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2003年8月

読書メモ:統計で嘘をつく

▼オリジナルは2003年2月に書かれたものです。

▼いよいよ卒論、修論の提出時期です。12月~2月になると、私はなぜか、統計関連の質問を随所からいただきます。

 まったくもってありがたいことです。おかげで晩飯代やお茶代が浮きます(そのくらい、無報酬でやれよって気もしないでもない)。

 でも、直前になればなるほど、結果=有意な差を出すのに一生懸命になってしまうがために(何故か「差がなかった」」っていう研究は世の中では、あまり認められないらしい)、だんだん自分が「うそつき」に思えてきます。

 「だまされない」ための技術と、「だます」ための技術は紙一重なんでしょうかね。きっとそうなんでしょう。そう、なんなんです(自己完結)。

 『眠れぬ夜のグーゴル』はタイトルで損している気がする。

 にしても、「統計」に対して数学的にマニアックな質問をする人と、ころっと騙される(騙されたフリをしてる?)人に二分されるのは何故だろう。数字の魔力って奴ですかね。

 あと二、三冊くらい類書あったような気がするのですが、見つからない。
 誰かに貸したのかな…。

読書メモ:解けない問いを生きる

▼オリジナルは2003年2月に書かれたものです。

▼たまごを買った。6個パックである。たまごっていうのは不思議なもので、ただもっているだけでうれしくなる。

 あの丸み、ちょっと赤みがかかった白(あるいは純白)。割れやすいというのも卵の魅力である。ゆで卵よりは、なまたまごの方が緊張感があっていい。生で食べても、ゆでてもいい。安直な料理の代名詞でもある。

 一方で、本当においしい卵焼きをつくるのは相当な熟練が必要である。とろとろオムライスも、カルボナーラも、なかなか初心者には難しい。

▼ドゥルーズという哲学者がいる。いわゆる「ポストモダン」な哲学者である。彼の視点のユニークさの一つは、世界のイメージを「卵(ラン)」として捉えているところだ。卵(ラン)は潜在的な多様性であるという。何にでもなりうるが、そこに目的はない。それが「世界」なのである。

 ドゥルーズの捉える世界のイメージにもっとも近いものは、卵(ラン)である。(略)そこで世界を記述するとは、未分化な卵とその分化のシステムを描きだすことである。そして世界を生きるとは、卵の未決定性を生き抜いていくことである。何にでもなりうるが、しかし安住すべき拠点もすっかり定められた目的もない、そうした生成でありつづけることである。(p28)

 私の専門は何なのか未だに分からぬが、学部の頃はSFCの小論文なんぞに色気づいていたせいか、ポストモダン系の文献としてドゥルーズはとりあえず必読書だった。さっぱり分からなかったが、「リゾーム」のメタファーはしょっちゅう使っていた。これには友人の影響もあったと思う。

 年末だったか、この本でドゥルーズに久々に接してみたが、本書は劇的(?)に実に分かりやすい。おぼろげに記憶していることと、当時分からなかったことが交差するのは楽しいことだ。

 過去に、背伸びしてドゥルーズを読んでいたことは、後々の私の思考パターンに大きな影響を与えたことは間違いない。私は高校時は、天文、すなわち宇宙に関心があったが、大学時代以降「生命」に移っている。

▼最近の私にとって重要な問いは、以下に記されているような<かたち>なき場面に<かたち>が現れる、その瞬間をいかに捉えるか、である。

 生成とは何だろうか。未分化な卵が果たす生とは何だろうか。
 私は、それを<かたち>なき場面に<かたち>が生じてくるような、つまり<すがた>なき世界から<すがた>が現れてくるような、力のみなぎる場面であると描きたい。(p37)
 おそらく、ポストモダンの典型的な問いの立て方は、「世の中の根拠のなさ」にいかに立ち向かうか?である。
 私なりの読み方では、デリダは「根拠がないことを根拠にしている人」であり、ドゥルーズは「根拠のない世界そのものを生きよ」と言っているに見える(そういうふうにおぼろげに記憶していた)。

 どちらにせよ無と有が関わっていることには間違いない。
 死は<私>の不在として、<私>の脆弱さをあらわにしたり、<私>の究極的な目的とされたりして、<私>の倫理を描くときによくとりあげられる対象である。死の側から生を逆に照らしだすという論法も、きわめて数多く見うけられる。だがそこで死とは、生の不在であるがゆえに、それもまた実質的には何でも入れ込めることのできるブラックボックスのような対象でしかない。つまりそれは死そのものがもつ不在の強さ(脅し)を利用して、そこに<私>の中心性を投影するものにしかなりえない。
 <かたち>なき世界、<すがた>なき世界を、いかに捉えるか?
 解けない問いを、生き続けるしかないのであろう。

▼この手の本は何が分かったということよりも、何が分からないかを示す(ぼんやりと浮かばせる)力がある。その意味で、久々にいい本に出会った。

 ちなみに、今の私には、ただ卵のこわれやすさが頭に浮かぶばかりである。カモメはカモメ。卵は卵。岩手銘菓は「かもめの卵」が懐かしい。

 本書は130ページに満たない薄い本であるが、「解けない問いを生きる」という副題が暗示しているように「問い」に満ちている。

 ドゥルーズ本であるが、デリダとドゥルーズが対比的に捉えられていて(実際、対比的な立場だが)、現代思想の輪郭も分かりやすい。ベルクソンとのつながり現象学に関心がある(逆の意味で)人にとっても有用であろう。

 せっかくだから、続けて、デリダ(の入門書)でも読んでみよう。

読書メモ:思考のレッスン

▼オリジナルは2003年1月に書かれたものです。

▼最近、自分の喋る口調や文体がよく分からなくなっている。この現象について、丸谷才一氏が何かを書いていた記憶があったので、丸谷本を総当たりすること1時間。やっと見つけた文章は、日本では「文体を論じるということがほとんどない」という結論でした。うーむ。他を探した方が良かったかな。

一体に日本の評論は~文藝評論でもそれ以外の評論でも~、文体を論じるということがほとんどない。日本の近代文化は文体を軽視する性格のものでした。(略)しかし、文体に気を配って読まなければ、ほんとうに文章を理解することはできないんじゃないか、僕はそう思ってるんですね。(p131)

 文体が思考に一定の制約を与えているのは間違いないと思うのだが、これからしばらくは、文体について考えてみよう。

▼『思考のレッスン』を読み直すのは久々なので、メモしていたことをあげてみる。ちなみにページ数は単行本版なので、ご勘弁をば。ちなみに、対話形式でとても読みやすい本です。文庫ならばお得感あるかも。

 以下、ただの読書メモ(半・箇条書き)

思考のホーム・グラウンドを持つこと
 最初に目にとまったのは、自分のホーム・グラウンドを持つこと、という文章である。「ホーム・グラウンド」とは、自分が何か考える時の足場(肩)になってくれるような先達(巨人)や、モノの考え方のことである。

 丸谷氏が例示しているのは、例えば、中村真一郎氏の場合は、プルーストと『源氏物語』だとか、山崎正和氏ならば世阿弥と現象学、大岡信氏の場合は窪田空穂とフランスのシュールレアリスム、夏目漱石ならイギリスの18世紀小説とオースティン。なるほど。さもありなんである。

