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2003年7月

読書メモ:不幸論

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

幸福論の存在価値って?
 書店に行くとたいてい「幸せになるための○×レッスン」的なタイトルの本が置いてある。「幸福論」に類する本なのだろうが、いったいこの手の本の存在価値って何なのだろう。不幸を感じた時に読む本?なのだろうか。

 私も、自分が不幸のどん底(だと本人が思っていた時)に、実際、人に推薦していただいた本を何冊か読んでみたことがあったが、どれもSo what? 状態だった。どうやら私は幸福論が理解できるほど、不幸ではなかったらしい。

 今日、たまたま書店に中島義道氏の「不幸論」を見かけた。「幸福論」が理解できなくても、「不幸論」なら理解できるのではないかと考え、とりあえず購入。。相変わらずの中島節だが、巷の「幸福論」よりはるかに面白い。「不幸論」が理解できるってことは…、私はたぶん幸福なのだろう。
 もしかしたら本当は、考え方が逆なのかもしれませんけどね。
 (「不幸論」を読まれた方は、ぜひ不幸論談義をしましょう(笑)

幸福になる方法とは
 私はこれまで、もし人に「幸福になる方法」なるものがあるとしたら、
  • 幸福について考えないこと
  • 自分のことを「不幸」と捉える自分自身の幸、不幸を考えること(自分と向き合うこと)
 のどちらかではないかと思っていた。

 正確には、前者は、「幸福」という概念そのものを忘却することだから「幸福になる方法」ではない。後者も、正しくは「幸福になる方法」ではないかもしれない。自分自身を内外から捉えたからといって幸福になる保証はないし。

 中島氏の本によれば、どうやら前者は、エピクロス派、後者はストア派の立場に似ているらしい。私は後者が好きというか、私の思考は勝手にそう働くように出来ているのだが、中島義道氏も同じような感じな模様。

 なるほど、私が中島氏(の著作)とフィーリングがあう理由が分かりました。しかし、これってもしかしたらすごい不幸なのかも(笑)。

幸福は幻想である ならば 不幸もまた幻想である(はず)
 中島氏の立場は、「幸福は幻想である」の一言に尽きる。
「幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している。」(p50)
 幸福は幻想だが、不幸はそれに眼を向けざるを得ないものらしい。確かに、人は幸福(だと思っている)時、さしてその理由を問わないことが多い。幸福の理由を考え思い悩む人って滅多にいないだろう。一方、不幸(だと思っている時)は、なぜ不幸なの?という疑問が生じずにはいられない。

 中島氏は(ストア派系では)、不幸を無理に楽観的に捉えるんじゃなくて、不幸をあるがままに捉えることに美を感じるらしい。
 ストア派は、(略)、いかなる悪や渦にも動じない態度を身につけることが幸福をもたらすと言う。それには、悪や渦から眼を逸らせるのではなく、むしろそれらを日々、しっかりと見据えることである。そうすれば、いたずらに恐れおののく態度は消えて、それを受け入れることが容易になる(p65)。
 実際、受け入れることは簡単なことじゃなさそうですけどね。どうやれば受け入れられるものか?気がかりなところですが、中島氏の本ではこの辺りが掘り下げられていないので、自分で考える必要あり。

 もう一点。これも中島氏は、述べていないのですが、幸福が幻想であるとすれば、不幸もまた幻想ではないでしょうか。
 中島氏は、不幸の泉源としての「死」について、若い時から考えておられる模様。でも、中島氏の「死」の考え方は、どうもわかんないんだよなぁ。

 幸福と不幸、現実と幻想、生と死なーんて…完全な二元論の罠なのかもしれませんけどね。私としては、やっぱりそもそも、なぜ人はそういう二元論的思考をしてしまうのかが気になるところではあります。幻想とそうじゃないものの境界に何があるのか?これも相変わらず気がかりなところです。

 結論:幸福という幻想にリアリティを感じる人と、不幸という幻想にリアリティを感じる人の差異が、「幸福論」の理解の違いに現れるんでしょうか。

補足:ちなみに中島氏の言う幸福の成立要件
  1. 自分の特定の欲望がかなえられていること。
  2. その欲望が自分の一般的信念にかなっていること。
  3. その欲望が世間から承認されていること。
  4. その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れない(傷つけない、苦しめない)こと。
 すべて満たすなんてことは到底無理。
 3.が肥大化すると、「幸福であると思われたい症候群」になるらしい。
 4.と1.のアンバランスは、たぶん「ひきこもり」のような状態だろう。

 さまざまな説明の道具として上記の4分類は使えるかも。

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読書メモ:受験現代文読解法

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

▼石原千秋氏(漱石研究で有名らしい)の新刊『大学受験のための小説講義』を読んでみた。私はこれまで、なぜ「小説が読めるか」を、テストなんぞで把握できるのか疑問でならなかったのだが、謎が少し解けた。

 石原氏によれば、実は、こんな秘密があったらしい。
 入試国語では、誰にでもそう読めるほんとう(真実)があって、それが「正解」になっているのでは決してない。紙の上の学校空間では、道徳的な枠組みから読むことを暗黙の前提にしているから「正解」が出るのである。ところが、国語教育ではこんな簡単なルールを決して教えないのだ。(p55)
 フォントの色を変えたのは引用者です。そういえば田村秀行氏(元代ゼミ講師。私も教わっていた)も、似たようなことを言っていたような記憶も…。

▼そもそも、著者によれば小説を読むとは、小説から「テーマ」を取り出すことをを意味するらしい。著者はテーマの取り出しを、を「小説から物語を取り出す」という表現で述べている。

 典型的な「型」は、以下の2つに代表されるらしい。
  • ~が~をする物語(主人公の行動を要約する)
  • ~が~になる物語(主人公の変化を要約する)
 当然、小説からどのような物語を取り出すか?には、さまざまな可能性がある。実際、小説には人それぞれの読み方が可能だし、多様な読み方が小説の楽しみでもある。でも、受験小説の場合は、テーマの取り出し方を<出題者>と共有しないと、正解は得られないらしい。
 受験小説が「出来る人」とは、小説から物語文への変換の関数(小説をどんな風に物語文にするのか、その変形の度合いのこと)を出題者と共有できる人のことを言うのである。つまり、一つの小説から出題者と同じ物語を取り出せる人を、受験小説が「出来る人」と呼ぶのである(p39)。
 要するに、小説そのもの=テクストを読むんじゃなくて、テクストの読み方を出題者と共有せよ、ということなんでしょうね。

▼もしかしたら出題者の意図、読み方の癖を教える場所が、予備校というところだったのかもしれない。今思えば、これは石原氏の本を読む遙か前に、私が受験を通して「身につけてきたこと」かなと思ってみたりします。

 言い換えれば、標準学力テスト的な「学力」っていうのは、相手(出題者)の意図や、読み方の癖をつかむことの出来不出来とも言えるかもしれない。

 一つ危惧するのは、出題意図や、他人の読み方ばかり身につけると、自分なりの「読み方」を忘れてしまう可能性があるということ。私が小説が「読めなく」なった(最近、回復してきたけど)一つの理由はたぶんそれでしょう。
 ちくま新書以外、石原氏の他の著作も読んでみようっと。

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読書メモ:「できる人」はどこが違うのか?

▼オリジナルは2001年10月に書かれたものです。

▼斎藤孝氏の本が「売れている」というのは聞いていたのだが、実際読んでびっくり。なかなかこれがどうしてか(失礼)面白い。
 一言でいえば、「上達論」の本である。

 「上達」は、専門的なことばでは(認知心理や発達心理の世界では)「熟達」とも言い換えられる重要な概念である。何か特定の能力、スキル、技を身につけ、最終的にはその道の専門家、プロ(もしくは熟達者)になっていく過程が「上達」もしくは「熟達」である。

▼専門家やプロという言葉は、ある限定された人を指すようなイメージもあるが、自分よりちょっとうまい人というのは、「自分」と比べれば熟達者であると捉えることもできるだろう。

 「学び」(学習)というのは本来、何かしらの力を「上達」させる過程のことを指すはずである。しかし、近代的な教育観では、「上達」ではなく、単なる「知識の伝達」を重視してきた。

 新しい教育のスタイルとして「上達」の考えを積極的に取り入れようという提案が本書の趣旨である。

▼具体的に言うと、以下の3つの「力」と、「スタイル」の重要性が指摘されている。
「力」の名前 次元 具体例
コメント力
(要約力・質問力)
ことば次元 母国語能力を鍛える
段取り力 活動次元 生活での活動
場をつくる力
うごける体づくり
(技・方法を)
まねる・盗む力
からだ次元 身体的創造力を鍛える
技化の意識
 この著者、なかなかコンセプトの提案力のある人だ。

 野中郁次郎の「形式知」「暗黙知」などの考え方(つまり知識創造)も、柔軟に取り入れている。

▼3つの力を表す「次元」が、「ことば」「活動」「からだ」に分かれているのは、形式的(ことばとして表現できる)知識も、暗黙知(身体的な、ことばにすることが難しい)知識のどちらも重視ているからである。中間に「段取り力」として「活動」をもってきているのも、ユニークである。

 この本も、要約だけみて「なーんだ」と思ってしまうのはもったいない。著者が出す例示や、思考プロセスを共有しないと、ほとんど意味がないのでご注意を。「スタイル」の重要性について言及なども、なかなか目から鱗状態であった。

▼私が気に入ったのは上達を支える原動力として「あこがれ」について言及しているところである。
 私も、「あこがれ」は、学びにおいてとても重要だと思う。「あこがれにあこがれる」って「恋に恋する」みたいな感じだけど、確かに学びの原動力としては強力なはず。

 話がずれるが、よくモチベーション研究で「外発的」「内発的動機付け」などという言葉が使われるが、私は内と外を分けるという考え方自体が、不毛なような気がしてならない。思わず「あこがれ」は外発的ですか、内発的ですか?なんてことを問いたくなってしまいます。

 私は、実のところ教育心理学には不満が多い。原因は、この動機づけ概念の貧弱さである。なんとかしたいねぇ。

▼本書は「できる人」の具体例として、村上春樹とか、アラーキー(写真家)など、わりと身近であろう人のエピソードも引用されていて、内容としても分かりやすい。かと思えば、ホンダの本田宗一郎氏の例や、吉田兼好の『徒然草』を「上達論」として評価するなど話題は豊富である。

 オススメです。他にも、いろいろ本を出しているので要注目かも。
 この本もなかなかです。

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読書メモ:表現形式としてのマンガ

▼オリジナルは2002年10月に書かれたものです。

▼前々から気になっていた本のいくつかを買い込んできた。
 『現代思想の冒険者たち』 (注)をいしいひさいち氏が4コママンガでパロディ化した本。 ハイデガー&アレントネタで妙に笑えてしまう自分がちょいと寂しい(注:哲学者同士の色恋沙汰っぽい話である。詳細は不明)

