている。アイデンティティの喪失や覚醒感を経験しつつある時は、この空虚な時間をただ生きることが重要らしい。
楽しい時は楽しみ、退屈な時は退屈でいる。孤独な時は孤独で、悲しい時は悲しめばいい。(p169)
なんて言われても、どないせちゅーねんと突っ込みたくなる。しかし、重要なのは転機の時には、
無理に結論を出さないということであろう。モラトリアムも、ただの移行期じゃなくて、「何かが終わり」「何かが始まる」間と見なすと、もっともらしくなるような気もする。
が、ちゃんと著者は、その前の部分で釘を刺していた。
私がここで方法感覚の喪失や「終わり」について語っていることは、個人的苦痛を単に正当化したり、ごまかしたりするために使われる危険がある。(略)。それは真の体験を否認することであり、トランジションのプロセスを損なうことである(p137)。
つまり、何かの終わりも空虚感も、正当化はしてはならない。無理に結論を出さず、正当化もしない。不条理な世界の中で、ニュートラルでいることは簡単なことではなさそうだが、バランスの加減は確かに重要そうだ。
「何かが始まる」時(開始)
何かが終わり、ニュートラルな時間を過ごすと、何かが始まる。しかし、本当に何かがはじまるのと、防衛的に(無理に)何かを始めるのは違うらしい。この見極めをいかに行うかが、最終段階の最大の難点だ。
「始まり」と防衛的反応を区別できるような心理学的リトマス試験紙はないのだ(略)。あなたはほんとうに「終わり」を経験してニュートラル・ゾーンに突入し、そこであなたの望む「始まり」を見いだしたのか、それともその「始まり」は「終わり」を避け、ニュートラル・ゾーン体験を放棄するための策略ではないのかという点を検討するのである(p191)。
一般に、何かが始まってしばらくして、自分を安全な位置においてから「終わり」を迎えようとすることが多い。しかし、本書によれば、それは本当の「終わり」ではないらしい。
微妙な違いだし、明確な区切りはできないような気もするし、そもそも終わりの区切りなどないような気もするが、この違いは重要そうだ。
「学び」に関して言えば、何かを学ぶということは、過去のできなかった自分を否定するということである。
それを否定や忘却ではなくニュートラルなものとして捉えたいものだ。
この本、読むところ読むところ、非常に参考になります。
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