 ホーム・グラウンドは、単なる専門ではく、他領域にもその枠組みを活かせることが重要らしい。

 ホーム・グラウンドでの知識経験を抱えて、専門以外の分野へもどんどん出て行くわけです。ヴィジターとしての他のグラウンドへ行って、そこで十分に戦うことができる、対等に戦える、そのことが大事なんですね(p152)。

よい仮説の立て方
 そういえば以前、授業で説明をしようとして、結構、本気で悩んでしまったのが「仮説の作り方」の話だった。仮説=検証ネタは、いろんな例がありそうなのだが、さすがは丸谷さん、説明が分かりやすいです。

(インタビュアー)じゃあ、どうやったら「よい仮説」を立てることができるんでしょう?
丸谷 コツはいろいろあると思いますが、ここではまず、多様なものの中に、ある共通する型を発見する能力、それが仮説を立てるコツだと言っておきたい。(p220)(略)。

 その際、もう一つ大切なことがあります。型を発見したら、その型に対して名前をつける。フロイトは、息子の母親に対する愛着を「オイディプス・コンプレックス」と名づけた。ユングは「集合的無意識」という言葉をつくった。本居宣長は日本人の恋愛好きを「もののあはれ」と要約した。(p223-224)

 要するに「見立て」と、ラベリングが重要ってことですね。

 わたしゃ、自分が担当した授業で「仮説」の作り方を、「差異」と「共通性」というちょっと分かりにくい言葉で説明してしまったのですが、こっちの方が分かりやすかったかなとちと反省。
 授業準備時に、「差異」といえばドゥルーズでしょう、ということで『差異と反復』なんてもんを読み始めてしまったがために、大変なことになっていた記憶あり。適切な参考文献との出会いも重要ですね。

 「命名力(コピー力?)」についても、再度、整理せねば。

●そもそも年表とは何か

年表の最も基本的なかたちは、物語と対立するものであるということですね。(p182)

 ということであった。
 私は、自分の物語=研究が「成長物語」化してしまうのを嫌うので、時間軸を敢えてはずした物語を描くのだが、その限界がちと分かった。

●書くとはいかなることか(谷川俊太郎氏の文章が引用されていた)

 こえをだす いきものは、
 たくさんいるね。
 けれど ことばを
 はなすことの できるのは、
 ひとだけだ。

 これが文章というものなんですね。
(略)。一番大事なのは、言いたいことがあるということです。

 やはり谷川俊太郎氏は偉大だ、と確認して読書メモ終了。

読書メモ:認知インタビュー

▼オリジナルは2003年1月に書かれたものです。

▼最近、諸事情により過去の記憶を蘇らせる必要が出てきている。そこで今回は、自分の過去の記憶を振り返る技法について検討してみよう。

 私はインタビューを利用した研究をやっている都合上(インタビューに付き合ってくださる学生の皆様には、ただ感謝するばかりです)、この機会を利用して「インタビューもひとりでできるもん!」を実践しない手はない。

 いろいろシチュエーションはあろうが、今回は、自分自身に事情聴取をするという状況設定を採用することにした。

 当然、容疑者は私。取り調べを行うのも私である。

 私が知る限り事情聴取といえば、狭い部屋、容疑者、机、電気スタンド、二人の刑事に、丼の出前である。雰囲気作り(エクスペリエンス!)を重視する私としては、まずは丼モノの作成に取りかかることにした。

 今晩は、親子丼で決定。

 私が住んでいる寮はそれだけで拘置所みたいなもんなので、その点は問題はない。問題は、どうやって聞き出すか?である。ドラマなんかでは「脅し」と「落とし」が使われるような気がするが、脅しは苦手なので、何かの本で読んだ「認知インタビュー」の手法を使ってみることにした。

▼「認知インタビュー」は、事情聴取、とくに子どもからの情報取得に有用な手法らしい。孫引きする限り4つのステップがあるとのことだ。

 以下の説明は、以下の2つの文献を引用して合成したものである。
  • (1)証人に事件に関するあらゆる記憶をあげてもらう
    事件が起こった場面の環境のイメージや印象を形成するため、目撃した自称の文脈を心の中で再構築するよう教示する。またそのとき、どのような感情や考えを抱いていたかを思い出すように求める。すなわち、”状況依存効果”を利用する方略である。
  • (2)詳しい記憶を取り戻すために、事件が起こった状況を頭の中で復元させる。
    たとえ重要でないと思っても、あるいは断片的にしか思い出せないことであっても、編集をいっさい施さず思い出すまますべてを報告するように求める
  • (3)事件を異なる時間経過のなかで思い出してもらう。
    一連の事象をさまざまな時間順序で、また出発点を変えて報告するように求める
  • (4)事件を異なる視点で眺めさせる。
    異なった場所から、あたかも別の人の視点に立って事象を思い出す作業を求める
 なるほど。参考文献(原著)をげっとせねば…と思いつつ、ヴァーチャル認知インタビュー「ひとりでもできるもん」を試してみる。結論:一人で過去の記憶をありのままに思いだそうとするのは、なかなか容易ではない。しかも、余計な記憶も同時に蘇ってくるのがやっかいである。

 刑事ドラマでありがちな「おあずけ作戦」(吐かないと飯が食えない)を採用し、夕食前に試してみたが、「早くご飯が炊けないかな」「親子丼はやっぱり卵の質が命なんだよねぇ」などと余計な思考が上まわるようである。

 もしかしたら、私には、いかりや長介みたいな役柄が欠けているのかもしれない。ちょーさんに、「おまえオレに言いたいことあるだろう」などと言われたら、そんな気がしてきそうだからである。
 「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする(俵万智)
 関係ないが、みのもんたに、奥さんー、などと迫られたら、悩みがなくても、「姑が…」「嫁が…」などという話を、でっち上げてしまいそうだ。

 マジメなことを書いておくと、この手法はなかなか使えそうである。もっと早めにこの文献に気づいておくべきだった。なお、認知インタビューは、ひとりでやるもんじゃありません。誤解なきよう。

読書メモ(ミニ):サーベイとフィールドワーク

▼オリジナルは2002年9月に書かれたものです。

▼最近、授業の準備の関係で、いわゆるアンケート調査(質問紙調査)の調査報告書に類に集中的に目を通しています。

 にしても世の中、ゴミ調査がやたら多いことに驚かされる。先日も、某D社の調査を授業で取り上げたのだが、あまりのひどさにびつくりしてしまった(なんて偉そうなことを言ってみたり、みなかったり)。

 永遠の悩みなのかもしれないが、フィールド調査とサーベイの両者のバランスって、どうやったら身につけられるのだろうか。アンケート作成に使う神経と、フィールドワークやグルインで胃を痛めることを比較すると、前者の方が、確かに楽なような気がしないでもない気もする。

 そう言いつつ私は、どちらかというと後者の方が性に合う。
 佐藤郁哉先生の新刊は、ブックガイド&ケースが充実していてオススメ。フィールドワーク3部作ってことになるのでしょうかね。  これら一連の著作で、日本の質的研究の「質」も向上するんでしょうか。
 フィールドワーク関連は、別途、まとめる必要があるかも。