 もしかしたら思想家間の恋話をネタにするのも、芸能人の恋話を話題にするのも、「ネタ」としては同じなんでしょうかね。そんなの同じ次元で考えるなってって突っ込まれそうな気もするけど。
(注)ちなみに『現代思想の冒険者たち』は、講談社が出した著名な思想家の解説本シリーズ。全29冊の本が出ている。
私は、なぜかメルロ=ポンティとか、レヴィ=ストロース、ヴィトゲンシュタイン、ガダマーなんかを持っているらしい。書き手によって当たりはずれがあるし、「入門書」ではないのが難点。っていうか、難し過ぎて読めない本が、結構多い。
 いつも「思想系」は活字でしか読んでいなかったせいか、マンガで表現されていると新鮮である。なんとなく分かったつもりでも、表現形式が違うと別の角度から考えさせられるらしい。
 おかげで、これまで理由もなく敬遠していた何人かの「思想家」にちょっと惹かれた。図書館で借りてみるとしよう。なんとなく、マーケティング戦略にはまっているような気もしないでもないが、マンガはきっかけにはなるかな。

▼そういえばマンガで読むと「新鮮」という感覚は、
 の時にも思った。本書は、秋山りすの『OL進化論』を題材にしたクリティカルシンキング本。某社のクリティカルシンキング本なんぞより、遙かにオススメ。この新鮮さは、マンガ+活字による解説のW効果によるのかな。

 『現代思想の遭難者たち』と、『クリティカル進化(シンカー)論』とでは、題材の仕方も文脈も異なるが、マンガを題材にするのも、ある題材をマンガにするという変換過程がどうなっているのかは非常に興味深い。

 改めて、表現形式(様式?)としてのマンガについて考えてみよう。

▼現代思想もマンガになるならば、物理の世界も…ということで、せっかく(?)なので、話題の『トムキンスさん』も買ってみました。
 やっぱり術中にはめられているような…。

 子どもの頃、「マンガ日本の歴史」の類をちゃんと読んでいれば(この手のジャンルは「学習マンガ=学漫(がくまん)」と呼ぶらし)、少しは今の私の日本史オンチが解消されていたかもしれないと思うと悔やまれる。

追伸:リンクミスのご指摘、ありがとうございます(2003年3月)

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読書メモ:広告論講義

▼オリジナルは2002年7月に書かれたものです。

▼20世紀論としても広告論としても、各種メディア論としても読める良書。幅の広さが、この本の良いところだろう。今回の「読書メモ」では幅の広さを勝手に解釈して、私が気になった部分を自分なりにまとめてみました。
(1)あらゆるものを「広告」として捉えてみると
 天野氏が20世紀の10大広告として掲げているのは、
1)パリ万国博覧会、2)南極探検隊員募集広告、3)エンゼルと福助、4)T型フォード、5)ヒトラー、6)スモカ歯磨、7)フォルクスワーゲン、8)アンクルトリス、9)NASA、10)日清カップヌードル
 の10個なのだが、NASAの月面着陸のような試みも含めて「広告」と呼んでいるのが興味深い。
 アポロ計画は冷戦時代の「旧ソビエトVSアメリカ」色が強いのだが、この一連のキャンペーンもまた「広告」なのである

 天野氏自身がそう言っているわけではないのだが、さまざまな事柄を「広告」といったん見なして考えるのも楽しそうだ。例えば、個人のホームページも「広告」として捉えられる。
  • インターネット上に現れるさまざまな広告(個人が開いているホームページも大半は自己広告だと言っていい)を見ていると、昔の個人広告がタイムスリップしてきたんじゃないか、という感じを受けることがあります(p219)。
 個人ホームページを「広告」として捉えた時、私のページはいったいどんな広告になっているのだろうか?
(2)神話としての広告
 広告というのはある種の「神話」づくりと関係しているらしい。
  • ”評判づくり”というか”神話づくり”も、広告の重要な仕事(p35)
  • 情緒は押しつけるものではない、受け手のなかから誘い出すものだ(p33)
 「神話」っていうのが、どこから生まれて、どのように語り継がれていくのか、そのプロセスを探るのも興味深い。
(3)デザイナーは何をデザインするのか
 広告が「差異」に関わるものだっていうのは、よく知られた話だが、差異を創り出す仕事全般を「デザイナー」と呼んでいいのだろうか。デザイナーは何をデザインするのか?どこかの雑誌に出てきたような問いだが、ちょっと気になる。
  • (リースマンを引用して)この企業[ゼネラル・モータース=GM]におけるいちばん中心的な地位は、もはや機械技術者でもなく、また、会計係でもなくなった。いちばん枢要(すうよう)な地位を占めるのはデザイナーなのである(p135) リースマン『何のための豊かさ』
 コピーライターの養成ちっくなことを、授業に入れてみるのも悪くないかも。コピーっていうのは「要約力」の一種だし。
(4)広告の意図と、意図せざる結果
 広告に限ったことじゃないと思うのだが、意図できる部分と、意図せざる結果をどう、捉えていくかっていうのも問題だ。
  • (アメリカ月面着陸を指して)”アメリカ”を広告するつもりだったNASAが、結果的に”地球”を広告することになってしまったのは、それにしても、皮肉な話です。ナショナリズムを売りながら、同時にアンチ・ナショナリズムを売ったようなものです。が、だから、テレビなのです(p177)。
  • (JR西日本の「そうだ、京都行こう」を指して。この広告を見て、東大から京大に志望を変えたという話を引用しながら) それはこの広告の本来の目的とは違うなんて、野暮なことを言ってはいけません。時代の”いま”に共振するものを持ったCMは、広告のねらいを越えてイメージの翼をひろげていく。(p199)
 神話化っていうのは、意図せざる作用が含まれるはずだし。
 以上、単に本を要約するだけじゃもったいないので、自分なりに気になった点を今回はまとめてみました。引用が多いけど許してやってください。

 現代思想系や社会学系人たちも、消費社会や広告などについて、いろいろ言及しているのですが、この手のテーマを、複眼的に捉える一つの契機として、本書は、非常にすぐれた素材を提供している…かも。

 私は本書のように、バラバラに内容を解体して、素材として自分なりに使える本が好きです。無理な解釈の押しつけはちょっと苦手。

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読書メモ:ささいなことに動揺する?

▼オリジナルは2002年5月に書かれたものです。

▼私の関心領域はどちらかというと、心理学系である。しかし私は、ある理論や概念を「人」に当てはめて考えるのが苦手である。好き嫌いでいえば「嫌い」と言っても良いかもしれない。

 理論や概念を人に当てはめるとは、例えば、「あなたは○○○なタイプなので、△×な傾向がありますね」的な「診断」のことを指す。もちろん、世の中の心理系研究には、いろんなタイプの考え方があっていいと思うし、診断そのものを否定しているわけではない。しかし、ある理論を通して「診断」を絶対化するようになってくると危険だな、と思ったりする。

 根元的には、抽象=具体の関係について、どこか引っかかるところがあるのだ。心理学的にある「タイプ」(類型)を想定することによって、初めて人間のある側面が把握可能になる一方、例外的現象が見えにくくなる。
  • ある概念の存在よって、はじめてその現象の把握が可能になる
  • ある概念があるために、ある現象が見えなくこと
 ことは表裏一体である。心理学を学ぶ時は、この覚悟が必要だと思うのだが、両者のバランスは容易ではない。

 今回読んでみたこの本では「highly sensitive person (HSP) = とても敏感な人」というタイプが紹介されている。
 端的にいえば、「敏感」「感じやすい」「動揺しやすい」人の総称である。
 私はこの手の本には割と批判的なのだが、この本はちょっと微妙である。そう言われたから「気づいた」のでしかないが、自分自身もある領域(とても限られています)で、過剰に感じることがあるからだ。

 例えば、処理すべき情報が多数、同時に現れると、
  • 何か話す必要があっても、何も言えなくなる
     外的には緊張しているように見えるらしい。確かに実際に緊張しているような気もする。その他、言葉につまる、もしくはまったく関係ない話題を投げてしまう。
  • 閉じこもる(内省的になる
     口数が減り、外から見ると怒っているようにみえる
  • フレーム問題のロボットに陥った感覚になる
     これも「概念」的に考えてしまっているとは思うのですが、もっとたとえて言うならば、小さなダムに水がどどっと入ってきて、あふれてしまい、どうしようもなくなっている感じ。
 のようになるからだ。この現象は、この本が言うように、highly sensitiveな問題なのか、それとも、こんな概念を見いだしたために、自分をそう過剰にそう捉えるようになったのか(これ自体、sensitive?)分からない。自分をsenstiveだと思うようになった瞬間、それはsenstiveとは呼べない気もする。

 敏感は鈍感よりは、なんとなく良さそうなイメージがするから、そう思えるだけなのか、理論や概念と、実感の関係。これまた難しい問題です。で、結局、何が言いたいかって。今日がその典型だったということ。何も言えない。それが分からないから、問いを考える。結局、その循環なのかしら。

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読書メモ(断片):引用について

▼オリジナルは2002年5月に書かれたものです。

 私は人の意見を引用する時、とても迷う。引用を通して先駆者に敬意を示すのはもちろんだが、どこまでを先駆者と見なし、どこから自分の意見と見なすのかは結構、あいまいだからだ。

 おそらく私が今、ここに書いたようなことも、きっと既に誰かが先に言っているに違いない。本来的にはその文献を探して引用せねばならぬのかもしれぬが、自分の専門分野ならともかく、すべて探すのは実質的に不可能だ。

 ではどうすればいいのか?
 池田晶子氏は、引用に関して興味深いことを述べている。
偽物と、本物の知識人との見分け方、簡単な方法をお教えしましょう。とくに、海も山も(ミソもクソも)わからない若い皆さん、これは使えます。それは、「誰それによれば」「誰それが言うには」と出てきたら、まずそれは偽物だと思って間違いない。なぜなら、これまでも繰り返してきたように、「哲学」というのは「考える」こと以外ではあり得ないのだから、誰それが言おうが言うまいが関係ないからである。

なるほど、考えたことが、たまたま誰それの哲学に一致するということはあるけれども、だったらなおのこと、それを引き合いに出す必要はないはずである。誰それの名前、誰それの権威を必要とすることが、自信がない、自分で考えられていないということの、まぎれもない証拠なのである(p89)。
 要は、「誰それによれば」「誰それが言うには」という表現を使うヤツは信用するな!ということである。
 極論なような気もするが、確かに納得する部分はある。確かに「虎の威を借る狐」は見苦しいし、権威づけの引用は私も好きではない。