読書メモ(ミニ):生き物をめぐる4つのなぜ

▼オリジナルは2002年11月に書かれたものです。

▼最近、自分の関心がやや人文・社会系に寄りすぎているので、新書ではあるが、まとめて自分の専門外の本を読んでみる。最近はもっぱら「進化」についてきちんと語れるようになる、というのがプチ目標である。
 この本は、オランダのニコ・ティンバーゲン(ノーベル医学・生理学賞を受賞しているそうだ)の動物行動学の「4つのなぜ」にもとづいている。「4つのなぜ」とは、「至近」「究極」「発達」「系統」という4つの観点のことを言う。
  • (1)至近要因
    その行動が引き起こされている直接の要因は何だろうか
  • (2)究極要因
    その行動は、どんな機能があるから進化したのだろうか
  • (3)発達要因
    その行動は、動物の個体の一生の間に、どのような発達をたどって完成されるのだろうか
  • (4)系統進化
    その行動は、動物の進化の過程で、その祖先型からどのような道筋をたどって出現してきたのだろうか
 高校で学ぶ「生物」は、実は「至近要因」がほとんどだったらしい(どうりでつまらないわけだ)。「進化」や「発達」といった観点は、高校生物では、ほとんど出て来なかったし。おそらく昨今、最もホットなはずなのに。

 本書で取り上げられるトピックスは、具体的には「雄と雌」「鳥のさえずり」「鳥の渡り」「光る動物」「親による子の世話」「角と牙」「人間の道徳性」などなど。ぞれぞれ「4つのなぜ」の観点から、謎が明らかにされていく。

 初心者(その分野に初めて接近しようとする人)にとっては、ある分野の見取り図(問いの立て方)を、分かりやすく示してくれる本書のような存在は、大変ありがたい。学問は厳密であろうとすればするほど、細分化を志向せざるを得ないけど、このように横断的に捉える視座も重要そうである。

 「4つのなぜ」は、他の分野にもそのまま応用することが可能であろう。
 私なりに応用してみたい、と思ってみたりして。

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読書メモ(ミニ):動物絵本をめぐる冒険

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

▼なかなか面白い本に出会いました。タイトル買いだったけど、久々に当たりかも。村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んでなかったら、そもそも本書の存在に気づかなかったような気がしない。タイトルの付け方一つで本の売り上げが違うって理由も分からないでもないな。

 動物と人間のかかわりに関しては、私も、前々から注目していたのですが(クマとかウサギネタを日記に書いたことがありました)、本書のように「絵本」や「物語」を素材に考えるのも実に楽しいですね。

 ドラえもんはネコ型ロボット、AIBOは犬、プーさんやモモ、パディントンやテディはクマ…とそれだけで、いろんな妄想が駆けめぐってしまう私。

 じっくり読めていないので、また改めてメモを書くことにしようっと。

▼動物小説(どういう定義じゃ)の金字塔といえば、ジョージ・オーウェルの『動物農場』でしょうかね。原著で読んだ初めての小説。日本では、川上弘美の世界も動物小説の一種として捉えられるのでしょうかね。

  • 川上弘美(文庫).神様.(2000)
  • 川上弘美(2002).龍宮 .文藝春秋

 この手の論考は、文学・小説に精通しつつ、文化人類学をバックグラウンドにもっていると強いのでしょうけど、時間がかかりそうな研究です。

▼自分が小中学校の時、「好きな動物」という切り口で好きなこと(今で言う総合学習の時間)をやらせてくれたら、どんな「学習」をしたのだろう。やはり、絵本や物語ではなく『ファーブル』とか『シートン』から入ったのかな。

読書メモ:実践コミュニティ

▼オリジナルは2002年12月に書かれたものです。

▼A氏に教えてもらったのだが(いつもありがとう)、Cultivating communities of practice の翻訳が出た。「実践共同体(Community of practice)は、最近、どうやら各所で注目されている概念らしい。

 随所で、ちらほら実践共同体に関する引用を読むが、性急で乱暴な解釈をすると「既存の組織形態を越えた、新しい組織形態が必要」という話で終わってしまう。本書も注意深く読まれる必要があるような気がする。

 「実践コミュニティ」には、さまざまな捉え方があるが、知識の創造を目的とする実践的な集団であり、かつメンバー間の互恵性や相互成長を重視する集団というイメージで捉えると、分かりやすいような気がします。

実践コミュニティ(略)とは、あるテーマに関する関心や問題、熱意などを共有し、その分野の知識や技能を、持続的な相互交流を通じて深めていく人々の集団である(p33)

コミュニティは知識を有効に体系化する上で、極めて重要な要素である。それは影響を与え合い、共に学習し、関係を築き、そしてその過程で帰属意識や互いに関するコミットメントを築いていく人々の集団なのだ(p71-72)。

 本書は単に理論提示に止まらず、「実践コミュニティ」をいかに発展、促進していくかに焦点が当てられているのが「売り」なんでしょうかね。

▼なお、本書ではネット上のコミュニティ(オンラインコミュニティ、ネットコミュニティ)に特化した言及はなされていません。
 「実践コミュニティ」よりさらに広義のネットコミュニティや、ネットコミュニティを活かしたビジネスに関心を持っている人は、以下の2冊を合わせて読むと、さらに理解が深まりそうな気がします。

 とくに『ネットコミュニティ戦略』は、ネット上のコミュニティを「実践的」に捉えるヒントになりそうです。ただしアメリカの事例が多いので、日本のケースは、さらに以下の2冊が参考になるような気がします。

 知恵市場は初期から注目してたのですが、参考になる点、大です。

▼もっとも私としては、実践コミュニティ的な見方というよりは、金子郁容氏的な「ボランタリーなコミュニティ」に魅力を感じてしまうのですが…。

 コミュニティを枠づける「ルール」や、自発的な役割である「ロール」、コミュニケーションの道具としての「ツール」といった軸や、「弱さの強さ」「相互編集」など、違った観点でコミュニティを捉える足場になりそうですし。

 その他の本は…、まとめ始めるといろいろありそうですが、

 あたりでしょうかね。この手の話は、シンクタンクなどの企業体が、レポートを出していたりするので、そういう文章も参考になるかもしれません。

 関連するところでは、↓などでしょうか。

 この分野、もうちょっと体系的にまとめなくっちゃいけませんね>自分。

読書メモ:アニメとメディアリテラシー

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

▼最近出たばかりの『現代日本のアニメ』を読み進める。

 私、かつて「今後は、メディアリテラシーが重要だよね」と抽象論を振りかざしていた時期があったのです(注:メディアリテラシーっていうのは、一言でいえば複眼思考で批判吟味しながらメディアに接しましょうね、という話)。

 しかーし、『紅一点論』を読んで愕然。

 だって、本書を読むまではアニメに出てくるような、キャラクターの役割やジェンダー的な要素に、なーんにも疑問を持てなかったんですもん。

 中学生の時だったか、宇宙戦艦ヤマト(地球防衛軍なのに)、日本人しか乗っていない!ことに気づいた時は驚きだったけど(笑)、紅一点現象は「そういうものだ」と流してしまっていたらしい。
 ジェンダー系は、やっぱり弱いなぁ。一番近くて遠い異文化ですな。

 私なりに、メディアに接する時は、時々メディアリテラシーのことを思い浮かべるようになってはいたのですが、社会調査(職業病)ならともかく、日常的に接するメディアと距離を置くっていうのは実に難しい。

▼ちょっと前に出た本ですが『物語の放送形態論』も、メディアリテラシー的視点としては非常に面白い。著者らが指摘しているのは、「宣伝(広告商品)」と「番組」が一体化現象。
 確かに、視聴者は一つの流れで番組を見てるのは間違いないけど、そんなことは疑問だに思わなかったのでした。

 これって、タイアップやキャラクタービジネスの立場からしてみれば「何が悪いの?」と開き直られてしまいそうですが、最近のベネッセの「しまじろう」戦略を考えると、ちょっと構えてしまう気がします。
 「しまじろう」を知らないって?私もあまり存じなかったのですが、NHKの「幼児視聴率調査」によれば子どもにはそれなりに人気の模様。

 キャラクタービジネスっていうのも、今後、注目すべきなのかも。

 この手の心理学的研究ってあるんでしょうかね。

▼で、本題。『現代日本のアニメ』は海外研究者が書いただけあって、実に斬新。日本文化論としての色が強いような気もするが、これまで私が目にしたような「おたく」系のような読みではない。

 ↑のような本はそれはそれで非常に興味深いのだけれども。
 話が広がりすぎたので、この読書メモはまた続編を書きます。はい。

読書メモ:授業を変える

▼オリジナルは2003年5月に書かれたものです。

▼以前から、読書メモを書きそびれていた『授業を変える』を、最近、読み直したので、これを機に、多少、自分なりに整理してみた。

 本書は、人の学び(How People Learn)に関心のある学生、教員の、ほぼ必読書と言ってもいいテキストである。
(私が、こういう押しつけがましい書き方をするのは極めて珍しいかも)。

 理論的な側面のみならず、最近の実践事例が多く紹介されていて、教育場面でも参考になるはずだ。献リストや引用文献が相当充実しているので研究を深める場合にも重要な手引きになることは間違いない。
 翻訳も、読みやすくて、原著より分かりやすい箇所もあるかも。

さかなはさかな
 さて、どうやって本書のメモを書こうか。

 と思って、以前、本書を日記で取り上げた時の文章を読み直してみたら、過去の私は、コラムで紹介されていたパンプキンパイの話を取り上げ、いつの間にか、話題はさだまさしや、あみん(♪待つわ)に変わっていた。

 どうも私は、全体を鳥瞰的に捉えるのが得意ではなく、ささやかな出来事や記載にとらわれてしまうようだ。
 今回は、その反省もあって、まともな読書メモを書こうと思ったのだが、懲りずにコラムの話題から入ってみよう。

 本書はBoxで紹介されているLionniの絵本なくして語れない気がする。

  • Leo Lionni (Reissue 1987). Fish Is Fish. Random House Childrens Pub

 この絵本は、おそらくLionniの著作の中でもよく知られている名作だと思うが、本書でも数カ所でFish Is Fishが参照されている。

 一言で言ってしまえば、「さかなからみた世界」が何たるかを描いた作品である。

 物語で、さかなはおたまじゃくしと出会う。おたまじゃくしはやがてカエルに成長する。カエルは陸地の世界を、さかなに教えてあげるのだが、カエルにとっての世界と、さかなにとっての世界は、本質的に違うのだ。

 これを、学習の文脈で読むとどうなるのか。『授業を変える』によれば、この絵本に描かれているのは、学びの創造的な側面と危険性なのだそうだ。(以下、引用はすべて翻訳書)。

この童話は、既有知識を基礎にして新しい知識を構築することに内在する創造的な側面と誤解をもたらす危険性の両面を如実に示している(p10)

 人が学ぶということは(あるいは、授業をカエル)ということは、確かに、創造的な営みではあるが、同時に、その人が既に持っている知識の根本的な見直しを迫ることでもあり、容易なことではない。

 本書は、Lionniの世界のおたまじゃくしであり、カエルであると同時にさかなの物の見方を示しているとも言えよう(違うか)。

第1部 学習科学の重要な知見
 前置きはさておき、本書を簡単に整理してみよう。本書は、4部構成になっていて、第1部は、本書全体の見取り図である。本書によれば、「学習と授業」に関わる学習科学の重要な知見は、以下の3つにまとめられるらしい(p14-17)。

  • (1)子どもたちが教室にもち込んでくる素朴概念は、しばしば科学的理論と矛盾する。そのような場合、学校で教えられる新たな科学的な概念や知識を理解するのが難しくなる。また仮にテストに備えて科学的な概念や知識を学習したとしても、教室の外ではまちがった先行概念を保持し続けるだろう。
  • (2)学習者が探求能力を発達させるためには、(a)事実についての幅広い深い基礎知識を身につけ、(b)その事実を概念の枠組みの文脈と関連づけて理解し、さらに(c)スムーズに検索・応用できるように知識を体制化しなければならない。
  • (3)メタ認知能力を促進させる教授法では、生徒たちに学習目標を立てさせたり、その目標への学習過程をモニタリングさせることによって、みずから学習を制御し進めていく能力を高めることができる

 要するに、人は何かを理解しようとする時、自分自身の色眼鏡(既有知識)を通して物事を見ているということである。その色眼鏡の存在にどう気づかせ(メタ認知)、また、必要に応じて修正・拡張、体制化させるか重要ということになるのだろう。

第2部 学びの理論
 第2部は、学習に関する理論の紹介である。認知心理学や発達心理学の概観書で紹介されていた学習論が、コンパクトにまとまっている。

 「熟達」では、人が物事を習熟していく過程、あるいは専門家(熟達者)と初心者の違いについて。「転移」では、学んだことを他の場面でいかに応用するかについて、「認知発達」では子どもは物事をどのように学ぶのか、「神経科学」では、脳のメカニズムについての最新の知見の紹介が行われている。ここまでまとまったテキストが、翻訳されたのはありがたい。

 ちなみに、私のお気に入りのパンプキンパイの話題も、第2部に入っている。分数の授業で「パンプキンパイ」の分割を例に使おうとしたら、生徒は、分数の授業ではなく、味や匂いに気を取られてしまったという話だ。

 ささやかな文化的な違いが、学習に影響を及ぼすこともあるらしい。

第3部 学習環境のデザイン
 第3部は、実際の教育場面で、授業をどのように変えていくかについて、多くの事例や知見が紹介されている。

 学習の場をデザインするという「学習環境」の観点、また第2部で紹介されていた知見を実際の教育場面で活かす「教授法」、生徒のみならず教師の学びという観点でまとめられている「教師の学習」、学習をテクノロジーの面から支える「情報教育」など、非常に密度の高いまとめになっている。

 第3部で繰り返し触れられているのは、学習を促進するための学習環境デザインの4つの指針である。
 「学習者中心」「知識中心」「評価中心」が中心的な指針であり、これらすべては「共同体中心」の学習環境の上に成り立っている。