 しかし、権威づけと先駆者に対する敬意の線引きもまた微妙なところだし、表面的には人の意見をあたかも自分で考えたかのように述べる人と、真に自分で考えを模索した人の区別も難しい。
 (それができるようになりたいけどね。なかなかかなり難問)

 そもそも、どんな時に人は「引用」するのだろう。
 僕の場合Web日記上で、文章を引用するのは、
  • 同じ事を考えている人がいる!という驚きを感じた時
  • この人の、この一文に、多大な影響を受けた!ということの証
    (あるいは先達に敬意を示すという意味もあるだろう)
  • 良い文章は何度も味わいたいから、自分の記録用として
 でしょうか。他にも、いろいろありそうな気もする。

 ふと思ったのですが、巷の「論文の書き方」のたぐいの本は、「引用の仕方」については詳細が書かれていても、引用と自分の意見の関係について詳細に書かれたものはないような気がする。

 え、その手の文献はあるって?でも、もっと探せ、探せ、探せ…シンドローム(強迫観念に近いかも)は、それはそれで危険なかおりがする。

 引用は、批判のためですか、自分の意見を裏付けするためですか、それとも権威付けのためですか、いっぱい勉強したことを示すためですか、それともそれがルールだから?結構、分からないことは多いものらしい。

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読書メモ(ミニ):吉本ばななと河合隼雄の対談

▼オリジナルは2002年6月に書かれたものです。

▼河合隼雄と吉本ばななの対談本が出た。河合隼雄先生は、さまざまな方と対談をされているが、最近流行の小説家で、かつまとまった書籍にされたのは村上春樹氏に続き、二人目になると思われる。
 湾岸戦争のことは、わたしも未だに考えています。簡単に答えが出ない問題です。「矛盾を許容してやっていくのがいい」とわたしは言っていますが、それによって「解決」されたと考えてはならない、というのがわたしの態度です。

 つまり、矛盾をずっとかかえこみながら、答えを焦らずに実際的解決を見出してはいくが、その矛盾にはずっとこだわっていく。矛盾の存在やその在り方、解消の方法などについて考え、言語化していく。しかし、決して解決を焦らない。そうしているうちに、最初は矛盾としてとらえていた現象が、異なるパースペクティブや、異なる次元のなかで矛盾を持たない姿に変貌する。それを待とうとするのです

 そんな意味で、わたしの喉にはいろいろと小骨が引っかかっていて、それがいつ消化できるのやらと思って生きています。湾岸戦争は、それらの小骨のなかでも、「大きい」ものの一つです。日本人はもっともっとこれに引っかかるべきです。

(改行および、太字は引用者によるもの)
 以下、執筆中。

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読書メモ:デザイン言語

▼オリジナルは2002年5月に書かれたものです。

▼たまには私が、これまで教わったことのある先生の本を取り上げよう。
 ベースは、「デザイン言語総合講座」という授業での講演@SFC

▼私が知っている限りでも、建築家の隈研吾や、アフォーダンスの佐々木正人、作曲家の藤枝守、脳とクオリアの茂木健一郎、批評家の東浩紀、写真論の港千尋など、顔ぶれも豪華。

 この本(講座=もっといえばSFCの講義クラスター名)のタイトルになっている「デザイン言語」という言葉。一見、相反するものを結びつけさせようという意図があるらしい。なかなかユニークである。
 「デザイン言語」とは、感覚と論理の双方を統括し、イメージや空間を操作し創造していくためのツールである。急速に進展するデジタル情報環境の中で、人間の感性や身体性を回復させるためには、デザインの直面している問題を自分の力で発見して組み立て、展開していくためのプロセスを身につけることが急務である(本書、カバーより)
 この手の講演をまとめた本は、いよいよ話が深まってきたところで話が終わってしまってしまい、物足りなさを感じることが多いのだが、この本は、その点、編集がうまいせいか(90分の講演録だから?)、全体的に刺激を受けることが多数。 入門書としては成功しているかもしれない。

 今年後半は、「デザイン」について集中的に考えようっと。
  • ハーバート・A. サイモン. 稲葉元吉・吉原英樹 (翻訳)(1999).システムの科学.パーソナルメディア
 どちらかというと理論よりの本ですが、どちらもオススメです。
 目次にリンクを貼っておくので、詳しくご覧になりたい方はどうぞ。

なぜいまデザインか                 奥出直人
デザイン言語を導入する               後藤武

I 空間と環境の系
  隈研吾―建築を社会へ投げ出す
  塚本由晴―観察と定着
  三谷徹―自然のかたちをつくる

Ⅱ 身体と知覚の系
  久保田晃弘―Design3.0:デジタル・マテリアリズム
  佐々木正人―レイアウトとアフォーダンス
  Scott S.Fisher―ヴァーチャルリアリティとデザイン
  高谷史郎―ダムタイプ・共同制作の可能性を探る現場
  藤枝守―聴くことからの表現
  茂木健一郎―クオリアと来るべき世界観

Ⅲ 平面とヴィジュアルの系
  東浩紀―ポストモダンと動物化するオタク
  永原康史―デジタルデザインの第二フェーズにむけて
  原研哉―新しい潮流は日常の未知化から始まる
  港千尋―予兆のマトリクス

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読書メモ:MBA式勉強法

▼オリジナルは2002年5月に書かれたものです。

▼MBA的な関心よりも、「勉強法」のタイトルに惹かれて読んだ本。
  • モーゲン・ウィッツェル・ 内田 学 (訳,2001)
    MBA式勉強法
    ,東洋経済新報社
 この本はいくつかの点で優れている。
  • 言葉の定義や各章のミッション(目標)設定
    はじめに、「学ぶとはどういうことか」「知識とは何か」といった学びの根本的なところから説明がはじまっていて、かつ、そのことを各章ごと、それぞれの切り口で、詳しく解説している点。
  • 学びに必要とされそうな要素を網羅している
    MBA(限らず大学)で学ぶにあたっての基本を俯瞰し、分かりやすく説明している。逆にいえば、深くは知ることができない。
  • 学習者の視点の重視
    単なる経験談の寄せ集めではなく、学生の視点を重視している。
 第一点、著者は、「学ぶ」ということの意義を捉える観点を「ベネフィット最大化(自己開発とキャリアアップの両面で、可能性を追求すること)」、知識というもののあり方を捉える視点を「ナレッジマネジメント」というキーワードで説明している。これは、分かりやすい。

 「ベネフィット最大化」ということばは、ちょっと大げさではあるが、学ぶ目的、学んでいる内容や方法を、自分にとっての「利益」という観点で、問い直すことは、どんな学習プログラムでも重要なことである。

 また、MBAを通して得られる知識「ナレッジマネジメント」として管理・運営する視点も確かに重要である。ナレッジマネジメントは組織論として捉えるだけではなく、自分自身のキャリアデザインにも適用可能な概念である。

 第二点、目次を見ると分かる、「コース・ワーク」「ケーススタディ」「チーム」「ライティング」「プレゼンテーション」「リサーチと分析」「実践プロジェクト」「ネットワーク作り」など、大学で(とくにMBAで)学ぶ際に必要な要素を、基礎から分かりやすく説明している。

 とくに「ケーススタディ」や「チーム」について触れられている点に、MBAらしさを感じる。どの説明も入門者にとってはとても親切。「分かったつもり」になっている人には再考を促すことにもなるので、有用である。

 第三に、学習者の視点である。得てして○×式勉強法の類の本は、自らの「方法論」をあたかも絶対的であるかのように紹介していくが、この本は、説明が大げさではなく身近である。
 たとえば、授業に満足がいかない時、どうすればいいのか?
 本書では次のような提案がされていたりもする。
 (略)自分の採ったコースが必要な知識を与えてくれず、したがってそのコースに満足できないことはある。そうなる可能性を感じた際にとるべき選択肢をいくつか挙げておく。
  • 自分自身の受け取り方を分析する。具体的に何が自分の役に立っていないのか。コースに問題があるのは確かか、自分が先入観を持っていて、それが障害になっているのではないか。(略)
  • 何もしないのが一番いけない。これは自分自身の体験であり、そのために授業料を払っているのであり、期待する価値が得られないということは自分自身の問題なのだ。問題が自分にあろうと、コースの設計や内容にあろうと、早期解決を図り自分のナレッジ・マネジメントのプロセスを軌道に戻すようにする。
 この手の指摘してくれる本は、私は初めて見た気がする。
 
 本書は、いわゆるマニュアル本と呼ばれるものかもしれませんが、本書は大学の4年間なり、大学院の2年間、機会を最大限活かして、自分なりの知識を身につける(知識を獲得するという意味ではなく、自分と知識のあり方を探ること)ための、ヒントになってくるでしょう。

 なお、遠隔教育についても、普通に説明されていて参考になりました。

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読書メモ:うるさい日本の私

▼オリジナルは2002年4月に書かれたものです。

 最近、ファミレスの席に液晶モニタが設置されているのをよく見かける。
 私はどうも、これが好きになれない。

 中島義道氏が本にする前に、一言書いてみる。  このモニタ。タッチパネル式になっていて、何やらコンテンツ配信をしているらしい。しかも音まで出てくる。最初は、物珍しさでさわってしまったが、いったい何のために設置されているのか。あんなもんが常時設置するのは勘弁して欲しいと思う。

 お店にアンケートが置いてあるようなファミレスならば必ず、即時撤去を求める意見を書くのだが(私、一応、こういうことは結構、行動するのです)、高々一個人の意見に過ぎないらしく、最近、あのシステムは各所で増殖している模様。

 なんとかならないかなぁ。

 そんな店に入ってしまった時の私の対処法は、とりあえずボリュームを最小にして、メニューを液晶モニタに立てかけて画面を覆い隠すという技。しかし、よその席までは対処できない。隣の客が、ボリュームをあげて使っていても、文句は言えないし…。

 そもそもなんであんなシステムが導入されるようになったのだろう。

 一人で食事しているなら寂しさまぎれに(暇つぶしに?)、あの手のシステムを使ったりするのかもしれぬが、少なくても私にとっては不要だ。友人と食事をしようと思って来ている場合は、会話の邪魔でしかないのではなかろうか。画面はちかちかしているし、音もボリュームは下げられるが、完全に音を切ることはできないらしい。

 もちろんある客層には意味があるのかもしれぬが…。

 しかし、空席のテーブルで空虚に映像が垂れ流されているのがふと目に入るだけで、私なんかはなんとも言えぬむなしさを感じる。世の中、無駄に感じるはじめると、「無駄な消費電力は環境破壊につながる」とか私に似つかわしくないことも言いたくなってくる。いったいなんでこんなシステムでビジネスが成立するんだろうか。

 えーい、やっぱりきにくわん。

 禁煙席と一緒で、利用者に選択権が欲しいなぁ。もちろん全面的に否定しているのではない。私はタバコも嫌いだけど、喫煙文化そのものを否定するつもりはないし。ただ、分煙と同じようにするか、最低でも、電源を切れるようにして欲しいなぁ。