 それぞれを簡単に整理してみよう。

  • 学習者中心
    学習者中心の環境とは、「学習者が教室にもち込む知識や、技能、態度、信念に対して十分な注意がはらわれているような環境」(p135)のことである。言い換えれば、教師が教えたいことをただ伝達するのではなく、学習者が持っている既有知識(概念や文化)を踏まえた授業展開の必要があるということだろう。
  • 知識中心
    知識中心とは、学習者の「理解に基づく学習」や「転移が生じるような学習」を促すことで、真の意味での「知力をもつ」支援を行うことである(p137)。つまり学習者が既にもっている知識を、いかに変容させるかという観点であり、先の「学習者中心」と重なる部分が多い。
  • 評価中心
    効果的な学習環境をデザインするためには、学習者に対して何らかの「フィードバックを与えたり、修正の機会をもたせること、そして評価されることが学習者の学習目標に沿っていること」が重要とされる。
    形成的評価によって、教師と学習者は自分の学習過程の進歩を可視化したり、モニターすることが可能になる。(p23)
  • 共同体中心
    学びは個人の営みではなく、学校や教室といった集団や組織や、共同体への参加を通した営みであるという考えが、「共同体中心」の基本的な考え方である。そこでは、考えや知識を、個人が独占するのではなく、他者と共有し、共同で吟味することが重視される。

 これらの4つの原則を、いかに授業の中で実現させていくかが、第3部では詳細に描かれる。
 たとえば、知識中心型の学習環境デザインのためには、「それぞれの年齢で何を教えるのが発達的にみてふさわしいのか」(p139)という認知発達的な見方、また「どうしたらある学問分野についての統合的理解を促進できるのか」(p140)といった観点が求められることになる。

 そのためには、学習者中心、知識中心、評価中心、共同体中心の見方を統合的に捉えながら、実践を進めていかなければならない。

  個人的には、知識中心型を実現させる教授法の一つとして、「漸次的形式化」という教授法が紹介されていたのが興味深かった。
 漸次的形式化とは、「生徒が学校へもち込んでくるインフォーマルな概念が、指導の過程でどのように変容しフォーマルな(形式的な)ものになっていくのかを、生徒自身が発見できるように、段階を追って少しずつ支援していく教授法」である(p138-139)。
 この他にもいろいろな紹介があって参考になる。

第4部 まとめ
 まとめには、上記の要約と、政策的な提言が含まれる。

▼というわけで、いざ要約してみようとすると、いつものことながら自分でも分かっていないことに気づかされて、結構愕然とする。結局は、さかなはさかな、カモメはカモメなんだろうな。たぶん。

 なお、第3部の具体例としては三宅なほみ先生の新刊、

 また第2部をさらに深める(とくに言語発達)ためには、今井むつみ先生の新刊が、何かと参考になるのではないかと思います。

読書メモ(ミニ):絵本について

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

▼松岡正剛氏の「千夜千冊」で、『人生ではじめて出会う絵本100』

 が紹介されていた。平凡社は、ブックガイドを出すのがうまい。この本は、確かにお薦め。でも、なかなか絵本って書店にないんだよね。

▼かくいう私も、絵本と「再会」したのは数年前のことでした。
 これには複雑(でもないが)な経緯があります。

 一つは、スヌーピーの翻訳者が谷川俊太郎であるということに大学生になって気づき驚く(河合隼雄の名も、そこで再確認する)。ちなみに私は小さな頃からスヌーピー好きだったりします(そういえば、お願いだから同じキャラクタ製品としても、キティとスヌーピーを並べないでね)。

 もともと谷川俊太郎の名は、小中学校の授業やテストで知っていましたが、谷川俊太郎を「再発見」したのは塾講師をやってる最中でした。国語のテキストに谷川俊太郎の詩が出てきて「詩って、こんなに面白いものだったのね!」と教えながら感心してしまったのです。

 にしても、学習研究でいうところの「説明効果」類似って感じですな。生徒さんには悪いが、授業中、一人感激モード(?)だったらしい。

 第三に、よくよく谷川俊太郎の業績を見ると、絵本の翻訳や、絵本の作成に関わっているということが判明し、思わず何冊か購入…という順序です。
 その前後に、衝撃的に絵本を購入したことも影響してますけどね。

 僕は絵本を読んだからといって癒されるとは思わないのですが、絵本から人はいかに学ぶか?考えてみたいですねぇ(研究浮気性)

▼何の本だったか穂村弘氏(歌人=変人)が、自分の部屋に「絵本」と「エロ本」が同居していることを、ジギャクテキに書いていたが、いったいどうやったら、絵本の世界と、エロ本の世界が並列するのだろう…。

 相当、屈折した幼児期を送っていたのではないか?と、「トラウマ」的発想を持ち込みたくなるが、世の中、そんな単純な因果関係あるわけないか。

読書メモ:トランジション

▼オリジナルは2002年8月に書かれたものです。

▼キャリア(デザイン)に関して、いくつか本を買って集中的に読んでみた。私は短期的なものの見方をしがちなので、長期的な視野でキャリアを考えてみたいと思ったのであった。

 今回いくつか読んだ本で、「あたり」だったのは金井先生の、『働くひとのためのキャリア・デザイン』で紹介されていた『トランジション』である。結局、キャリア関連の本を読もうと思っても、心理学色が強くなってしまった。
 『トランジション』の著者は、臨床心理学+組織論系の人らしい。内容も、神話通過儀礼の例が前面に出てくるなど、臨床色が強い。訳者にも指摘されているが、確かにユングの影響を受けていそうな感じがする。

 なお翻訳者も、臨床心理学の人である(金井先生は経営系が専門とされているが、かつては臨床を目指したこともあったそうだ)。

▼トランジションとは「(人生の)転機」とか「移行期」を指す言葉である。著者によれば、「関係の喪失」「家庭生活の変化」「個人的変化」「仕事や経済上の変化」「内的変化」(p35-36)等が、転機の例としてあげられる。

 要するに、「自分っていったい何だったのだろう?」と悩んでみたりするような出来事が生じている時のことだと思えばいい。

 私は個人的には、(啓蒙書と呼ばれるジャンルに描かれる)「変化を恐れるな!」的な、メッセージは好きではない。そんなことより「恐れ」がどこから生じ、恐れとどう向き合うかが問題なはずである。
 本書で描かれた変化のプロセスは、その意味でも参考になりそうだ。

 本書では、変化を3つのプロセスに分けている。
  • 「何かが終わる」時 (終焉)
  • 「ニュートラル・ゾーン」(中立圏)
  • 「何かが始まる」時(開始)
 最初に「終焉」を掲げているところが、最大の特徴…と言えるかもしれない。このプロセスをどう経験するかで、人生の転機の意味も変わってくるだろうし、自分自身の変化と存在のあり方も違ってくる

 以下、それぞれ3つに分けて要点をまとめてみた。

「何かが終わる」時 (終焉)
 なぜいきなり「終焉」から始まるのか。

 最初戸惑うが、よくよく考えてみれば納得がいく。なぜなら、本来、何かをゼロからスタートするといっても、その時点までの経験や過去が必ず、何かしら関係するから、まったくのゼロということはないからだ。しかも何かをスタートすれば、何かを失っている=終えているはずである

 しかし、何故か不思議なことに、「何かが終わったこと」を語るよりは、未来の目標や目的を語ることが優先されることの方が多いのが実情である。このことが、トランジションの意味を見失わせていることは確かに多そうだ。

 著者は、「何かが終わる」時の特徴として、
  • 離脱 慣れ親しんできた場所や社会的秩序から離れること
  • アイデンティティの喪失 自己定義の手段を失うこと
  • 覚醒(かくせい=disenchantment) 幻から現実への移行
  • 方法感覚の喪失 さまよい、混乱し、自分の居場所を失う
 などをあげている。確かに、何かの終わりは、あまり美しいものではないし、目を向けたくないものである。
 しかし、これをくぐり抜けないと、次のプロセスに移れないのだそうだ。