 利用者の賢い選択としては、その手のファミレスに行かないってことなんだろうけど、付き合いもあるから、絶対に行かない訳にもいかないのが難しいところです。

 以上、ビジネスとして失敗を願ってやまない消費者の一意見でした。

 というわけで、皆様も、もし同じ感覚をお持ちでしたら、見かけたら破壊するなり、水を間違ってかけるとか、アンケートがあれば撤去を求める等、何かしら行動しませうく(笑)。

 ちょっと読書メモらしからぬ展開ですが、おしまい。

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読書メモ:ハリーと千尋世代の子どもたち

▼オリジナルは2002年4月に書かれたものです。

 学部時代、松岡正剛の『フラジャイル』にはずいぶんと影響を受けたのだが、物語には何かしら「欠如」や「失うこと」が含まれているものらしい。

 『千と千尋の神隠し』なんて言うのも、まったくもってその典型で、

  • 第一に、親を奪われる(豚に化身させられる)
  • 第二に、千尋は名前を奪われ「千」と名付けられる。同様に、物語でも重要な位置な位置を占めている「ハク」もまた名前を奪われている
  • 第三に、物語でも重要な位置を占める「カオナシ」は「無し」か「亡し」か分からぬが、そもそも欠如が存在しているような微妙な位置づけだ。
    一方、「オクサレさま」は過剰である(両者のアンバランスさが良い)。

 「欠如」や「失うこと」、総じて「弱さ」が何らかの出発点になっている。松岡正剛氏は、「弱さは強さの欠如ではない」と言うが、まったくそう思わされる。

 問題は、この「弱さ」は何とも表現しがたい点だろう。

 「弱さ」をロジックで表現しようとすると、その時点で、何かが失われる(失うという言葉は実にやっかいな言葉である)。「弱さ」そのものに力があるのではなく、その関係性が力を誘発するのだから、それ単体で記述するのは難しいのは当然かもしれない。

 そこで物語の力に注目することになる。だが、物語から学ぶことが多くても、その先をどうするかなど一般化できぬ点は、やっぱりやっかいである。ついでに言うと、自分が小さい頃、物語をどう読んでいたのか、それを思い出せないのも悔しい。

▼そういえば、同時に↓を読んで思い出したのだが、

 千と千尋では、ファンタジーの世界から現実の世界に戻るときに、「振り向いてはならない」という、オルフェウス(ギリシア神話)的な約束があったのね。オルフェイスの神話は、いわゆる喪失系の典型。

お話ダイジェスト版
 この話の主人公はオルフェウス。彼は、妻のエウリディケが死んだ悲しみに耐えられず、冥界(つまりあの世のこと)に彼女を取り戻しに行く。オルフェイスは得意の琴で、冥界の主(ハデス)を口説き、妻を連れて返すことを許してもらう。その際、「決して振り向いてはいけない」という約束をさせられる。
 しかし、オルフェウスは帰路で妻が苦しむ声に思わず振り向いてしまう。結局、エウリディケは、永遠に冥界からでれず、オルフェウスは妻を失ってしまう、というお話。
 ちなみにオルフェウスが持っていた琴が、夏の星座で有名な「琴座」だったりします。

 千と千尋では、振り向かずに戻ってますが、感動してたせいかあまり覚えていなかったのでした(私が境界不全であることが反映されてる?)。

 オルフェウスはエウリディケを愛しているからこそ、振り向いてしまったのだけれど、この失い方って、考えてみるとなかなか示唆深いですね。プラネタリウムで話を聞いた時は、オルフェウスってアホな奴やなぁと思ったけれど、今思うと、なんとなくこの神話の意味するところが分かってきたかも。

 おっと、話がずれてきました。

 なお、山中康裕氏は、臨床心理で精神科医。表現(芸術)療法全般や、子どもの臨床に詳しいお方です。この本は、インタビュー形式なので密度は低いけれど、インタビュアーの成長過程(?)も読めて二重に楽しいです。

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読書メモ:岡崎京子

▼オリジナルは2002年4月に書かれたものです。

▼別冊文藝から、岡崎京子の特集号が出ていたので購入。

 以前(昨年の夏)の『文藝』と内容が重なる部分もあるのだけれど、単行本未収録コミック2編に加え、吉本ばななと宮台真司らのインタビューが掲載されていたのに惹かれる。
 発見は、吉本ばなな(ちなみに岡崎京子とばななは親友らしい)も、宮台真司も『リバーズ・エッジ』をあまり評価していないこと。そうなのねー。

 確かに『リバーズ・エッジ』はインパクトはあるのだけれど、私の感覚的にあまりに「ベタ」過ぎて…。ベタ過ぎる故に、それ以上、食べられない、みたいな感じが私もしていたのです。もっとも、岡崎京子入門編(?)としては、『リバーズ・エッジ』は、オススメなのは確かですが。

 吉本ばななが岡崎京子的幸せ感を、「一番の幸せは、女の子同士で徹夜でしゃべりあかすみたいな。」と述べているのには、なるほどなーと思わされたし(そういう感じって、男にはどうしてないんだろう)、宮台氏が岡崎作品を「あえて」という言葉や「こんなはずじゃなかった感」と表現しているのも、なかなか確かに納得させられる。

 以下に引用したリグレット感も然り(カタカナで書かれると分かりにくいが、regretは「遺憾(に思う). 残念(に思う); 残念ながら…する ((to do)); 後悔; 後悔する ((doing)); 哀惜. 愛惜; 悼む; 惜しむ; 懐かしむ」などの意。
 その点、九十年代に描かれた中間的な作品群を読むと、ベタにリグレットしていない。リグレットばかりじゃ生きていけないよって言いながら、でもリグレットを忘れてしまっては自分が自分でなくなる。記憶をなくしては自分が生きる根拠がなくなる。だから、ふと立ち戻り、思い出す。すると昔ほどは鮮烈じゃないが、痛みの記憶がよみがえる。そんな微妙な感覚です。(p76)
 上は宮台氏の発言です。確かに。岡崎作品を言い当てている気がする。ちなみに私、2001年の7月14日のWeb日記でも、岡崎京子評を試みているのだけれど、よくわからないことを書いて挫折している。
 僕は究極的には<時間>の描き方にあると思う。彼女自身が言っているように「死にながら生きる」というような価値観。日常的な非日常と言うのか、非日常的な日常というのか。非常識的な常識or常識的な非常識。
 映画とは違った意味で、読み手を一度、死に至るような感覚に陥らせる、というのかな。だが、寝て起きるとすっかり忘れている。そんな感じ(意味不明)。
 こんなことを書いていた自分っていうのも謎だけれど、なんとなく宮台の発言を読んで、自分の言っていることが少し理解できるようになったような気がしないでもない。こういうの「リグレット感」の一種なんでしょかね。

 なお岡崎京子関係では、
 なんて本もあります。別冊文藝にも、椹木氏のインタビューあり。

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読書メモ:三色ボールペン的読書法

▼オリジナルは2002年4月に書かれたものです。

▼読書法の本は、それ単体ではあまり関心が湧かないのだが、斎藤孝氏は、他の著作がなかなか面白いので、とりあえず読んでみる。
 なるほど、この人はこういう読み方をしているのねという点でなかなか感心させられる。おまけにオリジナルボールペンが付いてくる所も、心をくすぐります(私は根っからの「おまけ」好きなのでした)。

 著者の主張は非常に明快。意識的・身体的に読書をせよである。

 具体的な方法論も明快で、三色(青・赤・緑)に色分けをしながら本に線を引くというもの。線を引くという後戻りのできない(覚悟のある)行為が重要らしい。三色ではあるが、大きくは「主観」と「客観」に分けて捉えよ、というのもポイントである。「主観」は<緑>一色。「客観」は重要度が高い<赤>と、低い<青>の二段階に分けて、合計3色になる。
  • 青(客観重要) =「まあ、大事かな」というところに引く
  • 赤(客観最重要)=客観的に見て「すごく大事」と思ったろころに引く
  • 緑(主観大切) =自分が勝手に「おもしろい」と思ったところに引く
 この色分けは、色彩心理学的(身体感覚的)にもなかなか巧妙かも。

 ノンフィクション、論説のみならず、小説にも適用可能という。主観客観の狭間で考える、というのが重要らしい。予備校の現代文で教えるマーキングでは、あくまで著者の主張=客観のみが重視されるが、通常の読書なら「お気に入り」の一文もまあ、確かに捨てがたいものね。

 個人的には、目次ざっと読んで、おおむね著者の主張を考えてから読みに入るっていうのもありである(「目次読書法」と名づけよう(笑))。
三色ボールペン方式とはどういうものか
線を引かない子どもたち
線を引くには勇気がいる
「読むこと=考えること」の技化
本は思考のバッティングマシーン
本は身銭を切って買うもの
三色方式は、国語の九九
要約力・コメント力を向上させる
曖昧な区分がミソ
緑はオープン
青でリードし赤で決める
三色方式に至るまでの試行錯誤
三色の使い勝手の良さ
研究的な読み方
緑は、癖を出すところ
主観と客観の切り換え(スイッチ)が最大のねらい
カチカチは、脳をリラックスさせる
絞り込まれた「型」の威力
要約力は客観的なもの
要約力のタコツボ図
試験方式としての三色方式
読書とは他人の思考に寄り添う訓練である
コミュニケーションの基礎としての読書
「意味の含有率」の高い会話
失敗しない読書会
人に言われておもしろさに気づく
 ちなみにこの見出しはごく一部です。「読書とは他人の思考に寄り添う訓練である」あたり、気になりますね。こういう人の魅力を引き出す見出しの付け方っも、書き手としては重要だなと思います。
 
 その他、斎藤孝氏の本でオススメなもの。
 なお、私は氏の本は、ちょっとした危うさがあるような気がしています。実際、三色ボールペンの技法も、なるほどね!といったん取り入れるにしても、自分なりに調整する過程が必要なはず。気に入ったら真似をするのも良し、あくまで考える契機として。
 日記にも、こうやって読者がマーキングできたら面白いのにね。

追伸
 誰でも、自分の読書法を意識的に人に伝えようとする作業そのものに意味があるのかもしれない。読み手一人ひとりが、自分なりの読書論を語り合うっていうのも、協調学習ネタとしてはありかも。ちなみに私は、ページの端を折る、マーカーを引く(黄色と緑。線の種類は何種類かある)、キーワードをつなげる、疑問が浮かんだら書き込むタイプです。