「ニュートラル・ゾーン」(中立圏)
 ニュートラル・ゾーンに関しては、著者は「深刻な空虚感」は言葉を与えている。アイデンティティの喪失や覚醒感を経験しつつある時は、この空虚な時間をただ生きることが重要らしい。
楽しい時は楽しみ、退屈な時は退屈でいる。孤独な時は孤独で、悲しい時は悲しめばいい。(p169)
 なんて言われても、どないせちゅーねんと突っ込みたくなる。しかし、重要なのは転機の時には、無理に結論を出さないということであろう。モラトリアムも、ただの移行期じゃなくて、「何かが終わり」「何かが始まる」間と見なすと、もっともらしくなるような気もする。

 が、ちゃんと著者は、その前の部分で釘を刺していた。
私がここで方法感覚の喪失や「終わり」について語っていることは、個人的苦痛を単に正当化したり、ごまかしたりするために使われる危険がある。(略)。それは真の体験を否認することであり、トランジションのプロセスを損なうことである(p137)。
 つまり、何かの終わりも空虚感も、正当化はしてはならない。無理に結論を出さず、正当化もしない。不条理な世界の中で、ニュートラルでいることは簡単なことではなさそうだが、バランスの加減は確かに重要そうだ。

「何かが始まる」時(開始)
 何かが終わり、ニュートラルな時間を過ごすと、何かが始まる。しかし、本当に何かがはじまるのと、防衛的に(無理に)何かを始めるのは違うらしい。この見極めをいかに行うかが、最終段階の最大の難点だ。
「始まり」と防衛的反応を区別できるような心理学的リトマス試験紙はないのだ(略)。あなたはほんとうに「終わり」を経験してニュートラル・ゾーンに突入し、そこであなたの望む「始まり」を見いだしたのか、それともその「始まり」は「終わり」を避け、ニュートラル・ゾーン体験を放棄するための策略ではないのかという点を検討するのである(p191)。
 一般に、何かが始まってしばらくして、自分を安全な位置においてから「終わり」を迎えようとすることが多い。しかし、本書によれば、それは本当の「終わり」ではないらしい。
 微妙な違いだし、明確な区切りはできないような気もするし、そもそも終わりの区切りなどないような気もするが、この違いは重要そうだ。

 「学び」に関して言えば、何かを学ぶということは、過去のできなかった自分を否定するということである。
 それを否定や忘却ではなくニュートラルなものとして捉えたいものだ。

 この本、読むところ読むところ、非常に参考になります。

読書メモ:○×の技法

▼オリジナルは2002年9月に書かれたものです。

▼私はどうも『○×の技法』の類が好きらしい。

 最近出た本ででは、佐藤郁哉氏の『フィールドワークの技法』は私にとっては何度も読み直すべき本になっている。石弘之氏編の『環境学の技法』を読んで、「早く気象予報士取らねば…」と思わされたし(あまり関係ないが)。

 『調査的面接の技法』は、インタビューや聞き取り調査の際の非常によきチェックリストになっている。私も自前のチェックリストを作ったことがあるが、抜け落ちていた箇所をいくつも発見した。やはりこの手は、経験+複数人の協調が不可欠なのだろう。『カウンセリングの技法』も同じく。

▼ちょっと前に出版された本だが、『他者といる技法』は、私にとって非常に意味のある本だったし、『シナリオ・プランニングの技法』との出会いも悪くはなかった。安田雪氏の『実践ネットワーク分析』(副題を見よ)も、その分野では重要なテキストである。松岡正剛氏の『知の編集術』(これも副題ですが)も私にとっては繰り返し読むべき本になっている。

 ちょっと変わったところでは、『空腹の技法』なんて本もある。エッセイである。大御所は、フロムの名著の『愛するということ』。これを技法と訳してしまうのは日本語の場合、誤解を生みそうだがタイトルはArt of lovingであった。

  • ポール・オースター(著) 柴田元幸・畔柳和代(翻訳)(2000).空腹の技法.新潮社
 短歌も恋も、やはり「技法」の上に成り立つようである。
  • オウィディウス;樋口 勝彦 (翻訳)(1995). 恋の技法.平凡社

 福村出版の○×の技法シリーズは、必読の教科書である。他にもあったような気もするが、とりあえず手持にあるものだけリスト化。

 その他、私の研究分野では、こんな本もあった。どれも基本書だ。

 ○×の技法として最も知られた本は東大出版会の『知の技法』だろう。今やブックオフで100円で売られている本で、私もどうもあの本が話題を生んだ理由が分からないのだが、手元に置いておくのは悪くない。

  • 小林康夫. 船曳建夫(1994).知の技法.東京大学出版会

 たぶん私は、人が何かしらの「技法」を身につける過程に関心があるのだろう。目指すは「技法の技法」である。なんてね。なお、この手の本はただ読んでも身に付くわけではないし、私のように目を通したレベルだと、ほとんど意味をなさないのが難点である。

読書メモ:高校生の海外流出もしくは進出

▼オリジナルは2002年9月に書かれたものです。

▼とある友人(予備校関係者)に聞くところによると、最近、高校を卒業して、そのまま名の知れた海外の大学へ進学する人が多いらしい。 かつて高山博氏が、この手の海外流出話を書いていたし、AERAでも似たような記事を読んだことがあったが、身近でこの手の話を聞くとは思わなかった。

 確かに、正しい選択といえばそうかもしれない。私も、もはやほとんど日本の大学に魅力を感じていなかったりする。

 なんてことを9月の日記に書いていたら、こんな本が出た。

 実際、能力があり、かつ世界の最先端で学びたいという希望があれば、敢えて日本の大学を選ぶ理由をあげるのは難しい気がする。
 「理系」とか「文系」という分け方は私は嫌いなのだが、一般的にいう「文系」はとくに、日本の大学選ぶ積極的な理由がない。もちろん敢えていえば就職の問題と、費用がかかることが障害になるけれど…。

 私は、そもそも高校に嫌気がさしていたので、大学進学は、できるだけ「日本ぽくない大学」に進学しようと思っていた。それで候補として、僕はSFC or ICUということを考えていたらしい。京都大学にもあこがれはあったが、理学部以外には魅力を感じなかったので却下。友人の影響でICUではなくSFCに進んだのだが。今思えば、これは間違いだったかもしれない(笑)。

 大学院に入ってから、一度、留学を試みようとしたことはあったのだが、いろいろあって機会を逃してしまった(ついでに英語力も金もないし)。その後、日本の教育の「現場」には、まだ可能性はあるような気がしているという理由で、日本に居続けている気がする。

 いっそ研究対象じゃなくて、実際に、遠隔教育でも受けてみるかなぁという気もしたりして。最近出たばかりの、『インターネットでMBA・修士号を取る』を手にとりつつ、そんな気に一瞬なってみた今日この頃。