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読書メモ:宗教について考える

▼オリジナルは2002年4月に書かれたものです。

▼もったいないおばけって、やはり仏教的な考え方なんだろうなぁ。英語を書こうとすると、いかに自分が日本的考えに支配されているかよく分かる。「甘え」しかり「もったいない」しかり、「場」しかり。英語感覚的には、「与えられた機会を活かす」っていうのもしっくりこない。

▼昨年9月11日の出来事を、そろそろちゃんと考えたくなって宗教に関する本を読んでみる。。「宗教教育」「デスデザイン」(自分の死について考える)となどは、重要性は指摘されても、なかなか実践例を聴かないのは僕の勉強不足かな。総合的な学習では、宗教のこともやるんだろうか

▼結構、本を読んでみましたが、どうもどれもぴんと来ない。
 橋爪氏の本は、確かに教科書っぽさが強いかも。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教の世界4大宗教の発生と変遷をまとめた本です。便乗本も含めて9.11関係の本をいくつか読みましたが、宗教全般を概観するには上の本が最適かな。考え方を学ぶというよりは、知識の整理向け。一応、比較社会学的な入門書にもなっています。

 たまたま最近出て、手に取った本。河合隼雄氏の編さんした『宗教を知る 人間を知る』は、河合隼雄・加賀乙彦・山折哲雄・合庭惇氏らの共著。それぞれ臨床心理学者、小説家、宗教学者、岩波『思想』の編集者→大学教授という顔ぶれらしい。

 それぞれの立場から宗教について論じつつ、最後に対談という形式でした。コラムとして主要宗教についてコンパクトにまとめられてます。だが、この手の本(寄せ集め本?)にありがちなのだが、深く突っ込んだ論にはなっていないのでちょっと物足りないかも。この混沌さが、宗教(を考えることの)難しさをそのまま反映しているような気もします。
 直接、宗教について書いているわけではないのだが『夜と霧』を読むと、自分にとって自分を超えた経験について考えさせられる。この本を読むと、「絶望」なんてことばを安易に使うことはできなくなる。絶望とはかくも絶望的なのかと絶句。

メモ 無常について
 無常という考え方について。山折哲雄氏曰く、(1)この世に永遠不滅なものは存在しない。かたちあるものは必ず滅する。(2)にも関わらず、自然は毎年よみがえり、繰り返す。太陽や月の運行しかり、繰り返し、再生する。ことを指すらしい。日本は四季に恵まれていていいな…なんて思うけど、星空を通して季節を感じるのも悪くないのかも。

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読書メモ(ミニ):ドレイファスのインターネット論

▼オリジナルは2002年3月に書かれたものです。

 先日、手に入れたばかりでまだ熟読できていないのだが、ドレイファスの噂の新刊。著者は人工知能批判で有名な哲学者。何年前だったかえらく感銘を受けました。

 ドレイファスの人工知能批判は、「身体性」が重要な概念になる。
 主な見出しを拾ってみると、
  • ハイパーリンクに関する誇大宣伝
  • 遠隔学習は教育からどれくらい遠いか
  • 身体を欠いたテレプレゼンスと現実の遠さ
  • 情報ハイウェイのニヒリズム
 などなど、見出しだけでも魅力が伝わってくる。

 「遠隔学習は教育からどれくらい遠いか」では、著者の学習論が展開されていたり、教育関係者も必読。

 というわけで取り急ぎですがオススメです。

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読書メモ:詩ってなんだろう

▼オリジナルは2001年11月に書かれたものです。

▼今回は、はじめて「詩」をとりあげてみる。私が詩の世界に関心を持ち始めたのは、高校時代の現代文の先生の影響である。といっても、中原中也と寺山修司と、宮沢賢治くらいで、感激するという感覚ではなく、なんとなく目を通すくらいなもんで終わっていたような気がする。

 はじめて詩を読みながら「おお」と思ったのは(感動を表現する語彙が私には大幅に欠如しているらしい)、大学学部時代、とある塾で国語を教えていて子ども相手に谷川俊太郎の詩を音読した時である。

 それから詩を意識的に読むようになった。あまり記憶が定かではないのだが、卒論でも谷川俊太郎は引用したような気もするし、中原中也も卒論書きながら気分転換に読んでいた記憶がある。

 なーんて自分のことはどうでも良いのだが、谷川俊太郎氏の近著、
 これは素晴らしい。本の趣旨は、「あとがき」から引くのが一番良いような気がするので、まとめて引用する。
 「詩ってなんですか?」という質問をよく受けます、子どもからも、大人からも。いつも私は困ってしまいます。詩とは何かという問いには、詩そのもので答えるしかないと思うからです。(略)。この本は、現行のいくつかの小学校国語教科書を読んで感じた私の危機感から出発しています。
教科書には私の作も含めて多くの詩が収録されているのですが、その扱い方がばらばらで、日本の詩歌の時間的、空間的なひろがりを子どもたちにどう教えていけばいいかという方法論が見あたらないのです。
 後半の「方法論が見あたらない」という指摘は非常に重要だと思う。私にとっては、小中学校の国語の授業ほど耐え難いものはなく、とくに詩はさっぱり分からなかったからだ。教師には満足していたので、その際の違和感は、おそらく教科書の「まとまりのなさ」だったのだと思う。

 数学や社会、理科という科目は、大筋のストーリーが描けるが、国語はほぼそれが不能のように感じられた。確かに小説、随筆、論説、詩、短歌・俳句、古典など確かに分類は分かるのだが、単元に分けられ、しかも登場する文章は何かから切り出されたものであった。
 科目による違いがあるので、単純には国語と他教科の比較はできないかもしれないが、国語の場合、とくに項目間の「つながり」が欠如している気がする。もしかしたら、詩歌にかぎらず、そもそも国語(現代日本語)を「教える」という行為全般の方法論が欠如しているのかもしれないなぁ…。

 私は、高校で「接続詞に着目して文章の構造をつかむ」と「情景描写に着目して時間・空間をとらえる」という読み方をはじめて意識的に教わった。これは私にとって革新的だった。それ以降、それなりに国語の授業の意図が分かった気がするからだ。本来「読み方」は、自分で身につけるべきなのかもしれない。しかし、このような方法論なしに、「主人公の心情を読みとりましょう」だとか「感想を述べましょう」といった押しつけがましい課題と正解が示されただけだったような気がしていならない。

 さて、谷川氏の本。この本では、いくつかの詩が引用され、その解説が記されるというスタイルがとられている。取り上げられているのは「わらべうた」や「しりとり」から「たんか」「はいく」から、「ほうげんの詩」など様々。
 「私は自分の考え方の道筋にそって詩を集め、選び、配列し、詩とは何かを考えるおおもとのところをとらえたいと願ったのです。」と、あとがきで書かれているように、谷川氏の詩の「見方」を谷川氏と一緒に味わえるのが、この本の最大の楽しみだと思う。

 本来、「教える」とか「教わる」っていうのは、こういうことなのかもしれないね。なおお気に入り。私、こういう詩にはまりやすいのです。

 コラボレーションについて考えていく原点だよね。
ひとり          木村信子

ひとりがすきなわたし
ひとりがきらいなわたし
ひとりになりたいわたし

みんなすきなわたし
みんなきらいなわたし
みんなにすかれたいわたし

ひとりになれないわたし
みんなのなかでひとりのわたし

口笛ふいてみる
 この詩に対して、谷川氏は
きもちってひとつのようでいて、なかにいろんなきもちがかくれてるね。じぶんのこころのなかをみつめることも、詩につながる。
 なんて説明を書いている。なお、まったく違った趣旨の本だが、
 身近なところで「ことば」を見直してみるのも、よいことかもしれませんね。
 なお、調べてみたら木村信子氏の詩は、上のサイトに詳しい模様。

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読書メモ:「対話」のない社会

▼オリジナルは2001年11月に書かれたものです。

▼最近、思うことがあったので、読書メモでとりあげてみる。
 中島義道氏は哲学者。といっても、主張が非常に明確で、文章も妙な哲学的な言い回しがない。しかも、非常に本質的な指摘が多い。真の哲学者とは、このような人なのであろう。だいたい世の自称哲学者っていう人たちは、「哲学研究者」でしかないものね。

 難しいことを考えることが哲学ではなくて、当たり前のことを自分の頭で「問う」ことが哲学なはず。

 「哲学」論はさておき、中島氏は他に著作は多いが、これは私の一番のお気に入りである。「思いやりと優しさが圧殺するもの」というサブタイトルは、やや刺激的な表現だが、これは日本流「沈黙」や「過剰な親切心」に対する批判がよくあらわれていると思う。つまり、「相手のためを思って」という過剰なやさしさが、結果的に相手の自発的な行為や責任感を奪っているという指摘である。

 著者が例にあげるのは様々だが、たとえばコミュニケーションにおいて、相手のことを「気遣う」がために相手に対する本質的な指摘をしない、あるいは「問わない」ことは、まさに「やさしさ」によるコミュニケーションの不全である。そうやって、「なあなあ」の関係が流れていくわけだ。

 恋愛講座風にいえば、相手にあまりに「やさしく」接しすぎると、相手が「依存」するようになるか、「物足りなくなる」という結果を招きやすいということなのかもしれない。

 対人関係は、相手に対して過保護でもいけないし、あまり厳しすぎてもうまくいかないものである。が、中島氏は、そもそも日本人は「対話」が成立していない、という所から議論を進めている所が素晴らしい。単に過保護なのではない。そもそも「対話」が成立していない、という指摘である。

 中島氏のいう「対話」とは、「他者と正面から」ぶつかりあうことであり(ぶつかりあうといっても、単に攻撃的になるという意味では決してない。自分の意見を隠さず、開いていくことである)、他者と自己との「差異」から目をそらさないことであり、願わくばその差異を統合しようとする試みのことである。

 対話の原則として、次の12項目があげられている(p132を参照)。
 どれも、なるほどと思わされる内容だ。
  • (1)あくまでの一対一の関係であること
  • (2)人間関係が完全に対等であること。<対話>が言葉以外の事柄(例えば脅迫や身分の差など)によって縛られないこと
  • (3)「右翼」だからとか「犯罪人」だからとか、相手に一定のレッテルを貼る態度をやめること。相手をただの個人として見ること。
  • (4)相手の語る言葉の背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。
  • (5)自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。
  • (6)いかなる相手の質問も疑問も禁じてはならないこと。
  • (7)いかなる相手の質問に対しても答えようと努力すること。
  • (8)相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を大切にし、それを「発展」させること。
  • (9)相手との見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な「違い」を大切にし、それを「発展」させること。
  • (10)社会通念や常識に納まることを避け、つねに新しい了解へと向かってゆくこと。
  • (11)自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、常に開かれてあること。
  • (12)それぞれの<対話>は独立であり、以前の<対話>でコンナことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見の人のはずだというような先入観を棄てること。
 なお、これだけ読んでこの本を「分かった」ようになることは危険である。だとすれば、私は読者と著者との「対話」(広い意味で)を奪っていることになるからだ。とても良い本なので、ぜひ一度は手に取られたい。僕としては、全面的にはこの本に同意はしかねる部分もあるのだけれど、いつ手にとっても考えさせられる(「対話」を誘発される)ことが多い。

 私は、若干教育に関わる人間として「対話」のある授業を実現させたいと思っているのだが、そもそも、最近、自分は他者(誰?)と「対話」してないような気もしてきた。うーん。なんとなく自己矛盾を感じる。

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読書メモ(断片):東大と立花隆

▼オリジナルは2001年11月に書かれたものです。

▼わたし、実はシンボリックな意味で東大って好きではないのですが、立花隆とか、中村雄二郎とか、佐藤学とか、吉見俊哉とかは結構、読みます。でもそれにしたって今回、立花隆氏の今回の本のタイトルは…。  学力低下を憂うのは分かるのだが、この問い方だと、まるで昔は東大生がバカじゃなかったみたいではないか(おっと、つい本音が)。これは冗談として、理由が何であれバカ呼ばわりは、ちょっと抵抗感がある。しかし、この立花隆氏を批判してみせる京大勢力の本のタイトルはどうだ。  これまた、魑魅魍魎なタイトルである。こうやって論戦を行うことで、科学が発展するならいいことだと思うんだけどね。でもどうなんだろうな。どちらの本にせよ、どちらの本にしても手に取る人は、立花流に言うならば「知的水準が高い」人ではないかと思うと、寂しい気がする。

 もうちょっとスキャンダラスもしくは、エロチックに「東大生のスカートの中の秘密の劇場」とか「プラトニック立花隆」だったら、きっと間違えて買う人も多いのに。「偶発的な知への誘い」とどこかに書いておけば許してもらえるでしょう(こんな失礼なタイトルを書くなんて、私も落ちぶれたものだ)。

 田口ランディと上野千鶴子と飯島愛がごっちゃになってるような気がするが、まあそんなことは良い。あ、もう一つネタがある。

 立花氏と上野千鶴子氏が共著で、立花隆 (1984)アメカ性革命報告,文芸春秋 みたいな本を出す!

 そしたら革命的に学力低下の問題が打破できる…わけないか。

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読書メモ(断片):祭りと演劇

▼オリジナルは2001年10月に書かれたものです。

▼学園祭のシーズンである。私は中学生の時も、高校生の時も、「お祭」の類に夢中になったタイプである。中学の時は文化祭の仮装大会の運営をしてみたり、高校ではディスコで踊りはしなかったが裏方として走り回っていたし、高校の時は伝統の「プラネタリウム」の解説をしていた。高校時代には男子校の学生らしく(?)、女子校巡りも結構、したものだ。

 だが、ただ一つ、他校のイベントで理解できなかったのは(価値が分からなかったのが)「演劇」である。演劇は入ったきり出て来にくいので、そもそも近寄りがたかったのだが、セリフの白々しさが耐え難かった。
 大学に入ってからも、どうも演劇は苦手であった。早稲田には近寄りがたかったし、SFC内の演劇も何度か誘われても足は運ばなかった。

 しかし、やっとこの歳になって演劇についてはその意味が少し分かってきた。きっかけは単純。私のゼミの同期の友人が、「演劇」をやっていて、その縁で何回か公演にお邪魔したのだ。それから演劇に魅せられた。先入観や思い込みの類は、かくも恐ろしいものである。

 「演劇論」なるものも何冊か読んでみたが、これまた面白い。私が、かつて演劇の価値を理解できなかったのはおそらく、私の中では文化祭的な「お祭」と、「演劇」が重なっていたのが原因だったらしい。

▼これに関して、平田オリザ(劇作家)が、とても興味深いことを言っている。極端な言い方かもしれないけれど、「祭り」と「演劇」では、そもそもそれらが担う「問い」が違っているらしい。
  • 「祭り」における問い
    この御神輿を担ぎますか、担ぐのならば、あたなはこの共同体に入れますよ。
  • 「演劇」における問い
    あたなと私は、こんなに違うけれど、一つの共同体を構成していけるだろうか?
 なるほど。私がかつて演劇に感じていた、制度的、あるいは惰性さなのであろう。本来的には、「祭り」だって、制度的に行われるものほどむなしいものはない。オリザ氏の言う「演劇的」なお祭りだってあるだろうし、逆に「祭り」的な演劇もあるのだろう。いずれにせよ「お祭り」や「演劇」が担っている「問い」という発想が興味深い。

 私は、その演劇的な方法を、メタなレベルで、他に応用できる手はないか?と考えてしまう。たとえばオリザ氏は「共同体」という観点から、地域共同体・自治体の在り方について述べている。 
 「祭り」が、従来の共同体の価値観を、新しい参加者に強要するのに対して、芸術の創造現場では、あらかじめ決まっていることなど何もないのだ。
 お互いの価値観をいったん尊重し、その個々の価値観はそのままにして、それを摺り合わせていくところから、創作の過程が開始される。そして、この新しい問いかけ、「異なる価値観を異なったままに、新しい共同体を作る」という試みこそが、いままさに地域の共同体、地方自治体に求められている事柄なのではないだろうか。
 地方共同体に限らず、どんなグループ、集団でもこの考え方は重要だと思う。オリザ氏の「芸術の創造の現場では、あらかじめ決まっていることなど何もない」という言葉は、非常に迫力がある。

▼現実、どんな事柄にも、何かしら「枠組み」から、まったくまっさらなところからはじめることは不可能である。ただ、時に「決まっていることなどない」と考えてみた方が良いことが多い気がする。

 「異なる価値観を異なったままに」というのも、実際、摺り合わせていく過程を考えると、とても難しいことだと思われる。

 しかし、「価値観を一つにまとめる」という発想からスタートするのと、「異なる価値観を異なったままに」という前提からスタートするのは、意味としては大きく異なるはずだ。時に、私たちは「わたしとあなたは、こんなにも違う」ということすら忘れてしまうものなのだから。

 制度や惰性ではない、オリザ氏のいう演劇的な「共同体」の在り方を模索すること。「あたなと私は、こんなに違うけれど、一つの共同体を構成していけるだろうか?」。

 この問いから次に何を問うことができるか、「異なる価値観を異なったままに、新しい共同体を作る」という試みをいかになしうるか。究極的な問いなのかもしれないけど、それを模索していきたいものだ。

▼本書は政策的にはとてもラディカルだとは思うけれど、芸術の社会的位置づけ、あるいは街づくりを考える上でとても刺激になる本である。

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読書メモ(断片):状況論的学習

▼オリジナルは2001年10月に書かれたものです。

▼最近、「状況論」がマイブームである。状況論っていうのは、ごくおおざっぱに言えば人間の即興的な行為、臨機応変さを重視する研究領域ということらしい。最近、とくに学習領域をはじめ各所で注目されるようになった。
 私は、この分野は「新参者」でしかありませんが、個人的には、散髪屋さん(特に美容師)の「学び」の過程っておもしろいと思っています。

 役割分業は割と明確(最初、入り立ての美容師さんは、掃除とか髪を洗うのが担当らしい)。熟達過程も見えやすい(だんだん認められてくると、髪を切れるようになって、目指すはトップスタイリスト!)。

 しかも美容院には、日本的要素も多いらしい(店に住み込み参加っていう話もあるし)この研究、誰かやってください(笑)。

 安易な発言だとは思うのですが、僕も生まれ変わったら(無意味な仮定)、こういう「現場」研究やってみたいなぁ。研究ついでに、きれいなお姉さんとも知り合いになれそうだし。

 この手の話題ではビューティフル・ライフを思い出してしまう今日この頃。やっぱりDVD買おうかなぁ。
 状況論は最近、3冊のテキストが一気に出て、しっかり読まなくちゃ…と思いつつ、時間がない日々。
 またしても思いつき。考えてみれば、お化粧という行為も、熟達過程ですね。すべてを研究対象にしようとして失敗を繰り返す今日この頃。

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読書メモ:ナレッジ・イネーブリング

▼オリジナルは2001年10月に書かれたものです。

▼『ナレッジ・イネーブリング』は、名著『知識創造企業』の続編に当たる本。
 集団・組織・企業において「知識」や「情報」って重要だよね、という当たり前のことが「ナレッジマネジメント」という一種の一過的な(?)ブームとしてもてはやされている昨今です。

▼しかし本書は、「知識はマネジメント(管理)されるものではなく、創造し続けるプロセスのことなんじゃないの?」ということが言いたいようです。

 原題は、Enabling Knowledge Creation なのですが、イネーブリングという言葉をそのまま、日本語の表題にしたのは、なかなか勇気がいりますねぇ。要するにイネーブルっていうことばで、「知識創造」を実現可能にする要因、要素を示したいんでしょうかね。

 本書は、知識創造を可能にする要素として、次の5つを提唱し、それぞれについてケースをもとに詳細に論じていく、というスタイルを取っています。
  • ナレッジ・ビジョンの組織内での浸透  instill a Knowledge Vision
  • 従業員間の会話のマネジメント Manage Conversations
  • ナレッジ・アクティビストの動員 Mobilize Knowledge Activists
  • 適切な知識の場作り Create the Right Context
  • ローカル・ナレッジのグローバル化 Globalize Local Knowledge
 要するに、組織・集団の中で、新しい知識を生み出すためには
  • ビジョン(目標とか理念)が重要だよね
  • 会話(コミュニケーション)の中から知識って生まれるものなんだよね
  • 知識創造という観点での人材育成・登用が重要だよね
  • 知識を創造するための場(環境)構築のあり方を考えなくっちゃ
  • 知識を広げる(グローバル化)するためにはどうすれば良いだろう?
 を考えましょう、ということが繰り返し主張されています。

▼要約すると、なんだ、当たり前のことではないか?と思われるのですが、言葉の定義や、豊富なケースや、対立する理論やケースの取り入れなど、論をいかに進めるか?という点においては大いに参考になる本です。自分の文脈に引きつけて読む力が必要でしょうね。経営系の本は、エッセンスだけ読んでも何の意味もない、というのは僕の考えです。

 何故に、著者らがそのような結論に至ったのか、5つのコンセプトを作りだしたのかを過程を追って読んでいかないことには、ただの観念論になってしまうかもしれません。本書はその点に注意して読むべきでしょう。

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読書メモ:それは「情報」ではない。

▼オリジナルは2001年9月に書かれたものです。

▼情報デザイン関連の第一人者、R.S.ワーマンの新刊が翻訳されていました。ワーマンという人は、「理解とは何か」を説明させたら、そうそう右に出る人はいない優れた実践家であり、教育者です。

 自称、情報建築家だそうです。単にノウハウを語るだけではなく、自らデザインを通して形にするところがすばらしい。たとえば、
 が、最近の代表作でしょうか。
 (私もいつかこういうデザインができるようになりたいものです。)