 この本、確かに良くまとまっている。その気にさせる本だ。
 MBA派遣させてくれる企業に勤めるっていうのも手か?  個人的には、どうせなら経営学じゃなくて、哲学とか文学とか、どうでもいい(と一般には思われている)修士を取るのも面白そうだ。フランス語を死ぬ気で学び、おフランス留学で変身というのもネタとしてありだが、そのために人生を費やすのはさすがの私も…、とりあえず老後の計画だな。

読書メモ:ぷちナショナリズム症候群

▼オリジナルは2002年9月に書かれたものです。

▼この本、私の今年のベスト10新書に確実に入りそう。タイトルは香山リカらしく軽い。しかし、内容は深い。途方もなく予言的であると思う。
 正直を言うと、私は、先のサッカーワールドカップの熱狂や、最近の日本語ブームには懐疑的であった。
 マスコミのすさまじい報道。会社でも学校でも、何処でも、サッカーの話題が絶えることはなかった。かと思えば、ワールドカップ終了後は、熱狂はたちまち消失し、遠い過去の記憶として過ぎ去っている。

 ワールドカップで日本を応援していた人たちからしてみれば、サッカーに燃えた行為の「何が悪い?」と言われそうである。確かに私自身、野球をテレビで観戦するのと同じように、サッカーを見ていたし。お祭りの一つと考えれば、終わった瞬間に熱が冷めていくのも分からないでもない。
 日本語ブームも「善し悪し」で問われれば、否定する明確な理由はない。

新しいナショナリズム?それとも…
 しかし、私にはどこかモヤモヤ感が残るのである。かつて私は、この手の集団性を「なんとなくナショナリズム」や「限りなく透明に近いナショナリズム」と呼んでいたことがあったが(どちらもパクリである)、「ぷちナショナリズム症候群」は、この現象にうまく名前と背景を与えてくれた。

 かつてナショナリズムといえば、何かしらの主義主張(イデオロギー)をともなうものだった。教科書やら歴史論争に見られるように、多くの主張は必要以上に声高である。冷静さに欠ける、とも言える。

 「ぷちナショナリズム」にはこのような主義主張はない。しかし、行動(「スタイル」と呼んでも良い)だけ見れば、かつての「ナショナリズム」と共有する部分は少なくないように思えるのである。

 そんなことを書くと、多くの読者から「考えすぎ」もしくは「何が悪いの?」という指摘を受けそうである。確かに、私が危惧するのは「考え過ぎ」かもしれないし、「何が悪い?」と問われれば、善し悪しの話ではない。

 ワールドカップをきっかけに新しい「日本人」のスタイルが生まれつつあると名づければ、確かにそんな気もしないでもないが、ナショナリズムの新しい形であるといわれれば、そんな印象も受けるのである。

 確かに、第二次世界大戦時のような危惧されるべき「ナショナリズム」と、想像としての共同体を成立させる「ナショナリズム」の線引きは、微妙である。また、強い主義主張に対しては反論は可能だが、「何が悪いの?」的な無自覚な主張に対して「反論」するのは難しい。

 ただ、今現れている症候(自分自身の在り方も含めて)には注意深くありたいと思うばかりである。
生きているということ
いま生きているということ (中略)
すべての美しいものに出会うということ
そして かくされた悪を注意深くこばむこと
 谷川俊太郎「生きる」より。

読書メモ:常に何かを失う若者達

▼オリジナルは2002年9月に書かれたものです。

▼最近、いわゆる「若者論」を何冊かまとめて読んだ。私も、もうそろそろ「若者」ではなくなってきた証拠であろう。たぶん。

 まだ徹底して文献を集めたわけではないので断言できないが、これまでの記憶も含めて若者論の特徴を考えてみると、常に若者は何かを「失って」いるというのが若者論の特徴であろう。
 若者論というのは一種の「喪失論」とも考えられなくはない。

 例えば、昨年出たばかりの本では「自己を失った」ことになっている。
 私が高校時代読んで衝撃を受けた記憶のある桜井哲夫氏の本では、「ことば」を失っている。
 この本、残念ながら絶版だが、ブックオフでよく見かける。
 精神科医の町田氏は、 「居場所を失った」ことになっている。
 同じく精神科医で、学力問題等にも顔を出している和田氏によると、「他者」を失ったことになっている。
 「自己」「ことば」「居場所」「他者」とくれば、もはやこれ以上、失うものがないではないか。
 おそらく「失った」という題名が付いている本でメジャーなのはこの4冊ではないかと思われる。だが、これらの本に限らず若者論ではいつも若者は何かを「失った」ことになっているような気がする。

 自己、ことば、居場所、他者以外では、思いやり、礼儀作法など新聞の「声」欄に良く出ていそうである。自然は失われているし。最近では学力とか集中力なんかも子どもたちは失ったことになっている。

 結局は、若者は何かをいつも失っている、ということだろう。

 私も、常に何かを失っている(一応、僕は気持的には若者でいるつもりだ)。松任谷由実を聞かなくても、私の日々は喪失感だらけだ。たぶん。

 逆に言えば、自分の内側にあると思われる「失った感」=喪失感に目が向かなくなったら、「おじさん」化してきた、ということなのかもしれない。もっとも「喪失感の喪失」も、現代若者論の一つのトピックだし、喪失感をうまく扱えないでいるのも、なかなかしんどいことではあります、が。

 喪失論といえば、小此木先生でしょう。やっぱり。  ここは斎藤美奈子氏(小林秀雄賞受賞おめでとう!)に、『現代若者論さん江』でも書いてもらいたものだ。
 ちなみに上記図書のうち町田氏の本は読んでないので、実際は文脈からずれているかもしれません。お許しあれ(9月12日現在)。

 こうやってオブラートに包んでも喪失感が私にはにじみ出ているらしい。

読書メモ:私という迷宮

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

▼たまたま見つけた本。大庭氏の名前は聞いたことがあったが、村上春樹や香山リカ氏も共著らしいことから購入してみた。大庭氏は哲学者、村上春樹氏は言わずと知れた小説家、香山リカ氏は精神科医である
 大庭氏が本編を書き、村上・香山両氏がコメントを寄せ、さらに大庭氏がリプライをする形式。最近この手の本の作りが増えてきた?ような気がしないでもないが、なかなかそれぞれの立場が明確で面白い。

 個人的に、今回の読書の最大の発見は、村上春樹氏の「物語論」が読めたことだった。氏が、小説家の仕事を「仮説を丹念に積み重ねていくこと」とまとめていたことには、とても考えさせられた。

 私は、最近「物語」の力に最近、強い関心を持っているのだが、「物語」も「科学」も、「仮説の積み重ね」という点においては、共通するのかもしれない。(そもそも「物語」と「科学」が対比的な概念かどうかは分からぬが)

 せっかくだから引用してみよう。
良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ひどく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説を丹念に積み重ねていくことである。我々はそれらの仮説をまるで眠っている猫を手にとるときのように、そっと持ち上げて運び(略)、物語というささやかな広場の真ん中に、ひとつまたひとつと積み上げていく。どれくらい有効に正しく猫=仮説を選びとり、どれくらい自然巧みにそれを積み上げていけるか、それがすなわち小説家の力量ということになる。(太字は引用者による)
 村上氏の比喩に従えば、物語が「そっと」仮説を積み重ねるのに対して、科学は一般的に乱暴である(ちなみに私は、この乱暴さが嫌いだったりする。いかに乱暴さをオブラートに包むかが、結構悩める今日この頃)。