▼今回、翻訳されたのは、『情報過多の時代』(Information Anxiety)のバージョンアップ版です。「コミュニケーション」に携わる業種、その中でもとくにメディアに関わる人や(Webサイトに関心のある人はもちろん)、マーケティング、教育関係者、職場の人間関係に悩める人にも本書はお薦めかも。
▼著者の言う「情報不安(Information Anxiety)」というのは、
 自分が理解していることと、自分が理解しなければいけないと思いこんでいることのギャップがどんどん広がっていくことから引き起こされる。(p.042)
 とのこと。この「情報不安」への処方箋は、単に情報を集めることではなく、情報の「理解」、さらには「理解」ということの「理解」にあるというのが本書の核心でしょう。

 日頃分かっているつもりになってしまっている「理解」について「理解」するためのたくさんヒントを、本書からきっと多数得られるはず。
 理解するための、もっとも基本的な必須条件は、何かわからないことが出てきたとき、それを認めるということだ。知らないということを自分で認めるのは、開放的な行為だ。すべてを知る必要はないと自分を許すことで、人は心が和らぐ。これこそ、新しい情報を受け取るにあたっての、理想的な心の状態なのだ。こういう気持ちにさえなえれれば、本気で聞いたり、本気で新しい情報に耳を傾けることが、とても気持ちよくなる。(p..058)
 例えば、これを読んで、あ、「無知の知」ね、なんて分かったつもりになるのが一番こわい気がする。しかし実際、「知らない」ということを認めるのは日常生活の中では容易ではないはず。分かったつもりになってしまったがために、本当に肝心なことを見逃す…のはいかに避けられるのだろう。

▼もう一つ、理解の恐ろしいところは、一度、分かってしまうと「分からなかった」時のことが「分からなく」なる点にある気がする。それも大きな油断の原因になる。分からなかった時の自分に戻ることが必要とされた時、どうやってその地点に「想像」するか。これも大きな問題ですね。

 いやはや。やはり考えさせられます。

▼なお、出版社も翻訳者も違うためか、「情報過多の時代」に代わって、「それは『情報』ではない」というタイトルになりました。

 否定形の本っていうのも珍しい
ような気もしますが、Anxietyの感じはそれなりに出ているかもしれませんね(でも、個人的には情報過多の方が分かりやすいような気もします)。

 本書は、Information Anxietyの後に発売された下記の本のエッセンスも含まれるので、お得感のある本かもしれません。  『理解の秘密』も良い本です。

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読書メモ:デザインから理解へ

▼オリジナルは2001年9月に書かれたものです。

▼情報デザイン関連の第一人者、R.S.ワーマンの新刊が翻訳されていました。ワーマンという人は、「理解とは何か」を説明させたら、そうそう右に出る人はいない優れた実践家であり、教育者です。

 自称、情報建築家だそうです。単にノウハウを語るだけではなく、自らデザインを通して形にするところがすばらしい。たとえば、
 が、最近の代表作でしょうか。
 (私もいつかこういうデザインができるようになりたいものです。)

▼今回、翻訳されたのは、『情報過多の時代』(Information Anxiety)のバージョンアップ版です。「コミュニケーション」に携わる業種、その中でもとくにメディアに関わる人や(Webサイトに関心のある人はもちろん)、マーケティング、教育関係者、職場の人間関係に悩める人にも本書はお薦めかも。
▼著者の言う「情報不安(Information Anxiety)」というのは、
 自分が理解していることと、自分が理解しなければいけないと思いこんでいることのギャップがどんどん広がっていくことから引き起こされる。(p.042)
 とのこと。この「情報不安」への処方箋は、単に情報を集めることではなく、情報の「理解」、さらには「理解」ということの「理解」にあるというのが本書の核心でしょう。

 日頃分かっているつもりになってしまっている「理解」について「理解」するためのたくさんヒントを、本書からきっと多数得られるはず。
 理解するための、もっとも基本的な必須条件は、何かわからないことが出てきたとき、それを認めるということだ。知らないということを自分で認めるのは、開放的な行為だ。すべてを知る必要はないと自分を許すことで、人は心が和らぐ。これこそ、新しい情報を受け取るにあたっての、理想的な心の状態なのだ。こういう気持ちにさえなえれれば、本気で聞いたり、本気で新しい情報に耳を傾けることが、とても気持ちよくなる。(p..058)
 例えば、これを読んで、あ、「無知の知」ね、なんて分かったつもりになるのが一番こわい気がする。しかし実際、「知らない」ということを認めるのは日常生活の中では容易ではないはず。分かったつもりになってしまったがために、本当に肝心なことを見逃す…のはいかに避けられるのだろう。

▼もう一つ、理解の恐ろしいところは、一度、分かってしまうと「分からなかった」時のことが「分からなく」なる点にある気がする。それも大きな油断の原因になる。分からなかった時の自分に戻ることが必要とされた時、どうやってその地点に「想像」するか。これも大きな問題ですね。

 いやはや。やはり考えさせられます。

▼なお、出版社も翻訳者も違うためか、「情報過多の時代」に代わって、「それは『情報』ではない」というタイトルになりました。

 否定形の本っていうのも珍しい
ような気もしますが、Anxietyの感じはそれなりに出ているかもしれませんね(でも、個人的には情報過多の方が分かりやすいような気もします)。

 本書は、Information Anxietyの後に発売された下記の本のエッセンスも含まれるので、お得感のある本かもしれません。  『理解の秘密』も良い本です。

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読書メモ:情報行動の社会心理学

▼オリジナルは2001年9月に書かれたものです。

▼北大路書房からシリーズで出ている『21世紀の社会心理学』は、なかなかの出来である。私の関連分野では、今年6月に出版されていた「情報行動の社会心理学」がよくまとまっている。
 川上善郎、川浦康至、柴内康文、三上俊治氏など、社会心理系のメディア研究者らが執筆。一般書ならば、「豪華執筆陣」という帯がつくのかしら。社会心理的なベーシックな知見から昨今の現象を分析しており、この手の本や特集にありがちな軽薄な感じをまったく感じさせない(社会心理学系の人は、わりと慎重派が多いのかもしれない)。

 というわけで大学生・大学院生の方には、ぜひオススメです。

 いくつか自分として面白かった研究をご紹介。一つは、電子メール等の文字中心のコミュニケーションだと、相手のある特定の情報(手がかり)が増幅されて相手イメージがゆがむ可能性があるよね、という指摘。

 すなわち、
  • (1) コンピュータ上のコミュニケーション上では社会的手がかりが不足する(注:メールでは、身振りとか、ニュアンスの微妙なところが伝わりにくいよねっていう話)
  • (2) 利用者は入手できるわずかな手がかり情報を、過大に受け取る(注:ここがこの論の売り。不足しているから問題だよね、不完全だよねという問題指摘ではなく、わずかな手がかりが増幅されるっていう仮説がおもしろい)
  • (3) わずかな手がかりが増幅され、コミュニケーションのギャップ(注:誤解・齟齬?)生じる
 これは、Waltherという人が指摘していたらしい。技術屋さんとしては、文字だけではなく、視線とか臨場感も含めて、できるだけ「完全なコミュニケーション(対面に限りなく近いコミュニケーションを作りだそうとする方向に関心が向かいがちなのですが、少ない手がかり情報が、コミュニケーションにどのような影響を与えていくのか、という観点もやはり重要ですね。

 もう一つ、オンラインとオフラインの研究でおもしろかったのは、Bargh & McKenna,2000の研究。
  • 電子会議室などで出会った人どうしは、現実世界で出会った人よりも「相手はほんとうの自分をわかってくれている」と感じやすい
  • コンピュータ上で会話してからFTF(Face to Face)で会話したほうが、FTFで2回会話したときよりも、相手に感じる魅力度は高くなる(FTFの場合、1回目と2回目の魅力は同じ)
  • ネット上で恋人になったり結婚したりしたカップルは、数年たってもほとんど別れていない(ホントか?)
 知見だけ切り出すと、なんかあやしいなぁと思ってしまうのですが(ネット恋愛って、どうなんだろうなぁとか(笑))、遠隔教育とともに、ネット上でコミュニケーションせざるを得ない状況になるとすれば、この手の研究で事前に問題点を把握しておくことは不可欠ですね。

 他にも携帯電話に関してなど、なかなか重要な指摘・知見があります。ご参考あれ。

追伸:上記研究の「本当の自分をわかってくれる」のは、話を聞いてもらっている(中断されず、自分が言いたいことが好きなだけ表現できる)効果だと思うのですが、それが生み出す勘違い効果も気になるところです

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読書メモ:情報デザイン入門

▼オリジナルは2001年9月に書かれたものです。

▼自己表現の手段としての「デザイン」を考える。

 「デザイン」っていうのは、何かしら「想い」をかたちにするプロセスのこと。この意味では誰も日々、デザインに関わりうる存在。

 けれど、実際「表現する」のはとても難しい。

 インターネットの一つのメリットは、誰もが情報の発信をできるようになったこと。けれど、それを見てくれる人がいるとは限らない。簡単に、伝えたいことが伝わるとも限らない。

 ではいかに、「表現力」(デザインする力)を磨くか?一つ間違えると、表面的な技法になりがちだ。もちろん最低限の技法は必要かもしれないけれど、「デザイン」や「表現」について徹底して考えることも大切だと思う。
 デザインはモノだけじゃないよと示すため「情報デザイン」という言葉を使ったのだと思われる。本書はなんといっても、デザインを見えないものを見ようとする「想像力」という観点で捉えている点が売りだろう。そして、その具体的なケースも豊富。
美術は、眼に見えるものを再現するのではなく、眼に見えるようにするのだ(クレー:画家)
 なんかを引用しつつ(何を隠そう、私はクレー好きなのよ)、 「ふだんは感じることのできない”生きている世界”の表情を眼に見えるようにする」ことの重要性を指摘している。

 正確にいうと、上の指摘は「ふだんは感じることのできない」ではなく「感じなくなってしまった」結果だと思う。「表現力」って単なる技能ではなく、見えないものを見ようとする「想像力」じゃないかしら。

 広義の「デザイン」(情報デザイン)には今後も注目していきたいところです。デザインは教育実践としてもいいケースになりそうですね。

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読書メモ:社会的ひきこもり

▼オリジナルは2001年8月に書かれたものです。

▼著者の名を世間に知らしめた(らしい)新書の『社会的ひきこもり』を読んでみる。ひっきー入門編といったところか。
 著者による社会的ひきこもりの定義は、以下の通り。
 二十代後半までに問題化し、六ヶ月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一の原因とは考えにくいもの
 まあ、そうね。僕はせいぜい、部屋にこもっても一週間くらいだから、まだ安心かな(ジギャク!)。以下、専門的記述のメモ。
 「社会的ひきこもり」の類似概念にスチューデント・アパシー(大学生の不登校行為のことを指す)と呼ばれる現象があるが、著者は、これを「社会的ひきこもり」の一形態と見なしているらしい(p72)。

 ただし、「社会的ひきこもり」は、単なる無気力や、恐怖症(外界に対する拒否的反応)あ、人格障害(一言でいえば、極端なパーソナリティをもっていること)ではないらしい(p94-96)。
 専門的記述メモ終わり。

▼著者曰く、「社会的ひきこもり」は、(1)個人、(2)家族、(3)社会の複合的な対人関係の不全から生じるのではないか、と。これだけだといわんとしていることの情報量はゼロだが(そりゃ、すべて対人関係の問題)、著者の考察で興味深いのは、これらの要素間の「悪循環」についての指摘。

 悪循環というのは、人が「嗜癖(しへき)」に陥るのと同じメカニズムで生じるらしい。星の王子様をさりげなく引用しているところが、著者のなかなかのセンスだと思うのですが、例えば以下のような感じ。
  • ある酒飲みが、「なぜ酒を飲むのか」と王子様に問われて曰く
  • 「恥ずかしいから、飲むのだ」と答える。王子様曰く、なぜ恥ずかしいのか、と問えば、
  • 酒のみ曰く、「酒を飲むのが、恥ずかしいんだよ」と答える
 この状況はまさに「悪循環」。泥沼って感じですな。
 同様のことが、ひきこもりにも生じているらしい。

▼つまり、「ひきこもりという、『負の行動』がいっそう自己嫌悪を深め、さらに深いひきこもり状態につながっていく」という悪循環こそが、最大の問題であるらしい。この悪循環を脱するために、個人、家族、社会の「接点」の重要性を指摘し、処方箋を…というのが本の趣旨でしょうね。

 新書の問題指摘本としては分かりやすい。モデル化(p101)もうまい。臨床系の本のメリットは、現象についての切り込み方のみならず、モデル化の過程まで見えるところです。こういうモデルの立て方って誰も教えてくれるもんじゃないが、ある種、普遍的な部分はありますし。

 悪循環のモデル化という観点は、最近、自分は抜けていたので結構新鮮だったかもしれません。この著者の主張って、ベイトソンぽい気もする…と思ったら、著者は、ベイトソン系の本も書いているのね。
 その他、こんな本も出しています。  ちなみにベイトソンは、「ダブルバインド」で有名な研究者です。

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読書メモ:考える日々

▼オリジナルは2001年8月に書かれたものです。

▼池田晶子を読む。ここ2日ほど、「はまってしまった」。
 池田晶子氏は、慶大の文学部哲学科出身。大げさな哲学用語を使わずに、哲学的なものの考え方を語れる日本でも数少ない書き手のように思う。何がうまいって、この人は、人を宙づりにさせるのがうまい。

 たとえば、「希望」とか「幸せ」について次の記述にみられるような展開は、まさに「宙づり」感覚である。
 人が絶望するのは、あらかじめ希望をもっているからに他ならず、希望がなければ絶望するはずもない。と言って、希望を捨てる、希望をもたないようにするというのも、一回転した希望である。そうではなくて、私が言っているのは、「生きて在ること」すなわち「人生」が、そもそも希望をもったりもたなかったりするべき何事であり得るのか、ということである。(p38-39)。

 欲するということは、定義上、げんにそうあること以外のことを欲するということだから、やはり定義上、げんにそうあることに満たされることは、あり得ない。しかし、幸福とは、げんにそうあることに満たされて在る感覚以外の何ものでもあり得ないのだから、欲するということが、それ自体で不幸なのである。そして欲さないことが、すなわち幸福なのである。幸福であろうと欲するなんて、こんな不可能ってありますか。(p9)
 人を宙ぶらりんにしたところで、自分で考えよというメッセージを送るのが池田氏の手法である。話は変わるが、私は個人的に宮沢賢治を尊敬してやまない。だが、賢治を勝手に参照して、「無欲であれ」などとのたまう人は好きになれなかった。今回、その理由がやっと分かった気がする。「希望を捨てる、希望をもたないようにするというのも、一回転した希望」だったのね。

 池田氏は、同じエッセイの中で「幸福とは、欲するのではなく、気がつくものだ」と述べている。結局のところ、無欲であることを欲するのではなく、それぞれの内なる幸福に気づくしかないのかもしれない。

 では、どうやって気づく力をつけるのか…。これはかなりの難問ですね。

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読書メモ:看護のための精神医学

▼オリジナルは2001年8月に書かれたものです。

▼誰が言ったのか分からぬが(金子郁容らしいけど)、SFC = Share, Fair, Care の標語は、確かに面白いと思う。
  • Shareは環境情報学部
  • Fairは総合政策学部
  • Careが今年から出来た看護学部
 のキーワードらしい。その心は、情報・知識の共有(share)と、資本主義社会におけるFairな競争と取引、そして人と人のあいだで求められるケア(care)のマインド…なるほど。確かに、「SFC」らしい感じがしないでもない。

 これになぞらえていえば、私の今の関心は、ちょうどShareとCareのあいだにあると思われる。ちょっとCareに関心がよっている。
 看護の図書館の影響もあって、看護系の本を目を通す機会が増えた。もちろん、僕が注射の打ち方を覚えても仕方がないので、おおよそ読むのは看護教育と、臨床における看護者の関わり方と、精神医学関連。根本的にはコミュニケーションの問題に通じる。

 精神医学に関して中井久夫の名は、いろんなところで聞いていたのだが、この本は実に学ぶべきことが多い。一つひとつの言葉が重いのだ。
 看護という職業は、医者よりもはるかに古く、はるかにしっかりとした基盤の上に立っている。医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ。
 病気の診断がつく患者も、思うほど多くない。診断がつかないとき、医者は困る。あせる。あせらないほうがよいと思うが、やはり、あせる。しかし、看護は、診断をこえたものである。「病める人であること」「生きるうえで心身の不自由な人」──看護にとってそれでほとんど十分なのである。実際、医者の治療行為はよく遅れるが、看護は病院に患者が足を踏み入れた、そのときからもう始まっている。

 この一文は有名な箇所らしいのだが、「医者が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない」「看護は、診断をこえたものである」という言葉の重さ。胸にくる。

 この考えを、教育の世界にあてはめると、どうなるだろう。

 教育に限らず、それぞれの分野に持ち帰り、この言葉の重さに立ち向かってみるのも悪くないだろう。

 <看護>というものの意味を考える意味でも重要な一冊と思われる。

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読書メモ(総合):ロジカルシンキング

▼オリジナルは2001年8月に書かれたものです。

▼最近の流行りだから、というわけではまったくないのですが、「思考」というものを考えるにあたって、もっとも原点といえる「論理」についての本。
 この三冊の中では『論理トレーニング101題』が一番オススメ。『ロジカル・シンキング』は、分かりやすいのだけれど、ちょっと物足りない。

 『ロジカル・シンキング』の要点だけを抽出すると、
  • いわゆるMECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)と呼ばれる、「重なりがなく、漏れがない」視点の取り方の重要性
  • So what?(結局、どういうことなのよ)と、Why so?(なぜそういうことが言えるわけ)の相互循環
 について延々と述べているだけだったりするから。

▼MECEは、いわゆる情報の「整理」や「分類」の問題とも関連する概念。情報過多なご時世だからこそ、「重なりや漏れ」のないように気をつけることはますます重要だし、分かりやすい情報の整理、分類を自らが身につけていくことは不可欠であると思われる。

 So what?とWhy so?も、概念としては新しいわけではない。So what?が、意味抽出をせよというメッセージだとすれば、Why so?は意味抽出の根拠を示せ、ということにすぎない。本書では「観察」と「洞察」という言葉を使い分けているが、要は現象をよく見よ、その意味に根拠を与えよ、ということだ。

 まあ、この手の本は、「分かりやすさ」が第一だと思われるので、入門編としては優れていると思われるのだけれど。

▼以下、その他、オススメの本です。
 個人的には、以前ご紹介した『ロジカル・シンキング』より、グロービスの『MBAクリティカル・シンキング』の方が、よくまとまっていると思うのですが、前者が売れている(らしい)のは何故でしょうね。後者は、クリティカル・シンキングの基本となる演繹・帰納・推論等、具体的な例も豊富に紹介されているオススメ本です。演習用の問題もいくつか用意されています。

 もう一冊
 『論理トレーニング101題』は基本的に論理的思考の演習本ですが、後氏のこの本も、大きな演習が3題あって、参考になります。「発想の技術」も触れられているところが良い。

▼さらに定番中の定番。  『ロジカル・シンキング』も、グロービスの『MBAクリティカル・シンキング』も、基本的にビジネスパーソン相手の本なので、題材がマーケティング等に限られているのが、大学生にとってはちょっと難点。

 その点、この本は大学の先生(東大でもなかなか実力派で有名な人)が書いた本だけあって、受験や教育問題等、比較的大学生にとっては身近な素材を用いて、仮説の立て方、視座の取り方、論文へのまとめ方等が解説されていて、我々が見逃しがちな盲点に気づかせてくれる。

 苅谷氏の本では、要点がポイントとしてまとめられているのも参考になるだろう。たとえば、私もよく見直すのですが、<問題を問うこと>を問う(メタ的に考える)ことの必要性を説いた節では次のような説明がある。
  1. 「なぜ、それが問題なのか」に着目することによって、ある問題を問題と見なす視点は何かをとらえる。
  2. 同じようなことがらでも、問題にする視点によって問題のとらえ方や問題のしかたが違ってくることに注目する。
  3. ある問題がクローズアップされることで、隠れてしまう問題がないかに目を向ける。
  4. さらに問題の文脈に目を向けるための方法として、
    (a) ある問題と立てることで、だれが得をするのか損をするのかに目を向ける。
    (b)当該の問題が解けたらどうなるか、を考える。(p246)
 この手の本って、まとめて読むのも重要ですが、ときどき、見直して自分の視点や考えを、謙虚に捉え直すことも必要かと思われる。私は、どちらかというと行き詰まった時に手にすることが多いかも。

 この手の本で、論理的な考え方、視点・視座を身につけたら、いざ実践。

 私としては(社会調査屋さんでもあるので)、実践力を磨くには新聞の「社会調査」関連の記事が題材として良いと思っていたりする。データから本当にその結論が導けるのか?調査の隠された前提は何か?等、問いは様々ありますが、その参考になるのは、  この二冊でしょうかね。前者は、やや扇動的な書き方が気にさわる部分はあるのですが、新聞の社会調査を批判的に読む練習にはなるでしょう。後者は、データの分析視点に詳しい本です。

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