 なお氏のいう「仮説」とは、何らかの事象・事物に対する観察から生まれるもので、「それらの事象・事物と自分自身とのあいだに存在する距離や方向」のことらしい。おそらく自分自身とは切り離せないものなのだろう。

 もう一つ気に入った指摘は、指摘は、物語は読者に結論を委ねるという点である。仮に物語と科学が「仮説の積み重ね」だとしても、物語は結論を読者に委ねるのに対して、科学では結論が要求される点が異なる。結論を読者に委ねることで、物語は読者に開かれた世界となるからだ。

 時々書評や感想文で見かける読者の問い「どうしてあなたの、私の考えていることがそんなにありありと正確に理解できるのですか?」に対して、村上氏は以下のような回答をしているのも、興味深かった。
 「それは、僕があなたの考えていることを正確に理解しているからではありません。僕はあなたのことを知りませんし、ですから当然ながら、あなたが何を考えているかだってわかりません。あなたが自分の気持ちを理解してもらえたと感じたとしたら、それはあなたが僕の物語を、自分の中に有効に取り入れることができたからです」と。
 仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるのだ。(p138-139)
 読者が物語を「自分の中に有効に取り入れることができた」こと。これは読者に結論を委ねたことによるものだろう。
 これは、どうしたって科学(的研究)にはなしえない技である。(もっともオカルトなんかは、科学が明らかにしえない領域を「物語」化させて、個々人が適当にそれを取り入れることで成立していたりもするが)。

 個人的には、私という「物語」を捉えるために
  • 仮説を積み重ねていくこと、
  • 世界と私の継続性を探ること
 この2つの重要性を改めて確認したような気がする。

 これは村上氏の有名な「牡蠣フライ理論」(牡蠣フライについて書くことが、結果的に、自分自身と牡蠣フライとの間の「相関関係」や「距離感」を表現することにつながるという話)の、より深い解説にもなっている。
  • 村上 春樹・柴田 元幸 (2000).翻訳夜話.文春新書
 私は村上春樹は何故かちょっと苦手だったのだが(ねじまきは途中で挫折した)、『神の子どもたちはみな踊る』は、確かに良くできた物語だと思えたので、今度の新刊には期待したい。
 話を本書全体に戻そう。

 大庭氏の論点を、乱暴にまとめれば、「私探し」の危うい側面、とくに私探しをしている「私」を特別な存在として見なしてしまうことの危険性について書かれている。私もこれまでおざわ日記で度々触れてきたが、大庭氏の指摘は「自分に自信がない」と言い切ってしまう人の、そう言い切れる「自信」がどこからやってくるのか?という問題意識と重なるような気がする。

 なぜ私探しの中で、私を特別な存在として見なしてしまうのか。
 大庭氏がいわんとしていることは、おおよそ以下のようなものである。

 人は、他者の立場に立ってものを考えることができる(と思っている)。しかし、この想定の行き過ぎが「自己の特権化」や「誤認」につながる。

 たとえば人が「○×さんのようになりたい」とあこがれを持てるのは、他者との同一化であるが、「○×さんのような自分」はあくまで想像でしかない。この想定の行きすぎは、自己の否定にもつながることが多い。

 自分が選ぶことができなかったその他の可能性を強く思い浮かべることは、逆にそれらを選べなかった今の自分の存在の脅威としても働く。しかも、他者の生き方や、自分のその他の可能性に目を向ける「自分自身」には疑いが向けられることはない。

 そこに新興宗教やオカルトや、なんとかセミナーが入りこむスキができる。なぜならそれらが「特別な私」という思い込みを保証してくれるからだ。これを避けるためには、「自分は取るに足らない人間である」と、そう捉えてしまう自己の特権化、誤認そのものを捉え直す必要がある。

 以上、かなり自分の色が入ってしまったまとめ。私の脚色が強すぎ。
 なお、大庭氏は、この中で、永井批判をしてるので、もう一度、永井氏の著作も読み直してみることにしましょう>メモ

読書メモ:猫の世界

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

哲学系の読者
 サーバが止まっていたことがきっかけとなって読者の方からメールをいただいた。マメに目を通していただいてるようで、ありがたいことです。

 その方は「哲学」に関心があって私の日記を読んでくださっているそうだ。メールをくださる方は、「心理学」に関心があるか、「恋愛講座ネタ」に興味を持っている方が多い傾向があって、哲学系は珍しい。

 一応、断っておくと、心理系にしても、哲学系にしても、私はいんちきな理解が多いです。読んでくださる時は、くれぐれも注意してくださいね。

哲学者とネコとの相関度
 彼は、ネコ好きなのだそうだ。またしても妄想。前々から思っていたのだが、もしかしたら哲学=ネコの相関度って、相当高いんじゃないだろうか。私がとっさに思いついたのは、土屋賢二氏と、永井均氏。自分のデータベースを引いたら、『悪なんて知らないと猫は言う』という本もあった。
 ちょっと調べてみたら、海外でも猫は哲学しているらしく、
 なんて本もありました。日本だったら「京都の哲学する猫」か。

 私が知る限りでは、特定の学派がネコ好きというわけではなさそうです。左近司祥子氏は、記憶の限りでは、ギリシア哲学の人だったと思います(プラトンをよく引用していたような記憶が)。永井均氏は、ニーチェやヴィトゲンシュタインの入門書が有名ですが独我論な人。土屋賢二氏の専門は…アリストテレスらしい(お笑いだと思っていたので、気にしてなかった)。上記図書ではヴィトゲンシュタインも登場しているらしい

 私、決めました。書名にまでネコを登場させてしまう哲学系の物書きの人たちのことを、「ネコ派」と名づけることにします。ギリシア哲学から、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインなど、すべての学派の横断型です。たぶん。

 私が知る限りネコ派に属さないのは、池田晶子氏(彼女は老犬を飼っている。元気だろうか)が代表格でしょうか。その他は、情報収集中。
 残りの自称、哲学者、哲学研究者、知の愛好者の皆さん、「ネコ派」「イヌ派」かその他かハッキリさせてください(笑)。
 大物哲学者については、伝記を当たっていくしかないかしら。

 ちなみに私は、ネコとイヌだったら犬を好みます。「やっぱり猫が好き」の室井滋とか、小林聡美は、それはそれで好きですけど(違うか)。

 にしても、いったい「犬好き」や「猫好き」傾向は、何に由来するのか?、気になるところですね。googleで探せば、もっと情報集まるかな。

ネコと物語
 ジブリシリーズのネコはあまりにも有名ですが、村上春樹とネコは切り離せないし、外国作家では…、ヘミングウエイが有名らしい。

 最近では「老人力」の赤瀬川原平氏がネコ系の本を書いているし(早速注文した)、河合隼雄先生は『猫だましい』なる本を出している。  絵本とネコも切り離せませんが、私はやっぱり佐野洋子のネコだな。  その他参考書ももっと探してみようっと。さあ、動物プロジェクト(仮称)も、いよいよ本格的に動き始めました。

 目指すは打倒、動物占いです(本気にするなよ)。

 以上、哲学に興味があるという読者からいただいたメールから、話が飛びました。ああ、そろそろ学会の準備をせねば…(あんたの専門はいったい何だ?と突っ込まれる日々)。こんなことやってる場合じゃないのに。

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